「もっと簡単に落とせると思ったのだけど、意外に粘るわね」
孫呉の兵にすっかりと包囲された袁術の居城を眺めながら、雪蓮が言った。祭は、そんな雪蓮と城へ交互に視線をやった。
揚州州都、九江郡は寿春。春秋時代にはかの軍事大国楚の首都であり、孫家の遠祖孫武が攻略した地である。それが今日の戦場となっているのだから、孫呉の宿将たる祭ならずとも感慨深いものがあろう。
反董卓連合の解散より半年、遂に雪蓮は孫呉再興の軍を発していた。
「兵はさして調練を積んでいるとも思えないのだが、将が良いのだ。対してこちらの有力な将は支城の奪取に回しているしな」
袁術の居城の包囲を完成させると、その場に冥琳だけを残し、諸将は支城の奪取に努めた。民の心はすでに孫呉にあるとはいえ、規模の大きな城郭ともなるとさすがに袁術の信任厚い将が守りに付いている。それはひとつひとつ落とす必要があった。各将は民を糾合し兵力を増しながら、軍旅を続けている。募兵と、集まった新兵の調練を兼ねた行軍、そこから実戦経験を積ませることも目的の一つだ。
現状包囲に加わっている将は、冥琳、雪蓮、そして祭の三人である。雪蓮と祭は支城を落として合流を果たしたばかりであるし、冥琳も全軍の統率を取りながらであったから、ここまでの攻城は本腰を入れたものではない。
それでも、あの袁術の居城であることを思えば驚異的な粘りであると言えた。
「将? 張勲がそれ程の指揮を執るとも思えないのだけど。―――ああ、太史慈のことね」
「そうだ。太史慈の直属の兵だけはさすがに精強だし、何よりあの弓の腕だ。前線の指揮官がすでに何人も討ち取られている。楯を並べさせても、楯ごと貫かれる。今は木製の楯二枚に鉄板を挟んで防いではいるが、指揮官が楯に隠れて縮こまっていては兵の意気も上がらん」
「ほう、それは面白いな」
祭は初めて口を挟んだ。
「面白くなどありません。城兵は神箭手などと言って持てはやし、こちらの兵は恐れを抱き始めているのです。太史慈が城壁に姿を現す度、城方の士気は上がり、我が方の士気はその分だけ下がっているのですよ」
「わかっておるわ。そういうことなら、儂が何とかしてやろうと言っておるんじゃ」
「……まあ、それで兵の損耗を抑えて城を落とせるなら、悪い手ではないか」
返答も待たずに城壁へと足を向けた祭の耳に、冥琳が渋々といった口調で言うのが聞こえた。
「太史子義はおるか!」
攻城の兵を下がらせ、一人城門前に突出すると、祭は大声を発した。
しばしの喧騒の後、城壁の縁に一人の男が身を乗り出した。八尺(二メートル)にも届こうという長身は見紛うはずもなく太史慈のものだ。
「弓が得意とは聞いておったが、ずいぶんと、我が同朋を討ち取ってくれたようじゃのう」
敵と交わす言葉など無いとでもいうつもりなのか、太史慈は無言で返す。祭は構わず続けた。
「若造が一丁前にも神箭手などと呼ばれておるらしいな」
やはり無言。ただ、何か察するところがあったのか、背にした弓と矢に確認するように手を伸ばした。
「儂は黄公覆という。名ぐらいは聞いたことがあろう?」
太史慈が首を縦に振った。城壁の下からでは見逃しかねない動作だが、弓使いの祭の眼は容易くとらえている。それも見越しているのだろう、太史慈は特に言葉を続けはしなかった。
「ならば一手お相手願おうか」
言って、祭は太史慈に向け弓を構えて見せた。
「下から射って私に勝つおつもりか?」
初めて、太史慈が口を開いた。抑揚の少ない落ち着いた口調だが、一言一句はっきりと聞き取れるだけの強さを持った指揮官向きの声だ。
「大の大人が孺子を相手に本気になるものでもあるまい?」
「……わかりました。ならばお相手しましょう。何本の矢をお持ちか、黄公覆殿?」
「十」
太史慈は矢籠から数本を抜き取ると、近くの兵に手渡した。同じ数の矢で勝負する心積もりのようだ。
「では、参ります」
「応」
太史慈が鉄弓に矢を番えた。長身の太史慈の身の丈ほどもある、相当な強弓と見えるが、連射には向かないだろう。矢も相応に長く、矢籠も背に負っている。それも矢継ぎに有利とはいえなかった。
対する祭の弓も長大である。多幻双弓と呼ばれるその弓は、その名の示す通り同時に二本の矢を放つ事が出来る。矢羽の角度や数を変えることで、放たれた二矢はそれぞれ別の軌道と速度でもって標的を捉える。今回も、当然二矢を番えている。矢は太史慈のものほど長くはなく、腰に据えた矢籠には残り八矢が揺れている。
張り詰めた緊張感が戦場に満ちていく。
横なぎの風が吹いた。中原の風よりも、ずっと湿り気を帯びた風だ。潮合い。何の合図も無しに、されどほぼ同時に矢が放たれた。
中空で、矢と矢がぶつかり合って弾けた。矢羽を増やし毛羽立たせたことで、わずかに遅れて飛来するもう一矢が太史慈の身に迫る。半身になって太史慈がそれを避けた。
祭は次なる二矢を番え、弦を引いた―――。
「っ!」
太史慈の二矢目。祭はとっさに身を伏せた。指先を離れた弦が、あさっての方向へと矢を放つ。
立て続けに三、四、五と射込まれる。かわしながら、祭も第三射目の二矢を放った。一射目と同じく、中空で矢と矢がぶつかり合う。残る一矢が太史慈を目掛けて飛ぶのも同じ。
結果も見ずに、祭は矢を番えた。双方、残すところは四矢。
「なっ! さすがにっ、早過ぎやしないか!?」
太史慈の七矢目が眼前まで迫っていた。祭も今度は体勢を崩さずに、最小限の動きで避ける。間を置かず八矢目が迫る。祭は被せる様に強引に矢を放った。
「くっ」
太史慈が九矢目を放つ。その様を祭ははっきりと視界にとらえた。飛来する矢を“使いものにならなくなった”弓で弾き落とした。十矢目は、いくら待ったところで飛んでは来なかった。
「……ちっ、儂の負けじゃな」
最後の一矢を番え、狙い定めたまま動かずにいる太史慈に、祭は静かに告げた。
二矢を残したままではあるが、太史慈の八矢目が多幻双弓の弦を断ち切っている。祭には負けを認める他なかった。
「弓で後れを取るだなんて、祭も年かしらね」
本陣に戻った祭に、雪蓮が容赦のない台詞を送った。
城内から巻き起こった喝采は、すでに止んでいる。それが武人の礼ということなのか、太史慈が制したようだった。祭はそれすら憎らしいというように、恨めしげに口を開いた。
「あの男、高みを利にほとんど弓を引かず連射してきおった」
どうやら太史慈は、強弓を完全には引き絞らないことで、矢継ぎ早の速射を行っていたらしい。確かに高みにあったからこその手で、地表から城壁上まで矢を射込まなければならない祭には取り得ない戦法だ。
「しかし、それはそうでしょう。その程度の判断が出来ぬ相手なれば、ここまでの苦戦はしません」
「わかっておるわ。しかし、ああまで挑発されて普通あれをやるか? 最後に一矢を残す手際といい、まったく小憎らしいほどに冷静な男じゃ」
冥琳の言葉に理解を示しながらも、やはり納得がいかないという表情で祭がぼやく。
最後の一矢、調子に乗って太史慈がそれを放ったところで、すでに防御に徹する他ない状況の祭は、恐らく防げただろう。そうなれば、印象としての祭の劣勢までは覆せはしないが、形の上では双方打つ手なしの引き分けだった。
「ふふっ、まあ祭の言うことも分からなくはないわね」
「はぁ」
雪蓮が微笑交じりに頷くと、冥琳は思わずため息を漏らした。
軍師である冥琳と、武人である雪蓮と祭、そしてあくまで軍人の職分を通す太史慈―――もちろん全員が軍人であり将でもあるのだが―――、その違いだろう。
冥琳の身からすれば、自軍の将がみな太史慈の様であればと思わないことも無い。特に、武人であると同時に自分が仕える主君でもある雪蓮には、職分を全うしようという太史慈の在り方を見習って欲しいものだった。
「もう、冥琳。ため息が多いわよ」
「誰のせいだと思っている?」
「もちろん、私でしょう? 冥琳がそんなに眉根を寄せて考え込むことなんて、私のこと以外に無いものね」
「はぁ、まったく」
「ふふっ。だから好きよ、冥琳」
にこやかな笑顔を浮かべたまま、雪蓮が数歩馬を進めた。
「? 雪蓮、どこへ?」
「ごめんね、冥琳」
思わず見惚れてしまうような笑顔もそのままに、雪蓮が馬を駆り立てる。
「―――っ! 待て、雪蓮!!」
「我こそは江東の虎孫文台が一子、孫伯符! 預け置いたこの土地、父祖の代より受け継ぎし孫呉の大地を、今こそ我が元に返還願おう!」
冥琳の制止の言葉は、朗々と戦場に響きわたる雪蓮の口上に打ち消された。
「くっ、あの馬鹿!」
「策殿なら問題無かろうよ」
祭が、特に慌てた様子もなく言う。
どちらにせよ、ここで無理に雪蓮を抑えつければ全軍の士気に関わる。それでも、この戦場自体は問題無く乗り切れる。だが、それ以上に孫伯符の将としての第一歩にいらぬ瑕をつけることとなるのだ。
「……はぁ」
「城の包囲は成った! もはや、この地は我らの手中にある! ―――太史子義、我と剣を競おうぞ! それが、唯一城を守る方法だ! 主君を想うならば、出てまいれ!」
冥琳が溢したため息は、また雪蓮の大声に打ち消された。
孫策が自分を呼ばわっている。力強い声音は、城内くまなく響き渡っていく。敵総大将自らの一騎打ちの申し出に、兵がざわめいた。
黄蓋に弓の勝負を挑まれた時にも感じた熱が、また太史慈の胸の奥でくすぶった。同時に軍人としての思考が、それを打ち消していく。
剣の勝負とあれば、弓の勝負と違い城外へ出ざるを得ない。そして、黄蓋のときとは違い五分の勝負となる。
「太史慈よ、行って孫策めの首を、わらわに捧げるのじゃ」
「―――っ、袁術様。ここは危険です。宮殿にお下がりください」
太史慈は城壁の上に姿を現した袁術を庇う位置に移りながら、口早に告げた。
「わかっておる。お主が孫策めを討ち果すところを見届けたら、すぐに下がるのじゃ。さあっ、行って来るのじゃ!」
「はっ」
袁術の言葉に短く返すと、太史慈は剣把に手にやった。
太史慈の剣は、張勲や近衛隊などの袁術に近侍する者達に支給されるものである。ただ他とは違い、刃は普通の剣を二枚重ねたほどの厚みが持たせてある。
袁術の周囲に楯を持った兵を配置すると、太史慈は一礼して城壁を降りる階段へと足を向けた。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ、太史慈さん。勝算はあるんですか? あの方、化け物みたいに強いんですよ」
太史慈の行動が予想外だったのか、袁術に侍っていた張勲が慌てて呼び止めた。
「五分、……いえ、いささか分の悪い賭けとはなりましょうが、このまま包囲を継続されるよりは勝ち目もありましょう。万一の場合には張勲殿、兵の指揮をしかと願います」
足だけ止めて言うと、太史慈は再びを歩を進めた。城外からは、孫策の大声が続いている。
「ま、待つのじゃ、太史慈!」
主君の声に、今度は太史慈も向き直った。
「ばかもの! 死ぬかもしれないのなら、なぜそう言わんのじゃ!」
「はっ。申し訳ありません」
「まったく。お主の命はわらわのものなのだぞ。勝手なことをするでない」
「そうですよ、太史慈さん。あなたが死んだら、全軍の指揮は誰が執るんですか」
「そうじゃ、そうじゃ。お主が死んだら、誰がわらわにはちみつを取ってくるのじゃ」
「はっ、失礼致しました」
張勲の追従に、胸をそらしてことさら尊大に言い放つ袁術に、太史慈は片膝をついて頭を下げた。
「よいか、太史慈。これよりわらわの命無しに死ぬことを禁ずる。死にそうなときは、ちゃんと先に言うのだぞ」
「はっ」
太史慈が袁術に仕えることとなったのは、巡り合わせとしか言いようがなかった。初めて出会った袁術に、みかんを一つ貰ったのが全ての縁の始まりだった。
「―――太史慈、来ないのか!」
また、孫策が太史慈を呼んだ。
「ふられたな」
「むう。祭との勝負には応じたくせに」
「太史慈の立場からすれば、城外に出ねばならない剣の勝負はやはり受け難いだろうさ。祭殿との弓勝負は、自分に有利な条件であったからこそ受けたのだろうし」
冥琳の言葉にも、雪蓮は納得がいかないのか、小首を傾げている。
「黄蓋殿ならともかく、さすがに孫策様が御相手では分が悪いとの判断でしょう」
「またずいぶんと引っ掛かる物言いをするのお、朱桓」
口を挟んだ朱桓を、祭が睨み据えた。
朱桓は極めて優秀な人材ではあったが、頑なな性格に難があった。雪蓮や蓮華の命には従順だが、それ以外の人間に対しては敵愾心を露にするところがあり、時には冥琳や祭にすら喰ってかかることがあった。
「朱桓、聞いておるのか」
ここでも朱桓は祭の言葉をどこ吹く風と無視を決め込んで、雪蓮の背後にそっと寄り添った。
朱桓には雪蓮直属の親衛隊隊長を任せていた。雪蓮の直属としている分には問題も起こさないし、その能力が活かされれば冥琳ですら舌を巻くような活躍を見せる。
顔立ちは絶世の美女と言っていい程に整っているが、どこか中性的な印象もあった。本人は容姿などにはまるで無頓着なようで、わずかに青みがかった黒髪は無造作に短く切り揃えられている。本人の愛想の悪さも手伝って、どこか近寄りがたい印象もあるが、これで兵達には慕われているという。
「何がそんなに気にかかるのだ、雪蓮?」
祭と朱桓のやり取りを尻目に、なおも首を捻っている雪蓮を冥琳は問い質した。
「う~ん。確かに冷静な判断の出来る軍人だとは思うけれど、あの太史慈、そこまで計算づくで動く人間かしら」
「? どういうことだ?」
「説明は難しいのだけど。例えば、あの鉄弓。大男の膂力を活かすにしたって、あんな馬鹿げた大きさの弓を普通使うかしら。武人として力量を競うというならともかく、行軍をして戦をしての軍では、やはり邪魔でしょう」
「ふむ。どこかに武人としての思いも残しているということか?」
「だと、思ったんだけど」
雪蓮が、珍しく考え込むように唸り始めた。
数日後、再び孫策が前線に姿を現した。
城を包囲する軍は、この間にさらに厚みを増している。孫策の二人の妹、孫権と孫尚香が軍勢を伴って合流を果たしていた。揚州の領民はこぞって孫呉の支配を受け入れ、袁術の勢力圏は今やこの城を残すのみということだろう。
太史慈は宮殿へと足を向けた。道すがら視界に飛び込んでくるのは、疲労に崩折れ、死んだように眠る兵達である。そうして束の間の休憩の後、再び守備に戻るのだ。兵の疲労は極限まで達していた。普段気の抜けた調練しか課されていないだけに、いつ折れてもおかしくはない状況だった。
「袁術様」
「太史慈か。性懲りもなくまた孫策めが勝負を挑んでいるようじゃな。まったく、馬鹿みたいに大声を出しおって、うるさくてかなわぬわ」
「この包囲戦での孫策の戦振りを観察し、勝算がつきました。孫策との一騎打ちの許可を願いたく」
「おお、孫策めに勝てると申すか。それは良いのじゃ。すぐに行って、うるさい口を閉ざして参れ。いや、わらわも見学するのじゃ。七乃も付いてまいれ」
「はーい、美羽様」
護衛の兵に守られ城門へと向かう最中、太史慈は視線で張勲を誘い、足を緩めた。
「本当に勝てるんですか、太史慈さん? 犬死されては困りますよ」
袁術に声の届かないほどの距離を置くと、太史慈が口を開くより先に張勲が切り出した。
「そのことで、お願いしたき儀がございます。確かに孫伯符という武人、尋常な強さではありません。しかし、相討ち覚悟ならば。ですから私と孫策が倒れ次第、すぐさま敵大将の討ち死にを喧伝し、機を逃さずに兵をお進め下さい」
「はぁ、わかりました」
気乗り薄な様子で張勲が答える。それでも太史慈は、満足気に一つ頷いて見せた。張勲が実際のところは決して無能な指揮官ではないということを、太史慈はよく理解していた。
「もう一つ、あまりあの御方を甘やかされますな」
「……最後のお小言というわけですか。まぁ、一応聞いてはおきましょう」
袁術はまるで気付かない様子であるが、太史慈と張勲は犬猿の仲と言ってよかった。孫策との一騎打ちに応じようとした太史慈を一度は止めたのも、あくまで自分が戦の矢面に立ちたくはなかったからだろう。
主君を厳しく教導したい太史慈と、主君とともに享楽的に時を過ごそうという張勲では、元々うまくいくはずもない二人なのだ。
忠告も、それで張勲が変わるとも思えなかった。最後に言うだけのことは言っておく。それだけのことだった。
袁術が、遅れている二人に気付いて呼んでいる。
「は~い、美羽様~」
太史慈は小走りに駆け出した張勲の後に続いた。
「それでは、行ってまいります」
城門の前で、引き出されてきた愛馬に太史慈はまたがった。名馬とまでは言い難いが、太史慈の巨躯を支えて十分に駆ける馬だ。
「うむ、わらわも城壁の上からしかと観戦しておるからな。しかと励むのじゃぞ」
「はっ。―――開門!」
うっすらと城門が開かれた。
孫策が太史慈に呼び掛けている間は、攻城の手は休められている。悠々と太史慈は城外へと踏み出した。
「やっと来たわね」
孫策が愉快そうに笑った。太史慈は、無言で厚重ねの剣を構えた。
孫策の手には南海覇王。海賊退治で名を馳せた孫堅の佩剣として名高い。剣身は太史慈の剣よりも拳二つ分は長そうだ。
「やる気は十分見たいね。―――では、勝負」
「どうぞ、いつでも」
構えは対照的だった。
太史慈は巨体を絞り込むように小さく構えた。両手に持った剣は正中線を守るように中段にやや立てて据えた。水も漏らさぬ守りの構えである。
対する孫策は自然体に近い。片手下段に剣を下げ、無造作に全身をさらけ出している。
太史慈は定石通り、右―――孫策の左手側―――に、おもむろに馬を進めた。騎馬戦、それも剣のように短兵同士であれば特に、馬の位置取りは勝敗を大きく左右する。孫策のように片手で剣を扱う者と対するときは、剣を持たない側に回り込む。
太史慈が馬の位置取りを制する直前、それまで悠然と構えていた孫策が動いた。馬ごとぶつかる様にして、一息に間合いを詰める。定石を無視した、自身の左手側から。
「―――っ!」
太史慈が気付いた瞬間には、すでに孫策の長剣は右手から左手へと移っていた。
速い。が、それ以上に孫策の一撃は雑だった。元より受けの構えの太史慈は、十分な余裕を持って、その剣を弾いた。
まだ、太史慈の剣の間合いには遠い。体格差があるとはいえ、得物の長さの違いがあるし、肩を入れられる分だけ剣は片手で扱う方が間合いが長い。
続けて三つ、孫策の斬撃を弾き返した。いずれも流麗とは言い難い。四つ目。正中線を抜く上段からの一撃。太史慈は迷わず前へ詰めた。
孫策は南海覇王を引くと、馬ごと体当たりするように突き出した太史慈の剣を仰け反って避けた。馳せ違う。
「相打ち覚悟ってわけ?」
馬首を巡らし、孫策が言った。
「小覇王孫伯符の首と引き換えなら、悪くはありません。もっとも、今の斬撃では兜割りは不可能でしょう。左手で剣を扱ったことがおありか?」
孫策の戦振りを、人は小覇王と呼び称えた。言うまでもなく高祖劉邦の宿敵にして戦術史の怪物、覇王項羽に因んでのものである。それは同時に、王の器に非ず、というわずかながらの侮蔑も含んでの表現と言えたが、孫策は特にそれを気にした様子もなく返した。
「まったく無いってわけじゃないわ。何となくいけると思ったのだけど」
「何となく、ですか」
孫策はいつか牙を剥く。袁術と張勲には、不思議なほどにその認識が欠如していたが、太史慈は約束された未来としてこの戦を想定してきた。虎の子が、いつまでも飼われているはずがないのだ。
だから、孫策の戦振りにはいつも注意を向けていた。孫策の用兵は、結果として大戦果につながってはいても、その瞬間には不可解と思えることが多い。定石にはまらない戦だった。
戦では、そうした方が良いと思える場面は確かにある。そんな時、太史慈などは悩む。悩みぬいた上に決断して、やはり定石通りに動いた方が良かったと後悔することも多いのだ。
孫策の戦は、そんな定石破りを日常としていた。こうして、総大将自ら一騎打ちに挑むことなど、その最たるものだ。
孫策は、何を考えて行動しているのか。太史慈は疑問が一つ溶けた思いだった。
「いくわよ」
孫策が馬ごと飛び込んでくる。今度は定石通りに右手側。しかし、片手持ちと長剣という間合いの利を放棄した深い踏み込みは、やはり型破りだ。
手を伸ばせば触れ合うような距離で剣と剣が交錯した。一合、二合、三合。
さっと、孫策が間合いを取った。
「ふぅ、徹底して相打ち狙いなのね。仕方ない、勝ってから誘うつもりだったのだけれど、先に言うわ。―――太史子義、私に降りなさい」
剣を降ろし、孫策がそう切り出した。
「貴方ほどの人物が袁術などに仕え、空しくその春秋を終わらせるつもり? その力を広く天下で振るってみたいとは思わないの?」
「己が存在を天下に問いたいと、乱世に武人として生を得た以上、そう思わぬ者などおりません」
覚えず口走っていた。自ら犯したらしからぬ行為に、太史慈は困惑を覚えた。
「なれば、私の元へ来なさい。共に天下へ雄飛しましょう」
孫策の言葉は直截的であり、情熱的と言ってもよかった。
「あのお方も、本来名君足り得る資質を備えてはいるのだ」
「あのお方って、袁術のことよね? とてもそうは思えないけれど。何故貴方がそれほどまでに袁術にこだわるのか、分からないわね」
「みかんを一つ、いや、命を一つ頂いた」
一時期、太史慈は孔子二十世の孫に当たる名士孔融に仕えていた。孔融の元を離れようと決めたのは、あの劉玄徳に出会ったからである。
孔融の居城が黄巾の残党に包囲された際、救援を求める使者として立ったのが太史慈である。そしてその援兵を求めた相手というのが、劉備の義軍であった。劉備がちょうど県尉を辞して、各地を転戦していた頃の話だ。名士中の名士たる孔融を救援したことで、義軍を率いる大徳の人、という劉備の噂が中華に広がる切っ掛けの一つともなった戦である。
劉玄徳との出会いが、太史慈に人の器をいうものを教えた。孔融に仕えたのは単に伝手があったことと、彼が自分を高く買ってくれたからに過ぎない。太史慈は尊貴な生まれから来る名声に、何の魅力も感じることはなくなっていた。
主君選びの旅が始まった。無位無官といえど劉玄徳、同じく官を辞していた曹孟徳、器量人と名高かった袁紹、見るべき者は多くいた。江東の虎と呼ばれた母孫堅の威を継ぐ孫伯符も、当然その候補の一人であった。
旅の道程、飢餓に苦しむ者達に施すうち、路銀はたちまちのうちに尽きた。今度は自身が野垂れ死にかと、覚悟を決めかけた太史慈を救ったのが袁術であった。
初めに与えられたものはみかん一つ。それだけの縁である。しかしてみかん一つ分の借りは、餓えに苦しむ当時の太史慈にとっては、命一つ分の借りも同じことであった。
「みかん一つ、ね。どんな事情があるのか知らないし、興味も無いけれど。そのみかん一つの恩義に報いるために、その才覚を無下にするつもり?」
「言ったはずです、我が主にも十分な資質が備わっていると」
「あの子の成長を待つという事?」
「乱世は容易く治まるものではありません。その時間はあります」
もっとも自分はこの場で命を落とす公算が強いが、と太史慈は心中で付け足した。
「どうかしら? 私はこの乱世は想像以上に早く収束すると感じているわ」
太史慈にもその予感が無いではなかった。
中原では、わずか半年前の反董卓連合の際には五千の私兵を率いるに過ぎなかった曹孟徳が、青州黄巾賊を下し、今は十万を超える軍兵とそれを支え得るだけの地盤を固めつつあった。河北勢力は、公孫賛を撃破した袁紹によって一つにまとめられつつある。情勢は、中華の歴史に例をみないほど、目まぐるしい速さで移り変わっていた。
太史慈の沈黙を同意ととったのか、孫策が一つ頷いて続けた。
「どちらにせよ、可哀想だけどあの子に成長する時間なんて無いわ。ここで終わるのだからね」
「……貴殿を打倒し、私が時を作ります」
「そう、降る気はないのね。なら力付くで―――」
孫策が、改めて剣を構え直した。とはいえ、先刻と同じく構えともいえぬような自然体の片手下段。
太史慈は肌が泡立つのを感じた。構えは同じでも、通ってくるものはまるで違っていた。
「―――くっ!」
跳び込みからの一撃を、太史慈はかろうじて受け止めた。
打ち込みも、鋭さを増している。反撃する暇はない。次の剣に備えて、体勢を維持するだけで精一杯だった。
二撃、三撃、四撃。嵩に掛かって攻め立てる孫策の斬撃は、全身を使った大振りと言ってもいいものだが、返す剣が舌を巻くほど早い。やはり、反撃を差し挟む余地はなかった。粘り続ける。それで、勝機は無理にしても、相打ちの機を見出すしかない。
―――これが、孫伯符か。
孫策の剣は、先ほどまでの会話以上に雄弁に自身を物語っていた。燃え盛る火の苛烈さも、どこか雲を思わせるような捉えどころのなさも。
魅かれるものがある。それが偽らざる太史慈の気持ちだった。それでも袁術の将であり続ける。その思いは微塵も揺らぎはしなかった。
一撃を受けるたび、剣が火花を散らす。同時に、細かな鉄片も散って、太史慈の顔を打った。
―――剣が保たないか。
太史慈より先に、剣の方が限界を迎えかねなかった。
強弓に執着した弓とは違い、剣にはあまり拘りはなかった。
それで飛距離が変わる弓とは違い、あくまで自分の技量があってのものだ。ただ自分の力に耐え得るものであればいい。よほどの名刀宝剣でもない限り戦場では折れるものだし、必要とあらば補給を受けるなり、敵から奪えば良い。一つ所に留まって、同じ相手と剣を交わし続けるなど、戦場では本来有り得ぬことなのだ。
それでも、焦りはしなかった。焦りが勝利に繋がることはない。一撃一撃を、確実に防ぎ続けた。
孫策の横薙ぎ。好機。ほんのわずか、これまでよりも溜めが大きい。あるいは得物の差で勝つことに対する躊躇いがそうさせたのか。
太史慈は、孫策の斬撃に身体ごと、いや、馬ごとぶつかる様に、剣を打ち付けた。
鍔競り合い。体格に勝る太史慈が有利の形だった。孫策は、両手で剣を持ち直して、必死で抗っているが、一気果敢に攻め立てていた分だけ呼吸が荒い。太史慈は、ぐっと全身で伸し掛かった。
孫策の顔が近い。見つめ合った。吸い込まれるような蒼い瞳。
その目が、すっと閉じられた。観念したのか。失望に似た思いが太史慈の胸を過ぎる。しかし、再び目を開けた孫策の顔に、不敵な笑みが浮かんだ。
「―――ふっ!」
孫策が短く息を吐いた。同時に、ふっと、剣を押し返す力が消失した。力の行き場を失い、太史慈の身体が前のめりに泳ぐ。馬も、数歩足を進めた。
「籠城で萎えきった馬の脚と、それに剣。その二つだけの差だけれど、―――私の勝ちね」
馬首を返すと、孫策が額に浮いた汗を手で拭いながら言った。
「……斬鉄。いや、他でもない貴殿の話なれば、ここは断金と言うべきか。これも、何となくの思い付きですか?」
「あら、ずいぶん私のことが分かってきたじゃない。最後に少し、押す力が弱まったわ。馬の力が抜けたのね。それで、何となく上手くいくんじゃないかってね」
太史慈は、手中の剣に目を落とした。
中程から綺麗に断たれている。それだけでなく、余勢を駆った孫策の南海覇王は、太史慈の兜の右頬の部分をも切り裂いていった。
「……私の負けです、孫策殿。貴殿の軍門に下りましょう」
太史慈の脳裏に、袁術の顔が浮かんだ。
太史慈を失った城の陥落は早かった。
孫呉の兵が城壁に取り付くと、大した抵抗も無く守兵は武器を下した。彼らの手引きで、すぐに城門も開放された。
雪蓮は、朱桓率いる親衛隊を従え、真っ先に城内へと飛び込んだ。
「城内を御案内いたしましょう」
太史慈が追いすがって言った。一騎打ちの当日のうちに、幕僚の地位で軍に迎え入れている。
「それには及ばないわ。何度となくこの城には呼び出されているもの」
「そうでした。では、お供させていただきます」
「無理をしなくてもいいわよ。貴方には、今後いくらでも活躍の場があるわ。この戦は、下がっていてくれて構わない」
「いえ、自らの戦の幕引きは、見届けたく思います」
「そう。ならついてきなさい」
勝手知ったる他人の城と、宮門を潜り抜け宮殿に踏み込むと、謁見の間へと続く本道を抜け脇道にそれた。呼び付けられるたび、迷ったふりをしては宮殿内を見て回っている。危急の時に、どこを抜けてどう逃げるかは予想がついた。
「―――袁術!」
「ひっ!」
渡り廊下を駆ける袁術と張勲の姿を捉えた。雪蓮は身を躍らせると、二人の襟首を掴んで引きずり倒した。
「そ、孫策っ。な、なんの用じゃ。妾達はいま忙しいのじゃ。こ、この城はしばしおまえに預けおくから、留守をしっかり守るのじゃぞ、のう、七乃」
「え、ええ、お嬢様。ああ、忙しい忙しい。それでは孫策さん、後のことはお願いしますね。さっ、行きましょう、美羽様」
恐怖に震えながらも、袁術と張勲は存外口が回った。べらべらと捲し立てる二人に、孫策は無言で剣を突き付けた。
「ひぃっ! そ、そうじゃ、こ、ここここれを返す。じゃから―――っ!!」
ひょいっと、袁術の差し出した物を取り上げた。
石とも見えるそれは、手にしてよくよく見れば玉であることが解る。白玉でつくられた印章である。白玉の印章は天子のみに許されたものであり、それを玉璽という。
玉璽は用途によっていくつかの種類があるが、雪蓮の手の内にあるものは伝国璽と呼ばれる特別なものだった。伝国璽だけは、他の玉璽とは違い実際に使われることのない印章だった。秦の始皇帝によってつくられたと言われるこの印は、所持する者の天子としての正当性を証明する儀礼的なものなのだ。逆説的に、手にした者は天下を治める正当性を得た、とも言える。漢の高祖劉邦も、秦王朝を滅ぼした際にはこの玉璽を引き継いでいる。乱世におけるその価値は計り知れない。
伝国璽は、先の政争の折に紛失したと言われていた。それを、反董卓連合として乗り込んだ洛陽で発見したのが、孫呉の者だったのだ。
今回袁術を攻めた軍勢は、元々反乱の鎮圧を目的に袁術自身から借り受けた兵である。その反乱自体がそもそも冥琳の働きかけたもので、袁術の出動命令を兵力の不足を理由に一度突っぱねてやると、兵員の借用と引き換えに玉璽を要求されたのだ。兵は袁術軍に取り込まれていたかつての孫堅軍の精兵を中心としていて、そうでない者もこの地で名をはせた孫堅に思いを寄せる者達だ。玉璽程度、惜しくはなかった。借りた兵はそのまま孫呉の兵となり、同時に袁術の周りに精兵と言える者は太史慈旗下の兵のみとなったのだ。
「伝国の玉璽、ね」
眼前でふるえる袁術は、玉璽に目が眩み自ら斜陽を招いたとも言える。
ぽんっ、と雪蓮はお手玉でも放る様に、手の中のものを投げた。
「ふっっ!」
地に落ちたときには、それは四つに分かれていた。
「こんなものは、ただの石よ」
父祖伝来の南海覇王を、見せつけるようにゆっくりと二人の眼前で行き来させた。
「―――っ」
袁術と張勲。色を失った二人は、声も無くお互いの体をかき抱きふるえていた。雪蓮はその姿に、暗い満足感を覚えた。
「っ!」
背後で気配が動いた。雪蓮は振り向き様に剣を振った。
雪蓮の鼻先に、ぴたりと剣先が据えられた。剣の先には、親衛隊の中にその巨体を紛れ込ませるようにしていた太史慈の姿があった。
「太史慈、貴様!」
激昂する朱桓を、雪蓮は剣を持っていない方の手で制した。
「よりにもよってこの瞬間にか、太史慈」
「陣地では周瑜殿や黄蓋殿が目を光らせておりましたし、なによりこの状況に持ち込めるだけの隙を、今初めて孫策殿に見出しました」
「ふふっ、面白いわね、太史慈。軍人かと思えば武人で、武人かと思えば、こうした詐術も弄する」
雪蓮の剣は、太史慈の首筋にあった。眼前で止められた太史慈の剣に、とっさに雪蓮も剣を引いたのだ。ただ、さすがに皮一枚分は斬り込んでしまっている。剣把から、脈動する太史慈の血潮を感じた。雪蓮がほんのわずかに剣を進めるだけで、太史慈は血を吹いて果てるだろう。
「首をはねられる覚悟は出来ております。しかし、袁術様がお逃げになるだけのお時間は頂く」
「……」
厳然と言い放つ太史慈を、雪蓮は静かに睨み据えた。死を恐れる様子など微塵も感じられない。
「た、太史慈?」
まだ状況が呑み込めないのか、背後から袁術の呆けた声が聞こえた
「―――袁術!!」
「ひ、ひいっ!」
「そこでいつまでも何をしているっ! 貴様の将がいじらしくも命を賭して貴様のための時間を稼いでいる! 私も兵も動かん、何処へなりとさっさと消えろ!」
「じゃ、じゃが、太史慈は―――ひぐっ」
「さ、さようなら~~~!!」
駆け去る一人分の足音が聞こえた。背後に気配はもうなかった。張勲が袁術を抱えて去ったのだろう。
突きつけ合った剣の、一方が引かれた。
「孫策殿、なにを」
南海覇王を鞘へ納める孫策に、太史慈が珍しく驚きの表情を浮かべた。
「袁術が城外に退去するまでその体勢を続ける気? いやよ、そんな面倒くさいこと。貴方の言うとおり、袁術は見逃しましょう。朱桓、他の者にも、この旨伝令を」
「はっ」
朱桓の命で、親衛隊の兵がきびきびと駆け出していく。
元より袁術を生かすか殺すかは、決めかねている問題であった。
民をかえりみない悪政がたたって、揚州内での袁術の評価は芳しいものではない。袁術にあるのは名門の出という強みだけであり、それは彼女の施政を知らぬ地でより生きるものだ。冥琳が時を掛けて為した調略の甲斐もあって、孫呉の地に袁術に従う者は皆無だろう。ならば生かして乱世を賑やかせるというのも悪い手ではなかった。立ち上がったばかりの孫呉にとって、今はまだ小勢力同士の群雄割拠という状況が望ましい。
袁術の顔を見た時、天下取りへの計算が勝るのか、長く飼殺されてきた復讐の念が勝るのか。雪蓮はその一瞬の判断に委ねてしまおうと決めていた。
伝令の背を見送ると、雪蓮は当惑顔の太史慈に視線を戻した。
「これで貴方は袁術に、命一つ返したことになる。―――それで、私が首をはねるつもりはないと言ったら、貴方はこれからどうするつもりなのかしら?」
「それは……」
太史慈もゆっくりと剣を下した。
同時に孫策に駆け寄った朱桓が、親衛隊の兵に立ち尽くす太史慈を囲ませた。太史慈は、一切抵抗のそぶりを見せていない。
「朱桓、いいわ。放っておきなさい」
「ですが」
「朱桓。私の命令が聞けないの?」
「……失礼いたしました」
命一つの恩義を返すために、武人にとって命よりも大切な節義を投げ打った。そんな男に借りを作っておくのは悪くない。
「……雪蓮」
ようやく姿を現した冥琳が、兵に状況を確認すると雪蓮のそばへ寄った。
「なあに、冥琳?」
「玉璽にはまだ使い道があったのだがな」
あきれたような表情で、冥琳が言った。袁術の件は、これで構わないということなのだろう。
「わかっているわよ」
言って、雪蓮は懐から玉璽を取り出した。
「……すり替えていたのか」
冥琳は今度こそ心底あきれた、という表情を浮かべた。
「さっきのあれは、本当にただの石よ。袁術に逃げられそうになったら、飛礫にでも使おうと思って持っていたの。まったく、あの二人ったら動揺しちゃって、まるで気付かないんだもの。笑いをこらえるのが大変だったわ」
「まったく、お前と言うやつは」
「私だってそこまで馬鹿ではないわ。袁術が持っていたところでただの石でも、力ある者が、私が、持てば―――――やっぱりただの石、ね」
石ころ一つで天下は手に入りはしない。もし手に入ったなら、それは石ころ一つで覆る天下ということだ。
「しかし利用価値はある。少なくとも今回のように、数千の兵を引きだすぐらいにはな。だから、しっかりと持っていろよ」
冥琳も特に雪蓮の言葉を否定することなく、頷きながら返した。
「ええ、わかっているわ」
言いながら改めて矯めつ眇めつ眺めた玉璽は、雪蓮の目にはやはりただの石としか見えなかった。