「鳳統先生、さようなら~!!」
大きく手を振って駆け去っていく子供たちに、雛里も手を振り返す。口元は自然と綻んで笑みを作った。
曹操軍本拠―――許県に建てられた学校の一つで、雛里は教鞭を振るっていた。
曹操軍の領内全域に布かれた学校という制度は、初め聞いた時には如何にも無理があると雛里には思えた。
九歳からの三年間、領内の子供達全員に無償で学問を教えるというものである。施行したばかりの現在は十二歳までの子供も対象としていて、加えて申請があれば大人に対しても間口を開放していた。仕事を持つ大人が来やすいように夜間の講義も試験的に行われていて、それなりの参加者を集めてもいる。他の土地にはない民の意識の高さを感じずにはいれない話だ。同時に、夜間に大人が子供を残して家を空けられるというのは、徹底した治安維持の成果も思わせる。
現在行われている三年は初等教育で、成績優秀な者の中で希望者はさらに高度な教育機関への進学、そしてその後は官吏への道も開かれる計画である。つまり農民の子でも努力と能力次第で政に参画することが制度として可能となったのだ。
どれだけの進学希望者が生まれ、官吏として優秀な者が育ってくるのか。巨額を注ぎ込んで強硬に実施された制度だけに、文官達の注目はそこに集まっていた。
そんな大人達の思惑とは無関係に、子供達は年の近しい友人大勢が集まる学校を素直に楽しんでいる。戦乱の中にあって子供達の笑顔というのは、何ものにも代えがたい宝石のように雛里の目には映った。
漢王朝中興の祖である光武帝も、乱を治めた後に全国に学び舎を築いた。それは最低限の読み書きを教えるだけのもので、学問とまでは言い難い。それでも民の識字率を大きく高め、今日まで偉業と称えられ続けている。
華琳が学校で民に教えようとしているのは、さらに一歩踏み込んだ本当の学問である。読み書き算術と言う手段の伝播はもちろんのこと、自ら考える力を育むことに重点を置いた指導が推奨されている。それは本来為政者が最も嫌うことの一つだが、華琳に一切の躊躇いは見られない。
学校の運営が軌道に乗りかけた今、華琳は次に図書館というものの設立を計画しているらしい。誰でも自由に書物を閲覧可能な施設で、ゆくゆくは貸出も認めるという。現在でも宮中の書庫は官吏であれば書物を借り受けることが可能だが、それをもっと大規模に数万、数十万の民を相手に施行する施設である。一大事業だった。
光武帝のおかげもあって、前代では考えられないほどにこの時代の識字率は高い。特に官人や商工業に従事する者の多い主要城邑ともなれば、字を読めない人間の方が少ないぐらいだった。そのため城内に書物の販売店はそう珍しいものではない。一方で郊外に出て農民が増えるほどに、読み書きの必要性は減り識字率は下がる。彼らにとって日々の生活は苦しいもので、仮に文字が読めたところで書物に回すような金はないだろう。
華琳の学校は、そんな貧しい農民の子にも平等だった。図書館は学校制度を補う重要な施設となるだろう。
「それでは、お先に失礼します」
まだ職員室に残っているすっかり顔馴染みの教師陣に一礼すると、雛里は上機嫌のまま学び舎を出た。その足で宮中にある華琳の執務室へと向かう。
その日どういう講義をして、子供達の反応はどうだったのか。そんなことを華琳は知りたがった。報告書が義務付けられているし、朱里や雛里の担当した授業に関しては直接話も聞く。自らの関わる全てを把握し目を配ろうというのが華琳の美点でもあり欠点でもあった。
桃香などは正にその対極で、任せるとなったら全てを部下に丸投げして顧みない大度を持っている。軍師としては仕えやすいことこの上ない主だった。
「―――もうっ、華琳さんの分からず屋っ!」
華琳の執務室の前まで来ると、室内から大きな声が響いた。思わず足を止めた雛里の目の前に、桃香が飛び出してくる。
「華琳さんの馬鹿っ! ―――じゃないから、えっと、…………が、頑固っ! 意地悪っ! とっ、とにかく分からず屋っ!」
桃香は憤懣遣る方無いといった様子で、開け放った戸口から室内へ向かって罵声を浴びせかけると、雛里にちょっとだけ目をくれて足早にその場から立ち去った。普段人に悪口など言い慣れないものだから、語彙は貧困で切れも無い。それだけ桃香が憤りを露わにするのは珍しいことなのだが、実は最近では何度となく目にする光景でもあった。
曹操軍の政に対して、桃香が反発を示していた。劉備軍の元に寄せられる多数の苦情に単に同調したというのではなく、華琳を相手にしっかりとした自論を展開してはその都度言い負かされている。とりもなおさずそれは、曹操軍の政策を理解する程度に桃香の見識が高められたということで、華琳による授業の賜物である。これまでにも雛里や朱里が桃香に学問を教えたことがあったし、かつては大学者盧植の私塾に通ってもいたはずだが、それらが実になることはほとんどなかったのだ。
そうした意味で華琳は桃香の学問の師と言えたが、二人の関係というのは他人にはちょっと理解し難いものがあった。師弟関係や庇護者と客将という立場を超えた友人同士のようでもあるし、ときに犬猿の仲のようにも思える。
もしかすると華琳は、桃香にとって初めて出来た自分と対等に語り合える存在なのかもしれない。桃香は誰とでもすぐに仲良くなれる人間で、他者を強烈に惹きつける何かを持っている。だが、惹きつけられた人間というのは、すでにして桃香とは対等ではないのだ。愛紗と鈴々は桃香と初めて出会った時、その命を救ったという。桃香の命の恩人に当たるはずの二人が、そのまま義姉妹の妹となり、配下に納まっているのがその良い例だろう。
華琳にも似たようなところはあって、曹家一門の当主の家柄とはいえ、当然のように一族の年長者からも忠誠を誓われている。分家ながらも一家をなしている曹洪や、夏侯氏の双子の姉妹等は元々華琳と並び立ってもおかしくはない存在なのだ。それが一も二も無く華琳に忠義を尽くしている。
「―――雛里、講義の報告かしら? 用があるなら、早く入りなさい」
「はっ、はひっ!」
桃香が駆け去った廊下の向こうへ漠とした視線を送りながら、そんな物思いにふける雛里に声が掛かった。開け放たれたままの戸口から、雛里は慌てて室内へ飛び込む。
「そ、その、また、けっ、喧嘩ですか?」
「ふんっ、いつものことよ」
肩をすくめて言うが、やはり良い気持ちはしないのか、華琳の口調からは機嫌の悪さがにじみ出ている。
「あの子ったら、また夢みたいなこと言っちゃって」
「はあ」
華琳の言に雛里は曖昧に返した。
全て民に等しく教育を授け、政治に参画する権限を与えるという明確な目標を持って邁進する華琳と、全ての民に笑顔を、という曖昧模糊とした志を掲げる桃香。両者を引き比べれば、如何にも前者は現実主義者、後者は夢見がちな理想家と目に映る。
だが、実際にはどうであろうか。前漢の文景の冶(文帝、景帝の治世)、食べ切れぬ糧食が倉には満ち、時に腐敗するほどであったという。民は豊穣の中で幸せを享受していた。善政を布き、飢えや暴力の恐怖から解放することが出来れば、あとはほんのささやかな幸せで民は微笑むだろう。
対して華琳の目指す改革は、本来百年、二百年、あるいは千年、二千年の時を掛けて初めて実現し得るものではないのか。己一代を持って改革を成就させようという華琳は、桃香よりもはるかに夢想家と言えるのではないのか。
華琳が桃香を夢想家、自身を現実家と断じるのは、己が目指す目標を必ず実現させるという強固な自負があってのことだろう。気弱で自信不足に陥りがちな雛里には、華琳のその強さは眩しく見えた。大器と見定めた主君桃香と等しいほどに。
「気を遣わせてしまったわね。まあ、向こうからそのうち謝って来るでしょう。しばらく放って置くわ」
「はあ」
そんな華琳の言葉に、雛里はやはり曖昧に返すしかなかった。
柔和な性格や普段の言動に反して桃香にはひどく頑固な部分もあって、特に華琳と対した時にはその顔が出易い。すでに何度目になるかも分からない二人の喧嘩であるが、雛里の知る限りいつも先に折れるのは華琳の方なのだった。
捨て台詞を吐いて別れた三日後、華琳から遠乗りの誘いがあった。
多少言い過ぎたという罪悪感と、自分からは絶対に謝ってやるものかという感情がぶつかり合って、終始無言のまま桃香は華琳の隣りで的盧を走らせた。
的盧は華琳から譲られた馬である。華琳が絶影と名付けた名馬を手に入れて以来、しばしば遠乗りに誘われることがあった。当然いつも引き離される桃香を見かねた華琳から、絶影に遅れず付いてこられる馬を厩舎から好きに選んでいいと言われたのだ。
的盧は絶影や曹仁の白鵠と比べると、体全体がずんぐりとした印象の馬である。背もいくらか低く、その代わりに脚が腿だけでなく蹄の先までがっしりと太い。格好良いというよりも愛嬌のある姿をしていて、桃香は一目でこの馬を気に入ったのだった。
的盧という名は、額に白い模様を持つ馬を意味する言葉で、その通りの模様がこの馬にはある。不幸を呼ぶ模様と言われている。それで、生まれてすぐに処分されてしまうこともあるらしい。厩舎の奥でひっそりと生き長らえてきたこの馬を、桃香はあえて的盧と名付け可愛がることに決めた。
華琳が絶影を思い切り疾駆させた。城外に広がる田園風景を突っ切って、開けた草原に出る。
起伏の少ない平地で疾駆されると、的盧は絶影にはいくらか遅れる。その分、長駆や勾配には強い。馬術がそれほど得意でもない自分には良く合っていると、桃香は思っていた。
華琳が、小高い丘に馬首を向けた。この辺りは調練にも使われる場所で、丘は兵の手で作られた人工の地形だった。複雑な地形下での動きを学ぶためのもので、同時に土を掘り、それを盛って丘を作ること自体も新兵の身体作りの一環となる。
丘の頂上で、華琳が絶影を止め、馬首を巡らした。そのときにはちょうど桃香と的盧も追いついていた。
「今年は麦の実りが良さそうね」
華琳が駆け抜けてきたばかりの田園を見つめながら言った。
麦秋が近い。河北では麦作、江南では米作が中心になるが、ここ中原ではその両方の栽培が行われている。特に今年からは麦秋―――初夏に入るや慌ただしく麦を収穫して、すぐに米を植え付けようという農家が多い。曹仁から伝わった二毛作という天の国の農法で、曹操軍領内では奨励されていた。租税は米と麦どちらで治めても良く、税率は土地ごとに定められていて作付けを二度行っても増えはしない。農民の中でも要領の良い者はすぐにそれに飛び付いた。余分に作られた米や麦は、適正な価格で軍が買い取り兵糧にするか、不足地域へと流された。軍が相手であるから、商人に騙され泣きを見る民もいない。領内の米と麦の流通を制御出来るから、曹操軍にとっても利は大きい。商業は推奨するが、買い溜めや出し渋りのような商いを華琳は認めていない。
働けば働いただけ儲けが出る。商人にとっては当然のことだが、これまで農民にその感覚は薄かっただろう。仮に多く作っても、何かしら理由を付けて国に持っていかれるだけだという諦観があった。曹操軍領内では税率は一定で臨時徴税も行われない―――呂布軍との過酷な戦争が繰り広げられた間もそれは一貫された―――から、民は安心して働けるようだ。
「…………」
「……はぁ。先日は少し言い過ぎたわ」
「うん、私も」
何も言い返さずにいると、ため息交じりに華琳が折れた。桃香もそれにかこつけて、ようやく口を開けた。
行き過ぎの非は認めても、互いに謝罪の言葉は続けない。華琳も自分も、どちらも自分が間違っているとは思っていないからだ。ただせっかく二人で遊びに出ているのに、いつまでも息の詰まるような時間を過ごしたくはなかった。華琳と一緒にいる時間は、仲間といる時のほっこりと安心できる感覚とも、曹仁といる時のふわふわと浮ついた感覚ともまるで違っていて、それでも大切にしたい心地の良い時だった。
「流流、水を。―――貴方も飲む?」
「うん、もらおうかな」
「流流―――」
心得たもので、華琳が命令し直すまでもなく典韋が水の杯を二つ差し出した。二人で過ごす時間とは言っても、当然虎士の護衛は付いて来ている。特に隊長の許褚と副隊長の典韋は必ず声の届く距離に控えている。普段何もない時には鈴々や蘭々と自由に遊び回っているように見えて、突発的としか思えないような華琳の外出にも自然と寄り添っているのだから見事なものだった。
華琳が宮殿を出る際には、総勢五十名の虎士のうち二十名が護衛に付く取り決めだった。二十名という数は中原を領する華琳の立場を思えばむしろ少な過ぎると言うべきかもしれない。いずれにせよ普段愛紗や鈴々一人を連れて、あるいはそれすら連れずに一人きりで街中を闊歩することもある桃香からすれば、十分に物々しい一行である。
とはいえ、虎士の面々はこちらから声を掛けない限りは視界の端にわずかに映り込む様な絶妙な距離感を保っている。初めのうちは遊びの度に振り回すようで申し訳ない気がしたし、仰々しさに息苦しくも感じたものだが、見事な立ち居振る舞いに今ではすっかり気にならなくなっていた。二人での外出の際には、桃香の護衛として鈴々や愛紗が加わることもある。今日も虎士の中に混じって鈴々の姿があった。この時ばかりは鈴々も虎士の隊長許褚の指示に渋々ながら従っていた。普段は喧嘩友達のような二人であるが、近衛としての許褚の力量は鈴々も認めざるを得ないのだろう。
「そういえば、洛陽に残してきた月から文が届いたわ。陛下が、貴方に会いたがっているそうよ」
「陛下が?」
「ずいぶんと懐かれたものね」
「えへへっ、可愛い子だよね。―――っ、あっ、愛らしい御方だよねっ!」
「あら、叔母さんなんて呼ばれているのだから、そんなに堅苦しくなることはないのじゃない?」
「ううっ、その呼び方はやめて」
「あら、どうして? 名誉なことじゃない、劉皇叔」
華琳が意地悪な笑みを浮かべて言う。
「うううっ、どうせならお姉ちゃんって呼んで欲しかった」
実際、数度拝謁しただけではあるが、他人とは思えないようなところが帝にはあった。曹仁や華琳からは容姿にもどこか似たところがあると言われる。自分でも信じていなかった中山靖王の裔という家系は、もしかすると真実なのかもしれない。そんな理由もあって、僭越ではあるものの妹分として帝を愛おしく思う気持ちが桃香にはあった。
「ふふっ。そうね、その無駄に付けた脂肪を取ったら、そう呼んでくれるんじゃない?」
「ううっ、そっ、それじゃあ、―――華琳さん、少し貰いますか?」
「何か言ったかしら?」
「いえ、何でもー」
自分から振っておきながら、華琳がこめかみに青筋を立てた。
「ふんっ、こんな無駄なものっ」
「きゃっ! もうー」
華琳が桃香の胸を軽く叩いた。痛いというほど強くはないし、いやらしい―――華琳がそういう趣味の持ち主でもあることは桃香も当然知っている―――触り方でもない。友人同士のちょっとした悪戯という感じで、桃香も頬を膨らませて軽く抗議を示した。
「まあ、しばらく朝廷も賑やかだったから、陛下も急に人が減って寂しがっているだけでしょう。それとも、会いに行ってあげる?」
「ううん、陛下には悪いけど。洛陽の街は酷い有様だったけど、それでも住んでいる人はみんな活気に満ちていたし、私達が居ても出来ることはなさそうだから。陛下には月さんも付いてくれているし」
曹操軍の張繍こと月が、かつての董卓であることは先日華琳の口から説明を受けた。劉備軍も一度は反董卓連合の一員として敵対した関係にあるが、特に個人的な遺恨があるわけではない。むしろ恨まれるとしたら一方的に罪を糾弾し攻め立てた連合軍の側だろう。他言無用と言った華琳の言葉を反故する理由はなかった。
帝との関係も世に言われていたような険悪なものではなく、死んだはずの彼女と再会した帝はいたく喜んだという。数か月の滞在の後に華琳らが洛陽を去った今も、朝廷と曹操軍の折衝役として宮中に残っていた。それに伴い洛陽に駐留する兵の指揮を執るのが彼女の幼馴染の賈駆と、徐晃と名を変えた華雄である。かつての董卓軍の首脳が洛陽に集結している状態だった。それだけ聞くと不安になるような布陣であるが、華琳が送りだし、帝も月の滞在を歓迎しているという。余計な心配などする必要もなく、適材適所ということなのだろう。
「そう。―――もう少し駆けましょうか」
「うん」
その後は一時、民のことも帝のことも政のことも忘れて、遠乗りを楽しんだ。
絶影の後を追う的盧は活き活きとした躍動感に満ち、今を楽しむのに余計なものを容易く置き去りにしてくれる。典韋お手製のお菓子を行儀悪く馬上でつまみ、興の乗った華琳は詩なども詠って見せた。華琳自ら試作したものらしい。英雄を謳った詩で、桃香には詩の良し悪しなど解らないが、きっと良いものなのだろう。
目を瞑って耳をすますと、目蓋の裏に浮かび上がるのは華琳の立ち姿だ。自らを英雄と称える詩だろうか。華琳らしい不遜さだが、華琳ならばそれが過剰の自信とも思えない。
「―――?」
いや、もう一人の姿が立ち昇ってくる。英雄は一人ではなく、並び立つ二人の英雄を謳った詩だ。新たに立った英雄の姿は影に覆われて判然としないが、確かに華琳にも負けず立ち続けている。
「――――――。―――――。…………ふうっ」
吟じ終え、華琳が息を吐く。桃香はゆっくりと目を開けた。
「……もう一人は誰ですか?」
「あら、何を詠っているか気付いたの?」
「袁紹さんですか? それとも孫策さん? いや、ひょっとしたら曹仁さんのことかな?」
「ふふっ、さあ、誰かしらね。―――そろそろ戻りましょうか、だいぶ暗くなってきたわ」
華琳に聞いても、意外そうな顔と、照れ臭そうな笑みが返ってきただけだった。
「―――劉備さまっ」
帰り道、田園に囲まれた道をゆっくりと馬を進めると、左右から幾度も声を掛けられた。その都度、桃香は馬を止めて手を振り返した。
「貴方は本当に民に慕われているわね。私の領内だというのに、貴方ばかりで私に声を掛ける者が一人もいない」
「それは宮殿に篭ってばかりだからだよ。誰も華琳さんの顔を知らないんだもん、声を掛けてこないのも当たり前」
「……それだけが理由ではないと思うけれど」
華琳が含みのある口調で言った。薄明りの中で、その表情までは読み取れない。
いつの間にか日はすっかり落ちてしまっている。完全な闇とならないのは、月明かりにも増して許の城内から漏れ出る光のためだ。戦時中以外は夜間も城門が閉ざされることはなく、城内の喧騒もまだまだ止みそうにない。
酒屋や飲食店は今こそ稼ぎ時と客引きの声を上げ、城郭周辺に田園を持つ者はそんな街明りをも利用して農作業に励んでいた。他領よりも重い税を納め、さらには利まで上げようと皆必死だった。
「―――劉備様っ」
また、声が掛かった。桃香は手を振り返す
「でもこの辺りの人は、やっぱり皆元気だね。呼び掛けてくれる声にも、明るさがある」
「またその話?」
今日一日触れずにいた話題に踏み込んでしまったことに、桃香は口にしてから気付いた。
ここ許県周辺の民は、利に聡く要領の良い者が多い。華琳の政策下で、巧みに利益まで上げようと盛んに動き回っていた。が、主要都市を離れ農村部に行けば行くほど、ただ重い税に伸し掛かられる民の姿があった。
権力者のためだけに政がなされるなら、馬鹿げた奢侈に溺れない限りは、元より大した税は必要とされない。人口の大勢を占める民の生産が、ごく一部の階級を養うという構造になるからだ。
華琳の求める重い租税は、あくまで民のためにあった。学校などの政策を通して、政の生み出すものを領内全てに行き渡らせようとする分、民の負担もまた大きくなるのだ。
事の是非は置くとして、現実にいま多くの民を苦しめているのは華琳の布いた租税のためだった。苛政は虎よりも猛しとは、華琳の授業で教えられた言葉だ。華琳の政は悪政ではない。以前の漢王朝のような腐敗からも遠く、公明正大でもある。しかし、苛政ではないだろうか。
華琳は性急に過ぎる。押し進める諸々の改革は桃香の思い及ばないものばかりで、それ自体に否やはない。ただ、もう少しだけ緩やかには出来ないのか。今の変革は激流のようなもので、民は押し流されないよう必死だった。
「前にも言った通り、土地が痩せているというのなら税率は考慮しましょう。だけど、民が怠慢であることは免税の理由とはならないわ」
華琳が常にない厳しい口調で言った。はからずも楽しい時間を壊した桃香の一言に苛立っている。いつもの舌戦を受けて立つという大らかさがなかった。
「怠慢? そんな言い方って」
自分がどれだけ言葉を尽くしたところで、華琳が政を変えることはない。そこで二毛作や商業の流れに乗れない者達のために、桃香がせめてもの救済策として提案したのが一部地域での税率の引き下げだった。桃香の妥協案であり折衷案でもあるそれも、華琳はきっぱりと拒絶していた。
「違うというの? 同じ税を納めながら、さらには利をも上げようという者達が居るわ。私は勤勉な彼らをこそ称えましょう」
「ほとんどの民は、これまで培ってきた生活をそう簡単に変えることなんて出来ないよ。簡単に、未知の一歩を踏み出すことは出来ない。それは怠慢じゃなく、誰もが持っている弱さだよ。華琳さんの今のやり方は強きを助け、弱い者を切り捨てかねない。力無い人達を守り、笑顔で暮らせる世の中を作る、それが政の役目じゃないっ」
「民に笑顔を与える? 力無き民を守る? ずいぶん傲慢な考えね。彼らだって笑いたければ好きに笑うでしょうし、自分の身ぐらいは自分で守るわ。貴方が思っているほど、民は弱くはない。学校制度の廃止を叫ぶその同じ口で、そこで学んだばかりの故事を引き合いに政の不平を並べ立てるのも民よ。ありもしない弱さを盾に新しきを避け、古きに逃げる。これを怠慢と私は呼ぶわっ」
「華琳さんは良い御家に生まれて、頭も良くって、皆から尊敬されて、曹仁さん―――天の御使いまで手にしてるっ。生まれつき何でも持っていて、何でも出来ちゃう華琳さんには、民の本当の苦しみはわからないっ!」
「そうねっ、筵売りで頭の緩い貴方には、私には分からない民の苦しみとやらが見えるのでしょうよっ!」
「―――お二方とも、落ち着いてください」
「―――っ」
売り言葉に買い言葉で、気が付けば絶叫するように罵り合っていた。おずおずと割って入った典韋と、同じく恐る恐るこちらを窺う許褚と鈴々の姿に、ゆっくりと興奮が覚めていく。
「……桃香、何と言われようと私は自分のやり方を変えるつもりはないわ」
同じく華琳も落ち着きを取り戻した静かな口調で言った。
「私も華琳さんに政を変えろとは言わないよ。ただもう少しゆっくり歩いて欲しいだけ。足の遅い人たちにも、もっと目を向けてほしい」
「立ち止まっている余裕はないわ。私は、私の代、それも数年のうちに天下を作り直す。生まれ変わった世界で、私は自身の真価を問いたいのよ」
「それは、華琳さんのわがままです」
「ええ、私の我儘よ。同じように、民の笑顔。それは貴方の夢で、私のものではないわ。そしてここは私の天下で、貴方のものではない」
「―――っ」
いつもの教え諭すような論説ではなく、自身の我儘を認めた暴論だった。そんな言葉の何かが、桃香の胸を刺した。
二の句が継げず、そのまま言葉を交わすことなく城門をくぐり、宮殿へ着いてしまった。
「……曹仁さん、愛紗ちゃん」
「桃香、それに華琳もか」
厩舎の前で、曹仁と愛紗を見かけた。
特に珍しい組み合わせというわけではない。二人とも長めの棒を持っているからには、武術の稽古をしていたのだろう。特に洛陽から戻ってからは、頻繁に曹仁が愛紗に教えを乞うている。なるべく兵の目を避けているようで、前庭や中庭など様々なところで二人の姿を見かけるが、今日は厩舎前でやり合ったらしい。
「関羽、弟がいつも世話になっているわね」
「いいえ、とんでもない。こちらこそ良い稽古になっています」
「そう? ―――仁、今日の戦績は?」
「なんと三勝したんだ」
「七敗したのね」
「ぐっ」
武術の稽古と言っても二人の得手は槍と偃月刀と異なるため、一方がもう一方に技を伝授するというようなものではない。十戦を目安に実戦形式の試合をするというのが常だった。
「まあ、いつもは一勝出来るかどうかなのだから、誉めてあげましょう。―――よくやったわねー、仁」
「そんなこと言われて喜べるかっ。―――頭撫でようとするなっ!」
「ふふっ」
曹仁が身を仰け反らせながら、頭上に差し伸べられた華琳の手を払い除けた。
こうしたやり取りは姉弟ならではだろう。うっすらと羨望の眼差しを向けていると、隣で愛紗も似たような表情で二人を見つめていた。
「とっ、桃香様は遠乗りですか?」
桃香の視線に気付いた愛紗が、言い繕う様に尋ねてきた。
「うん」
「護衛は―――、ああ、鈴々が付いているのですね」
後方に許褚、典韋と共に侍る鈴々の姿を認めて、愛紗が一つ頷いた。
宮中に入ったことですでに二十名は解散していて、今は三人を残すのみだった。三人も緊張を解いた様子で雑談―――許褚と鈴々が言い争い、典韋が間に挟まれるいつも通りの―――している。
二十名の姿が消えていることにも、三人が警戒を解除していることにも、桃香は愛紗に言われるまで気付かなかった。陰に徹した警護などおよそ鈴々には似つかわしくない任務である。しかし年も近く喧嘩友達の許褚がその隊長としてこの上なく見事に振る舞うことで、対抗心から鈴々も任務に徹していた。義妹をただの部下として扱うようで桃香には多少気が引けるものがあるが、良い勉強になってはいるのだろう。
愛紗もこうして曹仁と武術の鍛錬を日課とするだけでなく、軍の調練にも手を貸すことがあるようだ。星は普段何をしているのか桃香にも把握しきれないところがあるが、曹操軍の郭嘉と程昱とは旧知の仲ということで、よく三人で談笑している姿を見かける。朱里と雛里は学校で教鞭を取ることに楽しみを見出しているようだ。何でもそれなり以上に出来て人の良い白蓮は、軍の調練から文官の仕事の手伝いまで、色々なことに駆り出されている。
居候を始めてすでに一年が経過している。皆が皆、曹操軍に馴染み始めていた。黄巾賊討伐の義勇軍として立って以来、これほど長い間一つ所に留まったのは初めての事なのだ。将だけでなく当然兵も、行く当てのない流浪の生活からの安定した日々に安らぎを覚えているだろう。
「―――桃香様? どうかなさいましたか?」
「お姉ちゃん、何をぼうっとしてるのだ?」
気が付くと、愛紗が心配そうな表情で顔を覗き込んできていた。いつの間にか鈴々も側に寄って来ている。
それなりの時間、物思いにふけってしまったようだ。華琳もすでに曹仁との会話を切り上げて、微妙な顔つきでこちらの様子を窺っている。
「う、ううん、何でもない。私がぼうっとしてるのは、いつもの事でしょっ」
「むっ」
「それもそうなのだっ」
努めて軽く言うと、愛紗が口を噤み、鈴々が元気に同意した。苦笑する曹仁の隣で華琳が顔を背ける。笑っているのかもしれない。わずかに肩がふるえていた。