河水以北の領土は、放棄せざるを得なかった。
北岸に設営していた駐屯地は引き払われ、南岸に新たに防衛線を引いた。河沿いに袁紹軍の上陸を阻む布陣で、真桜が工兵の一部と新兵ばかりの二万を率い、さらに新たに募った義勇兵をそこに加えた。
残る全戦力を、華琳は徐州との州境へ集めた。西と南に対する備えには、申し訳程度に守兵を残したのみだ。
呂布軍との開戦はもはや避けようがないところまで来ていた。
呂布軍への使者が、宮殿内で兵に襲われた。さらにそのことを問責するために送った使者も襲われている。立て続けの暴挙にはさすがに陳宮から丁寧な謝罪文があったが、襲撃した兵は直後に自裁して果てているため、詳細は掴めぬままとなった。互いに妥協点など見つからぬまま、使者の行き来も書簡のやり取りも絶え、戦の準備だけが進められた。
呂布軍は陥落させたばかりの青州の土地と引き換えに、素早く袁紹軍と不戦協定を結んでいた。呂布軍には麗羽の従妹にあたる袁術が客将として滞在していたので、その伝手を頼ってのものらしい。
華琳の元には、十万を超す兵力が集結している。騎兵は一万五千騎で、歩兵は九万を数える。各地の守りを手薄にして、かなり無理な徴集をかけた結果だ。
対する呂布軍は六万五千の軍を編成している。騎兵一万五千騎と重装歩兵1万の元々の呂布軍以外に、新たに徐州で加えたばかりの歩兵が四万。騎兵の数こそ拮抗しているが、歩兵は練度も兵力も曹操軍が大きく上回っている。
それでも華琳は、楽に勝てる戦だとは思わなかった。胸中では激しい昂揚感と、わずかな恐怖がない交ぜとなっている。それは、二十万の袁紹軍が中原へ向けて進発した時にも感じなかったものだ。
戦をする為に生まれてきたような人間。呂布をそう称すれば、親しい付き合いがある曹仁は怒るだろうか。
汜水関の戦いで、一度交錯した。大鎌の先端が軽く方天画戟に掠めただけだが、それだけで半身を打ち砕かれたような衝撃が走った。威に打たれた、あるいは気を呑まれたということだろう。威を持って他者の上に立つことに慣れた華琳にとって、それは新鮮な体験であった。
「ここにしましょう」
丘上に登ると、華琳は本陣の設営を命じた。どこか不服気に兵に指示を飛ばす曹仁を、春蘭がしかつめらしい顔でたしなめている。
東方に視線を向けると、約五里を隔ててちょうど同じ高さの丘がそびえている。丘と丘の間はほとんど起伏のない原野で、野戦には格好の地形だった。必然、呂布軍はもう一方の丘に布陣することになるだろう。
州境まで進軍し、本陣を布いて迎え撃つ。それは真っ当な戦だった。
呂布を良く知る曹仁からは、反対の意見が上がった。極力野戦は避け、領内に引き込み糧道を断つ。呂布を追い込み弱らせ無傷で捕えようという曹仁の真意が透けて見えるが、策としてはそれも真っ当で、奇策に走っていない分だけ確かな効果も予測出来る。軍議では賛意を表そうとする者も多くいたが、華琳は言下に退けた。
これまで意識してこなかったが、あの日汜水関で負った“傷”が疼いた。一度意識してしまった以上、この疼痛は借りを返すまで続くだろう。借りを返すには野戦だった。
「ただいま戻りました」
稟と風が、完成したばかりの本陣に姿を現した。
二人には、河水北岸の後始末を任せていた。頓丘から発干までの各県には、袁紹軍の侵攻に際しては抗わず帰順するように促している。袁紹軍との戦を優位に進めるうえで北岸の領地は得難いものだが、守兵もなく抗戦の構えを取り続ければ烏桓兵の略奪の良い的だった。いずれ取り戻す民と土地を無用に傷付けることを華琳は避けた。
備えが手薄になった西の荊州と南の揚州へは、幸蘭の諜報部隊を送り込んだ。不穏な動きがあった場合、足止めのために小さな謀叛や農民の反乱を誘発するくらいのことは出来る。
協力を申し出た桃香達劉備軍は、領内を警邏して民の慰撫に努めさせている。それで領民の無用な動揺は抑えられるだろう。
心配の種はいくらでも転がっているが、今は呂布との戦だった。
陣営を築き終えた翌日、向かいの丘に深紅の呂旗が翻った。
馬防柵を張り巡らせた曹操軍とは違い、無造作にひとかたまりに集まるだけの簡単な陣が布かれている。
二日、そのままにらみ合いが続いた。三日目に、宣戦布告をするでもなく示し合わせたように両軍が動き始めた。互いに自軍の正義と、相手方の卑劣を信じ抜いている軍である。今さら舌戦を繰り広げ正論を打って鼓舞するまでも無く、士気は高かった。
春蘭率いる歩兵五万を中心に、黒山賊出身の張燕隊二万をその前衛、後方丘の中腹には曹仁の騎兵一万を置いた。丘上の本陣は歩兵二万に騎兵が五千騎である。
呂布軍の構えは独特だった。
原野には紺碧の張旗の軽騎兵一万五千騎と、赤銅色の高旗を掲げた重装歩兵一万が前後して並んでいる。丘上には歩兵四万ばかりが詰め―――恐らく質の落ちる新兵の軍だろう―――本陣の様相を呈している。呂布軍の牙門旗―――深紅の呂旗はそのいずれに拠るでもなく、赤備えの二百騎ばかりで原野にぽつんと孤立していた。
あからさまなまでの誘いの布陣に、華琳は手を伸ばさなかった。
呂布の戦は動きの戦だろう。相手を動かし、自分自身はそれ以上に動き回る。そうして騎兵で攪乱して、最後に陥陣営と呼ばれる高順の重装歩兵で突き崩して勝利を決定付ける。重装歩兵の突撃も強力だが、騎兵の動きに翻弄さえされなければ兵力に勝る以上対処は容易い。曹操軍はあくまで待ちの構えだった。
最初に痺れを切らしたのは紺碧の張旗だった。一万五千騎は蛇行する縦列で張燕隊と春蘭隊を掠める様に駆けた。縦列は波打つ度、歩兵の陣形に小さな衝突を繰り返している。こちらの反応を伺うための瀬踏みの用兵だろうが、見事なものだった。一万五千騎があたかも一匹の巨大な蛇のように連動している。張燕隊は柔らかく、春蘭隊は小さくまとまってそれを受けた。
張遼は付け入る隙を見つけられなかったのか、春蘭隊をぐるりと一巡すると離れた。呂布の二百騎の赤備えは静観を続けている。
騎兵への対応は十分に試行を重ねていた。春蘭は小さく固い堅陣で跳ねのける。張燕は、衝撃に逆らわず受け流す。兵と兵の間隔を広く取った張燕隊二万の陣と、逆に兵同士が重なり合うぐらいに詰め合った春蘭隊五万の陣は、二倍以上の兵力差にもかかわらずほとんど同じ大きさである。
高順の重装歩兵が静かに前進を開始した。見ている方が焦れてくるような、じりじりと這うような速さで進む。深紅の呂旗はやはり静観。張遼の騎馬隊は一度離した距離をまたいくらか詰めてきている。
華琳は曹仁の一万騎に伝令をやって、張遼の騎馬隊の抑えを命じた。すぐに一万騎が、わずかに馬首を巡らした。張遼隊が駆ければ、逆落としの強力な一撃がそれを襲う。
重装歩兵が、ようやく張燕の二万と十歩ほどの距離にまで迫った。山賊上がりの張燕隊が、がなり立てる様な喚声を上げた。高順は焦らずなおもゆっくりと距離を詰めていく。
矛と矛が触れ合うぐらいまで迫り、あと一歩と言う瞬間、張燕隊に動揺が走った。深紅の呂旗。わずか二百騎で突っ込んでいる。
血が、兵の身体の一部が、そして兵そのものが中空を舞っていく。陣形を乱すという駆け方ではなく、二万が二百騎に押しに押されていた。そこに高順の重装歩兵が突っ込んだ。二方向からの衝撃に、張燕隊は為すすべもなく崩され掛けている。
曹仁の騎馬隊が丘を駆け下り介入を試みた。横合いから張遼隊が迫って、それを阻止する。張遼隊への備えのための曹仁の騎馬隊が、逆に張遼隊に抑えられる形だった。
春蘭の五万を前進させた。高順はさすがに交戦を避け軍を退いていく。呂布も離脱していた。
張燕隊はばらばらに散って逃げると、春蘭隊の背後でもう一度陣形を組んだ。たった一度のぶつかり合いで、二、三千余りも兵を減らしている。
一万騎の指揮を角に委ね、白騎兵百騎で霞の騎馬隊を振り切った。斜め前方に戦場から大きく離脱していく深紅の呂旗を捉えた。赤備えの先頭を駆ける恋の姿も、小さな影として見える。追った。
「―――まさか」
指先大だった恋の影が、今は米粒ほどにも小さく見える。白騎兵が引き離されていた。
曹仁は追跡を切り上げ並足に落すと、一万騎へと合流した。角は春蘭隊五万をうまく楯にする形で、張遼隊を下がらせている。
「二百騎全てが汗血馬のようですね」
旗持ちの兵が言った。
「あれが汗血馬か」
わずか二百の旗下は、大将である恋自らが危険に身晒しての囮と思えたが、そうではない。囮であり、誘いであるのは確かだろうが、恋はこの戦場でただの一度も危険を感じてなどいないだろう。二百騎を捉えられるものは、この戦場のどこにもいない。
「涼州ではまれに市場に出回っているのを見ることもありましたが、それにしてもあれらはずいぶんと見事な。並の汗血馬よりもさらに一回り大きく感じます」
「乗り手の付かない悍馬ばかりを買い叩いた、という報告があります」
従者にしたばかりの陳矯が駆け寄ってきて言った。
良い馬を与えたため、本気で疾駆する白騎兵にも遅れずに付いてはくるが、さすがに戦闘には堪えない。騎馬隊を切り離す時には角の側に残している。
仕事熱心な従者で、幸蘭の元に足繁く通っては様々な情報をかき集めてくる。元文官志望故の視点なのか、兵力や戦働き以外の曹仁が見落しがちな部分にもしっかりと目を向けていた。
「そうか。そういう難癖を付けるのは、音々音は上手そうだ。―――しかし、悍馬と言うなら納得だな」
共に恋の後を追った旗持ちの兵が小さく頷いた。
あの二百騎の動きは、騎馬隊の駆け方でも、軍馬の走り方でもなかった。騎馬隊はここぞという時以外には常に馬の脚に余力を残して駆けるものだが、あれでは奔馬が走るがままにしているだけだ。あそこまで暴れ回られては、馬上の兵は満足に槍も振るえないのではないだろうか。
騎兵としての練度で言えば白騎兵には遥かに劣るし、あるいは並みの騎兵以下かもしれない。だが、そんな事とは関係なく異質なほどに速く強い。戦場に孤立し、攻めた後は大きく離脱していくのは、馬が潰れる限界のところを見極め、足を止めてしっかりと休息を取るためだろう。つまり、休んでいる瞬間が唯一あの二百騎の隙と言うことだが、白騎兵が振り切られる以上は詰め寄る術が無かった。あらかじめ兵を伏せるにしても見通しの良い原野であるし、何より恋の戦勘がそれを許さないだろう。
再び、戦場が動いた。やはり先陣を切ったのは張遼隊だ。一万五千を五千ずつの三隊に分け、五万の春蘭隊にぶつかっては引いていく。
春蘭隊も今度は堅陣を張るばかりではなく、五万の中央に位置する秋蘭の弓兵部隊から矢を射掛けた。味方歩兵の頭上を越えて降り注ぐ矢は、効果的とは言えないまでも着実に張遼隊の騎兵を射落としていく。
張遼隊が引き、代わって高順の重装歩兵が進み出た。楯を並べ、飛矢をものともせずに五万と組み合う。
曹仁は下がっていく張遼隊の背後を騎馬隊で突いた。紺碧の張旗たなびく霞自身が率いる五千騎が向きを変え真っ向から受け、その隙に迂回して勢いをつけた残る一万騎が横合いからぶつかってくる。曹仁は白騎兵だけで飛び出し、一万を真ん中から縦に割った。ただ駆け抜けたというだけでほとんど兵を討ち取ってはいないが、陣形は乱れ、勢いも落ちる。騎馬隊の指揮官同士、互いに混戦を嫌ってそこで兵を引いた。
騎馬隊全体の動きでも、呂布軍の方が曹操軍よりも幾らか上だった。白騎兵と恋の赤備え、一万騎と張遼隊では、動きでも兵力でも呂布軍の方に軍配が上がるということだ。
歩兵の戦いは、二隊に分かれた張燕隊が、春蘭隊を迂回して高順隊を囲い込みに掛かっていた。高順隊は円陣を組んで、正面の春蘭隊と左右の張燕隊にそれぞれ対応しながら、悠々と後退していく。重装歩兵の守りは盤石で、正面前線で自ら剣を取る春蘭とその旗下がわずかに攻め込んだだけで、他は小揺るぎもしていない。
それからさらに四刻(二時間)ほど戦は続いた。
その間、赤備えの二百騎は戦場の端に留まったままで、ほとんど動くことはなかった。さすがに張燕隊に代わって前衛に入った春蘭隊五万の堅陣を、二百騎で突き崩すのは難しいということだろう。春蘭隊が張遼隊と高順隊の連携を受け止め、張燕隊と曹仁の騎馬隊がそれを補うという戦に終始した。
日没を前にして、曹操軍は本陣と定めた丘へと兵を退いた。殿軍に騎馬隊が残り、まずは張燕隊が斜面を駆け昇り、次いで春蘭隊が整然と続く。
呂布軍もそれに合わせて引き下がっていく。張遼隊が引き、気付けばすでに深紅の呂旗は本陣に掲げられていた。
殿軍の重装歩兵一万から、一騎が馬を走らせてきた。曹仁も、懐かしがるように鼻を鳴らす白鵠を進めた。
「この数ヶ月で、また背が伸びたか?」
「そうかな? 自分じゃよくわからない」
曹仁が何気ない口調で問いかけると、同じく何気ない口調で高順は返した。相変わらず兵と同じ具足をぴしっと着込み、深紅の襟巻きをしている。
具足越しにも年相応の線の細さは感じられるが、高順の身長はもうほとんど曹仁と変わらないほどだった。男としては小柄な部類に入る曹仁だが、それでも高順の発育は目覚ましい。いずれは角のような大男にまで成長するのかもしれない。
「音々音なんかは、もうすっかり見下ろす感じだろう?」
「まあ、あいつは元からチビだったし」
「仲が悪いのは相変わらずか」
もっとも、仲が悪いのは確かだが、お互いを嫌いあっているというわけではないようだった。そこには子犬同士がじゃれ合うような微笑ましさがある。
「すっかり、立派な軍人になってしまって。恋に拾われ、皇甫嵩将軍の屋敷で暮らした、お前の定めだったのかもしれないな」
「育ててくれたのは仁兄だしな。―――皇甫嵩将軍の屋敷か。懐かしい」
高順は過去を偲ぶように目を閉じ、小さく嘆息を漏らすと続けた。
「あれは家族だったな。俺にとっては唯一の。―――恋さんが優しい上のお姉さんで、霞さんは気ままな下のお姉さん。音々音は口喧しい妹で、皇甫嵩将軍がお父さん、仁兄は、―――お母さんかな?」
「……俺がお母さんかよ。将軍が母親で、俺が父親で良いじゃないか」
「外で働いてお金を稼ぐのがお父さんで、家で子供達の面倒を見るのがお母さんだろう、普通は」
「……まあ、そうだな」
適当な反論も見つからず、曹仁は話題を変えることにした。
「陥陣営と、呼ばれているんだったな」
「ああ。陥とせない敵陣は無い、はずだったんだけど。今回の戦ではいまだ崩し切れずにいるよ」
恋の赤備えと霞の精鋭軽騎兵が敵陣を乱し、高順の重装歩兵がそこを打ち崩す。単純な連係だが、呂布軍の騎馬隊を抑えることの出来る軍が現状中華の何処を見渡しても存在しない以上、極めて有効な手だった。加えて言うならば、高順の好機と敵陣の弱い箇所を見抜く洞察力の高さが、さらにこの連携を盤石のものとしている。敵陣を必ず陥落させる、そう呼ばれているのも納得ができるし、その異名が良い方に働いてもいる。ただでさえ恋に崩されたところに、高順に兵を向けられることでさらに兵達は浮き足立つのだった。
「お前の得物、槍なんだな? てっきり恋を真似て戟でも使うかと思っていたが」
曹仁は高順の手にする武器を指して、また話題を変えた。
「言っただろ、仁兄に育てられたって。仁兄が朝夕修練しているのを、ずっと見ていたからな」
すっと、高順が槍を構えた。促されるように、曹仁も構えた。両者の構えは、寸分違わぬものであった。
今日の戦はすでに幕を降ろしているが、そもそも高順の瞳に敵意などは微塵もない。培ってきた技を曹仁に見てもらいたいという、健気で純粋な少年の表情を浮かべている。
立ち上がりは静かだった。互いに相手がその構えからどう動けるのかを熟知している。槍の長さもほとんど同じで、成長した高順と曹仁では手足の長さも大した差はない。両者の間合いは等しい。
動いたのも、同時だった。静寂の中に金属音が鳴り響く。
中空で、突きにいった槍と槍がぶつかり、弾き合っていた。
「―――驚いた。確かに俺の槍術だ」
一瞬、高順が槍を狙って突いたのだと、曹仁は錯覚した。同じく高順が浮かべた驚愕の表情が、それを否定する。
最短距離を通って相手を狙う曹仁の槍術が生んだ偶然の産物であった。それはとりもなおさず、高順の槍が、曹仁のものと寸分違わぬ軌跡を描いたという証左でもある。
へへっと、高順が得意気に小さく笑った。とたんに、曹仁の胸に愛おしさがこみ上げた。
「……華琳に、―――曹孟徳に、降るつもりはないのか? もちろん悪いようにはしない」
「俺はそれならそれで構わなかったんだけどな。恋さんに天下を、って叫び続けている奴がいる。恋さんもその願いを叶えてやるつもりみたいだ」
「音々音か。変わらないな、あいつも」
「俺も、恋さんが統べる天下というのも悪くない気がしている。恋さんは優しいから、一度手中に拾い上げたものは、決して見捨てたりはしない。それこそ、捨て犬や捨て猫の類までな」
袂を分かった自分を責める言葉なのだと、曹仁には感じられた。
恐らく高順にはそんな気持ちは微塵も無く、恋に対する敬慕だけが見て取れる。それでも胸に痛みを覚えるのは、曹仁自身に自責の念があるからだろう。
「俺も恋さんに拾われたし、音々音だって似たようなものだ。俺たちが、恋さんの手の平に天下を握らせてみたいと思うのも、当然のことだろう? 恋さんは、優しいだけじゃなく、誰よりも強い。強いから、皆を守れる。きっと、戦のない平和な世の中を作ってくれる。―――仁兄こそ、俺達の元へ降るべきだ」
高順は開けた掌を、曹仁へと差し伸べながら言った。
戦災孤児だった少年が、戦のない世を作るために戦うと言っている。ただ周囲の状況に流されてというのでなく、しっかりと自分の意思で戦う道を選んだということだ。
「本当に、立派な軍人になったものだ」
一抹の寂しさと共に、曹仁はそう吐き出すのみだった。
曹仁が、高順の差し伸べた手を取ることはなかった。
戦で捕縛してやるから、怪我をしないように気を付けろと、それだけ言い残して白鵠と共に風のように駆け去った。
曹仁は、いつだって高順の身を案じてくれた。敵味方に分かれた今もそれは同じで、兄がいたら、きっとこんな感じなのだろう。
曹仁の騎馬隊が撤収していく。高順も重装歩兵を本陣まで下がらせた。
一日の戦闘が終わった。伝令をやって各隊の状況を確認し合うだけで、特に軍議などが開かれる予定はなかった。呂布軍の戦のやり方は初めから一つで、今さら確認するまでもない。高順は常に霞との連係を考え、恋が作る刹那の隙を逃さないようにするだけだ。
損害は、曹操軍の方がずっと多いだろう。恋の赤備えに至っては一騎も欠けてはいない。重装歩兵の損耗も五百に満たず、一番犠牲の多かった霞の騎馬隊も約一千騎を失っただけで、そのうちの二百は馬の負傷によるもので、替え馬の補充で回復出来た。新兵四万の指揮は袁術と張勲だが、使い所は歩兵部隊の隊長である高順に委ねられていて、今日一日の戦には参加させなかった。本陣に大軍を据えることで、曹操軍が兵力に物を言わせた強引な攻めに出ることの抑止となっている。
今のところ、戦は五分から呂布軍のやや優勢と言って良いだろう。ただ元々の兵力差があるから、このまま戦を続けて先に潰えるのも呂布軍の方だった。
かねてからの噂通り、曹仁の白騎兵の働きが目覚ましかった。
董卓の片腕で、曹仁の友人でもあった張繍はあの騎馬隊を五百騎も育て上げ、従えていたという。張繍は何度か皇甫嵩の屋敷に訪れることもあったが、高順の記憶の中の姿は平凡なものだった。それが、どうしてもあの白騎兵の華々しさとは結び付かない。恋の赤備え以外が、霞の騎馬隊を振り切るのを見たのは初めてだ。
夏侯惇将軍の武も凄まじく、重装歩兵の犠牲の半分は彼女とその旗下によるものだ。張燕隊の用兵も独特で、普通の軍ならば最初の赤備えとの連係で半壊させている。
総じて、曹操軍はこれまで戦ったどの軍勢よりも優れていた。
「篝を絶やすなよ」
見晴らしの良い原野戦であるから、夜襲の可能性はかなり低い。それでも高順は普段以上に篝を焚かせ、哨戒の兵を歩かせて敵襲に備えた。
翌二日目の戦闘は、歩兵同士のぶつかり合いから始まった。夏侯惇の五万が盛んに押し込んでくるが、重装歩兵の陣形に綻びは出ていない。
霞の一万五千騎が張燕隊へ突撃を繰り返し、曹仁の一万騎はそこへ介入している。夏侯惇隊五万と高順の重装歩兵は正面からの押し合いとなった。
重装歩兵は前後に並ぶ二人一組を最小単位として機能させている。前衛後衛ともに二の腕から首元までを覆う重厚な具足姿に変わりはないが、前衛が楯と短戟を手にするのに対して、後衛は長槍を得物とする。後衛の長槍は前衛の頭上を越えて敵兵を討ち、前衛の楯は敵軍の飛び交う飛矢から自身はもちろん後衛の身までを守りきる。分厚い鉄の塊から突き出される戟と槍は、並みの兵であれば正対しただけで戦意を刈り取られる。
「押せ押せっ!! 敵はわずか一万! ここで押さねば曹操軍の名折れぞ!!」
夏侯惇が前線に現れた。旗下の百騎と四百ばかりを従え、音に聞こえた大剣の一振りで楯ごと重装歩兵を弾き飛ばしている。そのほころびを繕うように、すぐに後方から一組が前進して陣形を立て直した。重装歩兵の基本陣形は中心から外へと向かう円陣で、多少前線を崩してみたところですぐに二番手、三番手と兵がせり上がる。いかな猛将と言えど、容易く攻め入れるものではなかった。
「ええいっ、逃げるなっ!!」
頃合いと見て、高順は重装歩兵に後退を命じた。夏侯惇とその旗下は、怒号をあげてなおも喰らいついてくる。焦らず、じりじりと軍を退いた。堅陣を組み続けていた五万の陣形が、夏侯惇に引きずられ間延びした。
「―――今だ、かかれっ!!」
視界の片隅に赤い一点が浮かび上がった瞬間、高順は攻勢を命じていた。駆け出した重装歩兵に先んじて、赤備えの二百騎が五万へ突入していく。一瞬、重装歩兵を堰き止める動きを見せた夏侯惇とその旗下も、深紅の呂旗に気付くとすぐに反転して、高順の追撃を受けながらも五万へと合流を果たした。
重装歩兵が夏侯惇隊と再度押し合いを開始した時には、すでに恋の赤備えは一度五万の陣形を縦断し、二度目の突撃に入っていた。今度は横断して、五万の堅陣に十字に屍の山を築いていく。重装歩兵は、今度は容易く夏侯惇隊を押しやって進んだ。
五万から飛び出した赤備えに、五千騎が迫った。張遼隊に掛かり切りの曹仁の騎馬隊ではない。紫地に黒文字の曹は、曹操軍の牙門旗だ。本陣付きの騎兵を、曹操自らが率いて動かしている。
赤備えは、交戦を避けて距離を取った。
恋の赤備えは、馬自体が敵を跳ね飛ばし踏み潰して突き進むため、ただでさえ通常の騎馬隊よりも損耗が激しい。五万を二度も両断した以上、十分に脚を休めねば壊れる馬も出てくる。
赤備えの追撃を諦めた五千騎が背後に回り込む動きを見せたため、高順は陣形を固めたまま重装歩兵を後退させた。
二日目の戦闘が終わった。
呂布に蹂躙された春蘭隊の被害が大きく、四千もの兵を失っている。張遼隊の襲撃を受け続けた張燕隊の被害も二千近いが、曹仁の騎馬隊と連携することで相手にも相当な損害を与えていた。
春蘭隊は本陣付きの歩兵を加え再び五万を編成し直した。黒山賊出身を集めた張燕隊には補充出来る兵がおらず、明日以降も数を減らしたままの戦闘となる。
「やはり、あの赤兎隊が厄介ね」
二百の中心の呂布を討てばこの戦は終わりだった。消耗したところを狙って襲っても容易く振り切られた。華琳自らの出馬であったが、呂布は危地へと踏み込んではこなかった。
「赤兎隊? 何です、それは?」
報告に目を通しながら洩らした小さな呟きを、曹仁が聞きとがめた。
騎馬隊は丘の下で待機中だが、曹仁は報告のために自ら本陣へと出向いてきていた。
「あら、聞いていないの? あの呂布の騎馬隊の呼び名よ。朱に染まって跳ね回る動きが、赤い兎のようだって、皆そう呼んでいるわ。兎なんて可愛らしいものでは到底ないけれどね」
呂布の二百騎。馬は走るというよりも跳ね回るように駆け、いずれも汗を流すと毛色が血のように赤く染まる汗血馬であった。兵の具足もすべて赤で揃えられている。赤兎隊にやられた兵の大半は馬上から突き出された槍にではなく、馬の体当たりや蹄に掛けられて命を絶たれている。戦場を駆ける姿は、確かに大きく真っ赤な獣が飛び跳ねる様を思わせ、駆け抜けた後はまさに獣に蹂躙された爪跡を残すのみだった。赤い兎というのは言い得て妙でもあるし、あえておどけた名を付けることで兵達は恐怖心を薄らげようともしているのだろう。
「へえ」
曹仁がいたく感心した様子で、二度三度首を縦に振った。
「なにか、思うところがありそうね?」
「いえ、たいしたことではないのですが、恋―――呂布の飼っている犬の名前が、セキトと言うのですよ」
曹仁はそんな益体もないことをさも興味深げに話すと、本陣を後にした。
明くる三日目の戦はより慎重に開始した。
歩兵はこれまでと変わらず春蘭隊が前衛、張燕隊が後衛の二段だが、二隊の間隔は境を接する位に近く、密な連携を取らせた。騎馬隊は丘の中腹に留めたままである。
赤兎隊の動きを、どこかで掴み取る必要があった。華琳自身を囮とした誘いにも乗らぬ以上、呂布の用兵を読むのは難しいだろう。
昨日の戦では高順の重装歩兵が作った隙に乗じる形で戦場に介入してきた。やはり堅陣を固めた五万への正面からの突撃は、あの呂布も躊躇うということだ。他の隊とのぶつかり合いの中で赤兎隊を誘う、というのが現状最も有効に思える手だった。
高順の重装歩兵と張遼の軽騎兵が、同時に動き始めた。
二日間の戦で、華琳はこの二人の用兵への対応は十分に学んでいる。
高順の用兵は華琳の想定を超えることが無い。想定した中で、常に安定して最良の選択肢を選び続けてくる。
対して張遼の用兵は振り幅が大きい。時に華琳の想定を超えることもあるが、無謀に過ぎる悪手を打つこともある。
両者ともに手強い相手ではあるが、呂布ほどに出鱈目な脅威は感じさせなかった。
赤兎隊の外に注意を払わなければならないのは、本陣に据えられたまま動かない四万の存在だろう。新兵ばかりの寄せ集めと言うが、これまで一度も戦線に投入されていないために実際の練度は測り切れていない。仮に練度で劣るにしても、やはり四万と言う数は大きな武器だった。
張遼隊が、戦場を大きく迂回して後衛の張燕隊へと突っ掛けた。張燕隊が抗わずに二つに分かれて道を開けると、張遼隊の正面には春蘭隊の堅陣が待ち構えている。五万とまともにかち合うのを嫌って、張遼は馬を反転させた。分かれていた張燕の二隊が集結して道をすぼめ、二、三十騎ほどを打ち落とした。
高順隊は春蘭隊と付かず離れずの間合いを保っている。春蘭隊からぱらぱらと矢が射掛けられているが、楯と重装備に守られた歩兵にはほとんど効果は出ていない。
赤兎隊に動きはない。
そのまま小さなぶつかり合いを繰り返して、半日が過ぎた。日も傾き、三日目の戦も終わろうかと言う頃合いになって、戦場が動いた。
張遼の騎馬隊が、牽制もなしに五万の春蘭隊へまともに突っ込んでいた。
ひとかたまりで飛び込んで、五万の中心でいくつもの小隊になって四散した。小隊は歩兵の陣形をかき乱すだけかき乱して離脱していく。張燕隊がそれを追い立てた。敵ながら無茶な攻めで、二、三千騎は失い、さらにいくつかの小隊が張燕隊に取り込まれている。その分、春蘭の陣形に与えた損害も大きかった。乱れに乱れた陣形に、高順の重装歩兵がまともにぶつかった。
ここが勝負所と読んだのか、呂布軍本陣の四万が三日間の戦の中で初めて動いた。いつの間にか、きらびやかな群青色の布地に袁の旗が翻っている。客将袁術の指揮だろう。丘を駆け下り、高順隊の後続として春蘭隊へと向かう。曹仁の騎馬隊を急行させた。四万が戦場の真ん中で繰り広げられる高順隊と春蘭隊のぶつかり合いに介入する直前、二隊を迂回して駆けた騎馬隊がその鋭鋒を打ち砕いた。横合いからぶつかった一万騎に追い立てられ、四万は戦場の外へ外へと押しやられている。
戦局が、大きく動き始めている。兵力差を活かす瞬間だった。
華琳は本陣の歩兵一万を春蘭隊の援護に、さらに騎兵五千も高順の重装歩兵の背後へと向かわせた。しっかりとした陣形を作った歩兵一万が、乱れた春蘭隊の陣をかき分け突き進み、重装歩兵に当たった。騎兵五千も勢いをつけて後背を突く。それで重装歩兵の圧力から一時解放された春蘭の歩兵も、落ち着きを取り戻しつつある。
本来損耗を避けねばならない寡兵の呂布軍が打った果敢な一手は、今や完全に裏目に出ていた。高順の重装歩兵を殲滅出来ると、華琳は確信した。
「―――華琳さま!!」
蘭々が声を上げ、戦場の一点を指差した。
赤備えの二百騎が、曹操軍の本陣目掛けて真っ直ぐに駆けてくる。
あからさまなまでに、最短距離を突き進んでくる。本陣は、馬止めの柵を張り巡らせてある。騎兵のみでの奇襲など不可能だった。どこかで反転して、交戦中の隊に介入してくる。
どこで方向を変えるのか。華琳は、それだけを読もうとしていた。まだ、本陣へと向かっている。本陣には五千余りの歩兵と工兵、虎豹騎、そして親衛隊を残すのみだ。虎豹騎に、突撃の用意を命じた。いくらあの二百騎であっても、反転する瞬間が騎馬隊の弱みであることに変わりはない。
呂布は、まだ反転の気配を見せていない。傍らで蘭々が、小さく息を呑んだ。
「工兵隊、用意」
真桜の育てた工兵は、天下に類を見ないものだ。外からの攻撃には堅固な馬止めの柵も、内側からなら瞬く間に除けることが出来る。
呂布の騎馬隊は駆け続けている。すでに、先頭の呂布の顔がはっきりと見て取れるほどに近い。
華琳は一瞬、視線を左右に送った。季衣と流流。彼女たち以外にも、勇猛で鳴らした親衛隊―――虎士の面々が顔を揃えている。逆落としの一撃。ここで、呂布を打ち倒せるかもしれない。
まだなのか。あるいは、こちらが柵を取り払う瞬間を狙って、やはり本陣を突くつもりなのか。だが工兵隊への指揮は、華琳自らが出す。こちらの勇み足を狙っているのだとしたら、ずいぶんと舐められたものだった。
呂布の二百騎。視界いっぱいが朱に染まったような強烈な印象は、それだけ距離が近いということだ。もう、反転は間に合わない。何か、嫌な感じが華琳の胸をよぎった。
馬止めの柵に、呂布の騎馬隊が衝突する。そのはずだった。
飛んだ。いや、跳んだのか。
―――赤い兎。
刹那、華琳の脳裏に過ぎったのはそんな言葉だった。
柵を跳び越え、呂布と二百騎は本陣内へと堂々と乗り入れていた。跳躍の勢いもそのままに、兵を踏み荒らしていく。
「くっ、敵はわずか二百! 落ち着いて応戦なさい!」
華琳が声を励ますも、本陣の乱れは納まる様子もなかった。前面に展開する兵の半数が、槍も持たない工兵であったことも、混乱に拍車をかけている。
馬防柵を跳び越えるなどと、誰が予測しようか。
柵は一丈には届かないまでも八尺(二メートル四十センチ)ほどの高さもある柱と、横木を組んだものだ。柱と柱の間の横木が渡されているだけの部分は他よりいくらか低いが、それでも大柄な兵の頭上をはるか越えているのだ。
汗血馬の巨躯は、触れるものみな跳ね飛ばし、踏み締めていく。やはり騎兵というよりは、暴れ回る獣に近い。獣に人が打ち勝つには、武器を取って陣形を固め、罠を張って知恵を絞らねばならない。混戦の中であの赤兎隊を止めるには、十倍二十倍の数の勇士が命を捨てる必要があるだろう。
喧騒の中で、華琳旗下の親衛隊と虎豹騎だけは、さすがに混乱とは遠い所にあった。
「華琳さま、ここは退いてください。季衣、流流っ! 華琳さまを!」
旗下だけで呂布との決戦に挑む。華琳の脳裏に浮かんだそんな分の悪い賭けを振り払うように、蘭々が言った。季衣と流流が、左右から華琳の乗馬の轡に手を伸ばした。
原野の戦場では、散っていた張遼隊が再び一つにまとまり、やはり本陣を突く構えを取っている。本陣を守る馬止めの柵も、混戦の中でいくつかの綻びが生じていた。
華琳に、否やはなかった。
「まずは近衛隊が、次いで虎豹騎が離脱。全軍にも、後退の伝令を走らせなさい」
蘭々にそれだけ命じると、華琳は馬首を返した。
―――負けた。
呂布は、本陣が手薄になるその一瞬だけを待っていたのだろう。噛み締めた歯が、ぎりぎりと音を鳴らした。