「荀彧さん!」
「あら、劉備じゃないの。一体どうしたの? 巡回は順調かしら?」
執務室に飛び込んで来たのは、領内を巡回中のはずの劉備だった。広くもない室内には、桂花の他に曹操軍の政を司る文官が二十人ほども詰めている。文官達が何事かとざわめく中、桂花は書類へ向けていた顔をおもむろに上げ、我ながら白々しく問い質した。
「……えっと、華琳さんが軍を後退させたって聞いて、急いで戻ってきたのだけど」
「ああ、そうなの」
鼻白んだ様子で言葉を濁す劉備に、桂花はやはり気の無い返事で返した。
曹操軍敗走の報告は、すぐに陳留にも届けられた。
劉備軍へは情報を降ろしていないから、劉備は独自の経路で知ったのだろう。
曹操軍にとって劉備はあくまで客将であり、桂花が共に謀るべき同胞ではない。華琳がいれば密に連絡を取りもするだろうが、桂花にそのつもりはなかった。劉備軍からの報告だけは絶えず入れさせているが、こちらからは巡回経路について多少の指示を飛ばすだけだ。
巡回と言っても劉備の場合はただの街の散策のようなものだった。報告書の中にはどこそこの料理が美味しいとか、子供達が元気だっただのと、そんな劉備個人の日記帳のようなものが紛れ込んでいることがある。諸葛亮と鳳統の添削を免れたのか、あるいは桂花の無用な警戒を避ける目的であえて見過ごされたのか、判断に悩むところだった。
華琳は劉備に臣従を求めず、多くないとはいえ兵を抱えさせたまま膝元に置き続けている。曹操軍内にあって劉備は特異な存在だった。華琳の劉備に対する特別扱いは諸将の不満の種となりかねないもので、他の誰にも増して桂花自身にこそその感情は強い。
「助けに行かなくていいんですか?」
「必要ないわ。少し下がって本陣を構え直すという連絡があったから」
敗報がもたらされた直後こそ多少の混乱はあったものの、すでに執務室で行われているのは通常の政務だった。華琳が戦場にいて自ら指揮を執る以上、遠く陳留であれこれと画策したところで大きな意味はない。いつでも華琳の要求に答えられるように武器や糧食、資材を蓄えたなら、後は政に傾注するしかない。
「そうでしたか。兵の皆さんも、随分亡くなられたと聞きました。お悔やみを申し上げます」
皮肉でもなんでもなく、真実沈痛な面持ちで劉備が言った。
執務中の文官達が、劉備につられたように顔を曇らせている。普段、兵を書類上の数としか考えていないような者達がだ。
「わかったのなら、巡回に戻ってちょうだい。貴方の間抜け顔はそれ位しか役に立たないのだから」
「間抜け顔って。相変わらずひどいなぁ、荀彧さんは」
「巡回がいやなら、ここで一日貴方の嫌いな書類仕事に励む?」
「う、ううん、別に巡回はいやじゃないよ。い、いってきまーす!」
脅しつけて追い出すと、幾人かの文官が桂花に責める様な視線を向けていた。
劉備には、華琳から一定の権限が与えられている。民からの苦情に対して自らの判断である程度まで対処することが許されていて、それは文官達の負担をかなり軽減してくれた。当初、官吏の大半はそれといって劉備に感謝するではなく、むしろ職分を侵されたという不快感を抱いていた。それがわずか数か月のうちに、劉備にはっきりと好意を示す者が現れ始めている。
劉備はやはり危険な存在だった。現状では曹操軍にとって歯牙にも掛けない小石に過ぎないが、だからこそ今のうちに除いておくべきだ。それは、華琳に可愛がられる劉備に対する嫉妬などではなく、曹操軍の文官筆頭としての桂花の考えである。
華琳がいない今、後々の叱責覚悟で手を汚すのも自分の仕事だと桂花は思っていた。幸蘭の諜報部隊ほど大規模なものではないが、桂花の元にも汚れ仕事をこなす者はいる。
しかし、一見して気の緩み切ったこの少女には、存外付け入るべき隙が見つからなかった。
野営では関羽、張飛、趙雲という一騎当千の強者に身を守られている。民の中に一人で姿を現すこともあったが、不思議と耳目を集め、不心得者の入り込む余地が無い。宮中には一人で参内する機会も多いが、曹操軍の体裁を考えればそこでの事故は避けたかった。
「……さあ、仕事に戻るわよ」
桂花はひとまず頭を切り替え、手を叩いて文官達にも眼前の仕事への集中を促した。
日が落ちるまでには政務を終え、桂花は私室へ戻ることが出来た。戦時の混乱と華琳の不在で文官一人一人が回さねばならない仕事量は増しているが、毎日繰り返されればそれも単純作業の域を出ない。華琳が政に集中する際には日常業務に加えて、学校制度の施行を初め革新的な仕事が次々と舞い込む。戦時の今は文官達にとってはむしろ気の抜けた時間と言えるかもしれない。
「―――叔母さん」
「入りなさい」
もっとも、曹操軍の文官筆頭である桂花に限っては、そうとばかりも言ってはいられない。
訪いに返すと、私室の戸が開かれ男が一人姿を見せた。
桂花と同じ筍氏一門の荀攸である。年上だが、桂花の祖父が彼の曽祖父に当たるため、一門の家系の中では一世代下となる。桂花のことを叔母と呼ぶのもそのためだ。
「さっそく報告してちょうだい」
「―――はい」
いくら同族とはいえ、私室に男を長く留まらせたくはない。桂花は顔を合わせるや切り出した。
荀攸の漢王朝での官位は蜀郡太守である。太守は職権こそ一郡に留まるが、等級は州牧と同じ二千石である。華琳も正式にはいまだ陳留郡太守であり、兗州および予州の州牧の兼任を自称するのみである。朝廷での地位で言えば荀攸は華琳と同格なのだ。
戦乱の中で任地への道を失い浪人暮らしをしていたところを、桂花が拾い曹操軍へと仕官させている。年齢も漢王朝での地位も桂花よりも上だが、今は下に付けて働かせていた。幸蘭の飛脚から上げられる多種多様な情報から、曹操軍領外の情勢を取りまとめるのが主な役割である。
戦場の華琳をわずらわせることのないよう、領外に向けて様々な手を講ずるのも桂花の仕事だった。
桂花は荀攸の差し出した書簡に目を向け、報告に耳を傾けた。
北方に境を接し河北四州をまとめる袁紹軍、南方には揚州の孫策軍、そして西方の荊州。報告内容は、その三勢力の情勢が中心となる。
まずは南方、一度は孫策の元でまとまり掛けた揚州だが、今再び豪族達の動きが活発化していた。広大な揚州は呂布軍の領分とも南北に境を接している。陳宮が策を講じたと予想されていた。呂布軍には先日まで揚州の支配者であった袁術が客将として居付いている。評判の悪い領主ではあったが、多少の影響力は残しているだろう。言うまでもなく、揚州の乱れは呂布軍だけでなく曹操軍にも益する。これでひとまず南からの脅威に恐れる必要はなくなった。
北方、最大の敵である袁紹軍にも動きは見られない。侵攻を主張する重臣達に対して、背後を突くなど王者の戦にあらず、などとのたまったらしい。河水沿いの曹操軍の守兵を除くための策と言う可能性は、こと袁紹に限って言えばかなり低いと思われた。袁紹、というより袁紹軍は、急襲にて幽州の公孫賛を降し、その後も幷州、青州の攻略には硬軟入り乱れた様々な手を打っている。しかし、華琳にだけは真っ当な戦で勝とうという気持ちを袁紹は強く持っているようだった。真桜がまとめている北方への守兵のいくらかを、華琳の本隊へ補充することも桂花が熟慮すべき事柄である。
西方、荊州は沈黙を続けている。州牧の劉表は、景帝の第四子にして武帝の異母兄に当たる魯恭王劉余を祖とする名士である。同じく魯恭王を祖とする益州牧劉焉や、景帝第八子の中山靖王劉勝の後裔を名乗る劉備とは、遠い同族ということになる。
現状、劉表からは乱世に対する野心は感じられない。学問を重んじ、自らも儒者として名高い。太学を開いて、広く名士を募っていた。戦乱の中に合って、荊州は学術の中心地と呼ばれていた。
貧富、家柄の差無く学問を授けようという華琳の学校制度は、特権階級を自認する名士連からは評判が悪い。そうした意味では、荊州とは思想的な対立関係にあると言えた。ただ、それで兵馬を挙げようという血生臭さが今の荊州からは感じられなかった。
西方にはもう一州、漢朝の都洛陽を有する司隷(司州)が存在する。反董卓連合軍の退去以後、都と天子をめぐっての小勢力同士の小競り合いが続いていて、一つにまとまる気配はなかった。やはり曹操軍にとっての脅威は感じられない。
「ひとまず問題は無さそうね。今後も警戒だけは怠らない様に」
「はい」
心得たもので、荀攸は一礼すると速やかに退室した。
「―――深紅の呂旗」
翌早朝、桂花は宮中へ駆け込む兵の喧騒に起こされた。寝癖の残る髪を頭巾で隠し急ぎ城壁を上ると、眼下に見えたのは確かに兵達の言う通り、呂布軍の牙門旗である。
「叔母さん、どうしますか?」
先に来ていた荀攸が駆け寄ってきた。
「急ぎ兵を集めなさい。……そうね、民からも協力者を募りなさい」
「はい」
荀攸が城壁を駆け下りていく。
「荀彧さん、やめた方が良い」
「―――劉備? 貴方、まだ陳留に残っていたの?」
背後から声を掛けて来たのは、昨日追い出したはずの劉備だった。その隣には張飛の姿もあって、珍しく難しい顔をして呂布軍を睨みつけている。
「えへへ、ちょっと嫌な感じがして。ここにいれば何かあった時にすぐに情報が入るかなって」
劉備は言い訳がましく笑いながら言うと、真面目な表情を作って続けた。
「あの二百騎は強いよ。ううん、強いなんてものじゃない。手を出さない方が良い」
華琳の先の敗走については、すでに詳細な報告がもたらされている。曹操軍内では赤兎隊と呼称されている呂布軍の赤備えの強さは、桂花も十分に理解していた。
「劉備軍は? 城内にいるの?」
「ううん。陳留には鈴々ちゃんと、あとは護衛に少し付いて来てもらっただけだから」
「―――そう」
一瞬、劉備軍の戦力に期待した自分を桂花は恥じた。華琳から留守を任されたのは自分で、劉備はいずれ討つべき敵の一人だった。
今回の戦では、各地から守兵の大半にまで招集を掛けているが、さすがに本拠の陳留には十分な兵力が残されている。さらに義勇兵の徴集に民が答えてくれる程度には、善政を心掛けてきた自信が桂花にはあった。
一刻(三十分)の内に、三千の兵が集められた。
緊急の徴集に対する兵の機敏な動きは、普段の調練の賜物だろう。
義勇兵の募集に応じて、街の男達も集まってきていた。初め相手が呂布と聞いて尻込みした者達も、わずか二百騎と知れ渡ると勇んで参加を表明している。所詮は急造の義勇兵で、陣形を組んでの野戦などをやらせるには無理があるが、城壁の守備くらいには当てられる。
整然と並べた三千を城外に素早く展開させた。早朝からの急な募集にもかかわらず五百人以上が集まった義勇兵に、城壁と城門を固めさせる。
開門の瞬間に城内に踊り込まれることを警戒したが、赤兎隊は悠然と構えている。いや、正確には構えてさえおらず、陣形も組んでいなければ、遠目にも兵を降ろしてただ草を食んでいる馬までいた。
劉備は二十騎ほどを従え、桂花を護衛するように側近くに控えている。桂花はただ黙認した。
赤兎隊がようやく一つにまとまり始めた。
「逃がさないわよ」
三千を三つに分けて、一千ずつの二隊に赤兎隊の後方へ回り込むよう命じた。
「荀彧さん、それはやめた方が―――」
劉備が軍を分けることへの危惧を口にしたが、取り合いはしなかった。兵法の基本の一つではあるが、今は呂布を取り逃がさないことが肝要で、そうでなくてはわざわざ出陣した意味はない。劉備に華琳が手ずから兵法指南していることは知っているが、状況も見ずに兵法書に書かれていることに忠実にあろうとするのは初心者に有りがちな誤りだった。
桂花は二千へ進発を命じた。内心劉備を嘲りつつ、同時に、一千ずつの指揮を劉備と張飛に任せたい気持ちもあったが、それは意地でも口にはしなかった。
赤兎隊は、まだ騎乗していない兵すらいて、二千が配置に付くのをただ傍観している。
ちょうど三角形の頂点にそれぞれ一千ずつの曹操軍がいて、その中心に呂布の赤兎隊二百騎がいる形が出来上がった。
二百騎がようやく動き始めた。後方に置いた一千二隊のちょうど真ん中を抜ける様に、並足で駆け始める。二隊が殺到し、一つに固まった。待ち構えていたというように、赤兎隊が脚を速めた。
数瞬の後、何が起こったのか、桂花は困惑を覚えるしかなかった。
赤兎隊が二千の真っただ中を駆け抜けた。言葉にすればただそれだけのことだ。では、二千を縦に割って作られた、あの真っ赤な道は何なのか。
「あれでは、まるで……」
―――兵が、地ならしされた。
しっくりくる表現を見つけると、桂花の頭に状況がすとんと落ち込んできた。
駆け抜けた赤兎隊が、反転して返ってくる。二千―――すでに二百、三百は失ったであろう一千数百の兵は、干戈を交えるまでも無く逃げ散った。
それを責める気にもなれない。赤兎隊がそのまま真っ直ぐに駆ければすぐに自分のいる一千で、すでに桂花自身が恐怖を覚えずにいられないのだ。
呂布。突っ込んでくる。視界が真っ赤に染まっていく。赤兎隊の赤い具足と、赤い馬、そして味方の兵が撒き散らす血の色だ。
先頭を駆ける呂布は、すでにすぐ目の前だった。背後で劉備が、何事かを叫んだ気がした。
それまで目にも止まらぬ速さで振り回されていた呂布の方天画戟が、いやにゆっくりと振り被られた。それが振り降ろされると、どうなるのか。桂花の思考は、じわじわと迫りくる戟以上に遅々としていた。
―――気が付くと視界が反転して、大地を見つめていた。
荒い呼吸音と、太鼓でも打ち鳴らしたように大きな鼓動が耳にうるさい。不快感も露わに眉を寄せるも、視界の先では大地が上から下に流れていくばかりで、文句を付けるべき相手も見つからない。
音が、少しずつ静まっていく。そこでようやく、それが自らの身体から発せられていたことに桂花は気付いた。馬を飛ばす張飛の小脇に抱えられている。周囲は劉備軍の騎兵に囲まれていた。
馬が止まり、混乱からいくらか脱すると、桂花にも先刻の状況がようやく飲み込めてきた。真っ直ぐに迫りくる呂布と馳せ違う瞬間、劉備の命を受けた張飛に、馬上から引きずり落とされていた。そのまま張飛に抱きかかえられるように、その場を離脱したのだ。
次いで桂花は現状に目を向けた。兵は潰走し、自分も戦線を離れた。完膚なきまでの敗走だった。
劉備軍のわずかな騎兵を中心に、散っていた曹操軍の兵が少しずつ集まってくる。兵の口から、桂花離脱後の戦場の様相も伝えられた。
城外に出た正規軍が粉砕されると、城内に残された義勇兵の抗戦の気力も萎えた。呂布が言葉少なに降伏を持ちかけると、城門は時を置かず内側から開かれたという。
「私たちの軍と合流しよう、荀彧さん。大丈夫、すぐに取り戻せるよ。いくら呂布さんだって、騎馬隊だけの二百騎で城の維持なんて出来っこない」
「陳留は、曹操軍の城よ。貴方達の助けなんて」
「荀彧さん、今はそんなことを言っている時じゃ、―――あっ、すごい寝癖」
劉備が、急に気が付いたように目を見張ると、桂花の頭を指差して頓狂なことを言った。頭に手をやると、乱れた髪に触れた。落馬やその後のごたごたで頭巾が脱げたのだろう。
「こんな時に、何よそれ。ほんとにお気楽な頭をしているわね」
いつもの様に悪態を吐くと、ようやく自分がまだいくらか冷静さを失っていることに桂花は気付いた。
劉備の言う通り、騎兵のみの二百騎で城の保持など不可能だった。ましてや、陳留は曹操軍の本拠である。気圧され呂布の開門要求に答えたとはいえ、こちらの呼び掛けに呼応するものは城内にいくらでもいる。
「華琳さまへ伝令を―――」
「それなら、私達のところから出しておいたよ」
「……」
いつの間にか、二十騎いた劉備軍が十数騎に数を減らしている。
桂花は無言で劉備を睨みつけると、集まった曹操軍の兵の中から伝令を選び、走らせた。
呂布がこのまま陳留を維持するつもりなら、歩兵による補強が必須だった。対峙中の華琳にとって、それは反撃の好機が訪れるということだ。
「劉備、早く貴女の軍の元へ案内してくれる?」
「うん。付いて来て」
意地を張っている場合ではない。それも劉備の言う通りだった。
ふと思い出し、桂花は頭巾を被り直そうと、背後に手を回した。その手が、空を切った。
「?」
桂花の頭巾は単に頭に巻いているのではなく、首の前で両端を結んで背中側に垂らし、それを被る形状のものだ。曹仁からは“猫耳ふーど”などと意味の分からない呼び方をされている。脱げても首に引っ掛かって、背中に垂れるだけのはずだ。事実、首元には頭巾の結び目が残っている。
「あっ、荀彧さん。そういえばこれ、拾っておいたよ」
劉備が思い出したように言って、何かを桂花の手に握らせた。淡い緑色をした、見覚えのある布切れだ。
「良かった。髪の毛は切れてないみたい」
いつも通りの暢気な口調で劉備が言うが、桂花の背筋は凍りついていた。手にした布は、断ち切られた頭巾の一部だった。