「おい、はやくこっちに来て酒を注げ」
「―――はい」
陳矯は賊の頭目の元へとしずしずと歩み寄った。
兗州、予州、徐州の三州の州境が重なる位置にある村だった。一応所属としては予州に属し、租税は曹操軍へ納めていると、村に入って最初に出会った村人に聞いた。
旅の途中で偶然この村に宿を求めた。その日の夜に村が賊徒に襲われ占拠されたのは、不運としか言いようがない。
賊は二百人程もいたが、陳矯は人並み以上には剣は振るえるし、馬も得意だから一人逃げ出すだけなら不可能な話ではない。しかしさらに運が悪いことに、すぐに賊の頭目に目をつけられ身の回りの世話を命じられた。村には他に年頃の娘がいなかったからだろう。陳矯が逃げれば、村の人間に何らかの報復が加えられるだろう。
唯一の救いは、賊は好き勝手しているようでどこか規律が守られていて、酌取りはさせられても身体を求められることはないことだ。もし組み伏せられるようなことになれば、村人には悪いが斬り結ぶしかない。少なくとも二、三人は道連れに死ねるだろう。
軍が村に踏み込んだのは、占拠から十日目のことだった。
軍と言ってもわずか二十騎で、先頭の一人を除いた全員が首に白い布を巻いていた。隊長と思しき先頭の男は布の代わりということなのか、白馬に跨り、具足までが白い。馬はいずれも立派なもので、精鋭と感じさせた。それでも、たったの二十騎である。陳矯は面倒事を増やされるだけだと、その二十騎をただ迷惑な存在と感じた。
軍は並足で村の中央にある広場まで進むと、脚を止めた。周囲を、賊が囲み始める。陳矯は家並みの影に隠れて、その様子を観察した。村人達も家の窓から、固唾をのんで見守っている。
「全員、今すぐ降伏しろ。武器を捨て跪いた者だけ、命までは取らないでやる」
白馬に跨った隊長が口を開いた。広場の隅々まで響き渡ったが、大声を張っているという感じもしない。この場に及んでも落ち着いた静かな声だった。
二十を二百で包囲しているのだ。賊徒の中に隊長の言葉に従う者は皆無だった。
賊の一人が、挑発するように刀をゆらゆらと揺らしながら隊長の方へと歩み寄る。
白馬が、その男へ向けて力強く一歩を踏み出した。陳矯の目に捉えられたのはそこまでで、気付いた時には男の身体が宙高く跳ね上がっていた。
一丈(三メートル)近くも突き上げられ、地に落ちた男の四肢はだらんと弛緩している。出血はなく、傷らしい傷もない。それで初めて石突きでの一撃であったことが分かった。地面に激突した瞬間にも男の身体に何の反応もなかったから、恐らく即死だったのだろう。
どこか現実感の無い光景に、賊達は怒ることも忘れて呆然としている。
「お前達、数が恃みのようだが、己の命は一つきりであることを忘れるなよ」
白馬が、また一歩踏み出した。
たった一人を討たれただけで、賊は完全に飲まれていた。前列の者達が後退り、小さなぶつかり合いがいくつも起こっている。
「隣に並ぶ仲間はお前の代わりに死んではくれないし、後ろに隠れる者達はお前のことを盾という程度にしか思ってはいないぞ」
隊長は駄目押しするように言って、白馬を一気に駆けさせた。他の兵も散開し包囲へ向かった。賊徒はその鋭鋒に触れる前から潰走を始めている。
半刻後には最初に隊長が言った通り、武器を捨て跪いた者達だけが、十数人残るだけだった。
「……さすが」
目の前の窓から顔を出している村人が、小さく呟いた。
「さすが? 彼らが誰だか知っているのですか?」
「ああ、お客人か。予州に住んでいて、彼らを知らない者などおりませんよ。曹孟徳様の州牧着任後に残党狩りに駆け回った軍の、常に先頭にいたのが他ならぬ彼らですからね」
村人は勿体をつけるように、一呼吸置いて言った。
「彼らが白騎兵です」
「―――あれが、あの」
白馬の隊長は、村長と何がしかを話すと、二十騎をまとめて駆け去っていった。入れ違いに徒歩の兵がやってきて、広場に天幕を張り始める。村人の怪我の手当てや、建物の修繕を手伝ってくれるらしい。
賊徒に軟禁されていた陳矯の元にも、女性の兵士が様子を伺いに来た。陳矯は兵との会話は早々に切り上げ、賊に取り上げられていた自分の馬を見つけ、飛び乗った。
しばらく駆けると、並足で進む二十騎にはすぐに追いついた。向こうは並足でも、こちらの陳矯の馬は軽い駆け足だ。
「はて、どうしたものか」
陳矯は小さくひとりごちた。訳もなく見失うまいと追いすがってはみたものの、追いついてみたところで特に用があるわけでもない。
陳矯があれこれと思い悩んでいる間に、同じく二十騎ずつの四隊が合流して、白騎兵は総勢百騎となった。途端に足が速まって、付いていくだけで精一杯の陳矯は考え事どころではなくなった。
百騎が陳矯の存在に気付いていないはずもないが、特に何を言われることもなく行軍が続いた。進路は北西を指していて、曹操軍と袁紹軍とが対峙する兗州と冀州の州境の戦線へと向かっていることは知れた。
並足と疾駆を繰り返して、百里近くも駆けたところで白騎兵が馬を降りた。鞍までを外すからには、ここで野営か、そうでなくともそれなりに長い休憩を取るのだろう。
陳矯は滑り落ちるように馬から降りると、うつ伏せに地面へ倒れ込んだ。腿は引き攣り、尻の感覚はとっくに失われている。
「―――おい」
「はっ、はいっ!」
声を掛けられていることに気付いて、陳矯は慌てて跳ね起きた。
目の前に白い具足の隊長―――恐らくは天の御使い曹子孝―――の姿があった。
「俺達に何か用があるのか?」
「え、ええっと―――」
曹子孝は争闘の中での印象とは異なり、存外背の低い男だった。それでも女性の中でもさらに小柄な陳矯は、見上げるようにして視線を返した。
「そ、その、―――わ、私を曹操軍に、あの白騎兵に加えてください!」
口にして初めて、自分が何のために白騎兵を追い続けていたのか陳矯は理解した。
「……その小さな馬で、ここまでよくついてきたな」
曹子孝は陳矯の懇願には答えず、世間話でもするように関係のないことを口にした。
一瞬恥ずかしさを覚えた陳矯は、曹子孝の声に驚きが含まれていることに気付いて、すぐに得意気な気持ちになった。白騎兵の乗る馬はどれも大きい。曹子孝の乗馬など、見たこともない程に見事なものである。速くて、当たり前なのだ。
「馬術にはそれなりに自信が―――」
言葉の途中で、頭が弾けた。少し経って、ようやく陳矯は頬を張られたのだと理解した。
「何をっ!」
ずり落ちた眼鏡を直しながら食って掛かった。曹子孝はこちらに目もくれずに横をすり抜けると、陳矯の馬の足元へ屈み込んだ。
「拳を握らなかっただけありがたいと思え。―――角」
副官らしき傷顔の大男を呼んで何事か命じると、曹子孝は陳矯へと向き直った。
「前足の蹄が片方割れている。それに腱もかなり痛めているな」
言われて、陳矯は馬へと慌てて取り付いた。
「うちには馬の傷を診られる者もいる。今、呼びに行かせている」
「あ、ありがとうございます」
「割れた蹄で駆け通したその馬に免じて、軍には推挙してやろう。だが馬を大切に出来ない者は、白騎兵には必要ない」
頭を下げた陳矯に、曹子孝が冷たく言い放った。
白騎兵の馬は、どれも飼葉を与えられのんびりと過ごしていた。飼葉の持ち合わせなどありはしなかったが、鞍も外してやっていなかったことに陳矯は今さらながら気付いた。
「さすがに白騎兵だけだと速いわね」
本隊への帰陣を報告へ行くと、華琳は感心したように言った。
ここ三ヶ月ほど、曹操軍本隊は河水北岸に仮設された軍営に駐屯している。華琳は軍営と政の中心地である陳留とを幾度となく行き来していた。
一度は兗州に侵攻し掛けた袁紹軍はすでに撤退している。最初に烏桓の騎馬隊と交戦して以降、ほとんど戦らしい戦が行われることはなかった。最後に撤退を開始した二十万の軍勢を追撃した以外では、何度か略奪を狙う烏桓の兵を追い払った程度のものである。
大軍が去ったとはいえ、冀州南域の要衝である鄴と黎陽の二城に袁紹軍は三万ずつの兵を残していったため、未だ軍営は前線であり続けていた。改めて構え直した袁紹軍は、河北四州を争闘の末に手中にしただけはあって、さすがに隙が無かった。青州では呂布軍も守備を固めた城の攻略には手を焼いているようだった。袁紹軍に隙が出来るとしたら、麗羽が何か大きな企図を実行に移した時だろう。袁紹軍と曹操軍、袁紹軍と呂布軍のそれぞれの戦場は均衡を取り、交戦状態にありながら奇妙な静けさがあった。曹操軍では兵の練度の低下を避けるため、半数ずつの交代で調練が繰り返されている。
徐州との州境にあるいくつかの集落に賊徒が入り込んだという情報が飛脚を通じて届いたのは、つい五日前のことだった。状況に不審を覚えた華琳は留守の守兵だけに任せることをせず、曹操軍中で最速の機動力を有する白騎兵と曹仁に出撃を命じたのだった。
曹仁は、賊に侵された村が五つあり、それぞれを白騎兵二十騎で殲滅したこと、わずかに得た捕虜は州境の守備兵に引き渡したことを報告した。
「それと、賊の荷の中からこれが出てきました」
最後に、曹仁はずっと握り締めていたものを暗い気分で示した。
「呂布や陳宮の意志が働いているとは限りませんが」
華琳に視線で促され、曹仁は言い訳のように言い足しながらその巻物状の布を広げた。
「―――呂旗、ね」
退屈そうに報告を聞いていた華琳が身を乗り出した。
現状では恋や霞、高順ら呂布軍の主力部隊は、袁紹軍と境を接する北方戦域に張り付いているはずだった。すでに青州南域の一部は呂布軍の支配下にあって、袁紹軍とは完全に交戦状態にある。この状況下で、呂布軍が曹操軍の領分へも手を伸ばすとは到底考えられなかった。
主将が留守の間に、質の悪い残留部隊の兵が暴走したということなのか。いずれにしても使者をやって問責しないわけにはいかなかった。
すぐに軍議が開かれた。陳留に留まり政を任されている荀彧以外の主だったものは全て集められている。曹仁は自ら使者に名乗り出たい気持ちをぐっと抑えた。袁紹軍との交戦状態にあるのは、曹操軍とて同じである。荀彧の下にいる文官を派遣するという決定が下され、その日は散会となった。
新兵の部隊を見に来るように、凪から伝言を受けたのはそれから三日後のことだ。
一通りの調練を終えた兵をまとめた隊で、常に一万ほどが所属している。凪と沙和の下で数度の実戦を経験した後、各隊に振り分けられていくのだ。三人娘のもう一人、真桜は新兵の調練からは外れて、今は工作部隊の隊長に専念している。
曹仁が訪れたのは、一万の兵が二人組で、一対一の槍の鍛錬をしているところだった。基本的な武器の扱い方の訓練で、新兵のうちに一通り教え込まれる。各隊に配属になってからはこうした個々の力量を磨く訓練は減って、部隊規模での動きの調練が多くなる。
「白騎兵に入れろと騒ぎ立てているもので。他の者なら追い出せばすむ話ですが、曹仁様が拾ってきた者だというので、どうしたものかと扱いに困っています」
「それはすみません。ご迷惑をおかけしました、凪先生」
「先生はおやめください」
曹仁が軽口交じりに言うと、凪は困ったような表情でちょっと顔を背けた。少し前から、曹仁は凪に内功―――氣の修練を教わっている。
氣の鍛錬を積むことを内功といい、対して筋骨を鍛えて技を磨くことを外功という。内功という言葉自体は曹仁がいた世界にも存在していた。しかし氣功などと称されるものはお芝居の中の話であり、現実には特殊な呼吸法を練る程度のものか、手品の類であっただろう。張三姉妹の次女張梁は妖術などという怪しげな力を用いるというが、感覚としては氣もそれに近いものがあった。
凪は疑問の余地もなく曹操軍随一の氣の使い手である。氣の塊を拳の先端から撃ち出すという、曹仁の感覚ではもはや絵空事としか思えないような真似を現実のものとする。
凪に弟子入りしてはみたものの、曹仁はあまり出来の良い生徒とは言えなかった。今だに氣の存在を掴みとることすら出来ていない。もっとも、一般に男は女ほどに強い氣は持たないとされる。子供を産む女性は、胎児の発達の過程で多量の氣を必要とするため、その絶対量が男性よりもはるかに高いと考えられていた。事実、この世界では武術を極めた達人は大抵女であるし、氣の生成に最も重要な器官である臍下丹田は解剖学的には子宮に位置する。
単純な筋力であればやはりこの世界でも男の方が女よりも上で、力仕事を担うのは普通は男だし、兵士も大抵は男である。しかし傑出した武人となると大概が女だった。さして筋肉があるとは思えない恋や、子供の体格から抜けきっていない鈴々や季衣が凄まじい膂力を持っているのは、氣によるところが大きいのだろう。春蘭などは、凪が羨むほどの雄渾な氣の持ち主だという。
「それで、腕の方はどうです?」
「仰っていた通り、馬術はなかなかのものです。剣や槍の腕は、悪くはないといったところでしょうか。それとかなり学問は積んでいるようです。兵書などもかなり読み込んでいるようですし」
曹仁の紹介というだけでなく、ただ追い出すには惜しい人物と凪は感じたようだった。
軍馬でもなく、調教も受けていない馬を限界を超えて走らせた。馬と何かを通じ合わせるものも持っているのだろう。
「おいっ、陳矯!」
「はいっ!」
大声で呼び掛けると、一万の中から小さな影が飛び出した。体を仰け反らせるように一度直立し、駆け寄ってくる。
「お呼びでしょうか、曹仁様!」
「先日は、すまなかったな」
「はい! ……?」
陳矯は元気よく返した後、良く分からないという表情で小首を傾げた。
無意味に馬を潰した。半分は、自分がそう誘導したようなものだった。追ってくる馬影には気が付きながら、白騎兵の行軍を続けたのだ。呂旗を見つけた苛立ちに周囲が見えていなかった。今にして思えば、情けないがそういうことだ。
「学問をしているらしいな」
それ以上は続けず、怪訝顔の陳矯に曹仁は質問をぶつけた。
「はい。元々私は文官志望でした」
「まずは俺の従者からだ」
騎馬隊の動きについてこられて、文筆を担当出来る者というのはそれだけで非常に有り難い存在ではあった。一人置くだけで、曹仁や角は随分目の前の用兵に集中出来るようになるだろう。
「はっ……? ―――はいっ!」
陳矯が跳び上がる様に直立して敬礼した。
それから十日と経たず、呂布軍からの使者が送られてきた。こちらの問責の使者に対する返答としては早過ぎ、先手を打って送り込んできたことが知れた。友好を望む呂布軍の姿勢の表れだろうと、曹仁は安堵した。それも、興奮気味の使者の言を耳にするや一変した。
使者は、曹操軍が徐州内に侵入し守兵数百を惨殺したと、声を荒げて糾弾していた。
「―――袁術! 張勲!」
荒げた声に続いて、叩きつけるように戸が押し開けられた。無遠慮に私室へと踏み込んできたのは陳宮で、美羽は目を丸くしてそちらを見ている。美羽と向き合って卓につく七乃は、主君の愛くるしい表情に頬をゆるませた。
「なんじゃ、ねねか。何か用かえ? 妾は今から蜂蜜の時間じゃ。後にしてくれんかの」
視線を音々音と卓上の小瓶とに行き来させながら、気もそぞろに美羽が言った。
「袁術、貴方は調練の時間のはずでしょう! 張勲も、傅役ならしっかりしてください! そんなことだから曹操軍に不覚を取るのですよ!」
曹操軍との連日の使者のやり取りに、陳宮は憤りを高まらせているのだろう。いつも通りの癇癪も、増して語気が鋭い。
「あら、もうそんな時間でしたか? 美羽様、蜂蜜は調練が終わってからにしましょうね」
「いやじゃ! 妾はもう蜂蜜の気分なのじゃ。調練の指揮などしとうないっ」
七乃が悪びれず言うと、美羽が愚図り始めた。
「そ、そうじゃ、ねね。妾の蜂蜜をお主にも少し分けてやる。それで手を打たんかの?」
「美羽、いい加減にするのですよ。あまり駄々をこねるようなら、もう蜂蜜を買って上げませんよ」
「むうーっ、それは困るのじゃ。……仕方ないの。七乃、行くぞ。付いてまいれ」
「はーい、美羽様」
力無く呟くと、美羽は席を立った。がっくりとうなだれた様子で部屋を出、城門の方へと足を向ける。
「陳宮さん、いつの間に美羽様を餌付けなさったんですか?」
美羽のあとに続きかけた七乃は、数歩進んで振り返った。
「餌付けなんて人聞きが悪いのですよ。二人で街に行くと、買ってやるまで美羽は店の前から動きませんから、仕方なくです」
「そうですか。美羽様が仲良くして頂いて。美羽様に同じ年頃の友達が出来て、私すっごく嬉しいです。他人に蜂蜜を分けてあげるなんて、美羽様が言い出すなんて」
七乃は最後に微笑みを一つ浮かべると、美羽の後を追って室内を後にした。
「しかし、ほんに良かったのかのぅ?」
駆け足で追いつき横に並ぶと、美羽が小声でぼやいた。
「まだそんなことを言っているんですか、美羽様」
呂布軍に居候中の美羽と七乃の元へ、袁紹軍から極秘裏に書簡が届けられた。
書簡の内容は要約すると、呂布軍と曹操軍の戦争を煽れという依頼で、見返りとして美羽の後ろ盾となって江南を回復するというものだ。
河北勢力を一つまとめ上げた袁紹軍は、現状大陸で並ぶ者もない最大勢力である。後は中原を呑みこみ、勢い江南を制し、天下を一統する。袁紹にとっては容易いことと思えたに違いない。
それが中原侵攻を開始する段になって、呂布軍と曹操軍が足並みを揃えた。兗州の北辺を脅かした進軍は、呂布軍の北上によって退却を余儀なくされた。
兵力で言えば、呂布軍と曹操軍が手を結んだところで、袁紹軍にまだ分がある。逆に将の質では大きな隔たりがあった。天下無双の名に偽りない呂布に、戦術の天才と言って良い曹操、部将にも名立たる者が揃っている。袁紹軍も豊富な人材で知られるが、袁家の二枚看板文醜、顔良であっても両軍の諸将を相手には見劣りするというものだ。袁紹軍が二面作戦を避けたいと思うのも当然であった。
書簡は無論正式なものではなく、袁紹軍の古老たる田豊と沮授の署名があるだけで、どこにも袁紹本人の印章は押されていない。あるいは袁紹はこの書簡の存在自体を知らない可能性もあった。こうした策謀は袁紹の好むところではない。ただ、表現の仕方に難があるとはいえ袁紹が族弟の美羽に対して格別の愛情を抱いているのは事実で、交渉次第では長江以南を譲り受けることは可能だろう。
そう判断した七乃は、州境の守兵五百余りを秘密裡に曹操軍の領分へと送り込んだ。反董卓連合以来の元々の呂布軍は青州攻略のために出払っているから、残されている兵は叛徒上がりの新兵ばかりである。呂布軍も人手不足で、その新兵の調練を任されているのが客将である美羽と七乃だった。七乃は特に質の悪い者ばかりを選んで州境へ配備、陳宮の目を盗んで曹操領内の占拠と略奪を命じた。兵は喜々としてそれを行っただろう。
「しかしの、妾は恋やねねのことが嫌いではないぞ」
「わかってますよ~、美羽様。これは呂布さんのためにもなるんです。北では袁紹様が強大な領地を有してますし、南は孫策さんが水軍で固めています。騎馬隊中心の呂布軍がこれ以上力を伸ばすには、征西して曹操さんの領地を刈り取るのが一番なんです」
「そ、そうなのかえ? しかし、恋は曹操軍と事を構えるつもりはなさそうじゃったぞ」
「曹操軍にいる曹仁さんへの友誼で道を誤っておいでなんですよ。だからこそ、居候のお礼に正しい道へ導いてあげるんじゃないですか~」
「う、うむ。そういうものかの」
「そうですよ~。呂布さんも得をして、美羽様も領地を取り戻せる。悪いことなんて一つもないじゃないですか」
「うむ。そうじゃの、七乃の申す通りじゃ。ようやった、誉めてつかわすぞ」
袁紹軍が美羽のために江南へと派兵するには、前提として行く手を阻む呂布軍を攻め滅ぼし、中原を制する必要がある。考えるまでもない自明の理だが、美羽は七乃の言葉に疑いを向けなかった。
「ありがとうございます~、美羽様」
七乃は笑顔で頭を下げた。
「とは言え、もうひと押しいたしましょうか。呂布さん達のために!」
「うむ。任せるぞ、七乃」
「さすが美羽様。人知れず恩を返す生来の律義者! かっこいいぞ~!」
「うははー、そうじゃろうそうじゃろう」
美羽が薄い胸を仰け反らせて高笑いした。