「この屋敷に全員が揃うのは、随分と久しぶりだな」
曹仁の言葉に、皇甫嵩は無言で頷き返した。
洛陽に構えた皇甫嵩の屋敷、その大広間に住人全員が集っている。
奏上の返書待ちで動けない包囲軍をよそに、皇甫嵩達は久しぶりの帰宅を果たしていた。皇甫嵩を筆頭に、呂布、張遼、曹仁、おまけに陳宮と、今や董卓軍の主力と言っていい将が揃っている。
「まったくだよ」
高順が、拗ねたような調子で言った。
「留守の間、よく屋敷を守ってくれた、高順。もう少し荒れているものだと思っていたが、戦に出る前と何も変わっておらん」
「そっちのチビが良くて、何で俺が戦に出たら駄目だったのか。いまだに納得出来ないな」
「誰がチビですか!」
労いの言葉を掛けるも、やはり高順は不満気な様子だ。音々音の抗議もどこ吹く風と、恨めしげな視線を皇甫嵩へと向ける。
「その点に関しては、曹仁に文句を言ってくれ。あれをお前の教育係とした以上、許可なく戦場に連れ出すわけにもいかん」
「音々音は見た目はこんなでも一応戦場を経験してきているからな。―――っと、調練を見学しただけの順とは違うさ」
矛先を移した音々音をいつも通り軽くあしらいながら、曹仁が言った。顎先目掛けて蹴り上げにいった足首を掴まれ、音々音が宙吊りにされるのもいつも通りの光景だ。
「今日は白か」
「白? 何のことですか。――――!」
音々音がぱっと、下衣―――足の付け根ぎりぎりの丈しかない―――を押さえつける様にして身を竦めた。恨めしげに曹仁は睨む。
「今日は!? 今日はって言いましたね?」
「……それで順、お前はどうするか決めたか?」
一瞬、しまったという表情を浮かべた曹仁が、真面目な顔で話を進めた。拘束を振りほどいて器用に着地した音々音が罵声を浴びせるも、完全に無視している。
「ああ、恋さんに付いていくことにするよ、仁兄」
「……そうか」
曹仁は、高順に洛陽に残ってもらいたいと考えているようだった。
大義を掲げた連合軍が、漢朝の都洛陽の住民に危害を加えるとは思えない。対して、天子を連れての遷都となれば、長安はすぐにも戦場となるだろう。高順には戦とは関わりのないところで育ってほしいというのが、曹仁の一貫した願いだった。
「これで洛陽に残るのは将軍だけ、ということになるな」
皇甫嵩へと向き直って、曹仁が続けた。
「まあ、心配はしていない。敵総大将の麗羽さんには命一つの貸しがあるし、桃香さんや孫策殿が将軍を害そうとするとも思えない。こちらから事を荒立てない限り、危険はないだろう。それに、いざとなったら俺の名を出して曹操軍に頼ってくれても構わない。なんなら華琳宛てに書状の一つも書いておこうか? あんたならあいつにも気に入られる筈だ」
「お前の世話になるほど落ちぶれてはおらんわ」
心配していないと口にしつつも、まくし立てるように言いつのる曹仁を皇甫嵩は苦笑交じりに制した。
「そんなことより、早く飯の仕度をしてくれ。この屋敷に六人がそろうのは、これが最後となろう。腕によりをかけて頼む」
「……わかったよ」
呆れたように返し、曹仁は厨房へと続く戸口に足を向けた。
「仁兄、俺も手伝うよ」
「この変態! 逃げるなです!」
助力を買って出た高順が、罵声を浴びせながら音々音が、その後に続く。
「……ごはん」
「ウチも酒でももろうて来よ」
それぞれの欲望に導かれるように、恋と霞もふらふらと歩き出した。
「ふふっ、私も行くとするか」
五人の背を追って、皇甫嵩も足を踏み出した。
「―――皇甫嵩将軍」
「うん? ……ああ、なんだ?」
「準備が整ったようです」
兵の言葉に、皇甫嵩は熱に浮かされたような頭をいくつか振った。虎牢関で手傷を負って以来、朦朧とした波間に思考が漂うことがしばしあった。
「では、手筈通りに取り掛かれ」
四方の城門に向けて、兵が駆けて出していく。開門を命じる伝令だ。
城外に滞陣し続ける連合軍との間の緊張が高まっていた。返書も待たずに再度送り込まれた上奏書の内容も、最後通告に近いものとなっている。これ以上の引き延ばしは不可能だった。
兵には、すでに武器を捨て抵抗を止めるように伝えてあった。元々、董卓軍の主力が洛陽から脱したことで、一戦を交えるだけの士気は残されていない。
「お前達も、降るならば今だぞ」
皇甫嵩は、旗下の一千にも満たない兵に告げた。
兵一人一人に語りかけるように、同じことを繰り返し告げる。去る者はいない。
残る兵は、官軍と言っても涼州で異民族を相手にしていた頃から数々の戦を共にしてきた兵達である。ほとんど皇甫嵩の私兵と言っていい者達だった。
「では、もう少しだけ弟子達の手助けをしてやるとするか」
皇甫嵩は宮中深く兵を入れた。反董卓連合の欲しているものは、都と天子が第一で、文言はどうあれ董卓の首は二の次三の次であろう。適当な離宮の一角に立て篭もってそれらしい動きを見せてやれば、天子をそこに囲っていると思わせることも出来るだろう。
「やれやれ、この私が、一刻と持つとも思えぬ時間稼ぎに命を張ることになろうとわな」
弟子達に与えるわずか一刻のための命。敗軍の将なれば、それも妥当というものだろう。
「それでは、最後の戦を始めるぞ」
上段からの七星餓狼の一撃を、曹仁は蹄一つ分だけ下がって透かした。馬術、なにより馬の差は歴然としている。白鵠が後肢に蓄えた力を一気に爆発させて、小刀の間合いまで踏み込んだ。
突き込んだ小刀を、春蘭は上体の動きだけでかわした。
間合いを詰めてからも、白鵠の動きは止まらない。常に相手の馬の尻側に回り込む動きで、春蘭の連撃を妨げる。
「ふっっ!」
二つ、三つと小刀を繰り出す。馬上から、ほとんど身を乗り出すようにして春蘭が避ける。掠めもしないが、春蘭の反応の良さに馬が付いていけていない。
「―――っ!」
息が詰まった。白鵠が飛び退って距離を取る。
手綱を片手に大きく仰け反った体勢から、春蘭が右手一つで振るった大剣が曹仁の脇を打った。こうして打たれた回数は、すでに片手の指には収まりきらないほどとなっていた。
具足の上からの峰打ち。それも小刀の間合いに踏み込んでからの斬撃だから、大剣の根元近くで打たれただけだ。それでも春蘭という天性の武人の一振り一振りは、具足を貫いて身体の芯まで響いた。
絞り出すように強引に息を吐くと、鉄の匂いが鼻をついた。
「どうした、仁? 顔色が悪いぞ。……いい加減降る気にはならんのか?」
戦闘の高揚に昂った春蘭の口調が、言葉を継ぐほどに沈んでいく。うっすらと上気した顔も、不安げに歪んだ。
―――くそっ、無様だ。
峰打ちという情けを掛けられて、その上この身を案じられるとは。
春蘭の背後では蘭々も顔を曇らせている。その隣で華琳が、不快気に眉をひそめた。
「くっ、いくぞっ!」
「―――待ちなさい、仁!」
「っ!? ……俺と春姉の一騎討ちじゃなかったのか?」
華琳が馬を進めていた。有無を言わせぬ威に、曹仁は覚えず踏み出しかけた白鵠の脚をとめた。
「貴方ね、もうわかっているのでしょう? これ以上続けたところで勝ち目はないって。いや、勝ち目がないどころか、本当ならこの半刻ほどの内に、何度貴方の体は両断されたことか」
峰打ちでなければ、あるいは峰を向けていたところで春蘭が本気で振り抜けば、具足など何の意味も成さない。それは、最初に打たれた衝撃から身に染みてわかっていた。それでも、みっともなくも情けにすがって戦い続けてきたのだ。
「……もういいでしょう? 貴方は十分戦ったわ。董卓軍に対する義理は果たしたわよ」
一転、幼子でもあやす様に、いっそ優しげに華琳が言う。顔には、一緒に暮らしていた頃でさえ見たことのない、柔らかな表情が浮かんだ。
虚を突かれ何も言えずにいる曹仁に、華琳はさらに言葉を続ける。
「さあ、もう帰っていらっしゃい。いつまでも私達を困らせるんじゃないの」
両手を広げ、華琳が馬を寄せた。すでに春蘭と並び、曹仁と対峙する位置まで来ている。
「―――っく。……敵の間合いに、ずいぶんと不用意に踏み込んでくるじゃないか」
膝を屈しそうになる自分自身に突き立てるように、曹仁は短刀の切っ先を真っ直ぐ華琳に向けた。
「……あなたね、いい加減になさい。春蘭の情けにすがって、いつまでも」
「無様を晒せ、そう言ったのはお前だろう?」
「厚顔無恥にも、程というものがあるわ」
「承知の上だ」
視線が絡んだ。華琳の瞳から徐々に温もりが失せていくのを、曹仁ははっきりと感じた。
「春蘭、もういいわ、貴方は下がりなさい。貴方にはこれ以上仁は打てないでしょう」
「それでは、華琳様」
「―――どうあっても負けを認めぬというのなら、私が始末をつける」
春蘭の一瞬安堵に緩んだ表情が、驚愕で固まる。
華琳が、馬鞍にすえつけられた大鎌を手にした。曹仁に向けられた視線に、先刻までの親愛の情のようなものは微塵も感じられない。
まるで敵でも見る様な目だ。否、それで間違ってはいないのだ。曹仁は心中ひとりごちた。
「お待ちください、華琳様! 必ずやわたしが打ち負かし、華琳様の足下へ引きずり倒して御覧に入れますから」
「華琳様、それは駄目です! ほらっ、兄貴も意地を張ってないで、はやく華琳様に謝って!」
春蘭が華琳に追いすがり、後方で控えていた蘭々も馬を駆り立て曹仁との間に割って入った。
「春蘭、蘭々、下がりなさい! 」
「―――華琳様!」
「桂花? まさか貴方まで私を止めるつもり?」
「まさか。そんな男がどうなったところで私の知ったことではありません。そうではなく、あれを御覧下さい。何か来ます」
後方から駆け寄って来た見知らぬ少女が、一瞬だけ蔑むような目を曹仁に向けて言った。すぐに逸らした視線と共に彼女が指差すのは、曹仁の脇を抜けその遥か後方である。
地平線を、小さな砂塵が乱していた。
「しかし、負けたな」
皇甫嵩は、誰に聞かせるともなく呟いた。無聊から、覚えず口を衝いて出た言葉だった。
離宮にこもっての徹底抗戦である。兵の配置を決め、一度命令を下してしまえば、もう皇甫嵩にやれることはほとんどなかった。皇甫嵩自身は離宮の最奥の一室に陣取り、居もしない帝を囲うという形を作り上げている。後は、各人の奮戦あるのみだ。
することがなくなると、自然と戦に思考が流れるのは、もはや職業病と言っていい。
最初の敗戦。汜水関では、無謀な突出に挑もうという華雄と、彼女に従った兵達を御しきれなかったことが敗因だった。しかし皇甫嵩は、軍人としての自身の在り方に殉じようという華雄を止める気には到底なれなかったのだ。
虎牢関では、元々の官軍と董卓軍の不和が最悪の形で暴発していた。兵の心も掌握しきれず、それで官軍第一の将などとは笑えない話である。
最後の決戦。孫伯符に曹孟徳。若き二人の軍才。形振り構わぬ果敢な戦をする。今にして思えば、まともに取り合わず、いなして連合軍本陣の陥落を待つことも出来た。無謀無策で迫る異民族を相手に、幾度となくそうした戦を経験してきたのだ。だが、あの時は若い二人の戦に、老練な戦で返そうなどとは思考の片隅に浮かびもしなかった。それも含めて、つまりは完敗ということだ。
「……敗軍の将か」
皇甫嵩は、そっと右肩の包帯に触れた。
常に傷口を清潔に保つようにと、何度も言い残していったのは曹仁で、この包帯を巻いたのもその曹仁だった。五日前に出立を控えた曹仁が最後に包帯を変えてより、皇甫嵩は傷のことを忘れた。いや、曹仁に頼まれて、毎日決まった時刻にやってくる医人も、適当な理由をつけて追い返している。見て見ぬ振りをしたというのが正しいのだろう。
「―――! ―――! ―――!」
離宮内に敵の侵入を許したと報告があってから半刻ほども経ったろうか。兵の怒号が近付いていた。ここまで強硬に抗っては、助命も望めぬだろう。それも、天子を匿っていると謀ってのことなのだ。連合軍の恨みを買ってしかるべきだった。
自分が戦場で死ぬ。思いもしないことだった。しかし、不思議と今この時に至って、それを肯んじる自分がいた。不自由を残すかもしれない右肩の傷が気にならないのも、そのためかもしれない。
「戦場での死か。これではまるで―――」
張奐様のようだ、と続けようとして皇甫嵩ははっと気付いた。
死地におもむこうという華雄を見過ごし、賭けのような策を実行し、無策に正面からぶつかり合った。どこか自分は戦場での死、軍人としての死を肯定し、切望してしまってはいなかったか。
「あの時、すでにこの胸に楔が穿たれていたか」
喚声がすぐそこまで迫っていた。そこに、この戦の間にすっかり聞き慣れてしまった高笑いを、皇甫嵩の耳は捉えた。帝に一番乗りを主張したいのか、突出して必要以上に声を張り上げているようだ。
「あの日奴らから救った者に討たれるというのは、何の因果か」
室内に踏み込む兵を見ながら、皇甫嵩はひとりごちた。
「あなたが董卓? 伝え聞いた話とはずいぶんと印象が違うわね」
騎兵の扱いに長け、自身も騎射をよくする軍人。縦横に策を巡らす謀略家。
伝え聞いた話とは、だいたいがその様なものだろう。そんなものは、張繍の武功と賈駆の知謀が合わさって生まれた虚像に過ぎなかった。
「何のつもりだ、賈駆姉さん?」
すぐ隣まで馬を寄せてきた賈駆に、曹仁は小声でささやいた。意外な闖入者の姿に驚いているのは、曹仁も同じである。
「函谷関にはすでに曹旗が翻っていたわ」
「―――ああ」
曹仁は眼前の敵軍の中に、秋蘭―――夏侯淵の姿が見えないことに思い至った。
そうと考えてみれば、騎馬隊のみで追撃を掛けてきたにしては、追いつかれるのが遅すぎだった。途中、函谷関を抜けるというこちらの意図を察して軍を二つに分けたのだろう。一隊を秋蘭に任せ、函谷関の確保に向かわせたのだ。秋蘭の行軍が尋常でなく速いという話は、黄巾賊鎮圧の折よりよく聞こえていた。追いつかれたというよりも、こちらの方が罠に飛び込んだというのが実情に近かった。華琳率いる騎馬隊のみの本隊は、さぞや悠々とした行軍であったろう。
「しかし、だからといってここまで戻ってくることはないだろう、あんたらしくもない。恋達との合流を計るなり、他にやり様があったはずだ」
「……月は優しいから」
華琳と対峙する董卓を横目に、賈駆は諦めたように首を振った。
「またそれか。いったい何が言いた―――」
「―――家族同士で殺し合うなんて、いけません」
董卓が華琳へ向けて真っ直ぐに言ってのけた。華琳は毒気を抜かれた表情で呆然としている。
「……そういうことか」
曹仁は、初めて董卓という人間を知った気がした。
旗本の騎馬隊を率いて残ったから、死んだ幼馴染と曹仁を重ね合わせた。それもあるだろう。どうせ助かりはしないという、多少捨て鉢な思いもあるかもしれない。だが、本質はまったく別のところにある。
月は優しい。賈駆の言葉が、すとんと曹仁の胸の奥に落ちた。そう、優しいのだ、董卓は。
函谷関に曹旗が翻っていた。賈駆はそう言った。それは単に退路を閉ざされたということだけを示しているわけではなかったのだ。思えば、殿軍に残る曹仁と賈駆の話し合いから離れた様にしていたのもそのためだろう。追手が曹操軍だという事を伏せるために、賈駆があえて董卓を遠ざけたのだ。
「くっ、ふっ、あっははははっ!」
堪え切れない、というように華琳が笑声を上げた。
「それを董仲穎、魔王と恐れられるあなたが言うとはね」
なおもくつくつと笑いながら、いくぶん厳しい口調で華琳が続ける。
「殺し合うというなら、先の決戦でだって春蘭と仁は剣を交えているし、騎馬隊で駆け回っていた時にだってぶつかり合う可能性はいくらでもあったわ」
「……曹仁さんとの戦いで、夏侯惇さんが傷を負った話は聞いています。それは、私がどんなに謝っても償いきれるものではありません。同時に私の仲間も、たくさん命を落としました。兵は、それこそ数え切れないぐらいに。だから、もうこんな争いは終わりにしたいんです」
照の死に、ただ悲しみに耽っているだけだと思っていた。状況もわきまえずにいつまで沈んでいると、曹仁は苦々しく思ってすらいたのだ。そんな自分を、曹仁は恥じるしかなかった。
誰もが戦に追われ目の前の悲劇から目を逸らしていた。そんななか、この魔王と呼ばれた少女だけが、同胞の死を悼み、兵の死を嘆き、あまつさえ客将の身内というだけで敵将の負傷にまで心を砕いている。
「ふん、甘いわね。貴方が降りれば、確かにこの戦は終わるでしょう。それでも、乱世は終わらないわ。誰かが天下を定めない限りね。傷付き死んでいった者達がいるならば彼らを背負い、いち早くこの戦乱の世を終結に導く。乱世に一度立った以上、それぐらいの強さを持たなくてどうする」
「それは……」
華琳の言うことも決して間違いではない。いや、それこそが正しいのだ。董卓も、すぐには言葉を返せずにいる。彼女の語る倫理観は、あくまで太平の世でこそ通用するものだ。乱世を生き抜くだけの強さが、董卓には欠けている。それはきっと、賈駆と照が爪牙となって肩代わりしてきたものだった。今は牙は折れ、爪を残すのみだ。
「だけど、私は、曹仁さんと貴方達には戦って欲しくないんです。甘えた考えだと言われても、戦うべきではない、と思います」
董卓は、この一見儚げな少女は、やはりまっすぐ華琳を見つめて言った。
強くはない。それでも、この戦乱の世にあってなお治世における人の優しさを失わずにいる董卓を、誰が弱いだなどと断じ得ようか。乱世だからと、誰もが甘えと切り捨ててきた優しさが、この少女の中にはただ優しさのままにある。
「……あなた、賈文和と言ったかしら。董卓の軍師で間違いないわね?」
華琳がじっと董卓に注ぎ込んでいた視線を、曹仁に寄り添うようにして控える賈駆へと転じた。
「函谷関を封じられたと知って、ただ闇雲に逃げ回るよりは仁を庇う形で姿を現した方が助かる公算が大きいと、そこまで考えたのかしら」
「っ、それは」
「ふふん、それで正解よ。当然、関だけでなく周辺にも兵は配してあるわ。護衛もない貴方達に、逃げ切れるものではない」
色を失った賈駆の姿に、幾分満足気に華琳は続けた。
「そういう強かさは嫌いじゃないわ。今も、主君を案じながらも、いざとなれば仁を人質にとれる位置を動こうとしない」
華琳が、皮肉気に笑った。一見脅しつけているようでもあるが、本心からの言葉であることが、曹仁にはわかる。
賈駆は素直に恫喝ととったのか、顔を青くしながら、おずおずと口を開いた。
「……取り引きがしたいわ」
「取り引き? この状況下でまたずいぶんと強気なのね。まあ、聞くだけ聞きましょうか。言ってみなさい。この大戦の首謀者の首に見合うほどのものを提示出来るというのならね」
「天子」
「―――っ」
華琳が息を呑み、目を大きく見開いた。彼女のこんな表情は珍しい。
「……ただ涼州に逃げ帰るというのだけではなかったのね」
「ええ、そうよ」
華琳が、曹仁に目を向けた。視線が、あなたの考え出したことか、と問い掛けてくる。
曹仁は一度大きく首を横にふって、賈駆に顎をやった。
多岐にわたって傑出した才能を示す華琳だが、祖父は宮中に仕えた大宦官、母は三公にまで昇った官吏だ。漢人の発想からは易々と抜け出せるものではない。だからこそ、策の出所として異邦人である曹仁を疑ったのだろう。
「……すごい手を考えるものね。事がなれば、起死回生の一手とも成り得たわ」
とはいえ、やはりさすがと言うべきか、わずか数瞬で長安遷都という賈駆の狙いまでを華琳は見抜いたようだった。
「でも“それ”は、函谷関を封鎖して半包囲を形成した現状を慮れば、自ずと我が手中に転がり込んでくるものではないかしら? 交渉の道具としては弱いわね」
「私達―――董卓の身の安全が確保されない場合、天子といえどもただの人質として扱うよう部下には申し渡してある」
「我々が無理に迫れば天子とあっても害すると?」
「我が軍の将兵は、雅やかな都の空気に育った連中とはわけが違うわ。辺境の無法者達相手に天子の威光が通用するものか、……試してみる?」
賈駆は余裕有り気に笑おうとして、それは少し失敗していた。蒼白さを増す顔色からは、悲壮感すら漂っている。
「董卓、良い家臣を持ったものね」
「はい、詠ちゃんは、私なんかには勿体ない、すごい軍師です。―――ですから、きっと曹操さんのお役にも立てるはずです」
「月、何を言っているの?」
賈駆が眉をひそめた。華琳が、ちょっと意外そうな表情で口を開く。
「ただ甘いだけ、というわけでもないようね。―――これほどの大事となってしまった以上、大乱の責任を誰かが取らねば治まらないわ」
「はい。わかっています」
「貴方には、ここで死んでもらわなければならないわね」
「その代わり、天子様と引き換えに詠ちゃんの命は」
「わかっているわ」
華琳が大鎌―――絶を構えた。
すでに覚悟を決めていたのか、一瞬びくりとふるえただけで、董卓の身体からゆっくりと力が抜けていく。
華琳が絶を振りかぶった。
賈駆が、言葉にならない悲鳴を上げて、馬を駆り立てる。
絶が振り抜かれた。董卓の冠が、薄絹をたなびかせ地に落ちた。
「……貴方を殺して、それで賈駆が私に仕えるとは思えないわ」
「―――ああ」
華琳が苦笑交じりに言い、詠が感嘆の声をこぼす。
落ちたのは、冠だけだった。
「―――賈文和。その才覚を惜しみましょう。今後は我が元でその才を振るいなさい。
―――董仲穎。貴方に出来ぬというのなら、この私が乱世を速やかに終結させよう。いずれ来る太平の世まで、我が元で生きることを許しましょう」
華琳は高らかに宣言した。
洛陽編 終幕
「……それで? お前の元で生きるといって、ぜんたいどうするつもりなんだ? 董卓を助命するとなると、今度はお前が連合軍の目の敵とされかねないぞ」
道すがら、曹仁は口を開いた。
ひとまずは虎牢関の秋蘭と合流するため、進軍が開始されていた。武器を取り上げられただけで旗本の騎馬隊も解放され、馬の負傷が軽い者は共に移動している。
「もちろん正直に報告なんてしないわよ。さっきも言った通り、やはり董卓にはここで死んでもらわなくてわね」
「ちょっと、なによそれっ!」
「賈駆、少しは落ち着きなさい。まったく、董卓が絡むと思考が短絡的になるのね。……董卓、貴方にはここで名を捨ててもらうわ。相国董仲穎は洛陽を捨て再起を図るも、追撃に出た我が軍を前にあえなく果てた、そんな筋書きでどうかしら?」
「はい、曹操さんの考えに従います」
「ちょっと、月。そんな簡単に」
事もなげに言ってのけた董卓に、慌てたのはまたも賈駆の方だった。
祖先崇拝が信仰の根底にあるこの国では、名を捨てるというのは簡単なことではない。父祖の代から連綿と受け継がれてきた徳を放棄するに等しいのだ。
「親しい者は変わらず真名で呼ぶにしても、表向きの名はどうしましょうか」
董卓が賈駆をなだめ終えるのを待って、華琳が言った。
「それなら―――」
董卓と賈駆が同時に言い掛け、言いさした。代わりに、曹仁は口を開いた。
「ちょうど良いことに、名を残すことなく戦場に散った稀代の英傑の名にひとつ心当たりがある」
「へえ、言ってみなさい。董卓さえ気に入れば、採用しましょう」
「ああ、その名は―――」