「久しぶりに息子に会える」
徐州北辺を駆ける馬車は、まもなく兗州は泰山郡に入ろうとしていた。目的とする陳留郡は兗州でも最西端に位置する郡で、東端の泰山郡からはまだまだ遠い道程だが、もうすぐ娘の治める領内には入ることになる。
「息子? 嵩様、息子さんもいらっしゃるの?」
誰にともなく呟いた言葉に、腕の中の女が反応した。最近雇い入れたばかりの侍女の一人だ。山間の悪路に馬車が揺れる度、懐に抱いたその柔らかい身体が曹嵩に押し付けられる。仕事の方は多少怠け癖があると家宰からは言われていたが、曹嵩がこうして特に近くに置く理由はまったく別のところにある。
「ああ、正確に言うと息子ではなかったな。甥だ」
「甥?」
振り向いてこちら見上げる大きな瞳はわずかに潤み、寄せられた眉根には独特の色気がある。ぷっくりとした唇と、形のいい耳に、すっと通った鼻筋。つまりはそれが理由だった。
「ああ、曹仁という。知っているか?」
「ええ、もちろん。曹家の天の御使い、曹子考様でしょう?」
「そうだ。子考という字は、私が付けた。自慢の息子、いや、甥だな。小憎たらしい娘とは大違いだ」
「もう、お嬢様がせっかく呼んでくださったのに、そんなことばかり言って」
「いいのだ、あやつのことは。軍資金やら何やらと、欲しいものがあるときばかり甘えた声を出しおって」
自分に似て見た目だけは愛らしいのが問題だ、と曹嵩は胸中で付け加えた。娘の内心はどうであれ、あの姿でしおらしくお願いされると、つい好きに物を買い与えてしまう。
―――お母様、兵たちの装備が不足しているの。
―――お母様、軍馬が足りないの。
―――お母様、軍資金が尽きてしまったのだけれど、お屋敷を売ってもいいかしら?
「……まったく。普段はお母様などと、呼ばぬくせに」
「?」
女が上目使いに曹嵩を見上げた。匂い立つような色気が、一層強まった。
華琳は、こういった見目ばかり美しい女は一時愛でることはあっても、そばに置き続けることは無いのだろう。曹嵩は娘とは違い、女に才覚を求めたことは無かった。
「なんでも――――っ!!」
「きゃっ!!」
大きく、馬車が揺れた。
「おい、何をしている!」
叱声と共に、曹嵩は馬車の窓から顔を出した。言葉がむなしく虚空に響く。
御者台は無人であった。居るはずの御者の姿は無く、代わりに、曹嵩の見ている前で矢が一本また一本と突き立った。
「なんだ、兄ちゃんか」
「兄様でしたか」
「季衣と流流か、それに。……こんなところで、何をなさっているのです?」
意外な所で意外な人物の姿を目にとめ、曹仁は声を掛けた。
「……仁? こんなところで何を?」
華琳はよほど集中していたのか、そこで初めて曹仁の存在に気付いたというように、手元へ落としていた視線を上げた。
兗州は陳留郡陳留県、華琳の居城である。
華琳や曹仁が城内にいるのは常と変らない。こんなところ、というのは宮城の中でも滅多に人も訪れることのない、中庭の外れも外れの奥まった草地を指してのことだ。
「俺は槍の練習に」
修練用の棒を掲げて曹仁は言った。
「ああ、貴方は最近手が空いているのだったわね」
青州黄巾兵の加入によって、曹操軍全軍の統率者である春蘭やその補佐の秋蘭、新兵の調練を担う楽進ら三人、加えて事務仕事に当たる文官の面々は、連日の働き詰めである。あの戦場で降伏した五十万に後詰の五十万をも加え、青州黄巾百万が一時に傘下に加わったのだ。彼女達の苦労は想像に難くない。
後詰の五十万はほとんどが非戦闘要員であり、女子供などが多く含まれていた。張三姉妹の支持者は主に若い男が中心ではあるが、それ以外の層からも人気があって、家族ぐるみで信者という例も少なくはない。
黄巾軍の戦闘要員だったものも、多くは武器を持っているというだけで、実際に曹操軍の兵として編成出来るだけの者は多くないということだった。楽進達の見立てでは、最後まで飛燕の指揮に従い抗戦の意思を示した兵を中心にした十万前後の増強になるという。それ以上は兵の質を落とし、逆に全体の動きに支障をきたすことになりかねない。
兵として取り立てられる者以外は、当初の予定通り土地を与えられ農民としての暮らしに戻ることとなる。一からの開墾である。土地との戦いは、賊として弱者から搾取するだけの暮らしよりも、はるかに厳しいものとなるだろう。百万近い移民に土地を割り振り、不満を抑え込むのは荀彧を中心とした文官の仕事であり、これは調練に当たる武官以上に困難を極めることだろう。
城全体がそうした慌ただしい空気に包まれる中で、曹仁にはぽっかりと時間の余裕が生まれていた。
青州黄巾賊との戦で騎兵全体の指揮権を与えられて以来、曹仁は曹操軍の騎馬隊の有力な指揮官の一人に数えられるが、吸収した黄巾の兵員には元々騎兵が極端に少ない。わずかに含まれる騎兵も黄巾というよりも黒山賊の兵で、それはそのまま飛燕の指揮下に留め置かれていた。怪我の療養中ということもあって、曹仁の仕事は平時の騎馬隊の調練のみで、他には時折り雑務を命じられるだけだった。反董卓連合以来連戦続きであった曹仁は、白鵠と遠乗りに出たり、蘭々に連れられ城外にて連日開催中の張三姉妹の舞台に足を運んだりと、久しぶりの余暇を満喫していた。
「槍など振って、怪我はもう問題ないと思っていいのかしら」
「ええ、もうすっかり」
槍に見立てた棒を、曹仁は軽くふるって見せた。
「そう。すぐに次の戦が始まるわ。編成中の黄巾兵はまだ出陣に耐えないし、その時は貴方にも大いに働いてもらうことになるでしょう。今はすこしのんびりしていなさい」
次の戦は、予州への侵攻戦となることが華琳の口からすでに明言されていた。侵攻の名分も十分に立っている。秩序の回復である。
現状、予州は黄巾賊の支配下にあると言って良かった。それも青州黄巾賊のように本拠を持たず転々とする集団ではなく、城郭を乗っ取りあたかも領主のように振る舞っているという。華琳は予州でも取りこめるものは取り込むつもりであろうが、青州兵と違い、一度権勢欲に染まった者達である。張三姉妹への信仰がどこまで残っているのか判然としない。激戦も十分に予想された。
「それで、華琳様はここで何を?」
華琳も、そばには季衣と、その幼馴染で先日親衛隊に入隊したばかりの典韋―――流流が控えるだけで、公務という装いでなかった。
季衣と流流の二人も、城内という事もあって護衛中という緊張感もなく、草の上に腰を落ち着けていた。近くの木陰には、軽食や菓子なども拡げられている。仕事として、というよりも単に遊びがてらに同行したというところだろうか。とはいえ第三者―――この場合は曹仁が近付いた瞬間には、いつでも華琳を庇えるように正面に一人が立ちふさがり、いざという時に退路を確保するために後方に一人が回り込む、という配置に付いていたのはさすがだった。
「これよ」
「……図面ですか?」
「ええ」
華琳の手元を覗きこむと、宮殿の設計図らしきものが目に入った。疑問符が付いたのは、会話中にも流れるような筆使いで描き加えられていく華美な装飾が、一瞬絵画を思わせたからだ。よくよく見れば、建物の外観から内装までがほぼ正確に理解出来る、図面としても見事なものだった。
「しかし、また随分と派手な。ご自身の設計のようですが、華琳様のご趣味というわけでもなさそうですが」
「あの人の居室にと思ってね」
「―――ああ。そういえば呼ばれたのでしたね。それで、自ら作図に縄張りの確認ですか」
華琳のちょっと突き放したような“あの人”という言い方に、思い浮かぶ顔は一つだった。
曹嵩。字を巨高。大宦官曹騰の養子にして、華琳の実の母親である。
「不備でもあると、あの人うるさいから。ちょっと伺いを立ててみたら、すぐに来るなんて言い出すんだもの。ただでさえ忙しい時期だって言うのに」
華琳が、どこか言い訳がましくまくし立てた。
曹嵩は華琳の招きに速やかに応答した。使いの者によると、ほとんど返書をしたためると同時に、家財道具一式を馬車の荷台に積み込み始める勢いだったという。離れの建設は、普通なら昼夜兼行の突貫工事でも間に合うとは思えない。ただ、真桜率いる工兵隊の異常なまでの働きぶりを考慮に入れると、不可能とも言い切れなかった。
「相変わらず、仲が良いのだか悪いのだか分からない親子関係ですね」
「ふん」
華琳は小さく鼻を鳴らすと、視線を手元の図面に戻した。
「……そこ、貴方の修練の跡かしら?」
そのままこちらに顔も向けずにひょいと指差したのは、草がはげて地肌がむき出しとなった一角だった。
「ええ。お気になさらず。練習はどこでも出来ますから」
曹仁の槍術は軽やかな足運びとは無縁のもので、騎馬式あるいは馬歩と呼ばれる腰を落とした構えから、地面を強く踏み締めて槍を突き出すという単純なものだ。この時の構えがそのまま乗馬姿勢にもなり、馬上では股の締めで体勢を維持し、大地をかむ代わりに馬の勢いを槍に加える。数日一つ所で槍の修練を行えば、踏まれ続けた草は土気色に変色して、十日で地肌がむき出しとなる。
「もちろん気にしないわよ。貴方も気にせずその辺りで修練なさい、あの人が来た後もね。貴方のことを、男相手にしては珍しく気に入っているようだし」
「分かりました」
曹嵩も娘と同じで、男嫌いの女好きだった。華琳が生まれたことが不思議な位で、男嫌いの度合いは娘よりも上かもしれない。曹仁に対して嫌悪感が無いのは、初めて会ったのが子供の時分だったこともある。初対面が今ぐらいの年齢であれば、今日のような良好な関係を築くのは難しかっただろう。
なんにしても、一方ならぬ愛情をそそがれたという思いが曹仁にはある。家族から引き離され養子として曹騰に引き取られた曹嵩自身の境遇がそうさせたのかもしれない。曹嵩は、見ず知らずの土地に投げ出された曹仁を厚く庇護してくれたまさに恩人だった。
「……ところで仁、さっきからその話し方は何? 身内しかいない場では、無理に敬うような素振りは結構だと言ったはずだけれど」
華琳が眉をひそめる様にして言った。
そばに控える二人は、華琳にとって気の置けない人選である。
新参の流流も、今やすっかり華琳のお気に入りだった。護衛として信頼に足るだけの力量に愛らしい容姿と勤勉な性格、加えて技量抜群の料理人でもある。美食家であり自ら包丁も取る華琳にとっては、得難い同好の士と言ったところか。それは一年近くもの間、官軍第一の将軍の家の厨房を一手に担っていた曹仁にとっても同じことである。
宮城内とはいえ人気のない外れなれば、ここはまさに身内だけの場と言って良かった。
「ええと、……普段から慣れておいた方が、いざという時によろしいかと思いまして。問題がありましたでしょうか?」
「問題、というか、気持ち悪いわ。…………まあ、いいけれど」
華琳はしばし探る様な視線を曹仁に注ぐと、興味を失った様に言い捨て、再び図面へと目を戻した。
横転した馬車から飛び出すと、曹嵩は剣を抜いた。
そこかしこで争いが起こっていた。護衛の兵と対峙している敵勢には、一見して賊の類であることが明白な者達と、正規兵の装いに身をつつんだ者達が混在している。
手近に、一人対二人の争闘があった。追いこまれている一人には見覚えがある。自衛のために屋敷に雇い入れていた兵の一人だ。
曹嵩は、車内に隠れているよう女に告げると、加勢へ向かった。
護衛の兵と対峙している二人のうち一方を、駆け付け様に斬り伏せた。動揺するもう一方に、兵が槍を突き立てる。
「これは何事だ!?」
「曹嵩様っ! 盗賊の襲撃です! 陶謙殿より派遣された兵も敵方に回りました」
賊難を避けるために移り住んだ徐州だが、黄巾の残党が暴掠の限りを尽くした青州ほどではないにしても、今は賊徒が横行していた。境を接する兗州での取り締まりが厳しいうえ、州牧の陶謙が賊徒の討伐にあまり熱心とは言えないためだ。その陶謙が、今は官職を持たない私人に過ぎない曹嵩に護衛のために兵を派遣していた。大方、華琳に貸しを作りたかったのだろうが、この有様である。賊と兵が協力して動いているというのなら、初めから兵が賊の手引きをしたと考えるのが妥当であろう。
元々曹嵩が雇用していた私兵が三十で、陶謙から派遣された兵は百に上る。そこに賊も加わったとなると、兵力差は五倍以上となろう。
「積み荷に目でも眩んだか」
実際のところ、荷にはさして金になる様なものは無かった。そういったものは華琳が兵を養う為にと持ち出している。それでも庶民にとっては手の届かないだけのものはあるが、全員で山分けにしてしまえば、正規兵の立場を捨て盗賊に身を落としてまで手にするほどの額は残らないだろう。とはいえ、兵達がそんな事情を知るはずもない。そしてかつて曹嵩が、人臣の最高位である三公の地位を金で買ったことは周知の事実であった。その曹嵩の荷には金銀珍宝の類が山をなしていると賊共が考えるのは、当然の成り行きと言えた。
二頭立ての馬車の、一方の馬は横転に巻き込まれてもがき苦しんでいるが、一頭は馬車との連結が上手く外れたようで、無傷のまま落ち着きなく周囲に目を向けている。曹嵩はそれに飛び乗った。
「曹嵩様!」
馬上の人となった曹嵩を認めると、兵がわらわらと駆け寄って来る。
当然、賊徒も曹嵩に気がついて攻撃を集中させ始めた。曹嵩の指示の元、兵は巧みに堅陣を組んでそれを阻んでいた。山賊はもちろん、徐州の正規兵をも押し退ける奮闘振りである。
「……あやつに助けられたな」
黄巾の乱が一応の鎮圧を見てから反董卓連合が結成されるまでの間、華琳は曹嵩の元に滞在していた。その間、華琳は暇にあかせて私兵の調練に明け暮れていた。曹嵩の手元に残っている兵の中にも、その調練に参加していたものは少なくない。夏侯、曹の両姉妹はもちろん、すでに名軍師として名を馳せ始めていた荀彧や、怪力無双の許褚まで伴っての長逗留である。いま曹嵩を中心に陣を布く兵は、そこらの州兵とは比べものにならない一端の精兵達だった。
「小さくまとまれ、もっと小さくだ」
三公の一つ、軍事を担当する太尉の地位に昇った身とはいえ、曹嵩は戦場を踏んだ経験を持たない。それでも、曹嵩の指揮に迷いはなかった。
自分の用兵が拙いはずがないのだ。なんとなれば、華琳を生んだ母親であるからだ。曹嵩はいっそう声を励ました。
州境間近での騒動である。長引けば徐州の兵はもちろんのこと兗州の曹操軍が出動する可能性もあった。反董卓連合での武功や、先の青州黄巾賊との戦いから、曹操軍の強さは天下に知れ渡っている。賊も曹操軍と事を構えようとは考えていないはずだ。
「全員、引け、引けぇっ!!」
賊徒の中から、野太い声が響いた。
案に違わず、半刻(15分)ほどの競り合いの後、賊の攻撃は止んだ。遠巻きに包囲を維持し、武器を掲げ威嚇だけを繰り返している。
味方の陣形の外にも、いくつも馬車が横転している。積み荷ごとそれらを奪って賊が引き上げていくのも、時間の問題と思えた。
「―――くっ、しまった」
賊徒の中から進み出た人影に、安堵に緩み掛けた曹嵩の表情が強張った。先刻まで曹嵩の腕の中にいた侍女の首筋に、賊の剣が添えられていた。
「やはり、あやつのようにはいかんな」
兵力差の圧力に押され、いつの間にか侍女の隠れていた馬車が味方の布陣の外へと追いやられていた。精強なれど実戦を知らぬ兵を率いる同じく初陣の将が、戦場の全てに目を配るなど土台が無理な話ではあった。
「曹嵩様、いかがいたします?」
視線の先では女が、花の顔(かんばせ)をしおらせていた。賊はその耳元で、武器を捨てろとがなり立てている。
「……女を傷付けるのは趣味ではない。武器を伏せるだけ伏せてやれ」
堅陣の鋭鋒が、地に伏せられた。
賊に捕らわれた美しい女の末路など、想像するまでもない。曹嵩は自軍より一歩、二歩と進み出た。
「お主、……確か張闓といったな。目当ては金であろう?」
女に凶刃を向けているのが、陶謙から派遣された兵の指揮官その人であることに曹嵩はようやく気付いた。
「金なら、そこらの馬車の中から好きに持って――――っ!!」
わっと、背後で喚声が上がった。
賊徒が、武器を伏せた兵に一斉に押し寄せていた。曹嵩と張闓のやり取りに気を向けていた兵達の反応が遅れた。固く築かれていた陣形が崩れて乱戦となれば、錬度の高さはそれほど大きな意味を持たない。あとは兵力差に圧倒されるのみである。
「張闓、貴様っ、なんのつもりだ! 無益な――――――っ」
下卑た笑みを浮かべる張闓へ曹嵩は詰め寄った。その背中を、とんっと軽く叩かれたと感じた。刹那、言葉が、喉が詰まった。何かが、込み上げてくる。ひとつ、咳をした。口元に添えた手が、鮮血に染まった。
「……あ?」
気付けば、跪いていた。
三公にまで昇った私が、曹孟徳の母であるこの私が、このような下衆共の前で膝を屈するなど。
立ち上がろうと気力を奮うが、それが無駄な努力であることもまた曹嵩には分かり過ぎるくらいに分かり切っていた。胸から、槍の穂先が突き出している。地面が、せり上がってくる。
「馬鹿野郎っ、せっかくの質にもなる良い女を!」
賊共が何か言い争いを始めている。すぐ頭上でかわされる罵り合いも、曹嵩の耳にはどこか遠かった。女が、泣き叫んでいる。それも遠い。
「……まったく。こんな時に、お前の顔がちらつくとは」
脳裏に浮かぶのは、一人の少女。自分と良く似た顔立ち。勝気そうな瞳。自分とは違う、自信に満ちた笑み。
―――さあ、今度は何が欲しいのだ。
呟きに返す者はいなかった。