「こうして直接お話するのは久しぶりですわね、華琳さん、曹仁さん」
「そうね。反董卓連合の時以来だから、かれこれ二年半ぶりかしら。仁はもっとね?」
「十常侍に何進大将軍が討たれて、麗羽さんが洛陽を脱出して以来だから、―――三年以上になるか」
「あの時は大儀でしてよ、曹仁さん」
「おお、助かったぜ、曹仁」
「す、すいません、曹仁さん」
胸を反らす麗羽と馴れ馴れしく曹仁の肩を叩く文醜に代わって、顔良がぺこぺこと頭を下げた。三十万を超える視線に曝されながらも、麗羽と二枚看板は至って平常通りだった。
今日は、麗羽に指定された決戦の日である。
期日通りに対陣した大軍から文醜と顔良の二枚看板のみを伴って進み出た麗羽に、華琳も答えた。こちらは当然付いて来ようとした季衣と流流を留め置き、曹仁だけを付き添わせている。麗羽に限って闇討ちは有り得ない。ちょっとした昔話でも交わすだけなら、曹仁一人連れていけば事足りる。
「洛陽といえば、再建は進んでおりまして、華琳さん?」
「ええ、私が司空となったからには、漢王朝の都の荒廃を放っては置けないわ。貴方と私が私塾で席を並べていた頃の趣も、徐々に取り戻しつつあるわよ」
麗羽を三公に就任させた際、華琳にも同じく三公の一席が与えられている。麗羽が軍事を司る太尉であり、華琳が治水や土木工事等を受け持つ司空である。
太尉の任にありながら帝の守護者たる曹操軍を攻める麗羽への皮肉にも、当然本人は気付いた様子もない。
「あら、そうですの? すっかり焼野原と聞いておりましたのに。それでは私が洛陽へ至った暁には、以前並んで歩いた道を、今度は華琳さんの先導で進むことになりますわね、楽しみですわっ。おーほっほっほっ!」
「そうね、凱旋する私の後ろを、虜囚となった貴方が引き立てられることになるでしょうね」
「―――っ。……それにしても、ずいぶん貧相な軍ですわねー。降伏するならこれが最後でしてよ、華琳さん。さあっ、頭を垂れ、私のご機嫌を伺うがいいですわっ」
一瞬不快げに押し黙った麗羽も、彼我の戦力差に思い至ると再び居丈高に続けた。
曹操軍は徐州へ二万、江南へ四万の兵を送り出し、二十五万の袁紹軍にわずか八万で対している。
「戦は数だけでは測れないものよ、麗羽」
「おーほっほっほっ! あなたのお好きでした孫子も、小敵の堅なるは大敵の擒なり、と言っているのをお忘れかしら?」
「ふふっ。将に五危有り、とも言っているわよ。数だけ揃えても、大将が無能ではね」
胸を反らし、華琳は微笑みを、麗羽は大笑を絶やさずに睨み合う。曹仁と二枚看板はいささかげんなりとした表情で見守っている。
「まあ、あなたには何でも小さい方がお似合いですわね」
麗羽は胸を強調する様にさらに踏ん反り返って言った。
「ふっ、ふんっ、無駄に膨れ上がればいいというものではないわ。せめて貴方の軍は、頭空っぽの見かけ倒しで終わらないことね。貴方の方はもう手遅れなのだから」
「……交渉決裂ですわね」
「初めから、交渉の余地などないでしょう」
「仕方がありませんわね。痛い目を見せて分からせてあげますわっ、おーほっほっほっ!」
麗羽が高笑いを上げて馬首を返した。
「ふんっ、私達も戻るわよ」
「あっ、華琳」
「何よ」
同じく馬首を返した華琳に、曹仁が馬を並べてきた。
「俺は、それぐらいの大きさで―――」
「何の話をしてるのよっ」
華琳は曹仁の脛を蹴り飛ばすと、絶影を疾駆させた。さすがに白鵠を引き離すことは出来ず、曹仁は遅れず付いてきた。
白馬、延津の両拠点を放棄し、五十里近くも前線を後退させた。再び陣を布いた地は官渡砦の北東の原野―――麗羽の指定した決戦場であった。
良く言えば領内に袁紹軍を引き込んだ形だが、ほんの一歩退けば本拠地許までも程近い。たった一度の敗走がそのまま戦の敗北に繋がる死地に、自ら身を置いたことになる。
河水は氾濫を繰り返し、幾度も流れを書き換えてきた河である。今は河水から南方八十里ほどの距離にある官渡も、かつてはその渡渉点の一つ―――“官”営の“渡”渉場を名の由来とする―――であった。今もその名残は残り、河水へと繋がる川が入り組んだ地形を持つ。大きいものでは官渡水、濮水、陰溝水が流れ、さらにその支流も走っていた。袁紹軍との戦に備えて築いた官渡砦も北壁に沿って官渡水が流れ、守るに易く攻めるに固い天険をもって築城されている。
そんな中、決戦を前に曹操軍が陣地として選んだのは、官渡水、濮水、陰溝水の狭間の、小川一つなく起伏にも乏しい原野であった。
麗羽からの書状には、具体的な地形の記載まではない。地図上の官渡砦より北東三十里ほどの地点に印が付けられていただけだった。現在の地点は、正確には官渡砦からは北北東におよそ二十五里の距離にある。大軍との対陣に不向きなこの地をあえて決戦の場として提案してきたのは、曹仁であった。官渡周辺の地形を念入りに踏査した上で、小川や丘陵を避け平地を選び出している。
曹仁の策を入れた華琳は、決戦の期日五日前に官渡砦を払い原野に布陣を完了した。袁紹軍に、改めて具体的な決戦場をこちらから提示した格好だ。大軍の展開に有利な平地を示され、袁紹軍は当然これに乗った。袁紹軍は河水を渡渉し背水の構えだが、一方で曹操軍も官渡砦とは官渡水を隔てての布陣であり、同じく背水と言えた。
「準備は出来ているかしら?」
陣地へ帰り着くと、華琳は騎馬隊に寄り添う真桜と、隊の指揮へ戻った曹仁へ向けて問いかけた。
「いつでもいけますわ、大将」
「こっちも問題ない」
騎馬隊の装備を点検していた真桜が、会心の笑みを浮かべて返した。曹仁も感情を押し殺した表情で言う。
袁紹軍から大喚声が上がった。敵陣とはわずか三里(1.5km)を隔てるばかりであり、それはうるさいぐらいに耳に響いた。
「相変わらず、兵を乗せるのだけは得意なようね」
二十五万の大軍を前に、馬を棹立たせ、剣を掲げる麗羽の姿が認められた。士気を鼓舞するその声までも聞こえてくるようだった。
「華琳も何か話すか?」
「必要ないわ」
「まあ、そうだな」
兵の士気に左右される戦にはならない。そのことを一番理解している曹仁が首肯した。
「では、はじめる。―――全軍前進」
大兵と真っ向から組み合うように、軍を動かした。
両軍とも騎馬隊を温存させ、歩兵を前面に押し出した構えは同じだ。ただし当然規模は全く異なる。
曹操軍の歩兵は曹仁隊を中軍に、沙和隊と張燕隊が両翼に付いた。張燕隊のみ一万五千で、他二隊は二万である。中央の曹仁隊の後方に、一万五千騎の騎馬隊が付いている。曹仁の姿はこちらにあって、歩兵の指揮は副官の牛金である。騎馬隊に続く華琳の本隊は歩兵一万で、本来旗下に属する騎兵五千は蘭々の指揮で曹仁の下に付けていた。総兵力八万の軍勢である。他に、白馬と延津の拠点から撤収してきた真桜の工兵隊五千があり、これは曹仁の騎馬隊に寄り添い、出馬の直前まで最終確認を続けるようだ。
対する袁紹軍は、あらかじめ書簡で開示された通り二十五万の軍勢を残らず渡渉させてきた。布陣も書簡にあった通りで、本陣に十万、先鋒に十万と歩兵を大きく二段に分けただけの、大軍に兵法なしを地で行く構えだ。騎兵三万が本陣付きで、二万の烏桓騎兵は遊撃扱いだった。
曹操軍の動きに呼応して、袁紹軍の先鋒も進軍を開始した。寡兵で真っ向勝負を挑もうというこちらの動きにも訝しんだ様子はなく、悠然と軍を前進させて大軍の余裕を見せつけてくる。ただし、一応の用心ということか、本隊の十万は柵で覆った陣地から動く気配がない。それぞれを孤立させる動きだが、いずれもこちらを凌駕する十万の大軍である。この機に袁紹軍の本陣を突けるほどの兵力は、曹操軍にはない。
「本隊は、動かないか」
「それが麗羽さんの運かな」
華琳の呟きに、曹仁が答える。曹仁は騎馬隊の最後方で、華琳は本隊の先頭で、二人は轡を並べていた。
「運ね。まあ、そもそも麗羽の戦は、前衛を前進させるか、全軍で前進するか、せいぜいその二つに一つでしょうけど」
「二つに一つ程度の賭け率なら、麗羽さんなら延々当たりを引き続けそうだ」
麗羽は昔から不思議と運だけは強かった。強運と名門の出という、生まれた時から備わっている資質でいえば割拠する群雄の中で随一だろう。
「それじゃあ、―――行ってくる」
お互いに距離を詰めれば、三里はすぐに縮まった。互いの前衛が触れ合うまで残すところ半里というところで、曹仁が気負った声を出した。
「ええ、武運を」
小さく頷き、曹仁が騎馬隊の中へ紛れた。華琳はそこで両翼と本隊の進軍を止めた。騎馬隊を含む曹仁隊だけが突出し、今まで騎馬隊に付き添っていた工兵達も離脱して後方へと下がってくる。
袁紹軍は変わらず前進を続けている。ここまで迫れば、敵兵の動きがはっきり見て取れる。袁紹軍の兵は決して弱卒ではなく、十万の軍勢はきれいに足並みを揃えながらも、衝突に備え進軍を速めていく。兵が一塊になって前へ進む力というのは、そのまま攻撃力と言い換えてもいい。兵数が多ければ多いだけ、進軍が速ければ速いだけ増していく単純な計算式だ。このままぶつかれば、曹仁隊の歩兵二万は壊滅だろう。
そこで、曹仁隊の歩兵部隊が左右に分かれた。空いた間隙に後方から騎馬隊が綺麗に滑り込んでいく。初めに五千騎。わずかに遅れて五千騎がもう二隊。百数十歩の距離を瞬く間に駆け、十分な加速を得ていく。
先駆けの五千騎が、味方歩兵の陣形を抜け出たところで、ぱっと花開くように散った。
凄まじいまでの土煙を巻き上げ、敵歩兵へと突っ込んでいく。
鉄と鉄が、肉と肉が、あるいは鉄と肉がぶつかり合う音。そして泣き叫ぶような悲鳴。それらが幾重にも重なりあった音響が、すぐさま戦場に満ち満ちた。
五千騎での連環馬だった。鎖で繋がれた馬甲を着込んだ十頭で一組の五百隊が、大地を、兵を均(なら)していく。遅れて出た五千騎二隊が、敵軍の左右を抑え込むように回り込んで逃げ場を封じる。土煙に覆われ、戦場を見通すことは出来ない。それでも、華琳の脳裏にはその凄惨な光景がありありと思い浮かんだ。
「真桜、良く間に合わせてくれたわね」
「これくらいなら楽勝ですわ。まっ、ほんのすこーーし、強度には不安があってんけど、今見た感じやと問題無さそうです」
いささか不安げな表情を浮かべていた真桜が笑い飛ばした。
鎖や馬甲自体は既存の物をいくらか流用したとはいえ、それを十数日で十頭五百隊分の連環馬用の装備に作り直したのは工兵隊の功績だった。真桜という奇才の存在によって、曹操軍の工兵は天下に並ぶものの無い域にある。それでも直前まで確認を重ね、実際の活躍を目にするまで完成度に不安が残る突貫作業であった。
「しかし、自分で作っておいてなんやけど、えらいえげつないなー」
技術者として作品に納得がいくと、真桜は一人の人間としての視線を戦場へ向けた。
「あの曹仁様が、よくこのような策をお考えになりましたね」
稟も眉を顰めながら言った。騎馬隊の戦ではない。ただの蹂躙に近く、馬に掛かる負担も相当なものだった。
舞い上がる黄土に、赤い血飛沫が混じるのがはっきりと遠望された。
すでに戦ではなかった。
押し寄せる馬群に、袁紹軍の兵は背を見せて逃げ始めている。大軍ゆえの重厚な自陣が、兵の逃げ道を遮る。逃げる兵の背中から甲を着込んだ馬がはね、あるいは蹄に掛け、鎖で引き倒した。
曹仁は中央の五千騎の只中でその様を見据えた。
鎖が首筋に直撃した兵がいた。即死だろう。死体は地面に打ち付けられ、数度跳ねると後続の馬群に揉み潰された。具足や背中に鎖を受け、地面に押し倒された兵はもっと悲惨だ。立ち上がることも出来ず這いずり、恐怖に上げた悲鳴は時間を掛けて断末魔の叫びに変わる。馬甲に突き飛ばされ、宙を待った兵が味方の槍の上に落ちる。槍は自重で深く突き刺さり、股下から入って喉元に穂先を露出させた。鎖が具足に絡まり、引きずられる者もいた。自軍の兵との揉み合いで倒れ、そのまま幾度も蹄に掛かり人の形を留めない者もいる。
戦場の情景は、かつての呂布軍の赤兎隊が駆け抜けた跡にも似ていた。だがその規模はまるで異なる。赤兎隊の跡が線なら、連環馬の作り出すものは面である。これ以上ない虐殺の現場が目の前にはあった。
十頭繋ぎの連環馬は、左右に兵を乗せるのみで、後は空馬だった。中央の騎馬隊五千騎は、実際には馬五千頭に兵が一千、それに曹仁と白鵠の編成である。
指揮は取るまでのこともない。疾駆する十頭の重装騎兵も、人を跳ね続ければ勢いを失う。曹仁のすることといえば、速度を失った馬群を見つけては離脱を命ずるだけだった。並走する左右の五千騎からでも、十分に指揮は取れる。むしろ戦場全体を見つめるには、その方が適しているだろう。それでもあえて連環馬の中央に馬を進めるのは、自身の献策の結果を目に焼き付けるべきと思ったからだ。
劉備軍、孫策軍が立ち、袁紹軍から決戦を挑まれたあの日、考えに考えた。荀彧ら文官達は決戦を回避し、出来ることなら再び袁紹軍を撤退させるべく知恵を絞り始めていたが、対決はもはや先延ばしには出来ないものと曹仁は捉えていた。
華琳との対決は、正々堂々と真っ向から撃ち破ってこそ意味があると麗羽は思っている。だから今、麗羽は劉備軍と孫策軍という自らの追い風となる闖入者を、忌々しく感じているだろう。そうした意味では、袁紹軍に手を引かせるという文官達の発想は間違っていない。
だが麗羽は、余人―――幼馴染の華琳さえも―――が思っているほど楽天的なだけの人間ではない。華琳とまともにやり合って勝つことの難しさを誰よりも知っているし、それ故にその勝利に価値を認めてもいるのが麗羽だった。
呂布軍に介入された先の侵攻では、余裕を見せることも出来た。河北四州を治める自分に対して、華琳は二州を手にしたばかりの格下に過ぎないという思いがあったからだ。今や華琳は中原四州を統べ、麗羽と同格と言って良い存在である。麗羽はもはや十分に待ったと自らに理由を付けて、勝利を確信出来るこの機に曹操軍を呑みこみにくる。
麗羽の考えそうなことはわかる。こと華琳に対して抱く感情は、かつての曹仁のものでもあったからだ。だからこそ、自分が状況を打破する策を考えなければならないと曹仁は思った。
想い起されたのは、自身の敗戦だった。曹仁も、華琳とは一度戦場で直接対決を経験している。こんな大規模な戦ではなく、董卓軍から預けられた当時名も無き精兵であった白騎兵百騎を曹仁は率い、華琳も虎豹騎の二百騎を従えるのみであった。重装騎兵である虎豹騎は機動力に劣り、騎馬隊同士のぶつかり合いでは必ずしも有利とはいえない。相手が、精鋭中の精鋭の軽騎兵であったなら尚更である。騎馬隊同士、寡兵同士であれば、多少の兵力差も問題にならない。あの日の自分も今の麗羽と同じく、借り物の精鋭部隊を手に勝利を確信していた。―――そんな曹仁の自信を打ち砕いたのが、連環馬だった。
曹仁が献策すると、すぐに華琳からの承認は降り、五千騎分の連環馬の用意が進められた。
「――――っ」
白鵠が小さく跳ねた。肉塊と化した遺体とひしゃげた具足、武具を避けるためだ。時には、大きく蛇行しながら駆ける。
今回は、華琳が曹仁にしたような捕縛目的ではない。そして五千頭の馬は、恋の赤兎隊のように頑健な巨馬揃いとはいかなかった。脚を痛めて、跳ねるように駆ける馬を見つけては、曹仁は離脱を促した。連環馬は普段調練を積んできた騎兵の運用を否定するものであり、調教を重ねた軍馬を悍馬や猛牛と同様に粗略に扱うことでもある。少なくない数の馬が、脚を潰すことにもなる。騎馬隊の隊長として、また一人の武人として馬に親しんできた曹仁にとって、それは耐え難い苦痛であった。霞には批難され、恋も知れば悲しむだろう。白鵠にも後で蹴飛ばされるかもしれない。それは、覚悟の上であった。
五百の小隊のうち、二百隊近くはすでに後退させた。離脱を命じられた兵は、一様に安堵の表情を浮かべる。すでに三万を優に超える敵兵を葬って、そしてまだまだ蹂躙は続いていく。凄惨な情景も、連環馬を献策した時から覚悟していたものだ。
阿鼻叫喚の中で、かつんかつんと、連続する甲高い異音が耳に付いた。
真紅に染まった視界の片隅で、獣が動く。毛皮を纏った敵遊撃の烏桓騎兵である。異音の正体は、弓騎兵の放つ矢が馬甲を打つ音だった。大半は馬甲に弾かれているが、鉄の繋ぎ目を掻い潜って馬体に突き立つ矢もちらほらと散見された。
「予想よりも、対応が早いな」
曹仁は頭上で槍を回して、左翼へ合図を送った。蘭々指揮の五千騎が、大きく軍を迂回させて烏桓騎兵の左へ左へと回り込む動きを見せた。
白蓮との調練で、弓騎兵の弱点は叩きこまれている。弓は普通、左で弓の本体を持ち、右手で弦を引く。極稀に右手で弓を持つ者―――秋蘭がそうだ―――や左右自在に持ち替える者もいるが、移動しながら集団での騎射ともなれば、誤射を避けるために全員が統一した構えを取る。つまり通常騎射で矢を射れるのは、騎手の正面から左後方までの角度ということになる。曹仁が以前目にした烏桓の兵は、真後ろに対しても矢を放った。それ自体が凄いことではあるのだが、こちらの兵の損害は軽微であった。やはり騎射での戦闘を日常とする烏桓兵であっても、集団で強い矢を放てる範囲は限られるのだ。
右手側に回り込まれることを嫌って、烏桓の遊撃隊が距離を取った。
左翼の五千騎が烏桓兵の牽制に向かったことで、連環馬の脅威に曝される袁紹軍の歩兵に逃げ道が出来た。とにかく後ろへ後ろへと駆けていた者達が、我先にと左へ詰め寄った。
曹仁は連環馬三十隊を、左翼へ向かわせた。命じられた兵は、わずかに顔を引きつらせている。
後ろから味方に肩を掴まれ、引き倒された者がいた。仲間の兵を生贄に少しでも生き長らえようとした者がいた。倒れた戦友に肩を貸す者もいた。踏みつけられた者も、醜く足掻く者も、高潔さを失わなかった者も、連環馬が等しく無に帰していく。
この場から蘭々を遠ざけられたのは、僥倖かもしれない。虐殺はまだ半ばといったところだった。