曹仁は自身が天の御遣いと言われるのが嫌いだった。日本―――この世界では天の国と云われる場所から、この世界にやってきたばかりの頃は、特にそのようには感じていなかった。その名のおかげで、新しい家族に拾われた。周囲の人々も良くしてくれる。便利な肩書きだと曹仁は思っていた。華琳には苛められたが、次第にみんなと仲良くなった。本当の家族になれたと思えた。そんな時、自分のせいで曹嵩が太尉の任を解かれた。天の御遣いなどと言われても何もできない自分に気づいた。曹嵩はそれでも曹仁に優しかった。それがまた、曹仁に自分というもの、天の御遣いというものについて考えさせた。曹仁は自分には何もないと気づいた。もし自分以外の人間がこの地に降り立っていたとしても、自分とそっくり同じ地位に就き、曹家の家族として振る舞うのだろう。曹仁は天の御遣いと呼ばれることが、自信の存在を否定されているようで怖くなった。
そうして思った。天の御遣いとしてではなく、曹仁という一人の人間としての身の証しを立てねばならないと。日本で両親より授かった名・仁、この世界で出来た家族の姓・曹、自分のせいで不幸に見舞われながらも変わらず可愛がってくれた曹嵩が付けてくれた字・子孝。その名を持つ一人の人間として何が成せるのか、それを探し続けているのが今の曹仁だった。
「・・・・・・はっ?」
突然の申し出だった。曹仁には間の抜けた声を上げることしか出来なかった。
「お願いします、曹子孝様!」
「一緒に戦うのだ、お兄ちゃん!」
関羽と張飛の二人もにじり寄ってきた。勢い込んで迫ってきた2人の迫力にたじろぎながらも、曹仁は何とか答えた。
「いや、俺はまだ誰かに仕えるするつもりはないのですが」
「仕えるだなんて、とんでもない!」
「そうです、子孝様。われらの主となって頂きたいのです」
「・・・・・・はっ?」
またも間の抜けた声が漏れた。
「お願いします、ご主人さま。私達と共に乱世を鎮めましょう」
後に天下に名を轟かすだろう英傑3人が自分の旗下に入ると言っている。3人の顔を順番に見つめていく。一様に真剣な視線が返ってくる。曹仁は胸が熱くなるのを感じた。
また、現実問題として曹仁に従う騎兵隊は既に20を下回っており、今回のような奇襲以外にまともな軍事活動を行うことは出来ない。そこに劉備の集めた義勇兵の兵力、関羽・張飛の武勇が加わってくれるというのなら、断る理由はない。受けようと曹仁は思った―――
「お願いします、天の御遣い様!私達にはあなたのお力が必要なんです!」
―――劉備の口から、その言葉を聞くまでは。急速に冷めていくのを感じた。
(・・・・・・そういうことか)
求められているのは、曹仁自身ではなく天の御遣いという存在。いつものことだ、と思いつつも期待が大きかった分だけ、曹仁は軽い失望を覚えた。口を開く。
「おことわ―――」
「兄貴!」
断わりの言葉は、背後から飛びついてきた蘭々に阻まれた。
曹仁が口を開いた瞬間、蘭々は飛びついてその口を塞いでいた。劉備が天の御遣いを持ち出したことで、曹仁が申し出を断るだろうことは蘭々には分かりきったことだった。
曹仁がこの世界にやってきて、蘭々の兄として暮らすようになってからもう随分経っていた。ここ1,2年は、侠客の真似事をして暴れまわる曹仁をただの無頼漢であるとか、仁義溢れる好漢であるとか評すものが多くなってきた。そうした中で自然と、曹仁の侠気や武勇に魅せられた者が集まって出来た集団が、今ここにいる騎兵隊だった。曹仁がそうした評価や仲間達を、自分自身が勝ち取った何よりも大切なものと感じていることを、蘭々はよく知っていた。
そんな曹仁が再び天の御遣いだと騒がれ始めたのは、ごく最近になってだった。
ある高名な占い師が、乱世を静めるものとして天の御遣いが流星とともに舞い降りる、という占いをしたことがことの発端だった。光とともに曹仁がこの地に舞い降りた瞬間を目の当たりにしたのは、華琳や幸蘭などの極近しい者達だけであったが、多くの者がその日流れ落ちる星を眼にしていた。それは時を経た今になっても強烈な印象をそのまま残すほどの、強い光を放つ流星だった。曹仁の意思とは無関係に、曹家の天の御遣いの噂は再び広まっていた。
「もが、くっ、は、放へ・・・・・・」
ちょっと相談させてほしい、と劉備たちから距離をとる。暴れる曹仁を引っ張っていくのには、角が協力してくれた。十分な距離を置いて、ようやく戒めを解くと、曹仁は肩で大きく息をした。
「殺す気かっ!」
頭を狙って落としてくる拳骨を、一歩下がって避ける。そうなんども殴られるつもりはない。曹仁は空を切った拳を見つめながら、不満そうに言った。
「一体何なんだよ、蘭々。角まで一緒になって」
「兄貴、今断ろうとしてただろ」
「うっ。・・・まあ、そのつもりだったが、何か問題でも?」
「大ありだろ」
「くっ」
曹仁も理屈では共に戦うべきだとわかっていたようで、言葉を失う。
「角、お前も同意見か?」
「俺は兄貴が決めたことに従います。しかし、このままの兵力で戦い続けるのは無謀だとは思いますぜ」
「・・・でもな、俺は俺だぞ。俺を天の御遣いと見て、命を預けてくる人間の遇し方を俺は知らない」
事実、曹仁が兵を挙げる際、天の御遣いの名を慕って集まってきた兵が多数いた。そうして集まってくれた者たちを、曹仁は受け入れることはなかった。結果残ったのは昔なじみの仲間達30人だけだったのだ。
「だから、姉貴が兵を雇えってくれようとした金を受け取っとけばよかったんだ」
「あの倹約家の姉ちゃんから、あんな大金受け取れるわけないだろう」
「・・・・・・」
曹仁は知らないことだが、その倹約家の幸蘭が“仁ちゃん預金”と称して大金を貯め込んでいることを蘭々は知っていた。最も、同じく“蘭々ちゃん預金”なるものが存在することには蘭々も気付いてはいなかった。
「どちらにしても、義勇兵なり金で雇うなりして兵を増やす必要があるのは確かですぜ」
角が理を説く
「姉ちゃんほどではないにしろ、俺だってそれなりに金なら持ってる。それで・・・」
「それで何人くらい雇えるんだ?」
「に、2,3人は」
「・・・」
冷たい視線を送ってやる。曹仁は視線を避けるように俯いた。もとよりこの兄が言って聞くような人間ではないことはわかっていたが、少しいじめてやろうという気になっていた。
「・・・・・・ふふ」
俯いて立ちつくしている曹仁を見る自分が、自然と笑みをこぼしていることに蘭々は気が付いた。そういえば華琳や幸蘭も曹仁のこういった姿を見る度にうれしそうにしていたこと蘭々は思い出した。これが血のなせる業か。なんとなくいけないものが目覚めそうな気がして、蘭々は口を開いた。
「はぁ。・・・ったく、しょうがないなぁ」
大仰な溜息とともに肩を竦めてみせる。
「俺もいくらか持ち合せがあるし、兵のことはまた後で考えるか」
曹仁が受け取らなかった“仁ちゃん預金”の一部を蘭々は預かってきていた。あの吝嗇な姉の顔を思い出すと、おいそれと手を出す気にはなれないものであったが仕方がない。
「ああ!そうしよう」
「・・・はぁ」
うれしそうに顔を上げる曹仁を見て、蘭々は溜息をついた。今度は演技ではなく、この兄につい甘くなってしまう自分自身に対して出たものだった。
曹仁が、牛金と曹純を引き連れて戻ってくるのが見えた。
「受けてくれるかな、ご主人様?」
桃香の口から不安が漏れた。曹仁こそが乱世を鎮める天の御遣いだと見定めた思いの彼女の口からついて出る言葉は、すでに彼を主として扱っていた。あの瞬間、戦場で感じたものはまさしく天啓というものであったと桃香は感じていた。
「どうでしょう、何やら揉めているようでしたが」
「大丈夫なのだ」
声色に不安の色を滲ませる愛紗とは対照的に、鈴々は能天気に断言した。
「・・・」
曹仁との距離が縮まる。
そして、その口が開かれた。
初めての軍議が開かれていた。
「・・・」
「・・・」
沈黙が流れる中、曹仁がこちらに何か合図を送っていることに桃香は気付いた。
「・・・」
「・・・」
どうやら進行を促しているらしい、と気付くのには更に時を要した。
「ええっ、わたしが司会するんですか!?ごしゅ――曹仁さんがやってくれんじゃないんですか」
ご主人様と言おうとした瞬間注がれた曹仁の厳しい視線に、桃香は思わず身を竦めた
「同盟の盟主は劉備殿ということに決まったでしょう?」
「あぅ、でも~」
劉備軍と曹仁軍の間で同盟が結ばれていた。
臣従の意を示した桃香達3人に対して、曹仁は首を縦には振ってくれなかった。当然の如く言いつのる3人に対して曹仁は言った。天の御遣いである以前に自分は自分だと。天の御遣いであるという理由だけで無条件に預けられる命に、俺は答えることが出来ないと。
ならばと、桃香が持ちかけたのが両軍の同盟関係であった。せめて天の御遣いとしてではなく、曹仁自身を見極めるための時間を与えてほしいと。今度は曹仁も首を縦に振ってくれた。
そうして同盟が結成された。矢面に立つことで天の御遣いの名を慕った兵が集まることを嫌った曹仁が固辞したことで、盟主は桃香が務めることとなった。
「はぁ、わかった。俺が代わりに進行しましょう」
曹仁が呆れたように溜息をつきながらも、司会を代わってくれた。桃香はほっと胸を撫で下ろした。その様子を見て、愛紗からも溜息が漏れる。
「では、角。捕らえた黄巾兵達から何か判明したことは?」
「はい、まずこれまでわかっていたことの確認になりますが。黄巾党の兵は、彼らの中で会員と言われる狂信者達と、飢えに苦しんだ民たちの2種類の兵に分かれています。将としては国を憂える侠を引き込み、その任に当てています。今回捕らえた連中もご多分にもれずその2つに当てはまっています。」
「ふむ。その口ぶりからすると、新たに分かったことも何かあるのか」
「はい。捕虜の中に紛れ込ませた者の報告によると、会員の者が身に着ける黄巾にはそれぞれに小さく数字が刺繍してあるそうです。これは会員番号と呼ばれているらしいんですが」
「・・・まるでファンクラブみたいだな」
「ふぁんくらぶ?」
耳慣れない言葉に桃香は思わず聞き返した。
「いや、なんでもない」
曹仁は頭の中に浮かんだ考えを打ち消すように、数度頭を振った。
「つまり、会員とそうでないものを区別することが出来るということだな」
「はい」
「やつらの首魁・大賢良師張角については何かわかったか?」
「それがなにも。会員間であっても敵地では張角のことを話すのは禁じられているようです」
「それでなお士気を落とさず、結束も保つか。なかなか大した人物みたいだな、張角という男は」
「会員からの慕われ方は尋常じゃありませんね」
「何か他に報告があるものは?」
その後も軍議は滞りなく続いていった。隣にいる愛紗は時に自らの意見を述べ、積極的に軍議に参加している。その隣の鈴々は退屈そうに視線を彷徨わせている。桃香は軍議を進める曹仁の横顔をのぞき見た。曹仁は軍議に集中しているのか、こちらの視線に気づかない。初めて間近で見た時も思ったが、大きな眼が印象的だ。その瞳に強い意志を秘めていると感じるのは、自分が彼を主と見定めたが故の錯覚だろうか。その瞳が、じっとこちらを捉えている。正面から。
(・・・正面から?)
「・・・劉備殿?」
「はっ!?・・・な、なんでもないですよ!」
気付くと曹仁と目が合っていた。ずいぶん長い間見つめ続けていたようだ。
「えっと、話聞いてました?」
「あ、あの、その、ご、ごめんなさい!」
「・・・もう一度説明しますね。捕虜の中から、生活に苦しみ仕方なく黄巾党に入った者たちだけを選び出します。劉備殿にはぜひ、彼らを説得し、我らの仲間に引き入れてもらいたいのです」
「は、はい!任せてください」
隣にいる愛紗からの無言の圧力に押され、桃香は曹仁の話の内容も理解せぬままに、勢い込んで返事をしていた。
捕虜にした兵の内、約半数の300人ほどの前に劉備が立っていた。万一に備え左右には関羽と張飛が控え、その後方から曹仁は様子を窺っていた。
「うう、わたしに出来るかなぁ」
「桃香様、自信を持ってください」
「お姉ちゃんなら大丈夫なのだ」
「あぅー」
劉備が曹仁の方をちらちらと伺ってくる。曹仁は大きく頷くと答えた。
「劉備殿、あなたは人を惹きつける魅力をお持ちだ。気取らず思いの丈を彼らにぶつけてください」
「・・・はい!」
劉備は覚悟を決めた様に、前を見据えた。そう、彼女が劉玄徳ならばその人気は人々を惹きつけて止まないはず。
劉備は大きく息を吸って、言葉を紡ぎ始めた。
「皆さん、いくらお腹が減っていても、他の誰かから食べ物を盗るのはいけないことです!」
最初に発せられた言葉は、そんな気の抜けたものだった。
「お疲れさまです」
上気した顔でこちらに向かってきた劉備に、曹仁はねぎらいの言葉をかけた。
「はあぁ~、き、緊張したよぅ」
気の抜けた始まり方をした口舌は、時には劉備自身のこと、時には民のこと、そして時には天下のことにまで及び、総じて何を話したいのか今一つ伝わらないという間の抜けた内容であった。華琳の理路整然とした弁を聞きなれた曹仁には特にそう感じられた。
(―――しかし、熱い)
劉備の言葉を聞くうち、曹仁は自らの胸が熱く滾っていることに気が付いた。華琳の言葉は、ぐいぐいと聞く者を引っ張る力に溢れている。対して劉備の言葉は、それ自身は何の力も待たないが、聞く者に自ら動き出す力を奮い起させるようだった。
実際、捕虜になっていた者達は、次々に義勇軍への参加を申し出ている。しかし今思い起こしてみると、肝心の兵にと勧誘を促すような言葉を、劉備は一言も口に出してはいなかったのではないだろうか。
「見事です、劉備殿」
未だ冷めない胸の滾りを視線に込め、劉備を真っ直ぐに見つめて曹仁は口を開いた。多くの思いが胸を駆け廻っていたが、口から出た言葉は簡単だった。
「あぅ・・・そんなに見つめられると照れちゃうよぉ~」
劉備は顔を赤らめると視線を逸らした。
「この分じゃ、ほとんど全員が仲間に加わりますぜ」
角も興奮した様子でこちらに寄ってきた。
「兵糧、それに新しい装備も必要だな」
黄巾族が使っていた武具は粗末なものだった。軍として機能させるなら、統一させたものを一揃え用立てる必要があった。
「金ならあるぜ」
蘭々も上気した顔を赤らめながら声を挙げた。
「金はあるか。問題はどこで買うかだな」
この戦時中だ。どこであれ、武器は必要とされている。これだけのまとまった数を一度に手に入れるのは難しい。
「この辺りを治めている者にでも、掛け合ってみるか」
「この辺りを治めている者というと、確か公孫賛殿ですね。騎兵戦に優れた一角の人物だと聞きますが」
「公孫賛・・・あっ!そういえば白蓮ちゃんがこの辺りに赴任するって言ってた!」
関羽の言葉に、劉備が声をあげる。どうやら知り合いらしい。曹仁にとっても幾分親しみのある名だった。
「公孫賛・・・・・・伯珪殿か」
当面の目的地は決まった。
目の前ではまだまだ義勇兵に名乗りを挙げる者たちが後を絶たずにいた。