「ねね、こーじゅん」
「ううっ、恋殿~~っ」
「…………恋さん」
利き腕の右肩には矢傷を負い、左は手首から先を失った天下無双は、それでも陳宮と高順に引き合わせると屈託なく顔をほころばせた。逆に陳宮と高順の方が、苦悶の表情で膝を折った。
呂布は曹操軍の軍医による治療を受け、右肩と左手首には厳重に包帯を巻かれている。傷と言えるようなものはそれだけで、他には馬から投げ出された際にできた小さな擦り傷と、曹仁から受けた左肩の打ち身があるだけだという。それは五千の歩兵と春蘭旗下の精鋭を一人突破しながら、秋蘭の矢と春蘭の大剣以外からは手傷一つ負わなかったという驚愕の事実を意味していた。
「感動の御対面を邪魔して悪いのだけれど、貴方達の今後について話したいわ」
呂布の捕縛、そして負傷を知った陳宮が華琳に帰順を願い出たのと、高順が自ら使者となって曹操軍本陣に降伏を申し出たのは、ほとんど時を同じくしていた。
曹操軍の諸将が緊張感を持って見守る中、華琳の眼前に引き出された呂布にもう暴れる気配はなかった。二人の投降をあらかじめ聞かされていたからだろう。
戦を終えて最初の、各将各軍師が集まっての軍議である。
「――――っ。ね、ねねはどうなっても構わないのです、だから恋殿だけはっ! ―――そ、そうだっ、曹仁のやつはっ!?」
「……ねね」
「まだ気絶したままなのですかっ!? ああもうっ、肝心なところで役に立たないっ。――――っ!!」
「……ねね、落ち着く」
「ううっ、は、はいなのです」
興奮して捲し立てる陳宮の頭に、呂布が額を落とした。両腕が使えないから頭突きなのだろう。たいして力を込めた動きとも見えなかったが、鈍い音は華琳の耳まで届き、陳宮は足元をふらつかせている。
「―――だいじょうぶ。そーそー、ひどいことしない」
陳宮と高順を背後に守る様に立ちはだかると、じっと華琳の目を見て呂布が言った。
「まあ、そうね。酷い事をするつもりなら、縄も打たずに眼前に引き出したりはしないわ。呂布に暴れられたら、危ないのはこっちだもの。―――それにしても、貴方達の処遇については、困っているのよ」
嘆息交じりに華琳は告げた。
「陳宮、貴方は呂布以外の人間のためにその知謀を輝かせるつもりがあるか?」
陳宮は考え込むように小首を傾げた。明確な答えを求めての問いではない。返答を待たずに、華琳は次の質問へと移った。
「高順、貴方は呂布のいない戦場で槍を振るい、兵を奮い立たせる気があるか?」
高順がわずかに顔の表情を動かした。
「最後に呂布、貴方は陳宮と高順に仰がれることなく、これからも天下無双の飛将軍であり続けることが出来るか?」
呂布は真っ直ぐにこちらを見つめて来る。何を考えているのか、華琳にその心中をうかがい知ることは出来そうにない。
呂布と高順、陳宮を旗下に取り込む考えを、華琳はすでに放棄していた。
かつて成り行きで董卓軍に参加し、連合軍を窮地に追い込んだ呂布はもういない。今の呂布は陳宮と高順に大将と仰がれてこそ、その真価を発揮し得る人間と思えた。陳宮と高順もまた、呂布を頂いてこその軍師と将だった。
それでも軍に組み込んでしまえば、三人とも並みの武将、並みの軍師以上の働きはするだろう。傷さえ癒えれば隻腕の呂布の武は、なおも春蘭や愛紗を凌ぐかもしれない。しかし、それはつまらない未練というものだ。
人材を無為に捨てることは、華琳にとっては許されざる大罪の一つであった。だがその有為の才がくすむと知って手元に引き寄せるのもまた、同じく許容し得ない大罪である。
―――いえ、そうではないわね。
華琳はひとり頭を振った。
そんな理屈を付けるまでもなく、一言で言うならば、毒気を抜かれたのだ。
自分のためでなく部下のために戦うという呂布の在り方は、華琳の人生にはあり得ないものだ。無私無欲からは最も遠い所にあるのが自分であることを、華琳は良く理解している。無私とは自分を顧みない愚かさとも、無欲とは自分を持たない浅はかさとも、蔑む気持ちすらある。
それでも華琳の中に、その愚かしさを美しいと、浅はかさを愛おしいと感じてしまう心もまたあった。高順が見、陳宮が描き、呂布が彩った一つの夢が終わった。美しかったその夢を汚すこともない。
「―――張遼」
呂布達へ具体的な処分を言い渡さぬまま、幕舎の外に控えさせていた張遼を中へ招いた。
誰の説得も取り合わずにいた張遼も剣を交わした春蘭の言葉にだけは一応耳を貸すようで、再戦の約束をさせることでようやく落ち着きを取り戻していた。
「さて、貴方は、―――まだまだ戦い足りないって顔ね」
「……そうやな」
張遼が面白くなさそうな顔で首を縦に振った。
長らく陣営を共にしながら、張遼は呂布の愚かしさからも、陳宮、高順の思い描いた夢からも遠いところにいるようだった。そして張遼の“私”と“欲”の行き着くところが戦であり、武の研鑽にあることは誰の目にも明らかである。
「ならばそのまま、呂布軍の残した騎馬隊を率いなさい。我が軍の敵ではなく、味方として」
「……ええんか? ウチの騎馬隊を、ウチが率いても?」
「貴方が鍛え上げた軍なのでしょう? それが一番力を発揮する。呂布ですら、貴方無しではあの騎馬隊の力を十全には活かしきれなかったわ」
「おーおー、聞いとった通り、アンタ太っ腹やな! ウチが兵を引き連れて離反するとは考えないんか?」
途端、始終不機嫌そうにしていた張遼の表情が花開いた。
「その時は、春蘭との再戦の約束は無しよ。戦場で挑みかかってきても、意地でも受けさせない」
「しばらくは大人しくしとって、夏侯惇との決着を付けてから裏切るかもしれんで?」
「だから勝負は、私が天下を手中に収めてからになさい。再戦の期日は、決めていなかったはずでしょう?」
「ははっ、それはずっこいな。ずっこいけど、その言い様、気に入ったわ。アンタが天下を手にするまで、アンタ―――曹操様の下で働かせてもらうことにするわ」
「華琳で良いわ。私の真名よ。貴方ほどの武人に真名を預け共に戦えること、誇りに思うわ」
「ならウチも霞や。よろしゅうお願いします、華琳様。夏侯惇も、しばらくは味方としてよろしゅう頼むわ」
「春蘭だ」
そのまま、霞はその場にいる何人かと真名を交換した。
見たままのさっぱりとした性格で、あれだけ不信を抱いていた秋蘭にも真名を許している。あの状況の用兵はあれで正解だったと、むしろこれまでの不躾な態度を謝罪していた。霞は武辺一辺倒の武人ではなく、将として戦の大局を見る目も備えている。
「そうだ、霞。赤兎隊―――あの赤備えの一団も、今後は貴方が率いるということでいいのかしら?」
「そら、無理ですわ。ウチには、というか恋以外の他の誰にも、あないなもんは扱えやしません。そもそも乗っとる兵も満足に馬を御せんし」
赤兎隊の騎兵は、精鋭どころか霞の課した騎兵の調練から脱落した者達だという。馬術や馬の扱い自体に最低限の問題はないが、気が弱く戦場に耐えられないような兵ばかりであった。馬はその逆で、暴れ回るばかりの悍馬揃いである。馬の精神を逆撫でしない柔和な性質が良かったのか、弱兵は満足に乗りこなせもしない荒馬にまたがって、呂布に率いられることで初めて戦場に立つことが出来た。どころか、呂布軍きっての精鋭と呼ばれるまでになった。
だが、それも呂布が先頭に立ってこそのものであると霞は言う。呂布の指揮無しでは、弱兵は弱兵に、悍馬は悍馬に戻るだけだった。
「仁も、そんなようなことを言っていたわね。―――わかったわ。呂布、あの汗血馬達は、牧に入れるなり、野に帰すなり、好きになさい。今、傷を負った馬には治療を受けさせているわ」
「……んっ」
水を向けると、呂布は小さく首を縦に振った。
落とし穴に嵌った赤兎隊の馬の負傷は、想定よりも軽微だった。捕えて離さぬために設置した鉄鎖の網が、落下の衝撃を直接脚に伝えることなく絡めとる役をも果たしたらしい。
「さてと、―――袁術と張勲をここへ!」
「…………ちょっと、そんなに引っ張らないでください、痛いじゃないですかっ」
外へ向けて声を放つと、段々と騒がしい声が近付いて来て、兵に引き立てられた二人が姿を現した。
といっても、ぞんざいな扱いに抗議の声を上げるのは専ら張勲で、傍らで真っ先に泣き言を口にしそうな袁術は大人しく従っている。呂布が片腕を失ったことをずっと気に病んでいるらしい。幕舎内で包帯を巻いた呂布の姿を目にするや、袁術は色を失って立ち尽くした。
袁術がこんな調子であるから、降伏ともなれば真っ先に逃げ出しそうな二人を確保するのも容易いことだった。
「さて、袁術。そして張勲。捕虜がようやく口を開いたわ。この戦、裏で絵を描いていたのは貴方達ね」
二人を地べたに座らせると―――床几は用意させなかった―――華琳は、冷たい口調で言った。
今回の戦の原因となった呂布軍による領土侵犯。呂布軍の主張するところによれば、曹操軍による守兵襲撃。これに対応した曹仁率いる白騎兵が捕えた捕虜数十人が、数日前に口を割ったと桂花から報告が入っていた。
高順の重装歩兵や霞の騎馬隊と比べると明らかに質の落ちるその兵達は、徐州で新たに呂布軍に加わった野盗上がりの新兵で、当時も今も袁術の指揮下にあった。曹操軍の領内に侵攻し、いくつかの村を占拠するに及んだのは全て上からの命令だという。
「なんのことでしょうか~?」
張勲が白々しく聞き返すも、露骨に身を震わせる袁術にすがり付かれた状況では説得力は皆無だった。
「つまらない芝居は良い。大方、麗羽のところから何か言ってきたのでしょう?」
「何を仰るかと思えば。うちのお嬢様と袁紹様は確かに血の繋がりはありますけれど、決して仲が良いというわけでもなく。ねえ、美羽様?」
「う、うむ。そ、そうなのじゃ。麗羽姉様など嫌いなのじゃ」
「―――首を打ちましょうか?」
「―――ひっ!」
ため息交じりに告げると、二人は絶句した。
「別に貴方達の弁明を聞きたくて呼び出したわけではないわ。ただ処分を申し付けるだけよ」
「―――ま、待つのです! 責任があるのは、二人だけではないのです!」
袁術と張勲に代わって、叫ぶように声を上げたのは意外や陳宮だった。
「ね、ねねも、二人の画策に気付いて放置していたのですからっ!」
「……ねね?」
「恋殿の天下を実現するには、曹操殿はいずれぶつからねばならぬ相手なのです。それなら早い段階で―――」
華琳が視線で促すと、陳宮は徐州を根拠としたことで生まれた地理的な問題を挙げた。
曹操軍と連携して袁紹を討ち、互いに領土拡張を続ければ、友好関係を保ったまま呂布軍が手に出来る領土は徐州に加え青州、冀州、幽州の一部ということになろう。手にする領地はいずれも東方に海を抱え、西方には友軍の曹操軍の領土。その後は南進して長江を渡り、揚州の孫策軍と鎬を削るしかない。水軍不在の呂布軍にとって難しい戦が続くだろう。
対して中華の中心地―――中原に陣取る曹操軍は西方に目を転じればいくらでも土地が広がっていた。世に聞こえた武将の姿もほとんどない。西の果ての涼州に馬騰、韓遂といった軍閥がひしめく程度だ。東方を友軍の呂布軍が占めることで後顧の憂いもなく、楽々と曹操軍は勢力を拡張するだろう。
広大な土地を領した曹操軍に、呂布軍は海沿いの小さな領土に押し込められることとなる。呂布の天下を目指す以上、そうなってからでは遅い。
たとえ独力で袁紹軍と対することとなろうとも、それと同等かそれ以上の勢力を築いた曹操軍と戦う未来よりは遥かに増しな話だった。
曹操軍との戦を開始するには、優し過ぎる呂布には踏ん切りが必要だった。その切っ掛けを二人の居候が作ってくれるというのなら、陳宮に乗らない手はなかった。
「……そういうこと。諸葛亮と鳳統の裏をかいたほどの貴方が、膝元で行われた謀略をよくも易々と見逃したものだと思えば」
全てを聞き終え、華琳は率直な感想を口にした。
「張勲だけならともかく、美羽も加わった謀議など探るのは容易いのです」
「うむっ、妾はこーめいせーだいじゃからな!」
袁術が偉そうに胸を反らす。こういうところは麗羽そっくりだった。囃し立てようとした張勲はさすがに立場を慮って口を噤んだ。
「しかし、困ったわね。ここで陳宮も連座させるなんて言えば、呂布がもうひと暴れということになるのでしょう? それは何ともぞっとしない話ね。いえ、それは袁術と張勲だけでも同じことかしら?」
水を向けると、呂布は不思議そうに小首を傾げた。
「そーそー、はじめからそんな気ない」
「……まったく、なんでもお見通しね」
天与の洞察力を前には見え透いた脅しのようだった。
麗羽との関係を考えれば、放免せざるを得ない。呂布軍との戦の傷は深いもので、回復には相応の時間が掛かる。今、袁紹軍に攻め込まれることだけは避けたかった。
麗羽の口から、袁術の名は何度となく耳にしていた。袁術からはあまり親しげな空気は感じられないが、麗羽にとって可愛い従妹であることは間違いない。
「とりあえず、しばらくは牢に放り込んでおくしかないわね。―――二人を連れて行きなさい」
来た時と同じく左右から兵に挟まれる形で、二人は連行されていった。張勲はまだ何か言いたそうにしているが、言い訳以外の言葉が出て来るとも思えない。
「さてと。―――最後に、貴方達三人の処遇だけれど」
保留していた話題を斬り出すと、陳宮の身体が小さく震えた。高順は全てを受け入れる覚悟を決めたのか、伏し目がちの顔に変化は見られない。呂布も表情は変わらない。何を考えているのか分からないが、きっと大抵のことは見通しているのだろう。
ふと、華琳は呂布の驚く顔を見たいという衝動に駆られた。
「曹仁将軍っ、お目覚めですか?」
目を開くと、陳矯が顔を覗きこんできた。
「―――ああ」
すぐには状況が呑み込めず、数瞬の間を置いて取りあえず間違いようのない質問には返答しておく。目は確かに覚めていた。
「……俺は、どれだけ寝ていた?」
「丸一日と一夜です。曹仁将軍が呂布殿と一騎打ちをされたのは、一昨日になります」
幕舎の入り口から洩れ入る光が長く伸びている。朝日が昇ったばかりのようだった。
「戦況は?」
「戦は終わりました。我らの勝利です。呂布殿は捕縛。高順殿も降伏。張遼殿と陳宮殿の身柄も、代わらず抑えております」
「……そうか」
捕縛と降伏という言葉に、曹仁は安堵の息を吐いた。
「―――っ」
「ああっ、無理をなさらないでください。お手伝いします」
「すまんな」
上体を起こそうとして初めて、両腕が鉛のように重く動かせないことに曹仁は気付いた。
陳矯の補助を借りて身体を起こすと、掛けられていた毛布が落ちて両腕が露わとなる。
「―――うおっ」
どす黒く変色した自分の腕に、曹仁の喉から妙な声が漏れた。
「骨などに異常はありません。軍医は、とにかく安静にと」
歯を食いしばって力を入れてみても、両腕はわずかに持ち上がるだけだった。血管も筋の繊維もずたずたに引き千切れたという感じだ。
両腕に限らず全身の筋肉も関節も傷むが、単に疲労が原因のようだ。右の太腿が痺れたように重いが、それは小さく丸まって眠る蘭々に枕にされているためだった。
陳矯と共に看病をしてくれていたのだろう。幕舎内に、虎豹騎の具足が脱ぎ散らかされているのはご愛嬌だ。頭を撫でてやろうとして、やはり動かない両腕に曹仁は諦めた。
「従者に付けたばかりだというのに、お前には情けないところを見せたな」
なおも気遣わしげに曹仁の顔を覗きこむ陳矯に向けて言った。
「と、とんでもありませんっ!! あの呂布を相手に見事な御働き。天人が如し、などと言っても曹仁将軍に限っては褒め言葉にもならないのでしょうが、天上の武、確かに拝見させていただきました」
「天人、ね」
天の御遣いよりは、まだしもしっくりとくる言葉だった。何がしかの使命を帯びた使者という意識はないが、異世界―――そこが天上かどうかはさておき―――の住人であったことは紛れもない事実である。
いずれにせよ、天という一語はこの世界の人間にとってある一定の力を持つ言葉である。実際には時間稼ぎの一手であったわけだが、傍から見る分には天下無双の飛将軍を相手に曹仁が優勢に攻め続けていたと見えなくはない。目端の利く人間なら曹仁の意図までも見抜くだろうが、陳矯は剣を多少使うとはいえ武人というわけではなかった。曹仁のいかさま紛いの奮戦を、陳矯は天という一語で理解したらしい。
「ええ、呂布殿の最後の暴れ振りを見れば、到底常人の抗し得るものではありません。その呂布殿を相手に五分の勝負を演じられた曹仁将軍の武もまた、人の域を超越しております」
「恋の暴れ振りか。それは相当なものだったろう」
「はい。赤兎隊に踏み蹴散らされた者を除いても、呂布殿御一人の戟による被害は実に四百八十人を数えます。古の覇王項羽もかくやあらんという、敵ながらも見事な戦いぶりでした。親衛隊の許褚様、典韋様の攻撃をも凌ぎ、夏侯惇様、夏侯淵様を振り払い、遂には曹操様に武器を取らせたのですから―――」
「―――華琳が武器を取った? 恋を相手に? それで、華琳は無事なのか?」
「え、ええ、もちろん。御主君が手傷を負われたなら、最初にそう申しあげます。ええと、その、と言いますのも、そのときすでに呂布殿は―――」
話を遮って質問を浴びせると、陳矯は躊躇いがちに言葉を選ぶようだった。
日の出と共に目覚めた華琳は、陣内を歩き回った。長らく滞陣を続け、戦の決着の場にもなった本陣だが、それも今日には撤収である。
戦の終結に緊張感が解けたのか、兵は泥のように眠りに落ちている。そんな中でも交代で哨戒に立つ間だけはしっかりとしていて、華琳と行き会うと機敏に直立して見せた。
一回りして本営に戻ると、隣接された小型の幕舎の前に呆けた表情で佇む男の姿があった。
「仁」
「……華琳か」
「ようやく目が覚めたのね。……そう、呂布の負傷のこと、聞いたのね?」
「ああ」
表情から、すぐにそれと知れた。
「私を恨む?」
「まさか。戦のうえのことだろう」
「……それじゃあ、戦が嫌になった?」
「ああ、嫌だな、こんな思いをするのは。春姉は片目を失った。照の奴は死んだし、一人洛陽に残した皇甫嵩将軍の消息は知れない。俺が寝こけている間に、恋は片手を失った」
曹仁が無力感を漂わせる。
「なら、私の元を去る? これから先も、私の覇道の前には麗羽や孫策が立ちはだかるでしょう。いずれも貴方が誼を通じた者たちよ。それに、ひょっとしたら、いつの日か桃香達とだって―――」
「―――俺を天の御遣いとして使え、華琳」
遮る様に曹仁が言った。
それは曹仁が拒絶し続けて来た肩書きだった。華琳の元へ帰って以来互いに触れずにきた、曹仁の持つ最大にして空虚な武器だ。桂花などからはあるものは利用すべきと何度も献策が上がっている。
知らぬ間に得た不確かな称号で呼ばれることに曹仁自身が抗うように、華琳にもそれを利用することに抵抗感があった。
「良いの?」
「戦は嫌だ。でも俺の知らないところで、家族が、友人が、見知った人達が傷付くのはもっと嫌だ。昨日みたいに俺が眠りこけている間に、姉ちゃんや蘭々が危険に曝されると思えば、胸が締め付けられる。春姉や秋姉はもちろんのこと、それが桃香さん達でもだ。―――華琳がと思えば、もう生きた心地もしない」
一息に泣き言を並べると、曹仁は吹っ切れた表情で続けた。
「だったら、さっさと戦の無い世の中を作るしかない。作れるのだろう、華琳なら? そのためだったら戦だってしてやるし、例え実体のない虚名であろうと使う」
「…………前から思っていたのだけれど、貴方、普段女々しい癖に、時々急に男らしい顔をするわね」
「なんだそれは。本気で言ってるんだぞ」
「分かってるわよ。ちょっとは茶化させなさい」
―――私一人だけ別枠で、殊更案じるような言い方をするのだもの。
問い質せば、どうせ主君でもあるからという答えが返ってくるのだろう。眉を顰める曹仁を睨み返して、華琳は改めて口を開いた。
「ええ、貴方がそう言うのなら、私も使うことをもう躊躇わないわ」
曹仁は、口を真一文字に結んでこくりと小さく頷いた。折よく振りそそぐ朝日に照らされて、その姿は神々しく見えなくもない。
「……ええと、―――ああ、そういえば」
何となしに曹仁の顔から目を逸らしながら、華琳は話題を探した。
「呂布達のことだけれど、旗下に加える霞を除いた三名は貴方の預かりとしたわよ」
「俺の?」
そこまでの話はまだ聞いていなかったらしく、曹仁が目を見開いた。
「ええ。……驚くと思ったのだけれど、ただ嬉しそうに微笑まれるとわね。ほんとうに、毒気を抜かれるわ、あの子には」
「?」
「こっちの話よ。―――もし呂布達が我が軍で働く気になったのなら、軍営に連れて来ても良いし、いずれはただ解放しても良い。貴方の好きになさい」
しばらくは監視下に置き、しかるのちに放免というのはあらかじめ決めていたことだ。曹仁の元で、というのは華琳のとっさの思い付きだった。
「そうか。ありがとう、華琳」
「ふんっ、貴方に礼を言われるようなことじゃないわ」
呂布のことで頭を下げる曹仁に、華琳は訳もなく苛立ちを覚えるのだった。
「恋、入ってもいいか?」
「……ん」
小さく返事をすると、幕舎の入り口の布を捲り上げて曹仁が顔を見せた。
曹操から与えられた幕舎内に残っているのは恋だけである。音々音と高順、霞は兵の収容や武装解除に当たっていた。降伏するにも細かな仕事は多々あるらしい。
恋は、負傷を理由に休むように三人から言われていた。手を出したところであまり助けにはなれそうもないので、言われるままに幕舎で休息している。
「えっと、久しぶり」
「……? おとといもあった」
「ああ、そうだったな。まあ、戦場以外のところでは、久しぶりだ」
「んっ」
なんとなく居心地が悪そうに、曹仁が腰を下ろした。
「ええと、……そうだ。三人の今後のことだけれど」
視線を彷徨わせながら、曹仁が切り出した。
「洛陽の皇甫嵩の屋敷ほどではないけれど、陳留と許にはそれなりの広さの家を与えられているんだ。三人にはとりあえず、そのどちらかに住んでもらおうと思う。ずっと放置していたから荒れ放題だとは思うが、高順が片付けるだろう。音々音は文句を付けるだろうから、恋がなだめてくれ。そうだな、これを機会に使用人を何人か雇っても良い。……それから、ええっと」
曹仁は捲し立てるように言葉を並べ、言い終えてなお無理にも言葉を探すようだった。
「……そーじん、なにかあった?」
「―――すまない。恋の腕を」
ようやく恋と視線を合わせると、曹仁は絞り出すように言った。
「……んっ」
気にするなと、小さく頷いて見せてもやはり曹仁の表情は晴れなかった。
本当に、気にする必要はないのだ。片手は失ったが、片方残っていればご飯は食べられる。食事を作る高順は無事だし、一緒に食べるねねも霞も生きている。曹仁の命も奪わずにすんだ。多くの兵が死んだつらい戦だったが、失わずにすんだものも多い。
思いは次々に浮かぶも、どう言葉にすれば曹仁に伝わるか分からない。口下手な自身を呪いつつ考えあぐねていると、馴れない行為に募ったのは空腹感だった。
「おなか減った。……そーじん、ごはん」
考えるのは後にして、とりあえずは久しぶりに曹仁にご飯を作ってもらおう。
曹仁の表情が、何故か少しだけ晴れた。