「白蓮ちゃん以外はみんな揃ったかな」
桃香が室内を見渡して言った。許県の宮中にある桃香の居室は、曹操からの執拗な贈答品の数々がない分だけ、朱里や他の皆の部屋よりも質素に見えた。
白蓮は今日も曹操軍の調練に参加しているはずだった。特にここ数日は、来たる袁紹軍との戦に備えて曹操軍では大規模な演習が行われている。許県から五十里ほど北上した平原では、今も大軍が展開中のはずだ。
白蓮と彼女率いる白馬義従は烏桓の弓騎兵対策のための相手役である。白蓮はここ数ヶ月の間、連日曹操軍の騎馬隊と行動を共にしていた。曹仁や張遼とはよく用兵について話し合う姿も目にする。傍から見る分にはもうすっかり曹操軍の部将の一人であった。
「あのね、皆―――」
白蓮を除く劉備軍の主だった面々が集っていることを確認すると、桃香が真剣な表情で切り出した。
「―――ここを出ようと思うの」
桃香の発言自体には、特に驚きはなかった。曹操軍の武将と兵力の大部分が演習のために許を離れているこの時、桃香に思い詰めた表情で集合を命じられれば自ずと察することはある。出奔―――曹操軍には黙ってこの地を去るということだろう。
一寸の土地も領していないとはいえ、桃香は曹操と並ぶ大将だった。一時寄り添うことはあっても、共に歩む事はない。ただ来るべき時が来たというのが朱里の感想だった。
愛紗と星は当然と言う顔で頷いているし、鈴々は待ちくたびれたというように笑っている。雛里は―――表情を強張らせている。
朱里はそんな雛里との間にわずかな隔たりを覚えた。再開される流浪の日々に、朱里の心中にも気後れが全く無いとは言い切れない。だがそれ以上に桃香を大将と仰いで再び劉備軍を差配出来る喜びが勝った。
曹操軍を内側から変えていく。そういう道はないのか。雛里とはしばしばそうした話し合いをした。隔たりは、そうして意見を交わす時にも感じたものだった。雛里の論説が、劉備軍の旗を降ろし曹操軍の傘下に加わるという、その危うさに触れる前にいつも議論は切り上げてきた。
曹操は、他人の言で易々と何かを変える人間とは思えない。相手に理があればそれを認める寛容を備えてはいるが、大きなところでは決して折れないだろう。それでも、自らの魂をそのままぶつけるような言葉を持ち、曹操にとって特別な一人でもある桃香ならば、退けられることなく対等に口喧嘩を出来る桃香ならばと、確かに期待を持てなくはないのだ。
それだけではなく、桃香の理想とはまた違うとはいえ、曹操の治世も悪いものではないと雛里は感じ始めているようだった。白蓮を除けば、最も曹操軍に親しんでいるのが雛里だろう。曹操とも兵法談義で意気投合し、劉備軍の中では桃香以外で唯一真名を許し合っていた。
「みんなは、残ってくれてもいい」
雛里だけでなく全員が戸惑いを覚えたのは、出奔を告白した次に桃香の発したその言葉だった。
「私の仲間は、みんなすごいから。朱里ちゃん、雛里ちゃんはこのままここに残れば、荀彧さんと同格の最上位の文官として扱われると思う。愛紗ちゃん、鈴々ちゃん、星ちゃんもそう。すぐに曹仁さんや夏侯惇さんなんかと肩を並べる将軍として、大軍を任されるようになる」
「何を仰せになるのです、桃香様! 我らが個人の栄達など望むとお思いですか!?」
愛紗が柳眉を逆立てて叫ぶと、星と朱里も口々に不満を漏らした。
「愛紗の申す通りです、桃香様。栄達を望むなら、最初から貴女に仕えてはおりません」
「そうです。私達は桃香様の志を実現するために、知勇を振るってきたのです。桃香様の下以外でいくら偉くなっても、そこに何の意味もありませんっ」
「みんな、志という言葉の持つ甘美な響きに、流されてはいない? それは、私の中にある欲望の、綺麗なところを切り出しただけの言葉かもしれない」
「そ―――」
「―――聞いてっ!」
言い返そうとした愛紗が、桃香の強い言葉に息を飲んだ。朱里は元より星も口を開けずにいる。
目を閉じ、胸に手を当てると、一つ一つの言葉を噛み締める様に桃香は口にする。
「私の中に、確かに全てを賭けても為さねばならないと決めた思いがある。でもそれはどんなに言葉を飾ろうと、結局は私個人の欲求に過ぎないんだ。それを志と呼ぶのか、野心と呼ぶのか。華琳さんは飾らずに、自分のわがままと言った」
桃香がゆっくりと目を開く。
「ずっと一緒に歩いてきたけれど、それぞれに答えがあってもいいと思うの。一度、劉備軍という軛を外そう。ただの劉玄徳と関雲長、張翼徳、趙子龍、諸葛孔明、―――龐士元に戻ろう」
雛里の名を呼ぶ時にだけ、一瞬の溜めが入った。他の者以上に揺さ振られている心の内を見透かしたのかもしれない。
「私は三日後の夜、出立する。それだけみんなに伝えておくよ。あとは、一人一人で考えて」
それきり桃香は黙り込んだ。
突っぱねるような言い様は、今は質問も抗議も受け付けないということだろう。それぞれに考えて、答えを見つけろというのだろう。
誰からともなく桃香の部屋を辞し、結局誰も口を利かないままその日は解散となった。
居室から宮門へと至る道を、一人、歩いた。
三日はあっという間に過ぎ去った。しっかりと別れをすませたのは、白蓮だけである。
曹操軍の食客の劉備軍の中にあって、白蓮はさらに客将のような扱いだった。曹操軍との交わりは他の者以上に深めていて、調練や政務の一端を任されることも増えていた。皆に解散を告げた時も大規模演習に参加していて、帰還はいつになるか分からなかった。それで、皆に話したのと同様の内容を書簡で伝えた。
昨夜遅く、演習から急ぎ戻って桃香の居室を訪れた白蓮から、曹操軍に残ることを告げられた。寄る辺も無い暮らしに疲れたという。白蓮なら武将としてでも文官としてでも、曹操軍で重用されることだろう。桃香は、白蓮の前途を祈って別れの言葉とした。白蓮はその足で五十里あまりも離れた演習地へと取って返した。さすがの白馬長史は、一夜のうちに百里の長駆も苦にしない。
兵には何も告げていない。桃香が再び劉旗を立てた時、集まってくれるなら有り難く受け入れるし、この地に残って曹操軍に加わっても良い。将軍達と同じく兵も桃香の自慢の精兵揃いで、戦を控えた曹操軍から拒絶されることはないだろう。直接伝えることは出来なかったが、桃香は兵の一人一人にも自分と共に流浪の道を行くか、曹操軍で安定した生活を得るかの決断を委ねていた。
「…………ひとり、か」
覚えず漏らした言葉は、受ける者もなく暗い夜道に吸い込まれていく。普段宮中で起居している将軍達も調練で出払っているから、周囲はいやに静かだった。華琳と曹仁も演習に参加して不在のはずだ。
「――――」
的盧が、自らを主張するように鼻を鳴らした。
悩んだ末に、的盧は連れて行くことにした。華琳からの贈り物だが、それで部下になるよう強要されたわけではない。ただの友人同士で贈られたものなのだ。敵に回るとはいえ、華琳との友情までを否定したくはない。だから気兼ねする必要も無いし、するべきでもなかった。
月明かりに的盧の馬影がうっすらと伸びる。その横に並ぶ人影は、やはり桃香一人きりのものだった。
傍らに、愛紗がいない。出奔を告げた後も、不自然なくらいにずっと桃香のそばをまとわりついて離れなかった鈴々の姿も、今朝から見られなかった。寄り添うように立つ朱里と雛里の影もなければ、凛とした星の姿もない。
華琳の治世を理屈で否定することは出来ない。だから皆にも、それぞれに考えて決めてもらう。桃香が自分で決めたことだった。
義妹の愛紗と鈴々。二人と同じくらい大好きな星と朱里、雛里。五人が曹操軍に残って、それで栄達するなら、それはそれで嬉しいことだ。喜ばしいことだ。そう思っても、進む足取りは重かった。しばしば手綱を引く的盧に追い抜かれて、気遣わしげに顔を覗かれる、を繰り返した。
華琳に与えられた居室から城外へ向かう道の、最後の角を曲がった。後は前庭を横切り、宮門をくぐるだけだ―――
「―――あんまり遅いから、待ちくたびれたのだ、お姉ちゃん」
鈴々が大きな葛籠を椅子代わりに、蛇矛を肩に預け、退屈そうに足をぶらつかせていた。
「鈴々ちゃんっ!」
声が震えた。月光に照らされた蛇矛の長い影が、桃香の足元まで伸びている。
「志という言葉を劉玄徳の野心と言い換えてもいい。それでも私は桃香様の―――姉上の信じた道を、共に歩みたいのです」
「愛紗ちゃんっ」
いつの間にか背後に、寄り添うくらいの近さに、愛紗はいた。
「―――みんなも、それでいいの?」
愛紗の肩越しに、星が、朱里が、雛里が、歩み寄ってくるのが見える。
「野暮なことをお聞きになりますな、桃香様。常山の昇り龍は、桃香様の風雲の志と共にあって初めて天を望めるのです」
「そうです。桃香様がいなくては、伏竜はずーーっと伏したままで、いつまで経っても飛び立てません」
異名に龍を持つ二人が、笑いながら言った。
「雛里ちゃんも、私に、ついてきてくれる?」
「―――はいっ」
伏竜の影にさらに隠れた鳳の雛も、一瞬の逡巡の後、力強く頷いてくれた。
「……みんな、ありがとう」
野心で良いと言ってくれた愛紗に、皆に、桃香は思いの丈すべてをぶつける。
「―――ずっと考えていたんだ。どうすればみんなが笑って暮らせる、民のための国が出来るのかって。華琳さんにいろんなことを教わったけど、やっぱり難しいことはよく分からない。でも、民のことを一番に考えてあげられる人が立たなきゃいけないって、それだけは分かる。だけど、華琳さんの一番はきっと自分なんだ。袁紹さんもそう」
桃香はそこで一端口を止めた。
これから言おうとすることは、これまでただ闇雲に流れてきた年月との決別である。初めての明確な決意表明であり、今後の劉備軍のあり方を大きく変えかねないものだ。
恐怖があった。口を開けば、せっかく再び集まってくれたみんなは、自分に失望して離れていってしまうかもしれない。それでも桃香は志―――野心を、剥き出しにした。
「だから、私が天下を治める。私の一番は、華琳さんの二番目三番目にもかなわないかもしれない。私の思いも結局はただのわがままで、自分の思いを一番に優先してるだけかもしれない。―――それでも、私が」
「―――……くくっ」
「はははっ」
星と愛紗が顔を見合わせて笑った。鈴々は何かに驚いたような顔でこちらを見つめ、朱里と雛里は困ったような表情を浮かべていた。
桃香を責め立てる者は誰も無かった。ただ不思議なものを見るような視線が注がれている。
「えっ、えっ? な、何かおかしなこと言ったかな、私?」
「くくっ、―――ふはっ、はははっ」
一番に笑声を放った星に視線を向けると、堪えきれないという様子でさらに笑い転げる。
「い、いえ、何を今さら、と思いまして、―――くふふっ」
笑いのおさまらない星に代わって、愛紗が口を開いた。
「民のためには桃香様が天下を治めるべきだ。―――それは劉備軍であれば、一兵までが心に刻み込んでいることでしょう」
「なにを今さらなのだ」
「くふっ」
最後に鈴々が引き取ると、さらに星が口元を歪ませる。つられて朱里と雛里も、小さな笑みを浮かべた。
「それにしても、後ろに付いて来てたなら、もっと早く姿を見せてくれたら良かったのに」
「ふふっ、桃香様が今さら我らの覚悟を試されるような、無粋なことをするものですから。つい、いじめたくなりましてな」
「もうっ、星ちゃんったら」
「今回の件に関しては、星の言う通りです」
「愛紗ちゃんまで~っ」
「―――来たか」
賑やかな声が近付いてくる。いささか拍子抜けする思いで、曹仁は宮殿の城壁に預けていた背中を起こすと、門扉の影からおもむろに立ち上がった。
騒がしい人影が、ぴたりと立ち止まる。
「……やっぱり出ていくんだな、桃香」
「はい」
白蓮を除き、全員の姿がある。白蓮はもう、流浪を望まなかったのだろう。それは予想していたことだった。
「華琳のやり方が不満なのか?」
「はい」
気圧されるぐらいに迷いの無い表情で桃香が言った。
「華琳さんはきっと、私なんかが思いも付かないような未来を見据えていて、そしてそれを現実のものとしてしまうだけの力のある人だと思う。自惚れるわけじゃ無いけど、私達が力を貸せば、その未来はより早く実現するとも思う」
華琳が導き、桃香が遅れる者に手を差し伸べる。
いわゆる飴と鞭で、この一年間桃香の存在は華琳の政治に対する不満を実によく紛らわせてくれていた。二人の関係は誂えたようにうまく機能していたのだ。しかしその結果、桃香は民の不満の声を一身に聞き届けることとなった。それが全ての契機だろう。
「ここに来る前の私だったら、華琳さんの示す未来にただ感心して、何も考えずに力を貸せたかもしれない。でも華琳さんは、本当にたくさんのことを私に教えてくれたから。華琳さんの政は、華琳さん自身が私に教えてくれた民を安んずる理想の政治とは、どうあっても重ならない」
華琳の政の根底に、天下を味わい尽くそうという彼女の我儘がある限り、桃香とは決して分かり合えないのかもしれない。それでも曹仁は、そんな華琳の己を押し通す我の強さに惹かれた。
「華琳さんは、今を犠牲にして、自分の理想の未来を作ろうとしている。その未来は素晴らしいのかもしれないけれど、だけど私は、今日苦しんでいる人たちがいたら、今日助けに行きたいんだ。自分の望む未来のために苦しめだなんて、絶対に言いたくない」
「その結果、より多くの血が流れることになるかもしれない」
「うん、きっとそうなる。わかってるんだ、これはいけないことだって。力の無い私が望んではいけないことだって。だから、これは私のわがまま。わがままを突き通そうと、私はしている。曹仁さんが、それを止めようとするのは正しいことだよ」
これまで、石にでもなったように不動の構えでいた愛紗が、桃香を庇うように一歩進み出た。顔には苦渋が色濃く浮かんでいるが、手にした青龍偃月刀から感じる威圧は本物だった。
ただ、そんな愛紗の武威以上に、桃香の真剣なまなざしが曹仁の心に深く突き刺さってくる。
「ははっ、まさか。美髪公関雲長に、燕人張飛、常山の昇り龍趙子龍。この三人を止めるつもりなら、門番も払って一人で待ったりはしないさ。千軍を引き連れてくる。だいたい、白鵠も連れていなければ、槍も持ってきてはいないしな」
曹仁は無手を強調するように、肩をすくめてみせた。
愛紗が、ほっとした表情で青龍偃月刀を降ろす。同時に、愛紗とはまた別の方向からちりちりと首筋を焦がしていた圧も消えた。いつの間にか曹仁の死角に回り込んでいた星が、視界の中に姿を見せる。
鈴々だけは、初めから変わらず警戒心の無い笑顔を浮かべている。曹仁に信頼を寄せてくれているのか、持ち前の野生じみた勘で敵意の無さを察したのか、はたまた単にのん気なだけなのかは判然としない。
「一騎当千の三人を相手に、あたら我が軍の兵士を失うわけにはいかない。―――これを」
曹仁は、話の早そうな軍師組二人に書簡を突き出した。二人はちょっと顔を見合わせた後、代表して朱里がおずおずとそれを受け取った。
「はわっ、これは通行許可証!? それも、曹操さん直筆のっ?」
「あわわっ。ど、どうしよう、朱里ちゃん! 華琳さんにもばれちゃってるよ!?」
「おっ、落ち着いて雛里ちゃん! これは許可証だから、つまりは、えっと」
時に文官達の書類仕事を手伝ったり、華琳の趣味の書き物に付き合わされていただけあって、朱里と雛里は一瞥しただけで内容だけでなくその書き手が誰かまで理解したようだった。
二人の会話を引き取る様に曹仁は言った。
「行って良いってさ。俺は虎を野に放つような真似はやめるように進言したんだがな」
今、演習で許を空にすれば、桃香達はきっと曹操軍を去る。元々華琳の立てた予想である。そうして他の将には知らせずに、曹仁だけに見送りを命じたのだった。朱里と雛里のどちらか―――特に雛里は自分に付くかもしれない、とはその時の華琳の言葉だが、そちらは当てが外れたようだ。
許可証に、あまり書類上の意味は無い。劉備軍は元々曹操軍の領内を自由に行き来することを認められていた。華琳があえて捕縛を命じない限り、各地の守兵は桃香達の通行を妨げはしない。だからこれは、華琳から桃香へのちょっとした別れの挨拶のようなものだ。
桃香達は居候であり客将であって、家臣でも捕虜でもない。客人が家を去るといって、阻む理由もない。そう言い放った華琳は、幾らか意地になっていたように曹仁には思われた。友一人靡かせることが出来なくて、何が天下。華琳は桃香に対してだけは、他の群雄に対する時とは全く別の次元で戦おうとしている。
何としても引き止めたいというのが、曹仁の本音だった。華琳の天下取りの大きな障害となる、などという理屈はさて置き、単純に曹仁は桃香達と戦いたくはなかった。出奔すると簡単に言うが、つまりそれは華琳と敵対するということなのだ。華琳は側において靡かぬのなら、あえて一度手放すことで桃香の志を完膚なきまでに叩き潰そうとしている。戦は避けようがない。呂布軍との戦の時のような思いをするのは、もう御免だった。恋の様に傷を負うことも、それではすまないこともあり得るのだ。
華琳の命令など無視して、軍を動員して捕えてしまいたいとは今も思う。桃香の志を曹仁自らの手で打ち砕くことになる。桃香自身は命よりも志の方が大切だと感じているかもしれない。だが曹仁にとっては、桃香の志よりも桃香の命の方が遥かに大切だった。あえて言えば、大切な人たち一人も欠けぬままに華琳の覇道を遂げる、というのが曹仁の志なのだ。
「そっか、さすが華琳さん。―――でも、そういうことなら遠慮する必要無いかな?」
思案顔で呟くと、桃香は真っ直ぐな瞳を再び曹仁へ向けた。
「曹仁さん、私達と一緒に行きませんか?」
「―――っ、ははっ。ただ出ていくだけじゃなく、俺まで引き抜くつもりか。なるほど、言った通り我儘だ」
虚を突かれ、次に笑みがこぼれた。あははと、桃香も微笑む。
「みんなが来てくれたから。だから私は、自分のわがままを貫き通しても良いって、そう思うことに決めたんだ」
―――また変わった。
曹仁を救うために張闓を斬った後、桃香は一つ大きくなった。そして今もう一つ、何か吹っ切れたような強さを手にしていた。最後のひと押しを加えたのは、華琳か。
「えへへっ。どうかな、曹仁さん?」
それでも桃香の表情はどこにでもいる普通の少女のものだった。普通の少女が、尋常ならざる強い志を秘めている。それも関張趙の武や、伏竜鳳雛の知に頼ってのものでは決してなく、自分ひとりの意志としてだ。
愛紗に聞かされたことがあった。桃香と初めて出会った日、どうしてその力をもっと世の中みんなのために使わないのかと、叱られたのだという。そして桃香自身は、自分の力量など慮ることなく、容易く民のために命を張ったのだ。
華琳には天才に裏打ちされた強烈な自負がある。曹仁とて、槍術と馬術、騎馬隊の指揮官としての力量、そういったものが積み重なって今の自分があった。それがあって初めて、志を追い求めることが出来るし、その実現を信じることも出来る。
桃香にはそれが何もないのだ。武を誇るでもなく、知を輝かすでもない。あえて言えば、中山靖王劉勝の後裔、漢室に連なる血筋がそれに当たるのかもしれないが、自らそれを誇るでもない。そして今まさに漢室の力及ばぬ乱世の荒野へと自ら足を踏み出そうとして躊躇いがない。
当たり前の少女が、ただただ志だけを立て続けている。この乱世に非力な少女のことである。力及ばず打ちひしがれることもあったろう。そんな時の方が、ずっと多かったかもしれない。それでも折れない。真実驚嘆すべきことだった。特別な才など何も持たないこの少女は、それゆえにあまりに非凡であった。桃香はどこまでも純粋な志そのものだ。そんな彼女に魅かれないと言えば、それは嘘になる。
「―――申し訳ないが」
曹仁は、小さく首を振った。
「かつては侠客として鳴らした貴殿のあり方は、曹操軍よりもむしろ我らに合っていると私には思えるが。曹操殿は、貴殿を引き抜こうという桃香様の我儘など可愛く見えるぐらいに、天下を欲しいが儘に変えようとしておられる」
星が口を挟んだ。
「そうかもしれない。だけど、俺が見たいのは華琳の、曹孟徳の志の行きつく先だ。我儘も含めて華琳の覇道なら、その我儘ごと支えるさ」
「我儘ごと支える。……ふふっ、惚れておりますな」
「ああ。俺は華琳の天下のために生きようと心に決めている」
一片の迷いもなく返す曹仁に、星は頭を振って苦笑交じりに言った。
「私が言っているのは、主君としてどうかという話ではないのだがな。女兄弟に囲まれて育っただけあって、貴殿はその辺りの機微に敏いものと思っておりましたが。あるいは、あえて気付かぬふりをしておられるのか?」
「気付かぬふり? 何の話だ?」
「ううむ、それは……」
珍しく言葉を濁す星に代わって、桃香が口を開いた。
「曹仁さん、星ちゃんが言っているのはね、男の子と女の子の話だよ。曹仁さんは一人の男の子として、華琳さんという一人の女の子のことが好きだってこと。私は、ちょっと悔しいけど」
今度は曹仁が言葉を失う番だった。何を言われているのか理解するのに数瞬を要した。
「……俺が、華琳に惚れている?」
口に出してみると、突飛なまでの違和感を覚えた。
「いや、そんなはずはないだろう。確かに仰ぐべき主として敬愛はしているが。……いや、しかし。…………それは」
胸の内で己を問い質しても、答えは出て来ない。華琳との様々な思い出が、脳裏に過ぎるばかりだ。
「―――曹仁さんっ」
「―――っと、そろそろ出立しないと、道中で夜が明けてしまうか」
考え込んでいた顔を上げると、こちらを覗き見る桃香と目が合った。気を取り直して、曹仁は桃香に向き合った。
「桃香さんに華琳から伝言だ。次は、共に中原に鹿を追おうと」
「―――っ! はい、わかりました。曹仁さん、華琳さんに伝えて。私は、―――私は負けないって!」
中原に鹿を追う。天下を求めて相争おうという華琳の言葉に、桃香は拳を握って意気込みを見せた。こんな気取った言い回しに即座に反応するのは、やはり華琳との勉強会の賜物だろうか。
「それと、他の皆にも伝言。愛紗さん、鈴々、星さん、朱里、雛里へ、―――桃香のところが嫌になったら、いつでも好条件で召し抱えてあげるから覚えておきなさいって」
「もうっ、やっぱり華琳さんもわがままっ!」
桃香が頬を膨らませた。
そうして、和やかな笑顔のうちに別れの一時が終わる。
誰からともなく―――いや、やはり最初の一歩は桃香だ―――、宮殿の外へと足を向ける。別れを告げれば、それは永の別れを意味してしまいそうだし、再会を期すれば、次に出会うのは戦場だ。目語だけを交わして、別れた。
小さくなる桃香達の背を見送りながら、曹仁は再び小さく呟いてみた。
「俺が華琳に惚れているだと」
口に出した言葉の違和感は、先ほどよりも幾分薄まっていた。