三十万の人の群れが蠢動した。大地そのものが波打つような感覚に、曹仁は襲われた。陣形らしい陣形も組まず、ただただ歩を進めている。それが、いっそうその印象を強くしていた。
ついに青州黄巾軍による兗州侵攻が開始されていた。騎馬隊を率いた曹仁は、州境を超える先駆けの大軍勢と対峙した。
「行くぞ」
曹仁は自身を奮い立たせるように言うと、白鵠を進めた。
五千の騎馬隊は留め置き、手振りだけで照―――かつての張繍―――の育て上げた精鋭百騎を従えていく。全員が首に白い布を巻いていた。百騎に何か特別な目印をと考えた曹仁に、兵が自分達で調達してきたものだ。喪を意味する白布だろう。
白鵠を全力で駆けさせた。百騎は、それでもほとんど遅れずに付いてくる。芥子粒のようだった敵兵一人一人が、見る間に表情まで見てとれるほどに迫る。
三十万に、百騎で正面から突っ掛けた。間近で見る敵兵は満足に具足もまとってはいなかった。大地が、面白いように崩れていく。だがどこまでも続き、果てがないのが大地だった。曹仁は、手振りで反転を命じた。今度は曹仁が最後尾となって、敵陣を駆け抜ける。
敵軍の士気は驚くほどに高く、兵は剽悍だった。反面、軍としての錬度は低い。敵中を抜け出た騎馬隊を、陣形の乱れも意に介さず闘争心だけで数千が追いすがった。
黄色の大地から伸びた手。旗持ちの兵に合図を送ると、黒地に白抜きの“曹”旗が大きく左右に振られた。待機していた五千騎が二手に分かれ、伸びた腕の付け根を両側面から叩いた。散り散りになった敵兵が、大軍の中へと駆け戻っていく。二、三百は、騎馬隊に追い立てられ合流を諦め逃げ去っていった。
華琳からは、敵兵はいくら追い散らしても良いと言われていた。
三十万の大軍を前に、それがどれほどの意味があるのかはわからない。あまり敵を散らせば、それがどこかで一つの軍勢にまとまる恐れもあるが、騎馬隊後方では寡兵のうちにそれを掃討するための部隊もいくつか動いているようだった。加えて、軍勢が集まったところで、黄巾軍内にその兵を指揮出来るだけの者がいるとも思えなかった。信者でもない褚燕に兵を委ねているほどなのだ。曹仁は、ただ眼前の三十万だけに意識を集中させれば良かった。
敵兵は、足を踏み鳴らし怒声を上げている。一州の備蓄を食い荒らした飢えに飢えた軍勢である。闘争心ばかりが、先走っている。
「どう見ます、兄貴?」
馬を寄せて角が言った。
「騎馬隊で軽く崩すだけなら問題ない。が、あれを敗走させるとなると―――」
巨大な、動かしようのないもの。騎馬隊はその表層で遊んだに過ぎなかった。
五千を一千ずつの五つに分けた。じっとしていては押し潰されるだけだろう。とにかく、動き回ることだった。五隊が、それぞれに意思を持ったように三十万に向かった。
曹仁が調練にあたれた時間は十分とは言い難かったが、騎馬隊の指揮自体には何の問題も無かった。元々、この数ヶ月は詠が調練を行っていて、彼女と曹仁の用兵は根底を同じくするからだ。つまりは皇甫嵩流の調練であり、指揮である。
ぶつかっては退いてを、繰り返した。
敵は、無策に距離を詰めてくるだけだ。ただ、軽装ということもあるだろうが、敵歩兵はよく駆ける。次第に、敵軍と対している時間よりも距離を取るために引く時間の方が長くなっていく。
少しずつ下がり続けて、五里ほども後退しただろうか。ぶつかっていった一隊が、ほとんど敵を崩せぬままに押し返された。そのまま一千騎が追い立てられていく。曹仁は自ら率いる一千騎の軍頭をそちらへ向けた。追う軍勢は、揃いの、とはいかないまでも皆が具足を着込み、騎馬の姿も混じっている。
追撃を遮る様に騎馬隊を突入させた。敵軍は騎馬隊の鋭意を逸らすように、一瞬足をゆるめた。先頭を駆ける曹仁の槍先は空しく空を切り、やおら足を速めた敵軍に、横入りした騎馬隊は逆に横を突かれる格好となった。
馬足を上げて、一気に駆け抜ける。最後尾がわずかに敵軍と触れた。いくらか被害が出たようだが、それも数えるほどだ。
「ようやく出てきたか」
深追いを避け、三十万の中へ引いていく敵軍を曹仁は目で追った。数は一万ほどだろうか。明らかに他とは軍としての錬度が違う。何より、黄巾を巻いてはいなかった。あれが、黒山賊と呼ばれた飛燕の手勢であろう。
三十万を打ち払うには、指揮する者を叩くしかなかった。華琳にはまた別の考えがあるのかもしれないが、曹仁にはそれ以外に手はないと思えた。そして、それが可能なのは、騎馬隊を率いる曹仁をおいて他にいない。歩兵のぶつかり合いでは、これほどまでの数の差を覆すことは不可能だろう。
幸いにも、飛燕はこのまま前線に留まるつもりと見えた。三十万に没入して先陣こそ他の集団に譲るも、第二段といった位置に留まっている。
一度、五隊を集めた。犠牲はこれまで、ほとんど出してはいない。五隊全部でも十騎足らずだ。
二千騎をひとまとめにぶつけた。
曹仁はそれには加わらず、後方で敵陣の動きを見つめた。敵軍がわずかに押し返した。相手の勢いに乗せるように、二千を下がらせる。引く時は、一千騎の二隊に戻って左右に別れた。敵軍が追い縋る。
中央が開いた。残る三千騎でそこに突撃した。ほとんど突出するように、先頭を白鵠が駆けた。
黄巾の兵数人を蹄に掛けると、視界を染める黄色が晴れた。代わって無骨な具足の集団が、曹仁を迎え撃った。
正面。大刀を振りかぶった男を、それを振り下ろすよりも前に突き倒した。左右前方から、同時に槍。ひとまとめに巻き上げた。二人ともを、足を緩めずに白鵠が跳ね飛ばした。
耳元に、何かが風を切る音が迫った。その瞬間には、曹仁が促すまでも無く白鵠が回避運動に入っていた。
「分銅?」
鎖の付いた鉄の塊が、曹仁の眼前を過ぎった。
黒山賊の手にする得物は実に多岐にわたっていた。実用本位な長槍や使い古された湾刀を手にする者もいれば、虚仮脅しとしか思えないような大斧や、煌びやかな装飾を施した長剣を握る者までいる。その様は正しく山賊の姿である。
軍としての運用は困難を極めるだろうが、混戦となれば力を発揮しそうだ。こうして相対していても、実に遣り難い相手だった。とはいえ、軍としての錬度はこちらの騎馬隊が一枚上手である。寄せる賊徒を押し退けた。
中心の一団に褚燕―――今は飛燕と呼ぶべきか―――の姿をとらえた。百騎足らずの騎馬を侍らせている。
あれから一年以上の月日が流れている。幼さを残していた顔立ちも、今は精悍なものだった。幾分削げた頬と引き結んだ唇からは、悪擦れた印象を受ける。瞳も、以前あった純心さが失われたように、酷薄とも言える光を宿している。
不意に、曹仁の背筋に悪寒が走った。
「―――っ! 反転!!」
曹旗が振られ、鐘が鳴らされた。
後方で、二千騎を追い縋って抜けた黄巾兵の綻びを繕うように、左右から黒山の兵が殺到していた。それはそのまま、こちらの退路を断つ動きである。
「白騎兵っ!」
叫びながら、槍を大きく左右に振った。精鋭百騎が、左右に散る。胡蝶が如く舞い、敵軍をかき乱した。
黒地に白抜きの曹旗が遠ざかっていく。
意匠をこらした紫に黒文字の曹操の牙門旗とも、紺地に黒の曹洪の隊旗とも異なる、黒地に白の曹旗はこれまでに報告が無い。伝聞の通り、曹操軍の騎馬隊を率いているのは一門に帰還したばかりの曹仁で間違いがないことはすぐに知れた。
前線に出ると、騎馬隊の先頭を駆ける白馬の姿は嫌でも目に入った。そして今は、騎馬隊の最後尾を駆けて正にこちらの包囲から脱しようとしている。
「……曹子孝」
誰にともなく呟いた言葉に、周囲の兵が怪訝気に褚燕を見遣った。そこに、かつて義兄張牛角の元で共に戦った顔はない。
最初は五百ほどの賊徒の集団に過ぎなかった。大小様々な山賊の類を、一人生き延びた猪燕が自らの手で斬り従えた者たちだ。山中の砦に拠ることで、官軍の討伐を幾度かはねのけた。それで、周辺の賊徒が集まる様になった。いつからかその山の名をとって、黒山賊と呼ばれるようになっていた。わかりやすい名前ができると、さらに人は集まるようだった。食うに困った農民もいれば、かつて張牛角に引き合わされたことのある侠客達もいた。教祖を失った黄巾党の者が接触してきたのは、黒山賊が十万を超えた頃だった。
今は、雑軍とはいえ百万の兵力を有している。百万の中には女子供まで含んでいるが、彼らもまた失われた信仰と食う為ならば戦いも辞さないという覚悟を持った集団である。
「……逃げられたか」
騎馬隊が、最後尾の曹仁まで包囲を抜けた。
よく調練された騎馬隊を率いている。特に、白い布を巻いた一団は、信じ難いほどの力を持っている。こちらの陣形の中を、無人の野を行くが如く駆け回っていく様は、ほとんど我が目を疑うほどであった。
だが、所詮は寡兵である。何れは疲れ果て、動きは鈍る。その時が来れば、包囲殲滅することは容易いことだった。
黄巾に取り入り、腐敗した国家を覆す力を手にする。かつての張牛角の夢だった。力は手に入れた。だが、その夢は褚燕には遠く感じられた。そして今、手を伸ばせば届きそうな距離に、義兄と同胞の命を奪いし怨敵、曹子孝がいる。
後方にまとわりつく敵兵に、二千騎をぶつからせた。
追い散らされていくのは黄巾を巻いた兵ばかりで、包囲網をしかけていた黒山の賊徒の姿は含まれていない。またも深追いを避け、青州黄巾の人の群れの中へ埋没していた。
精鋭騎馬隊を討ち取る為ならば、黄巾の雑兵はいくら失われても構わない。精兵とは言い難い百万の兵力を抱えた頭領の戦い方としてはそれで正しいのだろう。ただ、それはかつて義賊を名乗った褚燕とはうまく結びつかなかった。
曹仁は胸に覚えた違和感はひとまず脇へ置き、三十万の敵軍へと目を向けた。
飛燕自身が率いる一万と、左右から迫った一万の二隊。総勢三万が黒山賊の精兵だろう。黒山賊自体は青州黄巾党と合流直前には十万ほどまで膨れ上がっていたというが、官軍を相手に盛んに戦を繰り返していたのは、総員五万に満たなかった頃の話だ。官軍からの勝利がさらに賊徒を集め、おいそれとは手を出せない勢力にまで成長させた。それからは、都での政変もあって討伐軍はほとんど派遣されていないはずだ。黒山賊の隆盛を支えた主力が、あの三万の兵達なのだろう。
三万はやはり第二段の位置にいて、三十万全体としては緩やかに前進を続け、こちらとの距離を詰めにかかっている。
「ひとまず、我らを当面の敵と見定めたようだな」
「いかがいたしますか?」
「同じことを繰り返す。ぶつかって、退く。時に黒山賊の本隊を狙う。そうして、飛燕を主戦場まで引き込む」
「黄巾の兵はどうします?」
角があえて確認するように言った。
「黒山賊だけで突出するつもりはないようだからな。ひとまず引き連れていくしかないだろう」
華琳が決戦の場と定めた地は、さらに兗州深く踏み込んだ位置にある。そこまで敵軍の“本隊”を引き込む。それが、騎馬隊に本来与えられた役割だろう、と曹仁は理解していた。それ以外の黄巾の賊徒に関しては、華琳の口から言及されることはなかった。というよりも、出撃に際して、華琳からの具体的な命令は皆無といって良かった。騎馬隊のみでの突出すら認めるような、含みのある言い方をされただけだ。
「今度は、二千と三千でぶつかる。角、三千騎を率いて、先にぶつかってくれ」
「はっ」
短く答えて、角が駆け去っていく。三千騎がすぐに動き出した。
角は、華琳旗本の精鋭重騎兵隊“虎豹騎”を率いる蘭々の補佐をするかたわら、詠の調練にも付き合っていたようで、騎兵の指揮はすでに熟練の域にある。
「……どうかしたか?」
首に白布を巻いた旗持ちの兵が、何か言いたげな視線を曹仁へ向けていた。
「いえ、白騎兵というのは何のことでしょうか?」
「ああ、そのことか。他の騎兵がお前達をそう呼んでいるのを耳にしてな」
「はあ、そうでしたか」
「照は、己が武功を月さんに捧げる為、あえて目立たないようにしていたようだが、今後はその必要もないだろう。呼び名はあっても悪くない。むしろ、あいつの分まで名を売ってやろうじゃないか」
「……そう、ですね。張繍様と賈駆様も、そう望まれるでしょうし、異論はありません」
「ああ。なんなら全員に白塗りの具足を新調するか」
「それは、―――さすがにご勘弁を」
半ば本気の提案であったが、旗持ちの兵は苦笑ながらに辞退した。
「騎馬隊だけで追い返すぐらいの意気込みで出ていったと思ったら、また随分と大量に引き連れてきたものね」
本陣の入り口まで自ら出迎えてくれた華琳が、皮肉気な笑みで言った。
騎馬隊が曹操軍の本陣に合流したときには、黄巾軍はさらに兵を増やしていた。
後詰の部隊が合流したというより、ただなんとなく人が集まって来る、そんな感じだ。大部隊での移動ではないから、遮るのは容易い。だが逆に完全に合流を防ぐのも不可能だった。三十万の軍勢は、今は五十万にも届こうとしていた。
「本隊だけを引きずり出すようには、言われなかったからな。問題があるか?」
「まさか。それならそれでやりようはあったけれど、逆に面倒が増えるぐらいだわ。想定通りの展開、よくやってくれたわね、仁」
華琳は特に強がりを言っている風でもなかった。ひねくれた笑みをおさめ、望んだ通りの働きをしてくれたと曹仁を称え、同時に、突き放し励ます様でもある。華琳の曖昧な命令には、この窮地にもかかわらず自分の力を試そうという意図があったことに曹仁は今さらながら気付いた。
大軍を引きつれて行こうと決めた時、華琳を試してやろうという気持ちが一瞬曹仁の胸によぎった。実際には試されていたのは最初からこちらの方で、そこで自分は華琳の想定以上でも以下でもなく、想定通りの力を見せたという事だ。
忸怩たる思いで、曹仁は視線を逸らした。
本陣は、小高い丘―――ほとんど山に近い―――の頂きに置かれていた。
周囲はほとんどが草地で、灌木がいくらか見られるだけだ。騎兵の進軍にも、遮るものはなかった。それだけに頂上からの見通しは良い。砂塵を上げて迫る大軍の姿が遠望できた。肌を刺すその獰猛な気配までも感じられるようだ。
兗州に入ってからここまで、青州黄巾軍が略奪出来るものは皆無であった。集落に住む民にも、城郭内への避難が言い渡されている。困難が予想された民の誘導にも、彼ら自身の協力的な態度もあってそれほどの時は掛からなかったようだ。青州で暴虐の限りを尽くした黄巾軍の恐怖は、民にこそ聞こえている。口に入るものは、草木はおろか犬猫、あまつさえ人さえ喰らい尽すとまで言われていた。
青州黄巾軍は曹仁の騎馬隊に強い執心を見せ、防備を固めた城郭に兵を割くことなく、全軍でもってこの決戦の地まで至った。口に入れたのは、それこそ原野に自生する草木程度のものだろう。それでも、騎馬隊と付かず離れず、三日で二百里近い距離を踏破している。飛燕という渾名は伊達ではない。大軍を率いてその行軍は尋常ではなかった。行軍隊形も取らずにただ走らせている。普通ならそれで足並みは乱れ、進軍は遅れるが、青州黄巾の軍勢は極度の飢えと狂信がそうさせるのか、競い合うように駆け続けていた。
対する曹操軍は被害こそ出してはいないが、城郭の守備に兵を当てている分、自由に動かせる兵員は多くなかった。五十万に対するは、曹仁率いる騎馬隊五千騎と、歩兵三万が残るばかりである。それは、華琳が州牧に就く前、一郡の太守であった頃の兵力と変わりなかった。
陣内には、兵糧が山と積まれている。現状の兵力であれば、一年以上も抗戦が可能な量だろう。一見すると、丘上に籠っての長期戦の備えと思える。どれほど軍勢が集まろうと、実際に前線に当たる兵は限られている。この丘ならば、精々が五、六万で、他の兵はただ遊ばせておくことになる。五十万の軍勢を相手にも、高所の強みと兵の錬度に依れば、拮抗した戦いは継続可能だろう。
しかし、結局は愚策だった。援軍のあてのない籠城ほど無意味なものもない。何より敵が抑えの兵だけを残して兗州内の攻略を始めた場合、文字通り手も足も出ない。華琳も、当然そのような愚は犯さないだろう。本陣をぐるりと囲む柵も申し訳程度で、長期間の滞陣を考えてのものとは思われない。
「そろそろ用意を始めましょうか。凪、真桜、沙和! 計画通り、出撃の準備を」
「はっ」
華琳の背後に控えていた三人が、短く答えた。騎馬隊とは別に軍勢を動かしていたのか、三人ともが具足は戦塵にまみれ、顔には幾ばくかの疲労の色が見て取れた。それでも、華琳の命に答えて動き出す姿ははつらつとしたものだった。
去り際に、真桜が目配せを寄こした。曹仁が小さく首を横に振ると、真桜は詰まらなそうに二人の後を追った。
真桜には、いくつかの武具の改良を頼んでいた。それは、ここまでの戦場では活躍の機会を持たなかった。
歩兵が動き始めた。五千ずつの三隊が、本陣の外に出て五十万の大軍に向かい合う。それぞれ、楽、李、于の文字が翻っている。
やはり野戦。しかし、たかが一万五千の兵力でどう戦うのか。
「華琳」
「……好きになさい。ただし―――」
楽進、李典、于禁の三名が率いる軍の進退への介入を禁ずる。華琳はそう条件をひとつ付けるだけで、意外なほど簡単に出撃の許可を出した。
曹仁は本陣前の丘上に騎馬隊を出した。逆落としの構えだ。
いまさら、五千騎の逆落としを警戒するでもないだろうが、敵軍は丘の麓に至る直前で足を止めた。五十万は、ただ止まるだけでも押し合いへし合いの混乱が生じている。特に、黒山賊の本隊が変わらず前面に出ている今の隊列では、後方の兵の反応が鈍い。後ろから押し遣られるように、前線も綻んだ。
明白な隙。楽進、李典、于禁の歩兵三隊が動き出した。敵陣との距離を詰めていく。
「お手並み拝見と行くか」
高所からの攻撃力を維持したまま、曹仁は状況を静観した。
二隊に先んじて、まず楽旗を掲げた五千が、五十万に向かった。曹仁の予想に反して、前線の綻びを突いての本隊急襲、とはならなかった。楽進隊はあえて本隊を避ける様に大きく横に回り込んで、五十万にぶつかった。五千は、すぐに人の群れの中に飲まれた。
「一体何をっ。無謀だ」
五千の動きは見事で、敵軍に包まれるとすぐさま円陣を組んでそれに対応している。黄巾軍の荒波の中で良く耐えてはいるが、それも時間の問題だった。五千の動きに、良籌が秘められているとは思えない。
「行くぞ」
曹仁は、逆落としの合図を出した。騎馬隊が一斉に丘を駆け降りる。正面の敵陣を深く抉った。
敵本隊。勢いそのままに、駆け抜ける。その誘惑をどうにか曹仁は振り払った。逆落としの勢いを加えたところで、騎馬隊だけで突き破れる相手ではないことは、先刻承知だった。直接の救援は華琳により禁じられているが、これでいくらか楽進隊に向かう圧力を削げたはずだ。黄巾の波が途切れる境、黒山賊の本隊の直前で軍を返した。
曹仁が敵陣を抜け出るのとほぼ同時に、楽進隊もまた五十万の包囲から逃れ出ていた。まとわるように一部の敵兵は引きずったままだ。一部といってもそれは五十万から見ての一部で、三、四万の兵力はある。楽進隊の十倍近い。曹仁が騎馬隊で牽制していたときよりも、明らかにその数は多かった。雑兵の暴走ではなく、楽進隊を殲滅しようという意思を持った用兵であろう。
それでも、横槍を入れてやれば振りほどけるはずだ。黒山賊の本隊は別にしても、曹操軍一万の強さは青州黄巾軍三万にも匹敵する。それが実際に戦った曹仁の贔屓目なしの印象だった。
楽進隊が、敵兵にまとわりつかれたまま、戦線を離脱していく。孤立すれば、それこそ押しつぶされるだけだ。
ようやく李典隊が、動いた。
「なんだ? 援護しないのか?」
曹仁の焦燥をよそに、李典隊は楽進隊へ向かうことなく、真っ直ぐ敵軍へと寄せていく。そこからの展開は楽進隊の焼き直しだった。李典隊はまともに五十万にぶつかり、敵兵を引き連れて離脱した。
続いて、于禁隊。やはり、同じことの繰り返しだった。
一万五千をむざむざと死地へと追いやっただけ。そうとしか思えなかった。
曹仁は五千騎を率い、再び丘を駆け上がった。それは三隊を救うための逆落としの準備でもあり、自ら華琳を問い質すためでもある。
「華琳っ、どういうつもりだ!?」
華琳は本陣最前まで床几を運ばせ、悠然と戦局を見据えていた。曹仁の分を越えた叱声に一瞬眉をひそめるも、すぐに余裕有り気な笑みを浮かべる。脇に控え、華琳以上の憤りを見せる荀彧を一瞥して押しとどめ、言った。
「戦況の変移を見逃すようでは良将とは言えないわよ、仁」
「何をっ」
振り返ると、ほんの一時目を離しただけの戦場が変化を遂げていた。
楽進隊がいつの間にか敵兵を振り切っている。しかし、曹仁が安堵の吐息を洩らす間も無く、死地を抜け出た楽進隊は再び青州黄巾軍の中へと飛び込んでいく。楽進隊に振り払われた黄巾軍は、何故か大軍の中に戻るでも、無防備にさらされている楽進隊の背後を衝くでもなく、ただ足を休ませていた。楽進隊が、再び数万の黄巾兵を引き連れて戦線を離脱した。
少し遅れて、李典隊と于禁隊でも同様の動きがあった。まとわる敵兵が足を止め、二隊は大軍へと向かう。睨むように戦況を見据えたところで、敵兵が何故矛をおさめるのか曹仁には理解出来なかった。
さらに、三度楽進隊が、李典隊が、于禁隊が。その都度、青州黄巾の大軍から数万単位で兵が減っていく。
最後には、楽進、李典、于禁の三隊は、自ら敵軍に当たることすらなくなっていた。青州黄巾の兵の方から引き寄せられ、戦意とはまた違った高揚に雄叫びをあげた。足を止めていた集団も、それに加わっていく。
「一体どういう状況だ。……それに、これは…………歌、か?」
兵達の怒号の中に混じる、かすかな歌声のようなものを曹仁の耳は聞き分けていた。
歌声は、しだいにはっきりと聞き取れるようになっていく。歌声それ自体が大きくなっているというわけではなく、兵の喚声がただの喧騒からそれを遮らないもの、もっと言えば合いの手でも入れるように変わっているのだ。
荒涼とした原野に、澄んだ歌声が響いていた。訳も分からず、曹仁はそれに耳を傾けた。