「将軍、孫策軍が下船を開始したとの報告が入りました」
「そうか。では予定通り、兵に埋伏の用意をさせよ。―――しかし、なんとか間に合ったのう」
「はい。砦の造りに抜かりはありませんし、これほどの精兵はこれまで目にしたことがありません」
副官に頷いて返しながら、黄祖は城壁から眼下に視線をやった。副官が命令を一度復唱して駆け去っていく。
望む原野では小隊を組んだ兵がいくつも駆け回っていた。かくかくと不規則に蛇行しながら、時に大きく跳ねたりもしている。罠を避けているのだ。
普段黄祖が駐留している長江と漢水の分岐点―――夏口―――から、揚州へ向けて二十里あまりも西進した地に砦を築いた。周囲には長江から別れ出た幾筋かの小さな川と、木々が生い茂り緑の深い丘や林があって、 兵を伏せる場所には事欠かない。罠も張りめぐらせた。砦とその周辺は兵の一人一人が自らの庭と感じられるぐらいまで走り回らせている。罠の配置も、目をつぶっていてもかい潜れるくらいまで体に覚え込ませていて、自軍の進退には差し障らない。
副官が精兵と呼んだ兵達は、確かに黄祖の要求によく答えてくれていた。荊州では並ぶ軍はない。しかし、口にはしなかったが、それでも乱世の中で実戦を繰り広げてきた曹操軍や袁紹軍、そして孫策軍の兵とは比ぶべくもないだろう。まして孫策にとって母の仇黄祖が相手となれば、孫策軍の士気はいや増す。
兵力、士気、練度の全てにおいて劣る状況下で負けないために、考えに考えて布陣した。砦には小勢を持って黄祖自らが籠る。そうして黄祖が籠城を続ける一方で、周辺を小隊が駆け回ってかく乱する。
砦を築いたのは揚州との州境に程近いというだけで、戦略上の価値をほとんど持たない地である。長江に近くはあるが遡上を妨害出来るほどに密接してもおらず、軍船をもって進軍する孫策軍には、素通りして夏口を攻めるという手もあった。夏口には息子の黄射を籠もらせているが、孫策軍を相手にどれだけ抗戦出来るものか。名将の―――本当は自慢にもならない凡将の―――血を引いたことで、黄射には用兵に自信を持ちすぎる嫌いがあった。その感情は籠城戦には不要なものである。だが、他に目ぼしい部将もいなかった。荊州全土に目を広げれば、軍略で言えば黄祖を凌ぐような将も何人か存在する。ただそういう者に限って今の軍の上層部とは折り合いが悪く、隠者然とした暮らしを営んでいるのだった。
夏口を手にすれば、南北に分かれて走る長江と漢水を遡上することで、孫策軍は荊州内を自由に進軍出来るのだ。いざ軍を退くにしても、今度は流れに乗れば数日のうちに本拠まで退去が可能となる。
しかし孫家の仇敵である黄祖が砦に籠り続ける限り無視は出来ないはずで、事実孫策軍は下船を開始した。夏口から二十里というのは支城としては離れ過ぎている。それでも夏口攻城中の孫策軍の背後をうかがうことは十分に可能で、例え小勢とはいえ放置するには躊躇いもあったはずだ。
相手の立場にたって、考えに考える。自らが凡人という自覚が黄祖にはある。凡人が考えに考えたところで、容易く上をいく天才がいる。それでも自身に出来る最良を求めるしかなかった。
原野戦でぶつかり合い、歩兵で受け止め、騎馬隊で押しまくる。そんな戦に憧れないではない。かつての孫堅の戦がまさにそれで、黄祖ら同年代の者からは羨望の眼差しを受けていたものだ。その武名は、後に官軍第一の将軍と称されることになる皇甫嵩と並び鳴り響いていた。用兵の妙に奇策をまじえる知将皇甫嵩に対して、圧倒的な武威で敵を蹴散らす孫堅を人は虎と称し、本人も好んでそう名乗った。
往時、孫堅は江東一帯の賊徒を駆逐して回った。黄巾賊蜂起の前夜であり、乱の気風が各地に渦巻いていた頃合である。孫堅が剣を振るう相手には事欠かない状況にあった。今で言えば劉備軍に近いが、劉備と違うところは各県、各郡でそれぞれ尉(軍事職)を歴任している点だ。県尉を追われた後、無位無官で流浪を繰り返した劉備と比べると、孫堅は世渡りも上手かった。漢朝の威光を背に賊軍退治に駆け回った孫堅は、正しく江東の英雄であり、実質上の支配者の様なものであった。
そうして敵対した賊軍の一人が、黄祖であった。食い詰め者の侠客だった。身を寄せた豪族の考え無しの蜂起に巻き込まれ、気付けば賊将とされた。豪族は無謀を剛毅とはき違えているような男で、そんな人間の元で食客をしていた自分も詰まらない厄介者の一人に過ぎなかった。
孫堅の出陣を聞いた瞬間に、黄祖は敗北を決定事項として受け止めた。一矢なりとも報いようという思いと、場合によってはそのまま逃げおおせようという小心な算段もあって、黄祖は奇襲部隊を組織した。奇襲と言っても一度姿を見せてしまえば、孫堅はその動きを容易く読むだろう。初めの一手で孫堅へと届かせるため、陣形の薄い行軍の最中を狙うと決めると、黄祖は進軍路に当たりを付けて兵を伏せた。実際には見当などほとんど付いてはおらず、ただ兵を伏せやすい茂みの中へ隠れただけだ。外れればそのまま逃走するだけの心算であった。
偶然にも進軍路と伏勢が重なったのは、孫堅にとっても黄祖にとっても不幸なことだった。
初め、粛々と進む孫堅軍の威儀に黄祖は気圧された。震えながら先触れをやり過ごし、中軍も中程までが過ぎる段になって、今度は雷に打たれたような衝撃に襲われた。孫堅だった。伝え聞く姿格好と照らし合わせるまでもなく、全身にまとった武威が雄弁に自己を主張していた。
孫堅の武威に打ちのめされ、矢を放てという、たった一つの命令も下すことが出来ず、軍の通過をただ見送った。それで構わないと、安堵し掛けた瞬間だった。虎と称えられた猛将の野生の勘でも働いたのか、孫堅が黄祖の伏せる茂みを振り返った。目が合った気がした。恐怖に駆られ、放て、と叫んでいた。
次の日から、黄祖は名将と呼ばれる人間の仲間入りをしていた。どこへ行っても、身に余る厚遇を受けた。今は江夏郡一郡の太守である。民は名将に守られていると、日々を安寧に暮らしている。もはや引くことは適わなかった。生涯を名将を演じて生きるしかない。
「―――そうか、考えてみるとあれが孫策か」
孫堅を討ち取った時、そのすぐ側に彼女によく似た少女がいたのを思い出した。孫堅の亡骸を担ぎ、混乱に陥った軍を見事立て直していた。元より孫堅の精兵にまともに当たる心算はなかったが、仮に追撃を掛けたところで粛々と後退する軍に容易くはねのけられただろう。十歳になるかならざるかという幼い少女の姿を思えば、孫策の将器はやはり計り知れない。今にして思えば、この身を貫いた武威は孫堅のものだけでなく、孫策のそれも含まれていたのかもしれない。
さらに成長したであろうあの少女を相手に、名将を演じ切れるのか。黄祖はこの十年ばかりの間にすっかり癖となった長嘆息を漏らした。
「……よし、耐えるぞ」
これから大戦に臨むにしては些か覇気に欠ける言葉を呟き、黄祖は気合を入れ直した。
翌日になって、地平の先に孫策軍が姿を現した。それは見る間に視界一杯へと広がっていく。軍船での移動だけあって騎兵は数えるほどだが、進軍は軽快だった。
数は報告に合った通り三万で間違いない。大型船三十隻での進軍というから、一隻当たりに一千もの兵を積んだことになる。孫策軍は水軍の調練にも相当な力を入れているらしいが、今回は船はあくまで移動手段で水戦を仕掛ける気は無いのだろう。
荊州牧の劉表は反董卓連合に参加しているが、その際黄祖は留守を任されている。黄巾賊の大集団は目にしたことがあるが、規律の取れたこれほどの大軍を目にするのは初めてのことだった。
対する黄祖軍は砦内に二千、砦の外に伏兵として三千であった。
その三千のうちの数百が、にわかに立った。身を伏せていた丘の影が孫策軍の進軍路に重なったため、これ以上隠れ続けることに限界を感じたのだろう。
果敢にも三万の先陣に一当てして、それから駆け去った。伏兵ゆえに軽装で、調練では駆けに駆けさせているから逃げる脚は速い。
孫策軍から騎馬隊が飛び出して追う。およそ二千騎といったところで、それが孫策軍の騎馬隊全軍だろう。
「虎の子の騎馬隊をさっそく出してきおったか。―――うん? あれはよもや本当に虎の娘か?」
騎馬隊の先頭で駆ける者が、眩しく輝いて見えた。目を細めてみたが、背格好までは分からない。
「儂も年じゃな、遠目が効かん。騎馬隊の先頭は、どんな奴だ?」
「ええと、赤い具足の―――いえ、ひらひらと揺れ動くあれは鎧というよりもただの服のようにも見えます。男、―――いや、長身の女。きらきらと光を返すのは長剣でしょうか」
副官が額に手を当て注視しながら答えた。
「赤の軍装。長身の女。長剣。―――やはり孫策かっ!」
それだけで断ずることは出来ない。ただ一番に飛び出してくるというのは、聞き集めた孫策の性格とも合致していた。
「これは、期待してしまいますね」
「そう甘くはないじゃろうがな」
息を呑んで戦場を見守る副官に、黄祖は高鳴る胸の鼓動を気付かれぬように努めてそっけなく返した。
騎馬隊が、逃げる数百に迫る。後続が討たれ始める。それでも一つにまとまったまま耐えに耐えて、ある地点まで至ったところで、ぱっと散開した。騎馬隊を恐れて、潰走したとしか見えない。
「よしっ!」
隣りから副官の快哉が聞こえた。黄祖も心中で拳を振り上げた。
「―――っ、やはり甘くはないのう」
「―――止まった、だと。し、しかし何故?」
数百が散開した直後、騎馬隊が脚を止めていた。
「ふむ。罠まで誘い出すために随分と頑張ってくれたが、二千の騎馬隊に追われたにしては逆に耐え過ぎたか。ただ逃げるだけならもう少し早い段階で散っておろうし、何か目的があると読まれたということかの」
潰走と見せて兵が駆け抜けたのは、落とし穴に渡した橋の上だった。当然、穴は外からはそれと分からない様に偽造してある。数百の黄祖軍が正確に橋を突っ切ることが出来たのは、何度も繰り返した調練の賜物だった。
「自らが先頭に立って追撃する最中に、そんな些細な事に気付くものでしょうか?」
「結果から見れば、孫策なら気付くということだのう。敵が潰走する様は見慣れてもおろうし。虎の子の勘と積み重ねてきた経験。それゆえに総大将自らのあのような突出も許されるのじゃろう。よほど将兵にも信頼されているのだろうな。無謀と見えるあの姿こそ、伏兵と罠を嗅ぎ分ける優れた嗅覚の表れということじゃな」
副官に語って見せながら、黄祖は自らを納得させるために理屈付けていく。
「なるほど、そう言われれば分かる気もします。……しかし、惜しかった」
「まあ、あれで終わる相手ではなかろう」
副官がため息交じりに落胆を口にする。黄祖も同じ気持ちであったが、さも当然という顔をして見せた。
砦攻めは静かに開始された。まずは、雪蓮のはまりかけた落とし穴の埋め立てである。黙々と兵は作業に勤しんでいた。
対して、帷幕の中は喧騒に満ちている。
「―――――! ――――――――!! おい、雪蓮っ! 聞いているのか!?」
「もう、わかってるわよ、冥琳。黄祖は伏兵や罠の使い方が上手いから気を付けろって言うんでしょ? もう何度も聞いたわ。だからちゃんと注意して、落とし穴にも気づいて止まったんじゃない」
「そうではなくっ、最初から突出するなと言っている!」
とはいえ、主に騒いでいるのは冥琳一人であった。再三の注意を無視して今日も軽はずみな突出を冒した雪蓮であるが、注意する側は冥琳だけだった。蓮華が最初に二、三小言を述べた以外は、皆が傍観を決め込んでいる。
立場的にも性格的にも唯一雪蓮への説教が許されそうな宿将の祭は、面白がって二人のやり取りを見守っているだけだ。もっとも彼女には最初から冥琳も期待してはいない。立場を考えればそれも無理からぬことではあるが、穏や、次代の軍略を担う亞莎の反応には物足りないものがある。
「はいはい、分かったわよ。どうせ今からは攻城戦だし、言われなくても私が前線に立つような戦じゃないもの。おとなしくしているわ」
雪蓮がふて腐れたように言った。腐りたいのはこちらの方であるが、長年の経験からこれ以上言い募っても意固地になるばかりで逆効果だと知っている。冥琳は苛立ちを飲み込んで、そこで話題を変えることとした。
「……それでは、砦攻めの布陣を発表する」
幕舎に集めた諸将の注意が一斉に冥琳の口元へ集まる。
孫策軍では戦の布陣は、冥琳と穏、それに最近では亞莎も加えた軍師の三人で協議し、それを都督―――軍司令官―――の冥琳の口から発表することが慣わしとなっている。以前は諸将も交えての話し合いの場が設けられていたが、個性的な者の多い将軍達の意見を一つ一つ取り上げていてはいくら時間があっても足りず、結局今のようなかたちとなった。すでに決まったこととして発表してしまえば、軍略を口で戦わせて軍師連に勝てるはずもなく、一家言ある諸将も大抵の場合文句も言わずに従ってくれる。
「前線は、―――太史慈、貴殿にお任せする。貴殿が調練してきた兵にとって初陣ということになる。また、叛徒の鎮圧などではない真っ当な戦という意味では、貴殿の孫策軍における初陣でもある。働きに期待する」
「はっ! 太史慈隊一万、砦攻めにあたります」
太史慈が直立して命令を復唱した。さすがの長身で、そうすると周囲から頭一つ分も抜きん出る。雪蓮との不毛な会話の後だけに、軍人らしい応答が耳に心地良い。
初め五千の予定を募兵の結果八千に改めた太史慈軍は、さらに志願の兵を加えて一万まで増やしていた。扱い易い軍人の下に兵を多く集めたいという冥琳の意向が働いたものだが、他の者からもほとんど反発は出ていない。加入直後こそ雪蓮に対する騙し討ちに嫌悪感を露わとする者も多くいたが、武官達は実直な性格と確かな力量を知ると太史慈を認めた。一方で小蓮の傅役としてあの移り気なお姫様にしっかりと手綱を付けたことで、振り回されることが多かった文官達からも好評を得ている。
「蓮華様には、太史慈隊の後詰をお願いいたします。背後に主筋たる蓮華様を背負えば、初陣の兵達は一層奮起しましょう」
「……わかったわ」
些か不服気ながらも、蓮華が頷いた。母の仇を相手に、出来れば自分に先陣をと考えていたのだろう。
「甘寧隊と周泰隊は、遊軍として周囲の警戒を」
「はっ。―――敢死、解煩の両軍は動かしますか?」
「そうね。砦内に十人ほど送り込めるか?」
「やらせます」
「……お披露目にはまだ早い。ここぞという時に攻城の後押しをするだけで、あまり派手に動かす必要はないわ。残りの者は遊軍の一部として使いなさい」
「わかりました」
敢死軍―――死へ向かう軍―――と、解煩軍―――心を捨てた軍―――は思春と明命が育て上げた特殊部隊である。使いようによっては相当な力を発揮する軍だが、それだけに大きな戦までその存在は秘匿しておきたかった。
黄祖の首を狙え。一瞬そうも言い掛けたが、黄祖は真っ当な戦で討たねばならない相手だった。
「改めて申し付ける。甘寧隊と周泰隊は周囲の警戒に当たれ。先刻も見た通り、かなりの数の伏兵と罠を配していると考えて間違いない。両隊がこの戦の要と心得よ」
「はっ」
「はいっ!」
思春が静かに闘志を漲らせ、明命が元気良く返事をした。
「我らを相手に籠城戦で粘りを見せつけた太史慈を攻城に、少々入れ込み過ぎな権殿を後詰において圧力とし、自らも奇襲や伏兵を得意とする思春と明命をそちらへの対応に当てたか。相変わらず良い采配だのう」
祭が首肯を重ねながら言った。気負いを指摘された蓮華が眉を顰めたが、気にせず祭は続ける。
「それで、儂の担当はどこじゃ? 堅殿のことは、儂にとっても大きな借りだからのう。黄祖が相手となれば、やはり気持ちが逸りおるわ。これでは権殿のことは言えんな、はっはっはっ」
意気込み過ぎの蓮華を戒めつつ角を立てないよう落ちも付けると、祭はからからと笑った。つられて蓮華も口元を緩めている。
基本的には面倒見が良く、細かな心配りも出来る人だった。孫堅時代からの付き合いの冥琳にとっては、尊敬する戦場の先輩であり、時に甘えたくなるような母性を感じさせる相手だった。でありながら、雪蓮の暴走を面白がって後押ししたり、冥琳と雪蓮の言い争いの観戦を決め込んだりもするのだった。
「はい、祭殿は雪蓮と共に本陣にてどっしりと構えていてください」
そんな祭へ感謝と敬意を込めて冥琳は告げた。
「おいおい、笑えぬ冗談じゃな。あの程度の砦、儂の弓なら軽々城壁を乗り越え、中の兵を射止めるぞ」
「冗談ではありません。この戦は孫堅様の敵討ちではなく、孫呉の地―――揚州を再び手にした我らが、初めて外征する雄飛の戦なのです。私も含め、古い将は本陣にて悠然と構え、後は若い将器に戦を託しましょう。御自慢の弓は、今回は弦をお外しください。私も、全軍の指揮を穏に、その補佐を亞莎に委ねます」
「……そういうことなら、お主の布陣を飲むか。古い将という言い方は心外じゃがな」
じっと瞳を見つめながら冥琳が言うと、祭は根負けした様子で肩をすくめた。視界の端には飄々としている穏と、慌てふためいている亞莎の姿が映る。
改めて言うまでもなく、古い将とは冥琳、雪蓮、そして祭の、孫堅を失った黄祖との戦に参加した三名である。
そこからは役割を変えて穏と亞莎から布陣についていくつかの指示が出され、軍議は解散となった。
「亞莎。私が言えたことではないけれど、落ち着いて、視野を広くね。補佐として穏の目が届かないところをしっかりと見て、よく支えてあげてちょうだい」
「はっ、はい、蓮華様!」
「小蓮に良い報告が出来るように、お互い頑張りましょうね、太史慈」
「はっ、孫権様」
蓮華は最後には随分と落ち着いた様子で、肩に力が入り過ぎの亞莎に落ち着いた声を掛け、先陣を取った太史慈にも激励を与えて幕舎を出ていった。他の将もぞろぞろとそれに続く。
今回揚州の留守は、小蓮に任せていた。文官達の他、凌統、徐盛、朱然などの新たに将として取り立てた者達を左右の補佐に残しているが、小蓮向きの仕事とは言えず不安もある。当然本人には不満もあるだろう。文官肌の蓮華に戦場を、動き回るのが大好きな小蓮に留守をと、両名に対する軽い試練という気持ちも冥琳にはあった。
「妹達の成長を見るのが楽しみでもあり、すこし寂しくもあるわね」
ちょうど同じことを考えていたのか、雪蓮が言った。幕舎の中には、すでに役を追われた三名が残るのみだ。
「はっはっはっ、儂など昔おむつを替えてやった小娘に、偉そうに命令されておるぞ」
「小娘とは私のことですか、祭殿?」
「さて、どうじゃったかな? 儂も古い将じゃから、とんと物忘れが酷くなった」
「あははっ、祭ったら」
「ふふっ」
ひとしきり笑いあった後、雪蓮が真面目な顔を作った。
「ところで冥琳。この砦、本当に攻めても良いの?」
「―――っ」
雪蓮が珍しく軍略に適ったことを言う。
本来なら、砦は無視し長江を遡上して夏口の城郭を攻めるべきだった。
荊州軍が孫呉の進軍を阻むには、荊州水軍東部最大の拠点である夏口で決戦を挑むか、そこに至る以前の長江沿いに砦を築くかである。これ見よがしに州境に立てられた砦は、そのどちらの手段にも沿わない。一応夏口攻めの背後に位置する形だが、籠もる兵力は数千という報告があり、適切に対処すれば脅威にはなり得ない。むしろ挟撃を狙って砦から出撃したなら、その時こそ攻め時なのだ。
しかし出陣前の軍議では冥琳自身も含め、誰もそれに言及する者はなかった。冥琳と同じ軍師の穏や亞莎がそこに行きつかないはずはないが、打倒黄祖へ向ける蓮華の意気込みに圧倒されたのか、口を閉ざしたままだった。
黄祖は己の首一つを餌にして、不毛の土地へと孫策軍を誘き出したのだ。
当然冥琳は蓮華の気勢に飲まれたというわけではない。幼少時から雪蓮と共に母虎―――孫堅に戦場を連れ回された冥琳の目から見れば、まだまだ虎児の囀りである。微笑ましくもあり、大器の予感を嬉しく思いもするが、冥琳を圧倒する強さはまだない。冥琳には、それとは別に懸念があったのだ。それ故に軍議では口を閉ざしていた。
黄祖は伏勢、奇襲を得意とする将である。評判に違わず早速の奇襲で、雪蓮を陥穽へと落とし入れ掛けた。雪蓮だからはまった罠でもあるが、雪蓮だからこそあわやというところで免れ得た罠でもある。他にも、たっぷりと罠と伏兵を用意してあるのだろう。しかしそれは練りに練った戦術ではあるが、あの孫堅を討ち取った将の戦としてはどこか平凡だった。
孫堅の最期を思えば、砦を放棄して自ら陰に伏し闇に紛れて動き回る時にこそ、黄祖はその力を如何なく発揮するのではないのか。そう思えば、自ら砦に籠もってくれている現状は有り難くもある。多少の犠牲を出してでも黄祖の姿が見えるこの機に討ち取ってしまいたいというのが、冥琳の偽らざる本心であった。
孫堅は、蓮華の分別に小蓮の活発、さらには雪蓮の激しさをも併せ持つような稀有な人格と才能の持ち主であったが、戦場での姿はやはり雪蓮に良く似ていた。雪蓮にかつての孫堅の姿を重ね合わせれば、否応なく嫌な予感が浮かぶ。黄祖を後方に捨て置いて進軍しようなどと考えられるはずもないのだった。
「らしくもなく不安に駆られておるのじゃろう? のう、冥琳よ?」
「―――それは」
「隠すことはない。古い将などといって儂らを戦場から遠ざけたのも、昔の敗戦が想起されるからじゃろうが」
「ぐっ。…………はい、祭殿の言う通りです。軍師として都督として恥ずべきことだと思ってはおりますが」
「何を言うか、戦場ではそうした勘に従うのも大事なことじゃ。堅殿や策殿を見ろ。戦勘一つで名将じゃ」
「ちょっと祭? それじゃまるで私が何も考えずに軍を動かしているみたいじゃないの?」
「おや、これは失礼した。何か考えておられましたか?」
「もうっ、失礼しちゃうわね。―――くすっ、うふふっ」
「しかし恐怖に震える冥琳というのは、実に久しぶりに見た。昔、いじめっ子にからかわれて泣いていたお主を思い出すぞ」
「ほう、祭殿は本当に物忘れが酷くなっておいでだ。私がいじめられて泣いたとすれば、そのいじめっ子というのは祭殿以外にありえません。特訓と称して、何度無茶を強いられたことか」
「おや、そうじゃったか?」
「そうです。孫堅様が雪蓮にするのと同じように扱うのですから。あれは化け物じみたあの親子だから許されることであって、普通の子供に同じことをすれば死んでもおかしくない、というより普通は死にます」
「ちょっと、誰が化け物よー。化け物は母様だけでしょう? 私は可愛らしい女の子だったじゃない」
「まあ、どんな猛獣も赤子のうちは可愛いものだからな」
「もうっ」
雪蓮が頬を膨らまし、冥琳の頬は緩んだ。不安はいつの間にかかき消えていた。