「春姉っ、これ以上はっ!」
「はああぁぁぁっっ!!」
「くぅっ!」
振り下ろされる七星餓狼を、頭上で寝かせた槍で受けた。全身が押し潰される様な衝撃。峰ではなく刃がこちらに向けられていれば、間違いなく槍ごと両断されていただろう。
左目を失う傷を負ってなお、春蘭の動きは衰えることを知らなかった。失われた視界を補う様に、曹仁の攻め手を封じる猛烈な連撃を繰り出してくる。強引とも取れる剣も、攻めの武人である春蘭にとっては本領と言っていい。加えて、剣を振るう度に左目のあった場所から噴き出る血が、曹仁の動きを鈍らせた。
「どうした!? 攻めてこい、仁っ!!」
味方は、総崩れとなりつつある。いつまでも春蘭一人にかかずらっている時ではない。解ってはいても、曹仁は受けに徹する事しか出来なかった。
今、何をすべきなのか。思考は千々乱れていた。
「曹仁!」
「っ! 照か」
張繍が、駆け寄ってくる。
その背後、四百騎を中心に一千余騎が董旗の元に集結している。戦場を駆けまわって、敗走する歩兵の撤退を援護し、騎兵は吸収するということを繰り返しているようだ。
「……何をしている、曹仁?」
照は、ちらりと一瞬だけ春蘭に視線を送ると、咎めるように曹仁を睨んだ。
「夏侯元譲といえば、お前にとっては大切な家族ではなかったのか? さっさと行け」
「っ! すまない、すぐに戻る」
いつか、曹仁が照に送った台詞だった。
迷いを振り切って、曹仁は春蘭に向き直った。照とのやりとりを黙って見守っていた春蘭が、剣を構える。動いていないと却って傷の痛みに襲われるのか、青い息を吐いている。
照の言葉に背中を押されるように、大きく一歩、白鵠を進めた。
間合いに入るや、七星餓狼が振り下ろされてくる。曹仁の頭頂部から真っ直ぐに正中線を抜く軌道。如何に峰打ちと言えど、免れようのない死を孕んだ太刀筋。
回避運動に入ろうとする白鵠を、曹仁は腿を締めて抑えつけた。
「―――っ! 馬鹿者っ! 何のつもりだっ、仁!」
ほとんど触れるような近さで止まった七星餓狼を手で押し退けると、曹仁はさらに間合いを詰めた。春蘭の馬の、轡を手に取る。
「―――行くぞ、春姉」
「何をっ、うわっ!?」
春蘭の馬を、ほとんど引きずる様にして駆けた。
「おい、仁! 何のつもりだ!」
目指すは曹操軍。最後に混戦を抜け出、勝敗を決する一撃を加えた軍だけに所在は明らかだった。後ろで喚き散らす春蘭を黙殺して、曹仁は駆けた。
曹操軍。すでに追撃の体勢に入っている。曹仁は軍勢の中に飛び込んだ。
「夏侯淵殿! 夏侯妙才殿はおられぬか!?」
春蘭の馬を引き、秋蘭の名を呼ぶ曹仁を敵だとは思わないのか、兵からの攻撃は無い。兵達は訝しげな表情を浮かべながらも、秋蘭の所在を口にした。左翼の前線近くに、秋蘭の姿はあった。
「秋姉っ!」
「仁か、どうしてここに、―――姉者!!」
傷を負った春蘭に気付き、秋蘭のいつも涼しげな瞳が歪んだ。
「軍医の手配を!」
「っ! ああ」
指令が飛ばされ、秋蘭の傍らの兵が直ぐに駆け出していく。
「おいっ、仁! わたしを甘く見るなよ。この程度の傷など。まだ勝負はついていないぞ」
振り向くと、眼前に七星餓狼が突き付けられた。睨みつけてくるのは右眼のみで、左眼は光を失い空虚な洞が血を溢れさせているだけだ。
傷口などは見慣れたものだった。それでも、家族と言って良い女性の面貌を抉る痕に、曹仁は一瞬眼を伏せた。
「頼む、春姉。まずは治療を受けてくれ。それまで俺は、戦えない」
「むぅ」
「次に対峙した時、戦いを挑まれれば必ず応じる。負ければ、春姉の条件も飲もう。だから頼む」
「……」
「姉者」
なおも不満気な春蘭に、秋蘭が声を掛けた。諭すような響きに、秋蘭が一応の落ち着きを取り戻したことが知れた。
「こうなっては、仁は折れんぞ。どうしても戦うというのなら、無抵抗の仁を打ち据えるしかない。あきらめろ」
「……わかった、ここは目上としてわたしが引こうではないか。次に会った時こそ決着だ。約束だぞ」
兵に付き添われ、春蘭が離れていく。向かう先には、いつの間に用意されたのか、日差しや黄砂避けに布を張り巡らせた仮設の天幕の様なものが設えられている。秋蘭の指示にはさすがに遺漏が無い。
「……仁」
見えなくなるまで春蘭の背を見据えていた秋蘭が、曹仁に視線を向けてくる。曹仁は真っ直ぐ見返す事が出来なかった。秋蘭にとって最愛の姉である春蘭を、傷つけたのだ。
「私は姉者に付き添わせてもらう。……お前のその頬の傷。それも相当に深い。出来るだけ早く、治療することだ」
秋蘭の腕が、曹仁の頬に伸びた。右手が袖越しに頬に押し付けられると、鋭い痛みが走った。曹仁は、左頬に受けた矢傷に初めて気付いた。血は、未だ流れ続けていて、上衣の半分を濡らすほどだ。それでいくらかでも矢の力が弱まってくれたと思えば、安いものだった。
「ではな」
出血を止めるようにしばし押し付けられていた右手を離すと、春蘭が連れて行かれた天幕へと秋蘭は駆け去っていく。自身の血で汚れた袖口をしばし曹仁は見送った。
「…………すまない、春姉、秋姉」
「仁」
小さくささやいて馬首を返し掛けた曹仁を、懐かしい声が引き止めた。
歩兵は、総崩れといってよかった。すべての指揮を、皇甫嵩に委ねていたのだ。本隊が崩れては、戦線を維持出来るはずもなかった。
騎馬隊の多くは、崩れることなく諸将の判断で動き始めている。
呂布が三千騎ほどを率いて、突出した形の敵軍―――孫策軍と曹操軍―――を牽制しつつ、退却する歩兵を護衛している。孫策軍は本隊の潰走を喧伝するように、必要以上の喊声を発しながら追撃に入っていた。逆に本隊潰走の最期のひと押しを加えた曹操軍は、動きが鈍い。
張遼は四千騎をほとんど散らすことなくそのまま指揮下に置いていて、引き続き馬超の騎馬隊の足止めをしてくれている。馬超の騎馬隊の機動力は、追撃を受ける側にとって最大の脅威のひとつだった。
呂布と張遼が、それぞれに的を射た動きをしてくれていた。
張繍の役割は、殿軍。敵歩兵十数万の足止めであった。率いるのは、董卓の旗本の四百騎と、戦場からかき集めた二千ほどの騎兵達だ。
潰走状態から組み上げた撤退戦の形としては、望むべくもないものが出来上がっている。
張繍は、縦横に駆け回った。この戦場において最も機動力に優れた隊が張繍の従える董卓旗本の騎馬隊である。突出した敵軍をすかさず叩く。数度それを繰り返すと、敵軍は無理に足並みをそろえ始めた。敵歩兵の進軍速度が目に見えて落ちる。 それでも、両軍の距離は開いてはくれなかった。そこかしこで、小競り合いが続いている。
張繍は一度兵をまとめると、四百騎を横一列にして、それぞれに数騎ずつ兵を付けた。それで、ぶつかっては引いてを繰り返す。
前後の連携は無く、もろい陣形だ。しかも、敵陣を乱すだけだった先刻とは違い、進撃を止めるためにはまともにぶつかり合わなければならない。
「はぁっ!」
敵軍に踏みこみ、張繍は槍を横薙ぎに一閃した。樫材を鉄板で補強した槍は、具足の上から打ちつけるだけで容易に敵兵の命を奪っていく。二度、三度と振るうと、前面の敵兵の足が止まった。追撃を続けようとする後続との間で、揉み合いが起こる。
「退けっ!」
ぶつかる度、下がるのが遅れ、歩兵の波に取り込まれる者も出る。取り残された兵は、敵の槍に掛かっていく。初めは、練度に劣る二千騎から。次いで、失われた兵の分まで奮戦を余儀無くされた月旗本の四百騎から。
手塩にかけた兵達が一人また一人と欠けていく。それでも、十数万の追撃を一時に食い止めるにはそれしかなかった。そして犠牲の分だけ、効果も大きかった。連合軍は、ほとんど前に進めなくなっている。
ぶつかる。すでに何度繰り返したかも記憶にない。槍が、一斉に突き出された。連合軍の動きが変わってきていた。ただ追い縋るだけの進軍隊形とも言えぬ構えから、陣形を組み直し始めている。追撃を掛けることより、まずはこの騎馬隊を仕留めることを第一と考えた構えだ。
兵をまとめ、連合軍から距離をとった。兵は、目を背けたくなるほどに数を減らしている。二千騎は半数以上を失い八百ほどを残すばかりで、月旗本の騎馬隊も二百騎に足りない。
それでも、十五万を超す軍勢を相手取り、四百と二千騎で陣を厚くさせたのだ。 張繍は、天を仰いだ。中天には月。
―――見えているか。これが、董卓軍だ。これが、我らの力だ。
満腔に、気が満ち溢れていた。獣が吠えるような、声にならない雄叫びが張繍の喉からもれた。
「華琳。いいのか、こんなところまで出張ってきていて?」
追撃の指揮を取らなくて良いのかと、曹仁は華琳に問い掛けた。その傍らには蘭々と、もう一人見知らぬ少女の姿があった。
「もはや大勢は決したわ。今さら追撃戦でいくつ首を挙げたとか、攻城戦での陣取り争いなどに興味は無いわ」
事も無げに華琳は言ってのけた。だが、それは労せずして功を立てる絶好の機会でもある。曹仁は、曹操軍全体がすでに進軍を停止している事に初めて気付いた。
滞陣して春蘭の治療を待とうというのか。冷徹に見えて、激し過ぎるほどの情を抱えてもいるのが華琳だった。そして、時にその激しさを露とすることをためらわない。
「そうか。それは我らとしては好都合だ」
曹仁は董卓軍を我らと呼んだ。
「負傷した我が軍の将をここまで連れて来てくれたこと、礼を言うわ」
返す華琳は、曹操軍を我が軍と呼んだ。
「ああ。―――それでは」
「兄貴!」
再び呼び止められる。声の主は、張り詰めた表情で馬を寄せてくる。
「蘭々」
「もう負け戦は決まった様なものだろう? 何も敗残兵の中に戻っていくことは無いじゃないか! 俺たちと一緒にいれば良い」
どこにも行かせない、というように蘭々は曹仁の腕を取って堅く握りしめた。
「……お前、その口調。姉ちゃんに叱られないのか?」
「今はそんなことを話している場合じゃ―――」
「やめなさい、蘭々。あなたにだってわかっているのでしょう? 負けたからこそ、仁がいま私達の元に帰れるはずがないのだと」
「でも、華琳様」
「だいたい、ここで一人降伏を申し出るような将、我が軍に必要はないわ。こちらから願い下げというものよ」
斬って捨てるように華琳が言った。蘭々はまだに何か言いたそうに唇をまごつかせているが、掴んだ腕は離してくれた。
「礼は言わないぞ」
「行きなさい。もたもたしていると、その首、討ち取って我が手柄とするわよ」
「それは敵わないな。退散させてもらおう」
馬首を巡らした。蘭々が小さく声を漏らしたが、もう振り返りはしなかった。
戦場は洛陽へ向けて移動している。すでに曹操軍は取り残されたという恰好だ。
命ずるまでもなく、白鵠が駆け出した。
張繍を先頭としたひとまとまりになって、敵陣に突っ込んだ。狙うは、袁紹軍。
一度とまって対峙してしまった軍である。総大将が狙われたとなれば、それを放って追撃を再開できるわけもない。
敵陣は、面白いように崩れていく。
もうわずかで、袁紹の牙門旗。深く踏み込み過ぎている。だが、袁紹さえ討ち取れれば。そんな思いが鎌首をもたげる。
あるいは届くか、というところで堅いものにぶつかった。騎馬隊の進撃がとまる。
袁紹の本陣前を守る様な形で、劉旗がひるがえっている。本来の劉備軍。わずか一千の歩兵だが精鋭。先の決戦でも、本隊前の最後の一線を守るこの軍勢がために、ほんのひと押しの差で連合軍に軍配が上がったと言っても良い。
「道を開けろ!」
横合いから、歩兵をかき分け一騎進み出る者があった。
「我は袁公路が臣、兪渉! さぞや名のある御仁とお見受けいたした。一手、お相手願おうか!」
袁術軍の将。すでに袁紹軍以外の兵もかなり集まり始めているようだった。
正面には、槍の穂先をきれいに揃えた劉備軍。そしてその左右から溢れ出すように兵が殺到し始めている。整然と居並ぶ劉備軍と比べると、如何にも有象無象といった感じだが、その数は脅威だった。
「欲をかき過ぎたか」
後方に眼をやると、袁紹軍の兵が退路を断ちに掛かっていた。兵装に差はほとんどないはずだが、かき集めた兵は無視して旗本の精鋭だけを囲みに来ている。見事な采配は袁紹軍の将のものとも思えない。あるいは、あれがあの呂布と打ち合ったという関雲長の指揮下の軍勢か。
「貴様、名乗らぬか!」
兪渉と名乗った男が、苛立たしげに叫んだ。
「……名乗るべき名などない。来るなら早く来い」
静かに告げ、張繍は槍を構え直した。
「作法も知らぬ輩か!」
兪渉が馬を駆った。張繍は槍を静かに構えたまま動かない。男が戟を振りかぶった。張繍は、槍を振るう必要さえ感じなかった。槍先をわずかに傾け、馬を一歩前に進めただけだ。
馳せ違い、馬だけが駆け去っていく。遅れて、張繍の槍に突き上げられた兪渉の躰が地に落ちた。
戦場が、一瞬静まり返った。
静寂の中、動きを止めた敵陣が乱れるや、一騎踊り出た。
「時間稼ぎは十分だろう。退くぞ、照」
「てっきり戻って来ないものだと思っていたぞ、曹仁」
曹仁だった。かき集めの騎兵を指揮して、分断されかかっていた月の旗本との合流を果たしている。そのために押し広げた道が、すなわち退路でもある。
「すぐに戻ると言った」
「そうか、そうだったな。―――全軍反転! 洛陽に帰還する!」
あえて敵軍にも聞かせるように、大きく命令を飛ばした。
遮ろうとする軍には、力がなかった。劉備軍の動きはさすがに統制がとれているが、それも形ばかりと見える。敵全軍が、去るならば去ってくれという空気の中にあった。
敵軍を抜けた。これで洛陽に、月と詠の元に帰れる。そして、その先は―――
「―――っ」
張繍は背後を振り仰いだ。袁の牙門旗。その真上に浮かぶ月は、雲に翳っていた。
洛陽に向けてひた駆けながらも、照はじっと追撃してくる十五万を見据えていた。時は、十分過ぎるほどに稼いでいる。だが、照の瞳には決して晴れぬものがあった。曹仁も、つられたように後方に視線を送った。
一度は揃っていた足並みが、再び乱れ始めている。他の軍に先んじて洛陽の攻囲に取り掛かりたいという思いからか、相争う様な進軍だ。
「……月、詠」
照が、小さく囁いた。
直後、槍を掲げ、頭上で横に寝かせた。董卓の旗本の騎馬隊が、整然と足を止めた。
「照、何のつもりだ?」
曹仁と、生き残った寄せ集めの騎兵達も遅れて馬を止めた。
「曹仁。お前に、月と詠のことを託してもよいか?」
「何を言っている?」
「これより、我らは敵総大将の首を討つ」
「―――っ! 確かに敵に隙は多いが、この寡兵では無謀と言うものだ。お前が育て上げた騎馬隊は天下に並ぶものも無い精兵だが、過信が過ぎるのではないのか」
「無謀は承知の上だ。このまま洛陽に籠ったところで、ただやがて来る敗北を引き延ばすことにしかならん。袁紹の首、それがあれば勝ちの目も出ると言うものだ。陣形を組んでいない今ならば不可能ではない」
照が自嘲気味に口元を歪めた。それは笑みと呼ぶには弱々しく、微笑みと呼ぶには凄惨に過ぎる。
事ここに至っては、総大将を失ったところで連合軍が解散するとも思えなかった。それでも、連合軍から今の勝利の勢いと、まとまりを失わせることは出来る。加えて、袁家の声望と財力によって今なおかき集められている兵糧にも滞りが出るだろう。
確かに、ここで麗羽を討ち取っておけば、これから始まる籠城の意味は違ったものとなる。
「死ぬぞ」
「志は捨て切れん」
「俺にまで言葉を飾るな。あの二人のためだろうが」
「……ああ、そうだ。洛陽を追われれば、もう我らに行きつく先はない。天下を取る以外、二人が心安らかに生きる道はないのだ」
元々、涼州の豪族とは折り合いが悪かったという。ここにきて馬謄の嫡子馬超が反董卓連合に加わったことで、それは決定的なものになったと言っていいだろう。志敗れ逃げ帰る、というわけにもいかないのだ。
「……二人の安寧のために天下を取る、か。お前らしくて良いな。ならば、俺も付き合おう」
「無理をするな。お前一人が加わったところで何かが変わるというわけでもない。それに、ここはお前の戦場ではないだろう」
「そうだな。だが、一緒に死んでやる事ぐらいは出来るぞ」
暫時、見つめ合った。どちらからともなく、笑い出していた。
兵が、胡乱な眼で見つめてくる。それはそうだ。全身を血に染めた男二人が見つめ合って笑っているのだ。さぞや不気味な光景だろう。
「―――はっはっ、はっ。まったく、よせよ。友達でもあるまいし、気持ちが悪い」
「はははっ、すまん。妙なことを口走った」
この戦場にはどこまでも付き合うつもりだった。それでも死ぬ気だけは、毛頭なかった。なんとなく、口を衝いて出ただけだ。
ここで命を投げ打つ。そんな侠としての生き方に憬れた。それでも、皇甫嵩の安否は気に掛かるし、洛陽には高順も残したきりだ。春蘭との再戦の約束もある。
だから、死ねない。ここではまだ、死ねない。自分は、恵まれ過ぎているのだろう。そしてたぶん、死ぬことを恐れてもいる。
「まだ死ぬと決まったわけじゃないし、そこまで分の悪い賭けだとも思ってはいない。だがもしもの時は、月と詠のこと、頼めるか?」
総大将を討つ。それだけなら確かにまったくの無謀というわけではなかった。敵軍は横に広がって進軍中で、軍勢に厚みはない。まともに陣形も取れてはいないし、この期に及んで再び攻め寄せてくるとも思ってはいないだろう。この戦に勝つ、最後の好機であることは間違いない。
だが、総大将を討てたところでそこから無事に退けるとは考え難かった。
「……わかった。二人の事は託されよう」
引き止めたかった。董卓も賈駆もそれを望むだろう。だが、自分が何を言ったところで照が折れないことも、曹仁にはわかり過ぎるくらいにわかっていた。
「ああ、託したぞ。――――これよりさらなる死地に挑む。お前達、曹仁と共に洛陽に戻れ。皆の奮戦に感謝する」
敗走のなかで集められた兵達に、照が告げた。二千騎近くはいたという彼らも、すでに三百騎にも満たなかった。まさに殿としての役割を十二分に果たし、散っていったということだ。生き残った兵達は夢から覚めたような表情を浮かべている。
照が視線を転じる。四百騎いた無双の騎馬隊は、すでに百数十騎を残すのみだ。それでも常に照の傍らに控えていた旗持ちの兵は健在で、“董”旗はひとまとまりに固まった騎馬隊のなか、しっかりと中天を指している。照が口を開いた。
「これ以上董旗が地に塗れる姿を見たくは無い。お前も洛陽に戻れ。他の者も、去りたい者は去って良い。ここからは分の悪い賭けだ。無理に付き合うことは無い。生きて月に従うもまた忠義だ」
「……はっ」
一瞬の間を挟んで、旗持ちの兵は短く返した。戦闘中に指揮官に反駁することなど、許されてはいないのだろう。刹那の沈黙だけが、彼の心情を物語っていた。
他の者は、黙って照を見つめたまま、視線を逸らさない。去る者など、いるはずもなかった。
照の視線が、再び曹仁に向けられた。
「……行ってくれ。俺も、もう行く」
「じゃあな」
「ああ」
お互いそれ以上は何も言わず、背を向けた。特別なやりとりは無い。至極すっきりとした別れだった。それでいいと思えた。背後で、馬蹄の音。白鵠も駆け出した。三百と董旗が、それに続いた。
敵意を持って出会い、認め合い、共に戦場を駆けた。友、だったのだろうか。互いに友情を口にすることは無かったし、その機会はたぶん永遠に失われた。そんなものだ。思いつつも、それだけが僅かに心残りだった。
あの騎馬隊が、取って返してきた。
それだけで、麗羽の全身が怖気を振るった。すでに二度にわたって本隊間際まで迫られているのだ。兵も委縮している。
絶え間なく騎馬隊ぶつかって来て、少しずつ少しずつ麗羽のいる袁の牙門旗の元へと近付いてくる。
「いったい、いつまで続きますの!? 敵は少数のはずではありませんの!?」
騎馬隊の兵数そのものは僅かなのだ。それが、いつまでも途絶えることなくぶつかってくる。
「麗羽さま、あの騎馬隊の動きをご覧ください!」
斗詩―――顔良の言に、麗羽は正面だけに捉われていた視線を、初めて広く戦場に走らせた。
「な、なんですの、あの動きは!?」
戦場には歪な楕円が描かれていた。そして楕円の一端が、麗羽の本隊へ向けて伸びている。騎馬隊の突撃が途切れないはずである。一度ぶつかって退いた騎兵が取って返しては再び攻撃に参加しているのだ。
「麗羽様、ここはお下がりください。」
「連合軍二十万の総大将であるこの私に、百騎やそこらの少勢相手に下がれといいますの、斗詩さん? 何としてもお止なさい! ここで退くことは負けるも同じですわ!」
戦場に描かれる楕円は、少しずつだが小さくなっていた。確実に敵は数を減らしているのだ。
「……はい、わかりました!」
斗詩は、一瞬意外そうな顔を見せたが、すぐに覚悟を決めたという様に強い表情で頷いた。
総大将の意気込みが伝わったのか、兵もようやく委縮を解いて、本来の動きを取り戻しつつある。一騎、二騎と敵騎馬隊が脱落していく。楕円は、すでに最初の半分ほどの大きさだった。本隊に近付いた分だけ、ほとんどこちらの陣形の中を駆け回っているという形だ。退く時も、常にこちらの攻撃に曝されている。それでも、敵騎馬隊の勢いが止まらない。
顔の表情が見て取れるほどに敵兵が近い。麗羽は、思わず手綱を引いて反転しそうになるのを、ぐっと堪えた。
「―――――っ!」
何かが眼前を横に走った。喉の奥からもれそうになった悲鳴を、麗羽は何とか飲み込んだ。かわりに、安堵の吐息がこぼれる。
劉備軍の輜重車を使った防壁が、麗羽の本隊前に居並んでいた。
これならば袁紹の首に手が届く。そう思った直後だった。
空中に、身を投げ出されていた。腹に、鈍い痛みが走る。
突如現れた防壁に、まともに突っ込んでいた。馬は、防壁の内側から突き出された槍に掛かって、死んだ。退路を失ったも同じだ。防壁を避け得たのはわずかで、それも勢いを失ってしまっては敵の餌食にしかならないだろう。
だが、張繍が投げ出されたのは防壁の内、袁紹の本隊は眼の前だ。同じように馬を失いながらもまだ動ける兵が、幾人か集まってくる。十にも満たない数。それでも我が軍勢だ。
群がる敵兵の後ろ、遥か中天に月が見えた。まだ、雲に翳っている。
「無様なところは見せられないな」
小さく呟いた。
「これより死地に入る! 全軍我に続けっ!」
張繍は正面を見据え言った。袁の牙門旗。すぐ近くだ。まだ届くか。
「はぁっ!」
槍を振るった。体が軽かった。手にした槍も、持っているのを忘れるほどに、ほとんど重さが感じられない。それでも、槍にふれた敵兵の体は具足ごとひしゃげて、その命を散らしていく。躯を積み重ねていく。十回も槍を振るうと、たじろいだ敵兵は遠巻きにして槍を構えるだけになった。
「……ここで死ぬものと、思い定めた。さあ、来い!」
敵兵は、やはり委縮したように動かない。
「ええい、何をしているのです! 早く押し包んでしまいなさい!」
敵兵を叱咤する声。聞いた声だ。袁紹。
声に励まされるように、敵兵が動いた。だが、励まされたのは張繍の方であった。思っていたより、ずっと近くから声は聞こえていた。
正面の敵。具足ごと胸板を貫いた。ほとんど手元まで突き込んだ槍が、すでに肉の塊になっている敵兵の身体から抜けない。その間も、敵兵が詰め寄ってくる。
「くっ!」
敵兵の身体ごと、槍を投げ付けた。
腰の剣を鞘払った。切れ味鋭い無銘の名剣ではあるが、乱戦で使うには向かない。刃が薄く、具足に間違った角度で刃を立てればすぐに使いものにはならなくなるだろう。
槍、槍、槍の壁。張繍の手に長物が無くなったことで、にわかに勢い付いている。
潜り抜けて斬り上げた。薄い刃が、槍ごと数人分の腕を飛ばした。如何に身体を動かし、如何に剣を振るえばいいのか。それが、手に取る様に解かった。
袁旗。直ぐ近くだ。華美な刺繍の一つ一つまで見てとれる。遮るように、槍の壁。今度は低い。跳び上がって首だけ三つ飛ばした。着地の瞬間、身体の中の何か大事なものを、ごっそりと落とした様な気がした。
下衣が、真っ赤に染まっている。防壁にぶつかった、あの時か。自分がまだ動いている事が、不思議なほどの出血だ。
他の兵に押し出されるように、不用意に一人、張繍の間合いに踏みこんだ。正中線をきれいに抜いた正確な軌道と、適切な間合い。具足ごと両断された敵兵は、左右にその半身を倒した。
一度は勢い付いた敵兵が、また遠巻きに槍を向けてくるだけになった。気付けば、一人きりになっている。瀕死のただ一人を囲んで、敵兵は手を出せずにいる。
一歩、また一歩と足を前に進めた。遮る者もなかった。張繍を囲む敵兵も、共に動く。歩くたびに、何かが失われていく。
正面を見遣った。袁旗。遠い。先程までより、ずっと遠ざかっていた。
ふっと、張繍の身体から力が抜けた。たかだか百の騎兵を相手に、二十万の兵を擁する連合軍の総大将が本陣を後退させたのか。
「―――っ!」
意を決したような短い掛け声とともに、横合いから、槍が突き出された。身体を捻って避け様に、首を刎ねた。何かが、壊れた。
地に、膝をついていた。天を仰ぐ。
月が見えた。雲に翳っている。さっと、その雲を払う様に手を振った。二度、三度と払う。その身に、白刃が降り注いだ。
―――詠、共にあの月を支えよう。
雲が風に流れ、月が、真円を描きだした。