本陣のそこかしこから炊煙が立ち上っていた。
曹操軍への帰順を誓う者にはすぐに温かい糧食が供されている。それは、すでに青州黄巾兵の大半に上っていた。
過剰とも思えた兵糧の備えは、初めからこれを見越してのものであったらしい。降兵は本陣だけではとても受け入れきれず、今は丘の中腹にいくつかの集団に別れてかたまっていた。
楽進らと共に、降伏した青州黄巾兵の受け入れに奔走した曹仁は、さすがに疲労感を覚えずにはいられなかったが、本営へと白鵠を駆けさせた。
帰順した兵の囁きから、この戦のある程度の筋書きが曹仁の頭の中で組み上がりつつある。華琳に問い質したいことは、いくつもあった。
ちょうど華琳は幕舎の前に出て、見知らぬ少女三人と話し込んでいた。
騎乗のまま本営に乗り入れると、少女のうちの二人が短く息を飲んだ。視線が、曹仁の面上と白鵠の間を左右する。
「それで、一体これはどういう仕掛けなのですか、華琳様? いい加減明かしてくれても良いでしょう?」
下馬しながらの問いには答えず、華琳は三人の少女に対して言った。
「貴方達にも紹介しておくわ。この子が曹仁よ」
「ええ。よくよく存じ上げております。曹家の天の御遣い、曹子孝様ですね」
眼鏡をかけた、理知的な雰囲気の少女が進み出た。ただ、そんな少女自身の持つ印象とは異なり、色鮮やかで露出度の高い装束を身に纏っている。それは他の二人にも共通していて、揃いの舞台衣装か何かとも思えた。
「あら、面識があったのかしら?」
「面識も何も、ちぃ達、こいつに襲われて死ぬところだったんだから!」
三人の中では一番幼げに見える少女が声を張り上げ、曹仁に指を突き付けた。
身に覚えのない話だが、少女の怒りと、同時に瞳に宿る恐怖は本物と思えた。
「へえ、そんなことがあったのね。まあ、仁はあの頃は皇甫嵩将軍の元にいたから、確かにあり得ない話じゃないわね」
「えー、そんなことあったけ?」
一番年嵩の少女が間延びした声で言った。
「もうっ、天和姉さんったら忘れちゃったの? 男の方はともかく、このでっかい白馬を見て何も思い出さない?」
「うーん? ――――ああーっ!! 私たちの舞台を台無しにした人だ!」
曹仁の方でも、何となく想像が付き始めていた。
「彼女たちが張三兄弟、もとい三姉妹か?」
華琳に対してもあまりかしこまった風の見られない三人の様子から、曹仁も砕けた口調で問うた。
「ええ、そういうことよ。今後は三人と軍とのつながりも強まるわ。過去のことを水に流して仲良くしろとは言わないけど、公務に支障のない程度には見知っておきなさい」
「ああ、わかった。―――貴方が張角殿か? そういうわけで、よろしく頼む」
年長と見える少女に向き合って尋ねた。
「うん。よろしくー、曹仁さん。もう舞台の邪魔をしちゃダメだよー。華琳さんの身内みたいだから、特別に前回のことは許してあげる。割とかわいい顔してるし」
張角が曹仁の手を握った。
間延びした口調といい、屈託のない仕草といい、どこか大度を感じさせるものがあった。それは曹仁に桃香―――劉備を彷彿とさせた。
「で、貴方が張宝殿?」
「―――張宝はわたし!」
眼鏡をかけた少女に問うと、彼女が口を開くより先に、最年少と思えた少女が割って入った。
「えっ? ああ、そうなのか。失礼した」
「なんで、人和の方を姉だと思ったわけ? ちぃの方が背も高いし、断然大人の魅力があるじゃない!?」
人和と言うのは眼鏡の少女の真名だろうか。必然的に彼女が三女の張梁ということになる。
言われて見比べると、背はわずかに張梁よりも張宝の方が高いようでもある。ただ体付きや本人の持つ雰囲気などは、張梁の方がずっと大人びて見える
「それは、まあ、なんというか。全体の印象とでも言うか」
「むぅっ。ちぃ、やっぱりこいつ嫌い!」
ばっさりと言い捨てると、張宝は顔を逸らした。そういう態度まで子供っぽいのだが、さすがに曹仁は言い控えた。
「張梁です。よろしく」
「あ、ああ、よろしく」
張宝を持て余す曹仁に救援の手を差し伸ばしたのは張梁だった。文字どおりの意味でも、張梁は曹仁の手を取り軽く握り込んだ。張角といい、極めて自然な動きで握手を交わすのは職業柄であろうか。
「ちぃ姉さんのことはあまり気にしないで。兵のこととか、直接軍部とやり取りをするのは私になるから」
その態度はどこまでも事務的で、張宝とはまた別の意味で曹仁に対するわだかまりを感じさせなかった。
「俺には秘密と言っていた狙いの半分は、黄巾軍自体を取り込むことにあったわけだな、華琳?」
「そういうことよ。三人のことを喧伝すれば放っておいても向こうからやって来たでしょうが、今はまだ公言は避けたいのでね」
この三ヶ月間を常に前線で過ごして、ほとんど新兵を目にする機会がなかった曹仁は知らずにいたが、曹操軍が急激に兵力を伸ばした理由もこれであろう。曹仁がいた韓浩の部隊は、まさに青州との境の守備についていたから、意図的に情報が遮断されていた可能性もある。青州黄巾軍に張角達の生存が伝われば、もはや隠しおおせるはずもない。今度の戦で黄巾軍を兗州に引き込んだのも同じ理由で、自領であれば曲りなりにも情報統制が可能だからだろう。
「しかし急にこれほどの軍勢を抱えることとなって、食っていけるのか?」
「大半は土地を与え農民として扱う事になるでしょうね」
「なるほどな」
黄巾賊をあくまで民としてとらえる考え方は、曹仁にも共通したものだった。喰らい尽し浪費するだけとなった彼らを、再び大地を耕す生産者へと戻す。誰一人損をする者なく、自身は国力を増し強大な兵力をも手に入れる。如何にも華琳らしいやり口だった。
「三人には兵達の食事が終わり次第、舞台を演じてもらうわ。貴方はその間、残る敵軍への警戒に当たりなさい」
華琳の視線を追って、曹仁も丘の麓に目をやった。
そこには、以前として飛燕の黒山賊の本隊三万を中心に、帰順を拒んだ十万近い兵が陣を留めていた。本隊の三万以外の兵の中には、黄巾を巻いた兵もかなり含まれているようで、それが遠目には雑色と黄色の斑模様に見えた。張三姉妹への信仰―――実情を知った今はそれが的確な表現と言えるものか悩まされるところではあるが―――よりも飛燕の指示に従う事を選んだ者達である。五十万の漠とした大軍と相対するよりもよほど強い圧力を、曹仁はその軍勢から感じた。
丘の中腹には簡易舞台が設けられていて、斜面を用いた天然の客席では、信徒たちがひしめき合って三姉妹の登場を今か今かと待ち受けている。
曹仁は舞台とは反対側の斜面に騎馬隊を押し並べていた。黒山賊に正対する位置だ。
「この三人でこうして馬を並べるのも随分久しぶりだな」
曹仁が言うと、蘭々が不機嫌そうに眉をひそめた。
騎馬隊には、虎豹騎も合流していた。重騎兵二百騎は華琳直属の騎馬隊で、親衛隊と並んで彼女の手足とも言える部隊である。曹操軍中にあって白騎兵に次ぐ精鋭と言って良いだろう。縦横に駆け回る軽騎兵故に一人一人の判断力を高めた白騎兵とは異なり、集団での動きが徹底された軍勢だ。今も小さくまとまって居並ぶ様は、一つの巨大な鉄の塊を思わせる。蘭々は曹仁と別れて曹操軍に帰還して以来、この精鋭部隊の指揮官を務めていた。
「兄貴が俺を置いていくから」
「ははっ」
恨みがましい視線を向ける蘭々に、曹仁は覚えず笑みをこぼした。
「なんだよ?」
「いや、似たようなやり取りを洛陽でもした、と思ってな」
蘭々が訝しむように小首を傾げた。
恋、音々音、霞、順、そして皇甫嵩と過ごした、あの屋敷に曹仁は思いを馳せた。共に過ごした期間は一年にも満たないが、彼女達にも家族と思えるほどに情が移っている。
それぞれ別々の軍勢を率い別れて以来、杳として知れなかった恋らの行方であるが、三月経った今は天下の知るところとなっている。恋と霞の騎馬隊は合流して真紅の呂旗を掲げ、戦乱の中を彷徨いながら傭兵のようなことをしているという。恋の側には当然軍師として音々音もいるだろうし、高順の方はすでに呂布軍の若き将校として名前が聞かれるようになっていた。その軍のあり様は、義勇軍として天下を巡る劉備軍とも似ているが、戦はずっと苛烈なものだという。
呂布軍にしろ、劉備軍にしろ、いつかは曹操軍とぶつかることもあるかもしれない。それは曹仁にとってあまり想像したくない未来の図だった。
洛陽に残った皇甫嵩だけは今も行方知れずで、城を枕と討ち死にしたとも言われている。それは皇甫嵩らしいとも思えたし、どこかで何食わぬ顔をして生きているようにも曹仁には思えた。
「はじまったか」
背後から、青州黄巾の兵達が張三姉妹の真名を唱和するのが聞こえた。三人の舞台が幕を開けたようだ。
三姉妹の口上、そして歌声が遠く聞こえた。
「あーあ、俺も見たかったなぁ」
蘭々が詰まらなそうにぼやいた。
「何だ、お前も三姉妹の信者なのか、蘭々?」
「信者ってほどじゃないけど。兄貴は見たことないから知らないだろうけど、あの三人の舞台はすごいんだぜ。―――って、兄貴だって、それ」
「ん? ああ、俺のいた世界の歌に似ているものだから、ついな」
歌声に、曹仁は無意識に肩を揺すって拍子を刻んでいた。
この世界で“うた”といえば“詩”のことであり、音楽といえば笛や琴の音色を言うのが普通である。音曲に合わせての詩吟も無くはないが、高尚に過ぎて曹仁からすれば退屈極まるものである。まだ農村での祭囃子や、酔漢が調子っぱずれに管を巻く様を見聞きする方がましというものだった。
そこへいくと、張三姉妹の歌は曹仁のいた世界の大衆音楽に近い、というよりもほとんどそのままと言えた。
「しかし、確かにこれはすごい人気だな」
信者の熱狂はほとんど異常と言って良いほどだった。単純に楽曲の目新しさや歌唱力の高さもあるが、それ以上に張三姉妹―――特に張角の歌声や語り口には人を惹き付ける一種独特の魅力があった。
先に会話した際に、曹仁は張角の中に桃香と似通ったものを感じた。ただ、桃香には絶えず付きまとっている頑なさとでも言うべきものが張角にはない。それは桃香の精神の高潔さであり、志から来るものであろう。それこそが彼女の魅力でもあるが、誰しもがそのように気高く生きられるものではない。桃香と対面した時、ほとんどの人は心のうちに幾ばくかの負い目を感じずにはいられないだろう。
そこへいくと、張三姉妹へ向けられる信者の思いは単純明快だった。志を持たず語らず求めず、ただ欲望も苦しみも受け止め受け入れる正に偶像。信者達の狂信の根幹には、腐敗した国に対する不満や、明日をも知れぬ貧困に対する恐怖もあるだろう。だが、信者達の示す高揚には一切の陰りがない。態の良い逃避とも言えたが、国や天下と一人向き合える桃香の様な人間が特別なのであり、大き過ぎる問題からは目を反らしたくて当然なのだ。張三姉妹がここまで絶大な人気を得るに至った理由が、曹仁にも分からないではなかった。
ただ、それだけにそんな張三姉妹への信心も、飢えた目の前で焚き出される食糧への誘惑も振り切って、飛燕の指揮に従うことを選んだ眼下の集団の異質さは際立つものがある。
「―――――!!! ――――――――!!!!!」
背後から聞こえる喧騒は最高潮を迎えつつあった。終幕が近いようだ。舞台は、黄巾兵の心を完全に一つにまとめ上げていた。
最後に、三姉妹の口から再び曹操軍への帰順と忠誠が呼び掛けられる。兵達は、熱狂の中でそれを受け入れていく。
残る十万の敵軍が、その日動くことは無かった。
十万が静かに動き出したのは、翌早朝のことである。五万余りの黄巾の兵を前面に押し出して、丘上の本陣目指してじりじりと寄せてくる。
曹操軍本陣の兵は、変わらず歩兵三万に騎兵の五千だけだった。大量に得た降兵も、華琳は実働にたえないとして、昨夜のうちに本陣からは離れて滞陣させている。張三姉妹と共に楽進ら三人が若干の兵を率いて、それをまとめ上げていた。教祖を中心とすることで彼らは強力な死兵とも成り得るが、それは華琳の望む軍の形ではないのだろう。飛燕も降兵の投入は無いと読んだのか、軍の進退からはこの戦場で最大の兵力を有する集団を気にとめた様子は認められない。
曹操軍は本陣の丘の頂きに歩兵、その前面に騎馬隊という構えだった。変わらず騎馬隊の指揮は曹仁に委ねられている。
黄巾の五万はこれまでと変わらずひとかたまりにまとまって前進するだけだが、黒山賊は三段に構えていた。第一、第二段が一万ずつで、第三段に三万。五十万の本隊を為していた精鋭三万がそのまま第三段を形成しているのか、第一、第二段にも振り分けられているのかは、さすがに見るだけでは判然としない。
軍を割くことは各個撃破の危険をはらむ兵法上の禁忌とされることも多いが、彼我の兵力差と、錬度も性質も異なる兵の混成軍である賊軍の実態を思えば悪い手ではなかった。二手に別れたところで、それぞれがこちらの総兵力よりも数の上で勝るのだ。こちらの動きを見定めてから救援の手を差し伸べても、十分に間に合うという計算だろう。
飛燕の狙いは、黄巾の兵を歩兵の抑えに回し、まずは黒山賊の本隊を狙ってくるであろう騎馬隊と対する、というものだろうか。実際、飛燕自身がいるだろう第三段に三万というのは、五千の騎馬隊を率いる身にはちょうど冒険してみたくなる数といえる。ただ、黒山賊の精兵の割り振りが分からぬうちは、やはり賭けの要素が強かった。
伝令が走り、本陣へ来るようにという華琳の命令を、曹仁に伝えた。
本陣といってもすでに形式上のもので、すでに陣は払われ総員が戦闘態勢に入っている。
「仁、あの五万の中央を騎馬隊で両断できるわね?」
一人床几に腰を下ろす華琳が、黄巾の集団を指して確認するように言った。敵兵の錬度はもちろん、曹仁の用兵の力量まで測り切っているのだろう。
「黄巾の五万だけならば」
敵軍の強さは、曹仁も十二分に把握していた。飛燕の指揮下に残った黄巾の兵達は、他より幾分か動きは良いが、抜くだけならば問題ない。
「ならば命じる。曹子孝、ただちに騎馬隊を率い敵先陣を両断しなさい。その後は分割された一方の相手を」
「はっ」
短く返して曹仁は騎馬隊の元へと白鵠を走らせた。黄巾兵は、すでに丘の中腹まで上り詰めている。
曹仁は一度敵から目を離し、騎馬隊に向き直った。全員の視線を集めるように、槍を中空で二度三度大きく回す。
「―――突撃!!」
号令。高く掲げていた槍を敵軍に突き付け、白鵠が駆け出すのと同時だった。
「――――――!! ――――――!!!」
鬨。坂上から押し寄せる騎馬の集団が上げる大喚声は、それだけで敵軍の気を呑むに十分だった。
「白騎兵!」
五千騎に埋没させていた白騎兵を前に出した。敵軍には突如地から湧いて出たように感じられたはずだ。白騎兵は喚声はおろか、しわぶき一つ上げてはいない。
細く長い縦列に展開した白騎兵は敵陣のほころびを突いて、ぶつかるでもなく静かに敵陣へと没入した。進路を塞ぐ最小限の敵以外は相手にもしていない。
騎兵でかたどった楔の頂点を駆ける曹仁がそこに続いた。白騎兵の入れた切れ込みに、五千騎の楔を打ち込んでいく。
敵陣を抜け出た。正面、丘の麓近くでは、黒山賊の五万が未だ様子見の構えにある。意に介さず反転した。
五千騎が駆け抜けた道は、きれいに五万の敵軍を二つに分断している。そのうちの一方へとぶつかっていく。賊軍の歩兵二万五千に対して精鋭騎兵五千だが、今度は逆落としの勢いは無い。背後からの攻撃ではあるが、長柄武器を揃えるわけでも楯を並べるわけでもない黄巾兵は、その点柔軟であった。兵が各々で向き直って速やかに対応する。騎馬隊だけでは押しきれず、小さく引いては寄せてを繰り返した。
丘の頂きから喚声。曹字の牙門旗と共に、曹操軍の歩兵が動いた。
各個撃破。騎馬隊との挟撃による二万五千の殲滅を曹仁は予想した。ただ、一つの戦線に固着し過ぎれば、黒山賊の五万と残る黄巾二万五千に挟撃を受けるのはこちらである。
曹仁の予想に反して、歩兵が突撃を仕掛けたのは騎兵と交戦中の集団ではなく、もう一方の二万五千だった。
歩兵に先んじて、精鋭重騎兵の虎豹騎が頭一つ抜き出た。巨大な鉄の塊のような虎豹騎の突撃に、二万五千が大きく乱れた。
二万五千と三万のぶつかり合いは、逆落としの勢いも加えた三万の一方的な勝利に終わった。最初の虎豹騎の突撃で、すでに勝敗は決していたと言っても良い。寸時も持たずに崩された二万五千は、後方に控えた黒山賊の第一段へとなだれ込んでいく。華琳の率いる三万がそれに追撃を掛ける。
「追え追え―――っ! 総員、突撃ぃ――――っっ!!」
歩兵の先頭で、まだまだ戦い足りないとばかりに、春蘭が吠えた。黄巾兵二万五千は完全に潰走の態である。
算を乱して押し寄せる黄巾兵に、黒山賊の陣形も乱れた。敗走する敵軍は、曹操軍の先駆けのようなものだった。今度は、勢いのついた五万五千と黒山賊の五万とのぶつかり合いである。
黒山賊の第一段、第二段までは黄巾の兵に巻き込まれ半壊した。曹操軍三万が無傷のまま混乱を抜け出て、黒山賊第三段とぶつかりあった。三段の三万はやはり黒山賊精鋭の三万であったようで、曹操軍がいくらか押したところで拮抗した。幾度となく官軍を破ってきたという黒山賊の本隊は、さすがに粘り強く耐えている。
そこでようやく、曹仁は歩兵二万五千を丘から追い落とした。それに合わせる様に、曹操軍の歩兵が退いた。
丘の頂きへと再び駆けのぼる歩兵を援護するように、曹仁は騎馬隊を前面に回したが、黒山賊の兵に追撃を掛けるほどの余裕はないようだった。
戦線は再び、丘の上下に別れた膠着状態での対峙となった。
敵軍はこちらの攻勢に良く耐えていた。十万は依然として大軍の威容を保ったまま、今度はひとかたまりになって静かに陣を構えている。
「褚燕の奴、なかなか見事なものだな」
兵力に勝る飛燕の善戦を思わず称賛したくなるほどに、華琳の用兵は冴え渡っていた。
華琳は、万を越える軍勢を率いての戦はこれが初めてのはずである。曹仁は数十から数千人規模での野戦経験でいえば華琳以上のものがあるし、皇甫嵩のもとでは万単位での調練も積んでいる。反董卓連合での戦では奇策の前に一敗地にまみれたが、用兵という点だけを比べれば華琳にも引けを取らないという思いが、これまでの曹仁にはあった。その自信が、脆くも崩れ去っていた。
虎豹騎が、騎馬隊に並ぶように前面へ進み出た。蘭々に任せるでなく、華琳自らが率いる姿を認め、曹仁は白鵠の足をそちらへ向けた。
「騎馬隊が加われば、あのまま第三段まで崩せる、とも思えたが」
「騎兵が別にもう五千あれば、完膚ないという勝ち方も出来たでしょうが、黄巾の兵が立て直してくれば、こちらの犠牲も少なくはない。三万は三万でしかなく、五千騎は五千騎でしかない。敵は十万の大軍であることを忘れてはならないわ。将たるものは常に兵の犠牲を少なくすることを念頭に置かねばならない。同時に、それに心を砕き過ぎてもいけない。戦場では、犠牲を恐れずに突き進むことが、結果として最も犠牲を少なくすることも多々ある。そこは、相手次第よ」
華琳が、敵軍に指を向けた。
「十万の兵力は健在で、陣形もまずは見事。ただ、先刻まであった逸るほどの鋭気は失われているわ。飛燕は上手く兵をまとめてはいるようだけど、元より、張角の出現と味方の降伏に揺れている兵達だったのよ。一度鋭気を逸らしたところに、間を与えてやる。それで戦意は萎えるわ。黄巾の五万は、次は騎馬隊の一当てで崩れるでしょう」
華琳は詳らかに教え諭すような話し方をした。もしかすると本当に、曹仁に戦場での呼吸とでも言うべきものを伝えようとしているのかもしれなかった。
珍しいものでも見る思いで、曹仁は華琳の顔を見つめた。視線に気付くと、華琳は喋り過ぎたとでもいうように、一つ咳払いをして頭を振った。
「それにもう一つ、この戦の目的はあくまで民を、そして兵を得ることにある。張角の与える一時の熱狂よりも、軍規の順守を選んだあの集団をこそ、我が軍は兵として求めている」
華琳が手をかざす戦場へと、曹仁は目を戻した。
図った様な間で、敵陣から一騎が進み出た。
両手にそれぞれ旗。左手には黄色地に黒字で中黄太乙と大書された黄巾軍の旗、右手には黒無地の黒山賊の旗だった。降伏の意でも伝える様に、どちらも地面すれすれまで寝かされて、馬の疾駆に合わせてたなびいている。
「あれは」
薄汚れた具足に、元の毛の色が判然としないほどに戦塵にまみれた馬。瞳には、遠く離れていても分かるぐらいに強い光を湛えている。
「……褚燕」
「―――曹子孝!!」
曹仁の呟きに返す様に、戦場に大音声が響いた。
「―――曹子孝!!」
もう一度、飛燕は腹の底から声を出した。
負けていた。戦には、もう勝ち目など残されてはいなかった。浮足立った兵達の様子を見るに、飛燕はそう思わざるを得なかった。
落胆は思いのほか小さかった。小競り合いを繰り返してきた騎馬隊の錬度を思うに、この結果は最初からある程度予想していたことでもある。なにより、心に期することは一つだけで、それは戦の勝敗とはまた別のところにあった。第三段を三万の精鋭で固め、騎馬隊を誘ったのもその目的のためだ。
丘上の敵陣。騎馬隊の中にあっても、馬体の大きな白馬と言うのはやはり一騎だけ目に付く。
動かない。隣りの騎馬と、何やら言葉を交わしているようでもあった。相手も見事な馬にまたがっている。黄巾の歩兵を打ち砕いた重騎兵を従えているようだから、曹操軍の将の一人ということになる。
もしかしたら、あれが曹操なのかもしれない。特に理由もなく、飛燕はそう思った。
「――――っ」
もう一度呼ばわろうとした瞬間、一騎駆け出した。曹子孝。白毛の名馬は、たちまちのうちに飛燕との距離を詰めた。
曹子孝が、馬を寄せてくる。
「久しぶりだな、褚燕。いや、いまは飛燕と呼んだ方が良いのか?」
飛燕はそれには答えず、目を合わせることもしなかった。視線は口元に落としている。不自然に思われるかもしれないが、それ以上に言葉を交わし、視線を交わすことで、何かを読まれることを飛燕は嫌った。
「……また一騎打ちが所望か、飛燕?」
無言でいると、曹子孝は勝手に結論付けたようで、再び呼び掛けて来た。
一騎打ちを口にしながらも、肩に預けた槍には警戒心の欠片もなく、口元にはまだどこか親しげな笑みすら浮かべている。馬上姿は相変わらずの軽装で、具足は胸甲と手甲を付けるのみだ。
「……」
無言で、飛燕は手にした旗を地面に擦る様にして振った。
「降参、ということでいいのか?」
「……」
二本の旗を投げ放った。
そこで初めて、飛燕は曹仁の目を見た。曹子孝の視線が、放物線を描く旗を追って、上方へと流れた。
刀が、いやにゆっくりと曹仁の腹部へと吸い込まれていく。自ら放った抜打ちの一刀を、飛燕は他人事の様な気分で見送った。