気付けば、白波賊の武将をしている自分がいた。
行き倒れを拾われ最初は客人として扱われたが、恩を返すために何度か戦場に立つうちに自然と武将の一人と見なされるようになっていた。
「―――徐晃」
白波賊は黄巾の乱の残党ではあるが、頭に黄巾を巻いた者はほとんどいない。つまりは信仰もなく世の乱れに呼応して立った賊徒の一団に過ぎないが、頭目の楊奉はしっかりとした世直しの志を持っていた。同時に、政や役人に対する不満を抱きながらも、漢という国を完全に見限ったわけでもなかった。なんとなれば、群雄割拠の情勢の中、取り残されたように力を失った帝に最初に手を差し伸べたのが楊奉率いる白波賊なのだ。
「―――おい、徐晃。聞いているのか?」
「ん? ああ、すまない。何だ?」
徐晃は、自分が呼ばれていることに気付くと先を促した。
何度か無視してしまったのか、相手の男―――韓暹は不機嫌そうに眉をひそめている。
韓暹は楊奉と同じ白波賊の頭目の一人ではあるが、人物はずっと小さい。他にも李楽、胡才という頭目がいて、四人は形の上では同格だが、楊奉一人だけものが違った。
「また賊がこちらをうかがっている。行って、蹴散らして来い」
「……ああ、わかった」
貴様も賊のようなものだろう、という言葉を、徐晃は飲み込んだ。
宮殿を出て、城外へと向かう。道すがらのぞいた洛陽の都は、荒れ果てていた。ほとんど人とすれ違うこともない。
反董卓連合の戦では、董卓軍が自ら開城を選んだことで、洛陽が戦場になることはなかった。荒廃が進んだのは、その後のことだ。
戦に勝利した反董卓連合の面々は洛陽での栄達を望まず、それぞれが一勢力の雄として起つべく地方へと散っていった。群雄割拠の時代の到来である。それで、洛陽は漢朝の都という役割を失うこととなった。政は各勢力がそれぞれに展開し、朝廷の声は空しいものとなり、自前の兵力さえも失われていた。それでも、依然として河水の水運に支えられた商いの中心地ではあり続け、民の活気には満ちていた。洛陽を戦場としなかった董卓の功績と言えよう。
李傕、郭汜という董卓軍の武将二人が、隙に乗じて洛陽に入城を果たしたのが荒廃の始まりだった。わずかな守備兵を残すのみだった城門は容易く破られ、城壁は半壊した。
政を壟断した李傕、郭汜であったが、二人の関係が良好であった初めのうちはまだ良かった。勝手気ままな振る舞いに耐えればそれで良い。それぞれに主権を主張し、仲を違えてからは凄惨だった。土台が西涼の暴れ者二人である。街中でも、平気で兵を戦わせる。先を争うように、住人から徴税を繰り返す。もはや商いどころではない。民は離散し、漢朝の都は戦場となった。
それに対した楊奉は意外な周到さを見せた。まずは白波賊の兵力を武器に李傕へ取り入り、共同して郭汜を洛陽から追い出した。次いで李傕を飛び越えて帝に拝謁し、車騎将軍に任命されると、すぐに李傕討伐の軍を挙げた。こうして、政敵を討ち払い油断し切っていた李傕もまた、郭汜と同じ道を辿ることとなる。
政権を握った楊奉ではあるが、朝廷の政に口を出すことはしなかった。政は文官達に任せ、楊奉自身はただ天子を守る守備隊であり続けることで、戦場跡地となった洛陽を小さいながらも漢朝の支配の及ぶ最後の領土とし続けている。一度は洛陽を捨てた民も、少しずつ戻り始めていた。
「あれか」
城壁の外でこちらを窺う賊は百にも満たないが、徐晃が率いる兵も二十だけだった。目に付いた城門の守兵を呼び集めたに過ぎない。
徐晃は二十を従え城外へ打って出た。小勢と見たのか、賊にひるんだ様子はない。
本来、この程度の小規模な賊が洛陽を襲うなどあり得ない。今は李傕らの攻撃で破損した城壁の補修も半ばで、加えて白波賊の兵力はこの大都市を守るにはあまりにも少なかった。漢室を慕い義勇兵に志願する者は後を絶たないが、それを加えても三千に過ぎない。
賊共は軍規も陣形も何もあったものではなく、数人が突出して気勢を上げたり武器を振りまわしたりしている。同じ賊徒に過ぎなかった白波賊が天子を握ったことで、無邪気なまでの単純さで自分達が取って代わることを考えたのだろう。今、洛陽に孤立する天子を擁立し漢朝での権力を手中に治めようとしているのは、だいたいがこの類の連中である。各地に割拠する群雄達はすでに漢王朝からの独立の気風を強め、己が勢力の拡大に尽力している。
「徐晃様、いかがいたしますか?」
「……」
「徐晃様?」
「―――っ、ああ、そうだな。お前たちは、退路を断つだけでいい。十ずつで、左右を迂回して後ろに回り込め」
「はっ」
徐晃の両脇を抜けて兵が駆け出していく。後方へ回り込む動きにも、賊は何の警戒も示さなかった。二十と一騎程度は、容易く討ち払えると思っているのだろう。徐晃は敵勢目掛け、真っ直ぐに馬を駆け出した。
徐晃と呼ばれるようになってもう一年以上が経つが、まだ時々自分の名と認識出来ない瞬間があった。一年とはいうが徐晃にそれ以前の記憶はなく、つまりは全人生において徐晃と呼ばれているようなものなのだ。
徐晃の最初の記憶は、負け戦だった。董卓軍と反董卓連合の戦である。兵に肩を借りて敗走していた。その兵士も気が付けばいなくなっていて、手元には大斧一本だけが残されていた。
兵に付き添われていたこと。そして見事な装飾がほどこされた大斧。自分が軍においてそれなりの地位にあっただろうことは容易に想像がついた。
徐という姓は、その時の戦で命を落としたという董卓軍の将軍にあやかったものだ。
晃というのは、唯一覚えていた自らを示す名だった。あるいは真名なのかもしれないが、そこまでの記憶は残されていなかった。
意識が戻って初めて振るった時、斧の重さに身体がふらついた。病み上がりということもあるだろうが、そうでなくともかつての自分がこの大斧を自在に操れていたとは到底思えなかった。つまりは分不相応な得物だったということだ。
取り憑かれたように斧の修練にのめり込んだのは董卓の死を知ってからだ。胸の中で、何か大き過ぎるものが失われたと感じた。今は顔も思い出せない、おそらくは主君。
右のわき腹には、今も刀傷が残っていた。内腑にまで到達しそうな大きな傷跡だが、こうして何不自由なく動けている以上、上手く逸れてくれたのだろう。つまりは、負けたということだ。負けて、ただ運に恵まれて生きながらえている。誰を相手に受けた傷なのか、覚えはない。あるいは名も無い雑兵に斬り付けられたものなのか。どちらにしても、自分は戦いに敗れ、主君の危急に命を懸けて奮戦することはおろか、その場に立ち会うことすら適わなかったのだ。
一人で、敵する者全てを打ち払えるほどに強くなりたかった。それは心の病にも近いもので、斧を振っている時だけが強烈な喪失感を忘れることが出来たのだ。
戦ともなれば、さらに充足したものを感じた。目の前の敵だけに集中していれば良い。そして敵は、時に徐晃の頭の中で董卓を討ち取ったまだ見ぬ仇に置き換わるのだった。
「はぁっ!」
徐晃は敵軍の真っ只中に馬を乗り入れた。左右に一度ずつ振った斧でそれぞれ二人、合わせて四人分の血飛沫が舞った。馬が一歩足を進めるごとにそれは続いた。八人、十二人、十六人。
賊が蜘蛛の子を散らすように潰走していく。それを、先行して後ろに回り込んでいた歩兵が遮る。徐晃は背を向ける賊へ馬を向けた。
「――――おーーい!! 待て、徐晃! そこまでだ!」
背後からする野太い男の声に、徐晃は振り下ろし掛けた大斧を止めた。周囲の賊達が、安堵のため息を漏らしながら力無くへたり込んでいく。
「楊奉様、いかがされた?」
「まったく、韓暹の奴はやることが乱暴すぎるし、お前はお前で強過ぎるな。もうこんなに減らしてしまったのか」
走り寄ってきた楊奉が乱れた呼吸を整えながら言った。馬を用意する時間も惜しんだのか、徒歩である。
数度、大きく深呼吸を繰り返して息を落ち着かせると、楊奉は徐晃にではなく、腰を抜かしたように地面に座り込む賊達に向けて口を開いた。
「お前達、賊などやめて天子の軍へ入らないか?」
若い時分には、学問にも相当に打ち込んだ。
生まれつき物事を深く考える方ではなかったから、結局ほとんど物になりはしなかった。学問を通して得たものは、国への忠義だけであり、それは楊奉の中にしっかりと形を成している。
ただ、肝心の国は腐りきっていた。中枢には外戚と宦官、奸臣が跋扈し、地方では役人の横暴が民を泣かせていた。黄巾の乱に乗じて立ったのは、漢という国を壊すためではなく、外から立て直すためだった。黄巾の叛徒に明確な王朝打倒の意志などはなく、漢室がその存在と信仰を認めてさえしまえば、共存は容易い。それは漢という国の中に民の力を背景とした一大勢力が出来るということで、悪政に対する自浄作用が期待出来た。
嬉しい誤算というべきなのか、漢室にも人はいて、全土を覆った黄巾の乱はほどなく鎮圧された。彼らが手と手を取り合い、漢室に蔓延る奸臣共を一掃し、政が正当に還る様を楊奉は一時夢想した。だが、楊奉よりはるかに学識に勝るだろう英傑たちは、優秀なだけ腐敗した国を見限るのも早かった。皆が皆、漢室への忠誠など忘れ、独自勢力の形成に走った。反董卓連合、そして今の群雄割拠の情勢と来て、すでに高祖劉邦から続く血筋を中心に据えた政の形は完全に崩壊している。
それでも、楊奉の忠義の志に陰りはなかった。
今や目通りが適うようになった天子も、そんな楊奉を裏切りはしなかった。
天子は人であって人ではなく、天帝の子であり、天意の代弁者でなくてはならない。古い儒教の教えであり、楊奉もそんな話を真に受けてはいなかった。ただ高祖劉邦、光武帝劉秀から続く、この国で最も気高い英傑の血筋を継ぐ至尊である。それが楊奉の認識であった。
だが、初めて目にした天子は、確かに人を超越した存在であった。語る言葉は人知を超え、不可解で、それでいて物狂いの類では決してなかった。
次いで拝謁した際からは、最初の時のような神憑り的な違和は失われていた。幼いながらも聡明で、窮地の我が身よりも民の安寧を思いやる慈悲の心を持ち合わせた少女がそこにいた。強烈な覇気こそ有してはいないが、善良で賢明な君主足り得る素質は兼ね備えていた。もし十年早くこの天子が生まれ、十年早くその地位に付いていたならば、現状は全く違ったものとなっていただろう。
漢室の帝は、本来なら一介の賊徒の拝謁が許されるはずもない雲上人である。今の天子は、進んで楊奉とも会いたがった。奸臣や宦官に囲われるだけだった父帝を知っているからだ。楊奉を通じて朝廷から上がる情報ばかりではなく、生の外の世界に目を向けようとしている。
そんな天子の心情に気付いた時、漠然と抱いていた楊奉の忠誠心にはっきりとした対象が生まれていた。
「お前が、頭目を殺しておいてくれたおかげで、面倒が少なくて済んだ。あとはばらばらに配置してやれば、徒党を組んで悪さも出来んだろう」
城門へ向けて歩きながら、楊奉は小声でささやいた。徒歩の楊奉に合わせて、徐晃も馬を引いて隣を歩いている。
「あのような者達が使い物になるとは思えん。殺されるのを恐れて、ただ首を縦に振っただけではないか」
楊奉の誘いに乗った賊は、白波賊の兵十人ずつに挟まれる形で二人の後ろに付いてきている。総勢で四十三人で、実に五十人程も徐晃の大斧の餌食となったことになる。特に意図して狙ったわけではないようだが、その中には賊の頭目も含まれていた。
「今はとにかく数が欲しい。それに最初から立派な兵などいないさ。これからしっかりと仕込んでやればいい」
三千で洛陽を守れはしない。もともとが商業都市であるからには、防衛を目的として築かれた城郭ではないのだ。洛陽の守備は南北に連なる山岳と、東西を固める汜水関と函谷関に依存する。三千では、汜水関と函谷関に十分に兵を配することも出来なかった。
情勢は予断を許さないが、徐晃は自身を鍛える以外のことにほとんど興味を示さないし、韓暹ら他の頭目達は天子を手にしたことですでに天下までを手中に収めたと浮かれきっている。
楊奉はこのところ、苦手な思案に明け暮れていた。
「そういって、どうせ仕込むのは私なのだろう?」
「悪いな。賊上がりの俺達には、調練はちと荷が重い」
白波賊の軍も最初は酷いものだった。しっかりとした軍規も定まってはいなかったし、陣形を組む訓練もろくに積んではいなかったのだ。
楊奉も兵書の類を学んだことはあったが、そこには調練の仕方などは書かれていない。徐晃が武将として加わって初めて、軍としての体裁が整えられた。徐晃は失った時間のうちの大部分を軍人、それも相当な地位にある人物として過ごしたのだろう。記憶を失った今も、考えるまでもなく軍を率いていた。
「まったく、仕方ないな。―――先に行くぞ」
徐晃はため息交じり言うと、悄然と歩く新兵達に向き合った。
「背筋を伸ばせ、貴様ら! 我が旗下に入ったからには、腑抜けた様は許さん! 早速調練を開始する。まずは調練場まで駆け足。守兵二十は先導、新兵はそれに続け! 守兵二十は全力で駆けろ! 新兵は離されるな!」
二十人の先輩に率いられる形で、新兵達が駆けていく。最後尾では再び馬上の人となった徐晃が大斧を振りかざしているから、新兵達の走り方には死に物狂いの態がある。
「おうおう、頑張れよ」
楊奉は駆け去っていく兵達の背をしばし見送ると、城門へ向けて再び足を進めた。