*今回はほぼ全編に渡って設定語りの回です。最後に設定だけを抜き出してまとめてありますので、理解し難い点がありましたら先にそちらをご覧ください。
「なるほど、貴殿があの董卓殿でしたか。まさか御存命とは」
「あ、あの、楊奉将軍。洛陽をこんなことにしてしまって」
華琳に引き合わされると、楊奉は首を振って頷き、月は腰を折って頭を下げた。
「いえ、貴殿が謝られることはありません。あらましは聞いております。悪辣な宦官などは洛陽の宮中から当に出奔しておりますからな。今でも残っている者の中には張譲と貴殿のせめぎ合いを冷静に見つめていた者も少なくないのですよ。貴殿を悪く言う者は、―――ははっ、まあ皆無というわけではありませんが、それほど多くもありません」
「へぅ、あ、ありがとうございます」
「それで、董卓殿。徐晃は、董卓軍の華雄で間違いないのですね?」
楊奉は、月へ向けていた視線をそのまますぐ横へと滑らせた。
「はい、間違いありません。恐れ多いといって私を真名で呼んでくれないものですから、こちらからも呼べずにいましたが、確かに晃(こう)という真名も預かっています」
月の隣には華雄が跪いている。大斧こそ取り上げられているが、特に拘束もされてはいない。いまだ記憶は判然としないようだが、ようやく見つけた寄る辺とばかりに月の手を捧げ持っている。すがり付く様に掴んだまま離さずに半刻(15分)余りも過ぎているが、月も嫌な顔一つせずに華雄に片手を預けていた。
「もうっ、いつまで手、繋いでるのよ」
その間、曹仁の隣からは絶えず詠の小さなぼやき声が聞こえていた。
詠は微妙な表情で月と華雄の様子を見つめていた。いい加減割って入りたいのだろうが、事情が事情だけに火に油を注ぐことを避けているようだ。どちらにせよ、この後は月からの説教だろうが、さすがに擁護する気もない。この件に関しては大いに怒られるべきだろう。
「―――話は、終わったようだの?」
月と楊奉の顔合わせが一段落ついたところで、頭上から不思議な声が響いた。
見上げると、前殿の入り口に少女が一人姿を現していた。十を二つ三つ過ぎたくらいの年齢だろうか。わずかに赤みがかった髪に、珠玉をあしらった飾り紐を幾つも垂らした豪奢な冠を乗せている。石畳が割け、粉塵が風に舞い、前庭にはいまだ闘争の気配が色濃く残っているが、少女にいささかの気負いも物怖じも見えない。
少女から発せられたと思しき声がひどく不可思議に聞こえたのは、その声質のためである。しわがれた老人の声にも、若い男の声にも、妙齢の女の声にも聞こえる。同時に目の前の少女に似つかわしい、かん高い女児の声にも聞こえた。老若男女数百人が集い、一斉に声を出したらならこう聞こえるかもしれない。そう思わせる響きだった。
「――――っ! このようなところまで御出で頂くとは」
楊奉がはっとした顔つきで駆け寄ると、その足元に跪いた。月も慌てて膝を折っている。
「華琳、あの子が」
「ええ、私も数年前、陳留の太守に赴任する時に一度お目通りしただけだけれど、あの冕冠、間違いないでしょう」
華琳が虎士に武装解除を命じ、自身も含め全員を跪かせた。曹仁も皆にならって跪拝した。
姿を現した天子は、考えてみると曹操軍とは縁が深い。漢室の臣としての華琳の赴任地であり、そのまま曹操軍の旗揚げの地となった陳留は、天子となる前に彼女が封じられていた土地である。陳留太守であった華琳は、陳留王であった天子に代わって陳留郡を治めていたのだ。
曹仁も一度、皇甫嵩と共にお目通りしたことがある。ちょうど育ち盛りの年頃だから、記憶に残る姿よりも随分大人びて見えた。当時は親しく声を掛けられもしたし、その後も何度か呼び出しを受けた。反董卓連合との戦がすぐそこまで迫っていたから、結局はそれきりで拝謁する機会はなかった。
「曹仁、それに曹操。話がある。楊奉、あとの者の相手は任せる」
やはり不可思議な声でそれだけ言うと、天子はさっさと踵を返した。付いて来いということなのだろう、楊奉が大きく首肯して曹仁と華琳を促した。
曹仁と華琳は天子の小さな背を追った。
前殿を抜けると、前庭と同じく石畳が敷き詰められた広大な中庭が広がる。両端には無数の建物が並んでいて、中には近衛兵や宮中の雑役をなす者の詰所などもあるはずだが、静かなものだった。天子は左右には目もくれずに真っ直ぐに歩き、華琳と曹仁もそれに続いた。
中庭の先にはもう一度城壁、そして城門がある。華雄が人払いをしたのはここまでのようで、門番が恐縮した様子で立ち竦んでいる。
城門を越えた先が、いわゆる朝廷である。緩やかな階段が続き、その先にそびえるのが朝議の行われる謁見の間だった。臣下が普通に入れるのはそこまでで、その先は皇族の居住区域が続いている。
謁見の間に入り、さらに天子は玉座の階を昇った。華琳と曹仁は階の手前で膝を付いた。
「……?」
「何をしておる、こっちじゃ」
玉座には付かず、天子は左右に垂らした幔幕の影に消えた。呼び声に、さすがの華琳も躊躇いがちに階を昇ると―――ここでは異世界生まれの曹仁の方がむしろ躊躇なく―――、天子の後を追った。
幔幕の影から続く道は、つまりは謁見の間と皇族の居住区を繋ぐ通路である。居住区は原則として皇族以外の者の立ち入りは禁止で、他に入場が許されるのは彼らの身の回りの世話をする宦官と女官に限られる。ただ、実際には皇族が臣下を私室に招じるというのは間々あることではある。かつて詠の手引きで曹仁と皇甫嵩が張譲、そして天子に引き合わされたのも、居住区にある一室でのことだった。だから居住区に赴くこと自体は躊躇うほどのことではないのだが、玉座の裏から謁見の間を抜ける通路は本来天子しか使わぬ道であろう。そもそも玉座の階に足を掛けた時点で、臣下の分を越えている。
とはいえ華琳はさすがに腹の据え方が違う。最初こそ戸惑いが見えたが、すぐに吹っ切れた様子できょろきょろと興味深げに周囲に視線を飛ばしている。通路を抜け居住区に入ってからは煌びやかな装飾の類を一々観察しようとするものだから、曹仁が手を引いて先へ促した。
「ようやくまた会えたの、曹仁」
天子が腰を落ち着けたのは、居住区の中でも特に奥まった一室である。大きな寝台が一つあって、天子はそこに腰を掛けて脚をぶらつかせていた。声は、やはり不可解な響きを帯びている。
あまり片付いた部屋とは言えない。というよりも、一言で言うなら荒れていた。床に転がっているのは、お人形や手毬といった女児向けの玩具の類だ。幼子が遊ぶだけ遊んで片付けずに放置したままにしているのだろう。皇族の居住区というが、洛陽には今やその皇族は天子一人が住まうのみだ。その幼子というのは、目の前の天子以外にはありえない。
「はっ、一別以来、ご無沙汰いたしまして申し訳ありません」
曹仁と華琳は、とりあえずという感じで寝台の前に膝を付いた。
「何度か呼び出したはずじゃがの」
「申し訳ありません。開戦に備え、立て込んでおりましたもので」
「ふむ。まあ良い。お主は我が国の住人、朕の臣民と言うわけではないのだからの」
一瞬、天子の言葉の意味が理解出来なかった。
「恐れながらお聞きします。陛下はこの曹仁が天の御使いなどという噂話を、お信じなのですか?」
華琳の言葉で、曹仁はようやく天子が天の御使いのことを言っているのだと気付いた。
「うむ、もちろんじゃ。なにせ、呼び寄せたのは朕だからの」
華琳の問いかけに、天子があっけらかんと答える。声はやはり複数のものが重なって聞こえる。
「―――呼び寄せた?」
「うむ。この世界の崩壊を止める切り札として、呼んだつもりじゃったのだがの」
「―――っ! 聞き覚えがあるはずです」
天子に拝謁するのはこれで二度目であるが、その不思議な声は前回初めて会った時から曹仁の記憶に引っ掛かるものがあった。この世界に至る直前に聞いた声があったことを、曹仁はここで初めて思い出していた。その時何を話したのか、その詳細はぼんやりとした薄雲に覆われたようで思い出すことは出来ない。しかし、印象的な声の響きだけは覚えている。
「本当なの?」
天子に促され説明すると、華琳は疑わしげな視線を向けてくる。
「ああ、間違いない」
曹仁は強く頷き返した。
「―――少し長い話になるが、付き合ってもらうとしよう」
天子が威儀を正して―――腰掛けているのは寝台の縁で、玩具の散乱した室内に変わりはないが―――、勿体ぶるように続けた。
「この世界は―――外史と、管理者達は呼ぶらしいが、―――すでにして滅びの時を迎えて久しい。本来なら、高祖様が西楚の覇王を討たれて漢王室を開いた時を頂点に、閉じ行くはずの外史だったのだ」
「―――理解が追いつきません。この世界とは、外史とは、何のことですか?」
突然の話にいまだ胡散臭げに眉を顰める華琳は、ともすれば全て聞き流してしまいそうな様子で、曹仁は慌てて口を挟んだ。
「そうさな。とりあえずは単純にこの世界や、並列して存在する別の世界のことと思ってくれて良い」
「別の世界? 世界は一つではないということですか?」
「それは、何よりもお主自身が一番よく知っていることであろう? お主がかつていた世界と、この世界はまったく別のものだ。時間軸の移動、お主の外史風に言うならばタイムスリップしただけだとは、お主も思ってはおらぬだろう?」
「確かにそれはその通りですが」
「まあ、良いさ。本題はそこでは無いのでな。それはそういうものだと、ひとまず理解しておくが良い」
疑問を残したままに、天子が続ける。
「外史は絶対者―――それこそ天と言い代えても良い存在の自儘で生まれ、いずれは彼らの戯れに、倦怠に、忘却の果てに、その存在意義を失う。存在意義を失った外史に待つものは、すなわち滅びじゃ。この世界は誕生した瞬間から、常に滅びへと集束し続けているのだ」
天子が苦々しげに言う。
「天子とはその絶対者に、天に抗う為のシステム。天子とは本来天帝の子、天の意思を汲み取る者を意味するが、実体はまるで別。この外史に住まう人々の総意を司る者。それが朕じゃ」
「しすてむ?」
「えっと、仕組みとか機構とか、そんな意味の言葉だ」
訳の分からないことばかり偉そうに、と華琳が曹仁にだけ届く小声で漏らした。やはり話す内容は漠としていて曹仁にも理解し難いが、華琳も一応は耳を傾けてくれているようだ。曹仁も大人しく聞き役に回ることにした。
「かつて、我らと同じく外史に生まれたただ一人の人間の意志の力によって、新たな外史の突端が開かれるという奇跡があった。……もっとも、それが彼の人自身の力によるものなのか、あるいは絶対者の歓心を、同情を、引いた結果によるものなのかは定かではないがの」
天子は皮肉げな笑みで言った。
「滅びゆく世界を維持すること、それはある意味で新たな世界の創生よりも困難なことじゃろう。だが、一人の人間の意志で世界を創世出来るならば、この世界に住まう全ての人間の意志の力を一つに集約させたなら、その存続とて不可能ではない」
天子は一度言葉を切って、胸を反らした。
「試みに造られた集束点こそが朕―――天子じゃ。この世界に住まう全ての民の意志、その中でもとりわけ強い潜在的な滅びへの忌避―――生への願望を、ただ一点に集約し巨大な一つの力の結晶とする。天子を受け継いだその瞬間から、朕は人であった劉協とは別に、この世界に住まう人意の総括者である朕に、天子というシステムの一部となったのだ」
「―――つまり陛下は、この世界の終焉を避けるために、民の意志を集約し、その意志を力とするシステムの中枢だということでしょうか?」
「そうじゃ。なかなか理解が早いの」
天子がうんうんと盛んに頷いて見せるが、曹仁は単に言葉の表層をまとめてみせただけに過ぎない。
天子の紡ぐ言葉は、曹仁の理解の範疇を遥かに越えている。世界が複数あるという話は経験上納得せざるを得ないが、世界の滅びであるとか、絶対者であるとか、意志の力であるとかは、目の前の少女の妄想としか思えない。ただ少女がその理解及ばぬ力でもって、この世界へと曹仁を誘ったことだけは否定しようのない事実であった。
「本来なら己が覇業の完遂と共に終幕を迎えるはずの外史を存続させるため、高祖様があの張子房にお命じになり、神仙術の粋を集め作り上げたシステムじゃ。もっとも、全て民の願望を呼び寄せる機構に高祖様自身が耐え切れず、晩年は人々の欲心に踊らされ、猜疑の果てに粛清を繰り返すこととなった」
話は多少曹仁にも分かり易くなった。神仙術というならば張三姉妹の次女が使う妖術と似たようなものだろう。張宝の妖術も理屈自体はいまだにさっぱり理解出来ないが、現実に種も仕掛けもなしに煙幕や光線が発される瞬間を目にしている。
高祖劉邦の覇業を支えた張良が神仙術に傾倒したという話自体は既知の事実でもある。晩年の劉邦が功臣の粛清を行ったのも史書に記された通りだ。一般に張良はその粛清から逃れるため、神仙術へ傾倒することで世俗への無関心を装ったとされるが、天子の話を信じるならば実情は全く異なるということになる。
「しかし陛下は、猜疑心にとらわれているようには見えませんが」
「うむ。天地を飲み干すほどの大器を備えた高祖様をしてそれじゃからな。人である限り、欲に惑わされる心を消すことは出来ぬ。そこで朕らは天子と言う別の精神を備えることとしたのじゃ。漢王朝の帝である人の子と、人意の集束点としての天子。後者である朕は、永久に漢室の血に宿り、詰まらぬ欲心など持たず、一個人を超越して全て民の意志を体現し、外史を存続させる者じゃ。―――まあ、それも朕の束ねた力によるものではなく、朕の特異な存在が絶対者共の気を引いたが故のことかもしれんがの」
自嘲気味に笑う天子の感傷はやはり理解出来ない。曹仁は迎合せず率直に別の疑問を口にした。
「……それでは今お話している陛下とは別に、漢王朝の帝であらせられるお方がもう御一方存在するということですか?」
「そうじゃ。そちらは朕とは違い、皇室に生まれ落ちたというだけのただの人間よ。苦労が多い分、先代や先々代よりも随分と増しじゃがな。ここ数代は本当に出来の悪いのばかりが続いた」
自嘲から一変、天子は憤りを見せた。
ころころと表情がよく変わる。自らを超常の存在と語った少女は、本人の言に反していやに感情豊かで人間臭い。逆を言うと常人離れした移り気とも言える。それが無限にも等しい人々の意志が流れ着いた結果と考えれば、何となく理解出来なくはない。
「……それで結局、この子を何のために呼んだのでしょう?」
不快気に口を結んで押し黙った天子に、華琳が曹仁を指し示して問うた。
「おおっ、肝心なことを忘れておったな」
本当に忘れていたのか、天子が思い出したように手を打った。
「今、人々の心に滅びに恐れ抗おうという気持ちが薄れつつある。代わりに、朕の胸中になだれ込んでくるのは、諦観。理由は聞くまでもあるまい?」
「―――乱世」
「そうじゃ。心が満ち足りているからこそ、滅びを恐れもする。民が未来に希望も抱ける。いま民は、生きることを楽しんではおらぬ。このまま、民の生への願望が薄らいでいけば、早晩我が身は滅び、それはこの世界そのものの崩壊を意味する。曹仁、お主を呼び寄せたのは、我が身の崩壊を止めるためよ」
「しかし、私にそれをどうこうする力などございません。神仙術の類なら、私よりもこの世界の住人の方が遥かに詳しいでしょう。そうだ、張宝を―――」
「―――仁、そうではないわ。……陛下、つまり乱世をお鎮めになるために、この子を呼び寄せたと?」
「うむ。人相見や占い師やらに、乱世を治める天の御使いの噂を流させたのも朕じゃ」
「……それにしては漢室は、曹家の天の御使いを認めぬという態度を取り続けておりましたが」
華琳が冷やかに返す。
曹嵩の太尉罷免に始まり、黄巾の乱の折に皇甫嵩の元で少なくない武功を上げた曹仁に恩賞が下されることもなかった。
「その点に関しては謝らねばならぬな。申した通り、この身は朕一人のものではない。朕の人格は常に表に出ているわけではないのじゃ。政に口出ししたことなど、高祖様を継いだ恵帝の御世から数えてもほんの数度じゃろう。国が乱れ、力の弱った今となっては、むしろこうして表に出ることの方が珍しい。人ひとり呼び寄せるのに力を使った後ともなればなおのことじゃ。朕が隠れている間は、この身はただ無力な幼帝であり、先代、先々代の身も、傀儡の王でしかなった。宦官や外戚の指図を跳ね除けることも出来ぬ」
実際の政を、この超常の天子が為すというわけではないらしい。それが我が身の不遇に繋がったとはいえ、曹仁はどこかほっとした気分だった。民の意志の総括者を自称するとはいえ、目の前の天子は超常の存在には違いない。そんな人知及ばぬ者に現実の政が委ねられるというのは、あまり気分が良いものではなかった。
「しかし乱世を鎮めるためというのなら、それこそ何故私なのですか? 世界が複数あるというのなら、私よりも頭の良い者も腕の立つ者もごまんとおりましょう。いえ、私のいた世界だけでも、それこそ星の数ほども」
高名な武術家なり格闘家、軍人、あるいは歴史や科学技術に精通した学者。この世界に訪れた当時、十歳にも満たない子供だった曹仁よりも役に立つ人間などいくらでもいる。時代すら超越出来るなら、いっそのこと曹仁の世界の呂布や曹操を呼び出してしまっても良い。
「力は、重要ではない。むしろこの外史にそぐわぬ程の過ぎたる力は、絶対者共の不況を買って世界の崩壊を招きかねん。大切なのは、縁じゃ」
「縁?」
「お主も知っての通り、この外史の主役は今や我ら高祖様直系の皇室から移り、そこにいる曹操であり、袁紹であり、劉備であり、孫策である。あるいは関羽や張飛、呂布、夏侯惇といった豪傑達や、諸葛亮や周瑜、筍彧といった軍師達も主役の一人であろう。お主はその内の何人と誼を通じておる?」
「それは」
「家族に、家族同然の付き合いの者。ご主人様なんて呼びかねない勢いで慕う者。比較的親交がうすい者でも戦友ね」
曹仁に代わって華琳が答えた。
「この世界の主役達と物語を紡ぎ出せる者、それが第一の条件じゃった。―――つまり縁じゃ。たとえ無双の剣客であろうと、戦場を意のままにする軍師であろうと、名もなさずに朽ち果てることもある。お主が我が呼び掛けに答えたのも縁なら、曹家に拾われたのも縁、多くの英雄達と交わったのも縁だ。この世界に名立たる英雄豪傑のほとんどとお主は誼を通じている。この外史とこれほど強い縁で結ばれた人間が他にいようか」
完全に納得出来たわけではないが、言い返す言葉も無かった。縁という不確かな言葉で言い表すことに多少の違和感を覚えなくはないが、人間関係については恵まれすぎていると常々感じてはいる。
「本来ならその強い縁でもって、曹操や劉備らを傘下に加え、この乱世を終結に導くことを期待していたのじゃがな」
またも、返す言葉も無かった。無頼を気取っていた数年前ならいざ知らず、今の曹仁に華琳や桃香の上に立つ自信はない。
「さて、今日招いた本題はここからじゃ」
天子が改めて威儀を正した。冕冠の飾り紐の一本一本までが音も立てずに綺麗に整列する。
「曹操よ。この世界の崩壊を防ぐため、曹仁に代わり乱世を早急に終息させてほしい」
「…………正直に言わせて頂くと、今日陛下にお聞きしたお話は、にわかには信じ難い話です。しかし私はこの子がこの世界に来訪した瞬間も目にしています。不可思議な力があるということは、認めざるを得ません」
「ならば、我が願い受けてくれるか?」
「はっ。乱世を集結させることは、陛下に命じられるまでもなく我が宿願。必ずや、天下を静謐にしてご覧に入れましょう」
言葉通り、天子の語った話の内容を華琳は頭から信じてはいないだろう。それでも乱世の終結という願いを、華琳が断る理由はどこにもない。
「ならば良い。――――んっ」
華琳の力強い言葉を聞くと、ぴんと張りつめていた天子の体がぶるりと震えた。
「そろそろ時間のようじゃな。この身体の本来の主と交代せねばならん」
言うと、天子はそのまま寝台に倒れ込んだ。
呼吸にして一つか二つ、それ位の間を置いて次に体を起こした時には、目元を擦り、背筋を伸ばして軽く欠伸などもし、寝起きの態であった。
惚けた表情はどこか桃香に―――本人すらが半信半疑の漢皇室の裔という血筋はあながち間違いではないと思える程度に―――似ていた。顔形は同じでも先刻までは抱かなかった印象は、表情こそ豊かでもやはり超常の存在であったということか。
「―――っっ!! あ、貴方達はっ!?」
そこでようやくこちらに気付いて、天子が驚きの声を上げた。
帝は、超常の天子であった時の記憶を共有してはいないようだった。それならそれでもう少し違った対面を演出して欲しいところだが、超常の存在にそんな気配りを求めても仕方がない。
曹仁と華琳は寸時顔を見合わせると、改めて跪拝して見せた。
以下、本話で語られた作中設定のまとめ。
この作中世界は、『楚漢†恋姫~ドキッ☆乙女だらけの項羽と劉邦の戦い~』の外史であった。
漢王朝の成立と共に崩壊するはずの外史を、劉邦の軍師張良の神仙術で延命させ続けている。張良の用いた神仙術は、外史に住まう全ての民の根源的な欲求―――生きたいという意思を天子の元へと結集し、その意志を力として世界の延命を図るというものであった。皇帝の別人格―――超常の天子の力によって、あるいはその特異な存在が絶対者=正史の住人の歓心を得たことで世界は存在し続けている。
乱世は人々の生きたいという意思を弱め、天子の存在、ひいては世界そのものの崩壊を招きかねない。乱世の早期終結を為す英雄として別の外史から天子によって招かれたのが曹仁。この世界の英傑たちと強い縁を持つ存在である。それゆえに多くの知己を得、華琳や桃香、恋達とは家族同然の付き合いに至る。天子の望んだ英雄としての役割を華琳の傘下に加わった曹仁は果たせずにいるが、結果的に覇者が誰となっても乱世さえ終結させてくれれば世界の崩壊はまぬがれる。天子は曹仁に代わる英雄としてその主君華琳に世界を委ねるのだった。