「仁は敗れたけれど、副官の貴方は大殊勲ね」
曹仁に代わって騎馬隊を率いた牛金が、呂布軍本陣を落とした。山地に拠った軍勢を攻めるのは騎馬隊の苦手とするところだが、小隊に分かれて山道を縫い侵攻し、急襲を仕掛けている。
赤兎隊不在の呂布軍に対して、こちらの騎馬隊は白騎兵が健在であったことが大きい。白騎兵は半ば曹仁の私兵のようなもので、他者の指揮で動くことを好まない。ただ赤兎隊とは違い常に指揮官の指示を仰がねば動けない軍勢ではなく、それぞれが軍人としての高い判断力を有してもいる。牛金は白騎兵百騎にそれぞれ百騎ずつの騎兵を付けることで、変幻に動く百の小隊を作り上げていた。
「くうぅーーーっ! は、離すです、牛金っ!!」
巨漢の牛金に抱えられた陳宮が手足をばたつかせた。いくらか心安い感じがするのは、洛陽でも曹仁に連れ添った牛金とは見知った仲だからだろう。
牛金は本陣に詰めていた陳宮を見事捕えていた。騎馬隊の隊長張遼、重装歩兵の指揮官高順と比べると、軍師の陳宮の不在が呂布軍の戦力に与える当面の影響は小さい。だが呂布に対する揺さ振りと言う意味においては、その二人と同等かあるいはそれ以上の価値を持つだろう。
「貴方が陳宮。こうしてまともに顔を合わせるのは初めてね」
「むむっ、そう言うお前は曹操ですねっ!」
陳宮はやみくもに振り回していた手足を休めると、警戒心も露わに華琳を睨みつける。目をつり上げて威嚇する姿は、よく吠える子犬を思わせた。
「牛金、離してやって良いわ」
「はっ」
牛金が腰に回していた手を離すと、陳宮は存外機敏な動作で地面に降り立った。
「陳宮、貴方に合わせたい人間がいるわ」
「―――ねねちゃん」
幕舎内に座して居並んだ将軍達の中から、月が立ち上がった。
「これは月殿っ。御無事で何よりです。ああ、それに詠もいるのですか」
詠とは陶謙統治下の徐州で会っているはずだが、月と会うのは反董卓連合の戦以来のはずだ。曹操軍に討たれて死んだはずの月を目にしても、陳宮に驚いた様子はない。さすがにかつて陣営を同じくした者達には、賈駆と共に曹操軍に帰順した張繍という文官の正体が月であることなど想像に難くないのだろう。
「あのね、ねねちゃん。ちょっとお願いしたいことがあるの」
「何です? 降れと言う話なら聞きませんよ。それとも、恋殿を降らせろという話ですか?」
「へう」
陳宮がぴしゃりと言い放った。見た目の印象はどうあれ、呂布軍の軍師だけあってこちらの要求を読み取った上で、先回りして跳ね除けている。
「ちょっと、あんたね。少しは月の話を―――」
機先を制されて言葉を失った月に代わって、詠が口を挟んだ。
「うるさいのです、負け軍師」
「―――なっ! ……ふっ、ふふっ。さすが呂布軍筆頭軍師の陳宮殿。こうして虜囚の身となってもまだまだ余裕があるわね」
陳宮を籠絡するという自らの役割に徹しようと、詠は皮肉を交えながらも猫なで声を絞り出した。
呂布は自らの意志で降ることはない。だが、仲間の口から降伏を呼び掛けられたなら案外簡単にそれを受け入れる。それが呂布をよく知る人間に共通した認識だった。
「ええ、ねねはすぐにこんなところは抜け出して、恋殿の戦を盛り立てるのです! 負け犬のうえ飼い主を変えた無節操な誰かとは違うのです!」
「―――っ! なんですって!」
詠と陳宮が、ぎゃーぎゃーと子供の喧嘩の様に騒ぎ出した。
どう見ても詠と陳宮の相性は最悪だった。最初から火の付いたような陳宮の言動に、元来気の長い方ではない詠は容易く引火した。月とはまだしも会話になりそうだが、この様子ではしばらくは聞き耳を持ちそうにない。
「……はぁっ、話にならないわね。あの諸葛亮と鳳統の裏をかいた者だから、もっと理性的な人間を想像していたのだけれど、まったく仁の言う通りの人物ね」
「むむっ、聞き捨てなりませんっ! 曹仁の奴がねねの悪口でも言ったですかっ!」
「とりあえず幕舎を一つ用意させるから、そこに放り込んでおきなさい」
「はっ」
矛先をこちらへ向けた陳宮を無視して、華琳は牛金へ命じた。短く返した牛金は、再び陳宮を小脇に抱えた。
「ちょっ、ちょっと待つです! いったいどんな悪口をっ! ―――!! ――――――!!!」
遠ざかっていく罵声を耳に、華琳はやれやれと首を振った。
降伏勧告をはねつけるために、敢えて道化を演じた。そんな考えも過ぎったが、耳をすませばいまだ届くわめき声に、華琳は再度かぶりを振った。
「仁が目を覚まさないことには、話にならなそうね」
呂布軍の主だった面々とは、月と詠も陣営を同じくした味方同士ではあったが、起居を共にした曹仁ほど気が置けない関係ではない。当時の状況によっては、曹仁は今も呂布の側に立って戦をしていたかもしれないのだ。
呂布に敗れたその曹仁であるが、命に別状はない。
白騎兵の騎手に背負われての帰還で、本当なら捕虜に取られているところである。本陣の陥落を目にした呂布が風の如く駆け去ったため事なきを得ていた。
頭を強く打って意識を失っているが、怪我らしい怪我も無かった。ただ酷使し続けた両の腕は、しばらくは箸を持つにも不自由することになるだろう。
曹仁は、約束通り四刻の時間を稼ぎ出していた。
「張遼は?」
「こちらも、駄目そうです。……姉者の方も」
秋蘭が眉根を寄せ、ため息交じりに言った。
春蘭隊もまた張遼を捕えていた。
張遼は春蘭と何度となくぶつかり合いを繰り返し、最後には一騎打ちにも近い形で剣を交わしている。両者疲労困憊のところを兵に囲まれての捕縛となった。呂布軍の本陣陥落直後のことで、放っておけば仕切り直しに退かれていただろう。張遼の馬術は曹仁や呂布にも劣るものではない。一度後退に徹せられれば、捕らえるのは至難の業だ。秋蘭が兵を動かしたのは、絶妙の機を捉えたと言える。
その秋蘭の判断に間違いはなかったが、勝負の邪魔をされたと、張遼だけでなく春蘭までが臍を曲げて話を聞こうとしなかった。秋蘭自身も武人の誇りをないがしろにする者ではないから、姉の態度に心を痛めているのだろう。
「そちらもあの子の回復待ちね。春蘭とは後で私が話しましょう」
「はっ」
秋蘭はいくらか晴れた表情で直立した。
呂布軍は五里ほどの距離を取って、陣容の立て直しを図っている。今日の戦はここまでだった。
華琳は常以上の夜襲の備えを厳命すると、床几から腰を上げた。ひとまず春蘭は後回しに、負けて帰った本日の功労者の顔をもう一度覗くつもりだった。
「邪魔するわよ」
一応、声だけ掛けて幕舎へ足を踏み入れた。
曹仁のために急遽張られた小さな幕舎である。他の将軍は専用の幕舎を常備しているが、騎馬隊の曹仁は本陣に留まることが少ない。普段は自ら好んで兵馬にまぎれ、夜露に濡れて寝るらしい。
幕舎内は、人ひとりが横になればあとはわずかな空間を残すのみだ。先客の蘭々の横に、華琳は膝を丸めて腰を下ろした。
「変わりないわね?」
「はい。ただ少し前に一度目を覚まして、数語話しました」
問いかけに蘭々が返した。
「ちゃんと意味は取れた?」
「ええ、しっかりと会話になりました。呂布と陳宮のことを聞かれたので、呂布が一端退いたことと、陳宮を捕えたことを話しました。少しですが水も飲んでいます」
「そう」
華琳は安堵の吐息を漏らした。それなら、本当に極度の疲労から寝入っているだけだろう。
軍医からはいずれ目覚めると聞かされてはいたが、頭を強く打っている。そのまま意識が戻らずに死んでいく者を、華琳は戦場で何度か目にしていた。
「まったく、この子は心配ばかりかける」
曹仁の頬を指で軽くつつきながら、華琳は言った。顔に擦り傷があるのは、意識を失って落馬した時のものだろうか。
これまで一ヶ月近く戦い続けた相手を、わずか四刻の間に捕えるというのは土台が無謀な話だった。
曹仁と呂布、春蘭と張遼、牛金の騎馬隊と敵本陣。それぞれが見事にかみ合うことで生まれた、大き過ぎるほどの戦果だった。一騎打ちで呂布を足止めするという不可能を為すことで、曹仁がその起点を作ったのは間違いない。
「戦には、これで勝てる。あとは―――」
呂布達をも守るという、曹仁の願いが叶うかどうかは、本人次第だった。
「早く目覚めなさいよ」
華琳はもう一度曹仁の頬をつついた。
夜明けとともに、高順は目を開いた。
ここに来ての夜襲の可能性は低い。曹操軍騎馬隊の指揮官である曹仁も戦える状況にないはずだ。朝日が昇るまでは無理にも目を閉ざし体を休めた。
陣中を見回ると、寝付けないでいたのか、そこかしこから兵の囁き声が聞こえる。それも当然で、呂布軍を名乗って以来、この軍がこうまではっきりと戦場で後れを取ったのは初めてのことだった。
本陣に音々音がいたのは、不運としか言いようがない。普段は糧道の確保や兵糧の調達、加えて本拠荊州の内政までを一挙に担い、各所を移動して回っている。本陣に留まるのは、三日に一度というところだろう。
加えて、霞までも捕えられていた。
曹仁の奮戦が、曹操軍に運を引き寄せたのか。恋を相手に、これまであれだけの長時間戦えた者はいない。霞や、劉備軍の関羽でも不可能だろう。
曹仁の突きを受けた恋の左肩は腫れ上がってしまっていて、少し動かすにも痛みが走る様子である。骨に異常はなくただの打ち身だから、しばらく動かさずにいれば痛みは引くだろう。元より恋の利き腕は右で、方天画戟も片手で振り回すことが殆どだ。股の締め付けだけで馬も扱えるし、戦闘そのものにはまるで支障はないという。
―――降るべきだ。
それでもそんな考えが、ちらと高順の脳裏に浮かんだ。
戦場において、恋が車軸ならば霞と高順が両輪だった。どれか一つが欠けても立ち行かなくなることは目に見えている。
退くではなく降るという道が頭に浮かんだのは、音々音も捕えられたためだ。呂布軍の政を一手に担っていたのが音々音で、放浪の末に領土を得て日が浅いこともあって、後に続く文官もほとんど育っていない。音々音がいなければ呂布軍は失った戦力の回復もままならないのだった。
曹操軍には曹仁がいるし、そうでなくても降将に寛大と聞く。名を変えた董卓や賈駆が重用されているし、黒山賊の張燕は眼前の戦場の一角を担っている。居候の劉備軍も下にも置かない扱いを受けているという。噂では、あの黄巾の乱の首謀者を囲っているという話まであった。
自分が降りたいと一言口に出せば、恋は理由も聞かずに了承する。音々音がいれば彼女の意見も聞くだろうし、霞が声高に反対すれば逡巡もするだろう。その二人が今はいない。それは、高順が決定を降さねばならないということだった。
曹操軍に二人の身柄を質に降伏を迫る様子は見られない。あくまで戦の構えだ。いっそ、人質として使ってくれれば。そんな思いすら高順の心の内には浮かんだ。
かつて洛陽でそうであったように、曹仁と一緒に平穏な暮らしを送れるかもしれない。それは高順の人生の中で、最も幸せなひと時と言って良かった。乱世は皇甫嵩を奪っていったが、今なら他の全てを守ることが出来る。
考えがまとまらぬうちに、戦の準備だけは進んでいく。こちらはもう考えるまでもなく、適切な指示が口を付いて出た。
「―――行く」
恋が小さく呟き、馬を進めた。小さいが、かつてない程に闘気が込められた声だ。
この恋を、止められる者などいるのか。そう思えば、降伏という考えは萎んでいく。恋の天下という夢が高順の中でむくむくと膨れ上がるのだった。
霞の率いていた一万騎は、赤備えの後方に付いている。そして恋が、赤備えの先頭に馬を寄せた。
全軍で進軍し、戦の間合いに入ったところで足を止める。
曹操軍は中央に夏侯惇隊、その前衛に張燕隊、両翼に楽進隊と于禁隊が並んでいる。騎馬隊は五千の二隊が両翼よりさらに外に配置されている。曹の牙門旗が翻る本陣の位置は不動で、今は夏侯惇隊がそのすぐ前方に陣を布いている。
霞を捕えたことで強気の攻めに転じるかと思えば、布陣は受けの構えだった。
恋が方天画戟を天にかざした。戦場の全ての視線が、そこに集まるのを感じた。誰もが、恋が次に動く瞬間が戦闘開始の合図と見定めている。
方天画戟がおもむろに振り降ろされた。切っ先の向かう先へ、必然戦場の視線が動く。曹の牙門旗。
「――――っっ!!」
恋の言葉にならない咆哮に、兵の鬨が重なった。
赤備えが動き始める。当然、先頭には恋。方天画戟が指した先へと、曹操軍本陣へと、真っ直ぐに駆けていく。
本陣前には、張燕隊と夏侯惇隊が並んでいる。意に介さず、踊り込んでいく。曹操軍本陣には、紫地に黒文字の曹の牙門旗が変わらず棚引いている。
一月近くの間、互いにその身を斬り刻むような戦を繰り広げてきた。ぶつかり合いを重ねる中で、敵の思考はおおよそ掴めてくるものだ。夏侯惇や張燕が状況に応じてどの様な用兵をするか、ある程度の見当は付く。
そんな中にあって曹操軍の本隊だけは一度崩されてからは本陣に籠もって、戦場に出て来ていない。唯一の例外が赤備えに犠牲を出したぶつかり合いの時だけだ。
曹操が何を考えているのか、読み切れない。ただ、御身大事の用兵なのか。
一万騎の突撃は、張燕隊を蹴散らし、春蘭隊の中程まで到達したところで勢いを失った。下がる騎馬隊に代わって、高順の重装歩兵が前に出た。重装歩兵はすでに八千を切っているが、四万近い兵力を有する春蘭隊を相手に一歩も引かぬ力押しを展開して見せた。
「曹仁はまだ目覚めそうにない?」
「まだぐっすりなのですよ~」
風が眠気を誘うのんびりとした口調で言った。風のそれがうつったのではないか。一瞬、そんな馬鹿げた想像が浮かんだ。実戦が始まって手すきとなったとはいえ、風と稟の軍師二人に様子を見に行かせたことを華琳は軽く後悔した。
「軍医によると、今起きられずにいるのは疲労の蓄積によるもので、やはり命の心配はないようですが」
「ええ、わかっているわ」
稟の言葉に、華琳は首肯した。
言ってしまえば、単に疲れ果てて眠りこけているだけなのだ。今朝幕舎を覗いた際には、昨日の段階では熱を帯びるだけだった 両腕が、皮膚の下で血の管が破れて全体が青黒く変色し、一回りも大きく膨れ腫れ上がっていた。あの腕を思い起こせば、過労で起きられないのは当然と言う気もする。
一応頭を打ってもいるのだからと、叩き起こそうとする春蘭を華琳は制止していた。その後、代わりに手ずから冷水を顔に浴びせ掛けたが、曹仁に反応はなかった。今は従者の陳矯を側に付けて、目を覚ましたらすぐに知らせるよう命じていた。眠り続けるだけで回復するならば、いくらでも寝かせてやればいい。
ただ、問題は曹仁にさせるはずだった張遼と陳宮の説得役だ。
張遼は昨日からだんまりを決め込んでいて、何を言っても耳を貸そうとしない。
陳宮の方は詠がいると口喧嘩にしかならないため、今朝からは月が一人で粘り強く会話を試みている。月の人柄と、かつての上官だけあって邪見にはされないながらも、色よい返事は望めそうもない。軍師という立場にありながら陳宮には呂布という一個人の武を盲信するようなところがあって、張遼を失った今の戦況にも大した危機を感じていないらしい。
戦場に視線を戻した華琳は、春蘭隊の左右に並んだ両翼―――凪隊と沙和隊を前進させた。同時に、高順隊の背後で、騎馬隊に散らされた張燕隊が形を成す。重装歩兵は、四方から攻撃を受ける状況となった。
呂布の騎馬隊が援護に向かう度、春蘭隊を除く三隊は兵を散らすことで難を逃れた。その都度いくらかの犠牲は出るが、傷が深刻なものとなる前に曹操軍の騎馬隊が呂布の背後を突いた。牛金の騎馬隊はやはり小隊に分かれた運用で、反撃に転じる呂布に狙いを定まらせない。
張遼を失った呂布軍の騎兵の動きは、やはり単調だった。
張遼隊の一万騎は、今は赤兎隊に付随して動いている。先制の突撃では張燕隊を粉砕し、春蘭隊の半ばまでを駆け抜けたところで勢いを失い、引き返している。
赤兎隊のみならば、そのまま本陣まで届いたかもしれない。後に続く一万騎が歩兵に受け止められることで、赤兎隊の突進力までが削がれている。わずか二百騎であることも、赤兎隊の強みの一つなのだ。牛金の騎兵の小隊も、赤兎隊だけで動かれれば一つ、また一つと壊滅され、やがて力を失うだろう。一撃の重みを増した分だけ、切れ味を失ったのが今の呂布軍の騎馬隊だった。
騎馬隊全軍を呂布が指揮することで、常に彼女と共にある赤兎隊も駆け続けだった。苛烈な突撃に十分な休息を挟んでいた赤兎隊が、今日は一度も足を休めていない。どこかで無理が出るはずだ。
高順の重装歩兵は四方、あるいは騎馬隊の援護によって三方からの攻撃に常に曝されながらも、よく耐えていた。思えば、この戦が始まってからこれまで、一度も隙というものを見せていないのは高順隊だけではないのか。本陣の潰走、各隊の一時的な敗走など、曹操軍は幾度も負けを積み重ねてきた。呂布も一度は赤兎隊を危険に晒し、昨日は動くことも出来なかった。張遼は遂に捕えられるに至った。袁術隊は言わずもがなだ。高順隊だけが、一度も無様な姿を晒していない。
高順隊がじりじりと後退する。背後を取る張燕隊を押し込み、左右に付く凪隊と沙和隊を引きずる様に動く。歩兵の全てを、引き受けようというのだろう。春蘭隊には深追いさせずに、逆に後退して本陣に密着するよう指示した。それでも、それぞれにいくらか数を減らしているとはいえ張燕隊一万五千に、凪隊沙和隊が一万ずつの合わせて三万五千だ。八千で凌ぎ切れるものではない。重装歩兵の円陣中央の空白部分が、ほんの少しずつ広がっていく。敵に面する外周の兵が倒れる度、内から兵がせり上がっていくためだ。
動かずにいた呂布軍本隊の兵が前進した。練度は劣るが兵力は二万数千を数え、変わらず袁旗を―――昨日の本陣陥落から袁術は逃げ遂せた―――掲げている。背後を取られた張燕隊が大きく崩れた。牛金率いる騎馬隊が、そこへ介入する。
この瞬間、呂布の騎馬隊が完全な自由となった。曹操軍本陣前には春蘭隊四万が備えるだけで、背後を脅かしかねない騎馬隊もない。
何か感ずるものがあったのか、春蘭と秋蘭が、旗下の精鋭だけを引き連れて本陣に姿を現した。
歩兵の指揮は、下に付けた部将の韓浩に委ねて来たらしい。今、春蘭隊に求められることは、ただ襲い来る騎馬隊の迎撃である。地味だが堅実な用兵をする韓浩に任せる分には、過ちは起こり得ない。
赤兎隊が呂布を先頭にして駆けた。先刻とは違い、一万騎が一丸となっての進軍ではない。赤兎隊が脚力に任せて突出した。
「―――これは」
隣に馬を付けた春蘭が、感嘆と畏怖が入り混じった呟きを漏らした。これまでにない程に、赤兎隊から武威が立ち昇っている。
「呂布は部下のために戦う、か」
曹仁の言葉が思い起こされた。であるならば陳宮と張遼が囚われの身となったこの戦場こそが、呂布の力が最も発揮される瞬間とは言えないか。
赤兎隊が、春蘭隊にぶつかった。韓浩の用兵に一つの誤りもないが、勝負は一瞬で決まった。血飛沫をあげて、本陣手前まで春蘭隊が蹂躙される。
赤兎隊が反転し、入れ違いに踏み分けられた道へ一万騎が乗り込んだ。本陣手前、馬防柵に騎兵が取り付いた。縄をかけ、引き倒しに掛かっている。張遼を失った騎馬隊もまた士気がいや増していた。犠牲をまったく恐れてはいない。馬防柵を倒し、赤兎隊の作り上げた道を確保するために、騎兵の苦手とする歩兵との乱戦を全く厭わない。
曹の牙門旗正面の馬防柵が次々に倒されていく。
馬防柵への対策として縄をかけて引くという手は常道の一つだ。普通は本陣前に歩兵が陣取り時を掛けて引き抜くものだが、数十頭の馬で一つ所に集中することで、一息に崩されていた。元々柵を二重にした分だけ、外からは縄をかけやすく、内からはそれを払い難くなってもいた。
しかし歩兵をかき分け、馬防柵を引き抜いた騎馬隊は春蘭隊の中で押し潰されようとしている。混戦に近いから、騎乗の強みも活きてこない。
「―――! ――――!! ―――!」
敵騎兵が、誰からともなく喚声を上げた。張遼の名を叫ぶ者もあれば、呂布軍の精強を謳う者もある。
華琳の背筋にぞくりと悪寒が走った。それは予想していた通りのものだ。
最後の力とばかり、騎馬隊が春蘭隊を押し退けた。華琳へ向けての真っ直ぐな道が開かれる。あとは、本隊を残すのみだ。
赤兎隊。本陣目掛けて駆けてくる。
横合いから伸ばされた戟が数騎を引き落すも、赤兎隊の動きが鈍りはしなかった。呂布の目には本陣以外は見えていないのか。呂布がそれしか見ないというのなら、当然赤兎隊の兵も同じ視線を持つ。
騎兵の押し開いた道に綻ぶが生まれた。春蘭隊が殺到して襲いかかる。そこでさらに十騎近くを失い、歩兵を突き抜けながらも数騎は馬だけとなった。
主を失い馬だけになっても、全ての馬が呂布に従い駆け続けていた。走り抜ける悍馬は、それだけで脅威である。赤兎隊はほとんど足を落とすことなく、春蘭隊の中央を抜き、決壊した馬防柵の孔から本陣へと踏み込んだ。
本隊第一段にぶつかってなお足はまったく鈍ることが無い。呂布の目にあるものは、曹の牙門旗だけのようだ。内側から馬防柵の綻びを広げるなどということもせず、ただただ華琳の元へと駆ける。
本陣付きの第二段の歩兵には、すでに槍の穂先を並べさせていた。第一段を一番に抜け出た呂布が駆け、すぐに赤兎隊も続く―――。
直後、赤兎隊の姿が華琳の視界から次々と消えていった。
広めにとった第一段と第二段の間に、溝を掘らせていた。その上に薄い木の板で蓋をして、土を乗せて他の場所と変わらぬように偽造した。
華琳が最後に用意した策は、落とし穴という古典的な手法であった。落とし穴はこれ以前にも何度か試していたが、一度として呂布がそこに踏み込むことはなかった。
真桜へ命じた馬防柵の工夫は、跳び越え難く、それでいて引き倒しやすいというものであった。こちらの対策を逆手にとって攻略を果たしたという達成感の影に、落とし穴と言う単純な手を隠した。本陣内で、それでなくとも万全の備えをさせた待ち伏せの歩兵を置いたうえで、である。歩兵の陣形に注意の大半を向けていた赤兎隊はきれいに陥穽に嵌っていた。
「籠もった甲斐があったわね」
長い戦の間華琳がずっと本陣に留まり続けたのは、全てがこの一手のためだった。本隊が動けば動いた分だけ、溝を避ける動きを見せることとなる。
本陣に居座っての軍配を振るう総大将の戦も嫌いではないが、元々華琳は自ら戦場を駆け回るのを好む人間だ。そのために作った旗本の精鋭が虎豹騎である。戦に出たい衝動にじっと耐え、異常なほどに勘の鋭い呂布を相手に誘い過ぎることもなく、ただ自然な流れの中で本陣へ攻め込まれる瞬間に備え続けた。そこまでしてなお、呂布は不穏な空気を感じ取ったのか、本陣への攻撃をこれまで躊躇し続けていた。陳宮と張遼が捕えられるに至って、遂に奪還のための突入を決意したのだろう。
真桜の合流以降、穴の底には細工を施していた。鉄鎖で作られた網が張られていて、脚を取られれば馬は仮に無傷でも抜け出すことは出来ない。直前で留まれた者は十数騎だけで、それもすぐに第一段の歩兵へ取り込まれていく。戦場から、完全に赤兎隊は姿を消した。
先頭を駆けていた呂布を襲った衝撃は、中でも最大であろう。馬から投げ出され、溝のこちら側まで跳ばされて、地面に身を伏せている。
倒れたままの呂布に兵が詰め寄った。直後、爆ぜるように兵であったものの残骸が舞い散る。方天画戟を旋回させて、呂布が跳ね起きた。
「降伏しなさい、呂布」
華琳は呂布へ呼ばわった。二人の間は、五千の歩兵の陣に隔てられている。華琳の後ろには一千騎の騎兵が控え、溝を隔てた呂布の背後にも歩兵が五千。どこにも逃げ場は残されていない。
「それは、恋が決めることじゃない。ねねとこーじゅんが決めること」
呟く様に言う呂布の返答が、聞き取れないわけではなかった。それでも一瞬、何を言われているのか華琳には理解出来なかった。
―――天下を望んでいるのは呂布ではなく、陳宮と高順の二人だろう。
曹仁の言葉が思い起こされる。初めて華琳は実感した。確かに呂布は天下に野心などなく、ただ陳宮や高順の願いを叶える為にこそ戦っているのだ。
呂布が華琳を目掛けて、駆け出した。五千に隔てられてなお、向けられたその武威はびりびりと華琳の肌を刺す。
臣下の願いを叶える為に、主君である呂布が命懸けで戟を振るっている。それはどこか滑稽でありながら、華琳の胸を締め付けるほどに切なくもあった。
瞬く間に呂布は無数の屍を積み重ねていった。呂布との戦に、感傷を持ち込む余地などない。一瞬でも隙を見せれば、あの方天画戟は喉元に迫ってくる。
「―――遠巻きにして矢を射かけなさい」
命じると、秋蘭が旗下を動かした。調練に訓練を重ねた精鋭の弓兵である。
まず秋蘭が立て続けに強弓―――餓狼爪を引く。弓勢凄まじく、連続して射込まれる矢を呂布は容易く払い除けた。
殺到していた歩兵が、それを合図と距離を取った。ほんの一瞬、呂布の方天画戟の切っ先がさまよう。
「放てっ」
秋蘭の号令で、たった一人へ向けて数百の矢が飛んだ。呂布が戟を旋回させてそれを打ち払っていく。その間に歩兵は楯を並べてさらにじりじりと後退する。一人取り残された呂布に、さらに矢が注いだ。
降り注ぐ矢の幕が、一時薄れた。斉射と斉射の狭間に生まれる、有るか無きかの間隙。四足歩行の獣のように呂布が低く駆け出した。その右肩の付け根に、矢が一本突き立つ。他の矢を置き去りにして奔ったその矢は、秋蘭の放ったものであろう。
「止まらない、か」
誰かが呟いた。蘭々か春蘭か。あるいは華琳自身だったかもしれない。
利き腕に矢を受けてなお、呂布は足を休めず駆け続け、楯を並べた歩兵の中に没入した。昨日の戦いで負傷しているはずの左手に持ち替えられた方天画戟の勢いは、まるで衰えてはいない。
矢を射かけられることを避けるためか、兵の中をしきりに動き回って、たった一人で混戦の状況を作り出している。ただ、それは普通に戦うよりもずっと消耗は激しいはずだった。そうして戦って、五千の歩兵の陣を突破し、華琳の首を討とうと本気で考えているのか。
「――――――――っっっ!!!」
呂布が吼えた。それは人の声というよりは獣の吼え声に近い、まさに咆哮だ。
「――――抜けた」
今度の呟きは、はっきり華琳の口から洩れた。五千の陣を、呂布が抜け出た。五百近くも一人で斬り伏せている。残すところは春蘭の旗下と虎豹騎、虎士の精鋭に、一千騎の騎兵のみだ。
「このまま迎え撃つ」
背後の一千騎は動かさずに、そのまま春蘭の旗下に周囲を固めさせた。華琳の前に季衣と流流が馬を並べる。左右には、春蘭と秋蘭の姿もあった。
「来なさい、呂布。こうまでしてなお貴方の切っ先が私の首に届くというのなら、端から天下は貴方に帰すべきものだと、素直に負けを認めましょう」
春蘭旗下の精鋭の只中へと、一瞬の躊躇もなく呂布が飛び込んだ。
兵の断末魔の叫びや肉を穿つ音ばかりが目立った先刻までとは違い、武器と武器を打ち合わせるかん高い金属音が戦場に響く。疲労を重ねた上に精鋭相手では、如何に呂布と言えども苦戦は免れようもない。
季衣と流流が息の合った動作で同時に振り被ると、混戦の只中目掛けて二つの超重量を投げ放った。半歩跳び退いた呂布の足元に、鉄球と円盤が突き刺さる。勢いのついた鉄の塊は、一抱えもある岩をも容易く粉砕してのける。巻き上がった土砂が、呂布の全身を打った。
秋蘭の矢が再び奔る。呂布は視界を塞がれなお、方天画戟でそれを払い落とした。そこに秋蘭が矢を放つと同時に馬を駆け出していた春蘭が迫る。
方天画戟がゆっくりと大きな弧を描いて宙を舞い、地面に突き立った。柄には、切り離された左手首が残されている。
戦場に、時が止まったような静寂が訪れた。
春蘭と呂布が馳せ違う瞬間。華琳の目には、呂布の方天画戟の動きが一瞬鈍ったように見えた。その一瞬がなければ、馬ごと春蘭は両断されていたのかもしれない。この期に及んでなお、無垢な命を奪うことに躊躇いがあった。馬鹿馬鹿しい話だが、そうとしか思えない。
ゆっくりと、呂布がくずおれていく。誰もが、戦の終結を感じた瞬間だった。地に伏せかけた呂布の身体が、弾かれたように動いた。
「――――華琳さまっ!!」
真っ先に声を上げたのは春蘭だった。
矢の突き立ったままの右腕で、方天画戟を拾い上げ、春蘭が馬で駆け抜けた道を来る。行き付く先は、当然華琳だった。
虎士の面々が、呂布と華琳の間に割って入ろうとする。振り切るように華琳は前に出た。手には大鎌絶を携えている。
呂布が、方天画戟を振り被った。華琳の脳裏で、汜水関で呂布と交錯した記憶が蘇る。
両腕に、さして強くもない衝撃が走った。
以前は刃と刃が軽く触れただけで半身を打ち砕かれた一撃を、今度は真正面から絶で受け止めていた。呂布の全身からふっと力が抜けて、膝から崩れ落ちていく。
負傷し、疲労の際で振られた一撃で、そこに何の不思議もない。当然の結果だったが、華琳の胸には大事を為したという充実感が満ちた。
眼下で、虎士達が呂布の身体に取り付き、押さえつけている。