「賊が出たぞーーっ! 逃げろーっ!」
左右の岩山から、賊がわらわらと駆け下りてくる。口々に叫びながら、逃げる。こちらは馬車が二台に他も全員が騎乗だから、振り切るのは容易かった。それも二里ほど駆けたところで、枯れた倒木に行く手を阻まれた。
「それなりに周到な賊のようだ」
そこがちょうど頃合いと、龐徳は全騎を反転させた。
馬車に積んで置いた槍が降ろされ、次々に手渡されていく。大刀を受けとった龐徳が最前列に進み出たのと、賊が追いついて来たのがほぼ同時だった。
賊は全員が武器を構えていることにぎょっとして足を止めた。その機を逃さず龐徳は馬を進め、大刀を振り回した。三つ、四つと首が飛ぶ。
「―――っ! てっ、抵抗するか! 荷だけ置いていけば命までは取らずにおいたものをっ! 野郎共っ、やっちまえ!!」
賊は気圧されてはいるが、数を恃んで引く気はないようだ。わずか二十人の味方に対して、賊は二百近い。気勢を上げて躍りかかってくる。
狭い道だから、難しい用兵は必要なかった。道を外れれば岩山と砂丘で、容易く背後に回り込まれる心配もない。兵には下馬させて、龐徳を中心に左右に槍を並べて前進させた。林立する穂先に押されて、賊が後退する。そして、唯一槍が途切れた龐徳のところへと賊は集中した。正面から向かってくる敵を龐徳は冷静に斬り下げ続けた。
「―――に、錦の旗!? き、錦馬超だ! 錦馬超が来たぞっ!!」
賊の背後に、砂塵が巻き起こる。その先に見える錦の旗を目にすると、賊は初めて怯えた声を上げた。
「お前らっ、ひとんちを荒らしやがってっ!!」
旗が至るより先に血飛沫が上がり、馬超―――翠の怒声が耳に届いた。突出して、駆けて来たらしい。頭に血が上ると他の者を置き去りに単騎駆けしてしまうのは翠の欠点だが、この程度の賊が相手ならば何の心配もない。血飛沫はさらに盛大に跳ね上がった。
翠は悠々と賊の中心に血路を作り、龐徳の隣に並んだ。反転してもう一当てしようとする翠を制止し、龐徳は代わりに告げた。
「―――この地は馬騰将軍の治める大地である! 我らは将軍より賊徒の討伐を申し付かっている! これなるは馬騰将軍の嫡子馬超将軍! 錦馬超の名は貴様らにも聞こえておろう! 命が惜しくば、得物を捨てて膝を付け!」
錦馬超の武威を目の当たりにした賊は、勧告に従って次々に跪いていく。さらに後方に翠に代わって馬岱―――蒲公英が率いる騎馬隊が詰めかけると、もはや抵抗する意欲を残す者は皆無だった。
西涼は貧しい土地に軍閥がひしめくという状況故、元々賊の類は少なかった。奪うものは限られているし、それに反して討伐に当たる軍勢が多いのだ。賊に落ちるぐらいならば兵に志願する者が大半で、唯一東西に走る街道を運ばれる西域との交易品を目当てとした賊がわずかに見られる程度であった。それが最近は数を増している。迷惑な話で、中原の騒乱から逃れ出た者達が活きる術を失い、状況も知らず遠く西涼の地で賊に落ちている。
賊など物の数ではないが、被害を受けてから動くのも面白い話ではない。最近では調練の一環として、こうして積極的に賊をあぶり出す方法を取っていた。
縄を打たれた賊が、騎兵に追い立てられていく。
「れ、廉士(れんし)。よ、よかったら、この後、一緒に遠乗りにでも行かないかっ? その、あまりに情けない敵で暴れ足りないだろう?」
翠が緊張した面持ちで龐徳の真名を呼ぶ。賊はほとんど翠一人で叩き伏せたようなものだが、言葉通り、戦闘による疲労などいささかも感じてはいないようだ。
「翠様、申し訳ありません。これより藍様のお供を仰せつかっております」
「あ、ああっ、そっ、そうなのか。なら、仕方ないな、うん。母様の護衛、しっかり頼む。じゃ、じゃあな―――」
「……もうっ、廉士兄さんったらつれないんだから」
騎馬隊の元へ駆けていく翠と入れ替わりに、蒲公英がすり寄ってきて言った。
「任務がありますので」
「ほら、その態度がつれない。仕事とお姉様と、どっちが大切なの?」
「それはもちろん翠様ですが」
「ほんとに? お姉様に仕えるのも仕事のうちだって思ってない?」
「馬家に仕える者として、それはもちろんその通りです。ですが任務とはまた別に、翠様のことは大切に思っております。もちろん、蒲公英様のことも」
かれこれ二十年近くも仕えた馬一族は、龐徳にとって単に主家というだけの存在ではない。赤子の頃の翠と蒲公英の世話をしたこともあるのだ。
「ふ~ん。それじゃあ、たんぽぽとお姉様、それに藍伯母様だと誰が一番大切なの?」
「それは、……―――蒲公英様、お戯れが過ぎます」
「うふふっ、は~いっ」
こちらを見上げる蒲公英の瞳が悪戯っぽく揺れているのに気付いて、龐徳はぴしゃりと釘を刺した。蒲公英は反省の色なく愉快そうに笑うと、翠の後を追って兵の元へと馬を走らせる。
屋敷―――馬一族の住居であると同時に、近辺の行政を司る役所でもある―――に戻ると、すでに馬上の人となって待ち受けていた馬騰の姿に、龐徳も慌てて再び騎乗した。
「行くぞ」
「はっ」
軽快に馬を走らせる馬騰の後に龐徳は続いた。
――――また、お痩せになられた。
馬騰―――藍の背を見つめ、龐徳は思わずにはいられなかった。
翠と並べば姉妹と見紛うほどに若々しく、生命力にあふれていたかつての姿はここ数年で鳴りを潜めている。一度大病を患い、完治した今も床に伏せる日が少なくない。頭の後ろで一房にまとめた髪が風に揺れる度、陽光を弾く。まだ四十前だというのに、髪には白いものの方が多いくらいだ。顔つきも肉が削げ、年齢相応のものに変わった。凄惨さが加わったその姿を、以前より美しいという者もあった。龐徳は、以前の健康的で力強い美しさが好きだった。
八歳の時、当時身重であった藍の従者となって以来、ずっと彼女のそばで生きてきた。藍が娘を生み、母として成長していく姿も、夫に先立たれ泣き崩れる姿も、ずっとそばで見てきたのだ。軍人としての才を見初められ、将校としてとり立てられたあとも、心の有り様としては藍の従者であった。西涼の武将としてそこそこに驍名を馳せるようになった今も、その思いは変わりない。
本拠とする城郭を抜けて何もない原野を十里程も駆けると、次第に大地から草の色が減り、乾いた砂地が視界に広がっていく。砂の中に、ぽつんと幕舎が一つ見えた。入り口の横に、男女が一人ずつ並んでいる。
藍が颯爽と馬を跳び下りた。人前で、いくらか無理をしていることが龐徳には分かった。着地の瞬間に鞍に手を預けて、ふらつきかねない身体を支えている。
「藍、よく来たな」
出迎えた女は韓遂だった。藍とは義姉妹の契りを結んでいるから、馴れ馴れしく真名で呼び捨てである。
涼州から雍州にかけて十数の軍閥が点在していて、それぞれが時に協力し合い、時に敵対しを繰り返している。中でも、最も大きな軍閥の頭が藍と韓遂だった。
韓遂も連れているのは従者一人きりだ。もっとも幕舎の周辺には幾人か潜んでいる気配がある。病を得たとはいえかつては西涼第一の武人であった馬騰と、その薫陶を受けて育った龐徳を迎えるのであるから必要な警戒ではある。不快ではあるが藍が気にしない以上、龐徳も口を出しはしなかった。
「こちらへ」
韓遂の従者に促され、藍は幕舎に踏み入り、胡床へ腰を下ろした。龐徳はその背後に控えた。従者は成公英と言う名の若い男で、龐徳が藍に近侍するのと同じく幼少期からずっと韓遂の側近くに従っているから、これまで何度となく顔を合わせている。
「まずは酒を」
韓遂が静かに言うと、成公英が瓢と酒器を三つ持ち出した。まず龐徳に、次いで藍にも酒器を選ばせて、最後の一つを韓遂が取った。
瓢は龐徳に手渡された。龐徳はまず自身の酒器に酒を注ぎ、それを一口含んでから藍、韓遂の順で注いで回った。
酒肴もいくつか並べられ、まずは成公英が、次いで龐徳が箸をつけた。
現状友好関係にあるし、状況を考えれば毒を盛られる可能性は皆無に等しい。単にお決まりの習慣とも言えたし、韓遂を相手にする以上は当然の用心とも言えた。
近くまで来ているから会わないかと、韓遂から藍へ書簡が送られてきたのはつい昨日の話だ。藍が快諾すると、今日にはすべてお膳立てが整った会見の場が用意されていた。韓遂は全てに周到な女だ。
「中原の戦は片が付いたようだ」
それぞれに数杯酒を重ねたところで、韓遂が切り出した。
「ああ、聞き及んでいる」
中原の覇権を賭けた争いが幕を閉じ、勝者は曹操と相成った。
反董卓連合の戦での曹操と呂布、両者を見比べた上で立てた翠の予想では、呂布の勝利であった。戦に関する勘所は藍も舌を巻くほどの翠であるから、龐徳にとっても意外な結末である。袁紹ほどではないにしても、曹操の戦は他に中華で名の知れた将軍達―――劉備や孫策、そして呂布と比べるとまだしも分かりやすい。奇策を重ねるようでいて、より大きなところでは軍学に忠実なのだ。しかしどこかに翠が読み切れないだけの深さがあったのだろう。あるいは、翠の苦手とする狡猾さかもしれない。
「この先、袁紹と曹操の戦は避けようがない。袁紹に勝ってもらいたいものだな」
「そうだな」
韓遂が率直な言い方をすると、藍も首肯した。
中原と河北が統一されれば、もはや天下に抗し得る者の無い大勢力だ。孫策率いる江南、荊州の劉表、益州の劉璋、そして西涼の軍閥と次々と飲み込んでいくだろう。
袁紹なら、大軍をもって制圧するという戦をするだろう。それは涼州の乱に対する官軍のお決まりのやり方だった。離散し、正面切っての衝突を避ける。大軍が疲弊してきたところで、服従を申し入れる。そうして涼州の軍閥は摘み取られることなくこれまで生き長らえてきた。
曹操はそこまで甘くはないという気がする。面従腹背などは許さず、西涼を完全に支配下に入れるだろう。戦のやり方以上に、政からその傾向が伺える。通常より幾分か高い税率や学校と呼ばれる教育機関の設営など、多少の無理を押してでも支配区域全土で画一の政策を推し進めている。
涼州軍を率いて漢王朝を専横した董卓のような、天下に対する強い野心は藍にはない。ただ雍州から涼州の一帯―――西涼は、異民族と混じり中原とは異なる文化を形成した土地である。光武帝股肱の名将である馬援の末裔である藍にも、半分は羌族の血が流れている。漢王朝に対する淡い羨望と敬意と同時に、中原に拠って立つ王朝の支配からは独立していたいという気持ちも根強い。
多くの軍閥が生まれた背景にも、中央から送られてくる領主ではなく、自分たちの手で土地を治めるという思いがある。かつて董卓とその父は朝廷から指名された代官で、涼州人ではあっても裏切り者、よそ者という感じが強かった。
結果、董卓の父は軍閥との争いの中で死んだ。後を継いだ董卓は父以上の慎重さと仁政でもって徐々に西涼の人間の心を解きほぐした。董卓を慕う民の中から独自の兵力が生まれ、いくつかの軍閥をも吸収し、涼州軍として西涼を発し洛陽を支配するに至った。それは見ていて胸がすく思いがしたが、馬騰と韓遂は最後まで董卓の下に入ることを潔しとはしなかった。反董卓連合にも西涼の代表として翠を送り込んだのだ。
「曹操が勝ち西涼へ手を伸ばすなら、我らもいつまでも仲間内で争っている場合ではない。一つにまとまる必要も出てくるだろうな」
「それもそうだろうな」
韓遂の窺うような視線を軽く流すと、馬騰がまた短く肯定した。
中央に対する反発の表れの一つが西涼という土地の括りで、この辺りの住人は涼州とか雍州とか言うよりもこちらの言葉を好んで使う。元からあった涼州の一部を雍州と呼んだり、涼州と雍州を入れ替えたり、中央の気紛れとしか思えない形で土地の名前が変わることがあった。それで住人達は、涼州も雍州もひっくるめて西涼という呼び方をする。その西涼という言葉の範囲も曖昧で、長安以西と考える人間もいれば、長安をも含み潼関―――黄河の流れが南進から東進へと変わる屈曲点。洛陽と長安の中間にある―――までとする人間もいた。
乱立する軍閥は西涼こそを我が天下と定め、普段その中での勢力争いを続けていた。それが、外敵に対する時だけは西涼一丸となって抗するのだ。
そうなった場合、自分を担げと、韓遂は言っているわけではない。自分に担がれろと、言っているのだ。
自身は総大将というような矢面には立たず、第二位の地位にあえて甘んじるのが韓遂のいつもの遣り口だった。必要とあれば大将の首を平気ですげ替えるような真似もするが、空いた席に自ら座ることはない。そうして乱を起こし、潰えた時にはその勢力を自分の元へと組み込む。それも巧妙に、行き場の無い兵を養ってやるという男気を示す形でだ。
「まあ、心配せずとも袁紹と曹操ではまだそれなりに実力に差がある。新たに徐州を支配下に入れたとはいえ、あれほどの戦をしたのだ。傷痕は容易くは癒えぬだろうし」
手を翻す様に楽観的に韓遂は言って、それからはただの雑談だけを交わして会見は終了した。
「相変わらず食えぬ女だ」
帰り道、並足で馬をやりながら藍が呟いた。お互いに口数は少なく、腹の探り合いに終始した会談だった。
返答を求めての言葉ではないようだったが、龐徳は藍の呟きに返した。
「少しばかり知恵の回るただの小悪党です」
「ははっ、相変わらず嫌いか、廉士」
龐徳が好きになる要素など欠片も無いのが韓遂だった。はっきりと言ってしまえば、顔を見ただけで虫唾が走るほどに嫌いだ。藍もまた、憎んでいないはずはない。なんとなれば、藍の夫、翠の父親を殺したのは韓遂なのだ。
当時、韓遂と藍は敵対関係にあった。だが義姉妹の契りを結んだのはそれ以前の話で、友好な間柄も経験していた。時流によって敵味方が入れ替わり立ち替わるのが乱世の常ではあるが、韓遂のそれは度を越している。藍の夫の処刑を命じたその口で、再び味方となった藍を平気で義妹などと呼ぶのだ。
その時その時を乗り切るためなら形振りを構わない変節漢。離反と同盟を繰り返し、常に自分を大きく保つのが韓遂と言う女だ。西涼には珍しい型の人間で、それ故に翻弄され飲み込まれる者も多い。
「おっ、母様。それに廉士も。どこへ行っていたんだ?」
本拠にほど近い草原で、馬を走らせる翠と行き会った。面倒臭そうな顔をした蒲公英も連れている。結局、遠乗りには妹分の彼女を引きずり出したらしい。
「うむ。少し馬を走らせてきただけだ。たまには体を動かさねば、そのまま寝台に寝たきりになってしまいかねん」
「何だ。それなら言ってくれれば、あたしも一緒に行ったのに」
翠が廉士の方を見て言った。
「申し訳ありません、翠様。遠乗りに出ると知っていれば、お誘いを受けた際に、私の方から逆にお誘い出来たのですが」
「何だ、翠も遠乗りか? すまないな、私の体調によっては中止もあり得たので、廉士には前もって教えていなかったのだ」
藍が状況を悟って、口裏を合わせてくれた。龐徳も、藍がとっさに付いた遠乗りという嘘に話を合わせる。
翠が、韓遂に対して実際にどの程度の憎悪を抱いているのか判然とはしない。父が殺された時にはまだ乳飲み子で、顔も覚えてはいないだろう。それ故に深く憎むとも思えるし、その逆もあり得た。もし前者であった場合、藍の領分内に数騎を伴うのみの韓遂がいると知れば、飛び出していきかねない。そして一度解き放たれてしまえば、止める手立てはない。翠は馬を走らせれば並ぶ者なく、槍を振るわせれば抗える者もない、西涼に無双で知られた武人だった。呂布が表舞台を降りた今、あるいは天下で一番の武人かもしれない。
「ふ~ん、そっか。だけど、こうして馬を走らせているということは、母様今日は調子が良いんだな?」
「ああ。久しぶりに馬を駆けさせたら、さらに元気が出た気がするぞ」
「これから帰りか?」
「うむ。―――そのつもりだったが、もう少し遠回りをしても良いかもしれんな。一緒に来るか?」
「ああっ」
翠の嬉しそうな顔に、龐徳は制止の言葉を飲み込んだ。
実際には、取りたてて体調が良いというわけではないだろう。韓遂との会合があったから、無理を押して出てきたのだ。だが、母との久しぶりの遠乗りに無邪気に喜ぶ翠と、目を細めてそれを見つめる藍の姿に、帰ろうとは言い出せなかった。
結局、それから二刻あまりも馬を駆けさせ、屋敷に戻ったのは日が落ちかけた頃だった。
「廉士、悪いが私の馬の世話も頼む」
「はっ」
「ええーっ、母様、自分でやらないのかよ」
「廉士だけは特別だ。私が手塩にかけ育て、ずっと手足として働いて来たのだからな。廉士が世話をするのは、私が自分で世話をするのと同じことだ」
藍が、会話を切り上げて自室に戻りたがっているのに龐徳は気付いた。顔にも口調にもおくびにも出してはいないが、かなり体力を消耗している。
「蒲公英様、それでは行きましょう」
「うん、姉様は置いて二人で先に行こう」
「あっ、ちょっと待ってくれよ、あたしも―――」
蒲公英を誘って水場へ向かうと、翠が慌てて追いついて来た。
屋敷内には小川を一つ引いてあって、馬を走らせた日には必ずそこで手ずから体を洗ってやる。藍に従者として仕えて、最初の日に教えられたことだ。翠も蒲公英も、そう教え込まれてきただろう。
「よーしよし、黄鵬、気持ちいいか?」
翠が馬の首筋を撫でながら機嫌良さそうに言った。他に紫燕と麒麟という二頭を含む三頭が、翠の自慢の愛馬である。彼らに向かう時、翠は本当に楽しそうだった。
藍との先ほどの会話など、もう覚えてもいないだろう。翠にとって藍はいつまでも強い母親であり、藍もそうあることを望んでいる。馬の世話も人任せにしなければならないほど母が疲弊しているとは、頭の片隅にも浮かんではいないだろう。強い母が病み衰えると想像するには、翠自身があまりに強過ぎるのだ。
察しの良い蒲公英は、どこかで藍の不調に気付いたのかもしれない。蒲公英もまた馬一族に生まれ人並み以上の肉体的素質を有するが、弱さを知らずに生きられるほどに強くもない。翠と年が近いことで、その超人的な強さと常に比較され続けてきたのだからなおさらだ。
「ねえねえ、廉士兄さん。明日の予定は?」
豚の毛をまとめた刷毛で馬の体を擦りながら、蒲公英が聞いてきた。
「明日ですか? もちろん調練ですが」
「そうじゃなくって、その後」
「さて、それは藍様に確認してみませんと」
馬騰軍は兵士のほとんどが騎兵であり、気候が厳しい地域でもあるから、調練をだらだらと長時間やることは少なかった。走らせなければ馬の脚は萎えるが、走らせ過ぎるのも禁物である。特に砂地では脚を取られるため、馬の消耗は中原の人間が想像する以上に激しい。
「たまにはお姉様の相手をしてあげてよ。最近、廉士兄さんは藍伯母様のお使いばっかりなんだもん。お姉様の機嫌が悪いと、大抵わたしが迷惑するんだから」
「おい、たんぽぽっ! 馬鹿なことを言うな」
「きゃっ、お姉様っ! 何するのよ、人がせっかく気を利かせてっ! ―――っ、このっ」
翠と蒲公英が小川の水を掛け合い戯れ始める。
ありふれた日常が、それを見守る藍の不在を龐徳に強く印象付けた。