「待てっ、仁!」
曹旗と、その主に思わず吸い寄せられた視線を前方に戻した曹仁は、背後から迫る馬蹄の響きと懐かしい声に、直ぐに再び振り返ることとなった。曹操軍から突出した五十騎ほどが馬を急き立てて追ってくる。
曹仁は殺気立つ兵を手振りだけで鎮めた。騎馬隊の先導を副官に任せると、最後尾まで下がって、追い縋る五十騎の方へと白鵠を寄せた。五十騎からも、一騎が猛然と進み出る。
「春姉、一体何を考えている!? 早く戻れ! 危ないぞ!」
それが敵軍の将に掛ける言葉か。思いつつも、言わずにはいられなかった。如何に今は敵対しているとはいえ、家族としての愛情に変わりは無いのだ。両軍合わせて三十万を超える歩兵同士のぶつかり合いが今まさに始まらんとしている。その戦場の真ん中で、ただの五十騎で孤立しようとしている従姉の暴挙を、曹仁が見過ごせるはずも無い。
「お前も一緒だ、仁! いつまでもつまらん意地を張っていないで、お姉ちゃんと一緒に帰るぞ!」
言いつつ、春蘭はさらに曹仁に馬を寄せてくる。ほとんど並走するような距離だ。
「つまらない意地、か」
否定することは出来なかった。何をやらせても自分よりずっと上手くこなす、年下としか見えない従姉に対する劣等感を伴った敵愾心が、曹仁の心の中に根付いていた。それが、彼女の担ぐ御輿として生きることを拒み、曹家から離れ独立不羈の道を選んだ理由の根底にあるのは間違いのないことだった。
「華琳さまには、わたしや秋蘭も一緒に謝ってやるから。さあ、帰るぞ」
春蘭はさらに馬を寄せると、白鵠の轡を取ろうと手を伸ばした。ついっと首をそむけて、白鵠がその手から逃れた。
「むっ」
もう一度伸ばした手を、またも白鵠が避ける。
「何が気に食わんというのだっ、白鵠!」
「俺がやらせているんだ、俺が」
「何っ!? お姉ちゃんの言うことに逆らうつもりか、仁!?」
苦笑交じりに曹仁が告げると、春蘭の瞳が驚愕に見開かれた。苛立ちや憤りなどは含まれていない、ただ純粋に驚いたという表情だ。考えてみると、昔からこの従姉の願いはほとんど無条件に飲んできたという気がする。
「もう戦は始まっているんだ、春姉。今さら引けるかよ」
「むむぅ。…………ならば、戦場の流儀でやらせてもらおうか。力づくで連れ返らせてもらおう!」
一瞬の逡巡を挟んで、春蘭が彼女らしい切り替えの早さで言い放つ。同時に、スラリと大剣も抜き放っている。七星餓狼と呼ばれるその大剣は幅広の片刃で、剣というよりもむしろ刀に近い武器だった。中心付近で一度婉曲する特徴的な刀身は、“く”の字に近い形状といえば分かりやすいだろう。
「わたしが勝ったら、一緒に戻ってもらうぞ、仁」
「……俺が勝ったら、春姉は何をしてくれるんだ?」
「わたしが、お前に負けるはずがないだろうっ!!」
「ふっ」
あまりと言えばあまりな話ではあるが、春蘭らしいと言えばこの上なく春蘭らしい言い草に、思わず曹仁は頬をほころばせた。
「骨の一本ぐらいは覚悟してもらうぞ、仁!」
言うと春蘭は、七星餓狼の刃を反し、曹仁に峰を向けて構えた。曹仁も、無言で槍を構える。
周囲ではすでに歩兵同士の戦いが口火を切り始めていたが、兵達も曹仁と春蘭の対峙を一騎打ちと見て取ったのか、二人からは遠巻きに距離を取っていた。
総勢三十万を超す兵のぶつかり合いが続いていた。
華琳はともすれば自軍の位置すら見失いかねないような、そんな不確かな感覚に襲われていた。精鋭を誇る五千は、三十万の大波に揺れる小舟のようですらあった。
とにかく、正面の敵を崩すしかない。大軍同士の押し合いも、どこか一箇所の崩壊で一気に形勢が決することも多いのである。
敵軍の用兵は変幻だった。正面同士のぶつかり合いで幾分押したかと思えば、横合いから、斜めからと押し返される。中軍だけを比べれば、兵の質は連合軍側の方が幾分上かと思えた。それでも押し切れない。
華琳もただ力押しをするだけでなく、乱戦の中にあっても機を見て陣形を組み換え、敵軍の綻びを誘った。その都度、即座に的確な対応がとられる。
敵本陣からはひっきりなしに伝令が駆け、鼓笛が鳴らされ、旗が振られていた。加えて、現状の董卓軍の主力となる将、呂布や張遼、曹仁―――多少の身内贔屓も込みで―――は、いずれも騎馬隊の指揮に当たっている。
あの劉備軍を、孫策を、そして自分を相手に、一人采配を振っているということか。正しく皇甫嵩は、漢朝の生んだ軍略の巨人と言っていいだろう。
「右翼、韓洪に伝令。中軍後方まで兵を下げよ。曹純、敵歩兵が右翼を追って突出を見せたら、虎豹騎総員をもって側面を衝きなさい。楽進、于禁の隊もそれに続け」
偉大なる先達を向こうに回し、華琳も知略の限りを振り絞った。
正面の敵歩兵が割れて、そこを騎馬隊が突っ掛けてくる。数は五百にも満たないほどだ。
「陣を固め、槍先を並べよ! 敵騎兵に備えるのだ!」
取るに足りない少勢。しかし愛紗はすぐさま檄を飛ばした。騎馬隊の動き。侮り難いものを感じた。
ぶつかる直前、騎馬隊がいくつもの小隊に分かれて散った。堅陣に対して、少勢をさらに分けるという愚行。しかして騎馬隊は、そんな兵法の理を無視するように極々自然に、無理のない動きで劉備軍の布陣へと踏み入った。そのまま、固めた陣形の中を縦横に駆け回る。
愛紗が小隊に馬を寄せて斬りつけても、一人を討ち取ることすら難しかった。五騎一組の小隊の連係に、愛紗がむしろ攻め立てられることすらあった。
呂布の騎馬隊は、呂布が率いてこそのものであった。だから、呂布の動きを抑えることが、そのまま騎馬隊の進撃を跳ね返すことにも繋がった。
この騎馬隊は違う。僅か五騎ずつの小隊に分かれても、一隊一隊が時に連携し合いながらも独立した動きで駆け回っている。兵を討つことより、布陣そのものを乱すことを目的とした動きだ。良いように翻弄され、陣形が蹂躙されていく。そこに、敵歩兵も押し寄せてくる。
「んにゃあ! お前らずっこいのだ! 逃げてないで鈴々と戦うのだ!」
鈴々も苦戦を強いられている。攻勢に出ようとする度、五騎がさらに散っては味方歩兵の中に紛れる。それで、長大な蛇矛を満足に振るうこともままならないようだった。
危な気なく騎馬隊の攻撃を捌いている星も、攻撃に転じる余裕までは無さそうだ。
騎兵の練度も馬の質も共に最上級のものと言えるが、何より一兵一兵に至るまでが常に周囲の戦況を把握して、自ら次の行動を選択して動いているとしか思えないところがあった。堅いところには無理に当たらず、いくつかの小隊が自然と集まって突き崩す。あるいは挟撃を仕掛ける。それで、ほとんど犠牲を出すことなく陣形をかき乱していく。
「くっ! 拙い、このままではっ!」
愛紗の青龍偃月刀が、むなしく空を切った。
「ええーいっ、ちょこまかと!」
春蘭が痺れを切らしたように叫んだ。
やはり春蘭は、曹仁にとって未だ絶対的な強者のままであった。黄巾の乱での転戦、洛陽での刺客との死闘、そして恋や愛紗ら武を極めた者たちとの立ち合い。それら全てを糧として、自身が強くなったという曹仁の確信は揺るがなかった。それでも、届かない。
負けない戦い方に徹するより、打つ手は無かった。白鵠の脚を頼りに、常に七星餓狼の間合いの外から槍を繰り突いた。槍は容易く避けられたが、それでも間合いを詰めようとする春蘭の出足を挫くことは出来る。春蘭は、攻性の武人である。一度攻撃に転じて “乗れば”、あるいはあの愛紗以上の力を発揮しかねないが、その出鼻を慎重に、繊細に、ことごとく曹仁は潰していた。
「仁っっ!! いつまでそうして逃げ回るつもりだ! これでは戦が終わってしまうぞ。逃げずに打ち合わんか!」
春蘭が、構えを解いて苛立ちを言葉にする。決め手に欠いたまま、時だけが過ぎていた。
「そうは言っても、まともに打ち合ったら俺が春姉に勝てるはず無いしな」
「うむ! その通りだ! 打ち合いとなれば、三合とかからず打ち倒してくれるわ!」
自信有り気に、春蘭が胸を張った。
「……本当に打ち合いたいと思ってるのか? …………思ってるんだろうな。だって、春姉だもの」
「?」
呆れ気味に言い返しはしたが、いずれは打ち合わざるを得ないとも、曹仁は考えていた。
集中力が、かなり磨り減っていた。春蘭の本能に任せた動きは、曹仁には読み難いところがある。武人として持って生まれたものには天と地ほどの開きがあるのだ。地に足を着けて戦えば、これ程長くはもたなかっただろう。間合いの取り方を白鵠に委ね、春蘭の動きに全神経を集中させることで何とか凌ぎ続けて来たのだ。
同時に腕も限界に近い。繰り突きを中心に据えた曹仁の構えは、槍を突き出す後の腕よりも、位置を固持したまま掌中で柄を扱く様に滑らせる前の腕に疲労が蓄積する。曹仁は左右どちらの腕を前としても不自由なく戦えるように修練していて、春蘭の隙を見ては構えを入れ替えてはいるが、それも限界だった。かと言って、構えを解けば春蘭の動きには対応し切れないだろう。
じりじりと敗北に向かっているのは間違いのない事だった。それならば、完全に力尽きる前に勝負に出た方が良いだろう。
間合いを詰め、春蘭からの攻めを誘う。七星餓狼を振らせて、それに合わせる。それで、こちらの攻撃が当たる可能性もぐっと上がるのだ。
「……負けると分かっていて打ち合うほど馬鹿じゃないつもりだ」
しかし今はまだ、その時ではない。誘いに乗って打ち合いなどしては、それこそ三合ともたずに敗れかねない。攻め込むのは玉砕覚悟ではなく、十分な勝機をもって挑まねばならない。曹仁は、好機が訪れるのをじっと待ち続けていた。
「むぅ」
春蘭が不満気に唸った。かまわず、曹仁は槍を構え直した。
劉備軍が崩されていく。
騎馬隊に乱された劉備軍の陣形を押し退ける様にして進軍した敵歩兵の先陣は、すでに輜重車による防壁にまで到達している。あくまで騎兵に対する防壁である。歩兵の手に掛かれば、取り除かれるのも時間の問題だった。直ぐに、麗羽の本隊がさらけ出されることになる。
本隊の危機にも、華琳に兵を割く余裕はなかった。劉備軍を襲った精鋭騎馬隊は、勢いを駆って連合軍中軍全域を蹂躙し始めている。曹操軍も陣形をかき乱され、完全に崩れずにいるだけで精一杯なのだ。じっと、耐え続けていた。
今は左翼右翼の兵も一つにまとめて、華琳の指揮下に入っている。三段に構えさせた陣の二段目までは崩された。兵を引かせ、代わって三段目を前進させる。兵の動きは満足のいくものだ。潰走に近い状態の兵を上手く後方へと逃がしている。負傷が重い者を除いて、収容した兵をまとめて四段目とした。
三段目。敵騎馬隊が、容易く陣形の中を駆け抜けた。五人一組の小隊だ。それ自体による乱れは、それほど大きいものではない。しかし、続く歩兵がその僅かな綻びに、楔を打ち込んでいく。
三段目が崩れた。後は体力の損耗の激しい四段目と、華琳の率いる本隊だけだ。
視界の端で、麗羽の本隊と董卓軍がついに交戦を開始した。そちらに視線をやる余裕もほとんど無かった。華琳は四段目の兵と敵軍とのぶつかり合いを睨み据えた。
自軍に後がない事を知る兵達は、持てる力のすべてでもって懸命に抗い続けている。手綱を握る華琳の手にも、知らず力が籠る。
ふっと、敵軍から掛かる圧力が弱まった。正面の敵陣が薄くなっている。その分が麗羽の本隊への攻撃に回っているのだ。
「今よ! 騎馬隊は放っておきなさい! 全軍、前だけを見据え、一歩でも多く進め!」
陣形は乱されるままに任せた。強引に前へ前へと軍を進める。如何に精鋭の騎馬隊と言えども、その数は僅かだ。進軍そのものを止めることは難しい。
兵が喊声を上げた。軍略も何もなく、ただただ士気で押した。押し遣った。華琳のいる本隊前に空間が出来る。
「虎豹騎総員、私に続きなさい!!」
騎馬隊が勢いを付けるには不十分な空間。だが今は贅沢を言っている状況ではない。この機を逃せば連合軍は瓦解しかねないのだ。
駆け出した。味方の歩兵が、左右に分かれて道を作る。駆け抜けた先、敵陣に突っ込んだ。
虎豹騎の重騎兵二百騎。親衛隊の軽騎兵二十騎。共に曹操軍の最精鋭部隊だ。敵陣が崩れる。だが、やはり元々の勢いが足りていない。騎馬隊の動きが鈍っていく。
混戦になった。騎馬隊に前に進む力はもうほとんど残されていない。駄目なのか。不安が過った。我が天命はここに尽きるのか。
「――――――っ!! ―――っ!!」
言葉にならない兵達の喊声は、衰えてはいなかった。兵が、曹孟徳の天命にはまだ先があると、前へ前へと華琳を押し遣るのだった。
華琳は絶を我武者羅に振るった。周囲の状況も、もう把握し切れていない。ただ背中を圧す兵達の存在を感じた。前だけを見据え、一歩一歩、のろのろと馬を進めた。
―――突如、眼前が開けた。
抜けた。華琳は初めて背後を振り返った。兵も付いてきている。まずは親衛隊の軽騎兵が。続いて虎豹騎の重騎兵が。最後に喊声を上げて歩兵が。
すぐそこには皇甫嵩の本陣。孤立している。だが、五千程の歩兵中心の本隊とは別に、一万騎近い騎馬隊も控えていた。
「曹操軍の精兵達よ、この曹孟徳の天命を信じよ! 我らが勝利を疑うな! 全軍、敵本陣を穿てぇっ!」
もはや数は問題ではなかった。麗羽の本隊が崩される前に、敵本陣を突き崩す。華琳の号令に従って、全軍が駈け出した。
後押しするように、右方からも喊声。連合の軍がもう一軍、敵陣を抜いていた。
孫の旗印。孫策軍一万。
突き抜けた。敵本陣。遮るものは無い。
「勇敢なる孫呉の将兵よ! 血路は開かれた! 掌中の剣を握り直せ! 槍を構え、矢を番えよ! 我ら孫呉の武で、この戦を終わらせるのだ!」
先頭で、雪蓮は声を張り上げた。ほとんど突出する勢いで自ら剣を振るい、斬り開いた好機だ。高ぶる思いを言葉に乗せた。
「―――――――っ!! ――――っっ!!!」
兵達の喚声が、その思いに答えた。
「……雪蓮、軽率だぞ」
静かに馬を寄せた冥琳が言った。言葉とは裏腹に、口調は熱を帯び、わずかに頬も紅潮させている。
孫呉と、そう口に出して言ったのは、母が死んで以来初めてのことだった。断金―――二人が心を同じくすれば鉄をも断つ―――とまで評される固い友情で結ばれた冥琳や、妹達、母の代からの宿将祭の前でも口にしたことは無い。口にしてみるだけ、その語の秘めたる意味も、自身の思いも、薄れてしまうように思えたのだ。長い間、一人でいる時にそっと心の中で呟いてみるだけの言葉だった。
呉―――遠祖孫武がその軍略を振るい、母孫堅が拠って立った地。
その呉郡を含む揚州は、漢室からの正式な任命こそ受けてはいないが、今は実質袁術の領地となっていた。雪蓮は、その客将に甘んじている。
旗下の一万の軍勢は、母の代からの孫家の兵と、孫策自身の呼び掛けに集まった者たちだ。袁術軍の兵は、そこに含まれてはいない。
とはいえ、袁術の手の者を完全に排除し切れてはいないだろう。孫呉と、そう雪蓮が言ったことも、直ぐに袁術の耳に届くだろう。冥琳は、それを案じているのだ。
「問題無いわよ。あちらも端から私達の意図を知った上で、利用しようとしているのだから」
「確かにそうだが」
袁術の客将として戦うのは、これが最後と決めていた。次の戦は、独立のためのものとする。袁術の領する呉郡から、孫家の統べる孫呉へと。
敵騎馬隊が動き出した。五千騎ずつ二手に分かれて、それぞれが孫策軍と、先を行く曹操軍へと向かって来る。
「さあ、行くわよ」
ここで守りを固めるつもりは無かった。なおも先頭を行こうとする雪蓮に、一瞬冥琳が渋い顔を作ってみせる。雪蓮は笑顔で黙殺して馬を進めた。
「お供いたします」
言って、朱桓が馬を並べて来る。ただし、決して雪蓮より前に馬を進めようとはしない。静かに付き従うという恰好だ。
雪蓮直属の親衛隊隊長である。妹の蓮華にとっての甘寧と同じ立ち位置であるが、大人しく護衛を従えるという性格でない主を持って、その心労は比べ物にならないだろう。
「……」
言葉で返す代わりに、雪蓮は無言で駆け出した。遅れずに朱桓は付いてくる。騎兵も歩兵も、喊声をあげて続いた。
迫る敵騎馬隊の先頭数騎が、兵を失い馬だけとなった。後方から奔った矢の軌跡は、雪蓮の目をしてほとんど捉えきれないほどだった。風切り音だけが、耳に残る。
「さすがね、祭!」
振り返るまでも無く、矢の主が誰かは知れた。これ程の矢を放つ者は中華全土を見渡したところで五人といないだろう。孫家にあっては彼女を置いて他にない。
敵騎馬隊との距離が詰まる。その間にも敵兵が次々に落馬していく。
かち合う瞬間までに、敵軍は先頭二十騎ほども失っていた。兵を失った馬のせいで、進軍隊形にも乱れが生じている。雪蓮は敵軍の中へと、真正面から踏み込んだ。
「はあっっ!!」
馳せ違い様に、三つ首を飛ばした。
傍らでは朱桓が鈎を巧みに操って、敵騎兵を馬上から引きずり下ろしている。普段は両手に一本ずつの双鈎を使っているが、馬上では単鈎を用いるようだ。
鈎は、片刃の直剣の先端を鉤状に曲げたような武器で、斬り、引っかけるといった攻撃が可能だ。朱桓の振るうものには、さらに尖端に突き技のための剣先と、持ち手を覆う様に半月状の刃が備え付けられている。扱いこそ難しいが、広範な攻撃手段を持つ汎用性の高い武器である。
雪蓮も、南海覇王を振るい続けた。母孫堅より受け継ぎし父祖伝来の宝刀。何の装飾も無い実戦本位の拵えの、ただの両刃の直刀である。己が身に流るる血ゆえか、それは初めて手にした瞬間から驚くほど手に馴染む。
南海覇王をひとつ振るう度に、ひとつ首が飛んだ。敵騎馬隊を抜けるまでに、雪蓮は二十以上の首を跳ね飛ばしていた。
そのまま、敵本陣へと駆ける。直ぐに五千の騎馬隊が取って返して来て、挟撃の形となるだろう。だが、ここは犠牲を恐れている場面ではない。曹操軍も、真っ直ぐ本陣へと向かっている。
「総員、――――突撃せよ!!」
敵本陣目掛け、雪蓮は南海覇王を振りかざした。
戦局は終盤も終盤、どちらの本隊が先に崩れるか、という段階に差し掛かっていた。
照の騎馬隊と歩兵が連係して、連合軍本隊である袁紹軍を突き崩しにかかっている。一方で、曹操軍と孫策軍が後背を突く騎馬隊による犠牲を度外視した果敢な攻めで、皇甫嵩率いる董卓軍本隊を襲っていた。
「本隊中軍は陣を固めて押し返せっ! 左翼、右翼は前進!」
皇甫嵩は横陣に組んだ本陣の兵を、鶴翼へと組み直した。兵力で曹操軍と孫策軍に劣るため包囲まではとても望めないが、両軍をひとつ所に押しやることは出来る。それで騎馬隊との挟撃の威力は一層高いものとなる。
同時に、董卓軍全軍へも伝令を走らせた。
やはり連合軍は中軍が強い。曹操軍の抜けた綻びを衝いて公孫賛軍も抜け出ようと果敢な攻めを繰り返している。それは、元々曹操軍と対していた兵達を充てることで抑えた。
孫策軍に抜かれた後の兵は、劉備軍に横合いからぶつけさせた。劉備軍がまとまりを取り戻せば、中軍での優位は失われかねない。
霞は、曹仁の騎馬隊一千騎も合流させて総勢四千騎を率いている。今は馬超の騎馬隊とお互い牽制し合いながらも膠着状態にあるが、些か動きに精彩を欠いている。関羽との一騎打ちでは危いところで命を拾ったというから、この戦場ではすでに死人と思い定めているのかもしれない。霞はそういうところのある武人だった。それでも、敵軍で最も警戒すべき一軍を殺してくれているのだから、十分な働きと言っていい。
恋の騎馬隊は、敵右翼を潰走に近い状態にまで追い込んでいながらも、完全には崩し切れずにいる。劉備軍に一度大きな損害を与えられたことで慎重になっているのか、攻めにいつもの恋らしい苛烈さが無い。
兵の指揮を離れた曹仁は、曹操軍の将夏侯惇との一騎打ちを繰り広げている。意図しての事か、将の数が絶対的に不足している董卓軍の急所をさらに抉られた格好だ。
袁紹の本隊を崩すためのもう一手が不足している。そして、皇甫嵩は自身が率いる本陣には、それほど練度の高い兵を配してはいなかった。騎馬隊一万騎も、董卓軍の中では最も練度に劣る騎兵をまとめたものだ。ほぼ全軍が敵に当たるという総力戦である以上、精鋭は可能な限り前線へ投入したかったのだ。
―――少し、逸り過ぎているのか。
無理押しをせずとも、照の騎馬隊と歩兵の連係を密にしていけば、中軍を崩すことは可能だった。あるいは、恋が右翼を潰走させるのを待つか。戦場はほぼ全局面において、現状董卓軍有利で進んでいると言っても良いのだ。着実に詰める術はいくらでもあった。
しかして勝敗は、今やどちらに転ぶか分らないところにあった。
―――勝機。
曹操軍が騎馬隊に後背を深々と突かれていた。
曹仁と春蘭が刃を交えているのは歩兵と歩兵のぶつかり合いの渦中だが、孤立した格好の董卓軍本陣と曹操軍、孫策軍の動きは馬上からならよく見えた。
春蘭の動きが、目に見えて乱れた。遠間から放った繰り突きへの対応が遅れて、具足を打ったほどだ。
じっと待ち続けた好機を、逃すつもりは無かった。双手突きで槍を見舞いながら、半歩間合いを詰める。ぎりぎり、七星餓狼の間合いの外。
もう半歩。春蘭の一撃をかわし様に石突を返して決める。
「っ!」
びくりと、踏み出し掛けた白鵠の身体が膠着した。曹仁の頬に熱いものが奔った。
「――――――あっ、くうぅっっ!!」
直後、春蘭が身を折って苦悶の声を上げていた。
「春姉っ!!」
春蘭の眼、左眼に、矢が突き立っている。
流れ矢。そう、まさに流れ矢だったろう。
射線からして、明らかに董卓軍側から放たれたものでありながら、白鵠が反応してくれなければ曹仁の身に突き立っていただろう矢だ。何より、初めから己が身を狙った矢であれば、春蘭の野性が反応出来ぬはずもない。流れ矢が、曹仁の身が生んだ死角から奔った。それ故に避け得なかったのだ。
「寄るなぁっ!」
詰め寄る曹仁を拒むように、七星餓狼が大きく振るわれた。
「っ! 何をっ!?」
「まだ、勝負が決まったわけではないわ! お前の手は借りんっ!」
「そんなことを言っている場合じゃ―――」
「黙れ黙れっ! これしきの傷、我が心胆を寒からしめるものではないわ! 見ておれっ! ぐ、ぐうぁあああああっっっ!!」
「春姉っ!」
自ら矢を引き抜いていた。矢の先端には、先刻まで春蘭の身体の一部であったものが、突き刺さっている。
「天よ! 地よ! そして義に立ち上がりし全ての将兵達よ! 我が言を聞けいっ!!」
春蘭の大喝が、戦場に轟いた。
漢の大旗。寄り添うようにやや小さな皇甫と董の旗印。すぐ近くだ。だがその僅かな距離が、華琳には千里にも万里にも感じられていた。
敵本隊の兵力はわずか五千で、孫策軍を合わせれば味方は一万五千。練度にも雲泥の差があった。それが、一歩進む度に押し戻されていた。敵本陣の兵は目まぐるしく動き回っている。押したかと思えば後方から入れ代わる様に新手が進み出て、押し返してくる。練度に劣る兵にこれほどの動きを取らせるとは、よほど命令がしっかりと行き渡っているのだろう。
正面では一進一退の攻防が続き、後方からは騎馬隊が襲う。そんな、手詰まりの状況。
「―――――!! ―――――――――!!!」
打ち破る様に、どこからか、春蘭の大音声が響いた。
鬼気迫る怒号に、曹操軍の兵の士気は否応なしに高まっていく。
華琳は、春蘭の発した言葉の内容に不穏なものを感じながらも、今は兵達の高ぶる士気を敵軍にぶつけた。
「総員、死力を尽くせ! ここが最後の死線と心得よ!!」
将兵が喚声を上げ、一丸となって前へ出た。華琳も、絶で遮る者の首を飛ばし、馬の蹄に掛けた。
押した。背後から敵騎馬隊の圧力をひしひしと感じながらも、それすらも前へ出る力へと変えた。皇甫嵩の用兵、前後の兵の入れ代えも、もう間に合ってはいない。
漢の旗が、大きく揺らいだ。
本陣が崩れた。先刻までの優勢が嘘のように、他の戦線も押し上げられていく。
皇甫嵩の指揮なくば、十五万を超える軍勢同士のぶつかり合い、その戦線を維持することは現状の董卓軍には不可能だった。将が不足している。加えて、元々の官軍の兵達は皇甫嵩の存在があればこそ士気を保っていたのだ。
張繍は、敵陣深く斬り込んでいた月の旗本の騎馬隊四百騎を下げると、集合させた。
戦場のそこかしこでは、すでに董卓軍の兵が潰走し始めている。連合軍が追撃に入るのも時間の問題だろう。
今は、一兵でも多くの兵士を洛陽に帰還させることだった。
洛陽に残る守備兵は現在三万と、城郭の規模と性質を考えれば極端に少な過ぎる数である。十万でようやく満足に戦える数だった。
幸いなことに、戦場から洛陽まではわずか二十里ほどしか離れてはいない。この距離ならば潰走した兵達も散り散りに逃げ続けるよりも、洛陽へと駆け込む者が多いだろう。
だが同時に、追撃する連合軍にとっても、容易に駆け抜けることが可能な距離だった。兵の収容中に襲撃されてはひとたまりも無い。
事ここに至っては、張繍のすべきことははっきりしていた。精鋭騎馬隊四百騎を中心に騎兵をまとめ殿軍に立ち、二十万に迫らんとする連合軍の追撃の足を止める。
張繍は、連合軍を睨み据えた。二十万の大軍。さすがに、幾分気押される。
その時、気付いた。連合軍の遥か上方―――中天に、ぽっかりと浮かぶものがあった。太陽よりも弱く、しかしずっとやさしい光。
―――昼に見える月。
「……無様な姿は見せられないな」
張繍は口中で呟いた。