「董仲穎は漢室の臣にあって君を弑し、政道を乱せし逆賊なり! 彼の者を討ち果さずば、天は割れ、地は震え、民に怨嗟の声が満ちよう! 連合軍の将兵達よ! 天地の鳴動を聞け! 民の嘆きを聞け! 大義は我らに在り! 我らの手にて、天下万民に安寧を取り戻しますわよ! おーほっほっほっ!!」
董卓の非を打ち鳴らし、連合軍の正当を叫ぶ麗羽の声が、戦場に響き渡った。
「大将向きの良い声だな」
董卓軍と連合軍、両軍が構えたその中程まで進み出て声を張り上げる麗羽を見据えながら、皇甫嵩が人事のように言った。
「感心していないで、言い返さなくて良いのか?」
確かに、張り上げてなお耳障りな響きを伴わず、それでいて十分な声量を有する麗羽の声音には名族を自認するだけの風格が感じられる。華琳にやり込められてはかん高い叫び声を上げる彼女の印象が強い曹仁には、意外なことであった。最後に―――おそらくは用意された台本とは違う―――地のお嬢様口調とお嬢様笑いが出たことだけは減点といきたいところだが、連合軍から巻き起こる喊声を聞くに、それすらも不思議と兵の士気を鼓舞しているようだ。
「そうは言っても、私はああいうのは苦手だからな」
苦手なのではなく、嫌いなだけだろう。曹仁は心中反駁した。乱戦の中にあっても、皇甫嵩の指揮は戦場によく通る。その気になれば誰よりもうまくやってのけるだろう。
「照、徐栄。お前らがやるか?」
副将二人に、皇甫嵩は話を向ける。二人は曖昧に首を横に振った。
徐栄はそれこそ性に合わないだろうし、大将である皇甫嵩を差し置いて出張るなど考えられもしないことだろう。照は、董卓を支えるために影に徹し続けて来た男だ。一軍を率いるために将の地位に就いてはいるが、本来それすら無用と感じているだろう。
「なら、……曹仁、お前が行くか?」
「そんなわけに行くか」
「お前はこういうのは上手そうな気がするのだがな」
ぼやきつつも、さすがに本気で客将である曹仁に任せるつもりはなかったのだろう。皇甫嵩は伝令兵に何事か伝え、走らせた。伝令兵の向かう先は、本隊前に居並ぶ騎馬隊である。
董卓軍は、鶴翼に陣を布いていた。横陣に近い魚鱗に陣を組む連合軍に合わせて、両翼も中軍もやや横に間延びした形だ。真っ向からのぶつかり合いに臨む真っ当に過ぎる構えだが、中軍前面に置かれた騎馬隊だけがけれんみを放っていた。本来守備を固めて両翼の呼応を待つ鶴翼の中軍、その最前線に置かれた騎馬隊は言うまでも無く恋の率いる一万騎である。
連合軍の動きによっては速攻も視野に入れているため、すでに恋も兵とともに待機していた。攻撃の判断は、恋に一任されている。
「おい、まさか恋にやらせるつもりか? それはいくらなんでも」
「戦場では言葉よりも雄弁なものがある」
「何を―――」
恋が、方天画戟を真っ直ぐ中空に向け伸ばした。
曹仁は問いかけた口を閉ざし、思わず息を呑んだ。先刻まで麗羽に注がれていた戦場の視線が、一斉に恋と、その得物に吸い寄せられるのがわかった。自然と、戦場が静けさに包まれる。曹仁も、恋から目を離せずにいた。
すっと、方天画戟が振り下ろされる。音の絶えた戦場を、騎馬隊が一歩前進した。まるで巨大な一頭の獣が足を踏み鳴らしでもしたかのように、きっかり一歩分の馬蹄の響きが、戦場の静寂を破った。
麗羽と、その左右に侍っている文醜、顔良の二人が慌てて引き下がっていく。自らが如何に危険な位置に身を置いているかを悟ったのだろう。
ただ戟を掲げ、振り下ろす。それだけで一万騎の呼吸をひとつに合わせてしまったのか。
自分が与えられた、より精強で数も少ない一千騎でもって同じことが出来るだろうか。味方でありながら、曹仁は思わず戦慄を覚えていた。同時に沸々と胸の奥に湧きあがるものも感じる。戦場にはなおも音がないが、董卓軍の将兵の士気が静かに燃え上がっていくのを曹仁は感じた。それは騎馬隊の運用など理解の外にある歩兵達の間にも、ゆっくりとしかし確実に伝播していった。そして―――
「おおおおおおーーーーーっっっ!!!!!!」
関を切った様に大喚声が巻き起こった。
宣戦が終わっても、両軍、一刻ほども睨み合いが続いた。受けの陣形である鶴翼をとる董卓軍は動かず、連合軍も呂布の騎馬隊に釘付けにされて陣を堅くしている。
連合軍先陣を担う愛紗は、焦れた様にじりじりと軍を動かし始めた。正面に構える呂布の騎馬隊から放たれる威に、兵の緊張の糸が切れかかっている。逆を言えば呂布も、その瞬間を待っているのだろう。動かずにいるのは限界だった。
連合軍の本隊を構成する袁紹軍の前面に、公孫賛軍から切り離された劉備軍が置かれていた。
袁紹は一千の兵しか持たない劉備軍に対して、袁紹軍三万より一万もの兵を貸し与えた。虎牢関での戦闘に参加していない諸侯からは、義勇軍を重要な局面に置くことに反対意見も多かったが、袁紹が強引に意を通した恰好らしい。呂布の騎馬隊に対する防衛線としての働きを期待してのことだ。桃香や朱里達にしてみれば、先陣の栄誉を得たというよりは、困難に過ぎる役割を与えられたといったところだろう。愛紗は―――鈴々の様に手放しに喜ぶと言うわけではないが―――、やはり二十万に迫らんとする大軍の先陣に立つことに、将として、また武人としての高揚を覚えていた。
義勇軍以外の主力となる軍の配置も、本隊である袁紹軍の付近に集中している。袁紹軍からみて直ぐ左には曹操軍、そのさらに左に公孫賛軍。目を転じて右側には孫策軍。後方には袁術軍。これら虎牢関攻めに参加した主力軍が中軍であり、残る諸侯たちの軍が両翼を担っている。
董卓軍の陣形を見るに、この配置は的を射た布陣であったろう。やはり呂布の騎馬隊という、古今類を見ないほどの攻撃力を有する部隊が敵軍にある以上、総大将の居る本隊を厚く囲むのは必須である。
愛紗が直接的に率いているのは袁紹より与えられた一万で、劉旗と共に袁旗も掲げられている。袁紹からの指図であった。劉備軍の指揮下にあるとはいえ、あくまで先陣は袁紹軍の兵が務めるということだろう。もっとも、自軍の一千を最前面に置かずにすむのは愛紗達としても望むところであった。
連合各軍をそれぞれ巨大な鱗と見立てて構成された魚鱗の先陣に位置する劉備軍は、それ自体も魚鱗の陣形を取っている。五百に分けた小隊を鱗と見立て、二枚、四枚、六枚、八枚ずつが横に並ぶ四段の布陣だ。魚鱗の底辺には、鈴々と星がそれぞれ五百ずつを率いる本来の劉備軍一千が、横陣で控えている。
一歩一歩という進み方で、堅陣を保ったまま確実に董卓軍との間合いを詰めていく。騎馬隊が力を発揮するために必要な距離を潰すためである。他の軍も離れ過ぎないように付いてきてはいるが、あくまで劉備軍に引きずられての動きだ。中軍だけが突出して、中でも劉備軍だけが一歩先んじた格好である。
呂布も、こちらの意図には気が付いているはずだ。呂布がそれ以上間合いを詰められるのを嫌った時、あるいは何か些細な戦場の変化でも、戦端が開かれる切っ掛けとなるだろう。
愛紗がまさにそう気を引き締め直した時だった。
「っ―――! なんだ!?」
突如馬蹄の響きが、次いで怒号が、戦場を襲った。
視線を巡らせると、左翼で混乱が起こっていることだけがかろうじて見て取れた。それ以上、注視する余裕は愛紗には与えられていなかった。
「―――来るぞっ!」
一万騎が一斉に駈け出した。同時に、三千騎ほどのもう一隊も後方から駈け出している。こちらには張旗が翻っていた。
一万騎の先頭には呂布。対する魚鱗の陣の頂点まで、愛紗は馬を進めた。両者の距離が見る間に詰まる。
呂布が方天画戟を振りかぶった。愛紗は下段からすくい上げるように、青龍偃月刀を振るった。振り下ろす戟と斬り上げる偃月刀。開戦の一撃が交差する。
「っく!!」
疾駆する馬の勢いを乗せた呂布の戟に、抗う術も無く愛紗の青龍偃月刀は打ち負けた。崩れた体勢を立て直した時には、すでに呂布は愛紗の横を駆け抜けていた。
「待てっ、呂布!」
守りを固めた堅陣に、さしもの呂布といえども馬足が鈍る。追い縋る愛紗を振り切ることまでは出来ない。馬を並べての打ち合いになった。
「ふぅっ!」
「はぁっ!」
我が身を狙う槍の穂先が林立する中に在っても、呂布の武は超然としていた。歩兵の並べた槍を最小限の動きで捌きつつ、愛紗の青龍偃月刀と互角以上の打ち合いを展開する。方天画戟の石突で歩兵の槍を弾きながら、同時にその刃が愛紗の身を襲う。計算し尽くされた様な動きを、あくまで無造作に繰り出してくるのだ。
かわし様に、愛紗は斬撃を返していく。自分からの攻めは最小限に留めた、討ち取ることよりもただ一合でも長く斬り結ぶことを考えた戦い方だ。
今はこれで良い。こうしているだけで、確実に騎馬隊の勢いは殺いでいるのだ。
「―――関羽!」
武人としての己を押し殺しながら偃月刀を振るう愛紗に、背後から声が掛けられた。三千騎が、一万騎とは別に斜めから魚鱗を断ち割り、迫っていた。その先頭を駆ける女の視線が、真っ直ぐ愛紗を射抜く。
「はぁ!」
振り下ろされた大刀に、真っ向から偃月刀を打ち当てた。そのまま、刃と刃を擦り合わせての押し合いとなる。
「くっ、貴様、張文遠と言ったな」
「次はウチとやろう言うたやろ。アンタの相手はウチや!」
じりじりと鎬を削り合う互いの得物の向こうで、張遼が楽しげに口元を歪めた。
「邪魔立てするなぁっ!」
視界の片隅に、駆け去る呂布と行く手を阻んで立ちはだかる鈴々の姿が映った。愛紗は焦燥に駆りたてられ強引に張遼の大刀を跳ね上げ、斬り下げた。
「甘いっ!」
「くっ!」
半身になってかわし様に、愛紗の斬撃にかぶせる様に張遼の大刀が振るわれた。大きく身を仰け反らしながら、かろうじて愛紗は大刀を弾き返した。代償に、身体が流れ、無防備に身を曝け出すこととなる。致命的な隙。―――討たれる。
「他のことに気を取られとって、ウチの相手が務まるとは思わんことや」
張遼からの追撃は無かった。代わりに、大刀を下段に構え直すと、不敵な笑みで言い放った。
「……失礼した。関雲長、御相手いたす」
対する愛紗は、義妹の身を案ずる思いを一旦胸の内に沈め、静かに偃月刀を肩口に構えた。
「おおっ。張文遠、参る」
「絶好の好機を見過ごしたこと、後悔するなよ」
「それだけは、死んでもせえへんっ!」
偃月刀と大刀が、再び打ち合わされた。
「はわわっ、愛紗さんが! ……こうなったら星さん、お願いします!」
「二人掛かりというのは気が進まんが、やむを得んな。こちらの指揮は、雛里、お主に任せるぞ」
愛紗が、敵一人に掛かりきりになっている。本来彼女が果たすべき役割を、代わる者が必要だった。
「は、はひっ!」
上擦った声で返す雛里だが、引っ込み思案なその性格に反して兵の進退には天性のものがある。個人の武勇を必要とする役割ではなし、見事やり遂げてくれるだろう。
「星ちゃん、気をつけて」
「はっ! 桃香様、飛将軍呂奉先が首、必ずや貴方様に捧げて御覧に入れます!」
「はわわっ、せ、星さん! 時間を稼ぐだけで良いんですからね! 無茶はしないで下さい」
主君の我が身を案ずる言葉に、星は勇ましく答え、馬を走らせた。背後からは、はわあわ言う軍師二人の声。行く先では呂布の方天画戟と鈴々の丈八蛇矛が今まさに打ち合わされんとしていた。
鈴々の手にする蛇矛は、一丈八尺という常人の身の丈の優に二倍、年若い彼女自身にとっては三倍近い長さを誇る。それを思う様ふり回しては叩きつけるのだ。その衝撃たるや凄まじいものがある。それが、呂布目掛けて真っ向から叩きつけられた。
「にゃっ!?」
呂布の方天画戟が、その一撃を容易く弾き返していた。巧い。蛇矛が勢いに乗る直前を叩いている。そのまま、呂布が鈴々目掛けて一気に馬を寄せる。
「せっ!」
横合いから、星は突きを見舞った。いざ攻めるとなれば、二人掛かりであるとか、不意打ちであるとかいった些細なことは星の頭から締め出されている。躊躇など微塵もない、死角からの神速の双手突き。星の得物、二つの刃が絡み合い龍の顎を思わせる名槍“龍牙”が呂布に迫る。
「なっ!」
到底避け得ないはずの一撃を、呂布は軽く身を逸らすだけでかわした。同時に、追撃を封じるように槍を持つ星の両手を狙って戟を振り下ろしている。星は構えを崩し、大きく腕を引いて避けざるを得なかった。
だが、呂布の馬足を抑えることには成功している。立て直した鈴々の蛇矛が再び振り下ろされた。
「うりゃあっ!」
星を警戒してか、呂布も今度は戟で弾くことなく蛇矛の間合いの外へと一歩下がる。これで完全に呂布の足は止めた。必然的に、一人先行した形の呂布と、彼女が率いる騎馬隊との距離が狭まる。
「鈴々、愛紗の代わりに加勢に来たぞ」
「うう~、ここは鈴々一人でも大丈夫なのだ!」
鈴々は二人掛かりで戦うことに、不満も露わに言った。元より、姉妹二人で姉上のために働こう、という愛紗の言葉に一応の納得を示していただけなのである。当然と言えば当然の反応であった。
「気持ちは分かるがな、―――来るぞ!」
呂布が、一息に間合いを詰める。星と鈴々、二人まとめて斬り払うような横薙ぎ。受け切れないと冷静に判断して、星は後ずさって避けた。鈴々は、真っ向から受けにいっている。押し遣られる。
「無茶をするなっ!」
突き込んだ。容易く弾かれるが、落馬寸前まで押し切られていた鈴々は体勢を持ち直している。
槍を引き際、龍牙の持つ二本の髭を模した装飾を、呂布の眼前で泳がせた。不快気に眉をしかめる。先頭の呂布が停滞は、そのまま騎馬隊全体の動きを抑えつけることとなる。馬を止めた騎馬隊は、歩兵の長槍の格好の的でしかない。呂布の表情から、焦りの色がうかがえた。
「……お前ら、邪魔」
連撃。斬り上げ、斬り下ろし、横薙ぎ、そして星と鈴々それぞれに一つずつ突き。焦燥を感じてはいても、振るう刃に些かの迷いも無い。それぞれが、ほとんど同時に襲い掛かってくる。
「くっ! 愛紗め、よくぞこれほどの化物相手に一人で戦えたものだ」
二人掛かりでも、攻勢に転ずる隙はほとんど見い出せなかった。じりじりと後退を続けていく。
追い縋る呂布の足が突如止まった。次いで、追いついて来た呂布の騎馬隊も行き詰る形で動きを止めた。
「星さん、鈴々ちゃん、無事ですか!?」
雛里の声に、背後を振り返る。眼前には防壁が広がっていた。
「ああ、二人とも無事だ」
龍牙を掲げつつ、星は答えた。
防壁の正体は補強された輜重車である。
鈴々旗下の義勇軍五百と星旗下の義勇軍五百のちょうど境界に、二つの部隊を隔てる様に輜重車が並べられていた。
輜重車を使った防壁というのは曹操の発案である。鎖で連結させるという雛里のさらに一歩進んだ発想を素早く現実のものとしてくれたのも、曹操軍の工兵の仕事だった。それによって素早い展開が可能となり、防壁としての堅固さも高められている。三頭の馬で、縦一列に連結された五台の輜重車を引かせる。目的の位置に配置後は、馬を外すことで無用な動きは抑える。残るのは騎馬隊の進軍を阻む障害物だけであった。さらにその後方から義勇軍の兵が長槍の穂先を防壁から突き出させて控えていた。本来星がとるはずだった兵の指揮は、雛里が替わっている。進軍中は展開出来ない防壁を配置するまでの時間を稼ぐために、呂布を足止めする必要があった。愛紗と鈴々の二人の役割だったが、その愛紗が動けぬ以上は星が代わるより他なかった。
それでも、呂布だけならば防壁を乗り越えることは容易だろう。呂布と騎馬隊に前後から攻め立てられれば、即席の防壁はすぐにも崩されてしまうだろう。星と鈴々は、もう一度呂布の足止めを行わなければならなかった。
「飛将軍、呂奉先よ!」
星が呼び掛ける。呂布の表情は動かない。
「これなるは我が主君劉玄徳が義妹にして、燕人張飛! 一騎当千を誇る豪の者なり!」
星の言葉に、鈴々が胸を張って頭上で蛇矛を振り回した。
「そして我は、北方常山の趙子龍! 万夫不当の勇士なり!」
さり気無く鈴々と差をつけて自賛しつつ、星は龍牙を構え直した。
「さあ、我ら二人を打ち破り、我らが楯を踏破して、我らが本陣にその名高き方天画戟が刃、果たして届くものか、存分に試してみるがよい!」
なおも、呂布の表情は動かない。ただ、ぼそりと口を開く。
「……退く」
「は?」
「にゃ?」
言い捨てて、呂布は馬首を返すと躊躇なく駆け去っていく。多少の混乱を起こしながらも、兵もそれに続いていく。
「―――しまった! 雛里、間に合いそうか!?」
思わず呆然その背を見送ること数瞬、我に返った星が問うた。
「あう。……あの呂布さんが率いるとはいえ、一度勢いを失った一万騎の退却となれば相当な混乱が生じるはず。兵はかなりの数囲い込めると思います。ただ、呂布さんは―――」
如何に精兵といえど、呂布を抑えることは不可能である。
「くっ、逃げられたか」
星と鈴々による呂布の足止めには、二重の意味があった。ひとつは当然、連合軍本隊に向う騎馬隊の動きを抑えること。そして、もうひとつは呂布の騎馬隊の退路を断つべく展開中の輜重車のための時間稼ぎだ。
輜重車による防壁で呂布の騎馬隊を囲い込んで、完全に動きを封じる。それが、最終的な目標だった。騎馬隊の突撃を一度弾き返したところで、その脅威を除いたことにはならないのだ。
呂布はさすがに退き際を心得ていた。加えるに、無双の武人でありながら目先の勝ち負けにこだわらない質と見えた。
挑発のために並べ立てた口上を流されて、星はわずかに頬が紅潮するのを感じた。
激情に駆られた先の一撃とは打って変わって、関羽の剣戟に付け入る隙など微塵も存在しなかった。
振り下ろす一撃の速さは天性のものであり―――
「っ!」
―――斬り返す一撃の早さは鍛錬の賜物であろう。
関羽の連撃の合間に割り込ませようとした一撃、踏み込み掛けた馬の脚を霞は強引に押し留めた。斬り上げの一撃を、すんでのことでやり過ごす。そのまま、馬を一歩跳び退らせて、仕切り直しの距離をとった。
関羽の構え。やはり、隙は無い。長い黒髪が、風に靡いた。
「せっ!」
気勢と、馬首の動きだけで真っ直ぐ踏み込むと見せる。即座に斜めに大きく踏み込んで、関羽の馬の尻側に回り込む動き。関羽は、遅れず反応してくる。が、馬の動きは遅れていた。
一撃目。関羽は上体を捻りながら、受けた。
二撃目。馬を立て直しながら、これも受け止めた。
三撃目。弾かれ、大刀が流れる。
大刀を弾いた偃月刀を引かず、関羽はそのままそこから斜めに斬り上げた。馬ごと跳び退いて避ける。関羽が追い縋る。横薙ぎの一撃。馬体を沈めて避けた。霞の頭上を、凄まじい轟音が過ぎる。屈めた馬の脚を一息に開放させて、大きく跳び退った。同時に、引き戻した大刀で牽制の一振り。関羽の追撃の足を抑える。
馬術も、馬の質も霞が上だった。だから先手を取って攻撃を仕掛けるのも、距離を取って仕切り直すのもいつも霞の方である。それだけの圧倒的な主導権を握りながらも、決め切れない。否、むしろ決め切れないという思いは、関羽の方が強いだろう。馬術で揺さぶっての初手から数合こそ優位に立てても、打ち合いが続くと関羽の攻めに次第に圧倒されていた。
「関羽、アンタほんまに強いな」
「お主が強いからこそだ。今の私に些かの油断も無い。どうした、先の好機を見過ごしたこと、後悔しているのか?」
「まさか。ただ、いつまでもアンタ一人にかかずらっているわけにもいかへん。そろそろ決めさせてもらおか」
馬を止めて打ち合う。勝敗を決するにはそれしかなかった。霞の意が伝わったのか、関羽から放たれる武威が一層その圧を増した。空気が、まとわりつく様に重い。
「いくで」
のまれぬ様に、霞は気負わず静かに告げると、一息に間合いを詰めた。
連撃。間を置かず二撃、そして敢えて一瞬溜めて一撃。関羽の受けは強く正確だった。一瞬でも気を抜けば、大刀を大きく弾かれかねない。
偃月刀と大刀の重量差もあって、剣速は霞の方が上である。霞はたたみ掛ける様に大刀を見舞った。三連撃。否、二撃放ったところで割り込まれる。斬り上げる偃月刀を、霞は身を逸らしてかわした。
剣速はこちらが上、しかしそれ以外、狙いの正確性も、一撃の重さも、ここぞという時の機のとらえ方も関羽が上だ。ともすれば強引とも取れる攻めを、理に適った剣筋が裏打ちしている。人智の及ばぬところにある恋の武とは違う。人の宿し得る十全の才能と、鍛え上げられた肉体に、磨き抜かれた術理。人の到達し得る最高峰の武がそこにはあった。
瞬く間に三十合ほども斬り結んだ。霞は、関羽の武に憧憬すら抱いている自身に気が付いた。打ち合う度、関羽の長い髪がはねた。吸い込まれる様な深い黒。美しかった。
いつまでも打ち合っていたい。狂おしい程にそう思う。だが、終わりが近付いていることに霞は、霞だけは、気がついていた。
大刀が軋みを上げていた。振り下ろす刃先が、霞自身にしか分からないほどに微妙にぶれる。鍔元に青龍を模した意匠をほどこされた、関羽の偃月刀。その超重量と撃ち合うには、霞の大刀は脆弱に過ぎた様だ。終焉の予感に、軽い失望を覚える。同時に、最後にして最大の勝機が訪れることを霞は悟った。
「はぁっ!!」
ひと際強烈な、関羽の上段からの斬撃。霞は、真っ向から大刀をぶつけにいった。
最後の役目を果たし、大刀が鍔元から折れた。わずかに逸れながらも、関羽の偃月刀は変わらず霞の肩口目掛けて振り下ろされる。剣先に迷いは無い。突然訪れた好機にも、関羽はほとんど動揺していないということだ。しかし、それすらも想定の内。
「終わりや!」
霞は僅かに身を逸らす最小限の動きでかわし様、石突を跳ね上げた。狙うは顎先。あくまで想定内の窮地に立たされた霞と、想定外の勝機を得、それを逸した関羽。
石突が関羽の顎先に吸い寄せられ、―――すり抜けた。
「なっ!?」
「はぁっ!」
関羽の横薙ぎの一撃を、咄嗟に馬ごと飛び退いて避ける。
油断なく構え直す関羽の頬に、うっすらと赤い線が走っている。石突の一撃を紙一重でかわし様の神速の斬り返し。馬の質に差が無ければ、偃月刀の切っ先が霞の胸元を深々と斬り裂いていただろう。
「ウチの大刀が壊れること、読んどったんか?」
「いや。ただ、お主は強敵だからな。私に油断はないと言ったはずだ」
相手の得物を打ち壊し圧倒的優位に立ってなお、些かの気の緩みも無かったのか。
―――これは勝てない。
そう思いつつも、霞は大刀を構え直した。失われた刃の替わりに、石突を前に向けて構える。関羽の打ち込みを、果たして何度受け切れるものか。
「…………」
「……なんのつもりや」
関羽が静かに青龍偃月刀を下ろした。
「借りは作らん。行け。どうやらこちらの策は呂布に看破されたようだ」
呂布の騎馬隊が後退し始めていた。霞がこの場に留まれば、自身は元より配下の三千騎も孤立して残らず討たれかねなかった。それだけは避けねばならない。
「……後悔せんことやな」
「無論だ。次こそはその首、貰い受けるぞ」
霞は苦渋を飲んで馬首を巡らした。遠巻きにしていた兵達が、わっと寄ってくる。
「―――待て、張遼! ひとつ聞かせてくれ! なぜお主ほどの武人が董卓に付き従う? お主だけではない。皇甫嵩殿に、あの呂布、―――それに曹仁殿もだ」
兵をまとめ上げた霞の背に、声が飛んだ。戦場で武人が口にすることではない。しかし、振り返って見据えた関羽の瞳は真摯そのものである。促される様に、霞も素直に言葉を返していた。
「そんなん月が、董卓が、ええ子やからに決まっとるやろ」
世で語られる董卓の評からは予想だにしない言葉だったのだろう。絶句する関羽を残し、張遼は退却を開始した。
連合軍左翼の敵軍を交えながら、曹仁の一千騎は錦の旗を掲げた三千騎と相争っていた。
董卓の旗本の騎馬隊四百を含む最精鋭の二千騎で、ようやく五分の戦いが出来た三千騎である。今の曹仁が率いる一千騎も精兵揃いではあるが、錬度はほぼ同等とみていいだろう。つまりはそのまま三倍の兵力を有する敵ということだ。
練度の低い連合軍左翼の敵兵が、逆に曹仁の戦いを有利に進めてくれていた。本来こちらを包み込むはずの連合軍の歩兵を、一千騎で断ち割り、逆に三千騎に対する防壁とすることで、何とか戦闘の形を保っているという状況である。
動きの悪い味方に足を引っ張られ馬超が焦れていることが、騎馬隊の動きから感じられた。単調で、力任せな用兵が目立つ。騎馬隊同士の戦いでは、涼州で生まれ育ったという馬超は曹仁に対して一日の長があると言っていいだろう。持って生まれた才覚という点でも恐らく曹仁よりも上であろう。ただ激しやすい性格が、騎馬隊の動きに如実に現れている。それが良い方向に向かうこともあるのだろうが、今はその激情が空回りしていた。
本来は、膠着した戦線を大きく迂回し、連合軍本隊を衝くはずの騎馬隊であった。そして馬超も、同じことを狙っていたようだ。大きく迂回した先で、両軍は偶然の邂逅を果たしたのだ。黄砂による視界の悪さは軍の潜行を容易にし、斥候が三千騎の存在を報告してきたときには、すでに避けようもない程に両軍は接近していた。
連合軍左翼を巻き込んでの戦いとしたのは苦肉の計であった。より警戒の厳しいだろう中軍を衝くための潜行してきた隊である。十分な公算あってのことではあるが、左翼の対応が早ければ挟撃される可能性もあったのだ。結果として、予想外の動きに馬超の騎馬隊の斥候を一時振り切り、直接的な騎馬隊同士のぶつかり合いを避けることが出来た。
そしてこの動きが、董卓軍と連合軍全体の戦端を開く切っ掛けともなったのだ。
「曹仁様、あれを!」
角の代わりの副官である校尉―――皇甫嵩の指名だけあって能力は確かであり、洛陽での調練を共にして気心は知れている―――が声を上げた。
恋と霞の騎馬隊が下がっていく。損害は、董卓軍の誰の予想をも越えて大きそうだった。馬を失い徒になった者も、その逆も多く見受けられる。
「よし、我らも一度退くぞ!」
曹仁も、他の騎馬隊と合流するように軍を退いた。馬超が冷静な判断を取り戻せば、三倍の兵力差とまともにぶつかることになる。長居は禁物だった。
馬超の騎馬隊は一瞬追撃の構えを見せ、制止した。呂布の騎馬隊と入れ替わる様に、董卓軍中軍が前進し始めたためだ。鶴翼による受けの構えを捨て、両翼と横並びになって、さらに前進する。歩兵同士のぶつかり合いが始まる。騎馬隊のみでの深追いは危険だと馬超も判断したのだろう。やはり、冷静さを取り戻しつつある。
駆けながら、曹仁は連合軍の布陣をつぶさに観察した。
連合軍最前衛、劉備軍が後退の遅れた恋の騎馬隊の一部を取り囲んでいる。その結果、劉備軍は大きく布陣を乱してもいる。失った兵も多そうだ。本隊を食い破るまではいかないまでも、恋の騎馬隊が連合軍中軍に与えた傷跡は大きい。それを押し広げるのが歩兵の役割である。
歩兵のぶつかり合いを前に、連合軍側も乱れを補う様に、劉備軍の左右の軍が前進した。
右翼側の軍には未だ曹仁の目には馴染み深い“孫”旗。
そして左翼側。左翼を乱して退き上げる曹仁の騎馬隊にとっては、直ぐ真横の位置。そこには、馴染み深いなどという言葉では片づけられない、既に曹仁の血肉と化している一字が、風に戦(そよ)いでいた。
眼前を行く騎馬隊の駆る馬は、遠目に見てもそれと解るほどに見事なものばかりだった。そんな中にあってもひと際目を引くのは、光を照り返す眩い白色だ。
曹仁。視線が絡んだ。挑みかかるような瞳の光を、華琳は正面から受け止めた。
先に視線をそらしたのは、曹仁だった。前を向き直って、駆け去っていく。もはや自分を一顧だにしないという意思とも、ただ自分から背を向けて逃げ出しているだけとも、華琳には感じられた。
「華林様っ! 右翼が」
桂花の言葉に、右翼に視線をやった。陣形が乱れに乱れていた。まるで、騎馬隊に吸い寄せられるように、一部が突出し、全体がそれに引きずられている。
「……春蘭」
華琳は瞬時に何が起こっているのか理解した。理解し、憤り、呆れ、そして安堵した。状況を考えれば無謀極まる突出だが、向かう先を考えれば春蘭の身にとりあえずの危険はないだろう。
「右翼の騎兵全ては夏侯惇に従いなさい。残る歩兵の指揮は夏侯惇の副官に取らせる。すぐに伝令を」
幸い、というよりもこういった暴走の場合も想定してのことだが、春蘭の副官の韓洪は軍略にも明るく、兵を率いさせても遺漏が無い。華琳の要求には十分に答えてくれるはずだ。
「引き立ててこい、何て言った私が軽率だったかしら」
対することがあれば、とも言ったのだけれど。華琳は溜息まじりにこぼした。
視界の先では、曹仁率いる騎馬隊を目指して、夏侯の旗を掲げる騎兵小隊が単身での進撃を開始していた。