「……んーーっ」
曹仁は幕舎から出ると、ひとつ大きく伸びをした。早朝、まだ夜明け前と言ってもいい時間である。白蓮の許可を受けて城外に敷いた野営地はひっそりと寝静まっていて、兵達が起き出してくる気配はない。
曹仁は槍を取ると、静かに構えを作った。手にした修練用の槍は、実戦用のものよりかなり長く、一回り太い。前に突き出した左腕は動かさないように意識し、柄元を持って腰で溜めている右腕は極力脱力を心掛ける。
曹仁は朝晩4刻(2時間)の修練を日課としていた。この世界に来て、華琳という少女に出会い、その武を目の当たりにしてから始めたこの習慣は、1刻(30分)より始まり少しずつ長さを増していった。
左手の位置は固定したまま、右腕と腰の溜めで槍を押し出す。左手の内でしごくように滑らせながら突き出した槍を、今度は逆の動作で引き戻し、構えに戻る。“繰り突き”と呼ばれるこの槍術の基本中の基本が、曹仁の武の根幹をなすものである。
一呼吸に一回ずつ、ゆっくりと槍をしごいていく。繰り返し、繰り返ししごく。体の各部位の動きと槍の動きが完全に連動したと感じると、今度は一呼吸に2回に増やし、また繰り返す。次は一呼吸に3回。4回。……。
左腕全体が熱く痺れた様になり、構えの固持も難しくなると今度は逆に構える。右腕を前に、左腕を腰に溜める。再び一連の動作を繰り返す。……。
(……そろそろかな)
修練を開始して2刻(1時間)ほど経った。昨日はもう少し遅かったが、一昨日よりは早かった。そして一昨日は、一昨昨日よりも早かった。
じゃり、と砂を噛む音に曹仁がそちらを振り向くと、予想していた人物の姿が目に入る。
「おはようございます、関羽殿」
「お、おはようございます。今日もお早いですね、曹仁殿」
関羽が少し照れくさそうにしながら近づいてくるところだった。
劉備達3人と蘭々は、城内で起居している。曹仁にも城内に居室は用意されているがほとんど使うことはなく、野営で過ごすことが多い。兵達と寝食を共にすることで信頼関係を築く、というのが最大の理由ではあるが、何より曹仁は野営というものが好きだった。幕舎を建てる。歩哨を立てる。火を焚いて飯を作る。何か狩猟での獲物がある場合は、自ら腕を振るって皆に振る舞ったりもする。時には火を囲んでわずかな酒を飲む。そういったこと一つ一つが曹仁を妙に高揚させるのだった。要は子供なのであり、それは曹仁自身自覚するところであった。野営に寝泊まりする曹仁に、最初劉備達も付き合おうとしたが、曹仁の方から城内で起居してくれるよう頼んでいた。そういった子供っぽい思いが根っこの部分にあるため、劉備達を野営に付き合わせるのは申し訳なく思ったのだ。蘭々に関してはそんなことを気にするような間柄ではないが、野営で兵達と寝食を共にすることでますます悪くなっていく彼女の言葉使いに歯止めをかけるため、城内で起居するよう申し付けたのだった。
「関羽殿、今日も付き合ってもらえますか?」
「ええ、もちろんそのつもりです」
関羽が青龍刀を構える。曹仁も修練用の槍を置き、実戦用のものに持ち替える。ただし、既に穂先は外されている。関羽の構える青龍刀も刃が返され、峰の側がこちらを向いている。修練の仕上げとして関羽と模擬戦を行うのが、このところの曹仁の習慣となりつつあった。
「ふっっっ!」
繰り突きを3つ。突く速さよりむしろ引く速さを意識して繰り出す。関羽は最小限の動きでそれを捌くと、こちらに一歩踏み込む。
「はぁ!」
踏み込み様の斬撃を飛び退いてかわすと、着地と同時に槍を繰り出す。捌かれる。関羽が踏み込む。飛び退く。突く。捌かれる。……。
関羽はやはり尋常ではない強さの持ち主であった。少なくとも曹仁が知る1年前の春蘭よりも上だろう。それはつまり曹仁が今まで手を合わせた者の中で最強だということだった。実力でいえば曹仁より一段上だろう。それでもお互いに決め手を欠いたまま、20合、30合と交わされていく。
槍の長さを最も有効に使える繰り突き。打ち合わずに常に自分の間合いを維持するための歩法。この2つを組み合わせた戦法が、この世界で身に付けた曹仁の武の骨子となるものである。自分より強い相手と戦うことを前提に組み立てたこの戦法が、関羽に決め手を許さず互角に近い勝負を可能にしていた。
とはいえ、相手はあの関雲長。互角の勝負は展開出来ても、曹仁が最後に決め手を取れるのはせいぜい5本に1本であった。
(……我ながらつまらない戦い方だが、今日こそは勝つ)
修練を終えるまでおよそ2刻(1時間)。昨日までの調子だと15~20本ほどの勝負になるだろう。今日こそ勝ち越してみせる、と曹仁は強く思った。―――しかし、やはり関羽の武は曹仁を凌駕するものだった。
「っ!」
機をずらしての踏み込みに虚を突かれた曹仁は、関羽の打ち込みを槍の柄で受ける。
槍の間合いから青龍刀の間合いに。そして何より、関羽のたたみ掛けてくる連撃の対応に追われ、構えを取ることができない。構えが取れなければ、頼みの繰り突きも使えない。
「くっ!」
打ち込みに対応しきれなくなった曹仁の頭上で、ぴたりと青龍刀が止まった。
「はぁ、まいった」
振り下ろした青龍刀を寸前で止めると、曹仁が悔しそうに口を開いた。
「よし、次は取るぞ!」
気を取りなおしたようにそう一声入れると、曹仁は槍を構えなおした。曹仁のこの切り替えの早さと、前向きなところは愛紗にとって好ましいものの一つであった。また、同時に曹仁が持ち合わせている負けず嫌いな性格も、この数日で愛紗は身に染みて感じていた。しかし自分より幾分年下で、未だ幼さの残る彼の表情を見ていると、そんなところも微笑ましく感じられる。
愛紗も青龍刀を構えなおす。そんな子供っぽさに反して、目の前で槍を構えるその姿は、実に堂に入ったものであった。
(……この構えがやっかいだ)
こちらに向かって真っ直ぐに突き出された槍は、実際の距離以上に曹仁を遠くに感じさせる。そのうえ、この構えから繰り出される彼の突きは、最小の動きで最短の距離を通って真っ直ぐこちらに伸びてくるのだ。
(……馬上の勝負ならば、あるいは)
曹仁の馬術は、愛紗の目から見ても異彩を放っていた。間合いを測ることを白鵠に委ね、槍を繰ることだけに曹仁が専念した時、今と同じように勝てると言い切る自信は愛紗にはなかった。とはいえ―――
「ふっ!」
曹仁の突きを捌きながら前に踏みこみ、斬撃をみまう。慌てて飛び退く曹仁にさらに追いすがるようにして青龍刀を振るう。そう、馬上でない現状においては、負けるつもりは愛紗には毛頭なかった。
「反転!すぐに駆け足! ………そこ、遅れてるぞ!」
愛紗の前を、曹仁の率いる200名の兵が隊列を保ったまま駆け抜けていく。
調練が開始されていた。
初めの3日間、ただただ走らされ続けた兵は、1日の休養の後にいくつかの隊に分けられ、隊ごとの調練へと移行した。
曹仁の率いる200名の兵は陣形を組んだままでの移動を教え込まれている。兵達にとっては単調なだけに最も辛い調練だろうが、隊列の乱れに目を配りながらも率先して先頭を走る曹仁の姿に、不満の声を挙げる兵はいなかった。その横で白鵠が退屈そうにその様を見つめている。
曹仁達のさらに向こうでは、牛金が馬に乗れるものを集めて騎馬隊の調錬をしている。牛金を除いて、曹仁の率いていた騎馬隊の者の姿はない。黄巾賊から新しく義勇軍に加わった兵達の情報を元に斥候に出ている者や、解放した黄巾の狂信者達に紛れ込んで諜報を行っている者など、様々な軍務に当たっている。
桃香と鈴々、それに曹純は街の警邏を行っている。駐屯を許してくれた公孫賛への恩返しという意味合いもあるが、それ以上に城外に野営する軍に不安を抱くであろう住民への対応という面が強い。あの3人が軍を率いる者たちだと知れば、確かに住民の不安はかなり払拭されるだろう。
次第に軍として機能しつつある、と愛紗は感じた。愛紗自身が担当するのは、150名ほどの兵へ武器の扱いを教えることであった。なかでも、積極的に選抜された弓の扱いに資質があるもの50名に対しての指導が、特に重要な役割となっていた。黄巾軍に弓を使う部隊は少ない。それだけに一から教え込まなければならないわけだが、弓兵隊が完成した際の効果もその分大きいだろう。残りの100名ほどには、それぞれ得意の武器を持たせることとなっていた。こちらは兵達の中にもそれなりに使える者が多く、それほど難しい事ではなかった。
野営地は活気に満ちていた。3日間の調練を終え、明日1日は休息となる。そのことが兵達の心を常よりも騒ぎ立てているようだ。加えて曹仁は兵に椀1杯ずつの酒を許していた。
愛紗としては戦時中に酒など不謹慎だと反対したいところであった。しかし、兵達の楽しそうな表情と、それに倍して楽しそうにしている曹仁の姿を目にすると、1杯程度の節度ある飲み方ならと譲歩せざるを得なかった。
兵達の中で率先して騒ぎ立てていた曹仁が、その輪から抜け出すとゆっくりとした足取りで愛紗の方へと歩いてきた。
「調練お疲れ様です、曹仁殿」
「関羽殿こそ、お疲れ様です」
愛紗の隣に曹仁が腰を下ろした。目の前で繰り広げられる兵達の賑わいに目を向けながら、曹仁が口を開いた。
「劉備殿や鈴々も呼べばよかったですね」
「…むぅっ」
いつからか、曹仁は鈴々のことを真名で呼ぶようになっていた。調練が休みの日には一緒に何処かしらに出かけて行くのもよく見かける。
「? どうかしましたか、関羽殿?」
「い、いや、なんでもありません。わ、我が軍も、だいぶ軍隊らしくなってきましたね。曹仁殿の立てた調錬計画のおかげです」
「まあ、知り合いの天才軍略家の見様見真似ですけどね」
曹仁は照れくさそうに笑いながらそう答えた。桃香はもちろん、愛紗にも軍を率いた経験というものがなかった。そのため、県長である姉とともに軍を率いた経験を持つ曹仁が調錬の計画を一手に担っていた。
調練は計画通りうまく進んでいるし、桃香の人柄に触れた街の人々の中には義勇軍へ参加する若者達や、軍資金を都合してくれる商人達まで現れ始めている。全てが上手い方向に転がり始めていた。愛紗は、曹仁が敵軍を裂いて現れた、あの日感じた天命のようなものを今強く確信していた。
(鈴々ばかりに先を越させてなるものか)
まずは曹仁に真名を許そう。そして民や天下、志について語り合おう。愛紗はそう思い定めた。
「あ、あのですね、曹仁殿」
「? なんでしょうか?」
「えっと、ですね」
いざ切り出そうと思うと、緊張からか喉がひりついて、言葉が上手く出てこない。愛紗は眼前に置かれていた椀を手に取ると、中の液体を一気に飲み干した。
「ごくっ、ごくっ、ごくっ、………ぷはぁっ」
「……か、関羽殿?」
突然椀の酒を一気飲みした関羽に面喰っていると、その顔が見る間に真っ赤に染まっていく。
「……」
「関羽殿?」
「……」
「あの、ひょっとして、酔ってますか?」
「わらひは、酔ってなどおりまへん!」
突然の大声に、回らない呂律。完全に酔っぱらいのそれであった。
(……うわぁ、なんか新鮮)
完璧にザルな幸蘭と蘭々、一緒に飲むと確実に曹仁が先に潰れる春蘭と秋蘭、気付くとこちらばかりが飲まされている華琳。そんな女性陣に囲まれて育った曹仁にとって、関羽の酔った姿はかなり新鮮なものがあった。
「曹ちん殿はぁ、鈴々と仲がおよろしいれふね!」
「そ、曹ちん。……蘇とか沮に拾われなくて良かった」
「曹ちん殿! 聞いておりましゅか!」
「は、はい!……あと、鈴々の方がそのままで本当に良かった」
「うぅー、……曹ちん殿は、そうやってすぐ鈴々、鈴々と!」
「いや、今のは関羽殿が」
「うぅぅーーーー!」
関羽が唸り声をあげて、幼子のように不満を表している。普段凛とした彼女が見せるその姿は、問答無用に可愛らしかった。
「関羽殿っ」
「うぅぅーーーーー!!」
「かん――――」
「うぅぅぅーーーーーー!!!」
(だめだ、会話にならない。………泣かしてしまったらどうしよう)
「……すん」
関雲長ともあろう者がそう簡単に泣くはずがない、とは言い切れなかった。既に関羽の瞳は潤んでいるし、わずかだが鼻を啜るようにしている。刺激しないように静かに様子を見守っていると、ようやく関羽が口を開いてくれた。
「ろうひて、ちんりんはちんりんで、わたひは関羽殿のなのれすか!」
ようやく掴んだ会話の糸口は、えらく哲学的な問いであった。そしてかなり危なかった。
「えっと、それは俺にもよくわからないけど、つまり鈴々は鈴々であり、関羽殿は関羽殿なんだ。…って、我ながら何言ってんだ。そのまんまじゃん」
曹仁はあまりの難問に、つい珍回答を返してしまっていた。その回答が気に入らなかったのか、関羽は肩を震わせている。その様は、涙をこらえているようにも、怒りに震えているようにも見える。あるいは、その両方なのかもしれない。関羽が口を開く。罵声が飛ぶのか、泣き声が響くのか、曹仁は覚悟を決めた。
「それは、つまり、わらひのことは、真にゃで呼んでくれないということれふか!?」
「へっ?」
(真にゃ。……いや真名か)
関羽の言葉の意味を理解した瞬間、彼女の先ほどまでの態度にも合点がいっていた。
(関羽殿と、そう呼び掛けたから会話にならなかったのか)
曹仁は関羽の前でかがみこむと、その眼を覗き込むようにした。
「か、……あなたさえ許してくれるのなら、俺はあなたを真名で呼びたい。……許していただけますか?」
曹仁の問い掛けに、関羽はまだ不機嫌顔を保ったまま、しかしコクンと頷いてくれた。
「それじゃあ、これからもよろしく。―――愛紗さん」
愛紗、と真名を呼ぶと、ようやく機嫌を直してくれた彼女が、魅力的な笑みを浮かべながら答えてくれた。
「こちりゃこそ、よろしくお願いします、曹ちん殿」
朝靄の中、ガンガンと痛みを発する頭に悩まされながら愛紗は野営地を訪れた。曹仁が槍を繰っているのが遠目に写る。愛紗はゆっくりとした足取りでそちらに歩を進めた。
(……今日こそは。いつまでも鈴々ばかりに先を越させておくものか)
昨日も似たような思いを抱いた気がするが、どうやら酒にやられてしまったらしい。調練の後の記憶が定かでない。
(やはり酒などは、大望を果たす為の邪魔にしかならん)
曹仁は近づいていく愛紗に気付いたようで、構えを解くとこちらに向き直った。そして口を開く。
「おはよう、愛紗さん」
「おは、――って、えぇっ! そ、曹仁殿!?」
早朝の野営地に、愛紗の声が響いた。