「はい、どうぞ。あ~ん」
幸蘭が、曹仁の口元へ匙を突き付けた。
「姉ちゃん、恥ずかしいからいいって。匙ならもう自分で持てるから」
「いけませんよ、仁ちゃん。怪我人なんだから無理をしちゃ」
「もう治ったって。それにひどい筋肉痛だっただけで、別に怪我ってわけじゃないし」
鉛のように重かった両腕はすっかり力を取り戻していた。肩の付け根の辺りから腕全体に至るまで広がっていた青黒い内出血の跡も引いて、薄らと黄色の痣が残るだけだ。過度に筋肉を酷使した結果であるから、回復した今ではむしろ以前よりも一回り太く逞しくなったように思える。
「いいから! あ~~ん」
言いながら自身も大きく口を開けて、幸蘭が曹仁を促す。
実際、戦後十日余りは両腕を満足に動かすことが出来なかったから、何をするにも介助の手を必要としていた。目下の状況は、その際に高順や従者の陳矯に頼って、自分に頼らなかったことに対する幸蘭なりの意趣返しではないだろうか。宮中の食堂には、曹操軍の主だった面々が勢揃いしていた。桃香達劉備軍の姿もある。
「…………」
曹仁は観念して口を開いた。
書類仕事に寄ったついでにと、宮中で昼食を取ろうとしたのが運の尽きだった。すぐに幸蘭に見つかって、流流の手も借りて病人食のようなものが用意された。流流は言うまでもなく幸蘭も料理の腕は確かだから、病人向けの粥にしても不味いはずはない。不味いはずはないのだが、周囲の視線が気になって味はよく分からなかった。
「ちょっと熱かったかしら? ふ~ふ~した方がいいわね」
「い、いやっ! ちょっ、ちょうど良いよ」
「そう? ……んっ、確かにちょうど良いわね」
曹仁の匙を使って、幸蘭が粥を口にした。
「それじゃあ、次ね。卵が入っているところがいいかしら? はいっ、あ~~ん」
「…………」
「姉貴、次は俺な」
「あっ、それならボクもやりた~い」
「鈴々もやるのだ!」
「……じゃ、じゃあ、私も」
蘭々が言うと、年少組が面白がって群がってきた。
どうにでもなれと言う心境で、次々と突き出される匙に唯々諾々と曹仁は口を開いた。雛鳥にでもなった気分である。
「仁、これも食え」
「姉者、それ以上は危険だ」
「人気者ですね~、お兄さんは。それでは、せっかくなので風も」
乱雑な手付きで口内に饅頭を押し込んでくるのは春蘭で、見かねて制止してくれたのは秋蘭である。最後には完全にからかい目的の風まで便乗して、騒ぎは広がる一方だった。
好奇の視線に曝され続けた拷問のような昼食の時間が終わると、曹仁は自室で書類仕事の続きに戻った。
呂布軍の消滅に伴い、徐州は速やかに曹操軍へと譲渡されている。内政をほぼ一手に担っていた音々音の協力もあって、大きな問題は何も起きていない。曹仁が施しを為し、桃香が人気を誇った土地でもあるから、民の反発もほとんど見られなかった。
霞の帰順で軍備の再編も滞りなく進んだが、新たに一州を支配下に置きながら兵力の拡張はわずかなものだった。一ヶ月に及ぶ消耗戦の末に、両軍合わせて数万の兵を失っている。失われた兵力を回復させれば、残る増員は微々たるものでしかない。
騎馬隊は曹仁と霞の二段構えとなった。兵力は両軍ともに一万騎で、名目上は曹仁の下に霞という立ち位置だが、実際には対等な二つの騎馬隊が生まれた形になる。
それとは別に呂布軍には豊富な替え馬が常に保持されていて、譲り受けたそれらを用いることで騎兵の増強が行われている。これは呂布軍騎馬隊の精強さの一因でもあり、霞は変わらぬ替え馬としての運用を望んだが、今は兵力の拡大が優先された。
高順の率いていた重装歩兵は、用兵の質の似た凪の指揮下に置かれた。華琳はこの軍を重視して、新兵の中から優先的に適正者を選出し、戦で失われた数千と退役を願い出た数百による欠員を補充して、一万の兵力を取り戻している。
それに伴い、戦では袁術が率いた呂布軍の新兵は、全て沙和が受け持つこととなった。手が空いた時には凪や、工兵部隊の専属となった真桜ら他の武将も力を貸してはいるが、それでも現在最も忙しく動き回っているのは沙和だろう。普段の女の子女の子した様子からそうは見えないが、新兵の育成で彼女に並ぶ者はない。
軍全体としては、重装歩兵を含む歩兵が十二万に、騎馬隊が二万と数千となる。他に領土境の守備隊もいくらか補充された。全体としての兵力増強は、歩騎合わせて三万前後となる。開戦前の曹操軍呂布軍双方の兵力の合計からは、やはり随分と数を減らしている。
騎馬隊の再編と増強がこれまでになく大規模に行われているから、こうして曹仁にも書類仕事が回ってくる。従者の陳矯が一度目を通して、些末なものは独自の判断で処理し、曹仁の手元に残るのは重要なものだけだが、それでも机の上には竹簡の山が出来ていた。従者とはいっても陳矯はすでに曹仁騎馬隊専属の文官兼雑務係兼その他諸々の責任者のようなものである。常に曹仁に付き従うわけではなく、こうして書類仕事が溜まると宮中へ送り込んで処理を任せることもある。今日は陳矯には軍営の方に溜まった雑務を任せて、入れ違いに曹仁が宮中に入っている。
曹仁はまだ痣の残る腕に筆と判を取って、黙々と動かし続けた。
日が暮れる前には、全ての仕事は片付いた。書類を全てまとめると、文官の仕事部屋にそれを提出する。ここからは文官の仕事だ。まずは下級の役人が全てを確認して、機械的に処理されるものもあれば、風や稟、文官筆頭の荀彧まで認可を仰ぐもの、さらに華琳まで上げられるものまで様々に分類される。曹仁は、あとは書き直しを命じられる書類が出ないよう祈るばかりだった。
軍営に帰る前に華琳の執務室へと立ち寄った。書き上げたばかりの書類を一本、文官へは提出せずに携えている。
「―――華琳? 入って良いか?」
部屋の入り口の前に立つと、中から言い争うような声が聞こえた。
「……入るぞ」
訪いに答えが返される代わりに、中の声が止んだ。静かになったところを見計らって、曹仁は戸に手を掛けた。
「食堂では、なかなか面白いことをしていたわね」
足を踏み入れると、早速口角をゆがめて皮肉を飛ばされた。
「―――曹仁さん」
室内には華琳の他に桃香の姿があった。食堂でも二人並んで座っているのと、それを恨めしそうに見つめる荀彧を見かけていた。
今は勉強会の最中らしく、相向かいで座る卓の上には巻物がいくつか拡げられている。
ちらりと覗き見ると、韓非子のようだった。法家の書で、端的に言えば歴史上の事件や小話と、そこから得られる教訓を記したものである。この時代の学術書ではあるが、曹仁も皮肉の利いた説話集というつもりで一度目を通したことがあった。
室外まで響いていた言い争いは口喧嘩と言うのでなく、論戦を演じていたというところだろうか。
桃香の学識は当然華琳に及ぶべくもない。だが華琳にも自身の無知にも物怖じせずにはっきりと自分の考えを口にする。それが気に入ったのか、華琳も好んでそれに応じるようだった。
「勉強中か。また出直す」
華琳の皮肉には取り合わずに曹仁は踵を返した。
騎馬隊への支給に関する相談があっただけで、特に急ぎの用ではない。文官を通さずに華琳に直接奏上することを、荀彧などは当然嫌がる。嫌がるが、武官の思い付きに近い提案が荀彧から華琳へ上がることはまず無かった。軍のことまで全て文官に決められてしまうのは癪という思いもあって、華琳に真名を許されているような将軍達は良くこれをやる。
「あっ、ちょっと待って」
部屋の戸に手を掛けたところで、桃香の声に呼び止められた。
「何だ、桃香さん?」
桃香は卓上に置かれた木鉢を抱え、小走りで曹仁の元へと駆け寄った。
「へへっ。――――はいっ、あ~ん」
鉢の中から取り出した茶請けの焼菓子を曹仁の口元にかざして、桃香が微笑む。
「…………」
「あ~んっ」
「…………」
「あ~~~んっ」
押しの強さなら、桃香も幸蘭に負けていない。曹仁は再び観念して口を開いた。
「えへへっ、美味しいですか? 典韋ちゃんの手作りなんですよ」
「ええ、まあ。―――じゃあ、俺はこれで」
食堂でやられなかっただけまだしも良かった。鈴々ならともかく、劉備軍の総大将にこれをされては非常に気まずいものがある。桃香は華琳のお気に入りということで、一部の将からは妬みを買ってもいる。
「うん、またね。―――あっ、華琳さんもやりますか?」
桃香が不機嫌そうに眉を顰めていた華琳に水を向けたことで、再度曹仁は動きを止めた。
「…………結構よ。桃香が勉強に集中しないから、早く出ていきなさい、仁」
「ああ。それじゃあ、また―――」
手を振って退室を促す華琳に、曹仁はいささかの物足りなさを覚えながら辞去した。
華琳への奏上はまた後日として、許の街中を白鵠を引いて城外の軍営へと向かった。日は暮れかけているがまだ城内には人が多く、騎乗して走らせるわけにはいかない。ちょっとした散策気分でゆっくりと大通りを歩いた。
曹操軍の本拠は正式に陳留から許へと移されていた。赤兎隊によって落城し、城壁を崩された陳留の復旧はほぼ完了している。しかし許は区画整理から曹操軍が手を入れた計画都市であり、様々な面で勝手が良いのだ。
「曹仁将軍、お一ついかがですか?」
街中ではすっかり顔も知れ渡っているから、店先からは頻繁に声が掛かる。城門を出る頃には、曹仁の両腕には山ほどの菓子やら点心やらが持たされていた。
それを落とさない様に抱えながら、白鵠の背に乗った。しばらく、早足で駆けさせた。城郭から軍営までは少し距離がある。その間を広がるのは、田畑である。華琳は領内の土地の開墾を奨励していた。新たに開いた農地は、その年の税は免除とし、翌年からの五年間も税率は通常の半分と定められている。
曹仁の感覚では、曹操軍の首都と言って良い本拠の周辺に田畑が広がるというのは違和感があった。しかし考えてみると、本拠であるだけに民も多く、駐屯する兵も多い。彼らの腹を満たすための食糧が必要であり、輸送に掛かる労力を考えるなら消費地近くで収穫出来るに越したことはないのだ。
この国では、街や村というのは面ではなく点だった。巨大な城郭に守られた街―――城邑か、そうでなくても人々が一箇所に固まった集落である。それら点と点を繋ぐ線―――街道を除けば、後は未開発な土地が広がるばかりだ。本拠といえども、城郭を出てしまえば開墾可能な土地は溢れているのだ。
実りつつある稲穂の中を白鵠を走らせ、軍営に到着した。すぐに駆け寄ってきた陳矯に、城内の商店でもらった品々を土産と言って与えると、嬉しそうに抱え込んだ。
翌日は調練の指揮に戻った。
丘の上から、旗の合図で兵に指示を送る。かつては大軍と思えた一万騎も、今はほとんど手足のように動かせる。曹仁自身の用兵の成長もあるが、何よりこうして調練を繰り返す中で、末端の兵まで澱みなく意志が通じる様になったことが大きい。
「―――曹仁将軍」
斥候の報告に背後を振り返ると、確かに遠くから騎馬の一団が近付いてくるのが見えた。兵を差し向けようとした角を、曹仁は制止した。
一団は調練に使っている平原の裏を通って、そのまま曹仁のいる丘の上まで駆け上がってくる。
「曹仁さ~ん!」
声に、自然と頬が緩んだ。馬を走らせてきたのは、虎士に守られた華琳と桃香である。季衣と流流の隣りに鈴々の姿もあるのは、桃香の護衛役というところだろう。
「遠乗りか?」
「うんっ。勉強には飽きちゃって―――っっ」
華琳の咳払いに、桃香がえへへと小さく舌を出した。
「仁、背後が無防備ね。私達が敵の送り込んだ刺客か何かだったら―――」
「ちゃんと捕捉はしていたさ。遠目でも華琳の乗馬は目立つからな」
「そう、なら良いわ」
華琳が面白くなさそうに言った。
華琳の乗る馬は、白鵠に劣らず見事なものだった。影も留めぬ速さから、絶影と華琳に名付けられている。
毛色は白に近い灰色で、色の濃い斑状の紋様が全身を覆っている。連銭葦毛、あるいは星葦毛とも呼ばれる毛並である。見る人によって美しいとも、おどろおどろしいとも感じさせる。それゆえに華琳の乗馬としては不適切だと評する者もいたが、本人はいたく気に入った様子だった。馬体の上に無数の旋風が巻き踊るかのような力強い毛並を、曹仁も悪くないと思っていた。
曹仁の白鵠もかつて幸蘭に譲られたものであるが、絶影もどこからか彼女が調達してきたものだ。曹操軍の武将であると同時に資産家にして商人の側面も持つ幸蘭は、物流の仲介で利益を上げているようだから、名馬の取引にも手を出しているのかもしれない。
華琳の横に並ぶ桃香の馬もまた目を引きつける。
体格自体は普通の馬よりわずかに勝る程度だが、脚がその身体に不釣り合いなほどに太く大きい。全身を覆うのは絶影よりも幾分濃い灰色の毛で、額だけは白く抜けていた。これは的盧と呼ばれる毛並で、乗る者に悲劇をもたらす凶相とされている。桃香はこの馬を、あえて不吉な意味を持つその毛並と同じ的盧と名付けていた。
華琳から桃香へと贈られた馬である。厩舎の片隅に留められた的盧に目を付けた桃香に、初め華琳は別の馬を薦めたと言う。凶相などというものを華琳が信じるとも思えないから、桃香との関係を邪推されることを嫌ったのだろう。それも、桃香自身がことさら的盧と呼んで無邪気に可愛がるものだから、詰まらない噂が広まることもなかった。
「もう調練には問題ないようね」
「ああ」
手にした槍を、くるくると旋回して見せる。以前よりも槍を軽く感じた。
「―――あら、例の管は付けていないのね?」
「ん? ―――ああ、薙いだり払ったりするにはむしろ邪魔だからな。一対一だと有効だけど、戦や調練で大勢を相手にするにはちょっとな」
「へえ」
「それに、やっぱり邪道だ」
「貴方の国に実際にあるものなのでしょう? 邪道と言うほど特殊な細工とも思えないけれど。弓や幸蘭の多節鞭の方がよほど手が込んだ武器じゃない」
「初めから管槍を得物に選んでいれば、俺も気にはしなかったと思うんだがな。今から持ち替えるというのはどうも。それに、管を持つことで強くなるのは単に俺の力量不足でもある。槍を持つ掌の業が精妙を極めれば、むしろ管などない方が融通が効く分だけ強くてもおかしくないはずなんだ」
「ふうん」
華琳が興味の無さそうな顔で適当な相槌を打った。
あくまで個人的な拘りに過ぎない話であるから無理もない。管が無用と思えるほどに精妙無比の境地に至るにはどれほどの鍛錬が必要なのか。あるいは決して至る者の無い高みかもしれない。
「そうそう、これを言いに来たのだけれど。―――沙和が調練中の新兵。一通りの調練を終えた後は、貴方の旗下に組み入れるわよ」
話題を変えて華琳が切り出した。
「俺の旗下に? 歩兵だろう?」
「ええ、歩兵を二万」
「それは……」
騎兵一万に歩兵が二万となると、曹操軍内で最大の兵力を抱えることとなる。呂布軍との一戦では四万を率いた春蘭も、常備軍としては二万だった。普段は韓浩ら曹操軍生え抜きの武将達や、黄巾賊出身の黄邵等も兵を率いていて、それが大戦となると春蘭の旗下に集められるのだ。
「自信がない?」
「お前にそう問われれば、俺はやらないとは言えても、やれないとは口が裂けても言えないな」
「天の御使いを名乗らせる以上、貴方にはいつまでもただの騎馬隊の部将の一人でいてもらう心算はないのよ。今後は、二面三面の戦をすることもあるでしょうし」
他勢力に囲まれた中原でこれだけ領土が広がれば、華琳が出動出来ない戦も当然出てくるだろう。代わりに一方面を任せる将には戦の巧拙だけでなく、民を安んじ兵を鼓舞する盛名を持つことも重要だった。確かに天の御使いの肩書きはその点において大きな力を持つことだろう。
歩騎両方を扱う総大将の戦を身に付けろと、華琳は言っているらしい。
「―――それじゃあ、伝えることも伝えたし。そろそろ行きましょうか、桃香」
「えーっ。せっかくここまで来たのに、もう?」
「……分かったわ。少しだけ、仁の調練を見ていきましょう」
「やった。ありがとう、華琳さん」
「はいはい」
華琳がわざとらしい仕草で肩をすくめた。虎士の中から流流が進み出て、素早く床几を二つ並べる。
「それじゃあ、俺は指揮に戻る」
二人に背を向け、角に任せていた調練の指揮へと曹仁は戻った。
五千ずつの二隊に分けて、疾駆しながら馳せ違わせる。互い違いに行き交いながら駆けさせる。丘の上から確認しても、ただの一騎も遅れる兵はいなかった。騎兵の増強は続いていて、一万騎に加えて二千騎あまりも曹仁が調練を受け持っているが、まだこの動きには参加させられない。騎馬隊の基本の調練ではあるが、実戦と変わらぬ速さで馬を駆けさせているから容易く死傷者も出る。二千騎には、今は隊列を組んでの行軍の調練をさせていた。
背後からは桃香の感心する声が聞こえる。劉備軍の騎兵も精強だが、一千騎に満たない寡兵だ。一万騎の騎兵が行き交う様は、戦慣れした桃香にもそれなりに迫力があるものだろう。
「そうだ、華琳さん。この前話したあのお店行きましたか?」
それもしばらくすると止んで、華琳との間で他愛のない会話が始まった。どこそこのお店のなにが美味しいけれど並ばなければ食べられないだの、新しい服が欲しいけれど我慢しているだのと、街娘同士のやり取りと変わりない。桃香が一方的に話して、華琳が聞き役に回っている時間が多く、それはちょっと意外な感じがした。
意外と言うならば、桃香が話題に出す人気のお菓子も欲しがっている服も、華琳ならば簡単に買い与えることが出来るが、そうはしないようだった。本来華琳にはお気に入りの人物には気前よく贈物をする癖のようなものがある。劉備軍の中でも愛紗や朱里達には頻繁に武具や書物などを下賜していた。それが、桃香に対してだけは一緒に遠乗りするのに不便という理由で、的盧という良馬を一頭与えただけだった。だからこそ桃香も華琳の前で気兼ねなく欲しい物など口にするのだろう。余人がやればおねだりに見えかねない。
一方で、真名を許し身内同然の扱いをしてもいる。宮中に一室を与え、華琳の居室への出入りも自由で、さらには民からの相談に対して許可を待たず本人の判断で行動する権限も与えられている。桃香が桃香らしく動き回れる環境が整えられていた。それはまるで―――
「―――気の置けない友達の様な」
口にしてみると、それは存外しっくりとくる言葉だった。
華琳はいずれは桃香を、そして劉備軍を、曹操軍へ取り込もうと考えているはずだった。あれほど優秀な人材と精強な軍団を、華琳が欲しがらない筈がない。華琳は贈物や官位によらず、一人の人間として桃香を心服させようとしている。その時初めて、劉備軍は曹操軍の一部となる。そうなれば華琳と桃香は君臣の間柄となるが、今の関係を端的に表すならばただの友人同士ということになろう。
「そろそろお暇するわ、仁」
「ああ」
「ほらっ、早く立ちなさいっ」
ひとしきり話し込むと、華琳が立ち上がった。桃香はやはり不服そうだが、腕を取って引き起こしている。そういう態度も、やはり友人同士の気安さと見える。
「―――悪くない意匠ね」
去り際に、華琳が一度視線を上げて言い捨てていった。
黒地に白抜きの曹仁の曹旗と対照的に、白地に黒文字で天と大書した旗が完成していた。陳矯の言に倣って、天人旗と呼び習わしている。本人に言うといたく恐縮していたが、曹仁は天の御使いよりも天人という呼び方を気に入っていた。
これまで通り曹旗も使うが、旗竿のそのすぐ下に天人旗も垂らした。
“天”を“曹”の下に置いて良いものか、逡巡はあった。結局“曹家の天の御使い”だからという理由で曹旗を上とした。華琳から小さなことに拘るなどと思われたくはない。相談もせずに決めたが、何もそのことに言及しなかったからには、華琳もそれで構わないということのようだった。
調練後は、久しぶりに軍営ではなく城内の屋敷へ帰ることにした。
「―――ただいま」
「んっ」
「なんだ、今日は帰ってきやがったのですか」
「おかえり、仁兄」
帰宅を告げると、三者三様の返答があった。
恋、音々音、高順の三人は、許の城内に建てられた曹仁の屋敷に暮らしていた。名目上は捕虜の下げ渡しで、呂布軍との戦での曹仁の働きに対する褒賞という形だ。
曹仁は軍営に詰めて屋敷に戻らない日も多いから、家のことは大抵高順に取り仕切らせていた。家事全般において高順は曹仁の弟子と言って良いから、何の心配もない。放置して時折戻るだけだった屋敷が、今後は帰る度に快適な暮らしが約束されていた。
曹操軍に帰順した霞も普段は軍営暮らしで、宮中には居室も与えられている。ただ曹仁が屋敷へ戻る時にはどこからか聞き付けてきて、ふらりと屋敷を訪れることも多い。
「また腕を上げたな、順」
食卓に並ぶ料理に箸を伸ばして、曹仁は言った。
「他にすることもないからな。それに昔の洛陽ほどではないけど、ここも良い食材が出回っている」
許は曹操軍の領内最大の都市にまで成長している。洛陽の荒廃が伝えられる今、あるいは中華最大と言ってもいいのかもしれない。
とはいえ、食費は十分に渡しているはずだがそれほど食材に金は掛けていない。その分、手間を掛けた料理だった。肉にはしっかりと下味を付けているし、魚も小振りなものを上手くさばいていた。曹家一門に拾われた曹仁は結局のところ坊ちゃん育ちであるから、節約という考えがあまりない。吝嗇家の幸蘭も、衣食に関してはそれほど厳しいことは言わなかった。洛陽でも官軍第一の将軍として高給取りの皇甫嵩の元、食材に金は惜しまなかった。最高級の食材はそれに見合った腕を要求し曹仁の料理の腕は上がったが、最低限の食材に一工夫も二工夫も加えることはそれ以上に成長を促すものかもしれない。
「そうだ、順、音々音。姉ちゃんから仕事の話を聞いたか?」
「ああ、面白そうだ」
「このままお前の世話になり続けるなんてごめんですし、やってやっても良いのです」
幸蘭の有する諜報部隊と、中華全土に伸ばした飛脚の網。高順と音々音に依頼があったのは、このうち飛脚に関する仕事だった。情報の網をもっと太く強固なものにする。現状では人が行き来するだけの道にも、商売の流路を作る。そうすることで、元々が商人の情報網を利用した飛脚の経路はより堅固なものとなる。
具体的に高順には現場での商品の流通を、音々音はそこで上がる利の総括が依頼されている。つまりは幸蘭の元で行商人とその元締めをするということだ。形式としては幸蘭の私的な使用人で、曹操軍の諜報に組み込まれるわけではないらしい。求められるのは曹操軍に有利な情報を持ち帰ることではなく、あくまで商売の利の追及だという。
「音々音のやることは、まあ、これまでやって来た軍師の仕事に近いものがあるだろう。順の方は、行商人として各地を歩き回ることになる。出来そうか?」
「たぶん大丈夫」
慢性的に文官不足だった呂布軍では、高順は武将と同時に金庫番の役割もしていたらしい。幸蘭が単に曹仁と親しいというだけで大切に育ててきた飛脚の仕事を委ねるとも思えない。資質を認めた上でのことだろう。
高順に対してはいくらか過保護気味になる自分を曹仁は自覚していた。
「……恋も、なにか働く?」
料理に取り付いていた恋が、顔を上げて言った。片手ではまだ食べなれないのか、頬に付いた汚れを音々音と高順が先を争って拭った。
「恋の仕事か」
適正で言うならば、当然戦いに関係したものとなるだろう。左手を失ったとはいえ、利き腕である右肩の矢傷は驚異的な回復力で―――曹仁の腕には未だに痣が残っている―――すでに完治している。天下無双は今だ健在だった。ただこれ以上戦いの場に立たせたいとは思わない。それは高順と音々音にも共通した思いだろう。
「体力があって可愛いから、食事処の看板娘―――給仕とか。……駄目か。客に食事が届かない恐れがある。…………いや、待てよ」
恋が飲食店で働く姿を想像するに、悪くなかった。
愛らしい店員に餌付け出来る飲食店。作る料理作る料理、客ではなく店員の胃袋に収まるわけで、それは飲食店とは言い難いかもしれない。しかし恋なら回転率は並みの客が十人並ぶよりも上だし、場合によっては季衣や鈴々にも店員として入ってもらう手もある。回転率を上げるだけでなく、幅広い需要への対策にもなる。出来ればもう少し熟れた感じの女性も一人欲しいか。
「……いかがわし過ぎるな、一体何の店だ」
曹仁は大きく頭を振って馬鹿な考えを振り払った。
「―――恋殿に飯運びなどさせられますかっ!」
音々音が頬を膨らませて叫んだ。
「……じゃあ、張三姉妹みたいなアイドルとか。恋なら可愛いし動けるから、三姉妹にも負けないくらい信者が付くんじゃないかな?」
「あいどる?」
高順が首を傾げた。
「ああ、えっと、張三姉妹の話は聞いているだろう? あんな感じで舞台に立って歌ったり踊ったりする人のことだ。…………歌ったり、か」
「……それは恋さんには難しそうだな」
「良いと思ったんだがな」
「まったく、ろくな案を出さないのです」
「それなら音々音、お前も何か案を出せ」
「ふふんっ、そんなの簡単です。ねねほど恋殿のことを深く理解している者はいないのですからっ」
音々音が自信あり気に無い胸を反らした。
「恋殿は確かに強くて可愛いいのですよ。でも、恋殿の魅力といえばまず何と言ってもその優しさなのです!」
「知ってる」
高順が詰まらなそうに呟くと、音々音が水を差すなというように睨みつけた。
「それで、優しさでどうやって金を稼ぐんだ、軍師様?」
「それはですね。…………ええっと、困っている人を助けたら、……その人が大金持ちで、…………それで」
突っ込むまでもなく自ら口を噤んだ音々音に、曹仁はそれ以上追い打ちを掛けるのを控えた。
その時、服の端がくいくいっと引かれた。視線を向けると、いつの間にか席を立った恋が曹仁の隣でしゃがみ込んでいた。上目使いの恋が口を開く。
「……恋、かわいい?」
「―――っ」
面と向かって聞き返され、曹仁は思わず絶句した。同時に、やはり可愛さ路線を売りにすべきという確信を深めるのであった。
「邪魔するでー」
玄関口から、霞の威勢の良い声が響いた。