「おーほっほっほっ、今回も私の勝ちでしてよ、華琳さん」
「また満点? さすがに優等生ね、麗羽」
「おーほっほっほっ!」
わずかな皮肉を込めて返すも、高笑いをあげながら麗羽は上機嫌で席へと戻っていく。
悔しいという思いがまったく無いわけではない。同時に取るに足らないことと、一笑に付してもいた。
返還されたばかりの華琳の試験用紙は、最後の一問で減点されていた。原因ははっきりしている。経書を読み解く問題で、出題者の意図と異なる自論を展開したからだ。
とうの昔に死んだ人間の言葉を諳んじ、その解釈を論じる。さらに学派ごとに異なるそれぞれの解釈をまたぞろ覚え込む。学問のための学問とでも言うべきその行為に、華琳は如何ほどの価値も見出せなかった。
設問の解説を始めた講師の声を、机に頬杖を突いて華琳は聞き流した。
「―――麗羽、何か用かしら?」
私塾からの帰り道、当然と言う顔で隣を歩き、遂には屋敷の前まで付いてきた麗羽に華琳は仕方なしに声を掛けた。
「別に貴方に用があるわけではなくってよ。曹仁さんはいるかしら?」
大長秋にまで昇った養祖父曹騰の築いた富は莫大で、洛陽城内の屋敷は広大である。曹家一門とその縁戚に当たる夏侯氏の若い子弟の中には、屋敷に寄宿して洛陽で遊学する者も多い。華琳と同年代では、曹氏の幸蘭と蘭々、夏侯氏の春蘭、秋蘭、そして最近曹家一門に加わったばかりの曹仁が滞在していた。
曹仁が眩い光の中から現れたのは、華琳の母曹嵩の太尉就任を祝う宴の席での話である。すぐに母はその場に集まった者の中から幸蘭の父を見繕って、曹仁をその養子とした。数日続いた宴の後、一門の者は生地である沛国譙県や地方の任地へと帰っていったが、曹仁は養父に従うことなくそのまま洛陽へと留まっている。今は一門を取りまとめる曹嵩と養姉の幸蘭が保護者ということになろう。二人の愛情の元、曹仁は何不自由ない生活を送っていた。
「さあ? 貴方もご存じの通り、私も今帰ってきたところなのだから分かるわけがないわ」
「確かにそうですわね。確認して頂けるかしら?」
「……仕方ないわね。入って待っていなさい」
麗羽には分からないと答えたが、曹仁が屋敷を空けているとは考えにくかった。慣れない世界に戸惑いがあるのか、華琳や春蘭達が無理にも連れ出さない限り、曹仁が外出することはほとんどない。
「華琳お姉さま、お帰りなさい」
麗羽を玄関を入ってすぐの客間に残すと、華琳は奥へと進んだ。蘭々が寄ってきて行儀良く頭を下げる。
姉の幸蘭の趣味で、ひらひらと多量の布で装飾された衣服を身にまとい、どこぞの御令嬢といった風情だ。もっとも家柄から言えばそれで間違ってはいない。
「ただいま、蘭々。仁はいるかしら?」
「お兄さま? お兄さまなら、いつも通り書庫でお勉強中ですわ」
「そう。ちょっと呼んできてもらってもいいかしら?」
「はーい」
蘭々はもう一度恭しく頭を下げると、足早に書庫の方へと向かった。
ここのところ曹仁は、元いた世界へ帰る方法を求めて読書に耽っていた。幸い屋敷の蔵書はちょっとしたもので、特に史書の類を中心に読み漁っているらしい。天の御使いと似た事案として、いわゆる瑞兆―――竜や麒麟などといった伝説上の生き物の出現や、天から降るという甘露など―――に関して熱心に調べているという。
そんなものは時の権力者の虚栄心の表れだ。曹仁―――天の御使いの出現を目の当たりにした今も、華琳は端から信じてはいなかった。無駄なことをしていると忠告してやらないのは、それで曹仁の勉強になっているからだ。初めはほとんど読むことが出来なかったこの世界の文字も、今では普通に読みこなしている。存外、頭は悪くないらしい。
ここ十数日は書庫に入り浸りだが、武術の鍛錬も欠かしてはいないようだ。以前はしきりに春蘭や華琳に試合を挑んで来たものだが、今は一人で槍を振るっていることが多い。書庫で読書か中庭で武術の鍛錬。それが曹仁の日常である。
「呼んだか?」
のろのろとした足取りで、曹仁が現れた。
「私じゃなくて麗羽がね。客間でお待ちよ」
「ああ、わかった」
曹仁はちょっと嬉しそうに顔をほころばせた。
華琳の友人として紹介した麗羽と、曹仁は意外にも気が合ったらしい。最近では麗羽が曹家を訪ねてきては、華琳ではなく曹仁を呼び出すことも多い。普段屋敷にいる人間としか付き合いの無い曹仁が、家の外の人間と関わりを持つのは悪いことではない。春蘭辺りは詰まらなそうにしているが、邪魔はしない様に命じていた。
何となくどんな話をするのか気になって、客間に向かう曹仁に華琳も付いていった。
「ごらんなさい、曹仁さんっ。華琳さんに打ち勝った私の答案用紙をっ!」
曹仁が戸口から顔を出すや、麗羽が一枚の紙切れを突き付け言った。
「……貴方はそんなことを言いに、わざわざ家に来たわけ?」
唖然としている曹仁に代わって、華琳が口を挟んだ。
「あらっ、華琳さんも付いていらしたの? これは本人の前で悪いことをしてしまったかしら? ―――おーほっほっほっ!」
まったく悪びれる様子もなく麗羽は高笑いを上げた。
「へえ、華琳に勝ったのか。それはすごいな」
「おーほっほっほっ! 別にすごくなんてありませんわ。入塾以来、私、試験では一度も華琳さんに負けてはおりませんのよっ。まあ、名族として当然のことですがっ。おーほっほっほっ!」
「一度も?」
「そのすごくもないことを、わざわざ自慢しに来たのかしら? ずいぶん暇人なのね、麗羽」
驚いた顔でこちらを見つめる曹仁を無視して吐いた言葉は、我ながら負け惜しみの響きがあった。
「おーほっほっほっ! なんとでもお言いなさい。今日は気分が良いですわっ、何と言っても記念すべき十勝目ですのよっ。無敗の十連勝ですわっ、おーほっほっほっ!」
「わざわざ数えていたの。ふんっ、本当に暇なのね」
華琳自身は意識していなかった十連敗という現実を突き付けられて、また少し悔しさが滲み出した。麗羽はそんな華琳の様子には気付かぬ様子で、相も変わらず一人高笑いを浮かべている。
「まあいいわ。詰まらない自慢話ならこの子相手に好きなだけすることね」
言い捨てて華琳は踵を返した。まるで負け犬の遠吠えのようだ。足早に廊下を歩きながら、華琳は自嘲するのだった。
「それでは、お邪魔致しましたわっ、おーほっほっほっ!」
麗羽はその後二刻(1時間)余りも居座ると、屋敷中に響く高笑いで帰っていった。
「ずいぶん盛り上がったようね?」
玄関先まで麗羽を見送って戻ってきた曹仁に、華琳は声を掛けた。
「ああ、共通の知人の陰口を叩けるのは、あの人くらいだからな」
当の本人を目の前に、曹仁が臆面もなく言った。
袁紹軍が、再び領内各地から冀州へと兵力を集結させていた。対して曹操軍は白馬、延津、そして官渡の三つの拠点に軍勢を集めた。
白馬は袁紹軍の前線基地が設けられた黎陽と河水を挟み対峙していて、延津は河水の有力な渡渉地点の一つである。曹仁は旗下の三万を率いて白馬の防衛を命じられていた。延津には、軍総大将の春蘭とその補佐に秋蘭が置かれている。両拠点は河水沿いに六十里(30km)ほどを隔てて東に白馬が、西に延津が並ぶ。使者が一日で往復出来て、歩兵も一日で行軍可能な距離だ。連絡は密に取り合えた。
華琳が陣を据える官渡は、延津から南に八十里(40km)の距離にある。さらに八十里南進しれば曹操軍の本拠地許であり、白馬と延津が前線基地なら、官渡は正に対袁紹軍の本営と言えた。官渡を抜かれれば、後は本拠地での決戦と言うことになる。
白馬での兵の配置を終えた曹仁は、報告のために白騎兵のみを伴って官渡を訪れていた。
「さすがは袁家ね」
華琳は荀彧に稟、風を伴い、官渡城の中庭にいた。
放置された古城を、華琳が新たに縄張りし再建した城である。街を廓で囲んだ城邑ではなく、兵だけがひしめく完全に戦のための砦だった。華琳の視線の先には、無骨な造りの城内に不釣合いな金銀宝玉の類が並んでいる。
麗羽から曹操軍の諸将に贈られた品の数々である。つまりは引き抜き工作のために麗羽がばら撒いた物だ。
太尉の地位を与えられ一時は浮かれ気分であった麗羽も、天子を手中に収めた華琳がそのまま司隷(司州)を支配下に治め、中原四州の覇者として立つと態度を改めた。曹操軍に対して降伏を勧告する使者が幾度も往来し、麗羽から華琳への私信という形でも恭順が呼び掛けられている。同時に進められたのが曹操軍の諸将に対する引き抜きであるが、ついに兵を挙げて対峙する段になっても治まることなく、それはさらに加熱していた。
中庭には金銀宝玉以外にも、多くの書物が並び、見事な毛並をした白と黒の二頭の馬が引き立てられている。書物は荀彧ら文官に、二頭の名馬は春蘭と秋蘭に揃いで贈られたものだ。
あくまで麗羽から個人へ送られた財物であり、突き返すなり私腹へ入れるなりは贈られた本人の自由である。こうして集められているのは、何も華琳が取り上げたわけではない。春蘭と荀彧が自身の潔白を証明するように先を争って華琳へ献上するものだから、他の者も懐に入れるわけにもいかなくなったのだ。
「仁、貴方のところにも何か届いているのでしょう? 麗羽は昔からあなたに御執心だったから、さぞや良い物を送られたのではない?」
荀彧が作成した献上品の目録に目を通しながら、華琳が言った。
横から覗き込むと、やはり軍の総大将春蘭と文官筆頭の荀彧へ贈られてきた品が一番多く、次いで武官では秋蘭、文官では風が続く。同格の稟を抑えての風への厚遇は、幸蘭の献策によって曹操軍内で一大論争の的となった袁紹軍への降伏論の熱心な支持者の一人であったためだろう。もちろん降伏論自体が袁紹軍の侵攻を先延ばしにするための偽りの献策で、風の同調も華琳に指示を受けての擬態であった。風は華琳の信奉者である親友の稟との関係を一時著しく悪化させながらも、見事悪役を演じ切ってくれた。
その降伏論の中心となった当の幸蘭の名は目録に無い。恐らく堂々と自分の懐に入れているのだろう。幸蘭の吝嗇は今に始まった事ではない。
主だった者で他に名が無いのは二名で、そのうち一人は張燕である。突き返したのか、あるいは部下にでも景気よくばら撒いたのか。いずれにせよ、こうした方法で主君の機嫌伺う人間ではない。
そして目録に名の無い最後の一人が曹仁であった。
「―――いや、俺には書簡だけだ」
見栄を張りたい気持ちも多少あるが、曹仁は正直に告白した。
贈られた品の数はそのまま袁紹軍内での自身の評価を示すもので、同僚との差をこのところ皆が気にしていた。荀彧などは喜々として華琳に献上し、こうして目録まで作成している。
「あら、本当に?」
華琳が目を見開いた。
「今朝、ちょうど貴方と麗羽が仲睦まじくしていた子供の頃の夢を見たのだけれど。……貴方もとうとう見限られたのかしら?」
「さあ? 部下になれば厚遇するとは書かれていたが。忠臣中の忠臣たる俺が華琳の元を去るはずがないと悟ったんじゃないか?」
「ちょっと、あんたね! それなら華琳さまの一番の忠臣である私に誘いが来るはずがないじゃない!」
耳ざとく聞き咎めた荀彧がいきり立った。
「はいはい」
「なによ、その返事は。誰が一番華琳さまに忠義を尽くしているか、本当に分かっているんでしょうね?」
息巻く荀彧を受け流しながら、曹仁には華琳には理解の及ばない麗羽の心境が解るような気がしていた。
麗羽とは以前から奇妙な仲間意識というか、互いに共感するものがあった。それはおそらく華琳に対する劣等感からくる感情だろう。幼少時からその天才をいかんなく発揮していた華琳に、同世代の子供達の多くは従属した。一門の次期当主という立場があるとはいえ、年上の従姉である春蘭や秋蘭も当時からすでに華琳へかしずいていたのだ。そんな従属者達のなかにあって、華琳に立ち向かった数少ない敗者が麗羽であり曹仁であった。
天の御使いの肩書きや将としての評価を抜きにしても、麗羽にとって曹仁は是が非でも華琳から引き抜きたい対象だろう。だがそれだけに華琳と同じ天秤に乗せられ、測られることを恐れてもいる。底抜けの楽観主義者でもある麗羽自身ですら気付いてはいないかもしれないが、曹仁にはそんな彼女の心裡がよく理解出来た。
「私のところにも麗羽から勧誘の書簡が来たわよ」
華琳が口を開くと、ぎゃーぎゃーと騒いでいた荀彧が押し黙った。華琳は、一巻の巻物を曹仁へ投げて寄こした。
「―――二州の王か」
諸将に金銀宝玉をばら撒いた麗羽が華琳へ贈ったのは、降伏の暁には二州を領する王の地位を与える、という約束だった。
当然、群雄の一人に過ぎない今の麗羽には華琳に王位を与えることなど出来ない。それは王を超えた存在―――皇帝にのみ許されることで、現在なら漢王朝の帝にだけ与えられた権限だった。
つまりこの約束は、麗羽が帝位につくという前提の上に成り立っている。自身が帝位についた暁に、漢王朝創立の功臣達がそうであったように、華琳にも王位を与えるというのだった。
「まあ、破格と言って良いでしょうね」
漢室では王族が王位を授かる場合、通常一郡を与えられる。今上帝もかつては陳留一郡の王であった。漢王朝創立期には、韓信や彭越ら功臣は秦代以前の諸王国の国土をそのまま分け与えられた。斉や楚、梁といった国々の領土は現在の一州分に値する。つまり二州の王というのはそれすらを超えた正に破格の待遇だった。
「さて、麗羽のことはひとまず捨て置いて、―――問題は劉備軍ね。桃香はどう動くかしら?」
当然降伏などは頭の片隅にも無い華琳は、この話はこれで終わりと話題を切り換えた。孫策軍が荊州攻略に着手している現状、警戒すべき勢力の第一に劉備軍は上がる。
「……動くでしょうか?」
稟が遠慮がちに問う。
桃香の話題は、華琳の前ではちょっとした禁句のようなものなのだろう。華琳も他の者には触れ難い話題である事が分かっているから、あえて曹仁がいる今切り出したのかもしれない。
「動くわ」
断言しつつも、華琳は曹仁に確認するように視線を向けた。
「ああ、動くだろう。我々と敵対すると覚悟を決めた上での出奔だろうし、そうなれば朱里と雛里がこの期を逃すはずがない」
「ふんっ、つくづく恩知らずな女ね」
荀彧が吐き捨てると、稟が軍師の顔で口を開く。
「風。確か貴方、劉備様が本格的に兵を募れば、万単位の民がすぐに集うという試算を―――? ちょっと、風?」
「…………ぐぅ」
「風っ!」
「んん? …………すいません、稟ちゃん。もう一度お願いするのですよー」
「はぁ。まったく貴方は」
「珍しいな、風が本当に話を聞き逃すなんて。いつもは居眠りして見えても耳と頭は聡く働いているのに」
ゆらゆらと船を漕いでいた風が目をしばたかせる。居眠りはいつものことだが、不思議とそれで仕事に支障をきたさないのが普段の風だった。
「もうー、お兄さんのせいですよ、風がこんなに眠いのは」
常に手にしている棒付きの飴で口元を隠しながら、風が小さく欠伸を漏らす。
「俺のせい?」
「そうですよー。お兄さんが朱里ちゃん達をちゃんと引き止めてくれていれば、こんなに風が寝不足になることもなかったのですよー」
「ああ、なるほど。やっぱりあの二人の抜けた穴は大きいか」
「書類の山が三つは増えたのです」
朱里と雛里は曹操軍の文官の仕事をかなり手伝ってくれていた。客人であるから政の重要な部分には関与しない雑務に近かったはずだが、それでもあの二人がいるといないとでは大違いだ。そこにさらに軍の出陣が重なったとあって、文官達の仕事はよほど立て込んでいるのだろう。
「私は政務よりも学校の方がきつかったですね。授業が回ってくること自体は構わないのですが、劉備様や朱里先生達はどこに行ったのかと子供たちが騒ぎ立てるのには、困ってしまいます」
率直な風の物言いに導かれるように、稟も溜まっていたものを吐きだした。劉備軍の話題を避ける空気はすっかり霧散している。あるいは、風はこれを狙ってあえて寝た振りをしたのではないかとも思えてくる。
学校の授業に関しては、朱里と雛里はかなり主体的に働いてくれていた。その穴を埋めるために、文官達の講義の割り振りは増している。それでも手が足りずに曹仁達武官もかなり駆り出されているが、二人の講義を引き次ぐとなると並みの学識では務まらず、稟や風といった上級の文官達は特に大忙しなのだろう。
「それに、何やら華琳さまもふわふわと落ち着かない御様子。特にここ十日ばかりは、いつもなら人の十倍仕事をするところが、七、八人前といったところなのですよー」
「そ、そうだったかしら?」
言い淀んだ華琳の頬がうっすらと赤らんだ。曹仁が華琳に思いを告げ、それを受け入れられたのがちょうど十日前のことである。
「おお、御自身でお気付きでないとは、劉備様の御出奔がよほど御心痛なのですね。おいたわしや~」
「そっ、そうだな。華琳は桃香と親しかったからな」
華琳が横目で視線を送って来るが、本人にも思いつかない上手い言い訳など曹仁に思い浮かぶはずもない。
「ふんっ、馬鹿な女よ。あれだけ華琳さまの御寵愛を受けておきながら、出ていくだなんてっ」
荀彧の刺々しい言葉が、今ばかりは曹仁にとって救いに思えた。
「華琳さまの庇護下でならともかく、あんな甘い女が乱世に飛び込んでやっていけるもんですかっ」
荀彧の物言いは、どこか桃香を惜しんでいるようにも聞こえる。荀彧は曹操軍内における反劉備軍の急先鋒だった。それはそれだけ桃香達を買っていたということでもあるのだ。呂布軍との戦ではあわやというところを桃香と鈴々に救われてもいる。複雑な思いがあるのだろう。
「そうは言っても実際に長い間、戦と流浪の生活を続けていましたからねー。今後もしぶとく生き長らえるのでは~?」
「劉備軍は確かに歴戦の精鋭だけれど、劉備本人はどうだか。あれだけ長く実戦の場に身を置いていながら、いまだに兵一人一人の死や民の苦しみに心を痛めているんだもの、早晩押し潰されて身を滅ぼすんじゃないかしら」
「―――それが桃香の怖さね」
「華琳さま?」
「桂花の言う通り、あの子は胸やけがするくらい甘いわ。戦の度に散りゆく兵一人一人の死に、胸を痛める。それは人としての美徳なのでしょうが、あの子のように大袈裟に悼んでいては、身が持たない」
華琳はもったいぶる様に言葉を切った。全員が押し黙り、固唾を飲んで次の言葉を待つ。華琳が桃香をどう評するのか、皆の興味が引かれるところだった。
「だから兵の死は、それと受け止めつつも割り切る。私はそうしているし、孫策や麗羽―――は何も考えていないだけかもしれないけれど、とにかく乱世に立つ以上は、兵の死を背負いつつもそれに心を動かしはしないものよ」
それは、君主でない将軍の曹仁にも共通する心得だった。文官の荀彧らは、曹仁以上に上手く割り切っていることだろう。
「ところがあの子は、人の死や苦しみに対して誰よりも繊細な心を持ったまま、乱世に立ち続けている。立っているだけで人に倍して傷付きながら、それでも志のために戦を辞さない。薄氷の儚さと、その内に大河の激流が如き強さを兼ね備えた人間。あんな人物は他に見たことがないわ」
一軍の頂点と言うのは桃香にとって本来最もつらい立場だろう。並の大将なら必要な犠牲と割り切る兵の死に傷付く弱さは、一方で今も戦い続ける桃香の強さの証明でもあった。
「兵はそんな桃香のためなら喜んで命を賭すでしょう。桃香も心を痛めながらそれを受け止める。張三姉妹の信徒の集団にも似ているが、あれは熱狂のままに駆け抜けて暴徒の域を出なかった。信仰にも似た桃香への思いと高邁な志とが合わさることで、劉備軍は極めて精強な一団たり得ている。その劉備軍の強さが、そのまま桃香自身の強さよ」
桃香に許へ置き去りにされた劉備軍の兵士達は、数日のうちに残らず姿を消していた。桃香の後を追ったのだろう。兵達にとって幸いなことに、華琳自ら記した通行許可証を持っての出奔となったから、桃香達は曹操領内の移動中はまったく身を隠していない。いつも通りの視察とでも言う顔で、堂々と領民に姿を見せていた。桃香、鈴々、星はそんな状況を楽しんだであろうし、愛紗、朱里、雛里はさぞかし気を揉んだことだろう。六人が許から南西へと進み荊州の南陽郡へ抜けたというところまでは、心利いた者が探りを入れればすぐに判明することだった。
加えて、消えたのは劉備軍の兵だけではない。曹操軍の兵五百ばかりも桃香の後を追って出奔していた。軍議では相当に問題とされたが、間諜を送り込む好機でもあるということでひとまず黙殺された。今は桃香の行先を調べる術がない民の中にも、劉備軍が再び旗を掲げればその地へ流出する者達が出るかもしれない。
華琳の言う張三姉妹への信仰にも似た何かが、軍規も日々の暮らしすらも捨ててしまうほどに人々の心をかき立てるのだろう。
長々と語り視線を集めている自分に気が付くと、華琳はこほんと一つ咳払いをした。
「―――っ、そうだっ、風、例の試算の結果を」
はっと思い出した顔で稟が話を戻すと、それからは劉備軍への対策に関して活発な議論が交わされた。
これまで禁句とされてきた時間を取り戻すように、荀彧も稟も風も果敢に意見を闘わせる。曹仁が白馬、延津の布陣状況を報告すると、具体的な後方の兵力配置にまで話は及んだ。
「仁、今日は泊まっていくのでしょう?」
議論も出尽くした頃になって、華琳が言った。
「ああ、そのつもりだ」
白馬から官渡までは直線距離にして百里(50km)程で、白騎兵のみなら一日での往復も不可能ではない。ただ袁紹軍に動きがあったとしても河水を挟んでのことであり、その日のうちに兵を動かす必要があるような危急の報告が入るとは考えにくい。曹仁は官渡城で一夜休み、明日は周辺の地形を確認しながらゆっくりと戻るつもりだった。官渡はあくまで白馬、延津の両前線を支える本陣で、華琳にはここまでの進行を許すつもりはないだろう。しかし万が一を考えれば、地形を熟知しておくに越したことはない。
「桂花、白騎兵百人分の兵舎の用意を。稟、今の話し合いの結果を明日までにまとめなさい。風は、…………寝ながらで良いから稟の補佐」
「はっ」
「……ぐぅ」
荀彧と稟が声を揃えて直立し、風はまた船を漕いだ。
「仁、貴方はこっち」
何気ない口調で言うと、華琳はもう歩き始めていた。曹仁は小走りでその後を追った。
「この部屋を使いなさい」
招じ入れられたのは、軍営の一室である。戦のための砦であるから、宮殿のような華美な建物はない。最奥の、いくらか広い個室が並んだ区画で、配置からして華琳の部屋の隣室かもしれない。
直ぐに立ち去る気配はない華琳に、とりあえず一つきりの椅子を引いて勧めて、曹仁は寝台の端に座った。
「…………」
華琳が椅子の横を素通りして、無言で曹仁と並んで寝台に腰を降ろす。
二人きりになるのは、実にあの告白以来であった。
当日は結局幸蘭に春蘭、秋蘭、それに気付けば凪達三人娘や霞、荀彧達文官勢までが加わって、お茶会はちょっとした宴会騒ぎとなった。最後には春蘭に引っ張り出されて華琳も参加したが、二人で話をする機会などなかった。翌日には袁紹軍の動きが報告され、許に駐留する軍はすぐに北上が決められた。そこからは出陣の準備に追われ、次に華琳と顔を合わせたのは出兵直前の軍議で、それが最後となる。
こうして隣り合って座るのは、何も珍しいことではない。ただの従姉弟同士の頃からの馴染みの距離感ではあるが、浮き立つような気持ちは覚えのないものだった。
「しかし、随分早く布陣を完了したものね。春蘭達は配置に付いたばかりだというのに」
「ああ、俺は旗下の移動だけだからな」
曹操軍最大の兵力―――歩騎合わせて三万を抱える曹仁は、許から白馬までを真っ直ぐ北上しただけである。春蘭は旗下の二万に加えて、秋蘭や韓浩、黄邵らの軍勢と合わせての進軍である。当然、曹仁よりも時間はかかるだろう。
「それに、まあ、ちょっとは急いだし」
心中、麗羽に対してぼやきながらの進軍となった。意図なく相手の嫌な時期に動くというのは実に麗羽らしく、最後には賞賛の気持ちすら浮かんでいた。
「へえ、そんなに早く私に会いたかったんだ?」
「ああ、そりゃあ会いたかったよ」
「―――っ。……そういう、素直な反応はずるいわよ」
皮肉屋の華琳は案外好意を真っ直ぐ返されるのに弱い。
「まあ、私だって、すっごーく会いたかったけれど。…………何よ、その顔は?」
「いやあ、本当に華琳は俺のことを好きだったんだと、今、改めて実感した」
「だっ、だから、他に候補がいないからと言ったでしょうっ」
反撃のつもりらしい言葉にやはり素で返すと、華琳はまたも動揺した。
「ふふっ。それで、俺はいつからその候補に入れたんだ?」
「ふんっ。……そうね、貴方を弟分でなく男として意識したのは―――」
鼻を鳴らして視線を逸らしながらも、華琳はしばし思案顔で押し黙った。
「母さんの―――、ううん、徐州出兵を止められた時かしら」
母さんの死を共に悼んだ夜、とでも口にしかけて、華琳は言い直した。二人にとって大切な思い出ではあるが、曹嵩の死をだしにしたようで彼女に悪い気がするのも確かだった。もっとも、本人が聞けば草葉の陰で大笑いしそうな話でもある。
「なんだ、結構最近だな」
「何よ、貴方なんて桃香に言われて初めて私を意識したのでしょう?」
「意識自体は初めて会った時からしていたさ、自分の気持ちに気が付いてなかっただけで。今にして思えば、一目惚れというやつだな」
「…………ふんっ、その割にずいぶん私にばかり突っ掛ってきたものだけど。幸蘭達のことはすぐに姉扱いして懐いていたのに」
華琳が頬を赤らめながら、素っ気ない口調で言う。すぐに本心を隠そうとする拗ねた態度も愛らしく思えるのは、惚れた弱みというやつだろうか。やはり率直に曹仁は返す。
「それこそ、惚れたが故の男の子の意地だろう」
「……ふーん」
またも華琳にすげなく返されると、そこで会話が止まった。
互いの肩が触れるか触れぬかというすぐ隣から、華琳の息遣いと体温が伝わってくる。否応なく、華琳と二人きりであることが意識される。
「…………何もしないのかしら?」
「なっ、何かして良いのか!?」
華琳の問い掛けに、曹仁の心臓が跳ね上がった。
「そんなことは自分で考えなさい。男の子でしょう」
華琳がちょっと不機嫌そうに言う。
「よしっ、良いんだな。その言葉は、良いという意味で取るぞ」
「だから、自分で考えなさい」
「―――じゃ、じゃあ、その、がっつくみたいであれなんだが。いや、実際にがっついてるわけだけど、……キ、キスがしたい」
「……キス?」
華琳が可愛らしく小首を傾げる。
「ああ、えっと、ちゅー、は違うな。……口付け、接吻、口吸い―――」
「―――もういいわ。……ちゅーの時点で何となくわかった」
華琳は曹仁の言葉を遮る様に早口で言った。うつむき気味に曹仁から視線を逸らすのは、照れているのかもしれない。
「ええっと、……いいか?」
「男ならそんなこといちいち聞かずに、自分で考えなさい」
華琳が不機嫌そうにまた言った。やはり曹仁の視線を避ける様に顔を逸らしている。
「そ、そうか。さすがに気が早過ぎたな。すまん、忘れてくれ」
「どうしてそうなるのよっ!」
不機嫌そうなどというものではなく、華琳は今度ははっきりと怒気を漲らせた。平手が振り上げられる。曹仁は続いて襲ってくるはずの痛みに、思わず目を閉じた。
「―――っ」
唇に、何か柔らかいものが触れた。
「華琳、今の」
「なっ、何よ。貴方がしたいと言ったのでしょう?」
「……一瞬過ぎて良く分からなかった。その、出来ればもう一回」
「はぁ。仕方ないわね。目を閉じなさい」
華琳が呆れ顔で頭を振る。曹仁は言われるがままに目を閉じた。
「―――っっ! な、何を」
頬に今度こそ鋭い痛みが走った。
「あんまり野暮なことばかり言うから、お仕置き。―――それでこれが、ご所望の二回目」
頬の痛みは、すぐに気にならなくなった。