家並みに隠れた伏兵が起つと、賊が先を争うように退くのが見えた。
城壁代わりに村の外周を囲う柵はせいぜい人の胸の高さまでしかなく、乗り越えることも容易である。しかし慌てふためく賊は真正直に正門へと詰め寄った。
圧し合いながら村の外へと溢れ出た者達は、そのまま散ることはなく、一つの集団を形成していく。数は、三百ほどだろうか。ただの賊徒としては規模の大きな一団と言えるだろう。
「へえ、思いの外うまくまとめるものだな」
散り散りに逃げ惑う賊の中から頭目を見つけ出すつもりで目をこらしていた曹仁は、率直に感嘆を口にした。
「一応この辺りでは名の通った侠客という話だ」
副官として曹仁の横に並んだ張燕がぼそりと漏らした。
もう一人の副官である角は、村に潜ませていた歩兵の指揮を取っている。曹仁と張燕は、騎兵を率いて村の外に伏せていた。
「―――騎乗!」
曹仁の号令一下、二百が一斉に馬上の人となった。
賊徒の集団が騎馬隊の存在に気付いた。村の方をうかがっていた陣をこちらへ向けて構え直している。調練を積んだ軍の動きではない。お世辞にも手際が良いとは言えないが、曹仁は賊徒が陣形を整え直すのをゆっくりと待った。
「騎馬隊が姿を見せれば、それだけで今度こそ逃げ散るか、とも思ったが」
軍としての動きに不慣れながらも、賊の一人一人がしっかりと頭目の命令に従っていることが解かる。
曹仁は騎馬隊を集団へ突っ込ませた。まずは曹仁自身が率いる百騎。
曹仁が一歩先んじて駆けてはいるが、そこを頂点とした楔の陣形ではなく、横に広く展開した形だ。賊徒の集団を残らず掃討するように駆け抜けた。第二段、張燕の率いる百騎も同じように駆ける。
反転してもう一度それを繰り返すと、賊の中に立っている者はわずかとなった。
地面からは無数の呻き声が聞こえる。曹仁の手にあるのはただの棒だった。兵にも同じものを使わせている。骨ぐらいは折れた者もいるだろうが、死者は出ていないはずだ。
この遠征に白騎兵は連れておらず、曹仁に代わって騎馬隊の調練を監督させていた。曹仁の率いる軍は、曹操軍中にあってはごく一般的な練度といえる。それでも、賊徒程度の相手は問題にもならなかった。
十人ほどがなおも小さく固まっていて、数こそ少ないが陣形と言えなくもない応戦の構えを取っている。騎馬の姿もあった。頭目はそこだろう。
曹仁が白鵠をそちらに向けるより早く、張燕が馬を躍り込ませた。鞘ぐるみの刀が振られて、賊徒が一人、また一人と地に伏していく。
最後の一人が馬上から姿を消すのを横目に、曹仁は周囲の兵に戦後処理と野営の用意を命じた。
会見の場とするために、野営地には一つきり幕舎を張らせた。
一刻ほどで、角に連れられて賊の頭目が部下二人を伴って現れる。すぐさま曹仁は口火を切った。
「食い詰めた民に、同じく食い詰めた民を襲わせてどうする? あんたも侠気を売って生きてきた男なら、苛政を強いる役人を襲え、軍営を襲え。そこには民から搾り取った糧食からなにから、溢れているぞ」
曹仁率いる一千は陶謙の本拠へ向けて、ゆるやかに徐州内を進軍中であった。
今日賊の脅威に曝された村人達が、それで明日には賊に転じる。行軍の道程で、徐州内にはびこるそんな悪循環を嫌になるほど目にしていた。どこかで断ち切る必要があることは、誰にでも解る道理であった。
曹仁は、幾度となくこうして賊の頭目達との会見に望んだ。彼らはほとんどの場合、蜂起する民に頼られる形で立った侠と呼ばれる者達である。先刻のように戦になることはまれで、大抵は角や張燕が繋ぎを作ってくる。そのために兵力とは別に、義賊であった張燕の部下と、黄巾の乱の際に曹仁と共に戦った侠客仲間に走り回ってもらっていた。かつての仲間達は、今は蘭々旗下で虎豹騎の一員であったり、校尉であったり、あるいは軍とは全く関係のないところで生きていたりするから、特別に融通をつけた形だ。
「無茶を言ってくれる。お前の言う食い詰めた民に、軍を襲う力などあるものか。満足な武器もない、飯もない、戦う術すら知らないで、どう戦えというのだ」
真ん中の男―――賊の頭目が苦々しげに言った。額にこぶを作っているのは、張燕に打たれたためだろう。
引き立てられてきた三人は初め、護衛も無しに一人待ち構えた曹仁に面食らった様子だったが、それももう落ち着いている。侠客として名前を売ってきた男達だけあって、顔つきにはどこかふてぶてしさが覗いていた。
「武器も飯も、ここにある」
曹仁が外へ向けて呼び掛けると、すぐに幕舎の中へと荷が運び込まれた。小さな幕舎の中を埋め尽くすほどに積まれたその荷は、糧食であり、槍であった。
「これは?」
「お前達にくれてやろう」
少し考え込むようにしてから、頭を振って頭目が口を開いた。
「俺たちに、何かやらせたいのか? 張闓についての情報なら、牛金という男に話した以上のことは知らんぞ」
「単にくれてやると言っているだけだ。当面の食い物を得、武器を得て、それでお前たちが何をしようが、俺の知ったことではない」
「……あんたに、うまく乗せられようとしている気がする」
「かもな。だが、飯は飯で、武器は武器だ。他に手もないのだろう? それともやはり、村々を襲うか?」
探る様な視線に曹仁は真っ直ぐ見つめ返した。
「……ご援助賜る」
しばしの沈黙の後、頭目の男は重々しく口を開いた。
「その具足、なかなか似合っているじゃない」
陶謙の使者と共に城門まで迎えに現れた詠は、曹仁と顔を合わせるや言った。
白塗りの具足は、白騎兵のためにと曹仁が特別にあつらえたものだった。
鍛え上げられた鉄製の胸甲は前面を覆うのみで、背面はなめし革が用いられ軍袍がむき出しの部分も多い。白騎兵の背後を襲える軍など存在しない、という発想の元で大幅な軽量化を図ったものだ。軍袍も真桜特製の鉄糸を編み込んだ防刃性の高いものだが、重さも動き易さも普通のものと変わらない。特別な具足など必要ないと主張していた兵達にもおおむね好評で、採用が決められていた。
試作として最初に出来あがった第一号が曹仁のまとっているものであり、そして、白塗りされた唯一のものでもあった。真っ白な塗装だけは兵に不評で、試作品以降は鉄と革の地の色が剥き出しとなっている。すでに色を塗り終えていた第一号は、曹仁へ回されたのだった。
白馬に白い具足というのは、いかにも気取った装いで、詠のからかいを含んだ口調に曹仁は幾分の気恥しさを覚えた。
「行こうか、詠さん」
「ええ、陶謙が謁見の用意を終えて待っているわ」
陶謙、と呼び捨てる詠に、使者の男が眉をひそめ何か言いかけた。詠は横目で睨みつけるだけで、それを黙らせる。
使者はまるで従者か何かのようの、曹仁と詠を馬車へと誘った。角に白鵠を預け、軍も任せると、曹仁は誘われるままに詠と共に馬車へと乗り込んだ。
馬車はゆっくりと街並みを進んでいく。
徐州は下邳県。州都ではないが徐州経済の中心地として発展を遂げ、陶謙の本拠もそこに据えられていた。
城内には裕福な商人が多いのか、道行く人は着飾り、どこかゆったりとした優雅な空気が流れていた。城郭を一歩踏み出せば、賊が横行し、飢えに苦しむ民がいるなど、この街に閉じ籠って住まう限りは想像もつかないのではないか。金さえあれば美食を貪れる反面、その米を作り野菜を育てる民には飢えで死ぬ者が際限ない。徐州という土地はやはりどこかが狂っていた。
そんな街の様子からも、陶謙という人間が透けて見えるようだった。下邳県や他の主要地が賊の標的とならないのは、州内の騒乱に満足に派兵もせず、そこに兵力を集中させているからだ。つまりは自分の身辺だけが安全で住み良ければ良いという、その程度の人間なのだ。州内に無数に存在する城郭を持たない村々など、目にも入らないのだろう。
宮門をくぐるとその傾向はさらにはっきりと目に現れた。道は塵一つなくきれいに掃き清められ、そこかしらに立つ歩哨の装備はいずれも新品同然の光沢を放っている。
曹仁は使者に招かれるままに謁見の間へと進んだ。
「徐州内での我が軍の活動をお認め頂きましたこと、主君曹孟徳に代わって御礼申し上げます」
「兵はあれだけか?」
開口一番、陶謙は怯えを含んだ口調で言った。
軍人として名を挙げた人物で、反董卓連合にも名を連ねている男だった。しかし、謁見の間に据えられた玉座に深く腰掛け、小さく隠れるようにしている陶謙からは、そんな軍歴を感じさせるものは何もない。
「事前の申告通り、騎兵二百に歩兵が八百で、総勢一千よ。その他に輜重隊の馬車が百。盗賊程度が相手であれば、それで十分だと思うけれど、何か不審な点でもあるかしら?」
詠が、居丈高に問い返す。
「い、いや、そういう訳では」
陶謙が、助けを求めるような視線を曹仁へ向けた。州内への進軍交渉の際にだいぶ脅しつけられでもしたのか、詠に向ける目には臆したものがある。四十がらみの大州の主が、年若く、女性としても小柄な部類の詠を相手に身を竦ませる様は、滑稽と言ってもいい。
「陶徐州殿のご高配を賜りまして、道中つつがなく、一兵も損ずることなくこの地へ至ることが出来ました。感謝を申し上げます」
曹仁が言うと、陶謙はあからさまにほっとした表情を浮かべた。輜重の多さにも、特に気に掛けた様子は見られない。
輜重隊には空馬車も多かった。下邳城に至る道中で、すでに兗州から運び込んだ兵糧の内のかなりの部分を、民と、民の成れの果ての賊へと配り回っている。徐州全体で食糧が不足しているわけではなく、城郭を持ち兵が守る街の倉はむしろ飽和状態に近いのだ。空いた分は金さえ払えばいくらでも購うことが出来た。
「曹子孝将軍、この度は曹兗州殿の御自らの御出陣を引き止めてくれたとか。感謝申し上げる」
陶謙が追従の笑みを浮かべて言った。曹仁は、時折陶謙から向けられる媚びる様な視線の意味を得心した。
「あくまで民のためにしたことです。陶徐州殿がお気になされるようなことではありません」
暗に、貴方も貴方の軍の失態も許すつもりはない、と曹仁は笑顔で口にした。陶謙はそれに気付かないのか、変わらぬ媚びた笑みを浮かべたままだった。
「―――曹仁さん」
陶謙との何の実りもない、表層をなぞるだけの会見も終わろうという時、背後から間延びした声が掛けられた。
「桃香さん! それに、みんなも! まさかこんなところで会うとは」
振り返ると、懐かしい面々がちょうど謁見の間へと足を踏み入れたところだった。桃香、愛紗、鈴々の三姉妹に、朱里と雛里、それに星までが顔をそろえている。曹仁は、大仰に驚いて見せた。
曹操軍の報復を恐れた陶謙は、劉備軍に救援を求めた。劉備軍は今や天下に知らぬ者のない義軍であり、賊難が横行し大敵を抱えた徐州からの要請を受けぬはずはない。桃香達一行が下邳城に入ったことは、幸蘭の情報網を経て数日前に曹仁の耳に入っていた。
「お兄ちゃん! 久しぶりなのだ」
「おっと。鈴々、すこし成長したみたいだな」
一番に駆け寄ってきた鈴々を曹仁は抱きとめた。記憶に残る衝撃よりも、いくらかずっしりとした重みがあった。
「こら、鈴々! このような場で」
「愛紗さん、久しぶり」
「お久しぶりです、曹仁殿。―――鈴々、いい加減離れないか」
愛紗は、いくらか照れた様子で一礼すると、気を取り直したように鈴々の襟首を掴んで、曹仁から引きはがしに掛かった。
桃香、朱里、雛里と、順繰りに再会の挨拶を交わしていく。
「―――これは、白蓮さん。無事だと噂には聞いていたが、桃香さんのところにいたのか」
星の前まで至ったところで、その影に隠れるようにしてたたずむ白蓮に、曹仁は今初めて気づいたという風に声をかけた。
「あ、ああ。危ないところを桃香達に助けられてな」
心持ち気落ちした様子で白蓮は返した。
白蓮が劉備軍と行動を共にしているというのは、曹操軍の想定の内である。
袁紹軍は単に公孫賛軍を敗走させたと喧伝しているが、実情はいくつかの点で異なるという報告が上がっていた。
優勢に戦を進めた袁紹軍に奇襲を掛け、一時は本陣を陥落間際まで追い詰めた一千程度の所属不明の軍勢が確認されていた。その働きがなければ、公孫賛軍は敗走どころか殲滅の危機にあったという。
一千規模の軍がその所領を離れれば、必ず各地に張り巡らせた幸蘭の情報網に掛かる。それがなかったという時点で、所属不明の軍勢は今だ本拠の定まらぬ二つの軍に限られた。
一つは呂布軍である。呂布軍は厳しい兵の選別が行われており、間諜を送り込むこと自体が困難な上に、それに成功したところで外部との連絡はさらに至難だという。
もう一方は劉備軍である。呂布軍と異なり、劉備軍は来る者は拒まずといった態で、厳しい調練に途中脱落する者は多いが、入軍自体が拒絶されることはない。ただ間諜として送り込んだ者の大半は音を上げるか、次第に連絡が途絶え、いつしか完全に劉備軍の兵に納まってしまうらしい。間諜を生業とするものにとって、義を掲げる劉備軍は眩ぶし過ぎるのかもしれない。朱里や雛里がそこまで計算しているのかは解らない。現状、領土的野心を持たない劉備軍に、探られて痛む腹はないという開き直りとも思える。
劉備軍と呂布軍のどちらかが白蓮の窮地を救った。となれば、考えるまでもなくそれは劉備軍であろう。桃香と白蓮は同門の友人同士である。
「そ、それでは、積もる話などもあろう」
陶謙は気でも利かせるといった態で、逃げるように謁見の間から引き払った。
「ボクも先に軍営へ戻っているわ」
曹操軍にはようやく馴染んできたとはいえ、詠にはまだ反董卓連合で戦った軍に対して思うところがあるのだろう。それも当然で、月と詠にとって掛け替えのない人間をあの戦で亡くしているのだ。
桃香達を拒絶でもするように、詠は背を向けた。
そのまま主不在の謁見の間で談笑というわけにもいかず、曹仁達は桃香の与えられているという客室へと移動した。
「曹仁さん、どうぞ」
「お邪魔する」
客室は広く、清掃が行き届いていて、調度も見るからに高級そうなものが取り揃えられている。城内での桃香の扱いは賓客に対するものと言って良さそうだった。
「綺麗すぎて、まだちょっと、落ち着かないんだけど」
「ああ、ごめん」
曹仁はいささか不躾に過ぎた視線を、軽く頭を下げて詫びた。
気にするなというように笑顔を返す桃香と、その後ろに並び立つ面々へと曹仁は改めて視線を向けた。
一見して最初に目に付くのは、やはり鈴々の成長だった。周囲の大人達に混ざればやはり頭一つ分も小さいが、それでも随分と手足が伸びている。かつては時に身体の方が振られることもあった丈八蛇矛も、今は手足の延長のように扱うのではないか。
対して身体的な成長はほとんど見られないのが朱里と雛里だ。初めて出会った頃にはほとんど変わらぬ体格だった鈴々と、今ははっきりと身長差がわかる。一寸の土地も持たず、助けた民から糧食を徴収するわけでもない流浪の義軍の軍師として、その苦労は一方ならないものがあったのだろう。幼い顔立ちにも幾分苦労がにじんでいる気がした。
愛紗は変わらぬ生真面目さで、桃香の隣りに背筋を伸ばし直立している。旅塵にまみれても美しい黒髪は今も同じだ。表情に以前よりも張り詰めたものを感じるのは、乱世を憂えるが故だろうか。
星は何ひとつ変わっていないように見えた。この軽妙な人は、どこにあっても表情一つ変えることはないという気もする。
そういう意味で、その対極に位置していそうなのが白蓮だった。表情には、今も明らかに落胆の色がうかがえる。
「各地を転戦しているとは聞いていたが、ここには何をしに?」
「それはね、曹操さんが―――」
「―――徐州では盗賊が横行していると聞き及んでおりましたので、賊の討伐に。陶徐州殿も我らの活躍を耳にしたようで、こうして招かれて、今はありがたいことに兵を屋根のある場所で眠らせることが出来ます」
主君である桃香の言葉を遮って、星が言った。朱里と雛里が、安堵したようにため息を漏らす。
桃香は、相も変わらずだった。
曹仁との一別以来、官途に就き、一度は恤民の施政で名を高めながらも、漂泊の軍に身を落とした。流亡の中でさらに名を馳せ、今は天下の義軍を率いる大徳の将軍などと呼ばれている。当然、漢室から正式に任官されたわけでもなく、わずか二千にも満たない兵を率いるだけであるが、民にとって将軍と聞けば今や劉玄徳の名が真っ先に思い浮かぶのではないか。目まぐるしい流転の日々を経、周囲の見る目もまるで違ったものとなっている。それでもやはり、桃香は曹仁の知る桃香のままであった。
曹仁は、変わらぬ桃香に安堵する自分を感じていた。大人然とした桃香など見たくもない。
「そうだったのか」
「うむ。しかし、精強で聞こえた貴殿らの軍が動くとなると、我らの出る幕はもう来ぬやもしれませぬな」
「兵の精強さという点において、天下の義軍と名高い劉備軍を侮るつもりは毛頭ないが、我らは報復のための軍。手出し無用に願いたい」
それからは今回の進軍とは関わりない、本当の雑談になった。
和やかな雰囲気の中で、愛紗が一人思い詰めた表情で切り出した。
「曹仁殿にお会いしたら、ぜひお聞きしたいことがあったのですが」
「なんだ?」
「董卓は、まことに世に言われているほどの悪人だったのですか? 諸侯が揃って打ち滅ぼさねばならないほどの?」
「それは……」
董卓の悪評の大半が、当時彼女を隠れ蓑に朝廷を牛耳っていた宦官張譲によるものである。張譲を排し、いよいよ彼女本来の慈愛に満ちた政を始めようという折も折に、反董卓連合が起ったのだった。
「政敵への粛清の嵐に、廃帝。どれも董卓が為したことだ。悪と断じられてしかるべきでは?」
ここで、董卓の擁護をするつもりは曹仁にはなかった。
「しかし、曹仁殿はその董卓に従われた。皇甫嵩殿も。戦場で剣を交え、数語交わしただけですが、呂布や張遼といった武将も中々の人物と見受けました」
「……さて。がっかりさせるかもしれないが、俺は皇甫嵩将軍の食客として彼女に付き従っただけさ。将軍は董卓とは昔馴染みのようだったし、それで手を貸す気にもなったのだろう。恋―――呂布や張遼にはまた別の存念があったのかもしれないけど、俺のは単に成り行きに過ぎないよ。……何故、そのようなことを?」
「戦場で会った張遼が、董卓は良い子だと私に言ったのです。馬鹿馬鹿しい話ですが、嘘を言っているようにも見えませんでした」
「俺も董卓とはそこまで深く親交があったわけではないので、なんとも言えないが。将兵からは慕われていたようだ。ただの暴君というわけではなかったのだろうな」
「……そうですか」
「曹仁さん。愛紗ちゃんが悩んでいるのは、もし私達が洛陽に攻め込むことがなければ、董卓さんの元で天下は今よりずっと穏やかに治められていたんじゃないかってことなの」
桃香が、憂いの表情で引き取った。
「まったく、愛紗よ。あまり自身の懊悩に御主君を巻き込むものではないぞ」
星が皮肉気な笑みを浮かべて言った。
「……そういえば星さん、今は桃香さんの家臣なんだな。白蓮さんのところに留まっていれば第一の武将だろうし、袁紹軍との戦にも勝てたかもしれないのに、惜しいな」
これ幸いと、曹仁は話の矛先を逸らすことにした。今の月の境遇を思えば、あまり突っ込んだ話をするわけにもいかない。
それに結局のところは、張譲の思惑に乗ってでも月を高みに押し上げようとした詠の計略が破れたということだ。悪評が立つのも当然策の内で、その反響を読み切れず、跳ね除けることも出来なかった董卓軍が負けたというだけの話だった。董卓軍の一員として戦った曹仁が、負け戦の後に正義を叫んだところで何の意味もない。
「ふむ、白蓮殿のところにそのまま留まっていても先は無いと思いましてな。実際にその予感は的中したわけだが」
白蓮が盛大にため息を吐いた。それだけで、何かを言い返すほどの気力もないのか、項垂れて足元に視線を落とした。
「どうせ仕えるならば、これはと思える英主に仕えたいものだ。私は曹仁殿のように成り行きで己が陣営を決めるつもりはないのでな」
「ははっ、これは相変わらず手厳しい。もっとも、俺も今は成り行きで主君を選んだつもりはないがな」
「ほう」
星が探る様な視線を向けてくる。
「……曹操さん、ですよね」
朱里がおずおずと口を開いた。
「ああ。そうだ、よかったら、朱里と雛里からは華琳―――曹操様が、どう見えているのか聞かせて欲しいな」
伏竜鳳雛と呼び馴らされ、この時代屈指の知識人である諸葛亮と鳳統の曹操評には興味があった。
「別に俺も、曹操様が完全無欠の完璧な主君だなんて思ってはいない。忌憚のない意見を頼む」
はわあわと狼狽して言いよどむ二人に、曹仁は言い足した。
「そ、それでは」
一度口を開いてしまえば、あとは滑らかに言葉は紡がれた。
陣営にあった曹仁ですら見落としていたような、細かな政策にまで話は及んだ。二人とも、よく考察している。相手が曹仁だからというのもあるだろうが、曹操軍の将の前では普通言い難いような批評も、淀みなく口にする。二人も流浪の生活でいくぶん逞しさを増したようだった。
総じて、軍略家としての卓越した才能を認める一方で、内政面の改革はやや性急に過ぎる嫌いがある。二人の評価はそれでほぼ一致していた。
「そうか。貴重な意見をありがとう。口調から察するに、雛里はいくぶんか好意的、朱里はあまり好きじゃないって感じかな?」
「は、はわっ! そ、そそ、そういうわけじゃありませんよ」
「しゅ、朱里ちゃん、落ち着いて」
「ははっ、冗談だ」
「は、はひっ、驚かさないでください、曹仁さん」
個人的な好悪ではなく、軍略よりも民政の手腕に優れる朱里と、軍事面の才に富んだ雛里の違いが論調に出たのだろう。
「それで、曹仁殿御自身は御主君のことをどのように評価しているのですかな?」
星が口を挟んだ。曹仁は少し考えて、答えた。
「主として仰ぎ見るなら、なによりもまず、果敢だ。それゆえの過ちを受け入れ、改めるだけの度量も持っている。将として鑑みるなら、非凡そのものだ。歩兵から騎兵の運用、百の指揮にも万の指揮にも精通している」
「……ふむ。何と言うか。以前よりいくらか男振りを上げましたな、曹仁殿は。腹をくくったというのか」
悪びれることなく褒めそやす曹仁を、星は興味深そうに見すえた。
「星さんにそう言われるとくすぐったいな。ただ、いくらか開き直っただけさ。まあ、曹家を飛び出して気ままにしていた頃よりも、少しは気が晴れたかな」
曹仁が、そう苦笑交じりに言った時だった。
「―――劉備様」
劉備軍の兵と思しき男が訪いを入れた。時を同じくして、曹仁軍の兵も案内に導かれて姿を現す。
二人は一瞬戸惑った様子で顔を見合わせてから、隠し立てする必要も無いと判断したのか、前後して口を開いた。案に違わず、報告の内容は同じであった。
下邳城へ接近する軍影。砂塵湧き立つ源には、深紅の呂旗がたなびいているという。
桃香らを連れ立って下邳城の城外に展開する呂布軍を訪ねると、すぐに本陣へと案内された。
軍容は濃密な戦の空気をまとい、哨戒の兵士は予断なく周囲の警戒に当たっているが、戦闘態勢にあるわけではない。騎兵は馬を下りているし、歩兵も武器を下ろしている。つまりは許可を得ての滞陣ということだ。
陶謙が劉備軍の他に救援を求めたとしても、当然と言えば当然の話ではあった。天下に名高い劉備軍の実兵力は二千にも満たない。今は公孫賛軍から白馬義従の三百を加え、騎兵五百に歩兵が一千二百だという。それが民から徴発もせずに軍を維持し得る限界なのだろう。事実、公孫賛軍の残存兵力は万にも及ぶはずで、それを糾合し大軍を擁することも容易いはずであった。しかし劉備軍はそれを選んでいない。自ら志願する兵は無条件で受け入れても、募兵はせず、厳しい調練の果てに極端なまでの少数精鋭を実現したのが劉備軍であった。白騎兵、虎豹騎に加え、各将軍旗下の兵から最精鋭を選出したところで、同数同士でぶつかれば曹操軍であっても分が悪いだろう。
逆に呂布軍は大所帯である。曹仁の見るところ騎馬隊が中心の陣容で、騎兵が一万五千に歩兵が一万、さらには替え馬まで備えている様子だった。その中核を担うのは、恋と霞に率いられ洛陽を脱出したかつての董卓軍の騎馬隊だろう。精強で知られる涼州の騎兵である。
呂布軍は劉備軍とは異なり、地方豪族や太守に、武力で脅しつけるような形で強引に支援を取り付けているという。音々音あたりの考えだろうが、それでも民からの徴発はないし、裕福であったり悪辣であったりする領主を選んでいるあたり、この乱世にあってはむしろ良心的ともいえた。
「関羽―――――――!」
本陣から息せき切って飛び出してきたのは、霞だった。他の者―――洛陽では同居人であった曹仁にすら目もくれずに、勢いそのままに愛紗に詰め寄る。
「会いたかったで、関羽! どうや、アンタの武器に合わせて拵えた飛龍偃月刀や! これでもう、戦いの途中で得物が壊れて終いなんてことはあらへん」
「霞さん、いきなり武器なんて突きつけては失礼ですよ」
続いて姿を現したのは、高順だった。
「劉備軍の皆さん、お初にお目に掛かります。私は高子礼と申します。この軍の歩兵を率いさせて頂いております」
曹仁の胸が一瞬ずきりと痛んだ。
高順は恋の拾った戦災孤児の少年であった。戦からは遠いところで生きて欲しいという思いが、曹仁にはあった。天下無双の飛将軍に拾われ、漢朝屈指の名将皇甫嵩の屋敷で軍人に囲まれて育った時点で、他に道などなかったのかもしれない。
「ご存じとは思いますが、そちらは張遼将軍。我が軍の騎兵隊長です。主はただいま不在にしておりますが、すぐに戻りますので、よろしければこちらでお待ちください」
本陣にはすでに人数分の床几が並べられていて、幕舎はないが日除けの幕は張られていた。
「仁兄、久しぶり」
そつのない仕草で桃香達を本陣へと誘うと、高順はまっすぐ曹仁の元へと歩み寄り、肩の力を抜いた口調で言った。
きっちりと兜まで具足を着込み、首元には呂布軍の牙門騎と同じ深紅の布を巻いている。いかにも仰々しい装いだが、そこだけ覗く顔は少年のもので、声にもまだ幼さを残していた。
「ああ、久しぶり。……お前、ちょっと背筋を伸ばして立ってみろ」
「ん? こう?」
元より姿勢の良い高順が、さらに胸を反らし、顎をひいた。
「…………ああ、もういいぞ」
鈴々にも驚かされたが、成長期ということなのか、高順は向かい合って立つと、ちょっと目を見張るくらいに背が伸びている。洛陽で別れてから、まだ一年と経ってはいない。
まだ自分の方がいくらかは背が高いことを確認すると、曹仁はほっと胸をなでおろした。
「恋さんと音々音は陶謙殿に挨拶してる。じきに戻ると思うけど」
「そうか、入れ違いになってしまったか」
「アンタが、子礼なんて字をつけるもんやから、何や固っ苦しい奴に育ってしもうたわ」
霞が、背後からぶつかる様に肩を組んできて言った。
「ま、今は敵対もしとらんから戦うわけにもいかんしな。得物自慢はまた今度にするわ」
霞は、反董卓連合との戦でやり合って以来、すっかり愛紗にご執心の様子だった。
以前は飾り気のないただの大刀(大薙刀)を使っていたが、今手にしている偃月刀は確かに愛紗の青龍偃月刀に酷似している。刃は愛紗のものよりもいくらか薄く軽量化されていて、その用兵と同じく神速とも称えられる霞の刀法を活かすための工夫がなされていた。
「ああ、そうや。―――張繍は、元気にしとるか?」
張繍という名を強調するように、霞が言った。
死んだはずの張繍が詠とともに曹操軍に降った。それで思い至るものがあったのだろう。
張繍―――照自身が軍功の全てを月に捧げ、本人は名も無き兵として散っていったから、当時の反董卓連合軍はもちろん、董卓軍の将兵の中にもその死を知らぬ者は多い。呂布軍の将は、所属はあくまで漢王朝の官軍であったとはいえ、董卓軍の中核をなした者達である。照の死を知る数少ない人間の集まりと言えた。
「ああ、もちろん。と言っても、彼女は文官で、俺は大抵軍営詰めだから、そうそう会う機会があるわけではないが。詠さんも来ているから、詳しい話はそっちに聞いてくれ」
最後に、小声でくれぐれも内密にと付け足すと、霞は当然という顔で肩をすくめて見せた。
「それじゃあ、仁兄も本陣へどうぞ。茶なんて気の利いたものはないけど、兵に水でも持ってこさせよう」
高順の勧めで、曹仁も本陣の床几に腰を下ろした。
鈴々はセキトと張々と一緒になって地面を転げ回っている。愛紗は董卓について存念を霞に問い質しては逆に絡まれ、辟易している。
曹仁は、運ばれてきた水に口を付けた。
半刻(十五分)ほどの間を置いて、本陣にまず姿を現したのは恋だった。
よほど急いで走ってきたのか、彼女にしては珍しく息を弾ませている。音々音は、途中で振り切られたというところか。
曹仁は立ち上がって手を上げた。
「恋、久しぶり」
「んっ」
恋は小さくうなずくと、感情を持て余した様子で曹仁の軍袍の袖をつかんで、くいくいと軽く引いた。子供のようなあどけない仕草に、曹仁は自然と笑みがこぼれた。
「あの、曹仁殿。彼女が、……呂奉先ですか?」
「ああ。―――って、愛紗さんは戦場でよく見知っているはずでは?」
「え、ええ、まあ、それはそうなのですが。なんというか、少し印象が違うと言いますか」
「ああ、なるほど」
逆に曹仁は反董卓連合との戦の大半を別働隊として動いていたから、恋の鬼神の働きというのはほとんど目にしていない。曹仁にとっては目の前にいるこの可愛らしい生き物こそが、恋であった。
「あっ」
恋は小さく声を漏らすと、とてとてと小走りで愛紗へと寄っていった。
「……よろしく」
わずかに身構えた愛紗に、恋は悪意無い表情で頭を下げると、手を軽く握りしめた。
虚を突かれて絶句する愛紗をよそに、恋はその隣の桃香、鈴々と同じく頭を下げ手を握っていく。
「ちゃんとあいさつしないと、こーじゅんに怒られる」
一渡り劉備軍の面々と会釈を交わすと、曹仁の元へと戻ってきて恋が言った。
野生児同然であった高順が、礼儀作法についてうるさく口を出すというのは、教育係を務めた曹仁としては感慨もひとしおである。
さておき、恋の愛らしい言い様に、思わず頭でも撫でようと曹仁が手を伸ばしかけた時だった。背後から騒がしい足音とともに、怒気を含んだ声が響いた。
「ちんきゅーーー―――――」
振り向き様に払った曹仁の手が空を切った。
「なにっ!?」
「―――――きーーーーっく!!」
とっさに屈み込んだ曹仁の頭の上を、何かが通り過ぎていく。
「くうっ、避けるななのです」
曹仁の頭上を飛び越え見事に着地した音々音が、無茶な要求をしてくる。
「軍師としての評判はまるで聞かないが、武官に転向でもしたか、音々音?」
明らかに飛び蹴りの打点が以前よりも高くなっていた。音々音の小柄な体格を考え合わせると、相当な跳躍力と言えるだろう。
「馬鹿なことをいうなです。ねねは生涯恋殿の軍師なのですよ。お前は、恋殿から離れるのです!」
これでこの本陣に、劉備軍、呂布軍の首脳が勢揃いした。
そして徐州という一州に、天下に強兵と知られる、劉備軍、呂布軍、そしてほんの一部とはいえ曹操軍までが集結している。これからどう動くべきか、非常に難しい局面に立たされているのかもしれない。
音々音が恋と曹仁の間に身体を割り込ませると、ぐいぐいと押しやってくる。力の方は、体格相応であった。
曹仁はひとまず、小揺るぎもせずにその場に立ち尽くした。