百里、大きく本陣を後退させた。
図らずも戦前に曹仁が献策した通り領分内に引き込んだ形だが、そのための犠牲は甚大だった。
五万の兵力を誇った春蘭隊は一万以上の兵を失っているし、殿軍を務めた曹仁の騎馬隊は五、六千騎近くまで数を減らしている。黒山賊出身だけあって、敢えて険路ばかりを選んで退いた張燕隊だけは追撃による被害を免れているが、それ以前の三日間の戦闘で二万が一万五千にまで減っている。
今は泰山に連なる山岳に拠っているから、呂布軍も容易に攻め掛けてはこなかった。山地での戦いでは、騎馬隊を活かしようもないし、重装歩兵の進軍も困難である。一度、袁術指揮の歩兵部隊が攻め込んできたが、引き込んだうえで張燕隊単独で大きな損害を与えている。元黒山賊の兵は、山岳地帯での戦いはさすがに手慣れたものだった。
騎馬隊も馬を引かせて山中に籠もらせている。馬の脚が萎えることを嫌った曹仁が、開けた場所を見つけては盛んに駆けさせていた。
十日間兵の回収に努め、軍団の再編を終えると山を降りて再び呂布軍と対峙した。
春蘭隊が四万で、張燕隊が一万五千。本陣には歩兵一万に騎馬隊は一千だけを残して、騎兵一万騎は全て曹仁に与えた。赤兎隊への備えとして、本陣の兵は二段に分けている。仮に本陣への侵入を許しても、それによる乱れは第一段までに留め、第二段で仕留める構えだ。
呂布軍の陣容は張遼隊が一万騎で、高順の重装歩兵が八千。袁術の歩兵部隊が三万五千。呂布の赤兎隊二百騎の姿は戦場のどこにも見えない。
たった一度の敗走で、それまであった大きな兵力差はだいぶ詰められてしまっている。
山を背負っての布陣で、張遼隊による背後を突く様な大きな用兵は封じた。歩兵の押し合いが中心の戦で、そこは未だに曹操軍に分があった。互いに大きな損害は与えず、いくらか曹操軍が有利なままに数日戦いが続いた。
その間、呂布軍の戦列に赤兎隊が姿を見せることはなかった。呂布軍牙門旗である深紅の呂旗も見えない。
大将自らが遊撃隊という、呂布軍の特異性が前面に押し出されている。呂布の姿が見えない以上は、こちらは残された部隊との消耗戦で少しでも戦力を削るほかない。
とはいえ、華琳に焦りはなかった。続く袁紹との決戦を想定すれば、消耗戦は避けたいところではある。しかし呂布との戦だけを思えば、戦を急ぐ必要はなく、長期戦はこちらの望むところだった。
呂布軍の背後では幸蘭が諜報部隊を率いて、糧道を乱している。直接的な戦闘には向かない者達だが、夜襲して兵糧を焼き払うというような働きは本領と言って良い。必要があれば周辺の拠点の兵を動かす権限も幸蘭には与えていた。守兵は最低限を残すのみだから、城郭を全くの無防備に晒すことにもなるが、呂布軍は今のところ攻城の構えは見せていない。拠点を取り合う腰を据えた戦となれば、二州を有し地力に勝る曹操軍に分があった。
どこかで、呂布軍が焦れてくる。そうなれば、いやでも呂布は姿を現すだろう。
まっとうな野戦で、呂布に勝つ。先の敗戦ゆえにその誘惑はより一層拭い難いものだが、今は持ちうる全てで対するしかない。
戦況に変化があったのは、消耗戦を五日も繰り返した頃だった。それも、動きがあったのは眼前の戦場での話ではない。
「陳留に呂布が現れたですって?」
息急き切って繰り返した伝令の言葉は、いずれも曹操軍首脳の想定から外れたものだった。
―――曹操軍本拠陳留の城外に、深紅の呂旗を翻す騎馬隊を発見。その数わずか二百。
「さて、敵の狙いはどこにあるのかしら」
陳留の留主は桂花で、三千の兵が防衛に当たっている。いくら赤兎隊と言えども騎兵のみ、それも二百で城郭を落とせるものではない。
「目的は陳留ではなく、我らにあるのではないでしょうか」
臨時に開かれた軍議の席で、稟が眼鏡に軽く手を当て思案顔で言った。
「なるほど。つまり呂布の不在を我らに知らしめ、攻めの戦を誘うという策ね。するとその旗自体が偽りで、やはり呂布は敵陣にいるとも考えられるわね。…………続報を待ちましょう」
待つまでも無く、続く知らせはわずか数刻のうちに届けられた。それもほとんど時を同じくして二報、一方は桃香からの伝令で、もう一方は桂花からの報告書である。いずれも敗報だった。
桂花の報告には、桃香の伝令の口上にはなかった戦の詳細―――自身が桃香達に命を救われたことも含めて―――が明記されていた。桂花なりの意地だろう。
呂布を討ち取るべく、桂花は城外へ出陣していた。三千の歩兵は二百の騎馬隊に鎧袖一触、打ち払われたという。その戦はまぎれも無く呂布のものである。深紅の呂旗は偽りなく本物であった。
「桂花の判断自体は間違ってはいない。目の前に寡兵を率いただけの敵大将が現れたならば、討ちに出向くのは戦術としては当然のことだわ。相手が呂布でなければ、私も迷わずそうさせたでしょう」
ただやはり文官には、呂布という真実規格外の武人の力量を正しく量ることは難しかったのだろうと、華琳は言葉を結んだ。
桂花は堅実な政務における手腕は曹操軍随一であるし、時に華琳さえ驚かせるような戦略を考え付きもする。青州黄巾百万を流民のままに大陸全土に解き放ち覇道の先触れとする、という桂花の献策は退けこそしたものの、その非凡な戦略眼を華琳に知らしめた。しかし、政を司る文官であり、戦略を練り大局を見据える軍師でもあるが、桂花は戦術を戦わせる武将ではない。武将であれば肌で感じる呂布の強さを、理解しろという方が無理があった。
陳留を落とされたことは、今のところ戦略上ではそれほど大きな意味を持たない。二百で城の維持など出来ないためだ。ほんの一時、支配権を奪われたというだけに過ぎない。
「今はっきりしていることは、対峙中の呂布軍にはあの赤兎隊はいないということだけね」
そう言って、華琳は軍議を締めくくった。
翌日の戦は、激しいものとなった。
赤兎隊のいないこの機に少しでも呂布軍の戦力を削るべきだった。呂布軍が陳留の支配権確保のために陣を動かせば、そのままの勢いで追撃に入る心算だ。
春蘭隊四万が、高順の重装歩兵をかなり押し込んだ。そこで、高順に代わって後続に控えていた袁術の歩兵部隊が前に出た。袁術隊はもろかった。冬の日に踏み砕かれる霜柱が如く、わずかな抵抗だけを残してぼろぼろと崩れ去っていく。
張遼隊は曹仁隊とぶつかっては退いてを繰り返している。曹仁隊の補佐には張燕隊も付けていて、張遼に春蘭隊へ介入する余裕は無さそうだった。曹仁は時には楯に、時には張遼隊の行く手を阻む壁として、上手く張燕隊を利用している。
日が落ち暗くなるまで攻め続け、ようやく軍を退いた。合わせて陣を下げる呂布軍からはどこか安堵の色が伺える。
こちらにほとんど犠牲を出さずに、一日の戦闘で五千近くは損害を与えた。ただ、その大半が袁術の歩兵部隊で、高順の重装歩兵はほぼ無傷のままだ。曹仁と張遼の騎馬隊は同じく数百ずつ数を減らしている。
陳留へ向けて呂布軍が進軍する可能性を考慮し、夜間は歩哨だけではなく斥候も多く放った。曹仁にはいつでも騎馬隊を動かせるように命じていたが、その日、呂布軍に陣を払う気配は見られなかった。
数日を経て、案に違わず呂布軍が陳留を退去したという報告が届いた。桂花はすぐに兵を入れて防備を固め直した。翌日には、華琳自ら深紅の呂旗の戦列復帰を確認した。
呂布が陳留滞在中に行ったことは二つ。一つは、住民に命じて城門を取り払い、城壁の何箇所かを崩したこと。そしてもう一つは、その給金代わりとして城の備蓄を住民に残らず分け与えたこと。
曹操軍では基本的に臨時徴税を禁じている。文書化して布告したわけではないが公約にも近いもので、民はそう信じるからこそ他領の常識よりも幾割か高い税の支払いに応じるのだ。
「うまい手を考えたものね」
小勢の奇襲部隊で兵糧を奪い去ることは出来ない。ならばせめて火を放って相手の糧食を減らすというのが、戦では常道だった。本来燃えて失われるだけの兵糧を民に分け与えることで、呂布軍の評判を高めることに成功している。
この赤兎隊不在の数日間の戦で、呂布軍の兵力は大きく減らしている。だが犠牲を出したのは袁術の率いる歩兵部隊で、主力となる重装歩兵と騎兵の損害はわずかなものでしかなかった。多量の糧食を失い、面目をも失った曹操軍とでは、呂布軍の利するところが大きいだろう。
「陳宮が軍に合流したらしいけれど、これは彼女の献策かしら?」
呂布軍が曹操軍の領内に侵攻したことで、糧道の確保のために陳宮自らが動き回っていると、幸蘭の手の者から報告があった。
軍議のために集まった面々の中から曹仁に視線を向けると、ちょっと考えて口を開いた。
「単にご飯を燃やすのがもったいないから、恋が皆に分けてあげたという可能性が高い気もしますが」
相変わらず曹仁の語る呂布はどこか牧歌的というか、戦場での姿からは想像もつかないものだった。
帰城した桂花は兵糧集めに奔走している。戦時中であるから買い入れにも限度があり、難儀をしているようだ。陳留陥落による実害は、数字の上ではその程度のものであった。
ただ、わずか二百に本拠を落とされ、一時とはいえ呂旗が立てられたという事実が、曹操軍の兵の心に与えた衝撃は大きい。
陳留より帰還を果たした呂布と二百騎が戦場に姿を現すと、それはより顕著に表れた。領内で替え馬を乗り次いで奔る伝令から、わずか半日遅れの帰還である。かなり無茶な移動を繰り返したであろうから、深紅の呂旗はその日一日はただ本陣に翻るのみであった。それでも、目に見えて兵の動きは委縮している。前日まで優勢に戦を進めていた相手に、しばしば劣勢に追い込まれた。
陳留陥落の事実をあえて兵に触れて回るような真似はしていない。だが人の口に戸は立てられないもので、すでに大半の兵に知れているようだった。戦闘中に交錯した敵兵から囁かれた者もいるという。舌戦を向けられれば、華琳自ら些事と笑い飛ばすことも出来た。大々的に喧伝されるよりもかえって兵に与えた不安は大きいかもしれない。
華琳は改めて、陳留を取り戻した現状と共に、一時陥落したという事実を兵に布告した。しかし奪還の報も、兵の動揺を思うように鎮めてはくれなかった。
「一度だけ聞くわ。呂布を我が軍に引き込めないか? 彼女が望むならいかなる処遇も約束しよう。もちろん、部将達も厚遇するわ」
深夜、曹仁だけを幕舎に呼び出して問うた。
呂布が欲しかった。呂布だけでなく、張遼も高順も手に入れたいし、もちろん陳宮も欲しい。敵として鮮やかに撃ち破りたいという願望とともに、手に入れたいという欲求も日々いや増していた。
騎馬隊全体の指揮を張遼に委ね、赤白の騎兵を呂布と曹仁が率いる。赤兎隊が踏み分け、白騎兵が斬り開く。生まれるのは最強の騎兵部隊だ。
中心となる歩兵も高順に与えてしまってもいい。それで春蘭とその補佐に付けていた秋蘭を自由に動かすことが出来る。大軍の指揮に他に適任者も無く二人を任じてはいるが、春蘭には遊撃隊を、秋蘭には弓兵の精鋭部隊を率いさせればもっと大きな働きをすると、かねてから華琳は考えていた。
そうなれば、向かうところ敵なしだろう。たとえ麗羽がこちらに倍する兵力で決戦を挑んできても、物の数ではない。返す刀で孫策を討ち江南を平定し、残すところの西方を思うがままに踏破する。天下平定への最短の道だった。
「無理でしょう」
曹仁が力無く首を振った。
「何故? 貴方の言う呂布は、天下に野心を抱く人間とも思えない」
「恋になくとも、周りは夢を見ます。あれほどの将を戴いてしまったのですから。慈愛に満ちた彼女の心根を知る者ならなおさら」
「それは、呂布自身には折れる可能性が残っている、ということにはならないのかしら?」
「高順や音々音に夢を託されれば、恋は折れません。それが自分の夢ではないだけに、自ら諦めるということも無い」
「部下の夢のために、戦うというの?」
「それが恋です」
それでは主従が逆ではないのか。そんな主と部下の形があり得るのか。疑問は尽きなかったが、断定的に言う曹仁に、華琳は続く言葉を飲み込んだ。
次の日からは戦線に赤兎隊も姿を現した。
士気が、立ち直らない。甲羅に隠れる亀のように、縮こまった戦が続いた。
「……んっ」
鬣を撫でてやると、馬は気持ちよさそうに首をゆすった。今日一日の戦闘を終えた馬たちは、のびのびと草を食んでいる。
帰還から数日、赤備えを支える汗血馬は、ようやく完全に疲労の色を拭い去っていた。泰山から陳留まで、左右に長い兗州をほぼ横断するという強行軍であった。
「恋さん、やはりここでしたか」
陣営内に築かれた放牧地である。粥の入った器を二つ手にして、高順が寄ってきた。大盛りにつがれた方が差し出される。
恋は草の上に腰を下ろすと、匙は使わずに器を傾けて直接口に流し込んだ。高順も黙って隣に座り込むと、匙を動かし始める。
音々音の尽力もあって、兵糧は潤沢とは言えないまでも今のところ不足はしていない。山の多い土地であるから、獣を狩ることも出来る。粥はいくらか薄くなっているが十分歯触りが感じられるし、やはり誰かが捕まえてきたのか、鹿の肉が一切れ浮いていた。本当に兵糧が不足した時には、ほとんどただのお湯のようになった粥で我慢しなくてはならない。
洛陽を脱してから徐州を得るまでの間は、深刻な兵糧不足にも何度も襲われた。そんな時、つい自分の分を我慢してしまうことがあった。普段、他人より多く食べているから、少しぐらいなら耐えられると思ってしまうのだ。実際にはそれは他人よりも早くお腹が空くということで、食事を抜けばすぐに力は入らなくなる。そんな調子であるから、ことはすぐに音々音達に露見した。以来、戦場で糧食を取る際にはいつも誰かが付き添うようになっている。大抵の場合それは高順だった。曹仁と別れてからは、料理番は彼に仕込まれた高順の仕事となっているためだ。戦陣でも、音々音の手配した兵糧の現場での管理は高順が受け持っている。
「曹操は、さすがに強いですね。仁兄の姉貴分だけはある」
「ん」
高順の言葉に、恋は小さく頷いた。
この数日、赤備えが十分に駆ける隙を恋は見出せなかった。夏侯惇の歩兵が小さく固まって戦場の中央に持し、他の隊はその巨大な壁に隠れ、時に背後から手を伸ばし来るだけだ。有効な攻めは限られている。
曹操の本陣は、今は馬防柵も立てずに歩兵のみの一万が戦場に露わとなっている。肚を据えた布陣で、一万にどっしりと構えられるとさすがに赤備えの二百騎だけでの突撃は危険だった。それに、なにか嫌な感じがする。言葉では説明出来ない違和感が、恋の嗅覚に引っ掛かっていた。一万以上の脅威を感じるのだ。陳留攻めよりの帰還から、恋は一度も曹操の本陣を突けていない。霞と連動して攻めようにも、曹仁の騎馬隊がそれだけは確実に遮ってくる。
戦乱の中を彷徨い歩いていた頃には、呂布軍にとって戦は日常であった。それでもこれほど長く一つの軍と対峙し続けたことはなかった。
恋にとって、戦は一瞬でも早く終わらせるべきものだった。続ければ続けただけ仲間の兵の命は失われていくし、音々音たち家族の身も危険に晒される。霞などは強敵との戦を楽しむようなことを言うが、恋にとって戦の時は短ければ短いほど良く、そのためには敵は弱ければ弱いほど有り難いのだ。
「このまま守りを固められ続けると、先に兵糧が尽きるのはやはりこちらです。陳留のような手には、もう乗ってはこないでしょうし」
「ご飯がなくなるのは、つらい」
「ええ、そうですね。――――器を片付けてきます」
言いながら高順が、恋の手元に視線を走らせた。器が空になっているのを確認すると、小さく頷いて立ち上がった。
翌日の戦も、大きな動きはなかった。
曹操の本陣。思い切って飛び込もうと思う度、手綱を引いた。やはり、何かが引っ掛かる。
日が中天にさしかかる頃、曹操の本陣が動いた。中央に位置する夏侯惇隊まで進み、そのまま一体となった。
じっと動かずに堪えていた夏侯惇隊の動きが目まぐるしいものに変わった。本隊の兵を加え五万に増えた歩兵が、今度は五千から一万規模に分かれて、それぞれに動き始める。
一万が真っ直ぐに走り高順隊にぶつかった。張燕隊もそれに続いている。
五千が霞の騎馬隊に向かった。背後に曹仁の騎馬隊が並足で続いている。咄嗟に衝突を避けた霞が馬首を巡らせた方向に、もう一隊五千の歩兵。霞は大きく戦場を迂回した。
方陣を組んだ歩兵の動きは実に機敏だ。全ての面が前衛として働くため、方向転換での無駄も少ない。率いるのが霞と言えども、一万騎ともなれば騎馬隊での急速な方向転換は難しい。その弱みを巧みに突いて、騎馬隊の動きを先読みしては歩兵を配置しているようだ。見ているこちらの頭が痛くなるような、煩雑な用兵である。
歩兵の隊列が入り乱れる中、恋はじっと曹の牙門旗だけを視界におさめることにした。牙門旗に林立する大小の旗が盛んに振られて、歩兵への指令が飛ばされている。
「―――曹操」
歩兵と歩兵の切れ目。騎馬隊一千騎ばかりを従え、自ら戦陣を駆けるその姿を認めた。駆け回りながら戦況を己が目で確認し、指示を出している。
本陣に構えていた時とは違った。今は一千騎はあくまで一千騎で、それ以上の脅威は感じられない。
討ち取る。いや、曹仁の家族だから討たずに捕える。それで、戦を終わらせる。
駆けた。こちらに気付いた曹操が、馬首を返した。次々に歩兵が赤備えを遮りに掛かる。振り払い、蹴散らした。
まとまった歩兵の一団が、恋と曹操を阻む壁となった。盾を並べ、戟を突き出している。堅い。しかし、押し切る。強引に馬を進め、抜けた。抜けた先に、曹操へと繋がる道。左右から歩兵が詰め寄って、道はすぐに狭まった。圧力の掛かり方が微妙に変化した。そびえ立つ壁から、左右から絞り込む断崖に変わっている。問題にしない。方天画戟で強引に押し広げた。曹操までは、もう一駆けだ。
「十歩っ!」
凛とした少女の声が響いた。同時に一抱えもある鉄の円盤が飛来した。
見慣れぬ不可思議な武具だが、嫌な感じはしない。何か仕掛けはありそうだが、火薬や毒を振りまく様な悪辣な類のものではないだろう。直感的に恋はそう判断した。
思い切り方天画戟をふりかぶると、円盤の芯を狙って渾身の力で打ち返した。腕に痺れるような衝撃が走る。
「―――っ!!」
巨大な円盤の影に隠れるように、無数の飛矢―――にしては太く大きい、投擲された槍のようだ―――が殺到した。風を切る轟音が、投げた者達の膂力を感じさせる。
方天画戟を旋回させた。十数本を弾いたが、身体の横を通り過ぎていく槍もまた十数本。自身の身と馬に当たるものを弾くだけで精一杯だった。
味方の被害を確認するため、素早く背後に視線をやった。
恋はそこで初めて、自分が単騎となっていることに気付いた。曹操軍の歩兵が旗下と自分を隔てている。
赤備えの汗血馬の群れは、ひたすらに恋を目指して駆けてくる。左右から押し寄せる歩兵の波にわずかに蛇行しながらも、懸命に駆けてくる。
一瞬、歩兵の圧力が弱まった。勢い込んだ赤備えの横合いへ、騎馬隊がぶつかった。馬甲をまとった重装騎兵だ。白騎兵と並ぶ曹操軍最精鋭の虎豹騎。
未知の衝撃に汗血馬達が強い混乱をきたしたのが、恋の目には良く分かった。
いずれも、暴れ馬扱いされていた。悍馬は、怖いからこそ暴れるのだ。本当は他の馬よりもずっと臆病であることを恋は知っている。
馬の気に触れない穏やかな兵を乗せて、恋がずっと一緒にいることを約束して、それで初めて戦場に連れ出したのだ。
直接重装騎兵の衝突を受けた汗血馬が十数頭、馬群を離れ算を乱して逃げ散っていく。駆け去ったその先で、歩兵の槍先に射竦められ、道を失い激しく身を震わせては嘶いている。
残るほとんどの馬は、なおも恋を求めて愚直にこちらへ駆けてくる。戦場で他に為すことを知らないからだ。
「――――――っっ!!」
恋は声にならない雄叫びを上げた。
歩兵の陣形をかき分け、呂布が来た道を駆け戻っていく。
「くっ、逃がすかっ!」
「―――春蘭」
「―――は、はいっ! 申し訳ありません、つい」
追い縋ろうという春蘭を、華琳は制した。深追いは普段から禁じているから、名を呼ぶだけ春蘭はしゅんと頭を垂れた。呂布に代わって、今度は春蘭が赤兎隊の中で孤立しかねない。
二投目に備えて槍を肩に担いでいた虎士達も構えを解いた。
流流の掛声で、呂布目掛けて親衛隊が一斉に槍を投げた。
流流の伝磁葉々を先頭に、三十の飛槍が呂布の身を襲った。精兵というよりはいずれも屈強な武人ばかりを集めた親衛隊の膂力で放たれた槍である。伝磁葉々一つをとっても、その超重量は本来受けを不能とする。討ち取るまではいかないにしても、手傷くらいは与えられるだろうという華琳の予測を見事撃ち破り、取って返していく呂布は毛筋ほどの傷も負ってはいない。
季衣も攻撃に参加させれば、結果は違ったものになっただろうか。
季衣と流流の得物―――岩打武反魔と伝磁葉々は共に超重量の流星錘のようなもので、投擲後は手元に引き寄せることが出来る。ただその瞬間に隙が生じる。華琳護衛の最後の砦として、季衣だけは得物を手にしたままだった。
超重量の鉄塊に三十の投げ槍、そこにさらにもう一つ超重量が加われば。
「それでも、やはりせいぜい手傷でしょうね。桂花のことを言えないわね」
華琳は自身の見通しの甘さに、自嘲混じりにひとりごちた。
本陣に合流した春蘭とその旗下百騎。季衣、流流に虎士の三十。騎馬隊を切り離して曹仁と白騎兵、そして赤兎隊に一当てした虎豹騎も駆け戻りつつある。この曹操軍最精鋭で呂布を倒すつもりだった。実行された場合の犠牲は、華琳の想定よりもはるかに大きなものとなっただろう。
とはいえ、まだ呂布を取る機会を完全に逸したわけではなかった。
一万ずつの二隊の歩兵が、赤兎隊をすり潰している。指揮は凪と沙和だ。高順の重装歩兵は一万の歩兵と張燕隊が押し合いを続けている。張遼隊は騎馬隊と五千の歩兵部隊三隊に戦場の外れへと押し出された。つまり二万の歩兵と、わずか 二百の騎馬隊の勝負である。その渦中へ、呂布が飛び込んでいく。
呂布が合流するや、二万の歩兵に飲み込まれた赤兎隊が、二つに分かれた。二隊は背を向けて左右それぞれの圧力に向かった。混戦の中だから、騎馬隊の力は活かせていない。歩兵の構える盾へ馬体をぶつけて、力押しでじりじりと歩兵を押し退けていく。それは歩兵の得意とする戦で、さすがの赤兎隊にも犠牲が出始めている。
左を向いていた隊が、くるりと反転した。二隊が押し進んだ分だけ、後方には空隙が生まれる。そこには赤兎隊を包囲するためにすでに歩兵が詰めてはいるが、最初から陣を組んでいた他と比べれば明らかに薄く疎らな陣形だった。騎兵が疾駆するだけの余裕を十分に有している。
右側の隊も、動きを変えていた。右へ右へと一団となって押し進んでいたものが、さらに二つに割れて前後へと押し出した。中央に、空間が生まれた。
押し進んだ分と、右隊が前後に道を開けた分。そこを左隊が駆ける。先頭には呂布だ。
疾駆の勢いを付けた赤兎隊は歩兵の陣形を軽く突き破った。左隊の最後尾へ右隊が続いて、歩兵に取り囲まれていた赤兎隊の全てが陣外へと流れ出ていく。
先刻までただやみくもに前へ進み続けた軍の動きとは思えない、鮮やかな用兵だった。
「しかし、あそこで退くか。呂布にとっても私を討つ好機であったというのに」
「敵の命と味方の命なら、迷わず味方の命を選ぶのが恋です」
いつの間にか側まで来ていた曹仁が、華琳の独り言に答えた。
「……同じ手は二度は通じないでしょうね」
赤兎隊を置き去りにするような突出の仕方は、もう呂布はしないだろう。
思った通り、騎兵としての練度が決して高くはない赤兎隊は、左右からの攻めにわずかな弱みを見せた。
赤兎隊の駆け抜けた後には、常に踏み荒らされた凄惨な爪跡が残るが、騎兵の槍によって討たれた兵は意外なほど少なかった。正面に対しては蹄と言う強力な武器があるが、左右に対する馬上の兵の槍は力無い。そこで、正面から対するのではなく、左右から絞り込む用兵を華琳は指示した。必然、左右への警戒を強めた馬の足は鈍る。本来先頭で最も強い抵抗を受けるはずの呂布の一騎だけが、無双の方天画戟に守られ突出することとなった。そして、赤兎隊は呂布の指揮を離れれば脆い。
赤兎隊の駆け様は悍馬そのもので、それは指揮官の曹仁無しでも一人一人が高い判断力を有した優秀な騎兵の集団である白騎兵とはまったく異なる。呂布が率いねば騎馬隊として十分に機能すらしない。呂布は馬群そのものを率いている、とは曹仁の言である。
にわかには信じ難い話だが、かつて洛陽にあっても呂布は馬の限界を引き出すような用兵を時折見せたという。調練では初見に近い馬でさえ従えたという呂布が、長らく戦陣を共にする汗血馬と組んでいるのが赤兎隊だった。呂布と汗血馬の相性がよほど良いということまでは、華琳にも理解出来る。
作戦は図に当たって、二百の赤兎隊を三十騎ほど削った。形に残る戦果はそれだけであったが、これまで無傷であり続けた二百である。両軍の兵に与えた衝撃は小さくないはずだ。赤兎隊によって砕かれた士気もこれでいくらかは回復が望めた。
「――――――――っっ!!」
それを証拠に、退いていく赤兎隊を目に勝ち鬨を上げる兵達がいた。
「……戦力が変わるわけでもないけれどね」
二百で駆け回っていた騎馬隊が百と七十余騎になったからといって、戦力に大きな違いはない。兵に率先して鬨を上げる春蘭の姿に、華琳はため息交じりにこぼした。
赤兎隊に遅れること十数日、曹操軍にも合流する隊が現れた。北方への守備へ回していた真桜率いる新兵隊二万である。
荀彧は北からの侵攻はないと判断を下したようだ。
「よく来てくれたわ、真桜」
華琳は兵力の補充以上に、真桜と旗下の工兵部隊の参陣を重視したようだ。工兵隊の一部は初めから従えていたが、率いる者がいるといないとではまるで違う。
赤兎隊にいくらかの損害を与えてから十日近くが経っているが、戦に大きな動きはない。一度形の上では退けたとはいえ、恋相手に同じ手は二度通じない。赤兎隊は依然最大の脅威であり続け、曹操軍は攻めに転じ切れずにいる。ここに来ての兵力増強と真桜の存在に、曹仁は光明が差した思いだった。新兵二万は、一万ずつの二隊に分けて凪と沙和の指揮下に入った。
数日を置いて、曹仁は忙しく動き回る工兵部隊の陣営に真桜を訪ねていた。
現状曹操軍中で最も働き詰めの部隊だろう。合流以前に就いていた北方守備では、わずかな兵力で袁紹軍へ対応するために河水沿いにいくつもの砦を築きあげて来たという。今は赤兎隊に対するための馬防柵の工夫だった。
馬防柵を跳び越えるなどと言う真似は、騎馬隊の常識としておよそ有り得ないことだ。白鵠なら出来なくはないのだろうが、やらせたいとは思わない。白騎兵や馬甲を解いた虎豹騎の馬でも難しいだろう。そのために作られた物なのだから、当たり前のことだ。恋と、あの赤兎隊にこれまでの常識は通用しない。そう思って対峙するしかなかった。
そんな赤兎隊に対して取った真桜の対策は、実に単純であった。馬防柵を二重に組むというものだ。完成したものは、柵と言うよりは簡単な防壁に近かった。一尺ほどの間を置いて二カ所の頂点を持つ。跳び越すには、跳躍の頂点は柵の最長部よりもかなり高く飛ぶ必要がある。
より簡単に考えるなら、柵を高くしてやれば良いように曹仁には思えた。しかしその場合には木材の加工、ひいては改めて輸送の段から手配しなければならない。また強度の面でも不安が出るという。真桜は有り合わせの資材を用いて、上手く工夫したようだった。
「忙しいところ申し訳ないが、内径は図面通りに正確なものが欲しい」
そんな忙しく立ち回る工兵部隊の長に、曹仁はおずおずと図案を差し出した。素早く目を通すと、真桜は詰まらなそうに口を開く。
「なんや、簡単やな。前回の鎖の鎧はおもろかったのに、つまらんなぁ。―――こんなもんなら、ちゃちゃっと作ったるわ。ちょっと待っとき」
真桜はむしろ易し過ぎる注文の内容に不満を浮かべると、軽い調子で請け負ってみせた。そのまま即席の工房へと足を向ける真桜を、曹仁は見送った。