「先生、これ」
「なんだ?」
「読んで下さい」
少女は張燕の胸元に紙切れを押し付けると、きゃーきゃーと黄色い声を上げて友人達の輪の中へと駆け戻っていった。
「廊下は走らないように。危ないぞ」
少女達は声を揃えて、はーいと返すと、それでもやはり小走りで去って行く。入れ違いに、曹仁が学舎の廊下を張燕の方へと歩みよってきた。
「見ていたぞ、飛燕。相変わらず女生徒に人気だな」
張燕は小さく鼻を鳴らすと、教官室へ向けて踵を返した。
調練の合間をぬって、張燕は学校で教官をさせられていた。文官達だけでは手が足りず読み書きが達者な武官にも役目が回ってくるのは常であるが、この一ヶ月ほどは特にそれが多い。客人でありながら多くの講義を受け持ってくれていた諸葛亮と龐統が、劉備と共に出奔したためだ。
張燕が諸葛亮と鳳統と言葉を交わす機会はほとんどなかったが、何度か講義を覗かせてもらった事はあった。二人の講義は生徒達から絶大な人気を得ていて、何か参考になることがあるかもしれないと思ったためだ。他の武官たちがおざなりな講義をする中、自分でも意外な事に張燕は学校で教鞭を取ることに熱を入れていた。
我ながら指導の腕も悪くないと思っている。文官は言うに及ばず、武官達も物心付く頃には書物に触れて育った名門出の者達が多い。学校に通う生徒達のようにまったくの一から学門を始める人間には、同じく庶民の出の張燕の教え方の方がずっと分かりやすいようだった。
「それで何通目だ」
駆け足で横に並んだ曹仁が、張燕の顔を覗き込むようにして言った。
曹仁も同じく軍務の傍ら算術の講義を担当していた。評判も上々のようである。天の国で習い覚えたという様々な計算法は斬新かつ効果的で、現役の文官の中にも教えを乞いに来る者があるほどだという。
「廊下は走らないように、曹仁先生」
「誤魔化すなよ、飛燕」
「そういうお前は何通もらった? 御主君に報告しておこうか?」
「―――っ、なっ、なんでそこで華琳の名前が出るっ」
張燕が意図した以上の動揺を示した曹仁を残して、教官室へと入った。
読み書きを覚えたばかりの女生徒が男性教官におままごとの様な恋文を送るのは、流行病のようなものだった。それが案外、少女達が学門に熱中する原動力になったりもするのだから悪い事ではない。天の御遣いなどと呼ばれ曹家一門に名を連ねる曹仁に対しても、物怖じせず文を送る女生徒もいるのだった。
張燕は返書とともに送られた恋文の添削をして返すことにしていた。それが評判になって、女生徒達は一層面白がって文を送ってくる。
「湘夫人か」
一から十まで自分で文章を書き連ねるほどの学力は、まだ子供達に備わってはいない。
恋文は、戦国時代の楚の政治家にして大詩人屈原の作“湘夫人”を改変して作られていた。同じく屈原作の“湘君”と対になる一作で、湘君とは長江支流の一つ湘江に住まう神で、湘夫人はその妻の女神を指す。男神と女神の互いを思う心情を歌った詩である。今から五百年以上も昔の作品であり、難解な上に長編でもある。
「うん、よく勉強している」
張燕は西日が差し込む教官室で、一語一語丁寧に文章に目を通した。部屋の外からはまだ残った子供たちが騒ぐ声が聞こえてくる。
曹仁が教官室に入ってきて、張燕の向かいの机に腰を下ろした。まだ何か言いたそうにしているが、先ほどの脅しがよほど聞いたのか、声を掛けては来なかった。
「―――ふっ」
この笑いだしたくなるほど平和な風景は、自分の人生とも思えなかった。
学校制度は、曹操軍本拠、ここ許に関して言えば順調過ぎるくらい順調に機能していた。名士連の中には未だに反発を見せる者もいるが、名家中の名家の出の荀彧―――儒学の大家筍子の末裔として知られる―――が曹操に従順な態度を貫くことでそれを抑えつけている。戦を勝ち抜けばいずれ領土に加えることになる河北には、袁紹の声望を慕う名士が集まっている。江南は豪族の力が強い土地柄であるし、荊州には河北以上に特権意識を持った学者達が揃っている。彼らの扱いには多少手を焼くこともあるかもしれないが、力で抑え込んででも曹操なら敢行するだろう。そこに張燕にも手伝えることがあるはずだった。
全ての民を平等に競わせる、などというのは叶うはずもない夢のようなものだった。義賊を名乗る賊徒が己が手で国の再生を望むのと、同じようなものだ。
張牛角、そして曹操が抱いたその叶わぬ夢にこそ、自分は引かれたのかもしれない。
張燕の幼年期は、抗えぬ現実に翻弄されるだけのものだった。不正役人に罪を着せられた両親は抗いようもなく首を飛ばされた。その後の数年は商人に囲われ、流されるままに生きた。その囲いを叩き壊したのが義兄となる張牛角だ。その義兄も、目の前にいるこの男―――曹仁に討たれた。復讐に囚われた。そうとしか言いようのない暗く深い闇に落ちた自分を救い出したのも曹仁で、義兄を失い復讐の念をも打ち砕かれた空っぽの自分に志を説いたのが曹操だ。
夢が、形を伴って目の前に迫りつつある。その事実に張燕は、どこか慄くような心境だった。叶わぬから夢。叶えばそれは現実である。夢が叶う。そんな夢のような話が現実に起こり得るのか。
恋文の添削を終えると、張燕は席を立った。書類仕事を片付けていたらしい曹仁が、ぱっと顔を上げると後を付いてきた。
「なんだ?」
「たまにはお前と飲みにでも行こうかと思ってな。すぐそこに良い店を見つけたんだよ」
「断る。お前の隊の副官でも誘えばいいだろう」
「角の奴は学校の周りにはあまり近付こうとしないからなぁ」
「ああ―――」
曹仁の副官牛金は、侠客仲間の間ではよく知られた男だった。義兄の元で義賊をしていた頃から、何度かその名は耳にしている。
筋骨たくましい巨漢である。鼻筋に大きく真一文字に刻まれた傷痕と相まって、独特の迫力を備えていた。今は優秀な副官であり、曹仁の上げた軍功のいくつかは牛金の存在なくしては有り得ないだろう。補佐に回っての有能さは見かけに似合わぬ細やかな気配りの賜物であろうが、小さな子供からすればその外見だけでちょっとした恐怖の対象になりかねない。
「それなら、御主君筆頭に一門の者でも誘えば良いだろうに」
「かりっ、―――たまには男同士で飲みたいんだよ」
「ほう」
曹仁は妙に狼狽えた様子で答えると、張燕を追い抜いてさっさと道を進んでいく。
放って帰ってしまっても良かったが、それも逃げたようで癪だった。それに、ここ最近抱いていたある疑念が、今日の曹仁の態度で確信に近付いている。少しばかり話をしてみるのも良いかもしれない。
張燕はそう自分を納得させると、渋々ながら後に続いた。
「酒と肋肉を」
店内に入ると、曹仁は早々に席に付いて注文していた。二人掛けの卓に、向かい合う形で張燕も腰を下ろした。
すぐに酒瓶と焼いた豚の肋肉を乗せた大皿が卓上に並んだ。肉はこの店の名物料理らしく、焼き上がる端から運ばれていく。
曹仁が自分の杯に酒を注ぐと、こちらに瓶の先を向けた。
「お前の杯は受けん」
張燕はひったくるように曹仁の手から瓶を奪うと、自分の杯に並々と注ぎ足した。
「俺の頼んだ酒だぞ、同じ事だろうに」
「お前の買った酒を飲む分には、お前の腹が傷んで、俺の喉は潤う。こんなに良いことはないな」
張燕はぐいと一息に酒を飲み干した。すっきりとしたのど越しは、一般に飲まれるようなにごり酒ではなく、上澄みだけを集めた清酒である。
「まったく。次はお前が注文しろよ」
曹仁もそれにならって杯を開けた。
二杯目を注ぎ足す前に、張燕は肉に手を伸ばした。周りの客にならって、箸は使わずに飛び出している骨を掴んでそのまま口を付けた。塩といくつかの香辛料をまぶして焼いただけにしか見えないが、肉は驚くほど柔らかく、骨から綺麗に外れて口の中で簡単にほぐれていく。
「中々のものだろう」
「悪くはないな」
曹仁の言い様が何となく癪に触って、そんな感想になった。
「肉自体は普通のものだから、下処理のやり方が良いんだろうな。一度尋ねてみたが、さすがに教えてはくれなかったよ」
曹仁が、配膳口から厨房内を覗くようにして言う。正面で肋肉を遠火で焼く様子はうかがえるが、その奥でどのような調理がなされているかまでは見えなかった。
曹仁が料理をするという話は聞いていた。軍営での糧食にしても様々な工夫を凝らしているらしく、張燕の隊の兵も羨ましがっている。
「お前が名前を明かせば、城内に頼み事を断れる者もそうはいないだろうが」
曹操軍の本拠地許での話である。将軍であり、曹家の天の御使いとも呼ばれる曹仁の名には絶大な力がある。
「そんな腐った役人のような真似が出来るか」
「不正役人は調理法は聞き出さないだろう」
「だいたい、それではつまらんだろう。断られた以上はこうして通い詰めて、味の秘密を自分の舌と―――目で探るのさ」
「ふっ」
「なんだ?」
「いや、馬鹿げたことに躍起になるものだと思ってな」
馬鹿にされたと思ったのか、曹仁が眉を顰めた。
張燕の両親の死は特別なことではなく、腐敗したかつてのこの国ではありふれた日常だった。曹操領内で二番目に偉い―――曹家の天の御使いという肩書きを思えば、少なくとも庶民の目からは軍総大将の夏侯惇や文官筆頭の荀彧よりも高みに映るだろう―――曹仁が、店員の目を気にしながら厨房を盗み見る様は、やはり笑わずにはいられない。
「この味の価値が分からないなら、食わないことだ」
「肉の味は認めるさ」
曹仁が二本目の肉に手を伸ばす。張燕も、負けじと頬張った。
向かい合って座りながら、しばし無言で肉をむさぼった。酒にも良く合って、瓶はすぐに空になった。
「酒をもうひとつ」
再度自分からは注文する気配を見せない曹仁に、張燕は仕方なしに声を上げた。
「それで、御主君と何かあったのか?」
酒を待ちながら、張燕は先日来の疑念を軽い調子で切り出した。
「―――っ! なっ、何の話だ?」
「最近、あまり宮中に顔を出していないだろう?」
宮中で曹仁を見る機会が極端に減って、牛金や従者の少女を見かける事が多くなっていた。曹仁に代わって報告に来ているのだろう。曹仁も将軍の一人であるから当然軍議には顔を出しているが、それも散会と共にそそくさと逃げるように去っていく。以前なら一門の者と談笑の一つも交わしているところだ。
「だっ、だからって、華琳は関係ないだろうっ」
そのあからさまな動揺が答えを示しているようなものだった。
曹操の名を出してはっきりと指摘されたのは恐らく初めてなのだろう。曹孟徳と曹子孝という二人の人間を、ずっと注視してきた張燕だからこそ気付いたことである。男同士だから、というのもあるのかもしれない。
「まあ、言いたくないなら無理に聞く気もないがな」
張燕はそれ以上は口にせず、折よく運ばれてきた酒瓶に手を伸ばした。自分の杯に注ぐと、ついでに曹仁の杯にも酒を満たした。
今日は曹仁が口を滑らせるまで、付き合うつもりになっていた。
「曹仁将軍、御報告には?」
「任せた、陳矯」
曹仁は眼下の布陣から目を離さずに答えた。視界の片隅で、陳矯がわずかに眉根を寄せる。
曹仁隊は、かねてからの計画通り歩兵二万の増強を受けていた。騎兵も一万に加え新兵三千騎の調練を任されているが、これは実戦では華琳直属の本隊の兵となるらしい。騎兵一万に歩兵二万というのが正式な曹仁隊である。
「劉備軍のことは、曹仁将軍のせいではありません。あまり気にし過ぎることもないのでは? もちろん対策を講じることは良いことだと思いますが」
この一ヶ月、宮中との連絡は極力陳矯や角に任せて、曹仁は軍営に残って調練の指揮に専念することがほとんどだった。学校の講義で城内に入っても、宮殿に足を向けることは避けている。
「ああ、わかっている」
「……では、行ってまいります」
陳矯は、曹仁が桃香達の出奔に責任を感じて参内を控えていると考えているようだった。事実、劉備軍と曹操軍の縁を取り持った者として、曹仁にその責任の一端を認めている者も少なくはない。
曹仁隊では、袁紹軍との戦に備えた調練と並行して、劉備軍との戦闘を想定した訓練も実施していた。大軍を擁する袁紹軍と少数精鋭の劉備軍とを相手にするのでは、軍の動かし方はまったく異なる。様々な想定が必要だった。
そんな姿が、周囲からは曹仁自身も劉備軍の出奔に責任を感じ、汚名返上の機会を窺っていると見えるようだ。実際には、出奔は華琳の容認の上であり、むしろ桃香を煽るようですらあったのだ。曹仁の方が、華琳に小言の一つも言いたいくらいの心境であった。
とはいえ、劉備軍とぶつかる機会が訪れれば、迅速に圧倒するつもりだった。呂布軍との戦のような混戦にもつれ込めば、それだけ命が失われる可能性は高まる。歩兵の増強は有り難かった。包囲し、捕縛することが出来る。調練は、そのためのものである。
同時に、軍務に逃げ込んでいるという自覚もあるのだった。
「―――待て、陳矯」
今にも馬を駆けさせようという陳矯を曹仁は呼び止めた。
―――それで逃げ回っているのか。
数日前、気晴らしに飛燕を酒に誘った。その時、失態を演じた。酔って口を滑らせた曹仁を、嘲るように笑った飛燕の顔が脳裏に浮かぶ。
「如何されましたか?」
「やはり俺が行こう」
「はっ、お任せいたします」
城へと白鵠の足を向けた曹仁を、陳矯がどこかほっとした様子で見送った。
軍営から許の城門までは白鵠の脚ならほんの一駆けで、そこからは並足で進んでも半刻(十五分)足らずで宮殿に到着する。
調練の定時報告などお決まりのもので、あとは文官と形式通りのやり取りを二、三繰り返すだけだが、間が悪いことに文官の執務室には荀彧が詰めていた。このところ報告を部下に任せきりであることを、ねちねちと小言を並べて責められた。
「あっ、兄貴」
荀彧から解放されて白鵠を預けている厩舎への道をそわそわと忙しなく歩いていると、蘭々の声に呼び止められた。
廊下に面した中庭の東屋で、蘭々が手を振っている。素早く視線を走らせると、他にいるのは季衣と流流だけのようだ。
ほんの一瞬だけ躊躇してから、曹仁は東屋へ足を向けた。
「よう」
「なんだか宮中で兄貴を見るのは久しぶりな気がするな」
「そ、そうか?」
「そうだよ。姉貴も最近兄貴と満足に話していないって、不機嫌そうにしていたぞ」
「そうか。元気にしてるって伝えておいてくれ」
他の一門の者とは軍営で会う機会も多いが、諜報部隊の長である幸蘭の立場は文官に近い。調練を担当することもほとんどないため、必然的に顔を合わせることも少なかった。
「やだよ。俺だけ会ったって言ったら、また何て嫌味を言われることか。ここまで来たんだから、姉貴の部屋に顔を出していきなよ」
「ううん、そうだな」
宮中の居住区の中でも、曹家一門の者の私室は奥まった場所に並んでいる。当然、華琳と幸蘭の部屋は極近い位置にある。
「よろしければ、兄様も一杯いかがですか?」
思い悩んでいる曹仁に、流流が笑顔を向ける。
東屋の卓上には、お茶と茶菓子が並べられていた。問い掛けながらも流流は、早くも荷物から新たに茶碗を取り出している。
「うん? ああ、どうしようかな」
いざ覚悟を決めて宮中へ参内してはみたものの、やはりどうにも居心地が悪い。とても長居をする気分にはなれなかった。飛燕の安い挑発に乗った自分を曹仁は後悔しつつあった。
「さあさあ、兄ちゃん、座って座って」
逡巡する曹仁の手を取って、季衣が強引に自分と蘭々の間、流流の正面に座らせる。
「……じゃあ、頂こうかな」
ここ最近は、この三人が揃う場所には大抵もう一人―――鈴々の姿もあった。三人しかいない空間が何となく寂しく感じられて、曹仁はそう答えていた。
「やったあっ」
季衣が両手を上げて喜びを示す。ちょっとわざとらしいくらいのその仕草は、もしかすると劉備軍出奔のことで曹仁の方が気を使われたのかもしれない。
「では兄様、どうぞ」
「ああ、ありがとう」
すかさず目の前に置かれた茶碗に曹仁は手を伸ばした。
「あれ、これは」
「お気付きになりましたか?」
「ああ、麦茶か」
「はい、兄様に伺った方法で作ってみました」
「うん、美味い」
麦茶は淹れたてのものではなく、あらかじめ作ったものを良く冷まして持ってきたようだ。麦秋も過ぎ、夏も盛りを迎えつつある。日は落ちかけているが、まだじっとしていても汗が湧き出るぐらいに大気には熱が残っていた。冷えた麦茶は有り難かった。
茶葉はこの世界ではそれなりに高級品であるが、麦茶なら兵糧の麦を炒るだけでも作れる。曹仁の隊では朝の煮炊きの際に大釜で煮出して、兵がいつでも飲めるようにしていた。調練で多量の汗をかいて身体から失われたものを補うには、ただ水を飲むよりも適している。
「ボクも好きー」
苦みがない分、季衣の味覚には普通の茶よりも合うのだろう。華琳も、あれで案外お子様味覚だから気に入るかもしれない。
「兄貴どうしたんだ? 顔が赤いぞ」
「そっ、そうか? 暑いからな」
曹仁はわざとらしく手で顔を扇いで見せた。
「もう一杯いかがですか、兄様」
「あ、ああっ、もらおうか」
「ふふっ、お茶菓子もどうぞ」
一息で飲み干してしまった茶碗に麦茶をもう一度満たしながら、流流が言った。
大皿に盛られた茶菓子も流流の手作りで、どれも美味しそうだった。月餅や胡麻団子といった定番のものから、曹仁の世界で言うクッキーやパイのようなものもある。牛酪(バター)と小麦粉を使った菓子は曹仁が紹介したものだが、今では流流の方がずっと精通している。元々調理の腕も料理にかける情熱でも敵わないうえ、菓子作りともなるとやはり女の子の領分だった。
牛酪は、西域に住む一部の部族で食用として使われている。酥(チーズ)ほどではないが、中華にも極稀に交易の品として伝えられることがあった。眼前の菓子に使われている牛酪は西域産のものではなく、流流のお手製である。交易の伝手を使って幸蘭に調べてもらうと、牛酪の作り方はそう難しいものではなかった。
「―――?」
綺麗に形を整えられた菓子の中に、歪にゆがんだものが集まる区画があった。何となく伸ばした手が、そこに落ち着いた。
「あっ、兄貴、それはっ」
行儀悪く頬杖を突いていた蘭々が、急に身を乗り出してきた。
「何だ?」
「い、いや、何でもない」
蘭々は、今度は背もたれに身を押し付けるようにして小さくなった。そうしながら、ちらちらと曹仁の様子を窺っている。
訝しく思いながらも、曹仁はすでに摘みあげていた茶菓子を口に運んだ。
煮詰めた果実の餡をパイ生地で包んで焼き上げたものである。さくさくとした生地の食感と、甘過ぎず酸味の効いた餡が美味だった。
「うん、美味い。流流はやっぱり大したものだな。俺のうっすらとした記憶から、これだけのものが再現されるとは思わなかった。餡もさっぱりしていて、今みたいに暑い季節にはぴったりだ」
「ふふっ、良かったね、蘭々」
「蘭々?」
曹仁の賛辞を受け、流流が蘭々へ話を振った。
「ううん、生地を作ったのは流流だから」
「餡も誉めてくれたじゃない」
「う、うん。えへへっ」
蘭々がはにかむように微笑んだ。
「これ、蘭々が作ったのか?」
「う、うん。流流に教わって。そ、その、ぱい生地? は、流流が作ったのをもらったけど」
照れ臭そうにうつむいたまま蘭々が小さく首肯した。膝の上で拳を握った手がぷるぷると震え、頬も赤らんでいる。久しく見なかった蘭々の女の子らしい仕草だ。
「へえ、大したもんだ」
曹仁はもう一つ、蘭々が作ったという菓子に手を伸ばした。菓子は花の形をしている。一見歪に見えるのは、むしろ他のもの以上に形状に凝った結果らしい。
蘭々が厨房に立つ姿というのはほとんど目にした覚えがない。曹家一門の中では、言うまでもなく華琳が玄人顔負けの料理上手で、その相方として借り出されることも多い幸蘭と秋蘭も上手い。華琳への対抗心から始めた曹仁も一端の腕前になった。あとの二人―――春蘭と蘭々は、包丁を握ったことも数えるほどしかなかったはずだ。多くの使用人を雇い、厨房にも専属の料理人がいるような家に育ったのだから当然と言えば当然の話だった。名家の娘で料理が得意という華琳の方が特殊な例だろう。
「まあ、蘭々は昔から何をやらせても器用だからな。流流も、教えるのも上手そうだし」
そう言えば、以前は流流は曹家一門の蘭々のことは“蘭々様”と呼んでいた気がする。菓子作りを習ううちに打ち解けたのだろう。
曹仁の後を付いて回って、気付けば女の子らしい遊びをしているより侠客連中とつるんでいることの方が多くなった妹に、年相応の―――それも曹仁の知る同年代の少女たちの中でも格段に女の子らしい―――友人が出来たようで、兄としてほっと安堵する思いだった。
「しかし、急にどうしたんだ?」
「えっと、それは」
「もう、鈍いなぁ、兄ちゃんは。兄ちゃんが元気ないから、手作りのお菓子でも差し入れにって―――」
「あっ、こらっ、季衣っ!」
言いよどむ蘭々に代わって答えたのは季衣で、それを制止しようと声を上げたのが流流だった。蘭々は、さらに頬を赤らめてうつむいてしまっている。
「そっか、お前にまで心配を掛けてしまっていたか。すまなかったな」
「ほんとは、もっとちゃんと作れるようになってから、食べてもらうつもりだったんだけど」
「ちゃんと出来てるよ、ありがとう」
「えへへ」
個人的な問題で、これ以上妹にまで心配を掛けるわけにはいかなかった。これはもう、覚悟を決めるべきなのだろう。
「姉ちゃんには食べてもらったのか?」
「ううん、流流と季衣以外には内緒にしてたから」
「なら、呼んでくるか。蘭々の手作り菓子なんて振る舞われた日には、きっと姉ちゃん嬉しくて卒倒するぞ」
「そんな大袈裟な」
「多分一つは厳重に金庫にでもしまって、一生保管するな」
「それは、……確かにするかも」
「じゃあ、呼んでくるぞ。部屋にいるようなら、ついでに春姉達も」
「―――それなら私が」
「いや、こちらは振る舞われるばかりだし、それぐらいは俺に行かせてくれ」
腰を浮かせかけた流流を曹仁は手で制し、代わりに立ち上がった。
華琳と出会うかもしれない。その時はその時だった。
いや、そもそも華琳も誘うべきだろうか。以前の自分ならどうしていただろう。自分で誘わなくても、春姉辺りが勝手に呼ぶか。いや、まず第一に主君である華琳にこそ声を掛けるべきなのか。
逡巡しながらも、一方で気が急いた。曹仁は小走りで中庭から廊下に入り、居住区画へ向かう最初の角を曲がる。
「―――あら、久しぶりね」
間が良いのか悪いのか、早速遭遇した華琳はそんな皮肉を口にした。
「―――っ、御無沙汰しております、華琳様」
「ちょうど良かった。少し話があるわ、付いてらっしゃい」
言い捨てると、すぐに背中を向けて歩き始めた。すでに覚悟を決めていたのか、特に抗う様子もなく直ぐ後ろを足音が付いてくる。
―――気付かれていない?
中庭の東屋で談笑する曹仁達を覗き見ていた先刻までの自分の姿を思うと、覚えず華琳の足元は逃げ出す様に速くなった。急に駆け足で向かってきた曹仁に、華琳は身を隠す間もなく偶然と平静を装っていた。
「……失礼します、華琳様」
華琳が私室へ飛び込むと、曹仁も深々と一礼して室内に足を踏み入れた。
顔を合わせた瞬間、曹仁の顔にはっきりと動揺が走った。今は主従の礼に逃げ込んでそれを隠そうしている。
劉備軍の離脱から一月が過ぎている。突然の出奔に憤る者や惜しむ者、曹操軍内には一時浮足立った空気が流れたが、ようやく平時の落ち着きを取り戻しつつある。
そんな中にあって、事態を事前に知っていたはずの曹仁に不自然な行動が目立った。軍営に引きこもって報告にも副官の牛金や従者の陳矯を送ってくる。軍議でもほとんど発言することがなく、華琳と目が合っても慌てて逸らすか、あるいは思い悩んだ表情で視線を絡ませてくるのだった。華琳が曹仁とまともに会話をしたのは、桃香達の見送りを終えて報告に来た時が最後である。その時も、どこか居心地が悪そうにしていたのを覚えている。
桃香達の出奔を認めたことで今後劉備軍と敵対関係となったことへの不満を、そうした態度で表明しているつもりなのだろうと、当初華琳は黙殺していた。しかしそれが一月も続くとなると面白くない。最近の調練では劉備軍と対したときの想定戦なども率先して行っているという。当て付けにしても妙に前向きなところもあって、単に華琳への不平不満の表現とも思えないのだった。
一方で、幸蘭や春蘭、秋蘭に曹仁の様子を聞いても、会う機会こそ減れど特にいつもと変わった様子はないという。蘭々や季衣達も、軍営の私室に押しかけては普段と同じように遊びに付き合わせたりしているらしい。実際、折よく遭遇して観察した先刻の蘭々達とのやり取りの中にも、自然体の曹仁の姿があった。
全てを総括した結果、やはり曹仁は自分に対してのみ不審な行動をとっていると華琳は結論付けた。
「歩兵部隊の調子はどう?」
華琳も曹仁と鉢合わせた動揺から抜けきってはいない。曹仁が臣下の仮面を被るなら、華琳もまずは主の立場に拠り、軽い調子でそう切り出した。寝台に腰掛ける華琳に対して、曹仁は叱責を待つ子供のように決まりが悪そうに直立している。
「悪くないです。新兵の調練を任せたら、沙和はすでに熟練の域にありますね。騎馬隊との連係を教え込みさえすれば、あとは私の指揮だけの問題でしょう」
曹仁はほっとした様子で答えた。
「歩兵の扱いにはまだ慣れない?」
「騎馬隊との動きの違いに、もどかしく感じることばかりです」
曹仁には、総大将の戦にも馴れてもらわねばならない。
春蘭は明確な命令を与えてこその将であるし、半ば意図的に姉の影に隠れるようにしてきた秋蘭には武名が足りない。今後、曹仁には戦線の一つも任せることも考えられるのだ。騎馬隊だけでは攻城や籠城の戦は出来ないし、野戦でも勝利を決定付けるには歩兵の存在が不可欠だった。
「黄巾の乱の時には、歩兵も率いていたのでしょう?」
「あの時は愛紗さんや鈴々もいましたから」
「ああ、そういえばそうだったわね」
二千足らずの軍に、曹仁と副官の牛金、今は虎豹騎隊長の蘭々、そして関羽に張飛、軍師として諸葛亮に雛里。すぐにでも十万を動かせる実に贅沢な布陣だった。指揮に関しては持て余すことはあっても、不足を嘆くことなどなかっただろう。もっとも、その人材の豊かさはさらに趙雲を加えた今の劉備軍にも共通している。
「…………」
劉備軍の話題が出たからか、曹仁はいくらか神妙な顔つきで押し黙った。
「―――それで、貴方はこの一月近く報告にもろくに顔を出さないで、どういうつもりなのかしら?」
そこで華琳はようやく本題を口にした。
「ど、どうって、別にどうも……、だから調練とか、その、色々と忙しくて」
すでに観念していたのか、曹仁はそれ自体は否定せず、しかし言いよどんだ。視線もあからさまに華琳から逸らして虚空を泳がせる。臣下の仮面は簡単に外れてしまっていた。
「何か私に会いたくない理由でもあるのかしら?」
「べっ、別にそんなことは」
「謀叛でも企んでいたり?」
「まさか、そんなはずがありませんっ」
この時ばかりはきっぱりと曹仁が言いきった。
「―――ではなに? 答えなさい」
これまでのからかいを含んだ口調から一転、華琳は剣でも突き立てるつもりで問うた。桃香の後を追って出奔する気か、という言葉が喉元まで出掛かっている。その剣は両刃で、触れれば自身をも傷付けるかもしれない。
「だから、その、とっ、桃香が……」
「―――っ、桃香が、なにっ?」
「出ていくときに、変なことを言い残していったものだから」
「変なこと?」
「俺が、……そのっ、か、華琳に惚れているって。男と女の意味で」
曹仁は顔中を真っ赤に染めながら、絞り出すような声で言った。
「―――ふふっ。はっ、あははははっ、そ、そんなことでっ、くふっ、ふふふっ、わっ、私はてっきり、くふふっ」
こみ上げてきたものは笑いだった。曹仁が不服そうに唇を尖らせる。
「そんなことって、お前な。これでも真剣に思い悩んだんだ。この世界に来て、姉ちゃんや春姉に武術で負けてもすんなり受け入れられたのに、お前に負けた時だけは悔しくて悔しくてしようがなかったのはどうしてか、とか。素直に軍門に降れなかったのは何故か、とか。もしかしたら俺はずっと前から華琳を、なんてことを」
「へーえ、そんなことを考えていたの」
にやにや笑いで受けると、曹仁は口を滑らせたという顔でうつむいた。
華琳は目尻に溜まった涙を指で拭った。桃香との決別以来、こんなに笑ったのは初めてのことだった。
「―――てっきりなんなんだ?」
「?」
「今、笑いながらこぼしていただろう? 私はてっきりって」
「ああ、そのこと。……てっきり、桃香の後を追うつもりなのかと」
「はぁ? そんなわけないだろう」
今度は曹仁が、呆れ顔で言った。頬にはまだうっすらと赤みが残っているが、言うだけ言ってすっきりしたのか、すっかりいつもの調子に戻りつつある。それが、何となく憎らしい。
―――もしかしたら俺はずっと前から華琳を
華琳の方は笑いがおさまると、先ほどの曹仁の言葉が否応なしに反芻された。
「まっ、そうよね。貴方、私に惚れているのだものね」
「―――ああ、どうやらそうらしい」
曹仁は一瞬だけ自問自答するように目を閉じると、迷いを断ち切る様に大きく首肯した。口にした言葉は、華琳の苦し紛れの戯れを肯定していた。
「―――っ。いやにはっきりと認めるじゃない」
「ずいぶんと周囲にあらぬ誤解を振り撒いてしまったみたいだからな。このまま妹にまで心配を掛け続けるくらいなら、きっぱり振られた方がましってもんだ」
「……昔から腹を据えると強いわね、貴方は」
この一ヶ月間華琳を避け続けていたのが嘘のように、曹仁はあっさりとしたものだった。
人並み以上に思い悩むわりに、一度そうと決めたら揺るがないというのが曹仁の欠点でもあり長所でもあろう。一月どころか十年以上も忌避し続けてきた天の御使いという肩書きも、一度使うと決めると行動は早かった。今や大きく天の一字を記した天人旗を自ら堂々と掲げている。義勇軍だ董卓軍だと定まらなかった腰も、華琳に臣従を誓ってからは忠臣と言って良い。
「それで、どうなんだ?」
「どっ、どうって?」
「俺はきっぱり振られるのか? まあ、男だから当然か」
「べ、別に、男だったら誰でも振るというわけではないわよ」
「あれっ、そうなのか? てっきり曹嵩様と一緒で、華琳も女にしか興味がないのかと思っていたけど」
「母さんと一緒でって、私がどうやって生まれたと思っているのよ」
「―――ああ」
曹仁は合点がいったという様に、はたと手を打った。
「そうか、華琳達母娘は男も女も両方いけるのか」
「下世話な言い方しないっ」
「でも、華琳も曹嵩様も男を連れているところなんて見たことないぞ。女の方は取っ替え引っ替えだけど」
「当たり前でしょう。母さんには父様だけだもの。私だってそうよ」
父は華琳が幼い頃に無くなっているので、曹仁とは会ったことがない。華琳自身もほとんど父の記憶は残っていないが、母とは仲睦まじい夫婦だったことを覚えている。
「つまり男は一人だけってことか?」
「あ、当たり前でしょう」
そこで会話が途切れた。
澄んだ表情をしていた曹仁も、可能性の芽が出てきたからか再び緊張に顔を強張らせている。曹仁の俗な物言いにすっかり冷めかけていた華琳の頬も、もう一度熱を帯び始めた。
「…………まっ、まあっ、ほっ、他に候補もいないし」
先に沈黙に耐えかねたのは華琳の方だった。努めて冷静に、素っ気ないぐらいの口調で言うつもりが、声が上ずる。
「そっ、そうか、華琳も俺のことが好きなのか」
「ほっ、他に候補がいないからと言っているでしょう」
「でも、俺だけは候補入りしてるんだろう? それは、なんというか、その、―――うれしい」
言葉通り、曹仁は心底嬉しそうに微笑んだ。
手を伸ばすと、その頬に指先が触れる。華琳はいつの間にか寝台から立ち上がり、寄り添うように曹仁の傍らに立っていた。指先から伝わる熱が、血潮に乗って華琳の胸をさらに高鳴らせる。
「…………仁」
「―――仁ちゃーーん」
「―――兄貴ーーー」
廊下から、曹仁を呼ぶ声が響いた。
「…………そういえば貴方、お茶会を中座していたわね。―――ああ、そうか、幸蘭を呼びに来たのね?」
「忘れていた。……あれっ、何で知ってるんだ?」
「―――っっ! いっ、良いから、早く行きなさいっ」
「あ、ああ。か、華琳はどうする?」
「私は良いから、早くっ」
「ああっ」
曹仁が部屋から飛び出して行く。互いに言葉にはしなかったが、二人の関係はひとまず皆には秘密というところだろう。桂花辺りは食って掛かるだろうし、何より肉親に知られるのは面映い。
「――――ふぅ」
華琳は倒れ込むように寝台に身を預けた。
こんな顔で、皆の前に出れるはずもない。鏡など見なくても、首筋まで真っ赤に染まり、それがすぐには引きそうもないことが分かる。口元も締まりなく緩みっぱなしだった。
曹仁も似たようなものだが、せいぜい姉妹に弄られるといいだろう。一ヶ月も悶々と思い悩まされたことを考えれば、軽い復讐というものだった。