「長安まで退くわ。ただし、天子も連れてね」
長安遷都。それが賈駆の考え出した策だった。
敵主力が集中する北門を除く三門より出でて敵中を突破し、三隊それぞれが別の経路を通って函谷関を目指す。
函谷関がまだ董卓軍―――官軍側の支配下にあるのか、すでに敵の手に落ちたのか、情報はなかった。ただ敵軍の陣容を見るに、それほど多くの兵を割いたとは考えにくい。仮にすでに敵の手にあったとしても、守兵はほとんど置かれてはいないだろう。急襲し、速やかに突破、そのまま長安へとひた駆ける。
「…………」
明かされた計画に、諸将みなが一様に息を呑んだ。あの皇甫嵩ですら、驚きの表情を隠し切れてはいない。
それもそのはずで、異邦人である曹仁にとっては天子という質を手にしてのただの逃走に過ぎないが、この国に生まれ落ちた人間にとってことはそう単純な話ではないはずだった。後漢王朝二百年の都を捨て、天子をも董卓の復権のためのただの道具としか見ていない。悪名を馳せるだろうことにも、賈駆には一切の躊躇いがない。
「……今の長安に城郭としての機能は無い。如何に天然の要害とは言っても、兵無しに守り抜くこと敵わぬぞ」
いち早く衝撃から抜けたのは、やはり皇甫嵩であった。
かつて都が置かれた長安は、前漢末の動乱の中で荒廃を極めた。そして再び統一を果たした光武帝は長安の再建を放棄し、洛陽にて漢朝を開いたという歴史がある。今の長安はただの一地方都市に過ぎないのだった。
「二、三万は、月の名ですぐに集めることが出来るわ。まずは寡兵で戦線を維持して、後は雍涼二州より募るしかないわね」
「しかし、馬謄が敵方についているし、となれば恐らく韓遂も同心していよう。それで兵が集まるか?」
曹仁も戦場で幾度となく槍を交えた錦馬超の母馬謄と、その義兄弟の韓遂。共に涼州を牛耳る豪族である。
「長安遷都を喧伝すれば、必ず兵は集まるわ。雍涼二州、特に涼州は豪族を中心に徒党を組み、時に叛に加担すると中央から見なされてきたわ。それは、異民族の侵攻や中央との隔たりに、州人の方にも朝廷から見放されたという思いがあったからよ。長安に遷都すれば、涼州ともぐっと近づくわ。そして、朝廷を動かすのは涼州で力を集めた董仲穎。馬謄や韓遂だって、ボクが説き伏せてみせる」
同じ涼州人である皇甫嵩には得心のいくところがあったのか、詠の言葉に無言で頷き返した。
賈駆は、やはり謀略家としては非凡なものを持っている。地方の一勢力に過ぎなかった董卓をまたたく間に天下を統べる地位に押し上げ、今また常人では思いもつかない策を練り上げている。天下の傑物といっていいだろう。
そうした意味では照にも、同じ事が言えた。わずか数百で大戦の戦局を左右し得る騎馬隊など、古の名将といえども有してはいなかったであろう。あの騎馬隊を育て上げた手腕は、軍人として傑出したものといっていい。
「……」
軍議の内容に耳を傾けながらも、曹仁は一段高いところの席に腰掛ける董卓に目をやった。話し合いに参加するでもなく、泣き腫らした顔をうつむけている。
あの決戦、―――照の死から、まだ十日と経ってはいない。年相応の少女らしい反応と言えるかもしれない。今は軍師の顔をしている賈駆も、つい先日までは似たようなものだったのだ。
それでもと、曹仁はわずかに生じた苛立ちを拭い去ることが出来なかった。
不世出の軍人と希代の軍師に己が全てを捧げられた少女。しかし視線の先の董卓からは、天下を手中に収めんとする覇気も、この乱世を鎮めんという気概も感じられなかった。
「曹仁、お前はどうする?」
皇甫嵩の問い掛けに、曹仁は再び意識を軍議に集中させた。軍議はすでに隊の編成をどうするかという、詰めの段階にまで入っている。大筋の戦略は賈駆が立てても、実際の戦場での軍勢の運営となれば、自然と皇甫嵩が頼られるという恰好だ。
他の将にしたように命令という形を取らずにあえて聞いてきたのは、客将であり連合軍に知己も多い曹仁には、ここで降りるという道もあることを暗に示しているのか。
「あいつに託されているからな、俺は天子と董卓殿のいる隊に加わる」
「そうか。ではそうしてくれ」
皇甫嵩はわずかに安堵を覗かせた。曹仁がここで敵に降るはずはないと、皇甫嵩ならば分ってはいるはずだが、それだけ兵を率いる者の不足は深刻なのだ。
先の敗戦では、照だけでなく徐栄も命を失っている。潰走の中で少しでも戦線を支えようと、最後まで奮戦した末の討死だった。彼女の奮闘なくば、歩兵の退却はさらに凄惨なものとなっていたはずだ。
「……それで、将軍はどうするんだ?」
「洛陽に残る兵をまとめる者も必要であろう?」
未だ負傷の名残で土気色の顔をした皇甫嵩が、事も無げに言った。
「―――――――――!!!」
大地を揺るがすような大喚声が響いた。
「……まったく、茶番ね」
すでに弛緩した空気か漂い始めた戦陣で、華琳は物憂げに呟いた。
そもそも戦陣とは形ばかりのもので、連合諸侯の軍勢の誰ひとりとして、実際に洛陽へと弓矢を向けてはいないのだ。威嚇のために袁紹軍の兵が上げる喊声だけが、時折むなしく響いていた。
洛陽は漢朝の都であり、天子の御座す所であることに違いはない。いざ包囲こそしてはみたものの、手を出せずにいるというのが連合軍の現状であった。使者を遣って、総大将の麗羽を筆頭とした連合諸将の連名で上奏し開門を求めつつ、董卓にも降伏を迫ってはいるが、いまのところ城内からは何の反応も返っては来ていない。
「―――――――!!! ―――――!!!」
またも大喚声。やはり城門前に布陣する袁紹軍からだ。連合各軍が弛緩した空気にあるなか、袁紹軍だけは高い士気を維持し続けていた。それは、麗羽の人徳といっても良いのかもしれない。
この滞陣がまったくの無駄というわけではないのも確かだった。洛陽は四方を完全に包囲されている。都だけに食料の貯えは十分だろうが、それも無限というわけではない。騎馬隊の奮戦によって相当数の兵力が洛陽に収容されたことも、今は裏目に出た格好だ。
連合軍側の兵糧も底をつきかけていたが、洛陽を包囲したということは黄河の水上交通をも支配下に置いたということだ。袁家の二人が豊富な資金力を元に、半ば接収に近い形で食料をかき集めている。兵糧難もやがては解消されるだろう。
「大戦の終幕だというのに、空しいものね」
呟いた言葉に、返す者はいなかった。
戦況に動きがあったのは、翌日のことである。
「逃げたい者には逃げさせておけばいいのですわ。天子と都に平穏をもたらすことこそ私たちの為すべきことですわ。いたずらに乱を広げるものではありませんことよ、華琳さん」
「今この状況で軍の体裁を保ちつつ逃れ得たということは、そこに董卓がいた可能性が高いわ。此度の争乱の元凶を野放しにしておいて、なんの平穏か」
東西南の三門に配置された諸将の軍は突如出撃した敵に容易く突破されたうえ、開いた城門を確保することも出来なかったという。加えて、追撃すらもしてはいない。この場を離れては、入城して天子に拝謁賜わる機を失しかねないとでも思っているのか。
漢朝にすでに力無いと見限り、独自の力を溜めこみ始めていた諸将達も、実際に洛陽まで兵を進め、入城を間近とすると態度を一変させていた。それも四百年続いた王朝の底力と言って良いものかもしれない。
悠長に開かれた軍議でも、城門を押さえられなかった諸将の非は責めても、追撃の是非など問題にもしていない。
「董卓が如き小人、都と天子を失ってしまえば何程のものでもありませんわ。捨て置きなさい。あまり小事に拘っていては器が知れますわよ、華琳さん。それよりも、董卓が洛陽を捨てたとなればいよいよ開門は近いですわ。皆さん、入城について話し合いたいのではなくって?」
「……麗羽、わずか数百騎に本陣を落とされかけたと聞いたけれど、まさか臆しているのではないでしょうね?」
「な、なんですって!! 華琳さん、口が過ぎましてよ!」
麗羽がいきり立つ程に、華琳は冷めていく自分を感じた。
「……失礼するわ。戦う意思が無いというのなら、軍議などいくら開いたところで無意味でしょう」
言い捨て、幕舎を後にした。背後で麗羽が何事かを声高に叫んでいるが、気にも留めなかった。
「全軍、陣を払え! 我が軍は洛陽より逃れた敵軍に追撃を掛ける!」
曹操軍の本営に戻るや、華琳は言い放った。将兵が慌ただしく動き始める。
やはり、董卓はここで討ち取っておくべきだ。
確かに四代にわたって三公を輩出した漢朝きっての名門である袁家と比べれば、その地力は吹けば飛ぶようなものかもしれない。しかし、その微々たる力でもって一時とはいえ天下の主宰者になったという事実はゆるぎない。けっして予断を許せる相手ではないのだ。
陣払いを始めたのは曹操軍だけのようだった。軍議の席では、孫策などはすぐにも追撃に出て行きたそうな顔をしていたが、客将の身故に自前の兵糧はほとんど尽きたような状況にある。劉備は天子の身を慮って、その無事を確認するまでは兵を動かす気はなさそうだ。孫策と同じく兵糧に苦しめられてもいるだろう。
「華琳様、出陣の準備が整いました。包囲を抜いた敵軍は三隊。何れの隊を追撃しますか?」
軍議の間からずっと側に控えていた桂花が口を開いた。
脱出した兵の情報はほぼ正確に掴めている。
西門と東門から脱した二隊には騎兵中心の編成で、それぞれ真紅の呂騎と紺碧の張旗が翻っていたという。呂奉先と張文遠の率いる軍勢と見て良いだろう。残る南門の一隊の旗印は李と郭の二つ。歩兵中心で兵力も一番少なく一千程度、率いるは李傕と郭汜という涼州時代からの董卓軍の将であろう。
董卓は騎射を良くすると聞くから、騎兵中心の軍勢に紛れたと考えるべきか。あるいは子飼いの武将である李傕らを自らの護衛としているのか。
少勢はそれが本命であることを隠そうとする心算とも考えられるが、逆にそう思わせての捨て駒としての数とも考えられる。一千の集団の先頭を駆けて連合軍の陣形を断ち割ったのは、白馬を駆る将だったという報告もあった。
どちらにせよ、兵力的に後を追えるのはいずれか一隊だけだろう。
「―――決めたわ」
総大将の麗羽には許可を得ず、追撃に出ると使者に言わせただけだ。それでも何も言ってこないところを見ると、好きにしろということらしい。
「全軍、私に続きなさい! 狙うは敵首魁董卓の首のみ! 我らの本懐を忘れるな!」
倦んだ戦場の空気を吹き飛ばすように、華琳は声を張り上げた。
斥候が背後に迫る敵軍を捕捉したのは、函谷関まであと十数里を残すばかりという頃だった。
「曹仁。騎馬隊を貴方に預けるわ。……戦える?」
「ああ、もちろんだ」
この隊に含まれる騎馬隊はただ一組、董卓の旗本の精鋭百騎だけだ。あとは、天子の供回りの数騎だけである。旗本の騎馬隊を曹仁に預けるというのは信頼の証とも取れるし、逆に裏切りに対する保険とも取れる。
敵軍の旗印には“曹”。華琳の軍勢であった。
「……それじゃあ、ボク達は行くわ」
天子の輿は李傕ら歩兵部隊に守られて進み、賈駆と董卓は数騎の騎兵のみを伴って先行する手筈となっていた。うまくすれば恋や霞の軍と合流できるだろう。
視線をやると董卓は、斥候の報告も聞かず、曹仁と賈駆の会話にも加わらずに、少し離れたところで手綱を手にうつむいている。
「月は優しいから」
視線から何か感じたのか、賈駆はそう言い残して董卓の元へと馬を駆け出した。その口調は言い訳でもするようにも、曹仁を責めているようにも聞こえた。
「……“張”旗を掲げよ」
一刻としないうちに、敵兵の上げる砂塵がはっきりと視界に入ってきた。
曹仁の言葉に旗手は、弾かれたように動いた。百騎はいずれも洛陽で董卓の護衛に当たっていた兵達で、反董卓連合との戦いでは直接敵軍と干戈を交えてはいない。この旗持ちの兵だけが、常に照と共にあった。
旗竿に、董旗に代わって真新しい旗布が取り付けられる。白地に金縁の黒字で“張”。
「……張、繍。……照」
小さくささやいた。
今はただ、それを己が名として、この旗を己が印として、この騎馬隊を己が手足として戦おう。
正面。騎馬隊のみの五百騎余りが距離を置いて動きを止めていた。陽光を鈍く照り返す馬鎧をまとった重騎兵二百騎ほどだけが進み出た。二百だけで勝負をするつもりなのか、そのまま他の騎兵は残し、早足でこちらへと詰めてくる。
重騎兵に囲まれるようにして、わずかに軽騎兵が二、三十騎。その中心に華琳や蘭々、春蘭の姿が見える。
二百騎が少しずつ足を速めていく。陣形は小さくまとまった楔形。重騎兵突撃。およそ野戦においては最も高い攻撃力を有する戦法だ。ただ、機動力に勝る軽騎兵を相手に原野戦で用いるものではない。華琳が、そのような愚策を取るとも思われない。何か考えがあるはずだ。
百騎を、駆け出させた。さすがに白鵠の脚にもほとんど遅れずに付いてくる。見る間に重騎兵二百騎との距離が詰まる。正面からぶつかれば、兵種の違いと兵力の差は覆しようが無い。まずは様子見に横をすり抜けた。すり抜け様に、数騎槍で突き落とす。重騎兵は特に備えもない様子で、横合いからの攻撃に曝されている。
反転した。重騎兵は、やはり幾分動きが鈍い。あるいは並の騎馬隊が相手ならばそれで問題無いのかも知れない。しかし、この百騎は照が手塩にかけて育て上げた古今無双の騎馬隊だ。反転する際の、本来ほんの僅かな遅れが、致命的なものとなる。
並ぶものの無い騎馬隊だという認識は、ほんの一駆け率いただけで確信に変わっていた。百騎全てが足だけで馬を御していて、反転する時ですら手綱に手を伸ばしてはいない。それで、常に両手は槍に添えられている。騎馬隊同士の戦いで、負けるはずはないのだ。
駈け出した。距離が詰まる。重騎兵は、まだこちらを向き直ったばかりだった。華琳が何も非凡なところを見せなければ、これで終わりだ。
重騎兵が、いくつもの小隊に分かれて横に広がった。
―――拍子抜けだな。
それで、この騎馬隊を阻めるつもりなのか。ひとまとめに使ってこその重騎兵。小隊規模ならば、機動力を武器に各個撃破は難しい事ではない。
すり抜け、反転して追い散らす。照がそうしていたように、手振りだけで百騎にそれを伝えた。曹仁の慣れない手つきにも、百騎は弾かれたように散った。一見、ただばらばらに駆けているだけの形。しかし、指示が飛べば五騎にも十騎にも、それ以上にも即座にまとまることが可能な構えだ。
ぶつかる直前、五騎ずつにまとまっていた重騎兵がさらに一騎ずつに分かれた。それでも、すり抜ける隙間はいくらでもある。なにも問題は無かった。むしろ、連携の弱い一騎ずつならば、馳せ違い様にいくらでも撃ち落とすことが可能だ。
騎兵と騎兵の間。すり抜ける。槍を繰り出そうとした瞬間、視界の片すみに何かを捉えた。
「―――っ!!」
確認しようと視線を走らせた直後、視界が大きく揺れた。白鵠が跳んでいた。ほとんど敵騎兵の頭上を飛び越える様な、大きな跳躍。着地の衝撃と共に、何かがぶつかり合う音と馬の嘶き、兵の怒号が、曹仁の耳を襲った。
振り返る。あとには、ただの一騎の騎兵も続いては来なかった。
「月、平気?」
「うん。詠ちゃんこそ、辛くはない?」
頬を上気させながら月が返した。荒れた呼吸を悟られまいと、必死に押し殺していることが詠には解り過ぎるほどによく解る。
「ボクなら心配しないで。騎兵と一緒に動き回るのには、月よりも慣れているから」
馬が潰れかねない、そんなぎりぎりの速度で駆けていた。
洛陽から函谷関までは三百里ほども離れている。騎兵のみで三日、歩兵がいれば六日の行軍距離だが、天子の御親征となれば十日を切れれば良い方だろう。函谷関を抜けてから長安まではさらに六百里あるから、一ヶ月の行軍すら覚悟の上であった。
実際には進軍はここまで極めて順調で、通常の行軍速度をも上回る五日で駆け通している。それだけに、わずかに周囲への警戒が甘くなっていたことは否めなかった。
「曹仁さんは大丈夫かな?」
「大丈夫でしょ。皇甫嵩に鍛えられただけあって、あれで用兵はなかなかのものだし。たとえ “どこの”軍勢が相手であっても、そう簡単に後れを取るものではないわ」
「……うん、そうだよね」
不安げな表情は隠し切れていない。親しい者たちの死が、月をこれまで以上に弱気にしていた。
同じことは詠にも言える。一人残された自分が月を守らなければならない、という思いが辛うじて両の足を支え、軍師と言う立ち位置に詠を押し上げているのだった。
「ここで暗い顔をしていても仕方ないわ。心配なら少しでも急いで、函谷関に到りましょう。呂布や張遼がすでに到着していて、援軍を送れるかもしれないのだから」
「……うん」
函谷関は随分前から視界に収まっていた。旗が立てられているのも薄らとだが見える。ただ、そこに描かれた文字までは読み取ることが出来なかった。斥候を出す余裕はなかったし、この速度で駆けていてはあまり意味があるとも思えない。呂や張の字を求めて目を凝らしてみるが、視力に難のある詠が月や兵より先に見て取ることはないだろう。
「今はただ祈るばかりね」
詠の口から、覚えず軍師らしくもない言葉がもれた。
「輜重車のために作った物の流用、急ごしらえにしては良い出来でしょう?」
「……華琳」
先の決戦において、連合軍が鎖で連結させた輜重車を用いたことは聞き及んでいた。何故、気付かなかったのか。
後悔に苛まれる曹仁に、華琳がただ一騎進み寄る。
「連環馬、とでも名付けましょうか。元は、あなたが劉備の義勇軍に取り立てたという龐統の発案から来たものよ。まさか、卑怯だとは言わないでしょう?」
重騎兵の馬鎧が鉄鎖で繋ぎ合わされていた。騎馬隊は、そこにまともに突っ込んだのだ。
無双の騎兵達が、馬から投げ出され地面に身を伏している。衝突を免れた者も、重騎兵と鉄鎖に囲い込まれ身動きが取れずにいる。馬から降りればまだ戦えるだろうが、それでは兵力差を前に一刻と待たずに覆滅されるだけだ。そこはさすがに各々が部隊を率いてもおかしくは無いほどに高い判断力を持つ兵達を集めた騎馬隊だけあって、下手な抵抗はせずにじっと機をうかがっている。
「……まだやるつもり? あなたにすでに兵は無く、もはや勝敗は決しているのよ」
静かに槍を構え直した曹仁に、華琳が呆れたように言った。
「それでも、ここで俺が退くわけにもいかないんでな」
華琳を捕らえ質とする。それ以外にこの急場をしのぐ手は思いつかなかった。図らずも、彼女の方からこちらへ突出してくれている。
言葉を交わしながらも、曹仁はじりじりと華琳との間合いを詰めた。
華琳の手にした大鎌。昔から得物を選ばずその天才を遺憾無く発揮してきた華琳であるが、特にこうした癖の強い武器の扱いは得意としていた。時を掛ければ兵が集まって来る。数合の内に制さなければならない。
「そう。ならば私と剣を交える前に、先に果たすべき約定があったはずよね。―――春蘭!」
「はっ!」
華琳の後方、声のした方に視線を走らせた。
一騎が進み出る。春蘭。失われた左眼は、蝶を模した眼帯で隠されていた。
「今度こそ勝負を決するぞ、仁」
「……ああ」
好都合だった。無理に勝ちにいかない、そういう戦い方に徹すれば春蘭相手にも長く持ちこたえることが出来ることは、先の戦闘で実証済みである。元より殿軍の目的は足止め。兵を解放出来ずとも、ここに軍勢を留めることが出来ればそれで良いのだ。
「わたしが勝てば我らの元に戻る、それもいいな?」
「ああ、春姉が俺に勝てるならな」
「わたしがお前に負けるはずが無かろう!」
春蘭が馬を駆り立てた。出鼻をくじくように、曹仁は突きを見舞った。
一瞬、突き出した槍に軽い抵抗を感じた。直後、今度は槍が重さを失っていた。
白鵠が、大きく飛び退いて春蘭の大剣の間合いを外す。
「―――っ、そんな!?」
「どうした、そんなに驚いて? この程度のこと、このわたしならやって当然だろう」
突きにいった曹仁の槍が春蘭の大剣に断たれていた。斬ったのは柄の中ほど、木で出来た部分ではあるが、曹仁が絶対の自信を持つ繰り突きに合わせてである。それも、元々春蘭は曹仁に対して峰を向けて大剣を構えていた。咄嗟に剣を返した上で、槍を狙いにきたということだ。常軌を逸した技量としか言いようがない。
「前に戦った時はこんな芸当見せずに、存外苦戦していたじゃないか」
「華琳様の御前だ、前回のような無様は晒せん」
「なるほど、華琳が見ているからか。納得し難い理屈だが、春姉が言うと不思議と当然のことと思えるな」
「ふふん。さあ、どうする?」
「……仕方ないな」
小さく呟いて、ただの棒と成り果てた槍を投げ捨てた。
「ようやく負けを認める気になったか」
「まさか」
言って、曹仁は腰に差した小刀を抜き放った。
「そんなものでわたしの相手をするつもりか」
「長さも穂も失った槍で戦うよりは、いくらかましだろう?」
半ばほどより断たれた槍の間合いは、もはや春蘭の大剣と変わりない。同じ間合いで打ち合って、春蘭に勝てるとは思えなかった。
「見苦しいわよ、仁」
華琳が馬を寄せ、口を挟んだ。
「そんなことは俺が一番わかっているさ。それでもここで退くわけにはいかないんでな」
「これが、あなたにとってそこまでしなければならない程の戦なのか、それを考えた上で言っているのかしら?」
「ああ。他人の戦、そう思ってはいたが、託されたまま死なれちまったからな。ここが、この戦場が、俺のつまらない意地の張りどころだ」
「……ならば精々無様を晒すことね。春蘭、ここがこの子の戦場だというのなら、
遠慮はいらないわ。痛めつけてやりなさい」
冷えた声で言うと、華琳は馬首を返した。
春蘭が手にする大剣―――七星餓狼を相手取るには如何にも頼りない小刀を、曹仁は握り締めた。
*雍州について
雍州はこの当時涼州の一部であり、涼州から四郡が分割されて雍州が制定されるのは194年(群雄としての曹操と呂布が最初に戦った年)のことになります。その後も涼州の方が雍州に併合されたり、地名と地域が入れ替わったりと、非常に分り難い変更が繰り返されます。
当作品では分りやすさを優先して、三国志読者に一般的にイメージされているだろう、洛陽のある司州の西隣に雍州(州都は長安)、そのさらに西に涼州という形を採用させて頂いています。