荊州の援軍が黄祖の元へ到着し、戦が攻城から野戦へ移行して数日が過ぎた。
戦場は少しずつ移動して、今は黄祖の築いた砦と夏口とのほぼ中間点に位置している。黄祖も野戦の初日から戦場に姿を現しており、移動に伴い砦は打ち捨てられた格好だ。孫呉も冥琳の判断で放置した。
二度の遠征、都合一月の間孫呉の将兵を悩ませた砦と思うと惜しくもあるが、荊州攻略、あるいは防衛の上での要衝と言うわけでもない。黄祖が籠もっているからこそ落とす意味のある砦だった。このまま十里ほど東進した先の夏口こそ、黄祖の本来の本拠であり、荊州最大の戦略拠点にして孫呉の標的であった。今は黄祖の息子の黄射が数千の兵を率いて防衛に当たっている。敵軍の動きは、野戦を繰り広げながらも夏口への入城の機を窺っているようにも思えた。砦の確保に兵を割いていた場合、黄射の軍と合流されると現在優勢の兵力差は逆転する。それはただ数字の上でそうなったというだけの話で、雪蓮はさして気にもしない様子だが、彼女の軍師を自任する冥琳としては寡兵で夏口の攻城戦へ入ることは避けたかった。
「劉備軍が強いのは当然として、劉表の送り込んできた援軍の将。彼女たちも相当なものね。まさか、荊州にあのような将が隠れていたとは」
早朝、出陣前の軍議の席で雪蓮が言った。冥琳は無言で頷き返す。
「今日こそ私が、黄忠の軍を抜いて黄祖の元へ至って見せます、姉様」
援軍の主将の黄忠の用兵は巧みなもので、荊州の弱兵を見事補っていた。当人の弓の腕も祭、太史慈に劣らないだろう。さらには劉備軍から精鋭を率いた関羽が援護に加わっており、接近は困難だった。蓮華の軍が押しに押し、黄忠は無理せず下がる。中軍同士でのその繰り返しが、戦場を夏口へと近付けつつある。
「ええ、期待しているわ、蓮華」
とはいえ、確実に敵戦力を削っているのが中軍のぶつかり合いだった。蓮華の率いる兵は弓兵への対応にもすっかり慣れてほとんど自軍に被害を出すことはなくなっているし、時折雪蓮の騎馬隊も介入してほぼ一方的に敵軍を叩いていた。
「本来その役目は儂が担うはずのところを、不甲斐無いところを見せてしまってすまんのう、策殿、権殿」
ちらりと、右翼を率いる祭が恨めし気な視線を冥琳へ飛ばした。冥琳はどこ吹く風と顔を背けた。
副将の厳顔と魏延と名乗るその副官は、祭を相手に奮戦している。魏延の旗下だけは荊州軍にあって精強で、よく厳顔と連係していた。黄忠が守りの戦なら、こちらは攻めの戦である。弱兵も、勢い込んで攻めに徹すれば怖い。まともにかち合えばそれなりの犠牲を覚悟する必要があった。
そこで祭には、守りを固めていなすよう指示していた。祭も攻めの戦を好むが、守らせても上手い。実際、戦線こそ押し込まれがちながら右翼も犠牲はわずかだった。一方で矢に倒れた厳顔隊の兵は一千近くに上っていよう。冥琳に指示を変更するつもりはなかった。
「あうあう、それを言うなら私達の方こそ」
「ごっ、ごめんなさい」
劉備軍に当たる明命と亞紗が揃って頭を下げた。左翼には遊撃の奇襲部隊である思春隊が援護に付きっきりとなっている。蛇矛の一振りで数人、時に十人余りもなぎ倒す張飛の武は如何にも前線向けで、思春隊による攪乱を失えば左翼の崩壊は時間の問題だろう。
「いいえ、貴方達はその調子で良いわ、ねっ、冥琳」
「ああ、よくやってくれている。分かっていたことではあるが、対峙するとはっきりと実感する。あの軍は同数では天下に並ぶものがない」
「そうそう、だからこのままの調子で戦線を維持してちょうだいね」
「はいっ」
二人が声を揃えて直立した。
実力で言えば、祭か総大将である雪蓮を劉備軍に当てるべきだろう。本気で劉備軍を潰すつもりなら、倍の兵力を有する太史慈をぶつけても良い。いずれにせよ、勝ちに行けば死力を尽くしたせめぎ合いとなる。劉備軍とぶつかって被害を増やすなど馬鹿げていた。劉備軍も援軍の援軍に過ぎない戦にそこまでの犠牲を払うつもりはないのか、張飛一人が気を吐いてはいるが、劉備のいる本隊や趙雲の隊は目立った動きを見せてはいない。今はこちらも明命と亞紗の勝ち気に逸らない用兵が適している。
すでに孫策軍は全体で一千を超える犠牲を出しているが、荊州軍の被害はそれを大きく上回る。初日こそほぼ同数の損害を出したが、それ以降は明らかに孫策軍の犠牲は少ない。全体として戦の均衡は孫呉へ傾きつつあった。今も所在の知れない黄祖の伏兵数千への対策も兼ねて後方においたままの太史慈隊一万の圧力が効いている。
このまま祭と蓮華を中心に戦を展開すれば、早晩敵陣は崩れる。そこで勝負を決めるか、夏口へと逃げ込むならば追撃で戦力を極力削り、そのまま温存していた太史慈隊による攻城戦に入る。ここは堅実に勝つ策を冥琳は取った。
「―――劉備軍から、使者が見えていますっ」
兵が駆け込んで来て告げた。
「今さら使者を?」
「はい。……それがその、どうやら劉備本人のようなのですが」
「なんだとっ? 本人がそう名乗ったのか? 確認はしたか?」
躊躇いがちに荒唐無稽なことを言う兵に、冥琳はつい詰問するような口調になった。
「はっ、はい。黄巾の乱の折に行軍を共にした者や、反董卓連合に参加した者に確認させましたが、間違いないと」
「しかし、敵陣真っ只中に自ら乗り込んでくるなど、考えられん話だ」
「ご、護衛として関羽と張飛を、それに諸葛亮も連れております」
いくら関張の武が突出しているとは言っても、衆寡敵せずと云うものだった。ましてや孫呉には雪蓮を筆頭に、二人に匹敵する武人もいるのだ。
「これは、―――我らがその気になれば、劉備軍を瓦解させられるということではないか」
劉備の義妹でもある二人は、主人の不測の事態にあっては劉備軍を引き継ぐ資格を持つ存在である。関張を伴っての劉備の訪問というのは、雪蓮が蓮華と小蓮を引き連れて敵中に乗り込むようなものだった。
「まあまあ冥琳、落ち着いて。兵が怖がっているわよ。―――つまりは、そういうことでしょう」
「そういうこと?」
「劉備は、己が命と劉備軍の存在を賭けて、私達に何か話したいことがあるのでしょう」
「簡単に言ってくれるな。相手は何となくの勘で命を賭けるお前とは違うのだぞ、雪蓮」
「劉備なら、それくらいのことはするでしょう」
雪蓮が平然とした顔で言う。雪蓮にそう言われてしまうと、冥琳も不思議と納得した気になってくる。今も一寸の土地すら領してはいないが、劉備もまた乱世に一人立つ英傑であり、言ってしまえば雪蓮や曹操、袁紹と同じく大物である。この種の人間の考えることは、時に冥琳の常識の上を超えていく。
「さあ、いつまでも待たせているわけにはいかないわよ、冥琳」
「ああ、そうだな。―――会見の準備をっ! こちらは雪蓮と私、それに祭殿と太史慈が出席する。幕舎を張り、兵は百歩の距離をとれ。それと、思春、明命―――」
冥琳の号令一下、すぐに全ての用意は整えられた。
関羽と張飛の武器はこちらで預かることとし、中山靖王劉勝より伝わったという劉備の宝剣は携帯を許した。こちらも雪蓮だけは孫家伝来の南海覇王を帯びる。
主君に武将二人、軍師一人の構成は劉備軍に合わせた。ただ諸葛亮とは違って冥琳は並みの武将以上に戦えるし、劉備の剣技は驚異たり得ない。何か仕掛けられるにしも、こちらから仕掛けるにしても、その場を支配するのは雪蓮の剣だった。加えて思春と明命には幕舎の側に敢死軍と解煩軍を率いて伏せさせた。
万全の態勢を整え、孫策陣営は劉備達を迎えた。
本陣内にあってぽつんと孤立して建てられた幕舎に、あらかじめ孫呉の四名は入った。入り口を潜る瞬間周囲へ視線を走らせたが、伏兵の存在を知る冥琳の目をして敢死解煩軍の兵の所在を突き止めることは出来なかった。幕舎の影か、土中にでも潜んだのか。劉備達にはまず露見することはないだろう。
「お邪魔しまーす」
しばしあって、幕舎の入り口に人懐こい笑みを浮かべて劉備が立った。無警戒に一番乗りで幕舎に足を踏み入れると、すぐ後ろに関羽、張飛、諸葛亮が続く。
「孫策さん、それに周瑜さんに黄蓋さんも、お久しぶりです。それに、貴方は確か―――」
「太史慈よ。反董卓連合の時に目にしているのではない?」
「ああ、そうそう。袁術ちゃんの軍で唯一良い意味で目立っていた人だよね」
劉備が言うと、太史慈が反応に困った顔で小さく頭を下げた。確かに当の袁術とその傅役にして将軍の張勲は、悪い意味で目立っていた。
「孫策さん、まずはお母様から受け継いだ揚州の奪還、おめでとうございます」
「貴方に言われても皮肉にしか聞こえないわね。―――貴方の方は、……変わらないみたいね。あのまま曹操軍に取り込まれていくものと思っていたのだけれど」
「えへへ、飛び出しちゃいました」
「この乱世の中、潰されもせずあっちに来たりこっちに来たり。それで兵力も軍備も失うどころか大きくしていくのだから、感心するわ。何か秘訣でもあるなら聞かせてもらいたいものね」
劉備軍の兵力は現状では四千を超える。数百の義勇軍から初め、反董卓連合に名を連ねる頃には一千の兵を率いていた。その後も流浪の中でも軍への志願者は絶えず、徐州の陶謙や曹操軍に軒を借りる間にさらに劉備を慕う者が集まった。曹操軍からは諸将を引き連れるだけの夜逃げ同然の出奔であったようだが、再び劉備が立つとすぐに兵は集結した。その際、曹操軍の兵士からも劉旗の元へ駆け付ける者が出たようだ。数百の脱走者の存在が報告されている。
「うーん、自分でもなんでこんなに大勢が付いて来てくれるのか。―――あっ、朱里ちゃんや愛紗ちゃんがしっかりしてるからかな?」
「鈴々もいるのだっ」
「うん、鈴々ちゃんも兵に慕われているよね。やっぱりみんなのおかげかな?」
「お戯れを。兵にもっとも慕われているのは桃香様ではありませんか」
「ええっ、そうかなー?」
「んんっ。―――それで、本日はどのような御用向きで?」
いつまでも続きそうな寸劇を咳払い一つで遮ると、冥琳は本題を促した。劉備が真剣な眼差しを雪蓮に向ける。
「孫策さん、荊州から手を引いてください」
「……なあに? また戦場を駆けずり回る正義の味方を続けるつもりなの? 私は荊州に劉備軍が入ったと聞いて、ついに領土を手にする気になった貴方が、自分のものにしてしまうつもりなのかと」
「領土は取ります。でも、それは荊州ではありません。孫策さんが戦を止めてくれれば、私達はここを出て徐州に向かいます」
劉備は平然と言ってのけた。
「早速袂を分かった曹操の領地を侵略するか。確かに正義の味方は終わりにするみたいね」
徐州は短い間に陶謙、呂布、曹操と主が代わった地である。曹操領内においては最も火種を抱えた土地で、数ヶ月ではあるが劉備軍も駐留している。劉備に心を寄せる者も少なくはないだろう。
「だから孫策さんにも、一時荊州侵略の手を休めて欲しいの」
「……それは、我らと反曹操連合を組もうということか?」
冥琳の問い掛けに、劉備に代わって諸葛亮が答える。
「本拠を持たない我々です、孫策さんと対等の盟を結べるとは思いません。ただ、天下を狙う者にとって、今一番に警戒しなくてはならないのは誰かということです」
「曹操が袁紹という大敵を抱える今を逃すなと」
「はい。河北まで手に入れられては、もう手の出しようがありません」
劉備や諸葛亮にとって、袁紹との戦に曹操が勝つのはすでに確定事項のようだった。
軍学に照らし合わせるなら、袁紹軍の勝ちは堅い。二倍近い兵力差があり、つい最近まで戦の連続であった曹操軍に比べ兵糧武具の備えも万全だろう。だが曹操軍の勝利と言うのは、雪蓮の勘が告げた結果と一致していた。
冥琳はそこには口を挟まず、小さく頷き返すだけに留めた。
「……私は、父祖の地である呉を袁術から取り戻し、母の仇である黄祖を討てればそれで十分だと言ったら?」
雪蓮が諸葛亮に向け挑発的な笑みを浮かべる。
「それはっ」
「―――それは嘘。孫策さんって、華琳さん―――曹操さんと同じ目をしているもん。それに、仮に孫策さんからは攻めなくたって、いずれは曹操さんの方から勝手に来ます。そしてその時は、手の付けられないほど曹操さんは巨大になっているかもしれない」
息を呑んだ諸葛亮の言葉に繋げるように劉備が言う。
「話は分かったわ。でもそれは、貴方達がいま荊州軍に付いている理由にはならないのではない?」
「どっ、どういう意味でしょうか?」
組するならこちらと見たか、雪蓮は悪戯っ子の笑みで身を乗り出すと諸葛亮の顔を覗き込んだ。劉備はとぼけているのか、それとも本当に分かっていないのか、表情を崩さない。
「これでも私は貴方達を高く評価しているわ。劉備軍が我らに協力するなら、荊州の攻略は容易い。今の荊州はいくら貴方達が説いても侵攻戦にまで兵を出しはしないでしょう。それなら荊州は私達が手にした方が曹操に痛撃を与えられるわ。揚荊二州―――つまり江南のほぼ全域を制した私達と、河北の袁紹での挟撃」
「それは買い被り過ぎだよ、孫策さん。私達にはたった数千の兵力しかないんだから」
諸葛亮ではなく、劉備が答えた。
「同数で当たれば、並ぶものの無い数千ね。荊州軍を相手に野戦なら、倍の兵力と対しても負けるものではないでしょう。それに貴方が、劉玄徳が兵を募れば、すぐにも一万や二万の義勇兵は集まるでしょうし。こんな分の悪い会談を設けるよりも、よほど勝算があるんじゃない?」
「そうかな? 現に孫策さんは聞く耳を持ってくれてるみたいだけれど」
「この戦を早期終結させると言うのなら、こういう手もあるのう。 ―――明日の戦場で、劉備軍が荊州軍に攻め入る」
「―――っ、それは。……それだけは出来ませんっ」
祭の提案に、ようやく劉備の笑みが崩れた。
「そうか。……しかし長く世話になった曹操をこれから討とうというのだ、黄祖を裏切るくらい訳ないと思うがのう。お主らの布陣からなら、黄祖のいる本陣は容易く落せようし、あるいは夏口に入城後に城門を開いてくれても良い。黄祖を討ち夏口さえ抑えてしまえば、もはや荊州の喉元に刃を突き付けたも同じ。速やかに侵略を遂げるも、あるいはそれは一先ず置き、先に曹操と一戦交えるというのも悪くないのだがのう」
祭が未練がましく続けた。
劉備が受け入れるはずもない提案である。孫策軍の将士としても、そんな形で黄祖を討つことを望んではいない。当然、祭自身もだ。しかし、理屈は通っている。孫策軍の理を感情で拒絶する以上、今後の交渉で劉備軍は一歩引かざるを得ない。こうした物言いは、穏はともかく亞紗にはまだ無理だろう。祭はやれば出来る人だった。
「それをしてしまえば、劉備軍は劉備軍たり得ませんっ」
雪蓮の視線に小さくなっていた諸葛亮が声を張った。
「ほう。どういう意味じゃ?」
「劉備軍は桃香様の義あって初めて成り立つものです。孫策さんは桃香様が兵を募れば一万や二万はすぐに集まると仰いましたが、それも桃香様に人望あってのこと。目的のために孫策軍の侵略に協力したり、連合中の味方を騙し討ちするようなことをすれば、桃香様の人望は失われ、最悪の場合は今いる劉備軍の兵すら離れていくことでしょう」
先刻まですくみ上っていた諸葛亮の舌鋒に、雪蓮も劉備達も思わず聞き入っている。
「そうなれば荊州攻略のお役には立てませんし、曹操軍とも孫策軍単独で戦って頂くことになります。もちろんそれは、荊州攻略を速やかに完了された場合の話です。荊州攻略より曹操軍と袁紹軍の戦の終結が先ならば、戦うまでもなく踏み潰されるだけとなるでしょう」
―――よく言うわね。
頬を紅潮させて言い募る諸葛亮に、冥琳の思考は冷ややかだった。
―――荊州まで取っては、孫策軍が大きくなり過ぎる。
それが本心だろう。
中原や河北と比べて、江南では一州一州が広大だった。揚州も荊州もそれぞれに中原を丸ごと収めることが出来るほど広い。仮に曹操が河北を完全に平定したとしても、孫呉が揚州に加えて荊州までを支配下に加えれば単純な領分の広さで言えばそれに勝る。人口では当然中原には劣るが、それも黄巾の乱から続く戦乱で中央からの避難民が増え、今ではその差はかなり小さくなっていた。
今、孫策軍が荊州を手にすれば、袁紹軍、曹操軍にも並ぶ大勢力だ。首尾良く曹操軍を討った暁には、中原を袁紹軍と分かち合うことになるだろう。あるいは、ここで曹操軍が生き残ったとしても長江以南は孫呉のものとなる。
冥琳の企図もそこにある。中原の勢力が持たない水軍の力を結集すれば、如何に曹操が大勢力を築こうと長江以南を維持する自信はあった。天険の要害で知られる益州も、長江を遡れば侵攻は容易い。広く地勢に優れた揚、荊、益の三州を持って孫呉と為す。もって天下を二分し、その後北へと打って出る。そのために荊州は是が非でも必要な地だった。
冥琳の想定する最悪は、袁紹を破った曹操が孫呉に先んじて荊州をも併呑してしまう状況だ。孫呉が荊州攻略に手間取れば、その可能性は決して低くはない。曹操が中原四州に加え河北までを手にすれば、天下の趨勢はほぼ定まったと見る者は多い。劉表は抗いもせず降るだろう。荊州にはお世辞にも精兵とは言えないながらも水軍が存在している。孫呉は領土拡張の拠点を奪われるとともに、水軍の利をも失うことになるのだ。
諸葛亮がその弁舌の中で繰り返し荊州攻略と連呼するのも、そんな冥琳の心算を読んでの事だろう。
―――大人しい顔をして、大した娘だ。
砦を放棄しあえて野戦を選んだのも、劉備軍の力と荊州の隠れた将才を見せつけるためか。諸葛亮は、この会談が不調に終われば劉備軍は孫呉の荊州攻略を全力で阻止すると脅しを掛けていた。
周瑜と今後の動きに関する打ち合わせに入った朱里と、その護衛に愛紗を残し、桃香は鈴々だけを連れて自陣へと帰着した。
「―――俺より強い奴がいるなんて嘘つきやがったな、爺さんっ!」
「はっはっはっ、すまんな。孫策がこちらに来ているのをすっかり失念していた。留守を任された妹では不足であったか?」
「ふんっ、聞けばまだ小娘と言うではないか。目当ての姉がいないからといって、子守りが出来るかよっ」
「―――黄祖さん、その人は?」
喧騒に導かれ足を進めると、本陣の幕舎を前に黄祖と一人の女性が向かい合っていた。
女性は黄祖―――男性としては中肉中背の体格の持ち主―――よりも頭一つも抜けた長身である。だが身の丈以上に目を引くのは、その特異な格好の方であった。身長相応に豊満な肉体は毛皮で胸と股間、それに手足の先端を覆うのみであとは惜しげもなく露出されている。しかしそんな格好すらもおまけで、一番の特徴は頭の上に生やした獣の耳を象った装飾だった。ピンと立った耳は忠犬を思わせるが、毛皮と揃いなら狼だろうか。
「おお、劉備殿、戻られたか。孫策との話し合いはどうなりましたかな? ―――それでは」
にっこり笑って上首尾を示すと、黄祖も顔を綻ばせた。
「はい、数日のうちに陣を払うそうです」
まずは荊州侵攻の中断と、反曹操軍の共同戦線に関しては孫策からの合意が得られた。ここからは周瑜と朱里の話し合いであるが、すでに相当な譲歩を孫策軍には迫っている。何かしらこちらに不利な条件は覚悟すべきだろう。
「おお、劉備殿の申した通りになりましたな。さすが―――」
「―――劉備って、あの劉備か?」
黄祖の言葉を遮る様にして少女―――体格には目を見張るも、顔付きを見ればまだ少女と言える幼さを残している―――が、前に出た。
「はい、劉玄徳と申します。どの、かは分かりませんが」
「ほうほう。歴戦の勇将と聞いているが、あまり強そうには見えないな」
少女は名乗り返しもせず、興味深そうに桃香の頭の天辺から足の爪先まで何度も視線を上下させる。
「彼女は沙摩柯という。荊州の山岳に暮らす者達の王の一人だ」
黄祖に視線で問うと、あまり気乗りしない口調で紹介された。
中華の民からは南蛮と呼称される異民族の長ということになる。南方異民族の民は荊州や揚州、益州では漢人と共存しているというが、深く交わることもなく独自の文化を形成している。桃香にとってそれはあくまで伝え聞いた話であり、実際に南方異民族の人間に会うのはこれが初めてである。
中華の各地を転戦してきた桃香だが、実はこれまで長江を渡ったことはなかった。生まれは北辺の幽州であり、愛紗と鈴々、そして曹仁と出会ったのも幽州。黄巾の乱では主に河北を主戦場としたし、反董卓連合の戦や徐州での騒動、長らく滞在した華琳の本拠はいずれも中原であった。その間も戦地を転々としているが、江南まで足を進める機会は不思議となかった。
「何にせよ、ちょうど良かった。孫策が駄目なら関羽でも張飛でも趙雲でも良いっ! 漢人の武を見せてもらおうじゃないか!」
少女が叫ぶと、頭上の獣の耳がまるで生き物のようにぴくぴくと動いた。
「張飛? 鈴々ちゃんならここにいるけど?」
護衛として寄り添ってくれている鈴々に、桃香は視線を落とした。
「おおっ、お前が張飛かっ! ―――って、これまた小さいなっ!?」
鈴々が、むっと気色ばんだ。言い返さないのは、桃香の護衛中という意識があるからだろう。曹操軍にいる間に許褚や典韋から学んだ自制心である。
「こんなチビが漢人を代表する武人かよ。これじゃあ、関羽や趙雲にも期待出来ねえな。やっぱりお前達漢人は口ばかりだな、爺さんっ」
沙摩柯は急速に鈴々から興味を失った様子で、再び黄祖へ向き直った。義姉の名まで出されては、鈴々の我慢もさすがに限界だろう。
「言うだけ言って逃げるんですか、沙摩柯さん」
「――――っ! お姉ちゃん」
桃香の一言が、今にも飛び掛かりかねない鈴々の機先を制する形となった。狙っての発言ではない。単に桃香も鈴々と同じように我慢の限界に達したというだけの事だった。
「今、何か言ったか、劉備?」
「逃げるんですかと言いました、沙摩柯さん。都合が悪い言葉は聞こえませんか? 南方の方は耳が達者なんですね」
「貴様っ」
詰め寄ろうとする沙摩柯と桃香の間に、鈴々が割って入った。
「このチビを俺と戦わせようってのか、劉備? 俺は手加減なんざしないぞ。こいつの命が要らないってのか?」
「私はそうはならないと思うけど」
「このチビが俺より強いってのか?」
「うん、ずっとね。―――あっ、鈴々ちゃんはちゃんと手加減してあげてね」
「―――っっ! 上等だっ、やってやろうじゃないかっ!」
沙摩柯は鈴々へ顎をしゃくると歩き出した。幕舎前には少し開けた場所があって、そこでやり合おうというのだろう。
「……お姉ちゃん」
鈴々が呆れたような表情でこちらへ視線を向けた。桃香はにこりと笑みを返した。
「いや、助かった。これで沙摩柯も納得します」
黄祖が隣りへ来て頭を下げた。
「実は前回、孫策軍を退かせるために彼女を煽ったのです」
「ああ、揚州での異民族の反乱」
「ええ、中核になった二千は沙摩柯の部族の者です。まあ見ての通りの人物ですが、あれで荊州だけでなく揚州も含む異民族の若者達には不思議と人望があるのです。彼女が旗を掲げると結局一万近い兵が集まりました」
「それで、煽ったというのは?」
「自分が天下で一番強いと思っているような人間ですからな。揚州の孫策はお主より何倍も強いと言ってやったのです」
「それだけで兵を率いて?」
「ははっ、まあ憎めないところのある奴です」
確かに微笑ましいくらいの単純さで、黄祖の気持ちも分からなくはない。
「しかしお噂に聞く印象と違い、口が立ちますな、劉備殿は」
まるで自分と口喧嘩をする時の華琳のように、口からぽんぽんと言葉が飛び出した。華琳にはいつも言い負かされてばかりだったが、それで身に付けてしまったものがあったのだろう。
「ちょっと意地の悪い言い方をしてしまいました」
怒気が治まると、自責の念も湧いてくる。自分と喧嘩した時の華琳も、こうだったのだろうか。思い起こせば、喧嘩後はいつも華琳の方から先に謝ってきたものだった。
そんなことを考えている間に、鈴々と沙摩柯の準備が整ったようだった。歩幅にして四つか五つ程の距離を置いて、二人が構えている。
「さあっ、俺の明星を受けてみろっ」
沙摩柯は見慣れぬ武器を振り回しながら飛び込んでいった。片手で扱える長剣程度の長さの鉄の棒の先端に、いくつもの棘が飛び出た球が付いている。沙摩柯の言う明星とは、この得物の事なのだろう。先端の球体は、確かに見様によっては星に見えなくもない。
「……」
鈴々が、虫でも追い払う様に無造作に蛇矛を振るった。間合いを詰めに掛かっていた沙摩柯が、弾かれたように距離を取る。まともには受けられないと判断したのだろう。確かに口だけの武人ではないらしかった。
「ふむ、沙摩柯も儂などよりずっと腕が立つが、やはり張飛殿は強いのう」
落ち着いた顔で二人の戦いを見つめながら、黄祖が溢す。
「―――くそっ、やる気あるのかっ!」
沙摩柯が前へ出る度、鈴々が蛇矛を振るった。蛇矛は一丈八尺の長さである。距離を詰め切れず、焦れた様子で沙摩柯が叫ぶ。
愛紗なら真っ向から受け止めて、星なら衝撃を受け流して、いずれも蛇矛の攻撃を捌きながら間合いを詰めるだろう。沙摩柯には愛紗ほどの膂力も、星ほどの技量もない。身ごなしは素早く、決して弱くはない。鈴々の代わりにあそこに立っているのが桃香なら一合も打ち合えはしないだろう。だが到底天下一を名乗れるほどのものではない。
「そんな遠くからぶんぶんと振り回すばかりで、漢人は打ち合いも出来ねえのかっ」
「……それじゃあ、これでどうなのだ?」
「へっ、やっとやる気になったか」
沙摩柯の挑発に答えて、鈴々が蛇矛の中程を握った。柄の根元近くを持って振り回していた今までと比べると、間合いはちょうど半分ということになる。それでも沙摩柯の明星よりは長いが、ぐっと二人の距離は縮まった。たった一歩踏み込むだけで、沙摩柯の攻撃も十分に当たる。
「いくぞっ」
沙摩柯が今までの鬱憤を晴らす様に、一息で間合いを詰めた。上段から打ち落とされる明星を鈴々は半身になって避け、両者が馳せ違う。
「逃がすかっ!」
距離を取ろうとした鈴々に、沙摩柯が追いすがる。上下左右から巧みに打ち分ける明星の攻撃は見事と言って良いものだが、鈴々は体捌きだけで全て躱す。
「―――うおっ」
鈴々が蛇矛で明星を跳ね上げた。初めての接触である。その衝撃は沙摩柯の予想をはるかに超えるものだったのだろう。小柄な鈴々を押しつぶす様に前のめりに攻め立てていた沙摩柯の上半身が大きく仰け反った。それでも明星を手放さずに握っているのは、大したものだった。
鈴々が沙摩柯の横をすり抜けるように駆けた。直後、沙摩柯の身体が中空で一回転した。
「ぎゃんっ!」
尻から地に落ちた沙摩柯は、犬の鳴き声のような悲鳴を上げた。
「大丈夫かー?」
「くっ」
沙摩柯は足首を抑えて蹲っている。立ち上がることが出来ないようだ。心配そうにのぞき込む鈴々に、沙摩柯は悔しそうに目を逸らした。
すれ違いざまに、蛇矛の柄で足を払われたらしい。結果から推測されることで、桃香の目にはその瞬間の動きは捉えきれていなかった。
鈴々に肩を借りて立ち上がった沙摩柯は、ひょこひょこと片足で跳ねるようにしてこちらへやってくる。
「くそっ、俺の負けだ」
沙摩柯は意外にも素直に敗北を認めた。
先刻は耳に目が引かれて気が付かなかったが、沙摩柯の毛皮の尻の部分には尻尾を模した装飾が付いていた。それが、犬がそうする様に小さく丸まっている。
「しかもこのチビ、―――張飛、いや、張飛殿は、俺に合わせて得物を短く持ち直した上、劉備、―――様に言われた通り、本当に手加減しやがった」
「ほう、そうか。それなりに良い勝負をしていたように見えたがな」
「俺が立って歩けているのがその証拠だろうよ。脛を叩き折ることだって出来た、むしろそっちの方が簡単だってのに、張飛殿は大怪我しない様に優しく俺を投げやがった」
鈴々の腕力で蛇矛で足を払えば、空中に投げ飛ばされるのではなくその場で骨が砕ける。鈴々は絶妙な力加減をしたのだろう。
「まあ、上には上がいるということじゃな。もし儂がお主と立ち合っていれば、手加減してもらわねば一振りで叩き潰されるわ」
「ふん、爺さんに勝てたところで、自慢にもならん。…………劉備様、張飛殿」
沙摩柯は痛めた片足を庇いながら地面に跪いた。
「―――この沙摩柯と一族郎党を軍の端にお加えください」
「軍? えっと、私に言うということは、荊州の黄祖さんの軍ではなく、私達の軍に加わりたいということかな?」
唐突な話にさすがに桃香は戸惑った。黄祖は得心した表情で小さく頷いている。
「ずっと、戦に出て名を上げたいと考えておりました。ですが、口ばかりの者には使われたくはありませんでした。爺―――黄祖殿は俺が見た中ではいくらかましな部類ですが、仰ぎ見るべき主とは思えません。やっと待ち望んでいた主君に巡り会えたと思っております」
沙摩柯の表情は至って真剣で、言葉に嘘もないようだ。桃香は、しばし考えてから答えた。
「……黄祖さんに聞いたけど、沙摩柯さんは二千の兵を従えているんだよね? 二千というと、今の私達の兵力の半分近い数だ。領土を持たない私達が、急に養える兵力じゃない」
華琳の庇護下にある間も志願兵は少しずつ集まり続け、一年余りで二千数百だった兵は倍近くまで膨れ上がった。さらに曹操軍から離脱してまで桃香の元を選んでくれた兵数百を加えると、兵力は五千近くまで達していた。再び流浪を開始した今、ただ軍を維持するだけでも朱里や雛里にはかなりの困難を押し付けていた。
「食い物や軍備は、これまでと同じく自分達で整えます」
「それでは、劉備軍の一員とは言えないよ。ただ軍旅を共にしているだけの別の軍勢だ」
「しかし、俺はっ」
「劉備殿、儂からもお願いします。喧嘩っ早いが、悪い人間ではない。それは、もう劉備殿もお分かりと思うが」
黄祖が頭を下げた。
「……分かりました。それなら今は荊州に留まり、命を待って。あえて貴方達の生活を放棄することはないよ。時が来れば必ず呼ぶから、それまで兵を鍛え、有事に備えて欲しい。そして私の命と思って、黄祖さんの頼みにこれからも協力してあげて」
「……いずれ旗下に加えると、お約束頂いたと思ってよろしいのですね?」
「うん。証として授けるような土地も財物も私にはない。だから、私の真名―――桃香を貴方に預けます」
「有り難き幸せにございます。俺のことも真名で駆胡(くう)とお呼び下さい」
沙摩柯が跪いたまま頭を下げると、嬉しそうにぱたぱたと揺れる尻尾が見えた。
「じゃあじゃあ、鈴々のことも鈴々って呼んでくれて良いのだっ」
「はっ、有難うございますっ!」
沙摩柯はさらに深々と頭を下げた。尻尾は壊れてしまわないか心配になるほど、さらに激しく振られている。桃香に対してと言うより、自分を打ち負かした鈴々に心服しての臣従だろう。そういう人間がいても構わない。兵の中には桃香以上に愛紗達三将を慕う者もいるだろうし、朱里や雛里の元で文官の仕事をする者達にとって二人は絶対だろう。愛紗も鈴々も星も朱里も雛里も、全員揃っての劉備軍だった。
「―――それでは、私は一族の者に早速この事を伝えに帰ります。桃香様、鈴々殿、お呼び頂ける日を心待ちにしておりますっ!」
沙摩柯は一度びしりと直立して見せると、足の痛みももう気にならない様子で意気揚々と引き揚げて行った。
「なんだか変わったお姉ちゃんだったのだ!」
沙摩柯の尻尾の揺れる後姿が消えると、鈴々が口を開いた。
「不思議な飾りを付けていたね。耳も尻尾も、沙摩柯さんの感情に合わせて動いているように見えたけど」
「おや、知らぬのですか?」
黄祖が意外そうな顔をする。
「南方異民族の、特に王族など父祖の血が濃い者の中には、獣の身体の一部を持って生まれる者がいると言われております」
「えっ、それじゃあ、あの耳と尻尾は、……本物?」
「うむ、直接聞いて確認したわけではありませんが。この辺りの異民族は五帝の一人高辛の娘を娶った犬神槃瓠の末裔とされております。だから犬の耳に犬の尻尾なのでしょう」
「……びっくり。でも、それなら―――」
「触らせてもらえば良かったのだっ!」
「ほほっ、あの懐きようなら、それぐらいは許してくれたじゃろうの」
鈴々が桃香の思いを代弁すると、黄祖が楽しそうに微笑んだ。