「貴様ぁっっっ!!!」
怒号が耳に響いた。よく聞きなれたはずのその声は、誰のものだったか。
そんな何でもない疑問が、曹仁の自失し掛けていた思考を引き戻した。
崩折れ、落馬しそうな身体は、いつの間にか馬を寄せていた幸蘭と蘭々によって抱き止められている。
曹仁は声の主へと呼び掛けた。
「……春姉、まってくれ」
「―――っ! 無事かっ、仁!?」
口からもれたのは、かすれた様な小声だった。それでも、春蘭の耳には届いてくれたようだ。今まさに飛燕へ向けて振り下ろさんとしていた七星餓狼を押し留め、春蘭が振り向いた。
曹仁は小さく頷き返すだけが精一杯だった。
戦場は様相を異にしていた。丘の頂と麓、上下に分かれての対峙状態にあった両軍が、今はほんの数十歩を残すだけの近さまで進軍し、なおも前進を続けている。両軍の目指す中心地が飛燕と春蘭で、そこからわずかに曹操軍側に下がった位置に曹仁達はいた。
蘭々が曹仁の無事を大声で告げると、まず曹操軍が足を緩め、やがて停止した。春蘭が剣を引き、曹操軍が進軍を止めたことで、黒山賊の兵も足を緩め、黒山賊の兵に付き従うという形で駆けていた黄巾兵はそれで完全に足を止めた。うなだれている飛燕が手を上げると、それを合図に黒山賊も完全に制止する。
ほんの十数歩を残すだけという近距離で、再び両軍が対峙した。
「……真桜さん。この軍袍、いい出来だ」
曹仁は、戦場の外で帰順した黄巾兵をまとめている真桜へ向けて、小さく呟いた。
斬り付けられた脇腹に目を向けると、完全に引き裂かれた軍袍の布地を、編みこまれた極細の鉄糸が繋いでいる。わずかに血はにじんでいるが、それだけだった。
真桜の工房で、その高い金属加工技術を目にした曹仁が、軽騎兵用の軍袍にと考案したものだった。鎖帷子のような鎧はこの世界にすでに存在しているが、さらなる軽量化がなされている。弓矢や刺突といった点の攻撃に対する防御力は望み難いが、少なくとも斬撃に対しては十分な効力を発揮することが図らずも証明されていた。
とっさに白鵠が前に踏み込んで斬撃を刀の根元近くで受けたこと。そして、真桜の作った軍袍の試作品を着込んでいたこと。どちらか一方が欠けていても死はまぬがれようのないものだったろう。
「っ、くっ」
「兄貴っ」
「仁ちゃん、動いては」
身体が悲鳴を上げていた。幸蘭と蘭々も、なかば悲鳴のような制止の声を上げる。それが逆に、曹仁の気力を奮い立たせた。身体を支える二人の手を振り解くようにして、白鵠の上に自立する。
「―――褚燕!」
ひとつ大きく息を吸うと、自然と叫んでいた。
曹仁は、なおも左右から抱き止めようとする幸蘭と蘭々の腕の中から抜け出すと、馬を進めた。気を抜けば傾きそうになる体を、下肢にぐっと力を込めて支える。白鵠も、極力馬体を揺らさないよう静かに歩を進めてくれている。
軍袍のおかげで、傷口自体はたいしたものではなかった。出血もわずかだ。刃物で斬られたというより、鉄の棒で打たれたと言った方が近い。呼吸をするたびに、打たれた脇腹だけでなく、胸の辺りに鋭い痛みが走った。
自分の身体が、今どういう状況にあるのか。思い巡らせると、にわかに恐怖が鎌首をもたげる。曹仁は思考の埒外へとそれを押しやった。喉元に何かが込み上げてきて、口中に鉄の味が広がる。それも、強引に飲み下した。そんなものよりも、もっと熱く燃えたぎるものがあって、それは、決して押しやることも飲み下すことも出来ないのだ。
「―――褚燕っっ!」
もう一度、名を叫んだ。同時に飲み下したはずのものもあふれ出して、言葉とともに赤い飛沫が舞った。曹操軍の中で唯一正面から曹仁を見据える春蘭が、声を上げた。気にせず続ける。
「俺の命が取れれば、それで満足かっ! お前に従った十万の命など、惜しくもないのか!?」
満腔に溢れ返るものを、義憤だと言うつもりはなかった。手前勝手に寄せた信頼を裏切られて、ただ逆上しているに過ぎないのだろう。それでも、曹仁は自身を押し留めることが出来なかった。
背後から、幸蘭や蘭々の気遣わしげな声が聞こえてくる。華琳の、制止する声も聞こえた気がする。それも、込み上げる思いの前では些細なことだった。
白鵠の白く美しい鬣が、口の端から滴る鮮血に紅く染まっていく。曹仁はただそれだけをわずかに惜しいと感じた。
「お、おい、仁。その傷では」
「春姉、退いてくれ。……それに秋姉も」
「し、しかしな。っと」
白鵠が首を振ると、立ちはだかろうとしていた春蘭の意に反して、馬が引いた。華琳の隣りでは秋蘭が、飛燕へ向けて引き絞っていた弓を静かに下ろした。
華琳は、今にも敵軍に襲い掛かろうという騎馬隊を制止し、逸る自身の心をも抑え込んだ。曹仁は激昂の中にあっても、弓を引く秋蘭を見逃さない程度には戦場を広くとらえることも出来ている。ひとまず成り行きを見守るつもりになっていた。
曹仁の中に何か猛るものがあるというのなら、それを見てみるのも悪くは無い。
元より、曹仁は飛燕を侠客とも義賊とも評していたが、華琳にはそうとも思えないところがあった。黄巾の兵の扱いなどはむしろ酷薄とさえ言え、黒山賊の者たちでさえも、ただの盾としか見ていない感じがあった。
降伏を装う程度のことは十分に考えられることだった。華琳を説き伏せるようにしながら、警戒心もなく凶刃の間合いへと踏み込んだのは、明らかに曹仁の判断の誤りと言わざるを得ない。
ここまでの曹仁は、単に騎馬隊の運用に少しばかり長じたところのある将の一人に過ぎない。以前から感じていた、どこか判断の甘いところも露見させている。このままなら、春蘭の下のただの一部将として今後は使うことになるだろう。それぐらいの力量は華琳も認めていたし、言ってしまえばその程度だった。
劉備達には主君として立つことを望まれ、孫策にも旗下に誘われたという。白騎兵と呼ばれる、騎馬隊としては天下に比肩し得るものの無いかつての董卓の旗本に指揮権を預けられてもいる。その男が、本当にただの一部将におさまる程度の器なのか。天の御遣いという肩書が、実体以上に曹仁を大きく見せているだけなのか。それ以上の何かを期待してしまうのは、身内ゆえの欲目というものなのか。
ここで全てを見極めるつもりで、華琳は曹仁へと視線を注いだ。
曹仁と飛燕が馬と馬を突き合わせる距離で対峙する。うつむいていた飛燕がおもむろに顔を上げた。
そこで初めて槍を取り落としていることに気付いたのか、曹仁は両掌に目を落とした。気だるげな動きで一度周囲に視線を巡らせると、すぐに諦めたように頭を振った。軽く拳を握って無手のままに曹仁は構えた。
飛燕は、茫然とした表情でそれを見つめている。
「どうした、来ないのか? あの日の続きと行こうじゃないか」
曹仁が、焚きつけるように言った。飛燕の手にする刀が屈辱に振るえる。
「っ、曹子孝っ、貴様はっ」
「臆したのか、飛燕。ふふっ、張牛角殿も、草葉の陰で泣いていような」
「―――貴様がその名を口にするなっ!!」
飛燕が、怒号とともに曹仁に組み付いた。刀を捨て無手で向かったのは、義賊としての最後の矜持ゆえか。あるいは義兄の名がそうさせたのか。
組み合い、もつれ合うようにして二人の姿が馬上から消えた。ただ落ちたとしか見えなかったが、気付いた時には曹仁が上で、飛燕が二人分の体重でもって地面に打ち付けられていた。
「何もかもが、あの日の焼き直しのようじゃないか」
立ち上がり、口元を引きつらせながら曹仁が言った。皮肉気な笑みの一つも浮かべたいのだろうが、それはほとんど苦悶の表情に見える。飛燕も弾かれたように起き上った。
きれいに投げが決まったとはいえ、負傷の程度は明らかに曹仁の方が重い。それでも、華琳は思わず安堵の吐息をもらしていた。
徒手空拳の戦いで曹仁に確実に勝てると言い切れる者は、曹操軍中にあっても端から拳足を武器とする凪ただ一人といっていいだろう。天性の武人である春蘭や季衣でさえ危ういものがある。
技量、というよりも技そのものが突出して高い水準にある。特に組み技の多彩さという点では、凪のはるか上をいくのではあるまいか。
曹仁に言わせれば、彼が元いた世界ではすでに廃れつつある古臭い技であるらしい。それでも、この世界にとっては最先端のさらに先を行く、未だ到達し得ない技である。無手での体術は手遊び程度にしか修練していない身とはいえ、華琳をして理解を超える部分があるほどだ。無手での戦いとなった以上は曹仁の勝ちはほぼ確定したと見て良かった。
華琳がそう安堵した矢先、飛燕が獣のような動きで曹仁に飛び掛かった。向かい打つ曹仁が、大きく拳を振りかぶる。
「―――っ、あの馬鹿」
華琳は覚えず一瞬視線を逸らした。直後、肉と肉がぶつかり合う鈍い音が、耳に届く。
視線を戻すと、二人の姿がなかった。いや、両者共に倒れ伏しているのだ。
曹仁が放ったのは、その身に染みついているはずの精妙な技巧をかなぐり捨てた、感情ごとぶつけるような力任せの一撃であった。結果、真っ向勝負の一合目は、痛み分けに終わっていた。
拳が曹子孝の顔面をとらえたと思った瞬間、視界が弾けた。
飛燕は、気付けば地面に突っ伏していた。顔を上げると、眼前の、ちょうど同じ高さに土にまみれた曹子孝の顔があった。自分の顔も似たようなものであろう。相打ちだった。
曹子孝が、平然とした顔で身を起こす。
「義を捨てた抜け殻の拳は、やはり軽いな」
そんなはずはなかった。拳に残る強い痺れが、衝突の激しさを物語っている。
「それとも、張牛角殿の教えが悪かったのかな?」
「貴様が、その名をっ!」
跳ね起き、殴りつけた。またも相打ち。先刻と変わらぬ衝撃も、備えの出来ている今度は両者共に倒れることはなかった。
「その通りだ。張牛角殿を語れるのは、生き延びたお前だけのはずだ!」
言いながら、曹子孝が拳を振りかぶった。飛燕は避けずに、打たれながらに打ち返した。相打ち。
「そのお前が、名を汚してどうする! お前の名を汚すことは、張牛角殿の名に泥を塗ることに等しいぞ!」
「黙れっ!」
さらに相打ち。
「張牛角殿と共に掲げたという、義賊の旗印はどこに捨てたっ!」
義賊という言葉が拳以上に飛燕の心を打った。
「国を建て直すとまで語った志は、どこに捨てたっ!」
志と呼べる思いがあった。共に道を行く兄弟達もいた。
ただ手を引かれて歩いているだけだったのか。伸ばした手を引く者を失った時、道もまた見失ってしまったのか。
「――――――――! ―――――!! ―――――――!」
耳に痛いことを好き勝手に言い立てながら、曹子孝は少しも考える時間というものを飛燕に与えてはくれなかった。降り注ぐ拳に、飛燕も拳を返した。降り注ぐ言葉には、返す言葉もなかった。
拳に遮られ途切れ途切れになる思考に、様々なものが浮かんでは消えていく。両親の死。商人宅での裕福な暮らし。そして、張牛角との出会い。義賊としての戦い。黄巾の乱。黒山賊。青州。
消えずに胸のうちに留まり続けるものが、確かにあった。義。志。張牛角。託されたはずのものと、受け取らずに目をそらし続けていた自分。
一際激しい衝撃。それが拳によるものなのか、言葉によるものなのか、すでに飛燕には判然としなかった。
地に、膝を付いていた。膝を付いたままに、飛燕は曹子孝を上から見下ろしていた。妙にすっきりとした気分だった。
技巧も何もない真っ正面からの相打ちの応酬。その結末は、初めから火を見るよりも明らかなことだった。
何故、こんなにも無謀な真似をしたのか。倒れ伏す曹仁の背中に褚燕は問い掛けた。
「春蘭、仁は生きている?」
不思議と曹仁の意識ははっきりとしていた。ただその意識が身体とは切り離されたようで、指一つ満足に動かすことが出来なかった。華琳の声も耳に確かに届いてはいたが、それに反応する力が残されてはいない。
強引に引き起こされると、鼻先に手が添えられた。
「息はしています!」
耳元で、春蘭の声が響いた。背後から、抱き寄せられているようだった。
「傷も、……これなら二、三日も寝かせて置けば問題なさそうです」
―――それは春姉ならの話だろう。
笑い飛ばすことも出来ず、言葉が声になることもなかった。喉からかすれた息が洩れただけだ。
「そう」
そっけなく言うと、華琳は馬を進めた。曹仁と春蘭の横を抜け、飛燕へと向かう。
飛燕は、力尽きたように地に膝を付けた姿勢のまま動こうとはしない。視線も、曹仁が先刻まで倒れていた地面に据えられたまま動かない。
「華琳さま、危険です」
「大丈夫よ、秋蘭。心配しなくても、私は仁ほど迂闊ではないわ」
大鎌“絶”が、静かにたたずむ飛燕の首に据えられた。
刃先が首筋に食い込んでいる。華琳が軽く絶を滑らせるだけで、飛燕はその命を散らすこととなるだろう。それでも、飛燕は身じろぎ一つしなかった。
無意味なことをしたのかもしれない。曹仁は強烈な虚無感に襲われていた。飛燕に、何かをぶつけなければならないと痛切に思った。やり切ったと、殴り合いに負けてなおそう思えているのはただの自己満足で、処刑を待つ男をいたずらに惑わしただけではなかったのか。
「―――曹操様にお願いがございます」
飛燕が存外しっかりとした口調で言った。
「降伏を偽り我が将に手を出しておいて、なおも願いなどとよくも口に出来たものね」
つうと一筋、飛燕の首にあてがわれた鎌から血が滴った。
物怖じした様子もなく、飛燕が続けた。
「偽りの降伏も、御従弟に刃を向けたのも全ては俺が独断でしたこと。なにとぞ我が兵には御咎めなきよう、お願い致します」
「……どうやら、憑き物は落ちたようね」
華琳が、ゆっくりと絶を下した。
「言われるまでもなく、兵に手を出すつもりはないわ。黄巾の兵達は我が旗下に編入させてもらう。編成はいじらせてもらうけれど、張三姉妹に対する信仰に口は出さないわ。黒山賊の兵は―――」
華琳は、首領である飛燕の元へ今にも駆け寄ろうと逸る軍勢を一瞥した。曹仁も、つられてそちらに視線を向ける。
何度となく思ったことではあるが、思い思いの得物を手にする集団はとても軍と言えるようなものではなかった。それが統一と統制を旨とする戦場で、正規軍に劣らぬ働きをするというのは驚きと言う他ない。
「こんな集団の指揮を任せられる将は、我が軍にはいないわね。春蘭辺りなら合いそうな気もするけれど、すでに我が軍の象徴とも言える存在を動かすわけにもいかないし。……ふむ、やはり黒山賊の兵の指揮は今後も貴方が取りなさい、飛燕」
「――――――っ」
何でもない事のように言う華琳に、戦場全体が息を呑んだ。
「俺を、生かすというのですか?」
飛燕が当然ともいえる疑問を口にした。
「死にたいというのなら、やはり首を刎ねましょうか?」
華琳が大仰なしぐさで絶を振りかぶって見せた・
「……俺は、義兄達の仇さえ討てれば死んでもいい、いや、死んで何もかも終わりにしたいとすら思って、この戦場に臨みました。ですが今は、……今は、生きられるものならば生きてみたい。そうも、思っております」
「ならば黙って私に従いなさい」
「しかし、降伏を偽り、御一門の将を、ましてや曹家の天の御遣いとも呼ばれる者を害した俺は、ここで首を刎ねられてしかるべきでしょう」
「仁の件は、あの子が馬鹿だったというだけのことね。ただ一度手を合わせ、立派な志らしきものを持っているかもしれないというだけのことで、つまらない賊徒の首魁などを信用してしまったのだから」
「それは……」
飛燕の表情が、苦悶に揺れた。その感情が慙愧から来るものであれば、やはり飛燕の中に義賊としての矜持は残されているのだ。それは曹仁にとっても救いのように感じられた。
「なればこそ、いっそうわかりません。つまらない賊徒に落ちた俺を、なぜ助命するのです。寛容も過ぎれば侮りを生むばかりです。いくら敵対したところで最後には許されるとなれば、進んで貴方の軍門に下る諸侯は皆無となりましょう。俺に、そうまでして生かすだけの価値があるとは思えません」
「完全に誇りを失ったままの下郎であれば、迷わず首を刎ねたでしょうね。今の貴方ならば、まだ救いがある。仁に感謝なさい。身体を張って貴方の目を覚まさせたのだから」
華琳は愛想のないしぐさで曹仁に一瞥だけくれると、ここからが本題とばかりに声を張った。
「そして結果はどうあれ、貴方は一度百万の軍勢に求められ、率いるに至った。天下に何かを為し得る人間であることは疑いようも無い。貴方を生かすことが、この曹孟徳に益するものかどうか、それはまだ私にも分からない。それでも、―――それがたとえ我が覇道の妨げになろうとも、天下にとって有為であるならば、すべからく私は活かそう」
黄巾の乱に臨んでは教主張角ら三姉妹を保護し、反董卓連合にあっては首魁董卓を助命した。そして今また、百万賊軍の頭目飛燕を許すのか。そうして、益も害も、善悪も正邪も清濁をも合わせ呑んで、一つの天下とすると言うのか。覇を競うことになる相手にも、桃香や恋、孫策や麗羽に対しても同じことが言えるのか。―――華琳ならば、言うのだろう。彼女は自分の言葉に例外をもうけはしない。
しかし、そんなことが可能なものだろうか。不可能だと、そう断ずることは容易い。だが少なくとも華琳は行動によってその道を示した。それもこれが初めてというわけではなく、すでに幾度も。
「ひとつお聞かせ願いたい。そうして敵対者すらも受け入れ進む覇道の先に、貴方はどのような世を築き上げるおつもりか?」
曹仁の心の声を代弁するように、飛燕が問い質した。
「貴方は今、この私に質問が出来るような立場にあるのかしら?」
「確かに我が身は今や貴殿の手中にあると申して良いでしょう。しかし俺には、自ら命を絶つというわずかな選択の自由が依然としてあり、それと同じ分だけ、主を選ぶ自由も有しております」
華琳の底冷えするような視線を受け止めて、平然と飛燕は言ってのけた。
「なるほど。そういう人間なのね、貴方の本質は」
どこか楽しげに笑みをこぼしながら、華琳は言った。
「私が築くのは、誰もが等しく権利とそれに伴う義務を与えられ、その才を自己の責任において自由に発揮し得る国」
曹仁は覚えず息を飲んだ。
抽象的なもの言いに合点がいかぬ表情の飛燕に、華琳が続けて口を開いた。
「農民の子と士太夫の子が、共に机を並べ競い合える国、といえば分かりやすいかしら?」
それは、かつて曹仁の語った世界だった。
今にして思えば、里心のついた子供の口から出た妄言の類だった。ここよりもずっと進んだ文化水準を持つ曹仁の世界ですら、それが真の意味で実現出来ていたとは思えない。当時は華琳自身も絵空事と笑い飛ばしたものだった。それを、数年を経て成長した華琳が、実現させると口にしている。
「……誰しも平等に機会を得うる世、ですか。これから権力の階に登ろうとする方の言葉とも思えません」
飛燕の言は至極真っ当なものだった。
悪名高い秦の始皇帝の焚書に限らず、この時代の権力の裏には知識の独占と選抜があるという面は否めない。政治的発言には古典からの引用が頻発し難解極まる。一方で学問を修められる者などほんの一部の人間に過ぎないのだ。士太夫や豪族と呼ばれるような特権階級だけが政治を語る口を持ち、権力を手にすることも出来る。それが周代から続くこの国の政体だった。農民から生まれた開祖を持つ漢王朝においても、それは変わらない。権力者にとって、また一面では民にとっても都合の良い体系であるからだ。
「数年前まで筵を織って暮らしていたという少女の名が民の耳に響き渡り、出自も定かならざる将が天下無双とまで評されている。この乱世なくば、彼女達の才覚も世に出ること無く終わっていたかもしれない」
華琳はそこでいったん口をつぐむと、ぐるりと大きく手を巡らせた。その仕草は、眼前の十万の人の群れに向けたようでも、遥か地平を指し示したようでもあった。
再び、華琳が口を開く。
「―――私は、生まれというふるいにかけられた限られた少数の中では無く、この世界に生まれ落ちた無数の人間の中の主席でありたい」
飛燕が気でも呑まれたように、目を大きく見開いた。曹仁も、愕然と胸を突かれていた。
華琳が口にしたのは、現状の政体に対する不満などではなかった。戦わずして勝つことすら認めないという、度を過ぎた負けず嫌いが顔をのぞかせただけだ。
―――敵わない。
飛燕との殴り合いに敗れ、地に伏してなお感じることの無かった敗北感に、曹仁は襲われていた。
初めて出会ったときから、華琳はいつだって自信に満ちあふれていて、曹仁には不可能と思えることも平然と口にし、実現させてきた。かつて自身で一笑に付した世界も、華琳が再びこうして口にした以上は、きっと現実のものとするのだろう。そんな彼女がまぶしくて、直視出来ないほどにまぶしくて、逃げるようにして自分は曹家を出たのかもしれない。曹仁は今にしてそう思った。
幸蘭に仁ちゃんと甘く囁かれると、心がほっと安らぐ。春蘭や秋蘭から弟分として扱われると、どこか誇らしい気持ちになる。ただ華琳に対してだけは、弟扱いされることを曹仁は肯んじ得なかった。いつまでも華琳の“弟の仁”でいたくはなかった。自分は、天の御遣いなどという虚名ではなく、華琳と対等と思えるだけの、拠って立つ何かが欲しかっただけなのか。
自覚し、言葉にしてみれば馬鹿馬鹿しい話だった。逃げた先で見つけた何かに、そんな力があるはずもないのだ。
「……一度は捨てた命です。今後は、貴殿の覇道のために存分にお使いください。―――黒山賊一同、曹孟徳様に忠誠を御誓いします」
飛燕が跪拝して言った。
動こうとしない身体を置き去りに、曹仁の心も飛燕の隣りで手をつき、頭を下げていた。
――――ここからだ。
曹子孝は、ここから始めるしかない。
飛燕へ向けて鷹揚に頷く華琳に、曹仁もまた心中で忠誠の言葉を口にしていた。
器の違いを認めた時、胸に迫る敗北感はいっそ清々しいものであった。