袁紹軍が冀州に兵力を集結させていた。
曹操軍が予州を得たのとほぼ時を同じくして、幷州、青州の併呑を果たしたその勢力は河北全土に渡る。集められた兵力は、中原への侵攻軍としか考えられない。
現状、袁紹軍の領分と境を接しているのは、曹操軍の兗州と、呂布軍の徐州、そして漢王朝の都洛陽を擁する司隷(司州)である。漢朝の名族であることを喧伝する麗羽が、この段階で司隷に手を伸ばすとは思えない。名族ゆえの求心力を放棄するようなものだからだ。攻め入るならば兗州か徐州であり、冀州に兵を集結させている以上、狙いは曹操軍の兗州と考えて間違いないだろう。
それを裏付けるように、曹操軍への宣戦布告とも思える檄文が袁紹軍より発せられていた。華琳を悪し様に罵るばかりの文面だが、読む人の心を激しく波立たせるのは能文家で知られる陳琳の手によるものだろう。華琳自身をして、檄文中に描かれる曹孟徳という人物に強い嫌悪感を抱くほどの出来栄えであった。むしろその文筆能力への感嘆が先に立った華琳以上に憤ったのが春蘭と桂花で、犬猿の仲の二人が珍しく意気投合したものだった。
それはそれとして、華琳は軍師である桂花には冷静な戦力比較を求めた。
袁紹軍の動員兵力は十五万とも二十万とも言われていたが、諜報部隊からの報告ではすでに十五万を越え、なおも兵の集結は続いているという。北方異民族の烏桓との関係も良好で、国境に大規模な守備兵を配する必要も無く、どころか精強な騎馬民族の援兵すら得ていた。
対する曹操軍の兵力は十二万を幾らか超えたというところだった。それは予州平定後に組み込まれたばかりの新兵も加えた数で、今すぐに出動に耐え得るものは十万にも満たない。何度か大きく増強する機会はあったが、その都度精兵のみを残すというやり方をしてきたからだ。さらに中原という他勢力に囲まれた地を領土とする以上、周辺に守備兵も配さねばならない。袁紹軍との戦に使える兵は精々が騎兵が一万五千に、歩兵が五万、それとは別に張燕の黒山賊の兵が二万と言ったところだ。農民出身の黄巾賊から転身した兵が多いため、騎兵の不足は避けようが無かった。それとは別に劉備軍の助力も見込めたが、こちらも兵力はわずか二千五百である。
桂花に繰り返し行わせた計算の上では、曹操軍に勝ち目はなかった。
華琳は出動可能な全兵力の頓丘への派兵を命じた。騎馬隊一万は曹仁が、黒山賊の兵は張燕が、そして本隊の指揮は春蘭である。全体の総指揮は華琳自身で、旗下には虎豹騎と五千騎を置くのみとした。
「頓丘、ですか?」
「ええ、そうよ」
頓丘は華琳にとって懐かしい地である。官途についた後、初めて地方官吏として赴任したのが頓丘の県令としてであった。
「河水(黄河)を、渡渉されるのですか?」
「ええ」
桂花のもっともな疑問に、華琳は軽く答えた。
兗州と冀州の州境はほぼ河水の流れと一致しているが、東郡の一部がわずかに川筋の北へ張り出していた。頓丘から発干までの地域がそこに当たる。
勢力圏を考えると、頓丘はむしろ袁紹軍の領分となるのが自然と言って良い。漢室の威光が衰え、群雄が州牧や刺史を自称している現状を鑑みるに、王朝の定めた州境にもはや大した意味などないのだ。それでも、その地域からの租税は兗州の州府へと納められていた。安定した税収の筋道はどの勢力も未だに漢王朝が整備したものに頼らざるを得ないためである。税を回収している以上、そこは曹操軍の領分だった。
「それは……」
桂花が言いよどんだ。
宋襄の仁の故事を紐解くまでもなく、川岸での迎撃は兵法の基本である。加えて、戦場を広くとらえれば曹操軍は河水を背負っての背水の陣ということになる。背水の陣は、烏合の衆に決死の戦を強いる起死回生の布陣であって、調練の行き届いた精兵があえて退路を捨てる理由はない。
「頓丘懐かしさで言っているのではないですよね?」
桂花に代わって幸蘭があえて確認するように言った。
こうした時、自分への反対意見が幸蘭や曹仁といった一部の親族からしかでないのが、華琳の自覚する曹操軍の弱点である。
「もちろん。―――」
やれやれと華琳は自嘲気味に微笑みながら、今後の方針を説いた。
鄴城の謁見の間に、袁紹軍の諸将が集結していた。
麗羽の左右に侍る様に二枚看板の斗詩と猪々子。眼下に淳于瓊、張郃、高覧ら部将と、審配、郭図、陳琳といった参謀。袁紹軍の古老たる田豊と沮授は、長期戦を訴えて今回の進軍に反対したため伴ってはいなかった。
城郭の周囲では兵舎に入りきらない兵が野営を張っている。総勢は二十万に及ぶ。約一年前に、反董卓を掲げ結集した諸侯の総兵力と変わらない数を、麗羽ただ一人でまとめ上げていた。
兵の集結を終え、いざ出陣という段になって麗羽は軍議の開催を余儀なくされた。
曹操軍が河水北岸まで進出したためだ。
黎陽から渡渉し、群がる曹操軍を蹴散らし打ち払い、二十万の大軍を見せびらかしながら南下を続けて華琳の本拠である陳留に入城を果たす。目論んだ王者の行進の第一歩を前に水を差されたようで、麗羽は鼻白んだ。
だがそれも一時のことで、曹操軍の総兵力を開戦早々の大戦で打ち砕くのも悪くないと、すぐに麗羽は気分を持ち直した。
「それでは、先鋒は―――」
麗羽が集まった面々に視線を向けると、一歩前へと足を踏み出した男があった。
大きな男だった。長身というだけでなく、巨岩のような拳に指に、腕も筋肉で隆々と盛り上がっている。加えて丸い巨眼に鷲鼻、引き結ばれた厚い唇と、顔の造作までが大きかった。まさに容貌魁偉を絵に描いたような大男である。
「蹋頓単于、それでは貴方にお願い出来るかしら?」
「はっ」
男が小さく頭を下げた。
蹋頓(とうとん)が、男の名前だった。烏桓族の単于(王)である。
烏桓族は単于である蹋頓自らが二万騎を従えて戦列に加わっていた。次の単于の地位を約束されている楼班も伴っての出陣である。
蹋頓は前の単于であった丘力居の甥にあたる。丘力居の幼い娘楼班の後見をしていた蹋頓を単于へ任命したのは、他ならぬ麗羽であった。元々実質的な統率者であり、特にそれを感謝している様子もないが、こうして要請には律儀に答え、援兵を送ってくるのだった。
「お待ちください、袁紹様。大戦の初戦なれば援軍などにお任せにならず、ぜひこの私にお任せください」
淳于瓊が一歩進み出て言った。
かつては皇帝直属の西園軍を率いる八校尉として、同僚でもあった女だ。同じ八校尉には華琳も名を連ねている。西園八校尉は筆頭こそ皇帝の寵愛を背景に宦官の蹇碩が務めたが、それ以外は何れも黄巾賊らの反乱の鎮圧に功があった者達である。淳于瓊も戦上手で知られていて、袁紹軍内では斗詩と猪々子に次ぐ地位にある。麗羽とは年齢も近く、気心の知れた相手だった。
「淳于将軍、私はすでに命を頂きました」
蹋頓が静かな口調で言った。静かだが、思わず周囲をたじろがせる様な独特の重みがある。
「そうね。仲簡、私はすでに命を下しました。ここは単于にお譲りなさい」
「……はっ」
親しみを込めて字で呼び捨てると、淳于瓊は小さく頭を下げて武官の列へ下がった。
淳于瓊の言にも一理はあったが、それで慌ただしく一度下した命令を覆すというのも袁本初の戦ではない。
蹋頓の率いる軍勢は騎兵だけで揃えた二万騎で、騎馬民族の軍兵なれば機動力はここに集うどの軍勢よりも上だろう。先鋒には格好だった。初戦だからこそ自軍を温存したいという気持ちもわずかにある。
「それでは蹋頓単于、露払いはお願いしますわね。この袁本初の軍の一員として、優雅で華麗な戦を期待していますわ」
「はっ」
蹋頓が大きな体を屈めて礼をした。
「単于」
校尉の一人がすり寄ってくると、遠く地平を指差した。大きな集落が一つ見えた。大きな、と言ってもそれは烏桓族にとっての感覚で、漢族にとってはどこにでもあるありふれた村だろう。
すでに州境は越えていて、曹操の領分内に侵攻していた。頓丘からは十里ほどしか離れていないが、曹操軍が兵を動かしたという報告はない。ここまで一戦もしてはいなかった。
蹋頓が頷いてやると、校尉は気勢を上げて兵の中に退いて行った。兵も喚声を上げ始める。
二万のうち本当の意味で蹋頓の手勢と言えるものは二千だけで、あとは各々の部族の兵だった。
烏桓は蹋頓を盟主と仰ぎ一応ひとつにまとまってはいるが、いくつもの部族の集合体でしかない。校尉などと漢族風な呼び方をしてみたところで、大半がそれぞれの部族の首長の息子などで、その実体は若者たちのまとめ役に過ぎなかった。
部族を越えて徴兵し調練を積ませた蹋頓の手勢は族全体で一万以上に上っているが、今回の戦では二千のみの出兵にとどめていた。残る一万八千は戦の意味を略奪としか考えていないような者達で、これは今度の戦で全滅してしまっても構わないとすら蹋頓は思っている。二万のうちの一万八千を失えば烏桓にとって大敗だが、蹋頓の責を咎める者達は兵力を失い、蹋頓の手勢だけが無傷で残るのだ。あとはいくらでも黙殺出来る。
中原が乱世に疲れ切った時、中華の戦にも慣れた自分が精強な兵を抱え北方にいる。何か面白いことが出来そうだった。
匈奴の英雄、冒頓単于の再来と呼ばれていた。かつて冒頓単于は広大な北方地域を平らげ、高祖劉邦の軍勢を討ち払い、漢族からの貢物を勝ち取った。冒頓単于の死後、衛青と霍去病という稀代の名将二人を得た武帝が攻勢にでるまでの六十年余りの間、漢族は匈奴への毎年の貢物を欠かさなかった。事実上、漢王朝は匈奴の属国のようなものだったのだ。
「――――――!!!」
いくつもの小集団にまとまった兵が、喚声を上げて我先へと集落へ向けて駆けていく。蹋頓は二千騎をまとめて、それを遠望した。
略奪が全て悪いことだとは思わない。徴収という形で烏桓族の利益につながるなら進んでやるべきだし、兵には息抜きも必要だった。ただそれを戦の主目的としてしまった瞬間、烏桓族のために国益を守る軍ではなく、ただの賊徒や獣と変わらなくなる。獣は強いが、戦で勝てるのは整然と居並ぶ軍隊なのだ。
「お兄様」
楼班が馬を寄せた。これが初陣であり、成長過程の小さな体に、不釣り合いなほど馬ばかりが大きな印象を受ける。とはいえ烏桓の単于の娘であり、巨馬を見事に乗りこなしていた。
楼班は一度蹋頓へ非難めいた視線を向けると、今度は集落を襲う一万八千を嫌悪感も露わに睨み据えた。丘力居の方針で幼いころから漢人文化に慣れ親しんだ楼班には、どうにも文弱なところがあった。
あと数年もすれば、蹋頓は単于の地位を降り楼班の下に武将として仕えるつもりでいた。蹋頓が戦をして、楼班が内を固めるというのが烏桓族にとって望ましい。楼班を単于として立てるまでに、いくらか猛々しさも持たせるためにこうして戦場に連れ出しているのだった。
「妙だな」
集落に群がる兵達が、未だ内部へ踏み込めていない。村人がよほど決死の抵抗を示しているのか。
「―――単于」
斥候からの報告が上がった。曹操軍の騎馬隊が迫っているという。行軍は迅速で、到着まであまり猶予はない。
「……あの丘へ上る」
集落の近くに、なだらかな丘が一つあった。曹操軍の進軍経路からすると、集落の手前に位置する。
「速いな」
丘を駆け上がると、すでに地平には騎馬隊が巻き起こす砂塵が見えた。こちらの斥候とほとんど変わらぬ速さだ。頓丘からはわずか十里だから、馬の足にもまだ余裕があるだろう。
精強で知られた曹操軍は、さすがに袁紹軍よりも動きが良い。疾駆しながらも、一万騎が一糸乱れず楔の陣形で駆けてくる。
丘の前を駆け抜けたのは五千騎で、後方の五千は直前で停止している。こちらの逆落としからの挟撃に対する、さらなる挟撃の構えだ。
集落へ寄せる一万八千にも敵襲の伝令は送っているが、命令系統が確立されていない。各部族からなる隊をまとめる校尉のすぐ上に蹋頓がいるという形だ。加えて部族ごとに派遣した兵の数も異なるから、千人規模の隊もあれば五十人に満たない隊もある。
蹋頓旗下の二千に関しては、百騎をまとめる隊長がいて、その上に十隊一千騎をまとめる校尉を二人置いていた。
一万八千騎のうち、曹操軍の騎馬隊の方へと向き直っているのは後方の数部族の五、六千騎だけで、他はまだ集落への侵入を試みていた。
「おおっ、漢土にもあれほどの騎馬隊があったか」
蹋頓は覚えず感嘆の声を漏らした。疾駆する五千騎から、百騎ほどが突出していた。凄まじい速さで、一万八千騎へと突っ込んでいく。
対面していた後方数部隊は、曹操軍の百騎の一当てで崩壊した。元より略奪の前線に後れを取り、敵襲の直撃を受けねばならないという割を食わされた部族である。他部族のために犠牲を出したくはないのだろう。最初から士気は見えなかった。
集落へ群がり背を見せる烏桓騎兵に、百と五千騎がぶつかった。
こんなものなのか。曹仁は胸中一人ごちた。
集落が一つ襲われているという斥候の報告を受け、すぐに曹仁は頓丘を発ちひた駆けた。
目に飛び込んできた敵騎馬隊の軍装は見慣れぬものだった。具足の上になめし皮でなく毛皮をそのまま用いた套衣をまとっている。中原の騎兵では有り得ず、北方騎馬民族―――烏桓族の兵であろう。
騎馬民族を目にするのは曹仁にとって初めてのことだが、その精強さを知らぬ者はない。かつての董卓軍や錦馬超の涼州騎馬隊の強さも、羌族の影響を色濃く受けているためと言われていた。
目の前の騎馬隊は馬術こそは見事なもので、後方からの攻撃でも思ったほど打ち落とせてはいない。ただ、見事なのはそこまでで、こちらの鋭鋒を避けて散った兵はそのまま潰走していく。まとまりの欠片も無い集団だった。
丘上の二千騎が動いた。後方に配した五千騎には気にも留めずに、真っ直ぐ戦線目掛けて駆けてくる。それも愚策だった。
曹仁は、五千騎は潰走する敵軍の追撃に回して、白騎兵だけを反転させた。後方の五千騎も動き始めている。挟撃の形はなった。
二千騎の先頭の一騎が、膨れ上がって見えた。鞍の上に立ち上がったのだ。巨馬に巨躯の男で、毛皮の套衣と相まってもはや騎兵というよりは別の生き物のように見える。男が弓を引き絞った。二千も弓を手にしている。
曹仁は白騎兵を縦列に組んだ。合図一つで、縦列は散り散りに散開する。
男が身を躍らせ、矢を放った。矢の向かう先は後方である。二千の矢がそれに続いた。後を追う五千騎の足並みが乱れた。
挟撃の機は外されていた。白騎兵の縦列の横をすれ違うように二千騎が駆け抜け、そのまま戦線に介入することもなく離脱していく。散っていた敵軍の一部も、それに続いた。二千騎は兵の合流を待たず、そのまま戦場を離れていく。
初めから、ぶつかり合う気はなかったということだろう。
曹仁は深追いを禁じ、二千とは別方向へと散った敵兵だけの追撃を命じると、旗持ちの兵と他数名を従えて、集落へと赴いた。兗州と冀州の境界にほとんど接するようにしながら、兗州側に位置する村である。
急行した曹仁の騎馬隊一万はそのまま後から来る本隊の先駆けも兼ねていて、恐らくは二万の烏桓族の兵もまた袁紹軍の先鋒であろう。華琳は州境に軍を展開し、そこから先の領分内には一歩も敵を踏み込ませないつもりでいた。
集落へ踏み入ると、烏桓の騎兵の侵入を阻んでいた仕掛けの残骸が目に入った。荷車や木材を並べただけの簡単な防壁が、幾重にも並んでいる。それは家並みを結ぶように作られていて、人は戸口や窓を潜り抜けることで防壁間の移動が出来るようだが、騎兵にはまず無理である。一層ずつ防壁を形成しては後退を繰り返しながら、騎兵の侵入を防ぎ切ったということだろう。
「村長に会わせてくれ」
馬を降りて言うと、遠巻きにした村人たちの中から初老の男性が名乗りを上げて前へ進み出た。
「私は曹操軍の曹子孝と申します。―――犠牲は?」
村長が被害状況を語った。
さすがに十数人の死者が出ているが、それは曹仁の想定よりもずっと少ない。彼らの犠牲が最初の防壁を築くまでの時間を作り、それからはわずかな負傷者が出ただけだった。
村には医師がいないということなので、曹仁は医術の心得のある兵を呼びにやらせた。
「その二人は?」
全ての手配を終えると、村長の背後に従う二人へ曹仁は視線をやった。明らかに他の村人とは違う空気を身にまとっていて、時に村長に代わって曹仁の質問へも受け答えをしていた。
「旅のお方で、防戦の指揮を執って頂きました」
「そうでしたか。防壁は見せて頂きました。見事なものです」
「お兄さんが噂の曹家の天の御使いですか~」
頭上に帽子、ではなくどこか見覚えのある珍妙な人形を乗せた小柄な少女が、抑揚の乏しい口調で言った。少女の眠たげな瞳が、いささか不躾とも思えるほどの視線を浴びせてくる。
「ちょっと、風。いきなり失礼ですよ。―――この子は程昱、字を仲徳と申します。私は郭嘉、字を奉孝。曹子孝様のお噂は、かねがね聞き及んでおります」
眼鏡をかけた生真面目そうな少女が、てきぱきとした口調で言った。
「お二方は、旅の武芸者、―――いや、兵法家でしょうか?」
見事な差配だが、二人は武術の鍛錬を積んだ者には見えなかった。遠巻きにする村人がまだ手に手に竹槍やら鍬やらを握っている中、少女達は得物も持ってはいない。
「はい、大陸中を廻って見聞の旅をしております」
「よくぞ、我らの民を救って頂きました。防壁の作成が、良く間に合いましたね」
「私たちは冀州より南下してきたのです。袁紹軍が招集をかけていることも知っていましたし、その中に略奪を常とする烏桓族の兵が混じっていることも聞き及んでおりました。昨夜宿をお借りした際に、いざという時の備えをしておいた方が良いと村長殿には話してあったのですよ」
「そうでしたか」
「それでも十人以上もの犠牲者を出してしまったのは、我らの未熟を嘆くばかりです」
「いえ、おかげで助かりました。お二方が居らねば、村の男達は惨殺され、女達は連れ去られていたでしょう」
村長の男が言った。
「村の復興には、我が軍の工兵を出しましょう」
集落の中には、打ち壊された家々が何件か目についた。騎馬隊の手によるものとは思えないので、防壁を作るための資材として利用したのだろう。
「軍の皆様にそのようなことまでして頂くわけには。それに、家を修復したところで、またすぐ戦場になるのでしょう?」
「それは―――」
「戦場にはなりませんよ」
曹仁の言葉を引き取って、眼鏡をかけた少女―――郭嘉が断定した。
「そうですよね、曹子孝様?」
「ええ、まあ」
「やはり呂布軍が動きますか~」
曖昧に答えた曹仁に、眠たげな眼をした少女―――程昱がやはり眠たそうに口を開いた。
「なるほど、見聞の旅をしているだけあって、お二方はの見識は大したものですね」
「同盟、いえ、一時的な共闘ですか」
「いいえ、どちらでもありません。ただ利を説くだけです。曹孟徳に同盟という選択はありません」
郭嘉の言葉を、今度は曹仁は否定した。
天下平定の事業を、誰かと手を取り合って為すという考えは華琳にはなかった。あえて言えば今の劉備軍の扱いは限りなく同盟関係に近いが、そこは余人には計り得ない華琳の価値観があるのだろう。いずれは自らの下に取り込むことも考えているはずだ。
呂布軍へは、曹操軍の領分が袁紹の支配下となることの不利益を説くだけだった。徐州は東方に海を抱え、南方は精強な水軍で知られた孫策軍と長江を隔てて境を接している。残る二方は北に袁紹軍、西に曹操軍の領分だった。西方までを袁紹軍が取れば、呂布軍は広大な袁紹の領土内に閉じ込められるようなものである。
呂布軍へは詠が使者として赴いていて、副使として張繍―――月も同行している。言うまでもなく反董卓連合との戦では陣営を同じくした者達で、使いはまず成功するだろう。もっとも華琳の予想では、朱里と雛里を出し抜いた音々音のことだから、使者が到着するまでもなく出陣の準備を始めているはずだった。
手薄な青州を攻め込まれ、十日と経たずに袁紹軍は撤退を余儀なくされるだろう。もちろん軍の一部を割いて青州防衛に当て、本隊はあくまで兗州攻めを継続するという可能性も無いわけではない。弱体化した袁紹軍と戦えるのならばそれならそれで望むところではあったが、そうはならないというのが華琳の想定で、曹仁の考えも同じであった。
麗羽にとってこの戦は天下の趨勢を一気に決するものであり、その相手として華琳を選び、華々しい戦を目論んでいたはずだ。麗羽の性格からして、ここへきて軍を二つに割くという忙しない戦への移行はあり得ない。
二十万もの大軍が、呂布軍の急襲の知らせを受け取るまでにこの州境に進出して来られるかも疑問で、恐らく戦があっても先鋒同士の小競り合い程度となるだろう。
今後の展開は曹操軍と呂布軍がそれぞれに北方へ進出し、袁紹軍をじりじりと侵すというものになる。そうなれば、この頓丘近郊に敵が攻め入るということもなくなる。
「そういうわけで、村長殿。――――――」
曹仁が改めて支援を口にするも、やはり村長は煮え切らない態度で遠慮の言葉を口にした。村長の口調から曹仁は単に恐縮しているだけでなく、怯えにも似たものを感じ取った。軍の手を借りればそれを理由に何を要求されるか解らない、というところだろうか。踏みつけられることに慣れきった民の姿がここにあった。
「我々軍は皆さんの税でこそ成り立っているのです。このような時に働くためにこそ存在しているものとお考えください」
なおも逡巡する村長は、郭嘉と程昱へ視線を向けた。二人が無言で首肯すると、何度も感謝の言葉を並べたてながら曹仁の手を取った。
「曹操軍は定められた租税以上のものを徴収しないというのは、やはり本当なのですね」
郭嘉が口を挟んだ。
「臨時徴税などというものは本来政治家が己の無能を喧伝するようなものだ、とは我が主の言です」
「地方官吏の腐敗も、その辺りが原因でしたしね~」
程昱が言った。
故なき臨時徴税を繰り返し腹を肥やす地方官吏の横行が民の怨嗟を生み、遂には張三姉妹の歌の信奉者に過ぎなかったはずの黄巾賊の暴走へと結びついたことは記憶に新しい。
「とはいえ、やはり税率が高すぎる気もしますが」
郭嘉が眼鏡に手を沿え、思案顔で言った。
華琳の領内では土地の豊かさを考慮して、収穫の二割から三割を国―――この場合は曹操軍へ、納めることが定められている。耕地を与えられたばかりの黄巾の移民たちに関して言えば、初年こそ免除されるものの、その後数年間は五公五民とされ収穫の半分が税として回収される。漢王朝では一般的に常設の税は五分から一割程度と定められており、これは相当に高い税率と言えるだろう。ただ、他に賦役が課されるということはなく、開墾などには兵を派遣することも多かった。兵士が管理する官営の農地も築かれている。官吏も兵も民も、無駄に遊ばせておかないというのが華琳の考え方だろう。
「そうした疑問は、私よりも主にぶつけて頂きたい。―――もしお二方さえよろしければ、この後本隊を率いてまいります我が主にお会い頂きたいのですが。恐らく仕官を求められるでしょうから、ご迷惑ならここでお断り頂いても構いませんが」
二人の見識は相当なものであり、それがただ口だけのものではない証も立っている。加えて見目麗しい少女でもあれば、華琳が欲しがらぬはずもなかった。
「そ、曹子孝様の主と申しますと、そ、曹孟徳様ですかっ!?」
これまで極めて理知的に振舞っていた郭嘉が、興奮した様子で当たり前のことを殊更確認するように言った。
「え、ええ、そうですが」
「そ、そそ、曹操様と、―――は、はぁっ」
一瞬、曹仁は何が起こったのか理解できなかった。
郭嘉が血飛沫を上げて仰向けに倒れていく。曹仁は咄嗟に抱き留めると、周囲に視線を送った。飛んでくる矢は見えなかったが、弓で狙われたとしか考えられない。
「っ! 程昱殿、何を!?」
程昱が警戒心の欠片もなくとことこと歩み寄ると、曹仁の手から郭嘉を引き寄せた
「は~い、稟ちゃん、とんとんしましょうね、とんとん」
「…………えっと、鼻血?」
程昱に話をきいてみると、郭嘉は激すると鼻血を吹くという厄介な体質の持ち主で、熱心な曹操信奉者でもあるらしい。星とはかつて共に見聞の旅をした仲であり、兗州に赴いたのもその縁を伝って曹操軍への仕官を考えてのことだという。
その後二人は、華琳に鼻血を噴きかけるという珍事を経て、目出度く曹操軍の一員となったのだった。