曹仁は敵軍に突入した。
正面には槍をこちらに向けて構える敵兵の集団。白鵠は速度を落とさない。曹仁の槍が振るわれる。捕らえたのは敵兵ではなく、その槍だ。こちらに向けられた槍を逸らしてやるだけで十分。無防備な状態の敵兵を白鵠が蹴散らしていく。
速さこそが肝要となる。兵を動かされれば、こちらの勝機は失われる。その前に一気に敵陣を切り裂いて敵将まで到ることが出来たなら、勝利はこちらのものだ。
「ふっ!はっ!」
進行の邪魔になる敵だけを狙って討っていく。討つべき相手は白鵠が教えてくれる。後方には牛金たちがいる。自分たちはただ前へ進むだけでいい、と曹仁は思い定めていた。そしてその思いは白鵠にも伝わっている。人と馬はただ前だけを見据えた。
「野郎共!兄貴に続け!」
先行して敵軍に突入した曹仁にこれ以上引き離されぬよう、牛金は馬を急がせた。
曹仁の槍が突き出される度、敵軍に道が拓いていく。無造作に突き出しているように見える槍が、まるで吸い寄せられるように確実に敵兵を捉えていくのだ。まるで妖術のようだ、と牛金は思った。曹仁は撃つべき時も、その相手も白鵠が教えてくれる、と調練の度に語ってくれた。しかし牛金には馬の声は聞こえなかった。曹仁と白鵠だから出来ることなのだ。
「はぁっ!」
手にした大刀を振り回して、曹仁の拓いた道をさらに切り開いていく。曹仁は後を一切振り返らず、ただ前へ前へと突き進んでいく。信頼されている、と牛金は思った。そして恐らくは他の兵たちも。胸の奥から沸々と湧き上がるものを感じる。
「お先!」
曹純が牛金の脇を駆け抜けていく。牛金も負けじと馬を走らせた。
突然現れた騎馬の一隊が、敵軍を切り拓いていく様を、桃香はただ呆然と眺めていた。愛紗の言ではないが、降って湧いたような一団の出現は、天祐だとしか思えなかった。集団の先頭で白馬を駆る男の姿が、陽の光を受けて輝いて見える。
(曹子孝って、確かにそう名乗ったよね)
桃香にはその名に聞き覚えがあった。そもそも桃園にて愛紗、鈴々と義姉妹の契りを結んでより、ただ当てもなく志だけを胸に彷徨ってきた3人が、この地での挙兵に踏み切ったのは一つの噂に背中を押されたからだった。曰く、曹家の天の御遣いが曹家を離れこの地で義を行っていると。
「愛紗ちゃん、鈴々ちゃん、あの人!」
「ええ、まさに天の助けです」
「なのだ!」
曹家の天の御遣いの名を最初に聞いたのはもう5,6年も前、愛紗とも鈴々とも出会う前の話になる。
初めに広まった噂は、大長秋にまで上り詰めた大宦官・曹騰の一族のものが、天の御遣いを手に入れたというものだったらしい。その話自体はただの流言飛語の類として対した広がりをみせず、当時まだ幼かった桃香の耳にも入ってはこなかった。この話が中原全体に広まるにいたったのは、これによって引き起こされた政変によるものだった。これを理由として叛意を問われ、当時太尉になったばかりの曹騰の娘・曹嵩が罷免されたのだ。太尉の地位自体が金で買ったものであり、ほんの一時高位に就くために大金を支払ったと、当時は物笑いの種にされたものだった。
再び その名を耳にしたのは、時を置いた最近になってからだった。
「はぁっ!」
「きゃあ!」
桃香の眼前を、愛紗の青龍刀が走った。天の御遣いに目を奪われているうちに、敵兵に目前まで迫られていたらしい。
「桃香様!天の助けはあれど、ここはまだ戦場であるということを忘れないでいただきたい。」
「ご、ごめん。愛紗ちゃん」
そう言いつつも、桃香の眼は再び、曹仁に向けられていた。
曹仁は既に敵将に迫りつつあった。敵軍の騎兵のうち2騎が、その行く手を塞ぐ様に進み出る。曹仁は速度を落とすことなくそのまま突き進んでいく。曹仁が槍を構えなおすのが見えた。その穂先に弾かれた陽の光に、一瞬桃香は目をつぶった。
次に見たのは、乗り手を失った2頭の馬と、残った騎兵のうちの一人に槍を突き付ける曹仁の姿だった。目をつぶっていたのはほんの一瞬に過ぎなかった。桃香は戦場に在って何か神聖なものを見た気になっていた。
曹仁は歩兵の波をかき分け敵将に迫った。敵将と思しき男は兵を動かす時間ももうないと悟ったのか、こちらを見据えている。騎兵の中から2騎が駈け出してくる。槍を構えなおす。
「しっ!」
突き出した槍は狙い過たず一方の男の胸に吸い込まれた。馬上からその姿が消える。その間にももう一騎の男は馬を駆り、間合いを詰めてくる。片割れが一合も交えずに討たれたというのにわずかの動揺も見られない。初めからどちらか一方が捨て駒になるという覚悟を決めていたのかもしれない。もう槍の間合いではない。男が刀を振るう。その軌跡が乱れ、曹仁の脇を過ぎ去る。白鵠が男の馬に体当たりを加えていた。体勢の崩れた男に、短く構えなおした槍を繰り出す。
残る騎兵は3騎。中央にいる敵将と思しき男と、その左右に1人ずつ。落ち着いた目でこちらを見据える中央の男に比べ、左右の男は怯えた様な表情でこちらを窺っている。先ほどの二人といい、将の男といい、存外肝が据わっている。黄巾党は侠客を取り入れ、その力を増してきたという。この男達もその類の者かもしれない。曹仁は侠客という人種が嫌いではなかった。今率いている者たちの大半も、その類の出身だった。
曹仁は左右の2人は無視して、中央の男に槍を突き付けた。黄巾党の軍は狂信者と飢えた民からなるという。将を討ってそれで収まるとは限らない。出来れば将の口から敗北を認めさせたい。
「俺の名は曹子孝。あなたは?」
「張牛角」
「では張牛角殿、あなたの兵に武器を下すように言ってもらえるか?」
「断る!」
叫ぶと同時に、張牛角は曹仁の槍を両手で握りこんだ。槍から凄まじい膂力が伝わってくる。一瞬でも力を抜けば奪われると感じた。
「今だ、行け!」
「くっ」
左右から騎兵2人が斬りかかってくる。とっさの事に反応が遅れたが、斬りかかる二人の動きも鈍い。白鵠が動こうとする。その動きに合わせることだけを考える。槍を自ら放し、半歩下がって攻撃を透かし、大きく一歩踏み込んで張牛角の真横につける。ここまでわずか一呼吸にも満たない。手綱捌き無しに意を通い合わす曹仁と白鵠だから出来る機動だ。瞬時にこれほどの動きを見せる騎兵など考えたこともなかったのだろう、張牛角は自身の武器も取らずに曹仁の槍を掴んだまま、反応できずにいる。その首を刎ねた。振るったのは張牛角自身が佩いていた剣だ。
馬首を返す動きに合わせ、膂力を失った両腕から槍を奪う。残る騎兵2人はまだ馬首を返そうと手綱を繰っているところだ。曹仁はゆっくりとそれぞれに槍と剣を突き付けた。
「君たちは彼の副官だな?それではもう一度だけ言おう。兵たちに武器を下すように言ってもらえるか?」
二人は顔を見合わせると、まずは自分たちの武器を下すことから始めた。
「黄巾の同志たちよ、武器を下せ!この戦、我らの負けだ!」
「勇敢なる義勇軍の戦士たちよ、勝鬨を挙げよ!この戦、君たちの勝利だ!」
黄巾族の副官と、曹仁の口より戦いの終わりが告げられた。
義勇軍の兵士達の歓声が聞こえる。
曹仁は張牛角の亡骸に目をやった。凄まじい膂力の持ち主であった。白鵠の鬣を撫ぜた。白鵠無しには勝ち得なかったかも知れない。
白鵠は曹仁にとって友であり、師でもあった。華琳の挑発に乗って、馬術を教えるという幸蘭たちの申し出を断った曹仁に、ならばと幸蘭が譲ったのが名馬・白鵠だった。白鵠と意を通じ合わせることだけに心を砕く日々が長く続いた。
結果、曹仁は余人に真似の出来ない人馬一体の馬術を習得した。
「兄貴!」
「角、被害は?」
牛金――角が馬を寄せてきた。そちらに馬首を返しながら問う。
「戦死者3名。負傷者2名。あとは怪我とも言えないような手傷を負ったものが何人か」
「そうか。死んだのは誰だ?」
「金汜、聞寧、伊惇です」
「・・・・・・」
それぞれに思いを馳せ、その名を胸に刻みつける。当初30人以上いた仲間もこれで半数ほどに減ったことになる。天の御遣いとしてではなく、曹子孝という一人の人間に従うと、そう思ってくれた最初の者達だった。いつの日か大軍を率いることになれば、兵一人一人の名や顔を把握するなど不可能だ。しかし、彼らの名と顔は決して忘れないだろう。
「兄貴!早く義勇軍の大将に会いに行こうぜ!兄貴も見ただろ?すっげえ活躍してるやつがいたの」
沈黙を破り捨てるように、曹純が馬を寄せてくる。
「・・・蘭々」
曹仁は手招きをすると、曹純―――蘭々を招き寄せた。
「痛っ!いきなり何すんだよ、兄貴」
無防備に近づいていた頭に軽く拳骨を落とした。
「言葉使い」
「な、なんだよ。俺がどんな言葉使いしようが、兄貴には関係ないだろ」
「ないわけあるか、俺が姉ちゃんに殺されるだろうが!つーか、俺だけは本当にやめろ」
「兄貴も使ってるじゃないか!」
「俺はいいんだよ、俺は!お前は一応女だろうが!」
「一応!?兄貴こそ女みたいな面してるくせに!」
「なんだと!」
「知ってるぞ。こっちに来たばっかりの頃、華琳の姉貴に女装させられて町を連れまわされたって!」
「それを言うな!」
「あの~」
「姉貴言ってたっけなぁ~、お人形さんみたいで可愛かったって!」
「蘭々!」
「すいませ~ん」
「角、知ってるか?兄貴ったら昔さぁ」
「もういいから!俺でも僕でも吾輩でも、好きに使ってくれていいから!」
「聞いてくださ~~~~い!!!!!!」
突然響いた大声に、蘭々の口が止まる。助かった。曹仁は救いの声がした方に振り向いた。
そこには3人の少女が立っていた。
振り向いたその顔は、普通の人間のものだった。額にこれ見よがしに“天”と書いてあることもなければ、眩いばかりの後光を身にまとっているわけでもない。強い意志を湛えた大きな眼。スッと通った鼻筋。
(・・・確かに女装が似合いそうかも)
頭を過ぎった思いを、桃香は頭を振ってかき消した。
「?」
そんな桃香の様子に不思議そうにしながら、曹仁が馬を下りて近づいてくる。
「えっと、義勇軍を率いていた方々ですよね?軍とも言えないような少人数ですが、私がこの騎馬隊を率いる曹子孝という者です」
そう言う曹仁の声には若干取り繕うような響きがあった。
「はい、劉備って言います。率いているというよりは、みんなが私を助けてくれてるって感じですけど」
「・・・劉備?」
「はい」
曹仁の表情に驚愕の色が混じる。
「字は、玄徳?」
「ええ!どうして知ってるんですか!?」
「それでは、そちらは関羽殿に張飛殿?」
「なんと!我らの名までご存じとは。」
「にゃはは、当たりなのだ。すごいのだ」
近隣の村で義勇兵を募ったのだ、ある程度は名も広まっているだろうが、まさか天の御遣いの口から自分たち三人の名が出るとは。
「あー、えーと。情報は戦にとって何よりも大事ですからね。」
「なるほど」
曹仁の言葉は桃香にはなんとなく言い訳がましく聞こえたが、愛紗は納得いったようだった。愛紗は自分たち3人が志を同じくする義姉妹であると、うれしそうに付け加えた。
曹仁は傍にいた二人を桃香達に紹介した。牛金という名の副官は、男性としては小柄な部類に入る曹仁の隣に並ぶと、頭1つ以上も抜き出る巨体の持ち主だった。顔面に刻まれた大きな傷痕が、その体躯と相まって独特の迫力を持たせている。しかし低く胸に響いてくる声には不思議と人を落ち着かせるような響きがあった。
先ほどまで言い争いをしていた少女を、曹仁は妹と紹介した。肩の辺りで切り揃えられた色素の薄い髪は、光を反射して自ら輝いているように見える。天の御遣いである曹仁とは血の繋がりはないのだろうが、利発そうに輝く大きな瞳は少し彼のものと似ている。
「俺は曹子和。一応、弟じゃなく妹ってことになってる。姉ちゃん達、よろしく」
口をついて出る言葉とは裏腹に、そう言って頭を下げる仕草や、こちらに向けられた微笑みからは育ちの良さが感じられた。
愛紗と曹仁はそのまま兵の被害状況について話し始めた。兵たちの状況については、桃香より愛紗の方がよく理解している。桃香はただ耳を傾けることにした。曹仁は義勇軍の被害を気にかけてくれているようだった。
曹仁との話が一区切りついたところで、桃香は愛紗に声をかけた。
「愛紗ちゃん、どうかな?」
「はい。私はその、好ましいものを感じました。桃香様がよろしいのなら、私に否やはありません」
「鈴々ちゃんは?」
「鈴々もいいと思うのだ!」
「?」
曹仁が不思議そうな顔でこちらを見ている。三人頷き合う。
「曹子孝様に、お願いがあります」
桃香は一歩前に進み出て、曹仁の瞳を真っ直ぐに見据えながら言葉を続けた。
「この乱世を鎮めるため、私達と一緒に戦ってください」