「貴方と連れ立ってここを通るというのは、少しおかしな気分ね」
「へぅ、……は、はい、華琳様」
側近くに付き従えた月が困ったような表情で答えた。素直な感慨を口にしたつもりだったが、皮肉と取られたようだ。
それもそのはず、かつて董卓軍との激闘の果てに超えた虎牢関を、今悠々と曹操軍は潜り抜けていた。
―――天子は洛陽に在り。至急軍を進め、これを輔弼せよ。
車騎将軍楊奉から、そのように書かれた書簡が届けられたのはつい先日のことだ。
車騎将軍は、大将軍に次ぐ三将―――驃騎、車騎、衛―――の第二位に位置する将軍位である。文官でいえば三公に等しく、かつて黄巾の乱を鎮圧した官軍第一の将軍皇甫嵩に与えられた官位でもある。漢王朝に仕える軍人にとっては最高位のひとつと言うわけだが、その後に続く楊奉の名が途端に胡乱な空気を臭わせる。
一年ほど前までは、白波賊を率いる賊将の一人に過ぎなかった。白波賊は黄巾の乱の残党からなる賊徒で、その名は幷州は西河郡の白波谷に籠もったことに由来する。黒山に居を構えたことで黒山賊と呼ばれた張燕一党と似たような集団であるが、規模はずっと小さい。もっとも、賊徒でありながら十数万―――最終的には青州黄巾賊と合流し百万―――の集団に膨れ上がった黒山賊が異常過ぎるだけで、白波賊もそれなりに名を知られた大きな賊軍である。三千余りの兵力を有しているというから、すでにして立派な一つの勢力と言える。華琳も、初めは五千の私兵を抱えるに過ぎなかったのだ。
とはいえ、賊徒である。賊の親玉が車騎将軍の地位に昇り、今では漢王朝の軍部の頂点として書簡など遣わしてくるのだから、いかがわしいことこの上ない。
しかしそんな当たり前に受ける印象を裏切り、楊奉と言うのは実に評判の良い武将だった。軍規を徹底して粗野な賊軍を漢の正規軍に生まれ変わらせ、天子に忠を尽くし、私心を見せない。時代の影に隠れるようだった漢室をもう一度浮上せしめん尽力しているという。
董卓軍に占拠され、反董卓連合との戦で一度攻め落とされたことで、洛陽の持つ漢室の都としての威光は完全に失われたと言っていい。諸侯があえて目を背ける中で、董卓軍の残党や盗賊まがいの者達がその残滓を奪い合うという不毛な闘争が繰り返されていた。その洛陽も、楊奉の指揮の元で平穏を取り戻し、ようやく今は街と言える程度にまで民が戻り始めているという。
伝え聞く洛陽の惨状に曹操軍中で最も心を痛めていたのは、言うまでもなく月―――今は張繍を名乗るかつての董卓その人であっただろう。
「この度は私の願いをお聞き届けいただき、ありがとうございます、華琳様」
華琳の視線に気付いた月が、改めて頭を下げる。
「良いのよ。貴方の言う通り、天子にはまだ使い道があるわ。それに詠の言う通り、麗羽には三公の地位でも与えておけば当分は静かにしているでしょう」
楊奉の書簡を受け、強硬に天子の保護を主張したのが月である。普段の軍議ではほとんど発言をすることのない彼女には珍しいことだった。月の傍らには当然詠が寄り添っていたし、曹仁もかつての成り行きから二人に賛同を示した。
桂花ら文官の幾名かは権力の分散を招きかねないと反対したが、華琳は三名の主張を容れ、すぐさま軍を発した。天子の存在は間違いなく武器となる。天の御使いと合わせて使えば、曹操軍に揺るぎない大義を与えてくれるだろう。
「本当に麗羽さんはそれで落ち着いてくれるかな?」
「何よ、ボクの読みが外れるって言うの? アンタだって賛成したじゃない」
月だけでなく詠と曹仁も側に置いていた。曹操軍の首脳のうちで他に連れてきたのは親衛隊―――虎士―――の隊長季衣と副隊長の流流、虎豹騎の指揮官蘭々、そして今も先頭で指揮を執らせている春蘭だけである。
「まあ、間違えなく刺激はするでしょうね。麗羽は漢室を廃して袁家の王朝を立てるつもりでしょうから」
「ほら、麗羽さんの幼馴染もこう言ってる」
「だっ―――」
詠は曹仁に対するのと同じ調子で華琳へも反駁し掛けて、一度声を飲み込んだ。人一倍頭の回転は速いのに不器用であったり迂闊なところも多く、軍師としてはそこが不安にもなるが、可愛らしくもある。
「―――ですが、袁紹は四世三公の名門の出を誇っています。漢の皇室の命は、袁紹にとって決して小さくはないはずです」
「それも当たりでしょうね。ただ、漢の名族を誇るだけ誇っておいて、それが皇室に対する忠義には繋がっていないのが麗羽という人間の面白いところでもある。楊奉がまず第一に頼みとしたのは間違いなく袁紹軍でしょうし、書簡も我が軍より先に届けただろうに、まったく反応を見せていない。四世三公は麗羽にとってあくまで自身を彩るただの飾りでしょう」
言い直した詠に、華琳は答えた。
麗羽がもし天子の救援に動くとしたら、お人好しなところがあるから同情からの行動であったろう。ただ楊奉の書簡は天子の窮状を嘆くものではなく、今なお天子の威光を示そうというものだ。これでは麗羽の歓心は得られまい。もっとも、その事を楊奉の不手際とは攻められない。麗羽自身がいまだ堂々と漢朝の名族―――つまりは漢室の臣下の筆頭という看板を掲げているのだ。
「それでは、華琳様は天子を手にした我らを袁紹が攻めると?」
「いいえ、さっきも言った通り。貴方の読みは当たっているわ、詠。飾りは飾りでも、三公の地位は四世三公を名乗り続けた麗羽にとって、それはもう大きな大きな飾りでしょう。幼い頃の麗羽にとって間違いなく三公は憧れであったし、袁家一族の次代の頭領として課せられた使命でもあったでしょうし」
我が意を得たりとばかりに、詠が首肯を繰り返す。
「やはりそうですよね。それにこれまで、漢室の名門ということで袁紹に付き従ってきた者も少なくありません。いざ牙を剥くとなれば、内部からもそれなりの反発があるはずです」
「ええ。一応の備えとして秋蘭達を兗州に残しては来たけれど、私はまず動かないと踏んでいるわ」
天子に対する礼として軍部の頂点の春蘭の指揮のもと進軍しているが、兵も一万を率いるのみである。主だった将と共に兵力の大半も兗州に残していた。それもあくまで一応の備えである。
「―――ふふん」
詠が曹仁へ向けて、勝ち誇ったように鼻を鳴らして見せた。曹仁の方は、わざとらしく肩をすくめている。
詠は、華琳の手元を離れている間に曹仁が作った友人ということになるが、初めのうちは劉備軍や呂布軍の面々と比べると幾分か距離感があった。徐州での張闓討伐など一緒に動かす機会が多かったからか、今は随分と打ち解けた様子である。何となく面白くない気もするが、良いことではあった。
虎牢関を抜けると、後は半日ばかりの行程で洛陽だった。曹操軍は夜間入城の無礼を避けるため、洛陽郊外で一夜を明かした。
曹仁は遠乗りがてら自ら斥候に当たったが、頻出するという賊の姿は捕えられなかった。曹操軍の威容を恐れて距離を置いているのだろう。
翌日、すっかり日も昇り切ってから軍を発した。しっかりと隊列を組んで、緩やかに軍は進む。
「よくぞ、来て下さいました」
洛陽の城門まで迎えに現れたのは、二百の兵を引き連れた男だった。一人進み出たその男が、楊奉であった。
顔の下半分を覆った髭は賊徒出身の印象そのままだが、声には清涼な響きがある。礼を失わず、それでいて媚びた様子もない振る舞いも天子の第一の臣と呼ばれるに相応しいように思えた。かつての車騎将軍皇甫嵩よりも、よほど大人然としている。
「宮殿まで、先導させていただきます」
「ええ、お願いするわ」
華琳は季衣ら親衛隊と蘭々率いる虎豹騎を従えて城門をくぐった。将としては曹仁に春蘭、それに詠を連れている。月が強く望んだ天子擁立だが、洛陽には彼女の顔を知る者も少なくないだろう。表向き死んだことになっている月は、城外で兵と共に待機となった。
「―――これは」
城内に一歩踏み入るや、曹仁の喉から思わず声が漏れた。
「李傕と郭汜の奴」
詠が忌々しげに呟いた。
かつて暮らした洛陽の街並みは、曹仁の記憶に残る姿から様変わりしていた。
まずは廃墟と化した建物が目に付くが、違和感の最大の原因はそれ以上に人にあった。行列を見ようと通りに顔を出す人の数が、漢の都とは思えぬほど少ない。荒漠とした印象は、街並みに対して住人の数が圧倒的に少なく、無人の建物が続くためだろうか。
反董卓連合の戦では、洛陽は包囲こそされ、ほとんど戦場となることはなかった。最後に皇甫嵩が立て籠もった宮中の一角で戦闘が行われた程度だろう。反董卓連合解散後、諸侯が漢朝からの独立姿勢を示す中で、洛陽は董卓軍の残党に占拠された。李傕、郭汜という将が率いる一団である。
李傕と郭汜の二人の武将を、曹仁はほとんど覚えていなかった。両者とも涼州時代からの生え抜きの武将らしいが、友人であった張繍―――照―――や、特異な具足姿が目に鮮やかな猛将華雄のように強い印象は残っていない。わずかに思い出されるのは涼州の出らしくどこか粗野で単純な印象だが、それが李傕に対して抱いたものであったか、郭汜に対して抱いたものであったかも定かではなかった。
同時期に軍に入り、同じように階級を上げていった親友同士であったというが、権力―――天子―――を手にしてから仲違いを始めた。政における主導権争いは、やがては兵を動員しての小競り合いへと発展した。散発的に起こる争いの戦場は、当然洛陽城内である。民が離れたのも無理からぬ話だった。
「これでもこの辺りは随分増しになったのですよ、曹仁殿、賈駆殿」
こちらの様子に気付いた楊奉が言った。巧みな立ち回りで見事その二人を洛陽から追放したのが、この楊奉である。
「これで、ですか」
曹仁らがいま進んでいるのは、城門から宮殿へと向かう大通りである。かつて洛陽で最も栄えた場所であり、今も人々の暮らしの中心となっているはずだった。一歩道を逸れれば、さらなら惨状が広がることは想像に難くない。
「……月さんに外で待機してもらって良かったな」
「そうね」
隣りへ囁くと、詠が小さく頷いた。
直接の原因は李傕と郭汜にあるとはいえ、二人は彼女の部下だったのだ。荒廃した洛陽を目の当たりにすれば、月は激しく自分を責めることだろう。
街並みに目を奪われながら進み、天子の住まう宮殿の南門へと行き付いた。門は四方に設けられているが、天子南面、臣下北面と言って、玉座は常に南を向き、謁見する臣はそれを仰ぐ形となる。宮殿も全て南向きを基本として作られていて、必然この南門が臣下にとっては正門に当たる。
「……? おかしいな」
門前で、楊奉が訝しげに周囲へ視線を走らせた。
宮殿には不穏な気配が漂っていた。出迎える者ひとりなく、門番の姿もない。兵力不足は周知の事実であるが、それにしても一人の兵の姿も見えないというのは、楊奉でなくとも異常を感じざるを得ない。
「見てまいりますので、しばらくここでお待ちください」
楊奉は躊躇いがちに馬を降り、門の中へ駆け込んでいく。
「―――その必要はない!」
走る楊奉を、大声で遮る者がいた。謁見の間へと続く前殿の入り口に、一人の影が浮かび上がっていた。
「徐晃か。これは一体何の真似だ?」
「楊奉殿には申し訳ないが、曹孟徳は私の敵だ」
女の声が剣呑な答えを返した。
徐晃というのは、白波賊の将として楊奉以外では唯一名の知れた人物だ。大戦でどこかの将の首を挙げたなどという華々しい戦功があるわけではないが、洛陽近郊での賊徒の討伐は大抵徐晃が前線に出て鎧袖一触で蹴散らしている。大変な猛将として賊の間では相当に恐れられているらしい。
華琳が、手振りで指示を出した。虎豹騎は宮門前に待機。自身は馬を降りて、宮門を潜り抜け前庭に足を踏み入れる。流れるような動きで、周囲を虎士が囲んだ。本来宮中に入るなら武装を解くべきところだが、状況が状況だけに武器を構えて迎撃の態勢である。春蘭もそれに続き、曹仁も白鵠を蘭々に預けると槍を手に後を追った。
「―――そうか、お前は董卓軍の生き残りであったな」
「私一人の戦いなれば、兵は巻きこめん。勝手に下げさせていただいた」
「つまり、一人で彼ら全部と戦うと」
「ああ。お前達に迷惑は掛けん。白波賊からは抜けさせてもらう」
「そんな言い訳が通じるものかよ」
「すまないとしか言えんが、ここは引けぬのだ」
楊奉と女性の間で、なおも物騒な会話が続いている。董卓軍という言葉に誘われて、曹仁は華琳と虎士の布陣からいくらか突出すると、楊奉の影になって見えない女の顔を覗き見た。
「―――! 華雄さんではないのか?」
「華雄ですって!?」
門の外から中を覗き込むようにしていた詠が、曹仁の言葉を聞き付けて駆け寄ってくる。
「?」
怪訝気な表情でこちらを見つめ返す女の容姿は、紛れもなく華雄のものであった。金剛爆斧と呼ばれる長柄の大斧も、軍袍も纏わずに必要最小限の鎧を地肌の上にそのまま着込む独特の装いも変わりない。
彼女の姿を捉えた詠が、曹仁の確信を裏付ける様に口を大きく開けて驚きの表情を作った。
「何故こんな所に? 徐晃と呼ばれていましたが、一体? …………そもそもあの戦の後、あの人どうしたんだっけか? 確か孫策さんと戦って負傷したと聞いていたが」
後半の質問は、隣にいる詠に小声で尋ねた。
「―――あっ。…………すっかり忘れてた」
「忘れてたって何をだ?」
「……華雄の、その存在を」
「存在をって。まあ、詠は忘れていたとして、月さんもか?」
二人の幼馴染の照が儚げな印象の月だけでなく、切れ者の詠のことも随分と気に掛けていた訳が今では良く分かる。詠はしっかりしているようでいて、どこか抜けたところがあった。
「…………月のことだから、ただでさえ心労が溜まっているっていうのに、華雄に付きっきりで看病するとか言い出しかねないと思って、―――討死したって言っちゃった」
詠は照れ臭そうに頬を赤らめている。表情は可愛らしいが、発言内容はなかなかに惨いものがあった。
「さっきから、二人で何を話している? 華雄だと? ……貴様ら、私を知っているのか?」
戦斧を構えたままこちらに詰め寄ろうとする華雄を、楊奉が慌てて押し留めた。
虎士の面々は油断なく武器を構え、春蘭はすでに殺気立っている。
「お二方、彼女は昔の記憶を失っているのです。徐晃というのも、我らに拾われた後に便宜的に付けた名です。董卓軍の人間のようであったから、亡くなった徐栄将軍から姓を、それに唯一覚えていた名の晃を付け、徐晃と。曹仁殿に賈駆殿、お二方は徐晃の素性を御存知なのですか?」
「―――曹仁に賈駆だと!?」
楊奉の発言は曹仁と詠にとっても十分に衝撃的なものであったが、それ以上に強く反応して見せたのは当の華雄であった。
「貴様が曹仁、そして貴様が賈駆。……それで間違いないな」
「……ああ」
それぞれを戦斧で指し示しながら、華雄が言う。さらに緊張感が高まる中、曹仁は首肯した。ばつが悪いのか、詠は控えめに小さく頷き返している。
「――――貴様らがっっ!!」
咄嗟に跳び退った曹仁の顔を豪風が襲った。眼前を過ぎり、金剛爆斧が地面に打ち込まれる。宮殿の前庭に引かれた石畳が粉々に打ち砕かれ、粉塵が舞った。
「おおっ。―――これは、凄まじいな」
曹仁を驚嘆させたのは、一撃の威力ではなく爆発的なまでの踏み込みの鋭さだった。先刻まで華雄の立っていた場所で、楊奉がたたらを踏んでいる。曹仁からは、歩幅にしておおよそ四足分。巨漢とは言わないまでもがっしりとした体格の男一人を押し退けた上で、その距離を瞬時に詰めていた。
「ちょっと、急に何のつもりよっ!」
感心する曹仁に代わって、詠が叫ぶ。非難の言葉は曹仁と華雄どちらに向けられたものか定かでない。華雄の一撃を避ける直前に反射的に突き飛ばしたから、詠は地べたに尻餅をついていた。
「黙れっ! この裏切り者どもがっ!」
「裏切り者? 何を―――って、ああっ!!」
「……そういえば、そういうことになってるんだったな」
洛陽から天子を連れ脱出し長安への遷都を企むも、曹操軍の追撃を受け討死。それが世に流れる董卓の末路だった。そして曹仁と詠は、脱出行を共にしながらも曹操軍に投降した三名のうちの二人ということになる。残る一人が照の名を受け継いで、今は張繍を名乗る月本人である。
「ちょっ、ちょっと、華雄っ! 月なら―――」
叫びかけた詠が、楊奉を見て口を噤んだ。
月―――董卓の生存はこれまで秘匿してきた。天下の大悪人として知られ、それも洛陽荒廃の大元とも言える董卓を匿っていることを、洛陽の守護者たる楊奉に明かして良いものか、―――そんな逡巡が見て取れた。
「―――こっちだ」
詠へ矛先を向けさせぬよう曹仁は油断なく槍を構えながら、虎士の布陣の反対方向―――宮殿の方へ足を進めた。華雄にとって、華琳もまた董卓の仇ということになる。そちらへ向かわせるわけにもいかない。
「まずはお前からか、曹仁」
槍を構えた曹仁の元へ、華雄がおもむろに歩み寄る。
―――華雄とは、これ程の武人であったか。
以前の華雄は、春蘭や季衣、鈴々と同じような本能のままに戦斧を振るう武人であった。先ほどの怒りに任せての一撃も、その類のものである。しかし改めて構え直した眼前の華雄には、ただ歩いている、それだけでありながら達人としか言い様がない程の術理が込められていた。大地から真っ直ぐ天を衝いて小揺るぎもしない正中線。移動していても腰は一定の高さを保ち、ほとんど上下動が無い。そして重心の所在を悟らせないさりげない足運び。作為的としか思われないそれら一連の動作を、ごく自然のこととして華雄は実践していた。
「管を持ってくれば良かったな」
格上―――管槍を使うべき相手だった。携帯して来なかったことが悔やまれる。馬上勝負ではないから、白鵠の脚にも頼れない。
「いくぞっ!」
「――――――っ」
華雄が踏み込んで振り降ろし、斬り上げ、さらに返して横薙ぎに金剛爆斧を振るった。曹仁は打ち合いには応じず、間合いを外すことでかろうじてそれら全てを避けた。
斬り返しが速い。以前は遠心力を使って斧を振り回していたから、自ずとその軌道は予測が付いた。今は一つ一つの斬撃をしっかりと自分の制御化に置いている。斧に振り回されないのは、体幹の力をしっかり鍛え上げたからだろう。
基礎鍛錬に裏打ちされた華雄の武は、どこか愛紗のそれを思わせる。得物の形状、重心の位置も似通っている。愛紗とは、黄巾の乱討伐の際に幾度となく手合せを重ねている。最近も胸を借りる機会は何度かあった。
距離を詰め、再び華雄が斧を振るう。それを足捌きだけで避ける。なおも華雄が追う。やはり打ち合わずに退く。躱しているというより、戦斧の攻撃範囲外に避難しているだけだ。青龍偃月刀にしても金剛爆斧にしても、まともに受ければ槍がもたない。
愛紗に模擬戦で勝ったことは今もって数えるほどしかない。わずかに上げた勝ち星の中から、より鮮明に思い出される一勝を曹仁は思い浮かべた。
「ええい、ちょこまかと」
華雄が苛立たしげに言った。攻撃が、ほんの少しずつ単調になっていく。
―――今。
右からの横薙ぎの一撃に合わせ、曹仁は意を決して左斜め前方へと深く踏み込んだ。華雄は横薙ぎの戦斧を止めずに、余勢を駆ってそのまま振り抜いてくる。
縦に立てた槍で受け止めた。愛紗よりも振りはわずかに遅い。その分、一撃は重かった。ぶつかったのは柄同士だが、槍はみしみしと軋む音を上げた。だが手元に近い分威力は完全ではない。折れはしなかった。
模擬戦で愛紗に勝った時とほぼ同じ形だ。強引に一振りを伸ばしたことで、これまで小揺るぎもしなかった華雄の体幹がわずかに乱れている。柄と柄の接点を支点に、華雄の顎目掛けて石突を跳ね上げた。
ぞくりと、背筋が冷えた。曹仁はとっさに両腕を突っ張って、槍と金剛爆斧を身体から離した。刹那、具足を擦りながら、鋼鉄の塊が背後から曹仁の真横を駆け抜ける。
槍を手放し、曹仁は腰に刷いた青紅の剣を抜き打ちに斬り上げた。華雄は落ち着いた動きで、一歩後退してそれを避ける。
さらに一歩距離を取った華雄の手にする金剛爆斧の刃に、曹仁の槍が引っ掛かっていた。華雄が戦斧を一振りすると、くの字に折れ曲がったそれは地に落ちた。
青龍偃月刀と違って、戦斧である金剛爆斧は柄よりも刃の方が外へと張り出している。華雄は懐に入られるや、槍に沿って得物を引き寄せることで曹仁の背を狙ったのだ。槍ごと突き放すことでそれは辛うじて捌いたものの、戦斧の一撃に耐えきれず槍は圧し折れていた。
「ふっ!」
「―――っく」
華雄は冷静だった。曹仁の武器が剣一つとなると、突き技で距離を保った攻撃へと切り換えた。抗い様もなく、曹仁はじりじりと追い立てられていく。
「そんなものか、曹子孝っ! それで天人などと笑わせるっ! ――――っっ!!」
華雄の突きが、横合いからの衝撃に大きく跳ね飛ばされた。
「春姉っ」
不意打ちとはいえ、超重量の鋼鉄を容易く弾いて見せたのは大剣七星餓狼であった。当然、手にするのは春蘭である。春蘭は得物を弾かれた華雄に追撃を掛けると、鍔迫り合いへと持ち込んだ。
「さがれ、仁。地に足付けての戦いでは、お前には荷が重い相手だっ」
上から伸し掛かる有利な体勢を取りながら、圧しきれずに春蘭が声を絞り出した。
「……しかし、華雄さんは俺を―――」
「何とはなしに見守る形になっていたけれど、別に一騎打ちを挑まれたわけではない。その女は我々全員と一人で戦うと言ったのよ。貴方一人の敵ではないわ、仁」
背後から、華琳の声が掛かった。
「華雄だか徐晃だか知らないけれど、そこの貴女。そこにいる春蘭―――夏侯元譲こそ我が軍最強の武人、この私―――曹孟徳が大剣よ。我が軍を不倶戴天の敵と思うならば、まずはその大剣を折ってみることね」
「―――っ、言われるまでもないっ!」
華雄が一歩引いて、鍔迫り合いの圧力を抜けた。春蘭の身体が、前に泳ぐ。金剛爆斧が襲いかかった。
「甘いわっ!」
春蘭は前のめりの態勢からさらに倒れ込むように低く踏み込むと、金剛爆斧の軌道を潜り抜けた。直後、金属音が鳴り響く。
「ほう。―――夏侯元譲といったか? 確かにあの男よりは手応えがありそうだ」
馳せ違い様に放った春蘭の一撃を、今度は華雄が石突で弾いていた。
「…………」
気恥ずかしさに耐えながら、曹仁は華琳のいる虎士の陣まで下がった。
「おかえりなさい」
「……ただいま」
口角を上げて微笑む華琳に、曹仁は力無く返す。
「せっかく天の御使いを、―――天人を名乗らせたというのに、早々に負けてもらっては困るわ」
曹操軍では天人旗を掲げた曹仁の存在を、飛将軍呂布と伍したという誇張と共に広く喧伝していた。それなりに効果はあって、軍に志願する者は増えているらしい。
「そういえば私、仁が一騎打ちで勝ったところを見たことがないわね。反董卓連合の時に春蘭でしょう、それに張燕、呂布、そして今回」
「…………」
何も言い返せずに、曹仁はひとまず眼前の戦いの観客に徹することで気を紛らした。
「はぁぁっっ!!」
春蘭の得意とする上段からの打ち込み。
華雄は真っ正面から一瞬だけ大剣を受け止め、刹那に手首を返した。春蘭の体が流れる。
「くっ、このっ!!」
春蘭は崩れた体勢から強引に大剣を振り上げた。華雄の追撃の一撃と大剣がかち合い、弾き合った。
華雄が、半身になって肩を突き出す様に踏み込んだ。そこから横振りに大斧を薙ぐ。傍から見る分にはただの大振りの一撃。正面から対峙する相手には、一瞬華雄の体で斧が消えたように見えたのだろう。反応が遅れた春蘭は、紙一重のところで大剣で受けた。
「ふっ!」
戦斧が、受けた大剣に絡みつく。引き寄せようとする力に、春蘭が耐える。一転、今度は突きに掛かった。身を屈めて春蘭が避ける。
やはりしばらく見ぬ間に華雄は、技巧派と言って良いほどの技を身に付けていた。
最後の突きなどは、春蘭の引く力をも利用した実に巧みなものであった。あそこにいるのが春蘭以外の魏軍の誰であっても、恐らく避け得なかっただろう。
華雄の持つ金剛爆斧は先端に鋭利な突起を持ち、斧の刃の根元には鎌状の返し、その刃の逆側にも同じく鎌状の鉄板が備わっている。曹仁が我が身をもって体験したところ、突き刺すための槍としても、引っ掛けるための戈としても使える得物だった。以前の華雄は振り回し叩き切るだけの斧としてしか扱えていなかったが、今は完全に使いこなしていた。それも斧、槍、戈の三様の技が一体となって、一つの戦い方に集約している。
行くも下がるも、何気ない動きの一つ一つが技になっていた。存在そのものが武と成るまで、自身を鍛え上げたのだろう。
この戦乱で名を馳せた武人達がいる。天下無双の飛将軍呂布。曹操軍では魏武の大剣夏侯惇。劉備軍では関張義姉妹に趙雲。孫策軍では誰よりもまず孫策自身。西涼の錦馬超。一人抜きん出た恋は例外としても、他の者達と比したところで華雄は一枚劣るというのが曹仁の印象であった。以前の華雄になら管槍を持たずとも勝てる。自分と五分の腕前だった照より強いという話は聞かなかったから、それは自惚れではなく間違いのない事実だろう。今は、華雄は愛紗や春蘭に匹敵する域にいる。
超反応で対応してこそいるが、春蘭は押されがちだった。本能のままに戦うが故に、複雑な用法を有する金剛爆斧に翻弄されてしまっている。その動きにもやがては慣れるだろうが、それまで無傷でやり過ごすことが出来るのか。
「華琳、やっぱり俺が―――」
「黙ってなさい、一騎打ち無勝の男は」
「ぐっ」
二の句も継げなかった。
曹仁が金剛爆斧の多様な用途をもっと引き出せていたなら、今頃春蘭ももっと楽に戦えていただろう。そう思うと、異議の挟みようもない。
そうこうする間にも、戦いは続いている。やはり、春蘭が幾分押され気味だ。また、金剛爆斧が七星餓狼に巻き付いた。
「っく! ――――舐めるなっ!」
引き付ける力に、春蘭は今度は逆らわずに剣を走らせた。
「ちっ!」
今度は先刻とは逆に、華雄の引く力を春蘭が利用した形である。肩から二の腕を抉る大剣の軌道を、華雄は戦斧から片手を離して半身に仰け反ることで躱した。術理を身に付けた今も、刹那の本能に促された体捌きは失われてはいない。
「避けた華雄さんも大したものだけど。……春姉、もう対応した?」
「だから、春蘭に任せておけというのよ。呂布ほどではないにしても、春蘭だってこと武に関しては天才なんだから」
それ見たことかと、華琳が鼻で笑う。春蘭の武に対する華琳の信頼は、今さら言うまでもなく厚い。
恋との一騎打ちを経て、曹仁も武人としての驍名を得ている。春蘭の大剣と曹仁の槍は曹操軍の武の二枚看板となりつつあった。それも、こと世間の評価で言えば曹仁の方が上かもしれない。それだけ虎牢関で天下を驚かせた恋の武名は突出していたのだ。だが、世間の目がどう見ようとも、春蘭は曹仁にとって仰ぎ見るべき武の先達なのだ。
小手先の技を駆使して並び評されるほどになったと、いくらか浮かれてはいなかったか。知らず知らずのうちに己が心に生じた慢心に、曹仁は恥じ入るばかりだった。
金剛爆斧の攻撃に対応しつつある春蘭と、本来の野性的な感覚をも駆使して戦う華雄。とまれ、戦いは拮抗し始めた。
「―――連れて来たわよっ!」
戦いの均衡を破る一手は意外な方向からやって来た。
詠が月の手を引き、息を荒げて虎士の布陣へと駆け込んだ。これまで陣の中に詠がいなかったことに、今さらながら曹仁は気付いた。
月に目を向けると、詠と同じく息を弾ませながらも強張った表情を浮かべ、視線は華雄へと釘付けとなっていた。
―――強い。
これまで徐晃が戦ってきた相手とは比べものにならないほどに強い。先刻手を合わせた曹仁もそこらの賊徒など問題にもならない腕で、一瞬ひやりとさせられたが、それすらも霞む。
「―――むっ」
右のわき腹の古傷がずきずきと自己主張を始めた。
―――そうか、お前を付けた相手も強かったか。
失った過去を思い出そうと、傷口を見つめて自問することは多かった。どれだけの時間をそうして過ごしても記憶が蘇ることはなかったが、今日初めて何か糸口を得た気がする。
曹仁と賈駆は、華雄と自分を呼んだ。董卓軍の武将として、聞いたことのある名だった。裏切り者の言葉を信じるのも癪だが、もしこの場を乗り切ったならどんな人物であったのか、詳しく調べてみるのも良いだろう。洛陽の住人に聞いて回れば、顔見知りの一人もいるかもしれない。
しかしそれも、難しいという気がしていた。
「はあーーっっ!!」
夏侯元譲が、背にかついだ大剣を身体ごと振り降ろす。大振りで読み易い。しかし剣速は驚異的なほどだ。一瞬、肩に乗せて加速させ、そこからさらに腕の力で振り抜いてくる。倒れ込むように前屈みになった体勢も、一見無防備なようでいて、正中線は大剣の軌道に全て隠されている。下手に手を出せば、ただでは済まないだろう。
戦斧で真っ向から受け止めた。受けても、すぐに反撃には手が回らない。衝撃が凄まじかった。並の武器ならそれごと両断されかねないほどだ。だが徐晃として生を受ける以前から手にしていたらしい大斧は、信頼に足る相棒だった。
夏侯元譲が、また肩に大剣をかついだ。訝しげな表情から、絶対の自信を持った得意技であったことが伺える。徐晃はすでに十数度に渡って、その必殺の一撃を凌いでいた。
受け続けた両腕は、わずかに痺れが残り始めている。一人を相手に、これ以上手間取るわけにはいかなかった。この武人に一騎打ちで勝つことが目的ではないのだ。
―――顔も覚えてはいない主君。ただ愛しさだけが募る。
後にはまだ仇が控えている。自分が死ぬか、曹仁に賈駆、そして曹孟徳を討ち取るかだ。
徐晃は腰を落とし、戦斧を地に垂らした。下段からの横薙ぎ。上段から真っ直ぐに走る大剣に阻まれることの無い横からの一撃を、先に叩き込む。
紙一重の差では、渾身の勢いの乗った大剣は止まらない。十分な余裕をもって、先を取る必要がある。徐晃は戦斧の先端を石畳へ降ろすと、重量の大半を地面に委ねた。その分、両腕を脱力させ、柄は立て掛ける様に腰に当てる。腰のひねりと、一瞬の膂力で、最速の一撃を打ち出す心算だ。
こちらの意図を察した夏侯元譲の放つ武威が、一層強まった。大剣はかついだままだ。先を取り合うのに向いた構えではないが、徐晃の下段も似たようなものだ。どちらも構えは崩さず、動きはない。ただ互いの武威だけが押し合う。寄せては返す波のように、時に強まり時に弱まりながら、少しずつ満ちていく。
―――今。
徐晃は戦斧を―――
「―――華雄さんっ!」
刹那、耳朶を打つ声に、徐晃は稲妻に撃たれたような衝撃に襲われた。戦斧は手を離れ、石畳を打った。
こちらへと駆けてくるのは、特に何ということも無い少女だった。面差しは美しく気品があるがそれだけで、曹操のようにあふれる才知を感じさせるでも、楊奉のように義に生きる実直を湛えるでも無い。どこにでもいるような、優しげな少女だ。
自分が何故そんな事をしているのかも分からぬまま、斧を拾いもせず、徐晃は膝を付いた。
「―――華雄さんっ」
すぐ近くで、少女の声が聞こえた。視界がぼやけて、少女の顔が見えない。徐晃は自分が涙を流している事に気付いた。
少女の、顔が見たい。とめどなくあふれる涙を徐晃は拭った。