遠巻きにしながら、砦の周辺を回った。
黄祖の籠る砦を攻め続けてすでに十日が過ぎているが、攻略の糸口は未だ掴めていない。先陣を務める太史慈の攻城戦に不満はなく、口出しすることは何もなかった。
蓮華は目線を変え遠望することで何か砦側の守備の孔でも見つけられないものかと、自ら周囲の探索に出ていた。俯瞰で眺める砦は急造だけあって小さく、必要最低限の機能だけを備えた城塞である。それだけにはっきりと見える隙らしい隙も見つけられなかった。
砦攻めは、これで二度目である。一度目の攻城戦も長期に及び、それでも陥落寸前まで追い込んだ。しかし揚州で異民族の反乱が起こり撤退を余儀なくされた。その異民族の軍も孫策軍が取って返した時にはすでに霧散していた。
匈奴に代表される北方異民族と中華の民には長らく対立の歴史があり、始皇帝以来の長城によって明確な境界が引かれている。一方で南方異民族―――南蛮は漢土内に集落が点在し、共存がなされていた。益州南部には巨大な王国が存在するというし、揚荊二州の山中にも兵力にして二万から三万相当の異民族が生活すると言われている。豪族問題を解決した孫呉にとって新たに生じた頭の痛い問題であった。今回揚州で起こった叛乱でも二千規模の兵が突如として現れ、さらにどこからか人が集まり続けて一時は一万近い軍勢を形成したという。戦は初めの二千が守備隊と一度ぶつかり合っただけで大きなものには発展しなかったが、領内に一万の敵兵を抱えては侵攻を中止せざるを得ない。今回の出兵では、留守の部隊のみで迅速な対応をとれるように小蓮の指揮下に一万の軍を編成している。普段は旗下に武芸達者の女を集めた二百の精鋭を養っているだけの小蓮にとって、一万もの兵を率いるのは初めての体験となる。前回留守を預かった領内を荒らされた小蓮は雪辱に燃えていた。
「蓮華様、止まります」
「思春?」
蓮華の馬の轡を取る思春が足を止めた。丈の高い草がびっしりと生い茂る眼前の草原を睨みつけている。
遊軍を率いる思春が、二百を従えて自ら護衛に付いてくれている。大袈裟なものにはしたくなかったが、姉の様に護衛を断って―――と言うより振り切って―――勝手気ままに動き回るような真似は蓮華の性格上あり得なかった。
「……どうしたの?」
「しばしお待ちください」
がさがさと、草が激しく音を立ててかき分けられ、兵が思春の足元に飛び出した。
「やったか?」
「はい。伏していたのは二十人でした。こちらに犠牲は出しておりません」
「よし。引き続き警戒に当たれ」
「はっ」
短く答えると兵は来た方向へ駆け戻っていった。姿を見せた時にはあれだけ鳴らしていた草と草が奏でる音を、今度は少しも立てずに草原の中に兵の姿が消える。
「今のは?」
「先行させていた敢死軍の兵です。この先に小規模の敵伏勢があったらしく、それを処理させたところです」
「あれが敢死軍」
思春や明命と同じ裾の短い袍に、具足は手甲と脚甲だけという軽装の兵だった。こちらへ接近する時だけ音を立てたのは、蓮華を驚かさないように配慮したためだろうか。
「……申し訳ありません」
思春が小さく頭を下げた。
思春が育て上げた敢死軍と明命が育て上げた解煩軍は、蓮華にも詳細は知らされていない部隊だった。思春と明命以外で正確に把握しているのは冥琳ぐらいのもので、雪蓮も―――本人の適当な性格もあって―――恐らく詳細までは聞かされていない。思春はそのことを謝罪しているのだろう。
草原を音もなく駆ける身ごなしを思えば、使い所にも自ずと察しは付く。冥琳は雪蓮や蓮華を戦の汚い部分から遠ざけ様としている。蓮華にとって雪蓮の幼馴染である冥琳は、もう一人の姉のような存在でもある。配慮は有り難くもあるし、過ぎた気遣いには多少の煩わしさを感じもするのだった。
「―――気にしないで。……しかし、黄祖はこんなところにまで兵を伏せているのか」
砦からはそれほど離れていない。そして孫呉の攻城の布陣とは、もう目と鼻の先の距離である。
「地形の使い方が巧みです。それも自然のものだけでなく、人工的に作った丘や、水を堰き止めて溝だけにした小川の跡地等もございます」
「我が方を迎え撃つ準備は万端というわけね」
黄祖は仇敵である。しかしこうしてその戦振りを見ていると、ほんのわずかに共感が芽生えなくもない。
寡兵でもって数にも練度にも勝る軍を相手にしなければならない状況に追い込まれたなら、自分でも黄祖と同じく準備万端整えての籠城に入るだろう。これが雪蓮ならば、初戦でもって敵将の首を狙い討つような勝負に出そうだ。母でも多分そうだったろう。例えそれが最も勝算が高かろうと、蓮華には負ければ終わりという賭けに出る勇気は出ない。耐えに耐えて、救援を待つ。しかし今のところ、荊州で他に兵が動く気配はなかった。黄祖一人が生贄のように孫呉の軍勢の前に突き出された格好である。
救援は来るなら来るで構わなかった。兵力にはまだ余裕があり、迎撃するだけのことだ。黄祖を釘付けにする限り、他に警戒すべき武将も荊州にはいない。
「そういえば貴方は、黄祖の元にいたことがあるのよね、思春?」
「はっ。ほんの一時ですが。私は長江の江賊、孫堅様を討った黄祖はこの辺り一帯のあぶれ者たちの顔役でした」
その後、黄祖は劉表に重用され江夏郡太守に、思春は当時は袁術の客将であった雪蓮に討伐されて家臣として容れられることとなる。
「どんな人間?」
「個人的な付き合いがあったわけではありませんので、印象程度しか語れませんが、―――臆病で周到、でしょうか。同じ名将と申しましても、雪蓮様や祭様とはずいぶんと異なります」
「分かる気がするわね、この布陣を見ていると」
音に聞こえた呂布や関羽とはもちろん違うだろうし、曹操や劉備とも似ていない。周到と言えば冥琳だが、彼女ほどの緻密さも感じない。冥琳なら、こうして孤立してしまう前に荊州全体の意見をまとめ上げてみせるだろう。不器用ながらも策の限りを尽くそうという姿勢は、やはり他のどの将よりも自分によく似ている気がした。
そんな黄祖に幸運が訪れたのは、翌日のことだった。
「援軍? それも、あの劉備軍が付いている?」
耳を疑うような報告も、半日も過ぎた頃には蓮華自身の目で確認することが出来た。黄の一字を記した旗を掲げた荊州軍一万に、劉旗棚引く一団が伴われている。
「曹操領内から荊州へ抜けたとは報告を受けていたけれど。劉表を説いて、援軍を引き出すなんて」
「劉備軍は、また数を増やしたのではない? あっちにふらふらこっちにふらふらと寄生する度、大きくなるわね」
いつの間にか雪蓮が隣に立っていた。
「まあ、そうは言っても四千数百といったところかしら?」
「荊州の弱兵などいくら援兵に来たところで痛くもないが、寡兵と言えど劉備軍となると話は別だぞ」
冥琳が釘を刺すように言う。雪蓮に寄り添い劉旗を遠望しながらも、絶え間なく兵に指示を飛ばしている。黄祖と敵援軍との挟撃を避けるため、一度陣を払って仕切り直しである。
「そうね、でもこれでやっと面白い戦になって来たわ。もう、古い将は引っ込めだなんて、言っていられないわよね、冥琳」
雪蓮が口の端を吊り上げる。やはり蓮華には理解出来ない感覚だった。
黄祖が築いたという砦に、入城した。
大きな砦では無いため、兵のほとんどは城外に滞陣させている。孫策軍は砦の囲みを解いて、五里(2.5キロメートル)ほど東へ移動していた。まだまだ交戦状態と言って良い距離だが、包囲に曝され続けていた城兵達はさすがに安堵の表情を浮かべている。
「貴殿が劉玄徳殿ですか」
「はい。劉備です、よろしくお願いします、黄祖さん」
「こちらこそ、この度は援軍かたじけない」
黄祖は、疲れ果てた老人のようだった。桃香が想像していた豪傑然とした姿からはかけ離れている。
「そちらが、諸葛孔明殿、龐士元殿ですかな? お二方には助けられた、感謝します」
黄祖が頭を下げた。朱里と雛里が文官達を論破して、江夏への援軍を組織させたのだ。
堂々と宣戦布告した孫策軍に対して、荊州はあくまで弱腰だった。最終的に劉表に斥けられてはいるが、文官達の間では黄祖の身柄を持って講和の道を探るという案が本気で論じられているほどだ。劉表より軍権を預かる蔡瑁もそれに半ば同調していて、これまで江夏郡への援軍が組織されたことはない。孫策軍に対して、黄祖は一郡の兵だけを持って抗し続けてきたのだ。
「お二方のような俊傑に去られてしまったというのは、荊州が抱えた最大の不幸でしたな」
「はわわっ、私達なんて、そんな」
「あわわ」
「謙遜することはあるまい。水鏡先生の秘蔵弟子伏竜と鳳雛のお噂は、荊州では広く知られておりますぞ」
黄祖が笑みを浮かべた。笑うと目が皺の中に埋没するようで、一層老いの印象が強まる。
朱里と雛里は、水鏡の号で知られる司馬徽門下である。司馬徽の開く私塾は荊州の山中にあるというから、二人にとって荊州は懐かしい地なのだろう。
朱里と雛里は、はわあわと口をまごつかせながら小さな体をさらに小さくして恐縮している。黄祖は朱里と雛里以上に荊州では伝説の存在だろう。
「それに、関羽殿に張飛殿、趙雲殿。天下で五指には入ろうという豪傑御三方をお迎え出来、光栄です」
三人が気を良くした表情で頭を下げる。
「黄祖殿、――――っ。お久しぶりです」
後ろから歩み出た黄忠が、黄祖の顔を見て息を呑む音がはっきりと桃香の耳に届いた。
「黄忠殿か。それに厳顔殿も。援軍の将が貴殿らとは有り難い」
劉備軍は援軍の援軍であり、荊州が組織した援軍の中心は別にある。その大将が黄忠で、副将が厳顔だった。
行軍の仕方や野営の張り方から将としての力量はある程度推察されるが、二人とも実力は申し分ない。どこか緩んだ空気を身にまとう荊州の兵達も、二人が指揮を執ると足並みを揃えた。また将軍としてだけでなく、愛紗達の目から見ても隙のない武人でもあるらしい。
二人とも、蔡瑁統治下の荊州軍の主流にいる武将ではない。不遇を囲っていると言っても良いだろう。蔡瑁は文官寄りの人間で、劉表も武人よりも文人を重視しているから、軍人としての実力は正しく評価されることが無いようだ。
今でこそ中華文化の粋を集める文治の地として名高い荊州であるが、劉表が赴任した際には乱世の御多分に漏れず賊が横行していたという。鎮圧のために劉表が招いたのが荊州の名士連で、その代表格と言えるのが蔡瑁であった。荊州に入った劉表は武力に頼ることなく、蔡瑁らの献策に従い謀略でもって賊徒の排除に成功している。劉表が乱世にあって武よりも文の力に傾倒するのも、本人が儒の碩学であることに加え、そうした経緯も無縁とは言えないだろう。
「戦陣なればたいしたものは出せませんが、一席設けました。今宵はごゆるりとお楽しみ下され」
明日以降の戦の相談を終えると、黄祖の指示で小さな宴が催された。鳥獣を使った肉料理は、兵にも分け与えられるほど多い。砦周囲の野山を駆け回る調練ばかりを繰り返していて、そうした折に捕えるのだという。戦のために設置した罠に掛かることもあるらしい。
「袁紹さんは力押しの戦だけど、戦場とは別のところで色々考えたりもするみたい。白蓮ちゃん―――公孫賛軍も、急な侵攻に対応出来なくて追い込まれたって」
劉備軍ほど、全土の戦を知り尽くしたものも無い。宴では各軍の戦振りについて質問が重ねられた。
「呂布さんはとにかく速くて強い。だけど、見ていて悲しくなるような不思議な戦をする」
桃香には難しいことは分からないから、何となく感じたことを述べた。朱里や雛里が戦術面の話を補強し、愛紗と星が実戦での用兵や武将自身の力量を付け加えた。
「劉備様、どうぞ」
「ありがとう、魏延さん」
魏延が酒を注ぎに来た。厳顔の子飼いの部将で、愛紗や星も認めるほどの武人である。援軍の援軍を買って出たことへの感謝か、何かと桃香を気にかけてくれる。
魏延とその旗下の二百騎ほどは、普段劉備軍の兵を見慣れた桃香の目から見ても十分に精強だった。つまりそれは、二百程度の兵を自由に鍛え上げる程度の権限しか、厳顔達武将には与えられていなかったということだろう。
「孫策さんは、黄祖さんには言うまでもないだろうけれど、激しい戦をする。呂布さんと少し似ているけれど、呂布さんと違って悲しみはない、明るくて激しい火みたいな戦」
華琳に関しては、言及しなかった。まだ桃香の中で、華琳と言う少女の扱いを決めかねている。二人といない親友と思えることもあれば、絶対に倒さねばならない敵と思うこともある。論評の言葉など浮かぶべくもない。
桃香の戦の話が終わると、黄祖の戦歴の話となった。必然的に、黄祖の名を一躍轟かせた孫堅との戦へと話題は向かう。
「儂の人生で一番の失敗は、あの時孫堅を討ってしまった、いや、討ててしまったことだな」
黄祖はぼそぼそとそう口にすると、やおら立ち上がった。
「いやぁ、少し疲れた。私はこれで失礼する。孫策のことだ、明日にも動きましょう。今日のところはお寛ぎになって、英気をお養いくだされ」
黄祖が一礼して宴を辞した。
「ずいぶんと年を取られたものだ」
小さく萎んだような黄祖の背を見送り、厳顔が小さく洩らした。
「黄祖殿はあれでわしや紫苑より、せいぜい十二、三も上と言う程度よ。元より他所からの侵略の玄関口を背負い、その重責にいつも顔色を悪くしていたものだが、この半年ほどで一息に十年二十年分も老け込まれた」
桃香の目に移る黄祖は、すでに老境の域に差し掛かって見えた。
「蔡瑁ばかりを責められないわね。私たちがもう少し、上と仲良くしていれば」
黄忠がしみじみとこぼす。
「ふんっ、だからと言って、蔡瑁などに媚を売りたくはないわ。劉表様にもう少し、人を見る目があれば良いのだが」
当然の如く、蔡瑁の軍人達からの評判は芳しくない。黄忠や厳顔のような真っ当な将軍ほど批判的で、結果遠ざけられてもいた。唯一黄祖のみは孫堅を討ち取ったという大き過ぎる驍名ゆえに蔡瑁も軽んじることが出来ず、江夏太守の地位を与えられていた。
本人がこぼした通り、その驍名が今の黄祖を苦しめているのかもしれなかった。
「まったく損な役回りじゃのう」
これまで前衛を務めた太史慈は休息も兼ねて後方の本陣で、攻城戦では後方待機であった祭が右翼で先陣を任されている。もちろん先陣は望むところであったが、相手には不満があった。
「……ううむ、関羽や張飛も来ているというに、外れを引かされたものじゃ」
正面で、厳と大書された旗が風に靡いた。当然先日までは見られなかったもので、援軍の将の一人である。
荊州軍との戦を始める前に、その陣容についてはくどいほど冥琳から聞かされている。だから、厳顔という将が劉表に仕えていることは知っていた。ただ知識として強引に押し付けられただけで、それ以前にその武名を耳にした覚えはない。兵の動きも一応のまとまりを見せてはいるが、精彩に欠けた。客将の劉備軍だけを援軍に赴かせるわけにもいかず、急遽設えた軍勢といったところか。
孫呉の布陣は、中央に蓮華が率いる五千。両翼にもそれぞれ五千ずつで、右翼の指揮が祭、左翼が明命である。補佐役として蓮華には穏が、明命には亞紗が付いていた。
蓮華の五千の後方に、太史慈の一万と雪蓮の騎馬隊二千騎とで本陣を形成している。他に思春の率いる三千が遊撃隊として本陣後方に控えていた。
孫呉の総勢三万に対する荊州劉備連合軍は、目に見えるだけで一万七千というところだろうか。他に、今なお周囲で潜伏を続ける黄祖の手の者が二、三千はいるはずだった。
布陣は左翼に厳顔の五千、右翼に四千余りの劉備軍、中軍に黄旗を掲げた五千である。前衛のみなら兵力は拮抗していた。後方には意匠の異なる黄旗が二千ほどの兵をまとめて本陣を形成している。前衛の黄旗は援軍の将のもので、もう一方は先日まで砦に立てられていた黄祖の旗印だ。意外なことに、黄祖までが城外に打って出ていた。
「いくぞ」
祭の右翼を中心に敵を切り崩すというのが、冥琳の立てた作戦だった。荊州の弱兵に対し、劉備軍の精鋭からも遠いとあって当然の帰結と言えた。
開戦の機は、先陣の祭に一任されていた。躊躇わず軍勢を前進させた。ぐずぐずしていては雪蓮の騎馬隊に抜け駆けされかねない。このうえ先陣まで譲るつもりはなかった。
「なんじゃ?」
正面の敵左翼に動きがあった。将と思しき女が先頭に姿を現すと、おかしな構えをとった。
歪な装飾を施された大剣を脇に挟むようにして両手で抱え、その切っ先を祭へ向けて突き出している。まともに剣を振れる構えでもなければ、そもそも大剣の間合いでもない。互いに距離を詰め、今ようやく矢戦の間合いに入ろうというところだ。
「―――っ! 放て! 一射した後、弓兵は後退、槍隊、前に出よっ!」
大剣を抱えた将が、わずかな手勢を率いて駆け出した。多少強引だが、祭得意の矢戦の機を外すには悪くない手だ。
厳顔が矢の雨の中を一人突出する形で突っ込んでくる。戦機を読むのに長けた猛将の類というところか。じっくりと見極めるつもりで、祭は弓兵と共に自身も後方へ下がった。
「思ったよりも楽しませてくれるのかのう? ―――それとも、これで終わりか」
多幻双弓を引き絞る。一度に二矢を放つことも出来るが、ここでは強く一矢を放った。
「―――何っ!」
祭の放った矢が、中空で弾けた。時を置かず、隣にいた兵士の体が馬だけを残して後方へ跳んだ。
「―――皆、伏せよ!」
風を切って、さらに何かが飛んでくる。手綱を思い切り引いて、横倒しに馬を傾けた。後方で悲鳴が上がる。祭の咄嗟の指示に反応が間に合った兵は多くはなかっただろう。
そんな後方の様子を確認する余裕はなかった。厳顔が、すでにこちらの前線まで迫っている。
「―――ふっ」
続けざまに矢を放った。厳顔はすでに抱え込む様なおかしな構えは止めていて、大剣を楯代わりにしてそれを防いだ。そのまま躊躇なく前線へと飛び込んでくる。
隊列を入れ換えた槍兵が、下から突き上げる様に馬上の厳顔を狙った。祭の矢に応対した分だけ、厳顔の突撃の勢いは削がれている。深くは踏み込めずに、その場で厳顔は槍兵に応戦した。
「―――黄蓋将軍」
「うむ」
ようやく背後をうかがう余裕出来た祭に、兵が馬を寄せた。
「これは、杭か? こんなものが飛んできたのか」
差し出されたのは鉄製の杭だった。
片手では握り切れない程の太さに、一尺(30cm)ほどの長さもある。持ち上げると、そこらの兵が使う槍よりも重量がありそうだった。それが連続して六本も高速で射出されてきた。供回りの兵のうち三人が具足を貫かれて絶命し、他に二人が手傷を負っている。
「学問の都とは呼ばれるだけあって、おかしな武器を作るものじゃ」
戦乱を避けて、荊州には名のある学者や腕の良い職人なども集まってきているという。見慣れない武器はその賜物であろうか。もっとも、その重量を支えた上に騎射でしっかりと狙いを定めてきたのは、ひとえに厳顔の膂力と技量があってのものだろう。鉄杭六本に大剣を合わせると、その重さは相当なものとなる。
「―――――!!!」
そこでようやく後続の兵が厳顔に続いた。さすがに鉄杭は六本で打ち止めのようで、大剣を振るって厳顔は前線をかき乱している。兵には良い援護となって、一時味方の先陣が押し込まれた。
祭は慌てず、静かに戦況を見守った。押し込まれたのは敵に突撃の勢いがあったわずかな時間だけで、すぐに趨勢はこちらへ傾いた。前線で大剣を振るう厳顔の奮闘も空しく、荊州の弱兵に孫呉の布陣を突き崩す地力はなかった。
「弓隊っ!」
弓兵にも合図を送った。味方の兵の頭上を越える山なりの射法で、厳顔と合流しようとする後方の荊州軍へ矢が降りそそぐ。
「厳顔。思った以上の武将であったが、兵の調練がお粗末だったな」
乱世にありながら、荊州では文官が重宝され、軍人の地位は低いという。調練不足は厳顔の望んだ顛末ではないのかもしれない。些かの同情は禁じ得ないが、当然戦に手を抜く理由にはならない。
降りそそぐ矢に荊州兵の腰が引け、足が止まった。最初に飛び出した厳顔とその手勢だけが孤立する形となった。槍兵に包囲を命じると、すぐにそれは完成した。
「―――なんじゃ?」
そこへ、横合いから二百騎ばかりの小勢の騎馬隊が突っ掛けてきた。包囲の一部を破って、厳顔と合流する。魏の旗を掲げている。冥琳に覚え込まされた荊州軍の将軍の中には、魏姓の者はいなかったはずだ。将ではなく、厳顔に自分の旗を認められた校尉といったところだろうか。
「なかなか勇猛じゃが、自身も包まれてしまってどうする」
厳顔を救出したいなら、外壁を突き崩す様に何度も攻撃を繰り返すべきだった。すでに中に入る際に破った部分は塞がれていて、二百騎は自ら包囲に取り込まれてしまっただけという格好だ。
包囲網の中を窮屈そうに馬を走らせ、魏の旗が槍兵にぶつかった。十分な距離がないから、疾駆の勢いはほとんど付いてはいない。
「また、おかしな武器が出てきたな」
予想に反して、二百の騎馬隊は包囲網を再度突き破った。他の荊州兵とは、明らかに兵の質が違った。なかでも一際目立っているのが、先頭をいく長身の女だった。巨大な金棒、という以外に言い表しようがない鉄塊を振り回し、突き出される槍を圧し折り、孫呉の兵を宙に舞わした。
「おっと、のんびりと見ている場合ではないか」
祭は多幻双弓を引き絞った。今度は矢羽に工夫を加えた二矢を番えている。
解き放つと、二矢はそれぞれに緩やかな弧を描いて飛んだ。弧は、金棒を振るう女のいる一点で交わる。女にとっては、左右から同時に二矢に襲われる形となる。
「――――焔耶っ、前を見よっ!!」
「はいっ、桔梗さっ、―――おわっと!」
横合いから怒号が掛かり、迫る矢に気付いていない様子だった女が慌てて金棒を打ち振るった。体勢を崩しながら些か不恰好ではあるが、二矢まとめて弾き飛ばす。
「――――見事だ、小娘! 名を聞こうか! 儂は黄蓋、字を公覆! よくぞ我が矢を防いでみせた!」
祭が高らかに呼び掛けると、それまで女に槍を向けていた兵が一時攻撃の手を緩めた。女も祭の姿を認めて名乗りを上げる。
「貴殿が名高い孫呉の宿将殿か! ワタシは姓は魏、名は延、字を文長っ! 厳顔様の副官を務めている!」
「そちらが、厳顔殿か!」
「うむ! わしが劉表様よりこの軍を預かる厳顔じゃ!」
大剣の女性が魏延の隣まで進み出て言った。襲い来る矢を魏延に教えた叫びと、同じ声である。
「荊州にまだ貴公らのような豪傑がいるとは知らなんだぞ!」
「黄蓋殿、貴殿にはぜひ黄忠と矢合わせをして貰いたいものよ!」
言うと、厳顔は魏延の空けた包囲の風穴へ悠々と馬を進めた。まずは仕切り直しと、祭も兵を下がらせる。
厳顔が口にした黄忠とは、かつての弓の達人の名である。いつしか名を聞くことも少なくなって、その行方も知らずにいたが、それが荊州軍で将軍を務めていた。今回の援軍の総大将―――黄旗の主である。劉備軍の三将の相手が叶わないならば、ぜひ祭が当たりたいと思っていた将である。
関羽達でも黄忠でももちろん黄祖でもなく、厳顔という無名の将が相手と知った時は外れを引かされたと感じた。しかして対峙する将は、他のどの将にも劣るものではなかった。魏延という副官の腕も良く、率いる兵も荊州軍の最精鋭だろう。
「楽しい戦になりそうだ」
外れと侮った厳顔に、祭は胸中で頭を下げた。
遊撃隊は、敵右翼へ向かった。
劉備軍と対峙した明命の左翼が押し込まれかけていた。遊撃は本来なら攻撃に使うべき部隊だが、放置するわけにもいかない。
敵先陣に突撃ではなく、侵入する。陣を組んでまともにぶつかり合うのではなく、敵の布陣を掻い潜り内部へ入り込んでの乱戦が、思春率いる軽装歩兵の戦い方だ。十数名を斬り伏せると、後は刀を納めて走った。敵襲を叫ぶ兵の声が一瞬遅れて上がる。
自ら先頭に立って矛を振るう張飛の背が見えた。低い構えで、駆け寄った。前線の喧騒が、敵襲を伝える声を遠ざける。
―――取れる。そう思った瞬間、張飛が振り返った。
思春は刀を抜いて周囲の兵に斬り付けた。それを合図に、味方も一斉に攻撃を開始する。
思春を見定めた張飛も、馬首を巡らした。思春も兵を攻撃したのは最初の一太刀だけで、油断なく張飛に備えた。子供だなどと侮る気持ちは微塵もない。
小さな体の張飛が、二丈にも届かんという長大な矛を軽々と振り回す。曲刀の間合いに入るには、一足では足りない。二歩、あるいは小刻みに三歩は踏み込む必要がある。
張飛は馬上、思春は徒歩だった。それが不利というわけではない。思春の得物、曲刀鈴音の戦法には馬よりも自分の足で動き回る方が向いていた。速さと高さ、そしてそれが生み出す威力よりも、虚実入り混じった歩法で相手の死角を取る。
とはいえ、間合いが離れすぎている。二丈の距離を置いた相手の死角を取るのは至難の業だった。
単調な踏み込みを繰り返す。その都度、蛇矛が振るわれた。鈴音では受けずに、さらに間合いを取ることでかわす。張飛は軽々と振るっているが、実際には他に類を見ないほどの長柄の得物だ。受けて止まるものとも思えないし、刃がもたない可能性もある。
正面から踏み込む。と見せて、急停止した。蛇矛の振り降ろし。先刻までなら後方に回避して間合いを取ったところを、ただじっとしてやり過ごした。眼前ぎりぎりのところを波打つ刃が過ぎる。空を切った蛇矛の柄に、鈴音を沿えるようにして駆けた。
まずは一歩。蛇矛が、張飛へと続く道だ。
ついで二歩目。蛇矛の柄を握る張飛の右手首を貰う。
「うりゃっ!!」
「―――なっ!」
視界が揺れた。身体が宙を舞っている。
張飛が思春ごと蛇矛を薙ぎ払ったのだ。振りかぶって勢いを付けることも無く、得物に密着した状態の人一人をまとめて吹き飛ばす。とんでもない力技だ。
乱戦の只中に、音もなく思春は着地した。押し飛ばされただけだから、身体のどこにも痛みはない。
張飛が、こちらへ馬を向けてくる。それに合わせて、一騎打ちの邪魔にならない様に―――あるいは張飛の蛇矛の巻き添えを食わない様に―――兵が遠巻きにして出来た空隙も動く。思春は下がる兵に合わせて自身も後退しながら、すっと身を伏せた。
「?」
張飛がきょろきょろと辺りを見回した。捕えていたはずの思春の姿を見失ったのだろう。
まともにやり合うには、いささか分が悪い。兵の波の中を駆け巡り、割って出たのは張飛の背後だ。
「――――――っ!!」
斬りつける瞬間、張飛が思春の方を向いた。蛇矛の石突が突き出される。身を伏せ、馳せ違った。鈴音はわずかに張飛の乗馬の皮に触れただけだ。
「くっ、動物並みの勘の良さだな」
思春は小さく呟きながらも足は止めず、そのまままた兵の中まで駆け込んだ。再び人の波の中へと埋没する。
今度も背後とみせて、そのまま移動せずに正面から踏み込んだ。明らかに虚を突かれた様子だが、反応が恐ろしく速い。蛇矛が空を切り、鈴音も今度は毛筋ほどの傷一つ付けることはなかった。拘らずにまた人波に埋没する。
「うう~、やりにくいのだっ」
張飛が憤懣やるかたない様子で、蛇矛をぶんぶんと振り回した。遠巻きにした兵が唸りを上げる刃音を恐れて、さらに後ずさる。
「――――――思い付いたのだっ! みんな、もっともーーーっと、下がるのだっ!」
張飛が蛇矛を旋回させながら馬を小走りさせた。威圧された兵がさらに数歩後退し、空隙が押し広げられる。如何に思春でも、容易くは間合いを詰め切れないだけの空間を張飛は確保した。
「さあ、どこからでもかかってくるのだ!」
背後に張飛の口上を聞きながら、思春は駆けた。交戦中のはずが、周囲に残る者のほとんどが自軍の兵だけになっていることに張飛はまだ気が付いていないようだった。
前線を大きくかき乱したことで、左翼の援護と言う目的は遂げている。援軍の援軍、それも根無し草の劉備軍を相手に奮戦しても得るものは何もない。思春は配下の兵を引き連れ、敵陣を離脱した。
戦場全体が孫呉優勢に進んでいた。
特に中軍の蓮華の働きが目覚ましかった。黄忠の隊をかなり深く押し込んでいる。左翼も遊撃隊の援護もあって、劉備軍を相手に上手く混戦に持ち込んでいた。一方で主力と定めた右翼の押し合いは、幾分優位なまま膠着に入りつつある。
「出るわ」
冥琳が一瞬苦い顔をして、頷いた。ここで一撃を加える効果が分からないはずがない。
まずは黄忠。援軍の総大将を討ち、次いで黄祖をも討つ。
二千騎を率い、右翼の祭の隊と中軍の間を抜けるようにして前線に出た。
黄忠の隊は三段に組み、前線の第一段が槍を構え、第二段が矢を放ち、最後方の第三段がまた槍を携えている。第一段が敵を押し止め、第二段が矢を降り注ぐという堅実な戦い振りである。第一段が押し切られた時には、第二弾の弓兵も共に後退する。代わって第三弾が前進、第二段はその後方に付き、第一弾は最後方まで下がって隊を整える。つまり少しずつ後退しながらも二隊の槍兵が交互に前衛を務め、弓兵は常に第二段にあって斉射を続けている。弓兵が敵の攻撃の要で、黄旗もそこに掲げられている。
結果、蓮華の隊は大きく敵軍を押し込むこととなるが、目に見える軍の進退ほど優勢と言うわけでもなかった。兵の犠牲自体は両軍それほど差がないだろう。
荊州軍の練度はやはり高くない。弓兵の精度は悪くはないが、槍兵は腰が引けている。黄忠は前線を代わる代わる切り換えることで、腰の据わらない兵に奮闘を促していた。
また蓮華が、敵第一段を切り崩した。先んじるように第二段は後退を開始し、要の弓兵を守るために第三段が前に出る。
南海覇王を頭上に掲げ、数度小さく旋回させた。後続の騎兵の視線を集めたところで、真っ直ぐ振り降ろす。
「――――! ――――――!」
背後から巻き起こる兵の怒号に、押し出される様に馬は駆けた。
後退する第一段と前進する第三段が交差する瞬間は、槍での迎撃が来ない。歩兵同士ならそれでもそこでせめぎ合いだが、騎兵の突破力なら容易く抜ける。
敵弓兵の中に飛び込んだ。混戦となれば弓兵は無力に等しい。それでも時折矢は飛んでくるが、力無い。矢を払い、兵を蹴散らしながら黄旗へ向かう。
「――――っ!」
正面から、風を切って一矢が襲ってきた。祭や太史慈に勝るとも劣らない強弓。黄忠―――かつての弓の名手と祭に教えられた。
連続して飛来する矢を払い除けるも、前進する馬の脚が落ちた。兵の影に隠れて、黄忠の姿は見止められない。それが一層矢への対応を困難にしていた。矢を継ぐ動きも見えなければ、気組みも読めない。ついに脚が止まった。
縦列で続いた騎兵数騎が、雪蓮を追い越し前へ出る。直後には射止められていた。それで雪蓮だけでなく、騎馬隊全体の勢いを殺された。
黄旗周辺の兵が動いた。わずか二百ばかりだが、弓ではなく槍を構えている。脚の止まった雪蓮と騎馬隊へ押し寄せる。―――先頭に一騎。
「っっ! 関羽かっ!」
一人馬を駆る関羽が、最初に足を止めて雪蓮と対峙した。二百の兵は雪蓮と関羽を抜き去り、後続の騎馬隊へ槍を向ける。
「久しいな、孫策」
何気ない口調で言いながらも、関羽は隙一つなく青龍偃月刀を構えた。
「ええ、久しぶり」
雪蓮は対照的に、南海覇王をだらんと下段に垂らし隙を作る。
侮る気持ちは微塵もない。劉備軍とは黄巾賊討伐の折にしばし行動を共にしている。その頃から関羽は他を圧倒する武威の持ち主であったが、当時は同盟中の曹仁を立てるようにして、正面切って敵将の首を上げるような戦はしていなかった。関羽の武名が世に轟いたのは、何と言っても汜水関の戦での、呂布との一騎打ちからだろう。敗れこそしたものの、それまでどんな相手をも鎧袖一触斬り伏せてきた呂布に馬を止めての打ち合いを強いている。孫策の目をから見ても呂布の武は傑出した域にあったのだ。呂布が戦場を離れた今、関羽の武名は同じく呂布と死闘を繰り広げた曹仁と並んで、天下の双璧との呼び声も高い。
「……やーめた」
雪蓮はわざとらしく肩をすくめてみせた。
「退くか。らしくないな、孫策」
誤解されがちだが、お決まりの総大将自らの突出も一騎打ちも、雪蓮にとって無謀な賭けではない。本人の中では確かな勝算があってのことだ。突出はそれで勝ちを確信した瞬間しかしないし、一騎打ちも五分の相手―――実力が同じなら自分は必ず勝つ―――以上に挑みはしない。
関羽との一騎打ちとなれば五分と五分。いや、僅かにこちらの分が悪い。それでも相手が関羽となると要らぬ色気も湧いてくるが、今は一対一ではなかった。ちりちりと肌を刺す武威が黄旗の元から寄せてくる。関羽と対しながら、同時にあの強弓をも捌こうと思うほど、過剰な自信を有してはいない。
「追撃する?」
「……いや、やめておこう」
関羽が青龍偃月刀を下した。
黄忠隊の正面では蓮華の中軍との押し合いが続いている。本来第三段に付くべき槍兵も、騎馬隊に突破された混乱で前線を離脱出来ていない。この状況で二千騎との混戦となれば、なおも不利は黄忠隊である。
「そう。―――次は一騎打ちといきたいものね」
雪蓮は馬首を返す。関羽はもちろん、黄忠の矢が背後を襲うこともなかった。