「お呼びでしょうか、華琳様」
「仁? 入りなさい」
足を踏み入れた華琳の執務室には、竹簡や巻物が机の上だけでなく床にまで山積していた。
「ついでに、そこの山の上から二段目、左から三つ目の巻物を持ってきて」
戸口近くの書類の山から、曹仁は慎重に巻物を一本抜き取ると、机に向かいっぱなしの華琳へと手渡した。雑多に積み上げただけに見えても、しっかりどこに何があるのか把握しているのが華琳だった。
華琳は机の上に広げた書類から目も離さずに、ぞんざいな調子で巻物と入れ違いに棒状のものを突き出した。
「これを取らせるわ。今後も私のために励みなさい」
「はぁ。……これは、剣、ですか? 開けてみても?」
ようやく顔を上げた華琳に視線で促され、曹仁は縦長の布袋から中身を取り出した。
想像した通りのものが姿を現す。革張りの鞘に、同じく握りやすく革を巻きつけられた柄。鍔には宝玉が一つあしらわれているが、全体としては質実な造りの剣である。
「抜いてみなさい」
「はい。――――っ! ……これは」
抜き身の刃が露わとなると、曹仁は覚えず息を飲んだ。
刀剣の目利きにそこまで自信があるわけではない曹仁にも、一目でそれと分かる名剣だった。剣身は覗く曹仁の顔が移り込むほどに曇り一つ無い。
「青紅の剣。真桜が炉を新しく改良したから、腕の良い鍛冶屋と組ませて作らせてみたのよ。悪くない出来でしょう?」
「悪くない、などという程度のものではないでしょう、これは。俺がこれまで見た剣の中では最上の部類、桃香さんの靖王伝家や、孫家の南海覇王にも匹敵する業物と見ました」
「そう。気に入ったのなら良かったわ。徐州の件は粗方片付いた。それは、私への直言と、我が母の仇をあげたことに対する褒賞よ。取っておきなさい」
いささか興奮気味の曹仁に対して、華琳は幾分冷ややかな調子で言った。
陶謙の死が伝えられたのは、つい先日の話である。劉備軍という盾を失った下邳城は、五万の呂布軍に即座に飲み込まれた。苛政を布き賊徒の横行を生んだ陶謙は、曹嵩の仇の片割れである。城外に落ち延びたという陶謙の行方を、幸蘭の諜報部隊が探り続けていた。結果届けられたのは、逃走の果てに、叛徒とも言えないようなただの村人達の恨みの鍬に果てたというものだった。
直接手を下せなかったことを口惜しく思う半面、そのふさわしい死に様に曹仁と華琳は笑ったものだ。
「先の諫言に対する褒美なら、もう頂きましたが」
華琳は一瞬考え込むような表情をした後、すぐに視線を逸らしつつ言い捨てた。
「あげてないわ。あの晩泣いたのは、結局あなた一人だったもの」
「まあ、そういうことにしておきましょうか」
苦笑交じりに言いながら、二度三度と軽く青紅の剣を振った。ぴゅうぴゅうと、高音の刃鳴りが響く。靖王伝家や南海覇王はしなりの少ない硬剣だが、青紅の剣はしなりの強い軟剣であった。それも曹仁の好みに合っている。
「ところであなた、今日は非番でしょう? 地図と報告書ばかりでなく、実際の街を見て回りたいわ。案内しなさい」
剣を鞘へと納める曹仁に、華琳が言った。
「はあ、俺がですか?」
「気の乗らない返事ね。私の誘いよりも大事な予定でもあるっていうの?」
「いえ、特に予定はありませんが。ただ俺もこの街―――許に着いてわずかです。華琳様にご満足頂けるかどうか」
曹操軍は、予州全土を平らげていた。
軍は再編に追われている。文官筆頭の荀彧と軍部の頂点の補佐である秋蘭―――頂点の春蘭はこうした事務仕事は戦力外である―――は、働きづめである。もっとも、青州黄巾百万の受け入れを経験しているだけに、慣れたものでもあるようだった。
華琳自身も本拠である陳留には戻らず潁川郡に留まり、内政の充実を図っている。潁川郡、とりわけ許県を、政治、経済の要衝として発展させる考えがあるようだった。
「蘭々や季衣、流流達と遊び回っていること、私が知らないとでも思っているのかしら?」
青州黄巾賊にも言えたことだが、元が賊軍だけあって騎兵は少ない。太守を名乗った者達は自身とその供回りは騎乗で固めてはいたが、馬に乗れる者を集めたというだけで到底曹操軍の騎兵の水準には達していなかった。そのため、騎馬隊への増強はほとんどなく、軍の再編業務は曹仁とはほとんど関わりが無かった。
同じく親衛隊の季衣と流流、華琳直属の虎豹騎の指揮官である蘭々も、主君が執務室を動かない以上は必然的に出動もなく、無聊を囲っているのだった。曹仁は予州平定では騎馬隊を率いて駆け回っていたため許県に駐留してからの日は浅いが、彼女たちの暇潰しに付き合わされることが多々あった。政務に掛かりきりの華琳よりは確かに街に詳しくはあるのかもしれない。
ちょうど、机の上に広げられた書類は都市の開発計画のようで、確かに曹仁にはどこか見覚えのある街並みが描かれている。
「わかりました。俺の知る範囲でよければ、ご案内いたします」
「少し準備もしたいから、そうね、宮門前に―――」
「それでは、失礼します」
約束を取り付け、華琳の執務室から退出した曹仁に、足音高く近づく者がいた。
「華琳様と二人きりで何を話していたのよ? ―――って、それっ、青紅の剣じゃないのっ!」
棘のある声を掛けてきたのは案の定と言うべきか、荀彧である。誰からか曹仁が華琳に呼び出されたことを伝え聞いたのだろう。
「ああ、確かそのような銘だと華琳様から聞いたな」
「華琳様から拝領したっていうの!?」
「……拝領。軽く渡されたが、一応そういうことになるのかな」
「か、華琳様とお揃いの剣を賜るなんてっ!」
「お揃い? 華琳様も同じものを持っているのか?」
地面を踏み鳴らし悔しがる荀彧に曹仁は聞き返した。表現としてではなく本当に地団太を踏む曹操軍随一の文官の姿は、どこかおかしくもある。
「なによ、そんなことも知らないの? 二剣一対の宝剣を作られて、その一方を佩剣とされたんじゃない」
荀彧がいくぶん居丈高に言い放った。曹仁の知らない華琳の情報を知っていることに、得意となっているのだろう。
「へえ、それじゃあこいつは、華琳と番いの一振りなわけだ」
「―――っ!」
荀彧が息を呑み、口をつぐんだ。特別な恩賞であることを自ら曹仁に教示して見せたことに、今更ながらに気付いたのだろう。この切れ者の軍師は、華琳の事となると途端に感情が激して鈍らになることが多々あるのだった。
「それじゃあ、俺はこの後華琳と待ち合わせがあるので、失礼する」
「待ち合わせ? 待ち合わせって何よっ!? ちょっと、待ちなさいっ!」
言い募る荀彧を、曹仁は早足で振り切った。
「あら、さっそく差しているのね」
宮門に姿を現した華琳は、曹仁が腰にした剣に目に止め、言った。
それまで曹仁と言葉を交わしていた門の守兵達が、主君の姿に緊張した面持ちで直立する。
「ええ、せっかくですので」
曹仁は剣把に軽く手をやって答えた。
華琳の方はまったくの丸腰で、季衣や流流ら虎士の面々を侍らせてもいない。案内役の曹仁が護衛も兼ねるということなのだろう。
「やはり、剣というのは良いものです。戦場では槍に勝る得物はないと俺は考えていますが、剣という武器は不思議と男心をくすぐります。それが名剣ともなれば特に」
曹仁には得物に対するこだわりはほとんどなかった。
武器の優劣で一騎打ちの、ましてや戦の勝敗が左右されることは滅多にない。曹操軍の大剣こと春蘭の七星餓狼や、孫策の南海覇王、愛紗の青龍偃月刀などは、世に聞こえた名刀宝剣の類ではあるが、その戦果はあくまで使い手各人の力量によるものだ。
曹仁の槍は、柳の一種の白蠟の木の幹をそのまま柄とするもので、ほとんど人手は入っていない。こだわろうにも違いは手触りやしなり方ぐらいのものである。
ただ、こうして宝剣を腰に差してみると、なんとなく浮ついた気分になるのは間違いない。
「そう。―――では、行きましょうか。まずは、この大通りを見たいわ」
曹仁の稚気を笑ったものか、あるいは自分からの贈り物を気に入った様子に気を良くしたものか、華琳はくすりと小さな微笑を浮かべながら、地図を広げ目的地を指した。
「はい、ご案内します」
直立を続ける守兵の見送る中、曹仁は華琳を誘い宮門を抜けた。案内をすると言っても、華琳の示した許県最大の大通りは宮門前の広場を抜けた先すぐで、宮殿から城門までを真っ直ぐにつなぐものだ。
大通りは活気に満ち、ひどく混雑していた。道沿いに並ぶ商店は大規模なものが多い。
「おや、旦那。今日の御連れさんは、いつもの妹さん方ではありませんね」
占拠以来宮殿に籠り切りで政務に当たっていたため、市井に華琳の顔を知る者は少なかった。曹仁を呼び止めた顔馴染みの店主も、目の前の少女がこの許県の支配者であることに気付いていない。
「ん? ああ、彼女は、――――――夏侯恩。俺の族人の一人だ」
目配せする華琳に、咄嗟に曹仁はお決まりの偽名を口にした。
「旦那の同族で夏侯と申されますと、高名な夏侯惇、夏侯淵両将軍様方のお身内で?」
「ん、ああ、そうなるな。従妹に当たる」
「将軍様のお身内となれば、これはご贔屓にしてもらわない手はありませんね。お嬢様、うちは魚屋ですが、野菜に米や酒、女性が好みそうな甘味、それに食べ物以外にも髪飾りなどもいくらか取り揃えております。本業の魚は、干したもの、塩漬けにしたもの、こちらの水桶には、今朝川で取れたばかりの生きた魚もございます。他にも何か御入用の品がありましたら、ご注文いただければ大抵の品は数日でご用意いたします」
店主は柔和な笑みを浮かべて言った。
「へえ、すごい品揃えなのね、おじさま。それじゃあ、ちょっと見せてもらおうかしら」
傍らから、ちょっと聞いたこともないような猫撫で声がした。
「お気に召したものがありましたら、お申し付けください」
「……最近、お店の調子はどうかしら?」
唖然とする曹仁を置き去りに、華琳は水桶の中でゆったりと泳ぐ魚を見て回りながら、何気ない口調で問うた。
「将軍様方のお陰をもちまして、すこぶる良いですよ、夏侯のお嬢様」
「そうなの? 曹操お姉さまのやり方は、いくらか強引過ぎるところもあると思うのだけれど」
「ま、確かに租税は重いですが、その分治安は良いし、人はどんどん集まってきています。商売人としちゃあ、腕の見せ所ですよ」
男は手広く品を扱う商人だけに、他州の情報にも聡いようで、そこからは様々な比較を口にした。
基本となる租税は、他州よりも幾らか重い傾向にある。ただ軍費などの全てがそこから賄われるため、臨時の徴税はない。他州では頻繁にそれが繰り返されるため、結果として納める税は多くなるし、商売人にとっては予期せぬ支出となるため痛手は大きい。
その辺りの事情を知らぬはずもないが、華琳は興味深そうな表情で相槌を打っている。
「そういえば、今度学校というものを立てるらしいけれど。子供はみんな、そこに取られてしまうのでしょう?」
「ええ、子供はみんなして昼間はそこでお勉強って話ですよ。働き手が取られちまうのは苦しいですが、ただで読み書きを教えてくれるっていうんですから、有り難いことです」
「そう、なら良かった。―――あっ、おじさま。この桂魚を頂戴」
「はいっ。お嬢様、なかなか目の付け所がよろしいですね。これは今日上がった中では一番の桂魚ですよ」
「ふふっ、ありがとう。―――ああ、ええ、そのままで良いわ。ありがとう。―――仁兄さん、荷物持ち、お願い出来るかしら?」
曹仁が代わって品物を受け取ると、華琳はにこにこと愛くるしい笑みを振りまきながら商店を後にした。
「ふむ。まずまずの好感触ね」
店から十数歩離れると、途端に声質を落として華琳が呟いた。
「もっとも、あの店は大店だから、というのもあるでしょうけど」
施行される学校制度は貧富を問わない。まずは対象を富裕層だけに絞って様子を見ようという案も上がったが、華琳は一切の例外を認めなかった。
「この魚、どうするんだ?」
言って、曹仁は軽く水桶を持ち上げた。
「ああ、あまりに立派だったから、思わず買ってしまったわ。……そうね、あとで桂花にでも振舞って上げましょう。貴方も来るでしょう?」
「そういうことならもちろん」
桂魚。別名を桂花魚ともいう。煮物にも揚げ物にも合う高級白身魚である。それが料理人としても一流の華琳の手によるとなれば、ご相伴に預からない手はない。
曹仁が持つ手桶の中では、窮屈そうに体を丸めた大振りの桂魚が、どこか恨めしそうにこちらを見上げている。食べやすくさばこうという店主の申し出を可愛らしい仕草で丁重に断り、華琳は活きたままの魚を購入していた。やはり桂魚は姿煮か姿揚げが旨い。
「そうなると、春蘭や蘭々にも声を掛けないと後がうるさいわね。秋蘭と幸蘭も付いてきて、流々には料理を手伝わせて、そうすると季衣も付いてくるから。そうね、せっかくだから劉備軍の面々も呼びましょう」
桃香達劉備軍も許県に滞在していた。
客将という形で、華琳にも対等に口が利ける立場である桃香の元に民の不平が持ち込まれることがかなり多いようだった。桃香が直接応対し、朱里と雛里が処理する。華琳はある程度の権限を桃香に与えていた。
そのおかげで、曹操軍に持ち込まれる問題はかなり数を減らしている。軍再編の激務に追われる文官達は、相当に救われているようだった。
桃香達を食事に招くというのは、その謝礼の意味もあるのだろう。
「そうなると、食材が全然足りないわね。仁、どこか良い店に案内しなさい」
「春姉と季衣、それに鈴々が来るなら、やっぱり肉屋かな。―――こっちだ」
「貴方も料理を手伝いなさいね。蘭々は、すこしは料理の腕も上がったのかしら?」
「お奨めはしないな。春姉よりははるかにましだが」
遠く鐘が鳴った。呼応して、あちこちで鐘の音が響き始める。同時に、街行く人々の中には足を速めたり、駆け出す者が目立ち始める。
正午を示す時報である。一辰刻(=四刻=二時間)ごとに、宮城に設置された日時計を元に最初の鐘が鳴らされ、各街区でもその音が聞こえたら同じように鐘を鳴らす決まりだった。曹仁の思い付きで、すぐに実行に移されたものの一つだ。
日の出から日の入りまでを漠と区切った生活様式に慣れた民には、最初とまどいもあったようだが、今は受け入れられつつある。それで何かが劇的に変わるというわけではないが、皆が共通の時間感覚を持って行動出来る利点は大きい。特に商人などの、人と会う機会の多い人間からはかなりの好評を得ていた。
「食材選びは後にして、私達もまずはどこかで昼食を取りましょうか」
「何が食いたい?」
「貴方が普段食べているものでいいわよ」
「そうか……」
曹仁は少し考えて、大通りをそれた小道へと華琳を誘った。
「蘭々なんかはこの辺りで適当に見繕って食い歩くのが好きだな。姉ちゃんは良い顔をしないが」
小規模な店舗や、屋台が立ち並ぶ街区である。正午の鐘も鳴り、辺りは人で溢れている。曹仁ははぐれないよう、華琳の手を取った。
「華琳の口に合うものはそうないだろうが。庶民の暮らし振りを知るには、ここが格好だろう。 ―――本日の趣旨としては、それで良いのですよね?」
「ええ、行きましょう」
人込みをかき分け、小道を進んだ。
初め、食べ歩くという行為にいくらか抵抗を示した華琳であったが、持ち前の柔軟さですぐにそんなことは気にしなくなった。時に眉をひそめながらも、ひとまずは曹仁の選んだものに口をつけている。大抵は二、三口で曹仁に押し付けてきたが、その時も小食を理由にしていた。今は曹家一門の無邪気な少女を演じていて、人波を抜けた後にでもまとめて文句をつけるつもりだろう。
そんな中でも曹仁が普段贔屓にしている露店の看板料理である羊肉の饅頭(まんとう)だけは、ちょっと意外そうな表情を浮かべながらきれいに完食していた。
「旦那! 曹仁の旦那! うちにも寄っていって下さいよ!」
柄の悪い胴間声に視線を向けると、やはり上品とは言えない笑みを顔面に張りつかせた大男が手招きをしている。
「お前か。……お前の店は飲み屋だろうが。こんな真昼間からお役人を誘う奴があるか」
「へへっ、お役人だからこそじゃありやせんか」
「はんっ、ぬかせ。腐敗役人がお望みなら、どこか他所の領地にでも行くんだな。もっとも治安の悪い土地じゃ、お前なんて真っ先に盗賊か何かと間違われてしょっ引かれそうだがな」
「へへっ、ごもっともで」
男も初めから曹仁が店に立ち寄るとは思っていなかったのか、それ以上勧めることはなく頭をかきながら店内へと退いて行った。
「行こうか、華琳。……どうかしたか?」
華琳は大きな目をさらに大きく見開いて、まじまじと曹仁を見つめていた。
「いや、少し驚いて。貴方、ああいう柄の悪い話し方もするのね」
「ああ、まあ。さっきの男も、見た目はあれだし、喧嘩っ早いところもあるが、別に悪い男ではないぞ。商売も真っ当だし」
「そういえば、貴方も一時期遊侠にかぶれていたのだったわね。あの頃は私も官途に就いたばかりで忙しくて、あまり合って話す機会もなかったから忘れていたわ」
華琳への反発心から、曹家を跳び出して侠客まがいの振る舞いに明け暮れたのも今となっては良い思い出である。副官の角をはじめ、その頃に培った人脈と経験は曹仁のこの世界における大切な財産だった。
「それとさっきから、若い娘たちがちらちらとこちらを窺っているわね」
「ああ、連れているのがいつもの妹連中じゃないから遠慮してるんでしょう」
「いつもはあの子達をはべらしながら練り歩いているってわけ?」
「いや、そんな大層な話じゃないが、声くらいはかけられる。俺も一応曹操軍の中では珍しく若い男の将だからな。まあ、それなりには女の口にも上るだろうさ。張燕辺りは、もっと人気があるんじゃないかな」
「ふーん、そう。―――これは良かったの? 妙な噂が立つかもしれないわよ」
華琳はつないだ手を持ち上げて見せた。
「今さらだな。洛陽では俺は皇甫嵩将軍の囲われ者だなんて囁かれていたものだ」
「浮名を流されるのは慣れっこというわけ? まったく、あなたという子は」
華琳はため息交じりに手を降ろした。
根も葉もない噂の類であり、女だてらに漁色で知られた華琳に呆れられる筋合もない。
「曹仁殿ーーーっ!!」
反駁しかけた曹仁を遮るように野太い声を響かせ、黄邵、劉辟、何儀の三人が、並んで姿を現した。
「っと、これは、曹操様もご一緒でしたか。」
華琳の小さな影に気付いて、三人は恭しく頭を下げた。華琳は鷹揚に頷いて見せる。
「お前たちは、……また、舞台の帰りか?」
「はいっ。今日の舞台も最高でした。なんと言っても天和ちゃんの歌が良かった」
「何を言うか、地和ちゃんの喋りが歌と踊りを引き立ててくれたんだ」
「馬鹿をいうな。舞台全体が良かったのは人和ちゃんの仕切りがあってこそだろう」
張角を賛辞する黄邵に、劉辟、何儀がそれぞれに異を唱えた。
曹仁は視線で華琳を促し、そろそろとその場を離れた。
「ああなるとあいつら長いから」
「話には聞いていたけれど、本当に相容れないもののようね」
「言い争うのを楽しんでもいるだろうけどな。なんだかんだと文句を言いながらも、あの三人はいつも一緒に舞台を見に行っているようだし」
曹操軍が予州に侵攻しても、最後まで連携することのなかった黄巾残党の三頭目、黄邵、劉辟、何儀は、曹操軍に降ってからも言い争いが絶えなかった。
黄邵は張角、劉辟は張宝、何儀は張梁。それぞれが別々の張三姉妹の熱烈な信者である。兵に妙な派閥意識を持たれては支障があるため勧誘活動は控えさせているが、最近では、蘭々や季衣達と共に舞台にもよく顔を見せる曹仁を自派に引き込もうとしている節があった。
「それで、あなたは三人の中の誰がお気に入りなの?」
「……別に誰を気に入るも何もありません。曹操軍のために尽力する同士として、三人それぞれに敬意を抱いては折りますが」
華琳の何気ない口調にかえって不穏な空気を感じて、曹仁は答えをはぐらかした。下手に答えようものなら、少なくとも今後しばらくはそれを種にからかわれるのは確定だろう。
「へえ、そうなの」
「……あっ、あれはなんでしょう? 何やら子供が集まっていますが」
「あら? あれは―――」
さらなる追及をかわそうと、曹仁は目に入った人込みを指差した。意外にも華琳の食いつきは良く、曹仁の手を引いて率先して背の低い人波をかき分け寄っていく。
「あなたには、宿題を出しておいたはずだけれど、桃香」
「華琳さんっ!? それに曹仁さんも」
背後から忍び寄った華琳が声を掛けると、子供たちに囲まれていた桃香は慌てて居住まいを正した。
「街で会うなんて珍しいですね、華琳さん」
「そうね、たまには私も羽を伸ばしたくもなるわ。あなたは随分と街の子供たちに懐かれているみたいだけれど、よく遊んであげているのかしら?」
「えへへ」
棘のある華琳の言い様に、桃香は曖昧な笑みを浮かべた。動物を象った子供の玩具を握った手を、今更ながら背後に回して隠している。
「それで、宿題は終わったの?」
「ええっとね、帰ったらやるつもりで……」
忙しい政務の合間を縫って、華琳は桃香に政や軍略を講義していた。桃香から願い出たことだが、彼女と二人の時間を持つために華琳があえてそう誘導したというところもある。
意外なことに、劉備軍の面々の中で華琳が最も興味を持ったのは、愛紗や星、鈴々の武でも、朱里と雛里の知でもなく、桃香という人間そのものだった。考えてみればそれも当然と言えば当然の話で、彼女たちに比肩し得るものとして、武では春蘭、知では華琳自身や荀彧といった者達が曹操軍には存在している。桃香だけが特異な存在であった。桃香の存在なくして、劉備軍は劉備軍足り得ないとも言える。
子供たちが気配を察して、桃香に別れを告げて去っていく。桃香は大きく手を振って彼らに答えた。また次に遊ぶ約束も取り付けられている。
「まったくあなたは」
「えへへ」
嘆息交じり言う華琳に、また桃香が曖昧な笑みを浮かべた。二人の間に流れる空気には、かなり親しげなものがあった。華琳、桃香とすでに真名で呼び合ってもいるのだ。
華琳と桃香が顔を突き合わせている状況は、曹仁にとって嬉しくもあり、気恥ずかしくもある。友人と家族が、自分の知らないところで仲良くなっていくというのは、どこか居心地が悪いものだった。
「それで今日は、…………逢い引きですか?」
桃香が、つないだ手にちらちらと視線をやりながら言った。曹仁と華琳はどちらからともなく手を離した。
「ただの視察だよ」
「そう、“これ”はただの道案内。あなたにお願いしても良かったわね。勉強もせずに、随分と街には詳しくなっているようだし」
「ううっ、それは……」
華琳が言い返すと、桃香は一瞬口を噤んだ。それから、いかにも良いことを思いついたというように顔を輝かせて再度口を開く。
「そうだ。そういうことなら、ここからは私も一緒にご案内します。華琳さんへの、いつものお礼も兼ねて」
「いや、あなたは帰って宿題を―――」
「ほらほらっ、行きますよ~~っ!」
桃香は解いたばかりの曹仁と華琳の手をそれぞれに取って、引きずるように駆け出した。
「まったく、本当にあなたという子は……」
呆れたように呟く華琳の口元には、楽しげな笑みが浮かんでいた。
三人連れだって城内をひとしきり見て回った後は、そのまま劉備軍の面々も誘っての晩餐会だった。
華琳の手料理は相変わらず非の打ちどころがない。料理に合った上等の酒も並べられ、曹操軍と劉備軍の首脳陣の仲を取り持った。
「お姉ちゃんばっかりお兄ちゃんと遊んでずるいのだ!」
「仕方なかろう、鈴々。我らが兵の調練に汗水を流すように、曹操殿のご機嫌を伺うのは桃香様の立派なお仕事だ」
昼間の一件を聞きつけた鈴々が頬を膨らませて桃香に言い募ると、星がいくぶん毒のある口調で仲裁に入った。
「えへへ、ごめんね、鈴々ちゃん。今度何かあったら誘うから」
「そんなことよりも、桃香様にはまずは一人歩きを控えて頂きたい」
こほんと一つ咳払いをして、愛紗が釘を刺した。
「曹仁さん」
劉備軍の外の面々の喧騒をよそに、朱里と雛里が曹仁の元へ駆け寄り、小声で話しかけた。
曹操軍と劉備軍、両軍の交流を図るため、特定の席は決められていない。中央の台に料理が並び、周囲を囲んだ円卓に皆が思い思いに腰を落ち着かせている。曹仁が提案したこの世界には馴染みのない形式だが、集まった面々はあまり戸惑うこともなく順応している。営舎の食堂や、野営で糧食を取るときと似たようなものだからだろう。ちょうど蘭々と季衣が劉備軍の卓に加わって、ごねる鈴々をはやし立てている。流流は給仕に追われているようだ。
「曹仁さん、昨日は張燕さんの軍と調練でしたよね?」
朱里が妙に鼻息荒く問うた。隣にいる雛里も目を輝かせている。
「……ああ」
黒山賊の兵は、正規軍の軍律に馴染まず退役する者も多く出て、今は二万が張燕軍だった。昨日の調練はその二万を、五千の騎馬隊で崩すというものである。
「ど、どうでしたか?」
軍師だから他所の軍の調練にも興味があるのだろう。曹仁は何となく腑に落ちない二人の態度を自分にそう納得させて答えた。
「兵にも俺にも、いい勉強になったよ。騎馬隊は普段堅陣をいかに崩すか、ということばかり考えているからな。陣形に執着しない軍とぶつかるのは良い調練になる」
軍が陣形を組む理由は、相手よりも有利な位置を占め、強い形を作るというだけではない。兵同士がお互いに支え合うことで、高い士気が維持されたりもするのだ。主君への忠義や将帥への信頼以上に、そうしたものが兵の力になる場合は多い。陣形の乱れがそのまま敗走へつながるからこそ、将は堅陣を布くことに腐心する。
張燕の軍は、元々が黒山賊の叛徒であり、義賊だけあって、一人一人の我が強い。曹操軍の一部となった今も槍や長刀から大斧を抱えた兵までが混在している。華琳がそれをこの軍の個性であり強みでもあると認めたからだ。騎馬隊が突撃すると、小隊規模ですらない一人二人という単位で散る。普通ならそれは潰走の始まりとなりかねないが、張燕の合図があると即座に再び陣形を組む。それは形の上ではしっかりとした堅陣だが、どこか漠とした捉えどころのない陣である。
「そうですか、曹仁さんの“攻め”を、張燕さんがうまく“受け”たと……」
「まあ、そんなところかな。……朱里?」
朱里は頬を上気させ、焦点の定まらない視線を彷徨わせている。雛里も赤面した顔をうつむかせていた。
「二人とも、どこか体調でも悪いのか?」
「は、はわっ! だ、大丈夫です。な、なんでもありません」
「鳳統、それに諸葛亮。少し良いかしら?」
「は、はひっ! だ、だ、大丈夫です。な、なんですか、曹操さん?」
背後から華琳に声を掛けられると、二人はびくっと身体を飛び上がらせた。
「前に話した兵法書をいくらか書き上げたから、一度目を通して欲しいのだけれど」
「ぜひ拝見させていただきますっ!」
珍しく雛里が、朱里を遮るようにして前に出た。いささか興奮気味だが、これも珍しいことに台詞を噛んでいない。同じ師に付き同等の学を修めた二人であるが、軍学への関心と造詣は雛里の方が幾分深い。その分朱里は民政により強い興味を抱いていた。
隣の卓から、荀彧が恨めし気な視線を送っている。彼女は内政の達者で優れた戦略家ではあっても、戦術家ではない。これまでの戦でも兵站などの後方支援を担当することが殆どであった。兵法書執筆の細かな相談となると、実戦経験豊富な朱里と雛里の二人に道を譲らざるを得ない。
「華琳さ~ん、曹仁さ~ん」
桃香が、幾分覚束無い足取りで近寄ると、華琳と曹仁の向かいへ腰を下ろした。劉備軍の卓では、未だに鈴々と季衣が言い争いを続けていた。
ここに恋達もいればな。酒宴を見渡して、曹仁は感慨にふけった。
曹仁の酒気を帯びた頭の大半を占めるものは、この世界で得た知己に対する親愛の情だが、ほんのわずかながら曹操軍の部将としての計算もあった。
「曹仁さん、どうぞ」
桃香が曹仁の空いた杯に酒を注いだ。
歓談が続き宴も酣(たけなわ)となった頃合いで、鈴々と季衣の諍いをさらに蘭々が煽り立て、酒に酔った春蘭も乱入した。止められそうな華琳や幸蘭、秋蘭は傍観を決め込み、愛紗はいつの間にか星に酔い潰されている。桃香もだいぶ酒が回っているのか、にこにこと微笑むばかりだ。月が小声で制止するも、聞き届ける者もない。詠と流流が助けを求める様な視線を向けてくるが、曹仁は投げやりに観戦を決め込んだ。
会場の隅の方で、白蓮が一人酒をあおっていた。
「まだ残っていたのか」
宴会に使われた大広間の前を横切った曹仁は、一人佇む華琳の姿を見止めた。劉備軍の面々を宮中の客室へ案内した帰りである。
「少し、酔いを覚ましてから戻ろうと思ってね」
華琳の手元の杯には、酒ではなく茶が注がれていた。
「春姉や荀彧は?」
「春蘭はうるさいから秋蘭に連れて戻らせたわ。桂花も珍しく呑み過ぎたみたいで、季衣に肩を借りて下がったわ」
華琳が桃香や朱里達を構うものだから、二人とも自棄酒の態があったのだ。華琳もそんなことは百も承知だろうが、素知らぬ振りで言った。
「……」
隣に腰を下ろすと、華琳が無言で急須から注いだ茶を置いてくれた。御主君が手ずから、などと有り難がる間柄でもない。曹仁も無言でそれに口を付けた。
「視察はどうだった?」
「そうね。……やはり、富裕層以外からの反発は強そうね」
視察の後半、桃香に連れられて行く先々では、性急な改革に対する民の不平の色が伺えた。大通りから離れた貧しい者達が住まう界隈だ。
やはり恋がいればな、曹仁はまた思った。
華琳が自身一代で成し遂げようという国政の改革は、民の在り方を大きく変えるものだ。教養を与え、政への参画を促すことで民の地位は大きく引き上げられる。それには名士連や豪族達だけでなく、民自身の反発も予想された。権利を与えられ、地位を得れば、それに伴い義務も派生してくるからだ。そんな時、桃香の徳が民心をなだめ安んじ、恋の武が叛意を抑え鎮める。これは極めて強固な体制と言えるだろう。
「……そうだ。この剣、対となる二振りのうちの一つなんだって? もう一方は華琳の佩剣らしいが、そちらの銘は何というんだ?」
埒もない思考に耽りかけた曹仁は、話題を変えて腰に刷いた青紅の剣の柄を軽く叩きながら尋ねた。
「…………倚天よ」
華琳が一瞬のためらいの表情の後、目を背けながら小声で、口早に言った。
「……へえ」
「何よ、その顔」
「いや、別に」
自然とゆるむ口元を手で隠して、曹仁は努めて平静に返した。
倚天。天に倚(よ)る。天に寄り添う、天意に適う、天に頼る。あるいは天に近付くから転じて天を貫く等といった意味で用いられる言葉だ。武術の技や武器の銘としては、それなりに良く使われる語ではあった。
名付け親がそのまま持ち主である華琳となれば、天の道を行く自身をこそ表しているとも思える。
ただ、天の御使いなどと呼ばれる曹仁の立場から見れば、また別の意図も想起されずにはおれないのだった。
「恋さん」
「あっ、こーじゅん」
背後から忍び寄って声を掛けると、恋が一度振り返り、それから目を逸らした。
天下広しといえども、こうして恋の後ろを取れるのは高順くらいのものだろう。他者の気配を読むこと、そして自分の気配殺すことに高順は長けていた。野生児同然に育った幼年期と、武術に励んだここ数年の生活の賜物である。それは霞などには独特と評される戦勘にもつながっていた。
「……またですか?」
「ん」
視線を逸らしたまま、恋が小さく首肯する。まずいところを見つかった、という表情だ。
恋が左右の小脇に抱えるのは人だった。一人は大人で、もう一人は子供の体格ながらごてごてと装飾をあしらった衣装に身を包んでいる。恋は軽々と抱えてはいるが、相当な重量だろう。
恋が野良犬や野良猫、加えて孤児まで拾ってくることについて、同じく拾われた身の高順は何かを言える立場にない。ただあまり頻々とそれをされると、小言の一つも言わねばならなかった。最終的に世話係を務めることになるのは決まって高順であるし、文官不足の呂布軍で財務を担当してもいるのだ。
恋も高順が一度居ついてしまった者を拒みはしないことを理解しているから、とりあえず最初の小言だけかわそうという心積もりだったのだろう。
「今度はまた、随分と育ちの良さそうな」
粉塵で薄汚れてはいるが、身に付けているものは一目でそれと分かるほどに上質なものだった。盗賊にでも襲われ家を焼き出された良家の子女とその御付。そんなところだろうか。
「うぅぅっ、七乃~」
少女が小さく呻いた。