「朱里ちゃん」
営舎の中の最も奥まった一室が、朱里と雛里の戦略室となっている。朱里が室内に足を踏み入れると、雛里は難しい表情で竹簡に落していた顔を上げた。
曹仁率いる曹操軍が目的を遂げ、兗州に引き上げてより二月ほども経った頃より、徐州各地で民の叛乱が続発していた。
それはこれまでも頻発していた民が民を襲うという賊徒とは明確に様相を異にしており、叛徒達が狙うのは役所や軍の兵糧庫である。民が、陶謙の政に対して叛旗を翻したのだ。
叛徒達は不思議と軍備が整っていて、進退も調練を積んだ兵の動きを思わせた。そうした意味でもこれまでの賊徒とは異なり、一端の軍と言っても良かった。
桃香は思い悩みつつも、今は陶謙の要請に従い、叛乱鎮圧のために兵を動かしている。
実際に、叛徒と干戈を交えることはほとんどなかった。州軍に対しては激烈な抵抗を示す叛徒達は、劉備軍に対しては従順と言っても良い程で、桃香の投降の呼び掛けには素直に応じる。桃香は、陶謙の了承を得ることもなく彼らの罪を放免した。
当然、陶謙とその寵臣達は不満をにじませたが、そこが最大限の譲歩であることを告げると、強く言ってくることはなくなった。
陶謙排斥の動きは、起こるべくして起こったこととも思えるが、一斉に立ち上がった叛徒達の蜂起は統制がとれ過ぎている様にも感じられた。
「雛里ちゃん、みんなは何と言ってきているの?」
劉備軍の兵士に志願した者の中から、普通の戦には向かないながらも、人一倍忍耐強かったり、目端が利いたりする人間を集め、諜報部隊を組織していた。今は雛里の下に直属で二十人ほどがいるだけだが、何れはこの二十人の下にさらに人員を配することも考えている。
「思った通り、曹仁さんたち曹操軍が武具を下げ渡したみたい。蜂起の時期を巧みに誘導する流れもあるみたいだけど、その源流までは掴み切れていない。どこかで、その動きに介入出来れば、と思ったんだけど」
「さすがに一枚上手か」
「うん。曹操軍には大規模な諜報部隊があるみたいだし、そちらの勝負ではまだまだ敵わないよ」
叛徒達の中には、陶謙を除いて曹操を州牧として向かい入れようとする者達がいた。
同時に、桃香を奉戴したいと劉備軍に打診してくる者達もそれと同じくらい存在している。朱里と雛里が誘導したのではなく、民の間から生まれた自然な流れで、桃香の人徳がなせる業であった。それは、恐らく曹操にとって予想外になるはずだ。
朱里は、陶謙排斥の時流がたとえ曹操が作り出した偽りの流れだとしても、それに乗って舟を漕ぎ出してみようと考えていた。雛里もそれには賛同してくれている。
桃香は土地を治めるということに対して、どこか消極的なところがあった。それは、土地に縛られず天下の民と向かい合いたいという思いもあるだろし、安喜県からの出奔を経て自信を失っているというのもあるだろう。確かに領土を経営するということは綺麗ごとではなく、流れ暮らしの現状のように民に良い顔だけを見せていればいいと言うわけではない。時に民に苦汁を強いねばならない場合もあって、それは桃香を責め苛むだろう。
それでも、耐えてもらわねばならない。なんとなれば、天下の民すべてに笑顔を、という桃香の願いは、場当たり的な流浪の軍としてではなく、天下の主宰者となって初めて実現の可能性が見えてくるのだ。
といって、朱里はこれまでの流亡の時間が無駄であったとは思っていない。劉玄徳の名は、今や曹操や袁紹といった各地に割拠する群雄達以上に天下に知れ渡っている。
桃香がこれから先に競わねばならない群雄達は、いずれも漢朝の権門の出であったり、有力な地方豪族である。対して桃香は、高潔な志以外に何も持ってはいなかった。中山靖王劉勝の末裔だと言う出自には本人すらも半信半疑で、唯一それを明かす宝剣靖王伝家を殊更振りかざすこともない。民の人気は、そんな桃香が初めて握った武器であった。
桃香はそんな目的で流浪を続けてきたのではないだろうし、そもそも志の実現のために何か具体策を持っているとも思えなかった。それで、構わなかった。方策は、自分と雛里の軍師二人が立てればいい。道は、愛紗たち武人が斬り開く。あとは桃香がしっかりとした志を持ち続けてくれればいいのだ。
そして今、志と人気だけを抱き続けていた桃香に土地を領する好機が見えていた。
劉備軍の武力が目当てとはいえ厚遇してくれている陶謙を排して、自分がその席に居座るという行為に、かつての桃香であれば耐えられなかったかもしれない。ただ、最近の桃香はいくらか強さを増したという気が朱里はしていた。
一口にいうならば、命の見極めが巧くなった、とでもいうのだろうか。朱里の記憶する限りでは、徐州に入ってしばらくしてから、桃香からそんな強さを感じるようになった。より正確に思い起こすと、曹操軍が徐州を引き払う直前の時期からだろうか。
それは戦の指揮に顕著に表れていた。以前はただ死傷する兵の姿に嘆くばかりで、たった一人の命を救うために大敗を招きかねないような危うさが桃香にはあった。今も兵の死を厭い過ぎる甘さは残したままだが、大局を見据えた上で一人でも多くの命を救うための選択を、自然と選び取るだけの強かさを備えつつある。これも、流浪の生活で得た桃香の武器と言えるだろう。
「何とか、こちらが主導で桃香様を盛り立てる流れを作ってみるね」
「うん、お願いね、雛里ちゃん。私は、出来るだけ桃香様が民の目に触れるよう、動き回ってもらうようにするから」
今現在徐州にいる、というのが桃香の一つの強みであった。実際に会い、話せば、実体のない曹操よりも必ず桃香へと転ぶ。桃香の人を惹きつける力に朱里は一点の疑いも持ってはいない。
曹操軍と比べて、徐州に滞陣する分だけ、機を見て行動を起こし易いのも当然劉備軍の方である。ここで今一歩桃香擁立の方向に民を駆り立てることが出来れば、状況は大きく劉備軍に傾くだろう。
河北では、公孫賛軍を降し幽州を併呑した袁紹が、大きな力を持ち始めていた。豊富な人材を十二分に生かした二面作戦で、幷州と青州に同時進行を行い、支配地を着実に増やしつつある。もっとも、青州は百万とも言われた黄巾の残党に荒らされ疲弊し切っていて、得れば得るだけ他の支配地に負担を強いかねない土地であった。名門ゆえの財力と人脈がそれを可能とするのだろうが、とにかく領土を広げようという単純さが、袁紹らしくもある。それを鷹揚さとも大器とも見る向きもあった。
その青州を荒らしまわった黄巾賊は曹操が自軍に取り込み、強大な兵力を生んでいる。つい先日には、元々一族の地盤でもあった予州に兵を入れ、その一部を支配下に入れている。兵力的には袁紹軍に次いで他勢力から頭一つ抜けていた。
江東では遂に孫策が袁術を除き、揚州全域に勢力を拡大しつつあった。江南(長江以南)では、一つ一つの州が広大である。それぞれが中原四州(兗州、徐州、予州、司隷)や河北四州(冀州、幽州、幷州、青州)を合わせた広さにも匹敵する。肥沃な大地の各地に大小の豪族達が点在し、威を振るう土地柄であり、それら全てを孫策が完全に支配下に置いた暁には、袁紹や曹操にとっても侮り難い勢力となることだろう。
その孫策に敗れた袁術は、今は領土も定まらず各地を転々としていた。一応漢王朝の名門であるから、立ち寄った先で厚遇はされているが土地を得てはいない。袁紹に敗れた公孫賛―――白蓮は言うまでもなく劉備軍に身を寄せている。
群雄割拠の情勢の中で、滅ぶ者、生き残る者がはっきりとしてきている。ここで立たねば、劉備軍は本当にただの流浪の軍で終わってしまいかねなかった。
予期せぬ知らせを受けたのは、翌早朝のことである。
事態を確認すべく、営舎を飛び出した朱里の目に映ったのは、閑散とした軍営地であった。
「調練でも始めるものと思ったのですが、留守居の兵一人なく、替え馬から輜重車、州牧様から供与された兵糧まで、きれいに持ち去っております」
隣に立った兵士が当惑顔で言った。
軍営から、二万五千の呂布軍の姿が消えていた。
張闓を討ち取った曹仁が帰還を果たしたのは、軍を発した兗州は陳留郡ではなく、予州東端に位置する沛国であった。
曹仁が徐州で過ごした数か月の間に、曹操軍は並行して予州への侵攻を開始していた。
まずは曹家一門の郷里でもある沛国へ春蘭と秋蘭を派遣し、勢力下におさめている。夏侯姉妹も沛国譙県の生まれで、曹操軍自前の兵力はほとんど使うことなく、民を煽動することで太守を名乗る黄巾の残党を追い立てていた。
同時に陳留からは楽進ら三将の軍を南下させ、予州西端に位置する潁川郡も手中に収めている。
今は東西からじわじわと支配圏を広げていた。黄邵、劉辟、何儀などといった黄巾の残党を率いる頭目達は今だ健在であるが、連携した動きは見せていない。対して華琳は東西から絞り込むことで、むしろ予州内に点在する黄巾勢力を一つにまとめ上げようとしていた。最小限の交戦で領地だけを広げ、最後に大戦一度で勝負を決するつもりなのだろう。
予州全土が華琳の領地となるのも時間の問題と思えた。
そんな情勢の中、華琳は生まれ故郷である沛国譙県の屋敷に留まり続けていた。亡き母を偲んでの帰郷というわけではない。沛国は、徐州西端とほぼ全域で境を接する最近接地であるからだ。
譙県には他に、諜報の長である幸蘭、華琳旗本の虎豹騎を率いる蘭々、曹仁と共に復命した張燕、詠、角、そして季衣、流流ら親衛隊の面々が控えていた。季衣と流流は最近になって、それぞれ親衛隊の隊長と副長に抜擢されている。荀彧は兗州の政を担い、夏侯姉妹と楽進ら三将は予州の戦線に張り付いていた。
幸蘭が張り巡らせた情報網から、徐州の状況は逐一報告が届く。全国に広がる情報の網は、元々は幸蘭が実家の資産運用のために作り上げたもので、構成する人員も一部を除いて自身をただの商家の小間使い程度にしか認識していない。手紙やちょっとした荷物の運搬業務も兼ねるこの情報網を、幸蘭は曹仁の世界の言葉を借りて飛脚と名付けていた。
飛脚とはまた別に諜報部隊もあって、これも幸蘭の管轄である。広く浅く情報をすくい上げる飛脚とは違い、諜報部隊は敵地での潜伏や敵軍内への潜入を基本とし、機密情報を盗み出すことから、民の扇動、破壊工作までを手掛ける。
「してやられたわね」
幸蘭の読み上げた諜報部隊からの報告を聞き終えると、華琳が小さく洩らした。
叛乱の軍が一つにまとまった。その中心にいるのは、意外なことに呂布軍であった。
徐州内での桃香の人気の高さは、華琳の予想をも上回るもので、彼女を旗頭とする動きに曹操軍は注視していた。幸蘭の諜報部隊とは暗闘もあったという。その間隙を突かれた形だった。
二万五千という精兵を抱える呂布軍が叛乱の狼煙をあげれば、他の叛徒達はそこに吸収される形で、恋が叛乱軍の主導者に納まるのは自然の流れであった。
「呂布の参謀は、陳宮と言ったかしら? 張遼や高順という呂布軍の部将たちの名と比べると、これまでほとんど聞くことはなかったけれど」
軍議というよりもただの報告会に近い形で、場所も華琳の私室だった。華琳が幼少期を過ごした部屋で、曹仁にとっても懐かしい。
一度は軍資金捻出のために売り払われた屋敷であるが、曹操軍が譙県を支配下に置くと地元の商人から献上された。華琳はそれを固辞した上で、相応の対価を支払い買い戻していた。
さして広くもない室内に張燕と角の姿はないが、他の主だったものは揃っている。といっても親族の曹仁と幸蘭、蘭々、親衛隊の季衣と流流の二人を除けば、徐州で陶謙との交渉を担当した詠が呼ばれているだけだ。
「戦場での指揮ではなく、こうした謀を得意とする軍師、ということかしら?」
「それは、……どうなのでしょうか?」
また悪い癖が。胸中そう呟きながら、曹仁は投げ掛けられた視線に曖昧に返した。
眉を顰めて情勢に対する不満を表してはいるが、華琳の口調はどこか弾んでいる。
華琳には自身の苦境、もっと言えばそんな状況を作り出した相手との対峙を、心待ちにしているようなところがあった。才に恵まれた者の慢心であり、明確な悪癖であろう。さらに悪いことには、曹仁も他の家臣団も華琳のそんな性質に困惑しながらも、彼女の魅力の一つと捉えてしまっていることだった。
「あなた、洛陽では一緒に暮らしていたのでしょう?」
「まあ、それはそうなのですが。はっきり言って音々音―――陳宮を軍師として意識したことはほとんど無かったもので。まさか、劉備軍の伏竜鳳雛に先んじるとは」
朱里と雛里の過ちは、天下の義軍、大徳の将軍と称えられる劉備軍と劉玄徳の名を、美しく飾ろうとし過ぎたことだろう。私欲など欠片もなく、ただ民のために立つという形にこだわり過ぎたために、陳宮の取った力技に後れを取ることとなった。
「以前聞いたあなたの国の言葉に、丁度良い表現があったわね。―――確か、能ある鷹は爪を隠す、だったかしら?」
「いえ、どちらかというと論語に言うところの、後生畏るべし、というやつでしょう」
「あなた達と別れてからの一年足らずで、軍師として大きく成長したと?」
「そう思わざるを得ません。明日春姉が文人を志して、一年後には荀彧に並ぶ文官筆頭になっていた、それぐらいの驚きはありますが」
「それは、……あり得ないことが起こるのも、乱世ゆえということかしら」
華琳が苦笑交じりに言葉を引き取った。
「さて、劉備軍はこの後どう動くかしら?」
「そのことで、一つ報告がございます」
視線で促されるも、曹仁はそれ以上言葉を重ねず、一通の書簡を捧げ出した。
受け取り、目を通した華琳が笑みをこぼした。
「へえ。これは徐州一州を得るよりも、ずっと価値のある展開になりそうね」
呂布軍が再び下邳へと舞い戻っていた。
桃香は陶謙へ降伏を勧める使者を送ると、城門を背にする位置に劉備軍を展開させた。
叛徒を取り込んだ呂布の軍勢は五、六万まで膨れ上がっている。その大軍が、ゆっくりと城へと寄せてくる。
先鋒に一点、血でも刷いたように朱に染まった一団。呂布直属の赤備えは、公孫賛軍の白馬義従、曹操軍の虎豹騎、そして曹仁の白騎兵と並んで天下に名を馳せる騎馬隊である。わずか二百騎だが、巨躯で揃えた騎馬の進軍は目を引いた。後に続くのも騎兵で、これは張遼指揮下の呂布軍騎馬隊である。歩兵はその後ろに二段構えで、前衛に高順旗下の元々の呂布軍歩兵部隊が、後衛に叛徒の集団がまとめられていた。
呂布との対峙は初めてでのことではない。反董卓連合の戦では、董卓軍と連合軍それぞれの精鋭部隊として、矢面に出て戦っている。愛紗、星は天下でも数本の指に入る部将で、型にはまれば鈴々はそれ以上の力も出す。その劉備軍の三将に等しく敗北感を抱かせたのは、後にも先にも呂布だけだろう。呂布が武人としても将としても、傑出した力量を有していることは間違いない。
五万の前進は続いている。劉備軍は徐州滞在中にいくらか兵力を増強しているが、それでも二千五百にも満たない。
早鐘を打つ心臓を、朱里は押さえつけた。鼓動が、進軍する呂布軍の足音と共に耳にこだまする。
一歩、また一歩と呂布軍が近づいてくる。足音が大きく、近くなっていく。
同じ数でぶつかれば、どこの軍を相手にしても負けない。流亡の中で武具を調え、兵糧を手配し、軍馬を買い揃えてきた朱里にとって、精強無比な劉備軍は誇りだった。調練を担う将軍達よりも、誇る気持ちは強いかもしれない。その劉備軍が、ひどくちっぽけなものに感じられた。
もう間近だ。止まらない。
思わず退き鐘へ伸ばしかけた朱里の手を、桃香が遮った。手首を掴む桃香の手からは、不思議と雄渾な力強さを感じる。
ふっと気付けば、鳴り続いているのは、鼓動だけになっていた。呂布軍が進軍を止めていた。
「…………ああ、怖かった」
隣で桃香が言った。大きく息を吐きながらも、どこか呑気な口調である。
つられて息を吐き出そうとして、朱里は肺腑にほんの一握りの空気も残されていないことに初めて気付いた。とたんに胸苦しさを感じて、大きく息を吸い込んだ。荒い呼吸を、何度も繰り返す。桃香を挟んで反対側では、同じく雛里が赤い顔で息を吸っては吐いている。
「桃香様、すいません。助かりました」
息が落ち着くのを待って、朱里は桃香に頭を下げた。
劉備軍を攻めれば、呂布軍は肝心の反乱軍の心を失いかねない。力攻めはないはずだった。それは十分に理解していたし、そもそも呂布軍との対峙は朱里と雛里が相談して決めたことだ。だが実際に迫りくる大軍を前に、本当に自分たちの分析が正しかったのかと、朱里の脳裏で弱気の虫が一瞬頭をもたげた。騎兵を前面に押し出した呂布軍の構えは、城攻めの備えでも、寡兵に対するものでもなく、ただの進軍隊形である。それすらも、鎧袖一蹴しようという強気の構えと先刻の朱里の目には映った。
桃香に止められなければ、怯懦に流されるがままに退き鐘を叩いていたかもしれない。
「気にしないで。私は朱里ちゃんと雛里ちゃんみたいに考えることは出来ないから、二人の作戦を信じるだけだよ」
「……わかりました。それでは、もう一度陶徐州に降伏を勧める使者をお出しください。大軍を前にして、少しは考えも改まったことでしょう」
桃香は、朱里と雛里が徐州に彼女を擁立しようと画策していたことを知らない。
呂布軍にまんまと出し抜かれた自分を無条件で信じるという主君に、朱里はこれ以上謝意を述べることはやめ、次の一手を指示した。
ここからは根競べだった。といっても、両者の最終的な目的はおおよそ一致している。
劉備軍はあくまで陶謙を見捨てず、その安全を確保したうえで呂布への徐州明け渡しを取り持つ。そうした形で話をまとめたかった。陶謙の恩義に報いようというのではない。桃香はともかく、朱里と雛里、それに武将達も、これまでの叛乱の鎮圧で十分に借りは返したと思っている。ただただ劉備軍の存在を、その在り方を、天下に示すためだった。義のために五万の大軍と対峙してみせたという事実が重要なのだ。
呂布軍も、陶謙を討ちたくはないはずだった。苛政を払うための、民の望みに乗じた挙兵とはいえ、庇(ひさし)を借りていた相手だ。討ち取ったとなれば、大逆の謗りは免れようもない。ただ、呂布軍に五万の兵力を維持し続けるだけの兵糧はない。徐州経済の中心である下邳城内の貯蔵を頼みの進軍であろう。
劉備軍は眼前に展開する大軍の圧力に、そして呂布軍もまた大軍を抱えたことによる内圧に、お互いどこまで耐えられるかの根競べだった。
ほんの二、三里の距離を隔てて、呂布軍が滞陣の用意を始めていた。
それからは何も起こらぬまま、対陣は十日に及ぼうとしていた。その間、陶謙への降伏勧告は十数回も繰り返されている。陶謙はその一切に耳を貸そうとしない。あの臆病な男が五万の大軍を前にである。よほど州牧の椅子に執着があるのだろう。
「朱里ちゃん、雛里ちゃん、退こう。もう限界みたい。陶謙さんにも、これ以上の対陣は無理だって、使者を送ろう」
十日目の朝、起き出すなり桃香が言った。
「ほう、桃香様もそう思われますか? 私にも今日の呂布軍からは常にない気が立ち昇って見えますな。前線の愛紗達は、より強く感じていましょう。鈴々などは特にその辺り敏いですからな。野生の勘とでもいうのか」
星も賛意を口にした。
前線には歩兵を従え愛紗が、騎兵を率いて鈴々が控えている。白蓮の白馬義従は遊撃扱いで、本陣付きの騎兵の指揮が星だった。
星の言葉に、朱里は視線を呂布軍へと向けた。
立ち昇る気。武人ならではの感覚なのか、朱里にはそれを見ることは出来なかった。隣で首を捻っている雛里もそれは同じようだ。
「……わかりました。退きましょう」
ほんの一瞬雛里と目語するだけで、朱里は決めていた。
星の言葉もあるが、冴えを見せ続けている最近の桃香の戦勘を朱里は信じた。
落ち延びる先は決めている。予州は沛国。曹操、そして曹仁の留まる地である。曹操へは曹仁を通して親書を送り、すでに客将としての身分を保証されていた。
兵力が二千を超えた時点で、これまで通りの流浪の中で軍を維持するには限界を迎えていた。陶謙の庇護下にあったからこそ可能であった増員であり、徐州をとる前提で進めた増強であった。
白蓮を保護した関係上、袁紹の元というのは難しいものがあった。江南の孫策とは、黄巾の乱で一時共闘した縁もあるが、いまだその勢力は盤石とは言えない状況にある。それだけに厚遇されるとも言えるが、孫家の勢力安定のための戦に狩り出されることは目に見えている。それは、劉備軍の本義に反する。
呂布の許可を得、徐州に留まるという手もあるが、その場合民の目からは桃香は降将と映るだろう。それはいずれ、呂布軍の部将の一人という扱いになりかねなかった。
どこか勢力に庇護を受けるにしても、あくまで客将として対等に近い関係を結びたい。劉備軍は独立独歩であると、民には思わせておきたかった。
「―――愛紗さん、鈴々ちゃん、白蓮さんに伝令を」
五万の大軍を前に、十日対峙して見せた。今回は、それで満足すべきだろう。
退陣に小細工は必要なかった。前線から順繰りに移動させていく。
静々と陣を払う劉備軍に、当然呂布軍からの攻撃はなかった。慌てた様子で駆けつけてくる下邳城の守備兵に、桃香は抗戦の無意味をひとしきり説くと、最後に馬上の人となった。
一度は手中に転がりかけた大地。後ろ髪を引かれる思いで、朱里は西へと進路を向けた。
下邳からほぼ真西に軍を進めれば、劉備軍の普通の行軍で約二日で予州に入る。そこから曹操軍の駐留する譙県までさらに二日。難路があるわけでもなく平坦な土地が続く。
斥候が背後をつける騎馬隊の存在を捕捉したのは、日が中天にさしかかったころだった。それから半日、西進する劉備軍を、付かず離れずの距離を保って追跡してくる。
掲げるは紺碧の張旗。わずか二千騎なれど、呂布軍の騎兵隊長自らの指揮である。
「叛乱軍とは関わりのないところで、一戦交えようというのではないかな。劉備軍と、というよりも、愛紗と」
夜営で火を囲みながら、星が他人事のように口にした。
翌日になると、張遼の騎馬隊はもはや姿を隠す気もないようで、目測可能な距離を悠々と進軍していた。
予州との境界が近い。攻め寄せる機としては、この上ない。
馬蹄の響きが耳を打った。
「朱里ちゃん、前、前」
背後の張遼軍を注視する朱里に、桃香が呼び掛けた。
正面を白い騎馬隊が駆けてくる。馬蹄の立てる音も、確かにそちらからだった。
劉備軍と霞の騎馬隊の間まで、曹仁は白騎兵を進めた。劉備軍を迎える任にあり、それは護衛の意味も含む。
「霞らしいな」
呂布軍の騎兵を束ねる霞がその気になれば、騎馬隊全軍を率いることも可能なはずであった。叛乱軍の目を気にするにしても、二千が五千になったところで大きな違いはない。二千騎のみの出動というのは、歩兵中心の二千数百の兵力に過ぎない劉備軍と、もっと言えば愛紗と、対等の勝負をしようというのだろう。むしろ騎兵のみの編成で二千騎は普通に考えれば多過ぎるくらいで、霞の劉備軍に対する高い評価が伺える。
「あの騎馬隊、どう見る?」
曹仁は、傍らで黒地に白抜きの曹旗を掲げる旗持ちの兵に問い掛けた。
「極めて精強です。我らのみで当たるとなると、恐らく勝ち切れないかと」
兵は、白騎兵百騎だけでは負けるとは言わなかった。曹仁もそれは同じ考えで、脚を使って引き回せば、勝てないまでも負けない戦は出来るだろう。
霞の率いる騎馬隊は精強ではあるが、呂布軍の中から選りすぐった騎兵というわけではなく、普通に二千を分けたというだけであろう。さすがに馬の質は揃えられていそうだが、決して駿馬の集団ではない。騎兵同士のぶつかり合いは動きの中で如何に相手の弱いところを突くかであり、兵力の多寡にそれほど大きな意味はない。少数精鋭の方が有利な展開も多いのだ。歩兵との戦いとなるとまた別で、まとまった陣形を崩すにはそれなりの兵力が必要となってくる。霞が五分の戦力と読んだ劉備軍には、白騎兵の百騎だけでは相手にもならない。もっとも、両軍を知る曹仁からは劉備軍と霞の二千騎では、幾分劉備軍に分があるように思える。霞は愛紗と同等の兵力でぶつかることに拘泥するあまり、星と鈴々という極めて優秀な指揮官の存在を失念しているのではないだろうか。
「霞」
「このところよう会うな、曹仁。白鵠も、相変わらず元気そうや」
ただ一騎馬を進めた霞に答えて、曹仁も白鵠を寄せた。
霞の愛馬黒捷が、白鵠に鼻先を向けた。白鵠も、懐かしむように小さく鼻を鳴らした。洛陽では厩舎を同じくした仲だ。馬体一面を、白鵠の白と対となる様な黒毛が覆っている。
「劉備軍のお出迎えか? まさか偶然通りかかったわけやないやろ?」
「ああ、庇護を求める書簡を頂いたのでな。―――で、どうする?」
「……張繍の残した月の旗本の軽騎兵か。今は、確か白騎兵やったか? 一度やり合ってみたい相手やけど、さすがに劉備軍と組まれると分が悪いわ」
霞は白騎兵に目を向け、今は戦わないと言っていた。
曹仁としても、それは望むところだった。呂布軍とはこれで境を接したこととなる。華琳が天下を望む以上、遠くない将来ぶつかる相手ということだが、今は敵対関係にない。
「こいつのお目見えは、またお見送りやな」
霞は愛紗のものとよく似た偃月刀を一振り、馬首を返した。
「霞、今回の絵を描いたのは、……音々音か?」
「そうや。ウチに軍師はねねしかおらんのやから、当然やな」
「そうか、“あの”音々音がね」
「そうや、“あの”ねねがや」
背中越しに言って、霞は馬を駆った。
見送る曹仁は、徐州で再会した際の音々音を思い起こしていた。その小さな影は、幾分滑稽なほどに悲壮感を漂わせている。
背後から、桃香の間延びした声が曹仁を呼ぶのが聞こえた。
*飛脚の原型は中国の唐代の駅伝制。ただし飛脚という言葉自体は日本由来のものだと思われる。