「よーしっ、突げ―――」
「―――なりません」
「ぐっ。でもでもっ、雪蓮姉様ならここで一気に片を付けるわ」
「孫策様は孫策様、小蓮様は小蓮様です。あれは、あの御方の傑出した武威があって初めて、ただの賭けから必勝の型へと成り得るのです」
「ううう~~」
「唸ってみたところで、戦況は変わりはしません。ご覧下さい、敵左翼にまとまりがありません。短期戦がお望みならば、後詰の隊をそちらへ回し、そこから崩しましょう。本隊が出るのはその後です」
「わかったわよ!」
不機嫌そうに顔を背けながらも、小蓮は太史慈の言った通りに兵を展開させた。それは、太史慈の言葉に理があると認めた証だった。納得がいかない時には、小蓮はいつまでも反論を繰り返す。
太史慈は小蓮の太傅(傅役)に任命されていた。
騙し討ちで孫策を脅かし、袁術の助命を乞うた者に対する扱いとは思えない。孫策という人間の肝の太さに、太史慈は改めて驚きを禁じ得なかった。同時に、袁術という主君を支えきれず失った太史慈に、彼女と年近い小蓮の教育を命じる細やかな温情も感じた。
「楼、敵将が逃げるわ」
楼(ろう)と、小蓮が真名で太史慈を呼んだ。
袁術にはついぞ真名を預けることが無かった。張勲が自分以外の人間が袁術に近付き過ぎることを嫌ったためだ。
「……小蓮様」
どこか楽しげに言う小蓮に、太史慈はため息交じりに頭を振った。
左翼の崩壊を見て、敵中軍から離脱する小勢がある。本来、敵を潰走させた右翼の兵がそのまま包囲の形を作り防ぐことだが、味方にその動きはない。
「欲しいのは孫呉に背いた敵将の首だけで、兵はいずれ我が軍に帰順する者達だもの。包囲しちゃったら敵兵も奮戦して、無駄に死人を増やすだけよ」
「……確かに、それは一理ありますね」
「ふふん」
太史慈が理を認めると、小蓮が得意そうに胸を反らした。
「それじゃあ、どっちが敵将を討ち取るか。―――勝負!」
言って、小蓮は馬を駆け出した。手にはお気に入りの得物である戦輪―――月華美人ではなく、弓が握られている。
太史慈は、やれやれともう一度頭を振ると、同じく馬を走らせた。
小柄な小蓮を乗せる馬は、空馬のようによく駆ける。太史慈も親衛隊も引き離し、小蓮が孤立する。
太史慈はつと鉄弓に矢を番えた。敵将と、その周りを五十ばかりの騎兵が固めている。先を行く小蓮はまだ弓を引いていない。小蓮の細腕では、確実に届くという距離ではない。
心気が充実していく。極限まで集中して弓を引くと、遠い標的が外しようもない程にすぐ間近に感じ、その動きもひどくゆっくりと見える瞬間がある。
太史慈は矢を解き放った。騎兵を具足ごとまとめて二人貫き、三人目―――敵将の隣に侍る兵の首筋に突き立ったところでやっと矢は勢いを止めた。
矢継ぎ早に四、五回も同じようにして放つと、将を守ることも忘れ、兵は逃げ惑った。敵将に近い者から狙って撃ち抜いたから、むしろ将を避けてさえいる。
孤立し右往左往する敵将の首に、小蓮の放った矢が突き立つ。
追い打ちにさらに数本太史慈が矢を射込むと、算を乱して敵兵は散っていった。
「お見事」
「む~~~っ」
馬を寄せると、ふくれ面で小蓮は太史慈を睨んだ。
「手を抜いたわねっ、楼! 最初からちゃんと狙って撃てば、敵将を討ち取ることも出来たはずじゃないっ」
「小蓮様がお一人で突出なさるからです。まず敵兵を崩さぬことには、私の立場では安心して勝負など出来ません」
「雪蓮姉様が相手ならそんなことしないくせにっ。シャオはお守りの必要な子供じゃないんだからっ」
「そう背伸びをして焦らずとも、小蓮様はいずれ孫策様にも劣らぬ力量を身に付けられます。今しばらくの間、我が庇護のもとに身をお置き下さい」
「…………ほんとに? 雪蓮姉様みたいになれる?」
「ええ、私が保証いたします」
孫呉の武の象徴と言ってもいい黄蓋の弓と、孫策の剣を相手取っての一騎打ちで、太史慈の武名は軍中に知らぬ者とてなくなっている。その太史慈の確約に、小蓮はようやく顔をほころばせた。
実際、弓腰姫などと渾名される彼女の射術は相当なものであるし、戦輪を用いた体術にも異才がある。磨けばいくらでも光り得る珠玉であろう。
「じゃあじゃあっ、胸も、姉様みたいにばいんばいんになるっ?」
「……それは私からは保証しかねます」
小蓮がまた頬を膨らませた。
寿春へと帰還した。かつては袁術軍の本拠であり、今は孫策の居城となっている。
遠征の報告のために宮殿へ出向くと、太史慈が通されたのは孫策の私室だった。謁見の間では、今頃遠征軍の総大将である小蓮が、主不在の玉座と周瑜辺りを相手に報告をしているのだろう。
「小蓮とはうまくやっているようね、太史慈」
孫策が機嫌の良さそうな声で言った。いくらか頬が赤いのは、昼間から酒が入っているかららしい。
「孫策様。……ええ。小蓮様は、教え甲斐のあるお方です。いずれは孫呉の誇る武将として、戦場に名を馳せましょう」
「それならよかった。冥琳や穏はかなりシャオの教育には苦戦しているみたいだから、貴方も苦労しているのではないかと思ったのだけど」
「お二方は兵法や政務の指南役ですから、御苦労もしましょう。私は武術や、実際の戦場での指導ですので。小蓮様は机に向かわれるよりも、そちらの方が性に合っているご様子。それは、孫策様なら良く御理解出来るのでは?」
「そうね。私も母様に戦場を連れまわされて鍛えられたものだわ。蓮華は机上から学ぶものが多いみたいだけれど、シャオは私によく似ているわね」
「まさに」
太史慈は首肯して賛意を表した。孫策がくすぐったそうに微笑む。妹が自分と似ているというのは、姉としては喜ばしいことなのだろう。
「ようやく、足元が定まってきたわね。そろそろシャオの傅役としてではなく、貴方自身の戦場に立ってもらうわよ、太史慈」
揚州各地で起こった豪族たちの反乱は、今回の小蓮の遠征によって全て鎮圧された。中原では、曹操と呂布の戦がいよいよ佳境に入りつつある。孫呉の軍の再編が終わるころには、決着も付いているだろう。両軍の開戦の隙をついて長江を渡渉し、中原に領土を押し広げるという戦略は潰えた形だ。
終戦後に、勝者に先んじて敗者の領地を切り取り漁夫の利を得る手もある。しかし呂布と曹操の戦の帰趨を伝え聞いた孫策は、横から手出しするという考えを半ば捨てたようだ。ただ、これほどの戦に自分が関われないことに悔しさをにじませていた。
「まずは五千。騎馬隊の動きと連動出来る一軍を組織なさい」
「はっ」
太史慈は短く返すと、差し出された命令書を受け取った。
中原侵攻の機こそ失いはしたが、今回の反乱で孫呉が得たものも少なくはない。
揚州は元々豪族の力が強い土地柄である。大軍を組織しても、それは豪族達の私兵の集合体に近いものがあった。今回、周瑜の方針でかなり激しい戦をした。孫家に叛意を抱く豪族の首を相当にあげている。これで揚州内の兵力は完全に孫呉のものになったと言ってよく、豪族達の顔色を伺うことなく自由な編成が可能となった。
天下への雄飛。孫策が自分を陣営へと誘う際に口にした言葉を、太史慈は思い出していた。
孫策の私室を辞し廊下を少し進むと、中庭に剣を振る孫権の姿があった。
「はぁっ! ―――せいっ!」
裂帛の気合いを放ち、流麗とは言い難い武骨な型を繰り返している。ひたむきなその姿には、太史慈が思わず足を止めて見入るに十分なものがあった。
「はあっ! …………―――太史慈?」
力強く踏み込んで、頭頂から股下までを縦に振り抜く。そこで剣を止めた孫権は、太史慈の姿に初めて気が付いたようだった。それまでも視界の中には入っていたはずだが、型が一段落するまでは見えていなかったのだろう。彼女らしい一途さと言えた。
太史慈は一礼して中庭へ降りた。
「お邪魔をしてしまいましたか」
「いいえ、大丈夫。ちょうど、少し休憩を挟もうと思っていたところだから」
脇に控えていた甘寧がすっと布巾を差し出すと、自然な動きで孫権はそれを受け取って汗を拭う。孫策と周瑜とはまた違った、絶妙な距離感を持つ主従二人だった。
「孫権様、その剣は?」
「えっ、ああ、これ?」
孫権は珍しくちょっと悪戯っぽい笑顔を浮かべて、太史慈へ剣を差し出した。
「孫策様の南海覇王―――に似ていますね」
柄の拵えといい、刀身の造りといい、南海覇王とまったく同じと言ってもいいものだった。
「さすがに気付くのね」
いくぶん残念そうな表情で孫権が言った。
「ええ。良い剣ではありますが、さすがに南海覇王とは刃の鍛え方が比べるべくもありません。何より、あの宝剣が持つ威とでもいうべきものも感じられません。これは、似せて造らせたものですか?」
「ええ、姉様がね。いずれ南海覇王を譲るときのために、慣れておきなさいって」
間合いや重心に関しては南海覇王と寸分違うことはない。剣に慣れるという目的には十分なものだろう。だが、それよりも気になることを孫権は口にしていた。
「孫策様は、孫権様を跡目とお考えで?」
南海覇王は父祖伝来の宝剣と聞く。それを譲るということは、つまりは孫呉の家督を譲るということに等しい。
「みたいね。姉様が何を考えているのか、私に本当のところは分からないけれど」
身体に不安でも抱えているのか、それともよほど孫権の才を買っているということなのか。あるいは、またお得意の何となくかもしれない。何れにせよ、まだ年若い孫策があえて妹に跡を取らせようというのは奇妙なことと思えた。
「次の戦では、私も陣頭に立つわ。貴方も一軍を任されるはず、よろしくね」
孫権が別の話題を振った。孫策の思惑など、常人にはいくら考えたところで知れるものではない。
「はっ。尽力いたします」
これまで孫権は周瑜や陸遜に付いて内政による地盤固めに励んでいた。あまり内政を顧みることのない孫策の名代のようなものだ。孫権が戦場に立つというのは、孫呉の本気を内外に示すことになろう。それほどはっきりと、孫策が戦を、孫権が政をというように、姉妹の間では明確に役割分担がなされていた。小蓮は目下模索中というところだろう。
―――そういうことなのか。
孫策の考えを完全に理解することなど出来はしないが、太史慈はおぼろげながらいくらか合点がいった気がした。孫策は天下を切り取る戦を勝ち抜き、その後の舵取り―――政は孫権に委ねるつもりなのだろう。手にした玉座に興味を持たないのは彼女らしい潔さとも言えるし、いいかげんさとも言える。
「姉様は北への侵攻計画を破棄したようだから、次は西、―――荊州ね」
「……荊州には、確か」
思い詰めたような孫権の口調に、太史慈は思案を打ち切った。
「ええ、母様の仇、黄祖がいるわ」
「孫策様に、あまり期するところは無いようにお見受けしましたが」
「母様は、ここ江東から果ては西涼に至るまで、乱あるところ駆け回ったわ。私は大抵留守番だったけれど、姉様はいつも連れ回されていた。冥琳も一緒のことが多かったわね。母さんが亡くなった時も、その二人、あとは今いる将だと祭もその場にいたはずね」
孫堅が死んだのは、小さな戦場であったと聞いていた。打てば蹴散らせるような豪族の反乱で、黄祖は客将として豪族側に居合わせたと言う。百戦錬磨の江東の虎と言えど、どこかに油断もあったのだろう。黄祖率いる小勢の伏兵部隊の放った矢に、孫堅は戦に捧げたようなその命を散らした。
孫堅を討ったことで名を上げた黄祖は、今は荊州の劉表の下にいる唯一の武将らしい武将だった。
「幾重にも踏み重ねた戦場の中で流れ矢に果てた。その瞬間が偶然黄祖との戦の時に重なっただけと、姉様はそう割り切っているみたいね」
孫権は剣身を見つめ、きっと眉を寄せた。
「その場に居合わせなかったからかしら、私は姉様みたいには割り切れてはいない。正直なところ、中原よりも先に荊州へ攻め入ると決まったことを喜んでいる自分がいるわ」
孫策や小蓮とは違い孫権は武人よりも文人気質の人間であるが、やはり姉妹である。南海覇王に似せた剣を手にきつく表情を引き締める孫権からは、孫策と同じ張り詰めるような武威が感じられる。
戦略的に見ても荊州への進出は悪い手ではない。むしろ曹操と呂布が鎬を削り、北方からは袁紹も狙いを定めている中原への侵攻よりは、よほど容易く戦力の増強を図ることが可能だ。天下取りを単に支配地域の拡大と考えるなら、まず侵攻すべきは北ではなく西なのだ。
それでも中原侵攻をまず第一に視野へ入れていたのは、曹操、呂布、あるいは袁紹という面々がこれ以上勢力を拡大することを恐れてのことだ。荊州の劉表などはいつでも落とせるが、曹操や呂布に中原を固められれば孫策の天下取りの大きな障害となる。
「そうだ、小蓮との遠征の首尾はどうだったの?」
剣から視線を上げた孫権は、もういつもの孫権だった。
太史慈はしばし遠征での小蓮の様子などを語った。孫権は興味深そうにその話に耳を傾けている。
「―――それでは、私はこれで。軍営に戻ります」
「そう? せっかくだから宮中で夕食を食べていったら? 小蓮も喜ぶわ」
「いえ、あまり長居しては甘寧殿にも悪いですし」
太史慈が孫権の近くにいる間、甘寧は気を張り続けだった。手は常に腰の曲刀に据えられている。甘寧は兵を率いる武将でありながら、孫権の護衛も務めている。太史慈の来歴を思えば当然のことだった。
「思春、そんなに警戒するものではないわ。姉様が認めた者なのだから」
孫権がため息交じりに言った。
「しかし―――」
「貴方も、そうして姉様に見出され、私の護衛になったんじゃない」
「……」
痛いところを突かれたというように、甘寧が口を噤んだ。
甘寧は元江賊であると耳にしていた。それも錦帆賊と呼ばれた長江では名が知れた一団の頭領で、孫策に討伐されたのだという。敗将の身から孫策に取り立てられたのも太史慈と同じなら、すぐにその妹の近くに置かれたのも同じだった。甘寧という前例があるからこそ、生真面目な性格の孫権もすぐに太史慈の存在を受け入れる気になったのだろう。太史慈を小蓮の太傅に付けるという孫策の決定には無論反対意見も多かったが、姉と違い堅実さで知られる孫権までもその考えを支持したことで、ほとんど揉めることも無かった。
「どうかしら、太史慈?」
「いえ、やはりご遠慮します。黄蓋殿にでも見つかれば面倒ですし」
改めて誘いの言葉を投げ掛ける孫権に、太史慈は小さく頭を下げた。
「ふふっ、まだ祭は貴方に勝負を迫ってくるのね」
「ええ。何度となく立ち会って、勝率で言えばすでに黄蓋殿の方が上なのですが。勝てば勝ったで、あの日負けた無念を思い起こすらしく」
「そう。それじゃあ、あまり引き止めても悪いわね。この時間、祭は厨房でお酒を物色していることが多いから、このまま中庭を突っ切って行くといいわ」
太史慈は兵舎の一室を自室と定めているが、孫呉の有力な将は大抵宮中暮らしで、黄蓋もそうしている。
有力な将を、一族の近くに置くというのは孫家の伝統なのかもしれない。黄蓋は孫堅の代から家族同然の親しい付き合いがあるようだし、周瑜と孫策は兄弟同然である。孫権の護衛隊からは甘寧だけでなく周泰、呂蒙といった者も頭角を現している。周瑜に次ぐ軍師の陸遜は太史慈と同じく小蓮の教育係でもある。孫呉の将軍達には、ほとんど同族の一門と言って良いほどの結束力があった。
「はっ、それでは失礼致します」
一礼して辞し、太史慈は孫権に教えられた経路で宮門を抜けた。
八千の兵を集めた。一段高くなった台上から、太史慈は整列する兵を見下ろした。
孫策からはすでに徴兵された兵から選出する許可も得ていたが、揚州各地を回って新たに募兵した。豪族という頭を失い行き場を失った兵は多く、すぐに五千を超え八千に達した。放置しておけば賊徒に落ちるだけの者達であるから、領内の治安維持という意味でも意義があると、周瑜や孫権などは相好を崩していた。
元々五千の予定を変更して、八千全てを旗下に入れることが認められた。これも小蓮が敵兵を生かす戦いをした賜物である。
ただ集めたというだけで、練度は決して高くない。ただ整列させているだけでも、鍛え抜いた軍と烏合の衆では全く異なる気を放つ。眼下の八千から感じるのは惰気に近い。豪族の元にいた兵などそんなもので、調練は一からやり直しだった。
しっかりと具足を着込ませ武器も持たせたうえで、まずは走らせることにした。太史慈自身も先頭に立って駆ける。城門から練兵場までの道を、何度となく駆ける。
歩兵は調練でどれだけ駆けたかが、実戦での粘りに繋がる。兵の惰気を振り払うためにも、走らせるのが一番だった。
練兵場に近付くと、二百ほどの兵が激しく棒を打ち合わせ始めていた。小蓮の旗下だ。
集まった八千のうち二百が女性だった。女の身で軍で生計を立てようというのだから、何となく集まっているだけの男達よりも余程出来が良かった。孫策の許可を得て、その全てを小蓮の旗下とした。小蓮が集めた兵なのだ。
これまで小蓮は軍を率いることはあっても、孫策や黄蓋が鍛え上げた兵を借り受けるという形だった。自分だけの旗下を持つのは初めてのことで、いくらか浮かれているらしい。遠目にも小蓮の足取りがいつもより軽いのが見て取れる。
「あっ、楼―――!」
太史慈に気付いた小蓮が、やはり嬉しそうに大きく手を振った。