曹操軍二万を、三万の軍勢で手玉に取っていた。
曹操軍は騎兵と重装歩兵が一万ずつで、いずれもあの呂布軍出身の精鋭部隊である。こちらは元々の劉備軍は五千だけで、あとは劉玄徳の蜂起に呼応して集まったばかりの新兵という雑軍である。兵数で上回るとはいえ、兵力では大きく劣っていた。
視界を確保するために、高台に車輪を付けて馬に引かせている。朱里達は象棋盤を覗く様に、戦場を広く望めた。
中央に愛紗率いる二万五千を数える新兵。二百五十人ごとにまとまり、百の小隊を形成している。雛里の発案で、劉備軍古参の兵を小隊ごとに十人ずつ加えている。それで新兵ながらも愛紗の指示に円滑に従うし、潰走しても十人を中心に立ち直った。
左右には鈴々と星の騎馬隊が一千ずつ。今は元々の劉備軍の騎兵一千を星が、新兵の中から馬術に長けた者を選出した一千を鈴々が率いている。どちらが劉備軍の精鋭かを隠すために、二人の指揮は絶えず交代させていた。
本隊は愛紗の歩兵の中に埋没させた。桃香を中心として朱里が指揮を執る劉備軍歩兵三千。これは状況によっては劉備軍最強の攻撃部隊ともなる。すでに幾度か前に出て、張遼の騎馬隊の突撃を跳ね返していた。総大将が本陣に控えるだけという戦は、劉備軍の戦ではない。誰よりも戦場がそぐわない桃香が、声を励まして兵と共に前へ進むのが義軍と呼ばれる劉備軍の姿だった。
そして、全軍の総指揮が雛里。徐州における曹操軍最大の拠点下邳に攻め寄せてより数日、雛里の用兵には同門の朱里を刮目させるほどの凄味があった。
用兵では、確実に曹操軍の上をいっている。張遼の一万騎を時に歩兵の中に取り込み、時に本隊で痛撃し、時に騎馬隊で背後を突いた。崩し切れないのは、どっしりと構えて動かない楽進の重装歩兵一万があるからだ。守りを固めた重装歩兵は鉄壁と言って良い。騎兵が攻撃、歩兵が守備という単純な役割分担で、張遼隊が多少崩れても楽進の一万が動かないから自然とそこを中心に持ち直していた。
―――雛里ちゃん、大丈夫?
朱里は、口にしかけた言葉を飲み込んだ。
雛里の横顔には、疲労の気配が色濃い。それでも、瞳の奥には静かに燃え上がるものがあった。今、頭の中では様々な想定が組み上げられているはずだ。気遣いの言葉は、雛里の集中を妨げるだけだ。
桃香も時折気遣わしげな視線を向けるだけで、黙って雛里の指揮に従っている。当の桃香本人は、大恩ある曹操の後背を突く挙兵に一時胸を痛めてはいたが、戦場に望んでからはきれいさっぱりと頭を切り替えていた。
桃香は曹操に対して義姉妹である愛紗達や、臣下であり仲間でもある自分達に向けるものとはまた違った、友情のようなものを抱いているようだった。同時に自分の志を遂げるための最大の敵が曹操であることも良く理解している。曹操の政と桃香の志は、今のところ決定的に相性が悪い。
曹操軍との戦に、袁紹軍が勝つならこれほど性急な挙兵の必要はなかった。兵力で言えば、袁紹軍が圧倒的であった。単純な兵数でも二倍近く、さらには中原に位置する曹操軍はただ袁紹軍と対峙すればよいというわけではない。南の孫策、南西の劉表、西の西涼軍と、他勢力に対する備えも残さねばならない。袁紹軍が後背に抱えるは北方の異民族だけで、その異民族―――烏桓からは単于自ら援軍に立っていた。袁紹軍に後顧の憂いはない。
雛里と二人で何度戦力を分析しても、袁紹軍の勝利は揺るがなかった。それでも朱里の頭の中で、曹操が袁紹に敗れる姿は上手く想像が出来なかった。それは雛里も同じで、朱里よりも曹操に近しかった分だけ、一層その思いは強いようだった。
あの呂布に勝ったことで、曹操を実体以上に大きく捉え過ぎてはいないか。確かに軍略への造詣は、水鏡門下で天才と謳われた朱里にも、そしてその朱里よりさらに一枚上手の雛里にも劣らぬものを持っている。朱里と雛里が苦手とする前線の指揮でも、愛紗や星に劣らないだろう。だが逆を言えばその程度で、劉備軍の首脳が寄り集まれば、曹操個人の資質を上回ることは十分に可能なのだ。一方で戦略でも戦術でも、主君である曹操に匹敵する者は曹操軍には見当たらない。曹操の力を正確に読み切ることが、曹操軍の強さを測るということだった。
朱里が曹操に、雛里が袁紹になりきって想定戦を行った。役割を交互に変えて百回近くもそれを繰り返した。曹操軍が勝ったのは、雛里が曹操役を務め、朱里率いる袁紹軍の兵糧を焼き払うことに成功した一度きりだった。それも朱里の想定する兵糧蔵の位置を雛里が正確に読み当てたのではなく、偶然にもそこに行き合ったという形である。しかし僥倖だろうが何だろうが、百回に一度は曹操軍が勝つ。ならばその一勝を一回きりの本番でやってのけるのが曹操という気がした。
戦に勝利し広大な大地を支配することになるのが袁紹なら、付け入る隙はある。江南に西涼、荊州に益州と、他にも対抗する勢力はあり、彼らとの戦いの隙に乗じて一州や二州は掠め取る自信があった。
一方で同じ大地を曹操が領有した場合、これはもはや覆しようもないと思える。動くなら、今この瞬間しかなかった。
曹操軍勝利の可能性とその対応策を献じると、桃香は一晩思い悩んだようだった。そして一夜明けると、もうすっきりとした表情をしていた。
―――朱里ちゃんと雛里ちゃんが考えてくれて、愛紗ちゃん達と兵の皆が戦ってくれるから、私がするのは腹を据えて決めるだけだよ。
そう言って、桃香は作戦を認可したのだった。曹操と敵対する意思を固めたとはいえ、大軍と対陣中に領内での蜂起と言う形で後背を突き、さらには孫策軍の手をも借りるというのは、桃香には辛い決断であったはずだ。朱里と雛里は自分達の策を容れた桃香に、戦の勝利でもって報いると胸に誓った。
「桃香様、お水を」
「ありがとう、焔耶ちゃん」
魏延―――焔耶が桃香に杯を捧げる。
荊州軍で厳顔の副官を務めていた焔耶が、旗下の二百騎を伴い劉備軍に加わっていた。荊州軍の正式な校尉ではあるが、校尉の一人や二人抜けたところで軍への関心が薄い荊州の上層部はさして気にも留めない、とは厳顔の言だ。同じく二百騎も厳顔の私兵のようなもので、どうとでも言い逃れは出来る。厳顔は焔耶が一兵卒の頃から目を掛け、自分の副官になるまで育て上げたという。手塩にかけた焔耶と荊州軍最精鋭の二百騎に去られるのは、厳顔にとっては大きな損失だ。それでも劉備軍への同行を願い出た焔耶を厳顔は笑って送り出した。
焔耶は二百騎をそのまま旗下として、愛紗、鈴々、星に次ぐ将軍という扱いである。二百騎はすぐにも劉備軍として通用するだけの練度を有しているが、共に調練する時を持てなかった。歴戦を経た関張趙三将の連携には異物ともなりかねない。今回の戦では近衛という形で、桃香付きとしていた。
「それと、汗をおかきです。これをお使いください」
「う、うん、ありがとう、焔耶ちゃん」
桃香は躊躇いがちに焔耶が差し出した手巾を受け取ると、額と首筋を拭った。
焔耶の本陣での振る舞いは、近衛の隊長と言うよりはまるで桃香の従者のようである。桃香への心酔ぶりは、ほとんど信仰の域に近い。
「あとで洗って返すね」
「―――いえっ、そのままで結構です!」
「そ、そう? じゃあ、はい」
勢いに気圧された桃香がおずおずと手巾を渡すと、焔耶は大切そうに懐へしまいこんだ。桃香と接する時の焔耶からは、曹操に対する夏侯惇や荀彧にも似た匂いが嗅ぎ取れるのだった。
移動式の高台の上には、桃香と焔耶に朱里、雛里、そして旗手と鼓手が数人ずつ控えている。周囲の喧騒は耳には入らない様子で、雛里は戦場をじっと見つめていた。
戦が動き始めようとしていた。
張遼の騎馬隊が愛紗の二万五千に突っ込んだ。進路はここ―――劉の牙門旗へと真っ直ぐ向かってくる。雛里の指示で、旗が振られ、太鼓が打ち鳴らされた。
騎馬隊の突撃を、柔らかく受け止める。まともに矛先を向けられた小隊は二隊、三隊と容易く蹴散らされるが、その間に直撃を免れた隊が左右から絞り込む。勢いを削がれ、張遼隊は本陣へ迫る直前で方向を変えた。横合いから近付いていた関の旗を避け、二万五千からの離脱をはかる。旗の下には当然愛紗がいる。劉備軍の精鋭で固めた旗本の二百を率い、時に陣形内を動き回りながら指揮を飛ばしていた。本陣と愛紗旗下の精鋭での挟撃を、張遼は直前で察してかわしていた。
歩兵から抜け出た張遼隊の左右から、鈴々と星の騎馬隊が駆け寄り後尾を穿つ。接触は一瞬で、二隊はすぐさま張遼隊から離れた。先鋒の三千騎ばかりを率いて取って返した張遼を、すんでのところでかわす。
張遼の用兵も巧みである。―――首を撃てば尾が、尾を撃てば首が、中を撃てば首尾共に逆襲に転ずる。孫子言うところの常山の蛇である。
一連の攻防で、騎馬隊で張遼隊の後を取るところまでは雛里の指示で、反撃を見てとり距離を取ったのは前線の鈴々と星の判断だ。戦場全体を見据える雛里と、前線の三将の指揮は齟齬なくかみ合っている。
張遼は隊をまとめて重装歩兵の後方まで下がった。愛紗が、潰走された小隊を素早く組み直しに掛かる。仕切り直しである。再び戦が膠着する。
複数の戦線を抱える曹操軍にとって、最小の敵勢力である劉備軍は早々に蹴散らしたい相手だろう。本来膠着は曹操軍こそが嫌うものだが、その曹操軍の用兵こそがそれを誘発していた。
張遼の用兵は愛紗達三将にも劣るものではないし、楽進は彼女達と比べれば一枚劣る印象だが決して凡将ではない。全軍の指揮権は新参ながらも呂布軍の副将として名を馳せた張遼にあるようだが、それが上手く機能していなかった。張遼は本来突出するくらいの前線でこそ活きる武将で、今はその強気の攻めと、楽進の堅実な守りが別個に存在するだけだった。兵力の損耗を抑え劉備軍を撃ち破るなら、重装歩兵を主力とし、騎馬隊を補佐に回して、堅実に攻めるべきところだろう。しかし仮に楽進の指揮権を上位に置いたところで、彼女の性格上先達の驍将である張遼に対して強権を発動し得ない。長く曹操軍に滞在しただけに、朱里と雛里には将の性格から用兵の癖までが手に取るようにわかった。
一方、劉備軍は膠着を破る策をすでに打っている。かつての陶謙配下で、徐州随一の豪農糜竺に密かに兵を集めさせていた。
糜竺は徐州滞在時の桃香達に資金援助もしてくれた恩人である。劉備軍が曹操軍を頼って徐州を去る際には同行を願い出てもくれたが、朱里がこの地に残ることを依頼した。劉備軍に加われば文官として朱里や雛里の助けとなるが、徐州に残れば数千からの人間を動かせる一大豪族である。朱里は後者として劉備軍を支援する道を示し、糜竺はそれを快諾した。
各地を転戦してきた劉備軍には、同じような支援者が他にも無数に存在し、活動を支えてくれていた。桃香の人徳が為せる業だろう。先日は鈴々の武に惚れこんで、南方異民族の王である沙摩柯も恭順の意を示している。たった五千の劉備軍であるが潜在的な兵力はその数倍に達し、朱里と雛里ですら正確に把握しきれていない。
糜竺は大胆にも、下邳の城内にすでに二千を超える兵を集結させていた。下邳は言うまでもなく陶謙時代からの徐州の政治と経済の中心地である。それだけに二十万を超える人口を誇り、人の動きも激しい。兵を集めるにも隠すにも格好の場であった。生粋の武人である張遼と楽進は、戦場以外のところで策謀を巡らせる将ではない。自分たちが守るはずの城から、敵軍が襲い来るとは想定もしていないだろう。
糜竺から出撃の準備が整ったという報せが入ったのは、ちょうど今朝のことだ。この後、日が中天に差し掛かるや、三万全軍で攻勢を掛ける。直後に糜竺が下邳より進撃し、正面に注意を取られた楽進の背後を襲う。後ろを取られた重装歩兵は、意外なほどの脆さを見せるだろう。
麋竺の出撃に合わせ、下邳ではその妹の糜芳が立ち、すみやかにこれを占拠する。張遼と楽進を打ち払い、下邳を抑えれば徐州は取ったも同然だった。
「―――何だろう、雛里ちゃん?」
約束の刻限を前に、敵陣に何やら動きがあった。
重装歩兵の陣へ騎馬の小隊が駆け込んだかと思えば、張遼隊との人の行き来が盛んに交わされ始める。真っ先に思い浮ぶのは麋竺の存在が露見した可能性だが、騎兵が駆けて来たのは下邳城からではない。
「ひょっとして、他の戦線が動いたのかな」
雛里が漏らす。
百騎余りを数えた小隊は伝令というには大掛かりで、遠目にも良馬で揃えた一団と見えた。それだけ、急を要する重大な報告とは考えられないか。
「河北の戦線が崩れた?」
雛里が続けて溢した言葉は、朱里の予感と一致していた。
江南の孫策軍には、夏侯惇の四万が派遣されている。これは、いくら孫策が戦上手と言えどもそう容易く抜けるものではない。一方、江南に四万を、ここ徐州に二万を送り込み、河北では二十五万の袁紹軍を相手に曹操軍は八万の軍勢で対峙している。曹操自らが率いるとはいえ、実に三倍の兵力差であった。
「―――っ、この機を逃さず、攻め立てますっ!」
雛里が、はっと顔を上げる。報告の内容がどうあれ、これまでさざ波ひとつ立たなかった重装歩兵の堅陣に、動揺が波及している。麋竺との約定には半刻(15分)ばかり早いが、奇襲までに敵陣を崩せるだけ崩せておけば後の戦はさらに楽になる。
雛里が関張趙三将に伝令を立てる。勝負を決める大一番だけに、旗と太鼓の指示だけでなく口頭での伝達だ。
愛紗の二万五千が前進する。中央の本隊三千も足並みを揃えた。左右から鈴々と星の騎馬隊が追い抜いて行き、一体となって敵陣へ突撃した。敵の注意が背後に向かないように、攻撃は正面からに限られる。陣を組んだ重装歩兵に軽騎兵で正面から挑めば、犠牲は避けようがない。だから軽くぶつかって引くだけの、あくまで牽制だった。
その見せかけの突撃が、抵抗もなくすっと敵陣へ埋没した。騎馬隊が切り開いたなどあり得ず、敵軍が道を開いたのだ。
騎馬隊の虚を虚でかわされた。騎馬隊は敵陣中央に開いた間隙に滑り込むと、慌てて馬を反転させた。数十騎が逃げ遅れて、間隙を閉じ再び堅陣を布いた重装歩兵に取り込まれた。
「何? 何かが変わった?」
雛里が小さくもらす。一癖ある用兵は楽進らしからぬものだった。
「雛里ちゃん、どうする? いったん下がる?」
「ううん、このまま前進。戦線を維持し、奇襲を待ちます」
迷いを振り切る様に頭を振って雛里が言った。正攻法の用兵である。雛里は、それで何かを図ろうとしている。
「―――きゃっ」
小さく悲鳴を漏らしたのは、自分だったのか、雛里だったのか、あるいは桃香だったのか。皆の視線が集まる先で、一瞬閃光のようなものが走り、人が宙を舞った。
「あれは、楽進さん」
「楽進さんが前線に? 桃香様、間違いないですか?」
楽進隊では将である楽進も徒歩であるため、高台からもはっきりとは姿が確認出来ない。
「うん、曹仁さんに氣功を教えているところを何度か覗かせてもらったけど、ちょうどあんな感じに光っていたよ」
「他に楽進さんほどの氣の使い手がいるとも考えにくいですね」
雛里の顔に微笑が浮かんだ。
張遼と同じく、楽進もまた前線の武将である。応変の用兵は、本領の陣頭指揮ゆえだろうか。だが自身が前線で拳を振るいながら、戦場全体に抜かりなく目を配る小器用さは楽進にはない。奇襲のお膳立てが、これ以上なく整っていた。
愛紗は新兵の二万五千をよくまとめ上げているが、歩兵の押し合いはやはり分が悪かった。先刻までの乱れが嘘のように、楽進自らが先頭に立った楽進隊は士気旺盛にして揺るぎなかった。奇襲までは、耐えるしかない。
鈴々と星が、張遼隊を一突きし後方へ下がる。張遼隊はわずかに逡巡を見せながらもこれを追った。張遼に即応されては奇襲の効果は薄い。張遼隊を下邳の城門から出来るだけ引き離す。
騎馬隊の動きに呼応するように、下邳の城門が静かに開放され、兵が湧き出してくる。
さすがに後方に配置された兵が幾人か気付いたようだ。楽進隊に動揺が広がる様が、高台からはよく見て取れた。
早くも、下邳の城壁に劉の旗が掲げられた。城門が、今度は曹操軍の侵入を防ぐために固く閉ざされる。奇襲部隊の兵が、ここで溜めに溜めた喚声を上げた。
「――――!! ――――――!!!」
喚声に振り仰いだ敵兵は、四半里(250m)の距離まで迫った軍勢と、城壁上に翻る劉旗を同時に認めただろう。動揺はこれ以上ないものとなった。
それを断ち切るように、楽進隊から騎馬隊が飛び出した。高みにある朱里達からは、奇襲部隊の喚声を待たず、兵のわずかな揺らぎに即応して重装歩兵の堅陣をかき分け進む小隊の姿が先刻から目に入っていた。
「対応が早い。ううん、早過ぎる」
雛里が呟いた。前線に立つ楽進からの指令で動いたとはおよそ考えられない早さである。
百騎程度の小隊は、麋竺の二千を正面から真っ二つに縦断し、取って返すや今度はきれいに横断した。
四分割された二千のうち、三つまではそれで進軍が止まった。残る一つは何とか立て直して、なおも楽進隊目指してひた駆けた。麋竺自らが率いる集団だろう。
「楽進さんの隊には、騎兵は伝令や斥候に使う数十騎だけのはず。焔耶さん、あれはさっき合流した騎兵ですか?」
雛里が高台にいる者の中で一番目が良さそうな焔耶に尋ねた。
「う~ん、数はわずかに少ない。先程は百数十騎はいたが、今はきっかり百ってところか。馬の質は、良いな。すごく良い。うん、たぶんさっきの騎兵で間違いない。……ただ、さっき見た時はなかったと思うんだが、首に白い布かなにかを巻いているな」
「―――っ!」
焔耶が何気ない口調で付け加えると、当の発言者を除く全員が息を呑んだ。
「曹仁さんが、来てる? 焔耶ちゃん、白馬に白い具足の人は見える?」
「はっ、桃香様。……白馬に白、……白馬に白、…………すいません、見当たりません」
「そっか。朱里ちゃん、雛里ちゃんは?」
「私にも見えません」
「私も」
巨躯の白馬と白い具足の組み合わせは、遠目にも相当に目を引く。見つからないということはいないということか。
「それじゃあ、そもそも白騎兵ではないのかな? こちらの狼狽を狙った作戦とか? でも、練度はすごく高そうだけど」
百騎は脚を止めない麋竺の五百に向かうと、瞬く間に潰走させた。狙いすました奇襲が、それで失敗に終わった。
「重装歩兵の中心で全軍の指揮を取っている可能性もあります」
雛里が顔を曇らせながら呟く。
総指揮者の不在が、曹操軍の弱点であった。曹仁が加わったなら、当然その指揮権は張遼の上に置かれる。曹仁も騎馬隊の先頭を好む将だが、黄巾賊討伐の際に全軍を率いる戦も経験済みだ。今も歩騎合わせて三万を率いている。先刻の曹操軍の動揺も、指揮権の移行と思えば説明は付く。
張遼の騎馬隊が駆け戻る。重装歩兵と二万五千のぶつかり合いには介入せずに、後方へ向かった。騎馬隊を広く展開して、百騎に蹴散らされた奇襲部隊を今度は下邳の城門へと追い立てていく。二千を質に開門と降伏を迫ろうというのだろう。鈴々と星が救援に向かうが、およそ三千騎を率いた張遼と白布の小隊に阻まれている。
歩兵の押し合いが有利と見るや、騎馬隊は重要拠点の奪還に回した。これもやはり張遼や楽進の用兵らしくはない。さりとて、曹仁らしさも感じられない。
「―――っっ」
「いっ、いかがされましたか、桃香様?」
神妙な顔で重装歩兵に視線を送っていた桃香が、ぶるりと身を震わせた。
「何だか、急に寒気が」
「それは大変です。お休みになられますか? な、何でしたら、ワ、ワタシが温めて」
「う、ううん、もう治まったから、大丈夫だから。そ、それより糜芳ちゃんが」
過剰に身を寄せようとする焔耶を制して、桃香が指差す。姉の窮地に、城壁に立てられていた劉旗が降ろされ、城門が開かれた。
奇襲部隊の二千を追い立てるように、張旗を掲げた五千騎ばかりが城内になだれ込んでいく。追い縋り掛けた鈴々と星を、雛里が旗を振って制止する。逃げ場のない城内でぶつかり合えば、兵力差で潰されるだけだ。
これで指揮者不在の五千騎と重装歩兵が一万。奇襲自体は失敗に終わったが、張遼と五千騎を戦場から退けることが出来たのは大きい。兵力としては、これでようやくやや有利と言えよう。
「張遼さんが城内を制圧する前に勝負を決します」
雛里は愛紗に重装歩兵の包囲を指示した。
先んじて、楽進隊が円陣を組む。方陣からの移行は迅速で、付け入る隙はなかった。中央にそびえる楽旗に全員がさっと背を預け、突出した形になる四隅が後退する。全体として一回り縮んだ格好で、寄り集まった重装歩兵はさながら一つの鉄塊を思わせる。重装歩兵の基本陣形で、弱点となる左右後方を補う鉄壁の構えだ。隙間なくびっしりと並んだ楯からは、戟と槍が突き出される。かつてこの構えと対した曹操軍は、大兵を有しながらも崩すには至らなかった。
「愛紗さん、それに鈴々ちゃんと星さんにも伝令っ! ここは三将の武に委ねます、前線を斬り開いてください」
鉄壁は用兵の上での話だ。曹操軍では夏侯惇の七星餓狼が重装歩兵の堅陣をわずかに斬り崩したと言うが、ここにはそんな用兵の常識を超越した武が三つ存在する。
二万五千の指揮に専心していた愛紗が前線に進み出る。本陣も続いた。生粋の劉備軍の兵は、重装歩兵を相手に一歩も引かず関旗を後押しする。その対面から、鈴々と星の騎馬隊が一体となって突き進む。犠牲は避けようがないが、勝負所だった。狙うは敵陣の中心。二万五千の包囲で動きを封じ、前後から楽旗を目指す。円陣を組んでからは、前線に楽進の姿が見えない。目指す先に楽進がいるのか、あるいは曹仁か。さすがに前線で高台は標的になるようなものだから、朱里達は馬上の人となっている。いずれの姿も認めることは出来なかった。
白布の小隊と騎馬隊五千が本陣の後方を扼した。張遼不在のためか、ただ退路を押さえるのみで突っ込んでは来ない。視野に収めつつも、雛里は前線に投入した戦力を動かさなかった。
関旗と張旗、趙旗が合流した。劉旗もそれに続く。曹操軍にも崩せなかった重装歩兵の堅陣を両断していた。やはり三将の武と本来の劉備軍の練度は、この乱世に突出している。
「愛紗ちゃん、鈴々ちゃん、星ちゃんっ! 敵の指揮官―――曹仁さんはっ?」
「ほう、本陣でも気が付いていましたか。確かに合流してきたあの騎馬隊は白騎兵でした」
桃香の問いに、星が微笑交じりに言う。本陣に伝令を飛ばさなかったのは、桃香の心中を懸念したものか。
「でも、お兄ちゃんいなかったのだ。白騎兵の中にも、ここにも」
「それじゃあ、楽進さんは?」
「楽進なら、ほれ、そちらに」
「―――暢気に話していないで、手伝え! 星、鈴々っ!」
星が顎をしゃくった先で、愛紗が叫ぶ。両断された重装歩兵の、左翼側に楽旗が立てられていた。愛紗がこれに当たっている。
「星さん、鈴々ちゃんも、愛紗さんに続いてください。張遼さんが戻る前に楽進さんを。本隊は右翼を―――」
雛里の言葉が途中で止まる。右翼からの衝撃に、雛里達の足許まで劉備軍本隊の兵が押し込まれていた。
「はわわっ、も、もう陣形を整えたなんて」
盾を並べた重装歩兵が、すぐ間近まで迫っていた。
「本隊は右翼へ当たるっ! みんなっ、まずは防御を固めて!」
本隊の指揮は桃香と朱里である。朱里が動揺する間に、桃香が指示を飛ばした。
やはり、自分は前線での指揮は苦手だ。朱里が自省する間に、劉備軍本隊は槍を並べて防御態勢を築き上げた。敵軍からの追撃はない。陣形を象るために一時攻勢に出たが、やはり敵が組んだのも防御のための布陣だ。両断された半円から、五千の円陣へ。その中央にそびえるは―――
「―――はわわ」
「―――あわわ」
一音違いの驚嘆がすぐ隣からも洩れる。
やはり、自分も雛里も前線での指揮は苦手だ。改めて朱里は思った。眼前に迫る敵軍に囚われて、どうやらそれの存在に気が付いたのは、諸将の中で二人が最後のようである。
「……曹旗」
天人旗の有無を確認するまでもなく、黒地に白抜きの曹仁の旗ではない。意匠を凝らした紫巾に曹の一字。曹操軍の牙門旗だった。
まず朱里が考えたのは、あの旗は本物か、という疑念だった。いや、旗自体は本物にしても、その下に曹操本人は果たして存在し得るのか。河北の戦線を放棄し、徐州まで赴くなどあり得るのか。
朱里の疑念を振り払うように、桃香がまた身を震わせた。
「この首の後ろがぞわぞわする感じは、間違いなく華琳さんだ。華琳さんが、来てる。それも、いつもよりもっともっと強い華琳さんだ」
桃香の言葉には、不思議な説得力があった。
「―――ああ」
雛里が小さく声を上げた。感嘆の響きが、そこには混じる。
改めて五千の円陣に視線をやった朱里の目にも、その軍勢に曹操の姿が重なって見えた。厚く楯に覆われた重装歩兵の堅陣の内は、一切窺うことが出来ない。それを示す情報など何も届いてはいないし、袁紹軍と対峙中の曹操がこの戦線に現れるなど、やはり普通に考えればあり得ない話だ。だがあり得ないと思うからこそ、逆にそれをやってのけるのが曹操という気がする。
―――同等以上の兵力で曹操とぶつかることが出来る。
疑念が晴れるや、次に朱里の脳裏に過ぎったのは千載一遇の好機ということだった。
曹操軍は常に仮想敵であった。雛里と二人で並べた象棋でも実戦形式の調練でも、どちらかが曹操の動き模倣して、それを破るという想定は繰り返していた。現実の勢力を考慮し、いつだって劉備軍不利の戦況からの開始だった。
「鈴々ちゃん、星さん! 愛紗さんもっ!」
「わかってるのだっ!」
「おおっ! 騎馬隊続けっ!」
鈴々と星が、曹の牙門旗目掛けて駆ける。右翼に遅れてようやく円陣を布き直した左翼から、愛紗も兵を返す。
―――勝てる。
朱里はそう確信した。一万の円陣を断ち割ってここまで進んで来たのだ。今さら五千など。
「……ううっ」
桃香が自らの肩を抱きながら呻いた。今度の震えは、まだ治まらないようだ。焔耶が、心配そうに顔をのぞき込んでいる。そんな主君に、すぐにも勝報を届ける。
騎馬隊がぶつかり、跳ね返された。鈴々と星はさすがに敵兵を危なげなく打ち払っているが、それ故に突出し掛けている。やはり、重装歩兵に対して騎馬隊は相性が良くない。
旗下を率いた愛紗が、そして本隊の兵も続いた。それで、こちらがやや有利な押し合いにまで持ち込めた。しかし、崩し切れない。先刻までの快進撃が嘘のように、押し合いが続いた。左翼には楽進の五千。今は円陣で固めているが、いつ動くとも知れない。
「朱里ちゃんっ、雛里ちゃんっ!」
叫んだのは、いまだ震えている桃香だった。見当違いの方向を、指差している。
「桃香様、そちらにはなにも――――」
紺碧の張旗が下邳城の城門を発した。率いるは、当然五千騎。
「こんなにすぐ、城内を制圧出来るはずが」
ならば答えは単純。あの軍は初めから、城内の制圧など目的としていない。こちらの想定から一時外れるために、城内に身を隠しただけのことだ。
左右には五千の重装歩兵の円陣。後方も、五千騎に抑えられている。
攻め寄せる騎馬隊の馬蹄の音が、朱里の耳にいやにはっきりと聞こえた。
「舐められたものね」
劉備軍からの急報を聞き終えると、雪蓮は眉根を寄せて言った。急使の男はわけもわからず、困ったような表情を浮かべている。
「ああ、ごめんなさい。貴方に言ったのではないのよ。遠い所を御苦労さま。戦陣なれば大したおもてなしは出来ないけれど、幕舎を用意するわ。せめて今日はゆっくりと休んでいってちょうだい。―――誰か、案内してあげて」
「いえ、私は―――」
男は雪蓮の勧めを固辞すると、すぐにも劉備達との合流を図ると言って辞去した。
「……そうは思わない、冥琳?」
男が去ると、思案顔の親友に視線を向けて、雪蓮は改めて先刻の続きを口にした。本営に設けた軍議用の広い幕舎内には、他には親衛隊長の朱桓がいるだけだ。
官渡での袁紹軍大敗の報と前後するように、徐州の劉備軍から急使が送られてきた。
敗報である。本人の姿を確認したわけではないが、間違いなく曹操自らの指揮であったという。袁紹軍の敗戦時には、はっきり曹操の姿が目撃されている。つまり袁紹軍に痛撃を与えるや、すぐさま徐州へと駆け、そこで劉備軍をも撃ち破ったということだ。劉備軍も大敗であり、潰走に追い込まれている。先程の急使の兵は、はたしてうまく合流できるものだろうか。
「確かにな。結果的には楽が出来るということだが」
言って、冥琳が思考を飛ばすように天井を見上げた。
荊州侵攻の三万をそのまま北伐の軍勢とした孫策軍に対して、当たる敵軍は夏侯惇率いる四万である。副将として夏侯淵も付いていて、曹操軍の第一部隊といえる軍団であった。劉備軍へ当たったのは楽進と張遼の隊である。張遼はあの呂布軍の副将を務めた武人であり、率いる兵も精強だが、いかにも新参である。曹操軍の頂点に立つ夏侯惇と比べると一枚格が落ちる。それも当然で、軍勢の中枢には精強極まる劉備軍の存在があるとはいえ、所詮は烏合の衆の蜂起と、雪蓮自らが率いる孫呉三万の軍団である。曹操が劉備軍よりも孫策軍を警戒していることは、間違いないことのように思えていた。今回の曹操の徐州出陣は肩透かしを食らったようなものだ。
「んっ、まあいいわ。曹操の相手をする機会はまだあるし」
雪蓮は一つ大きく伸びをすると、幕舎を出た。冥琳と朱桓もそれに続く。
夏侯惇の四万を打ち払った後、雪蓮は淮水を越え、一路北上して曹操軍の本拠許をうかがう。一方で冥琳はこの地―――揚州廬江郡―――に留まり、長江北岸から淮水までの地盤を固める。本来淮水までの地域は揚州に属するが、長江より北の地域に関しては曹操軍に一部押し込まれた状況にあった。淮水までを手に入れれば、さらに水運が開ける。兵や物資を中原に送り込むことは容易だった。雪蓮も、中原の覇権を易々と奪えるとは考えていない。たとえ許を落としたとしても、そこに長居するつもりはなかった。袁紹軍か曹操軍、勝者となった軍勢に包囲され孤立する可能性が高い。襲撃に成功すれば、曹操軍の本拠を落としたという看板を引っ提げて雪蓮は南下し、予州全域を恭順させる。一方で冥琳は足場を固めた後、北上する。許都襲撃の成否に係わらず、それで予州南域は孫呉の支配下におさまる。許都襲撃は箔付けと、自分も少しは曹操と遊んでみたいという雪蓮の願望を通した結果である。
「相変わらず、動きは無しか」
目を離している隙に、戦場に何か面白い変化でも見られないかと雪蓮は期待したが、空振りに終わった。
夏侯惇の四万が、陣を構えて動こうとしない。猛将で知られた夏侯惇らしからぬ戦振りで、堅陣を組んでの矢の応酬に終始している。淮水を望む平原に対陣して十日余り、両軍の犠牲は数えるほどのものだった。
神箭手の異名を取る太史慈と祭の率いる弓兵も、陣形を固め楯を整然と並べられては大きな戦果は上げようがない。同じく曹操軍随一の弓手として知られる夏侯淵の矢も、こちらの兵をほとんど傷付けることはなかった。
今日も、いつも通りの矢合わせからの退屈な戦が展開されていた。
これまでに何度か雪蓮が騎馬隊で前に出て敵軍の攻勢を誘ったが、夏侯惇は一度も乗ってきていない。堅陣に籠もったまま矢を集められ、取って返す以外なかった。
動けば動いただけ、こちらが痛い目を見るばかりだった。それでもいつもの雪蓮なら多少強引に攻め立てただろう。勝機と見て相手が応じれば、戦は動く。劣勢からでも動きさえあれば、好機を見出すことも出来る。しかし今の夏侯惇の指揮の取り様は、まるで置物のように生気を感じられない。本陣に掲げられた濃い赤紫と淡い青紫の布地にそれぞれ夏侯と大書された二旗は、風に靡くばかりで自ら小揺るぎもしない。雪蓮にとって戦は、剣の立ち会いの感覚に近い。隙を見つけて一気呵成に攻め立てるも、劣勢を演じて逆襲に転じるも、相手の呼吸を読んでこそである。しかるに、置物の呼吸は読みようがなかった。
「姉様、戦闘中です」
床几に腰掛けるや、膝を抱えるように前のめりに倒れ込んだ。雪蓮のだらけきった体勢に、蓮華が小言を飛ばした。本陣は蓮華の五千と雪蓮の二千騎である。
「だって、退屈じゃない」
首だけ動かして、雪蓮は返した。
ここ数日は本陣を最後尾に移したため、敵の矢が届くこともない。あの曹操軍を向こうに回しての中原侵攻に、関羽や張飛にも並び称される猛将夏侯惇が相手とあって、当初雪蓮の中で高まっていた意気もすっかり萎んでいた。
「否定はしませんが、―――どうしました?」
「…………?」
がばりと出し抜けに身を起こした雪蓮に、蓮華が疑問を浮かべた。答えず、雪蓮も突然襲ってきた正体不明の感覚に眉根を寄せる。
しばしして、戦場に初めて動きがあった。敵前衛二万が粛々と前進を開始している。赤紫の夏侯旗を掲げている。夏侯惇自らの指揮だ。
「冥琳」
「ああ。思春と明命を両翼に回そう」
冥琳が伝令を飛ばすと、すぐに中軍の二隊が動き始めた。いずれも軽装の歩兵部隊で動きは良い。孫策軍前衛の太史慈隊の左右に並ぶ。
前衛同士が押し合いを開始した。いずれも堅固であるが、楯に槍を抱えた重装備で速さに欠ける。両翼に付いた思春と明命も攻撃を始める。二万の敵前衛に対して、太史慈の一万で受け、思春の三千と明命の五千で攻め立てる。思春と明命の軽装歩兵は相手の陣形に潜り込むように侵入して、すぐに混戦の様相を呈した。
「―――冥琳、出るわ」
「どちらに?」
「夏侯惇を、と言いたいところだけど、さすがに曹操軍の兵は強い。届きそうにないわね。ここはひとまず、うるさい弓兵を黙らせる」
「誘いだぞ」
「ええ、でもいけるわ」
前衛が突出し、青紫の夏侯旗を立てた二万が後方に残されている。二万の前面には、夏侯淵の弓兵隊五千余りが曝け出されていた。ここで弓兵を叩いてしまえば、今後は夏侯惇もこれまでの様につまらない戦は出来なくなる。
ただそれは敵陣の真ん中に打って出るということで、夏侯惇の前衛部隊が取って返せば挟撃を受けることとなる。明らかな誘いである。同時にこちらの騎馬隊を警戒して全軍での攻勢には出れないということでもあろう。南船北馬というが、この戦場においては雪蓮の二千が唯一の騎馬隊で、曹操軍には両夏侯旗の元に数百騎が控えるのみだった。
「わかった。可能な限り夏侯惇は足止めするが、深追いはするなよ」
冥琳も好機と認めたのだろう、珍しく雪蓮自ら動くことを容認した。
「――――! ―――――――!!」
その時だった。激しい鬨が湧き上がった。先刻まで思春隊と明命隊が布陣していた陣形の空隙に、混戦を抜け出し、百騎ばかりが飛び出した。そこに数百の歩兵も続く。百騎は、夏侯の旗を掲げていた。
「夏侯惇!? ちょっと、大将自ら寡兵で突撃なんてっ、馬鹿なのっ!?」
「夏侯惇もお前に言われたくはないだろうが。いずれにせよ、無謀だな」
「私もあそこまで無茶しないわよ。―――うん。でも、良いわね、あれが夏侯惇。ぞくぞくしちゃう」
夏侯惇の呼吸が変わった。先日までは、大将としてどっしりと構えていた。それが生来の持ち味を殺し、置物が如く印象を雪蓮に与えていた。今は、本来の猛将の顔を露わとし、闇雲に駆ける先駆けの戦だった。
雪蓮のいる本陣までは、祭の五千が残っている。
百騎の向かう先に、祭が立ちはだかるのが見えた。百騎の先頭には遠目にも見間違い様もなく、夏侯惇の姿を認めた。
具足を着込まず、真っ赤な袍を翻す出で立ちは雪蓮と似ている。夏侯惇の方は申し訳程度に肩当てと胸当てだけは身に付けているが、いずれも機能的な意匠とは言えない。見目の華やかさを重視した結果だろう。目立てば目立った分だけ、自分の活躍で兵は鼓舞される。それに、具足は暑苦しいから嫌だ。そんな計算と気侭な理由も、雪蓮と一致しているのではないだろうか。
夏侯惇が大剣を振りかぶる。漆黒の肉厚な刀身が、祭を襲う。七星餓狼という片刃の大剣の銘は、夏侯惇の武名と共に広く知れ渡っている。槍を手にした祭と二手三手と打ち合うと、馳せ違った。そのまま捨て置き、夏侯惇は駆け抜ける。狙いはあくまで総大将の―――自分の首一つだろう。祭は続く百騎と歩兵のなかに飲み込まれながらも、夏侯惇へ矢を放った。槍ではなく、祭の本命は当然こちらだ。それを、振り返りもせずに馬上に身を伏せてかいくぐった。動物的とでも言うべき勘の働きだ。
単純に祭の武が夏侯惇に劣るというのではない。生粋の猛将が、これまでためにためたものを爆発させている。猛将という言葉がこれほど似合うのは、他に劉備軍の張飛ぐらいか。
雪蓮の意識は夏侯惇に吸い寄せられた。魅力的な武人だった。曹操の親族で右腕―――愛人という噂もある―――だから、太子慈のように味方に引き込めはしないだろう。惜しいが、討ち取ってそれで戦を終わりにする。
「冥琳、祭には前衛のほころびを塞がせて。私が行くわ」
夏侯惇のみならずその旗下も、曹操軍中有数の精鋭だろう。弓兵中心の祭の部隊で止めるには、半数の犠牲は必要だ。冥琳も一瞬の思案の後、首肯して伝令を飛ばした。
夏侯惇に群がっていた祭の兵が離れる。夏侯惇が穿った太子慈隊の間隙からは、今も曹操軍の兵が漏れ出している。祭の五千はそこへ当たる。
これで、夏侯惇を遮るものは何もない。
雪蓮も騎馬隊を走らせた。先頭には出ない。一騎打ちの衝動は抑え、二千騎の中ほどを進んだ。騎馬隊全体で突き崩す。楔形の布陣で、先端を夏侯惇へ向けてひた駆けた。
武人に対する礼として、せめて最後の一振りくらいは自分の手で付けよう。雪蓮は南海覇王の柄を強く握り締めた。
二千騎を前にしても、夏侯惇にひるんだ様子はない。百騎の先頭を、むしろ突出する勢いで駆けてくる。
ぶつかる。真っ赤な花を咲かせて、馬上から味方の兵の姿が消えた。二騎、三騎と同じく散っていく。夏侯惇を討ち取るためなら、多少の犠牲は覚悟の上だった。十数騎目で、花は咲かなくなった。次々に押し寄せる波に夏侯惇の斬撃も乱れて、斬るではなく叩き落すに変わっている。さらに数騎。馬の前足が跳ね、前のめりの夏侯惇の構えが崩れた。奇しくも、自分の“番”まで残すところわずか三騎。雪蓮は今一度南海覇王を握り直した。
「―――――っ!!」
横合いから衝撃が走った。騎兵が、雪蓮の騎馬隊を両断している。
「奇襲っ!? ―――どこからっ!?」
周囲に兵を伏せられるような場所はない。警戒も怠ってはいなかった。
そこで雪蓮は敵軍が極めて寡兵であることに気付いた。およそ百数十騎。それなら、こちらの目を盗んで急接近し、戦場の混乱に乗じて奇襲も不可能ではない。
「―――それにあれは」
白い布が目に付いた。敵兵のほとんどが首に巻いている。白騎兵。曹仁率いる曹操軍最速の騎兵部隊である。
まさか曹操だけでなく曹仁まで官渡の決戦場を空けたのか。―――いや、違う。劉備軍からの報告にあった。頭上に目を向けると、やはり見覚えのある曹の牙門旗。そこから視線を下げると、いた。兵に混じれば容易く隠れてしまう小さな体は、一度それと認めるともはや見過ごしようもなく大きく輝いて見えた。
「曹操っ! 無茶をしてくれるっ!」
劉備軍からの急使が到着して、数刻と経過していない。官渡にて袁紹軍を大破したその足で劉備軍を打ち払い、今またこの戦場にも姿を現したということだ。強行軍に次ぐ強行軍で、一人で全ての戦場を仕切ろうというのか。
夏侯惇が総大将からただの猛将に戻れるわけだった。いつの間にか、指揮権は曹操へと受け渡されていたのだ。孫策軍への劉備軍からの急報と時を同じくして、夏侯惇への曹操の命令も伝えられていたのだろう。
「―――孫策っっ!!」
叫び声に正面を向き直る。夏侯惇が、七星餓狼を振りかぶった瞬間だった。崩れていた構えも、奇襲に動揺したこちらの三騎をいなす間に立て直している。万全の一振りは、雪蓮の正中線をぴたりと捉えていた。
「―――くっ!」
他に手段は選べなかった。雪蓮は鞍に手を付いて後方へ身体を跳ねとばした。
景色がゆっくりと流れていく。
中空にある自身の身体。空馬で駆けて去っていく愛馬。夏侯惇の七星餓狼が軍袍を掠め、馳せ違う。左右を追い抜いていく味方の兵。背後からの喧騒は、同じく味方の騎兵が雪蓮との衝突を避けるために急制止し、後続とぶつかり合う音だ。どうと足元に馬が倒れ、投げ出された兵が空中で雪蓮と交錯する。
時間が正常の流れを取り戻したのは、地面に降り立った瞬間だった。揉み合う五十騎ばかりを残して、味方騎馬隊が遠ざかる。夏侯惇に続く百騎は、折り重なる五十の人と馬に雪蓮への追撃を阻まれ、離脱していく。代わって、四百余りの歩兵が寄せてくる。
蓮華の五千がこちらへ急行している。二千騎もすぐに取って返してくるが、動き出しも脚も白騎兵が速い。
「孫策様、こちらを」
引き出されてきた無傷の馬に雪蓮は跨った。
「孫権隊と合流する。走れない馬は捨て置き、徒歩で付いてきなさい。走るのに邪魔なら武器も捨てて構わないわ」
「はっ」
五十騎のうち三十人ほどが、馬を失っていた。残ったうちの数騎を、伝令代わりに騎馬隊へ走らせた。
歩兵はすぐに振り切ったが、背後にはすでに白騎兵が迫っている。馬を失った兵が、疾駆する敵の馬に捨て身で跳び付いて進軍を阻止した。そんな命令を下した覚えも、下す気もないが、やめろと制止もしなかった。
「冥琳っ! 確認したわね?」
蓮華の隊に駆け込んだ。前衛に冥琳がいて、すでに迎撃の構えを取っている。白騎兵は追撃を諦めて後方の歩兵四百と夏侯惇の百騎と合流した。
「ああ、確かに曹操だ。取れるぞ、曹操の首を、ここで」
珍しく興奮気味に冥琳が言う。
その気持ちも分からなくはない。太史慈達前衛と、本陣の蓮華隊五千の狭間の空隙に、曹の牙門旗と赤紫の夏侯の旗を掲げた四百と二百数十騎が納まっている。そして騎兵が一千ずつ二隊に分かれて、左右を塞いだ。
「騎馬隊に命令を?」
「ええ。どうせ白騎兵には追い付けっこないから、先に次の手を指示しておいたわ」
「さすがだ。これで―――」
「――――! ――――――!!」
喚声が湧き起った。微笑を浮かべていた冥琳の口元が凍り付く。
前衛が破れていた。状況は一目瞭然で、混戦の最中に整然と並ぶ夏侯淵の二万がぶつかったのだ。
兵数で劣る孫策軍で、二千の騎馬隊が受け持つ役割は大きい。夏侯淵の二万は本来なら雪蓮が阻むべき軍勢であった。夏侯惇、そして曹操の大き過ぎる存在が、二万という忘れてはならない―――忘れるはずもない―――大軍を、雪蓮の、そして冥琳の頭からさえも失念させていた。
一体となった四万が、祭の五千を押し退けながら進む。思春隊、明命隊の一部も左右にまとわりついているが、四万の前進を圧し止める力はない。二万の突撃をまともに受けた太史慈隊はちりぢりに散っていた。左翼に流れた太史慈が旗を掲げ、兵の再集結をはかっている。まとまった兵力が集まり次第攻勢に出る心算だろうが、戦場の真ん中を突き進む四万がいる限り兵は移動もままならない。
白騎兵も夏侯惇の旗本も、今やその気になればいつでも四万との合流が可能だった。いまだ四百と二百数十騎のまま雪蓮と冥琳の目に姿を曝し続けているのは、誘いか、単に余裕の表れか
「退きましょう、冥琳」
「まだだ。私と雪蓮がいて、負けるはずがない。そうだ、先に曹操の首を取ってしまえば」
「騎兵は、十数騎しか残っていないわ」
手元に二千騎があれば、雪蓮も最後の一手に賭けたかもしれない。騎馬隊を本陣から遠ざけたのは雪蓮の指示で、冥琳も賞賛した一手だった。
「冥琳」
「―――っ、……わかった」
冥琳が唇を噛みしめる。
完敗だった。完全なまでに翻弄されて、後悔の念すら浮かばない。あるいは冥琳が、自分の分まで悔やんでくれたからか。雪蓮の胸中にはただ曹操への感歎だけがあった。