「―――曹仁さんっ、おはよう」
「ああ、おはよう、桃香さん」
洛陽の宮殿前で、曹仁は桃香と落ち合った。約束された時間よりも早めに付いたはずだが、桃香はすでに来ていて、曹仁の顔を見ると駆け寄ってきた。
数日前に取り付けられた約束で、次の曹仁が非番の日に出掛けようと誘いに来た桃香は、珍しく緊張した面持ちだった。
「それで、今日はどこへ行くんだ、桃香さん?」
一日を目一杯使いたいということで、時刻はまだおはようという挨拶が似合う時間帯だ。昼食には早過ぎるし、まだ開いていない商店の方が多いだろう。
「えっと、その前にまず。―――今日はせっかく二人で遊びに行くんだし、桃香“さん”じゃなく、華琳さんみたいに桃香って呼ぶ捨てして欲しいな。ううん、今日はっていうか、出来れば今日から」
約束を取り付けた日と同じく、幾らか緊張感をにじませた表情で桃香が言う。
「ん、ああ、それはもちろん構わないけど。……そういえば華琳は桃香さん―――桃香を、呼び捨てか。一応客人だし、桃香将軍ぐらいに呼んでも良さそうなものだけど。まあ、華琳は他の誰に対しても大抵敬称なんか付けないか」
華琳の他に桃香を真名で呼び捨てにしているのは、曹仁の知る限りでは白蓮くらいだろうか。その白蓮も今は劉備軍で桃香の部将の一人である。小さいながらも一つの勢力の頭となると、気兼ねなく付き合える友人というのは減るものだろう。もっとも桃香の側からは、そうした身分に対する気負いのようなものは一切感じられないのだが。
「そうじゃなくってっ。華琳さんが私を呼ぶみたいにじゃなく、曹仁さんが華琳さんを呼ぶみたいに」
「うん? ―――ああ、わかった」
結局は同じことのように思えるが、強調する桃香の微妙な乙女心に曹仁は首肯した。
桃香に対して特に距離感を覚えて“さん”付けで呼んでいたわけではない。黄巾の乱の鎮圧では半年以上も軍を共にした仲だ。鈴々や季衣のような年少組と違って、何となく呼び捨てにする切っ掛けがつかめなかっただけの話だ。
「ええと、それじゃあ、改めてよろしく、桃香」
「うん、こちらこそ、曹仁さん」
桃香の方は、“さん”を取らないらしい。華琳のように自分を仁と呼び捨てにする桃香も見てみたい気がするが、そもそも彼女が誰かを呼び捨てにするのを見たことがない。
「それで、今日なんだけど。私、洛陽は初めてだから、曹仁さんに案内してもらいたいなって」
桃香達劉備軍が洛陽に駐屯中の曹操軍と合流したのは、つい先日のことである。
すでに桃香は天子―――超常の存在ではなく人である皇帝―――との拝謁も済ませ、漢皇室に連なる血の持ち主であると認められていた。帝とは気も合ったようで、以来話し相手として何度か呼び出されてもいるようだ。宮中では、皇叔(皇帝の叔母)という皇族に準ずる扱いを受けていた。朱里や雛里などは桃香の出自に箔が付いたと素直に喜んだようだが、当の本人はあまり気にもしていない様子だ。
「それは構わないけど、俺が知っている頃とは随分と様変わりしているからな。ちゃんとした案内になるかどうか」
桃香は正確には反董卓連合の際にも洛陽を訪れているはずだが、あの時は街を見て回る余裕など当然なかっただろう。
一方で曹仁は、そもそも幼少期の大半を洛陽で暮らしている。曹家の本拠地は予州の沛国譙県であるが、曹仁がこの世界に呼び寄せられた当時、太尉に就任したばかりの曹嵩も学生の身分であった華琳ら一門の若者達も皆、洛陽を生活の拠点としていた。曹仁にとっては本拠譙県の邸宅の方が別邸の感覚に近い。その後、県長に赴任した幸蘭に連れ添って地方へ出たが、黄巾の乱が終わると洛陽に舞い戻って皇甫嵩の屋敷で一年近くも暮らしている。本来洛陽は庭のようなものであるが、現状は慣れ親しんだ姿から大きく変わってしまっている。
「いいから、いいから。子供の頃の曹仁さんや、黄巾の乱の後に私達と別れてから、どんなふうに暮らしていたのかも知りたいし」
「そうか。なら、行こうか。空き家ばかり紹介することになるかもしれないけど」
「うん」
「それなら、まずは―――」
最初に向かったのは、宮殿から歩いてすぐの所だった。
「ここが、曹仁さんが皇甫嵩将軍や恋さん達と暮らしていたお屋敷?」
「ああ」
曹家の屋敷は、案内する以前に現在曹操軍の宿舎として使用されていて、桃香ら劉備軍の首脳陣もそこへ宿泊している。次いで曹仁にとって思い出深い場所となると、ここしかない。
玄関の戸を押し開けると、ぱらぱらと砂と埃が舞い落ちた。
宮殿に程近い大通り沿いでもあるから、何度となく目に留まってはいたものの、中にまで入るのは洛陽を訪れてより初めてのことだ。機会などいくらでも作りようはあったが、何となく二の足を踏んでいたのだ。霞も従軍していたなら、あるいは洛陽まで恋達を伴っていたなら、軽い気持ちで踏み込めたのかもしれない。一人で訪れるには、賑やかな思い出があり過ぎる場所だった。
「―――すっかり薄汚れてはいるが、荒らされた様子はないな」
李傕や郭汜も、さすがに遠慮をしたということだろうか。立地的に考えれば兵を籠もらせるには最適で、真っ先に争乱の現場となってもおかしくはない。
「曹仁さんのお部屋は?」
「ああ、そこは順―――高順の部屋だ。その右隣が俺の使っていた部屋」
桃香が興味深そうに部屋の戸を開けて回り始めた。
最後に屋敷を出る前に、高順と念入りに掃除をしている。長い時間の経過とも相まって、生活の匂いを感じさせるものは皆無だった。皇甫嵩や霞がよく飲んだまま転がしていた酒瓶の類も残ってはいない。恋の拾ってきた動物で溢れ返ってもいないし、高順と音々音の口喧嘩も当然聞こえてはこない。
「別の場所に行こうか」
特段に珍しいところなどない、ただ広いだけの屋敷だ。探索にも飽きて隣に並んできた桃香に、曹仁は言った。
広いだけはあって、それなりに時間は潰れている。商店も軒並み開き始める頃合いだ。
玄関を抜けて大通りへ出ると、そのまま道沿いを進んだ。他は無人の廃墟が並ぶばかりだから、他に選択肢もない。否応無しの道行も、進んでみると悪くなかった。
「―――曹仁将軍!」
立ち並ぶ商店にはいくつか見知った顔もあって、気さくに声を掛けてくれる者もいた。聞けば、一時避難していたが、楊奉による洛陽の再建が始まるとまた店を構えたのだという。客となる住人が少ないのだから、当然商売はあがったりだろう。それでも生まれ育った洛陽への思い入れが、商売の利に勝ったらしい。
「これ、持っていって下さい」
「懐かしいな、ありがとう」
大きめの肉まんが手渡される。かつて恋や高順との買い物帰りに、よく食べたものだ。
二つ渡されたうちの一つを桃香に渡して、口に運びながら道を歩いた。皮は薄くもっちりとしていて、それがざく切りの筍や椎茸、肉汁たっぷりの餡を包みこんでいる。空気を含んでふわりとした厚手の皮の肉まんも販売している店だが、曹仁は餡の味をより直接的に楽しめるこちらの方が好きだった。店主は曹仁の好みも覚えていてくれたらしい。恋は厚手の皮に肉汁がしみ込むのも、餡が多いのも好きで、両方を買って交互に口に運んでいたものだ。
「ふふっ」
「どうかしたか?」
桃香が、曹仁の顔を覗きこんで笑った。
「皇甫嵩将軍のお屋敷を見てから、曹仁さんちょっと落ち込んでる様子だったから。案内なんか頼んで、悪いことしちゃったのかなって思ってたんだけど、元気が出たみたいで良かった」
「なんだか桃香さん―――桃香には、いつも心配ばかりかけている気がするな。出会ったばかりの頃は、この人こんなにのほほんとしていて大丈夫なのかって、俺の方が心配になったものだけど」
「その言い方は酷いなぁ」
桃香が冗談めかして頬を膨らませた。
「……あれ、牛金さんじゃないですか?」
「ああ、確かに」
しばらく街をのんびり散策していると、桃香が先を行く人波を指差した。人が少ないとはいえ大通りにその全てが集中しているため、人通り自体はそれなりに多い。そんな中にあっても、頭一つ抜けた巨漢の姿はよく目立つ。
声を掛けようと足を速めた曹仁と桃香に先んじて、女性が一人、角へと歩み寄った。妖艶、という言葉のしっくりくるような女で、容姿はもちろん挙措の端々から艶を感じさせる。そんな女が、数語親しげに言葉を交わしたかと思えば、幼子のような仕草で体ごとぶつかる様に角へ抱きついた。
「―――角」
無粋かとも思いつつ、興味を引かれた曹仁は声を掛けた。
「あっ、兄貴。それに劉備様も」
「こんにちは、牛金さん」
「ご無沙汰しております、劉備様」
ほとんど軍営に籠り切りの角と、宮中や街が活動の場の桃香が顔を合わせる機会は少ない。もしかすると、まともに口を利くのは曹仁が張闓を痛めつけたあの日以来になるのかもしれない。
「で、そちらのお美しい女性は? どういったご関係で?」
「いえ、これは」
曹仁の冗談交じりの問い掛けに、角が決まり悪げにうつむいた。
「ははっ、お前のそういう顔は初めて見るな。なんだ、俺には紹介してくれない―――」
「―――そのお声は、曹子孝様かしら?」
冷やかな声が、曹仁の言葉を遮った。角に身を寄せ、曹仁には背中を向けたままの女性が発したものだった。
「っと、これは失礼しました。…………どこかでお会いしたことがありましたでしょうか?」
おもむろに振り返った女性と顔を見合わせても、曹仁の記憶の中に該当者は見つからない。
「うふふっ、角様は一目で私と気付かれましたのに。御遣い様にも存外鈍いところがお有りですのね」
「こらっ、やめないか」
挑発的な微笑を浮かべた女性は、角に叱りつけられると、一転子供のような仕草で舌を出した。
角を手で制しながら、曹仁は矯めつ眇めついささか不躾な視線を女へと注いだ。女性としては長身の部類に入るだろう。細身ながらも女性らしい丸みも帯びた身体つきで、すっと伸びた背筋と、わずかに傾げて見せた顔が、独特の色気を感じさせる。
「……駄目だ、思い出せん。―――降参だ。ご尊名をお聞かせ願えませんでしょうか?」
「ふふっ、司馬仲達と申します」
「……司馬、仲達。……司馬防殿ゆかりの方でしょうか?」
司馬家は漢朝の名門と言って良い家柄で、現当主の司馬防は漢室の忠臣であると同時に、商売で財を成した大富豪としても知られている。かつて曹仁と角は侠気あふるる大商人としての司馬防を頼って、様々な便宜を図ってもらったことがあった。張譲との政争に敗れ皇甫嵩の屋敷に逃げ込んできた麗羽を洛陽から脱出させられたのも、司馬防の助けによるところが大きい。
商業都市としての機能を失った洛陽に最後まで本拠を残した商人が司馬防で、楊奉の行った再建計画にも大きく関与していると聞いていた。経費の捻出は、かなりの部分で司馬防の侠気に頼るところがあったという。
「ええ、次子に当たります」
司馬防には子が多い。その多くは戦火に親を失った孤児を養子としたものである。かつて曹仁らも、暗殺集団残兵の宿営で拾った盲目の少女を預けたことがあった。
「そうでしたか。あの娘は元気にしていますでしょうか? お預けしたきりで申し訳ない。会いに行こうにも、私は彼女に嫌われておりましたので、なかなか足が向かず。角は、洛陽にいた頃にはよく出向いていたようですが」
次子、とまで明かされても、曹仁に思い当たるものはなかった。はぐらかす様に、かつて残兵で軍師見習いをしていた少女の話題を振った。
「くっ、ふっ、あはははっ! 本当に鈍いお方ですのねっ。その娘というのが私ですわ。私が、あの日、貴方に槍を突きつけられて逃げ出した盲目の娘です」
「―――はっ?」
理解を超えた発言に、暫時、曹仁の思考が止まった。
脳裏に浮かぶ少女と、眼前の女性がどうしても結びつかない。記憶の中の少女は朱里や雛里と同年代で、以前はそれ相応の容姿をしていたのだ。同じ軍師ということで雰囲気も似通ったものがあった。角に寄り添うように立つ女性は、同じ軍師で言うならば孫策軍の周瑜ほども手足が伸び、体付きも豊満とまではいかないまでも十分に大人の女性のものだった。
「いや、嘘だろう。あれから、―――そう、まだ二年ちょっとしか経っていないんだぞ」
「二年も、ですわ。二年もあれば、女は化けますのよ」
角に視線をやると、曹仁の疑念を否定する様に小さく首を横に振った。
「そうだ、目は? あの娘は目が見えなかったはずだが」
「一年ほど前になるかしら。何の前触れもなく、ある朝起きたら急に目が開きましたの。元々、瞳自体が光を失っていたわけではなく、目蓋が開かなかっただけでしたのよ。当時から、手で強引に開いてやれば、ものを見ることは出来ましたわ」
「……じゃあ、本当に」
「ええ、改めてよろしくお願いしますね、曹仁様。今は養子に貰われて、司馬防が次子司馬懿。字を仲達。―――いえ、角様の大事な兄弟分なれば真名で、春華(しゅんか)、とお呼びください」
「あ、ああ、よろしく」
「以前のように曹仁様を怖がるような真似は致しませんので、ご心配なく。くふふっ」
春華が口角を上げて笑った。やはり所作の一つ一つが妙な色気を放つ。そして角に対する時だけは、昔と変わらぬ子供じみた振る舞いに変わるようだった。曹仁に対する棘のある態度に眉を顰める角に、春華はまた小さく舌を出した。
「―――へえ、朱里ちゃん達に話したら励みに、……なるのかな? それともその差に落胆しちゃうかな?」
角と春華と別れた後、事情を説明すると桃香は難しい表情で呟いた。
朱里と雛里は成長の予兆すら感じさせない己が身に、かなりの劣等感を抱えているようだ。以前からそうだったが、最近ではお仲間と思っていた鈴々が年相応の成長を見せ始めているから、本人達にとっては深刻な悩みなのだろう。曹操軍の首脳陣をも驚かせる知謀の持ち主がそんな可愛らしい悩みを抱えていると思うと、本人達には悪いが微笑ましさに自然と曹仁の頬は緩んだ。
「今日はよく人に会うな。―――月さんに詠。それに徐晃殿か」
さらに街を歩くと、ちょうど路地裏から出てきた月と詠、徐晃に行き合った。
「こんにちは、曹仁さん、劉備さん」
月がにっこりとほほ笑んだ。それが作られた笑顔に見えるのは、書類をもって街の視察をしていたらしい彼女の心情が察せられてしまうためか。
月の現れた小道の先は、人の気配もない静けさの中にある。路地裏と言っても、光武帝以来二百年の都洛陽の大通りを一つ逸れただけだ。往時であれば、今の許や陳留の中心街よりも人の往来は激しかった。
「ふうん、ボク達が忙しく街を調べ回ってるって言うのに、アンタは逢い引き?」
「えへへ、そう見えます?」
曹仁が否定するより先に、桃香が嬉しそうに受けた。
「―――っ、皮肉の通じない子ね」
詠が毒気を抜かれた様子で肩を落とす。詠は皮肉屋の割に気は優しいから、月や桃香のような裏表の少ない人間との会話ではいつも劣勢に回っている印象がある。
「お付き合い頂いているのだな、徐晃殿」
「董―――月様の身は、私が守る」
洛陽の踏査など白波賊では当の昔に済ませているだろう。徐晃は白波賊の将ではなく、あくまで一武人として月の護衛に付いているらしい。
徐晃はまだ完全に記憶が戻ったわけではない。ただ月に対する忠誠心だけは明確に意識していて、董卓の名を捨てて今は張繍を名乗っていると聞いて、徐晃も華雄の名を捨てた。董卓軍の華雄は董卓と共に死に、今後は徐晃として月に仕えるのが望みだという。今はまだ白波賊の将という扱いだが、楊奉からも許可は取り付けていた。洛陽に曹操軍の兵士が常時駐留することが決まり、白波賊でも合わせて軍の再編がなされている。それが終わり次第、徐晃は白波賊での任を解かれ、正式に月の臣となる。陪臣として華琳の指揮下に入るということだが、仇敵から一転、今は月の恩人ということでその命に従うのも吝かではないようだ。
「それにしても―――」
「ん? ……何か?」
「いや、何でもない」
護衛であるから武装はおかしくはないのだが、街中で見る徐晃の鎧姿は相当に異色を放っている。露出そのもので言えば霞や真桜辺りと大差ないが、物が具足だけに与える印象は強烈だった。戦時以外にはほとんど顔を合わせる機会もなかったからか、そもそも徐晃は私生活でも常にこの肌の露出が極端に多い具足を着込んでいるような気がする。さすがに普段からこの姿で街を歩き回っているとは考えにくいし、勘違いだと思いたい。
「ふんっ。それじゃあ、ボク達はもう行くわ。行こっ、月」
曹仁が徐晃の具足姿について考察を深めている裏で、桃香との会話に終始空回りを続けていた詠が負け惜しみのように言うと、足を踏み出した。
「そ、それでは、失礼しますね、曹仁さん、劉備さん。―――へうっ、待ってよ、詠ちゃーん」
月が小走りで詠の後を追う。徐晃は無言で会釈だけ残すと、その背後に寄り添った。
「…………さて、俺達はどこに行こうか、桃香?」
街を歩き回っている間に、曹仁はほとんど違和感なく桃香と呼べるようになっていた。
すでに時刻は昼時を随分と回っているが、散策中に何度となく食べ物の差し入れがあったから、昼食の気分でもない。
「う~ん。―――そうだ! 学校に行ってみませんか?」
洛陽の復興に参画すると決めた華琳が、まず第一にと手掛けたのが学校の設置だった。
かつては中華全土からの留学生が数万人規模で生活していた漢の都も、そうした者達から真っ先に逃げ出し、今となっては学問の香りは皆無だった。多少情けない話ではあるが、肝心の就学に困難な状態が続き、元々の生活の基盤が他所にあるともなれば、離れていってしまうのも致し方ないことではある。
他に整えるべきものはいくらでもあるが、華琳の方針として学校の整備が何にも増して優先された。
「あっ、劉備様だ~っ!!」
ちょうど授業が終わったところらしく、到着するや玄関から飛び出してきた子供達に桃香が取り囲まれた。どこへ行っても、桃香は子供達の人気者だった。天下の義軍劉備軍を統べる英雄として名高いだけでなく、やはり実際に会って話す本人の人柄が大きいのだろう。
「玄徳。それに曹仁殿か」
子供達の見送りに玄関まで姿を見せた講師は、大柄の女だった。さすがに先刻出合ったばかりの角ほどではないが、男性の曹仁が見上げるほどで、女性としては並外れた長身である。
「―――盧植先生」
桃香が子供達を引き連れたまま、嬉しそうに駆け寄っていく。洛陽の学校で教鞭を振るっているのは桃香の恩師、盧植である。
曹仁達の一つ上の世代を代表する大学者である。政治家であり、黄巾の乱を戦った将軍の一人でもある。軍監に付いた宦官への賂を拒絶したことでその任を解かれ、洛陽への護送中に当時桃香と行動を共にしていた曹仁とは出会った。官軍随一の名将として皇甫嵩を紹介してくれたのが彼女である。
この硬骨の女性は、反董卓連合解散以後も洛陽に残って民のために細々と働き続けた。帝や廷臣からの信頼も厚く、度々呼び出されては政に関する意見を聞かれるらしい。
そんな盧植は、華琳の求めに応じて気軽に学校の教師の役目を引き受けた。
当代一流の学者に基本の読み書きやら数字遊びやらの指導をさせているわけだが、子供達へ向ける盧植の視線は優しい。元来、人に学問を教えることが好きなのだろう。かつて官職を辞していた頃にも、故郷である幽州涿郡にて私塾を開いている。同郷の桃香はその時の盧植の教え子であり、同門には白蓮もいる。
「劉備様、さようなら~っ! 御使い様と先生もさようなら~っ!」
ひとしきり子供達の相手をして解放された桃香を、盧植が学校内へと導いた。
教室が五つに、講師の待合所―――職員室が一つ。いずれは同じものが洛陽城内にいくつも建築されることになるだろうが、今は使用している教室は一つ、講師も盧植だけだった。許や陳留では講師の数が足りず、手隙の文官が交代で教鞭を握る場合が多い。曹仁も時に教壇に立つし、朱里や雛里には常勤に近いほど手を借りていた。民こそ少しずつ増えてはいるが、あえて幼子を連れて洛陽に移住する者は未だ少ない。
「玄徳は子供達にすごい人気だな。私も学校で子供を相手にするときは、将軍であったとか、それなりに名の知れた学者であるとか、そんな肩書よりも玄徳の先生だったと名乗るようにしている」
職員室に腰を落ち着かせると、盧植が言った。
「いやぁ、そんな。先生にそんな風に言われると、困っちゃうな~。うふふっ」
「最後に、あまり熱心な教え子ではなかったと続ければ、教室中が大爆笑だ」
「ううっ」
師からの賛辞に頬を緩ませた矢先、ちくりとやられた桃香が呻く。
盧植は珍しくくだけた様子だった。曹仁の知る盧植は官軍の将軍であり、天子の忠臣である彼女で、子供達や教え子に対する時はまた別の顔を持つのだろう。
「桃香は、そんなに不真面目な生徒でしたか?」
「ふむ、不真面目というと多少語弊があるか。遅刻や欠席をするような生徒ではなかったが、何と言えばいいのかな、こちらの話を聞いているのかいないのか分からないような」
「つまりは講義中もぼうっとしていると」
「そう、それだ。例えば、こんな話が―――」
「ま、真面目にお話を聞いてましたよ! やだな、先生、変な冗談言って。……そ、曹仁さんも、授業中“も”って、まるで私が普段からぼうっとしてるみたいじゃないですか。あははっ」
盧植の言葉を遮る様に桃香が身を乗り出してくる。
それからは桃香の失敗談等を聞きながら、楽しい時間が過ぎた。最近ではある種の風格さえ身に付け始めた桃香の慌てふためく姿は、見ていて飽きなかった。
予想通りと言うべきか、桃香はあまり出来の良い教え子ではなかったらしい。ただ一時は麗羽と並ぶ北方の雄として立った白蓮をして、盧植に最も嘱望された人材と言わしめるのが桃香でもある。あえて伸び伸びと育てたという盧植の意図も会話の端々から見える。大学者でありながら、学問だけを絶対視しない柔軟さをも盧植は備えていた。
対して当の桃香の方は、最近では華琳に学問を教わり始めていた。やはり熱心とは言わないまでも、最低限のやる気は維持しているらしい。流浪の生活の中で学問の必要性を感じたようだった。恐らく民の暮らしというものについて、誰よりも深く考えているのが今は無位無官の桃香であろう。民の生活を良くする方法は、一人で考えてもおいそれと頭に浮かぶはずもなく、朱里と雛里の手を借り、さらに今度は先人達の知恵をも借りようと言うのだろう。
「盧植先生は、この学校という制度をどう考えているのですか?」
雑談の種も尽き、そろそろ腰を上げようという時、一転真剣な表情で桃香が問うた。
「素晴らしいものだ。私はこれまで行ってきた曹操殿の政策全てに賛同するわけではないが、この学校制度、これだけは手放しに賞賛出来る」
盧植はさすがに並みの学者連中とは違う。有能な将軍であり政治家でもある彼女は、生きた学問を知っている。
かつて洛陽の太学で学んだ者達は自らが特権階級という意識を強く持ち、制限無く民に学問を授ける学校に否定的な人間が多い。彼らの多くは荊州牧の劉表に保護され、今や荊州は学問の都と呼ばれていた。彼らの探求する学問は、学問のための学問というべきでもので、華琳に言わせれば故事を学んで日々の暮らしの知恵としたり、算術を生活に活かしたりする民の方がよほど生きた学問をしている。
「そうですか」
「その様子では、玄徳は制度に反対なのか?」
「へえ、それはちょっと―――いや、かなり意外だな。富む者も貧する者も皆が机を並べてお勉強って姿は、桃香がいかにも好きそうな気がするけど」
「それ自体は私もすごく良いことだと思うんです。だけど、華琳さんは急ぎ過ぎてる」
「華琳が急ぎ過ぎている?」
「うん。確かに皆が自由に学問を出来て、頑張って認められればどんなに貧しい暮らしをしていた人でも政に参与出来るっていうのは、すごいことだと思う。でもそうした仕組みを作るために、税を上げて、ただでさえ乱世に苦しんでいる人達の暮らしを、さらに痛めつけるのは違うと思う。――――――えっ、えっと、い、衣食足りて礼節を知る、だよ」
「ほう。良く勉強しているな、玄徳。正しくは、倉廩実ちて則ち礼節を知り、衣食足りて則ち栄辱を知る。古の名宰相管仲の言葉だな」
他の地域と比べて、曹操軍の領内の税率が高いのは事実である。その上、貴重な労働力でもある子供達も学校があるため働き手とは成り得ない。農地開拓、商業の奨励、無料での就学と、様々な施策で暮らしに還元されてはいるが、民の生活に余裕はないだろう。官からも民からも余力を絞り出させるというのが、今の曹操軍の政の在り方だった。
華琳が急いでいるというのは、確かに言い得て妙な表現ではある。本来数世代をかけて行うべき改革を、華琳は自分一代で、それも数年の内に遂げようとしている。その根幹にあるものは、貧者の救済等ではなく、これまで埋もれてきた才能を拾い上げることにある。その過程で自らの手から抜け出し、敵対する者が現れるのも一興。それが華琳の考えだった。有能な部下だけでなく、好敵手すらも自ら育て上げ、取りこぼしなくこの天下を味わい尽くしたい。曹仁はその我欲の強さに驚き呆れ、―――そして敬服するしかない。
「そう、それです。お腹が減っていたら勉強なんて頭に入りません」
桃香の言葉も間違いなく確信を突いている。ただどうしても実感を伴わないのは、生まれの差というものだろうか。
中山靖王劉勝の裔であることを天子の口から正式に認められた桃香ではあるが、その生まれ落ちた環境はそこらの農民と大差はない。自ら筵を編んで、それを売って生活の糧としていたことは良く知られている。大宦官曹騰の孫娘華琳は言うに及ばず、若くして学問を修めた盧植もまた十分に恵まれた家の出だ。この世界に現れるや曹家に拾われた曹仁もそうだ。この場にいる人間の中で、本当の意味での貧困、飢えを知っているのは桃香だけだった。
「学校制度は乱世を終わらせて国を安定させてから。それが、皆が幸せになれる方法です」
「それで、最近よく華琳と言い争い、―――論争を?」
「うん。でも華琳さんはわからず屋のひねくれ者で、ちっとも分かってくれないっ」
桃香が頬を膨らませた。こうも露骨に他者を非難する桃香は珍しい、というよりも曹仁が知る限り初めて見る顔だった。盧植も同じ思いなのか、まじまじと桃香を見つめている。
曹仁にとっては、主君に対する批判である。余人に言われれば腹の立つそれが気に触らないのは、やはり桃香と華琳の間に分け入り難い友情の存在を感じるからだろうか。
「私の元では育たなかったお主が、ずいぶんと深く物事を考えるようになった。これは、曹操殿に感謝だな」
別れ際に、桃香の頭に大きな手の平を乗せて盧植が言った。
―――華琳が桃香を育てた。
盧植の言葉が、曹仁には不吉なものとして聞こえた。