「おーほっほっほっ! 気にすることはありませんわっ、淳于将軍。我が軍の優位は、いぜん健在でしてよ。おーほっほっほっ!」
力無く頭を垂れる淳于瓊に、袁紹が笑い飛ばした。白馬の砦の軍営に高笑いが響く。
先日の決戦で前衛部隊を率いた淳于瓊が、軍の再編を終え、報告をあげていた。前衛を務めた十万のうち、死者は五万にも上った。負傷した者達を領内に送り帰すと、再び軍に編成出来たのは二万だけである。負傷者の多くは重傷で、傷が癒えても戦線復帰は難しいという。
「いつまでも突っ立って、どうしましたの、淳于将軍? 報告は以上なのでしょう?」
「……はっ」
「ならばお下がりなさい。戦場だというのに将軍の貴方がぼうっとしていては困りましてよ、仲簡さん。おーほっほっほっ!」
「―――はっ」
軍議の間では文官武官が左右に別れ、一列に整列している。文官側の列は袁紹に近い側から田豊、審配、そして郭図、逢紀、辛評らがそれに続く。武官の席次は、文醜と顔良の二枚看板が袁紹の左右に近侍しているため、先頭に来るのが第三位の将軍である淳于瓊である。淳于瓊が、その席へと戻る。
こういう時、袁紹の切り替えの早さは強みである。淳于瓊の罪を問う言葉は一つもなかった。他の誰の指揮であっても避けようもない状況であったが、あれほどの大敗となれば指揮官に責任を負わせたくなるものだ。淳于瓊は将軍としての最期の仕事というつもりで、軍の再編に取り組んできたことだろう。もし淳于瓊の更迭となれば、田豊は死を賭してでも袁紹を諌めようと考えていた。ここで淳于瓊という優秀な将軍を失うのは愚行である。
ところが生まれついての名族育ちは、部下の過ちから敵軍の策謀すらも笑い飛ばす大度が売りだった。余人に勝る袁紹の取り柄と言えよう。田豊が、欠点ばかりの目に付くこの主を嫌いになれないのも、それが故である。
「さて、沮授さんからの報告は?」
「はっ」
淳于瓊に代わって、田豊は前に進み出た。
田豊と並ぶ文官筆頭であり、監軍(軍総司令)でもある沮授は、袁紹自らが出馬する今回の戦では本拠鄴にあって兵站を担っていた。
河水を挟んだ白馬の対岸が袁紹軍の前線拠点黎陽であり、黎陽から北西に百里(50km)で鄴である。主だった者は文官まで引き連れての出陣であるから、今は白馬が袁紹軍の朝廷で、ここで取り決められたことが黎陽を経由して鄴へ伝えられて実行へ移されていた。
十万の前衛部隊の潰滅後、曹操軍は官渡城へと撤退した。追撃をかけるでもなく、袁紹軍はそれを見送った。あんなものを見せられては、袁紹軍としては本陣の柵の内に籠もるしかない。曹操軍の影が消えると、袁紹軍も死屍累々の戦場を逃げるように離れた。後退した先で、曹操軍がほとんど無人で放置していた白馬の砦を接収出来たのは僥倖であった。
「近く、一万ほどの新兵を送り込めるとのこと。兵糧に関しては、不足の心配はないとのこと」
沮授からの報告は詳細極まるが、細かな数字をあげても袁紹は退屈するだけである。田豊は端的に状況だけを並べた。兵糧の余裕は、こちらの想定を大きく上回る犠牲者を生んだが故であるが、言及はしなかった。袁紹は軽く頷くだけで先を促す。
「例の準備はどうなっておりますの?」
「幽州と幷州の城の倉より新たに五千頭分の馬甲が見つかったとのことです。鄴に運び入れ、早速職人による手直しを進めております」
「それでは、それが終われば」
「はい、二万頭分の準備が整います」
「おーほっほっほっ! 華琳さんが五千騎なら、こちらは二万騎ですわ! 私と華琳さんとの格の違いを、見せつけてあげるのです! おーほっほっほっ!」
袁紹がまた高笑いをあげた。上機嫌で口にした言葉は、十数日前にぶち上げたものとそっくり同じだ。大敗直後の鬱々とした空気を払拭する袁紹の高笑いと一声に、急遽馬甲と鎖の製造が開始されたのだった。
前回の戦で、曹操軍の馬群一組の捕縛に成功していた。回収した曹操軍の装具を鄴の沮授へと送り届け、それを元に袁紹領を上げて製造が進められている。幽州・幷州には北方異民族との争闘の長い歴史があり、彼らの得意とする騎射から馬を守るために馬甲が発達した。ここ数十年は異民族の侵攻は散発的で、大規模な会戦もないため用いられることも少なくなっているが、倉を漁らせれば年代物の馬甲が大量に発見された。今は領内の職人という職人を鄴へと呼び集め、改装を急がせている。―――当初袁紹は新たに鋳造し鍍金して、揃いの金色の馬甲を金鎖で繋いだ一団を作ろうと企画したが、田豊が説得を繰り返して断念させた。袁家累代の資産と、天下の大州冀州をいち早く手にして貯えた財は莫大であるが、限度というものがある。現状でも、相当に資金を費やしている。曹操軍の工兵部隊はその異能を持って知られるが、対して袁紹軍は金に飽かせて領内の職人を総動員させていた。多少強引な買い入れも行わせている。着想を要する装具の雛型は曹操軍が自ら供してくれた。発案者たる彼らの想像をも超えた早さで、袁紹軍の連環馬―――曹操軍ではこの部隊、そして戦術を、そう呼ぶらしい―――の用意は整いつつあった。
「装備が整い次第再び決戦の場に赴きますわよ。淳于将軍、騎馬隊の指揮は貴方に命じますわ。早速編成に取り掛かりなさい」
「はっ」
淳于瓊が拱手して頭を下げる。袁紹が満足げに頷き、軍議はここまでと席を立つ。顔良と文醜も続いた。
軍議から数日が経過した。
連環馬の装具が、鄴から黎陽を経て白馬へ続々と送り込まれていた。急ごしらえの造り―――外観が不揃いなだけで強度に問題はない―――に袁紹は不満げだが、予定を上回る進捗である。
輸送の視察に出た田豊は、作業を離れ車座になった集団を見止めた。
「おや、張郃か? 兵に混じって、何をしておる?」
屈強な男達の中に一人混じる細身の女の姿は目を引いた。淳于瓊に次ぐ袁紹軍第四位に位置する将軍、張郃である。
「これは田豊様。―――いえ、少し話を聞いていただけにございます」
張郃は左右に並ぶ兵の肩を、ぽんぽんと優しくあやすように叩くと、集団から別れ田豊の元へと歩み寄った。
「……」
張郃はそっと目配せすると、そのまま田豊の脇を通り抜けた。兵には聞かせたくない話があるということだろう。田豊も張郃と並んで歩いた。
特に長身というわけではないが、姿勢が良いためか張郃の背はすらりと伸びて見えた。顔立ちも整っているが、兵と大差ない軍袍と具足を着込み、派手者の多い袁紹陣営にあっては際立った印象はない。
「運び込まれてきた馬具を見て、あの日の戦場を思い出したようです」
集団から十分に距離を置いたところで、張郃が言った。口調にも表情にも、やりきれない思いが溢れている。
黎陽から白馬の間、河水を行き来して連環馬の装具を輸送している兵は、先の大敗で前衛を担った者達である。淳于瓊が騎馬隊の指揮に回されたため、再編された二万は今は張郃の指揮下に置かれている。
「なるほど、それでか」
男達の中には、涙ぐんで膝を抱える者もいた。戦友の死、そして自身を襲った恐怖がありありと思い起こされたのだろう。馬防柵と十万の布陣に隔てられた本陣の田豊ですら、あの情景には背筋が凍ったほどだ。
「輸送に支障が出そうか? 他の隊の者を回しても構わんが」
「いえ、こうなることは予想出来ましたから。心の傷が深そうな者は、あらかじめ隊を別に分けておきましたので、問題ございません」
張郃が平然と言った。数百人いた先程の集団がそれというわけだろう。幾分呆れ気味に、田豊は返した。
「二万を任されてまだ数日だが、そこまで兵を把握したか」
「今は黙々と作業に当たっている兵も、隣で泣き出すものがいれば引きずられかねません。兵の選別は急務でした」
張郃はやはり平然としていた。思い起こせば、二万に戦場働きは期待出来ないとして、裏方に回すよう袁紹に進言したのも張郃であった。あの様子を見れば、張郃の判断に間違いはなかったと言える。一度戦闘が始まってしまえば、今のように平穏無事に彼らだけ隔離というわけにもいかない。そして戦場で泣きだし蹲れば、兵本人にとって命取りとなるだけでなく周囲の者をも巻き込み、果ては敗戦の原因となりかねないのだ。
一方で、今の状況では馬具の輸送が裏方の一番の仕事となることも張郃は見越していたはずだ。また、先の敗戦の直後にも、張郃は撤退した曹操軍を追って官渡城を包囲すべきだと献策している。兵の大半が恐怖に囚われており、とても戦に耐えられる状況とは思えず、袁紹は張郃の声を斥けると後退を命じた。顧みれば、攻城戦なら敵は連環馬を使えず、兵力では未だ我が軍が優勢、という張郃の主張には一理あったのだ。
「ほお」
思わず、感嘆の声が漏れていた。
張郃が先刻見せた兵に対する気遣いと同情は、嘘偽りないものだろう。張郃という武将は、人としての情と将軍としての職務を綺麗に切り分けている。兵を労り思い遣りながらも、同時に痛苦を強いる事に躊躇いも無い。将軍として、理想的な有り様ではないだろうか。
元より、田豊の張郃に対する評価は高い。用兵では文醜、顔良を凌ぎ、淳于瓊にも劣るものではない。田豊自身は門外漢ながら、聞き及んだ話では武術の腕の方も文醜らに迫るものがあるという。先刻のやり取りからも分かる通り、兵からも好かれている。唯一足りないものは、武名轟く二枚看板や、袁紹と同じ西園八校尉に名を連ねた淳于瓊の持つ名声だろう。好悪とはまた別に、兵は将の格に従うものだ。
もっともその名声も、先の大敗で淳于瓊の名は地に落ち掛けていた。仮に前衛を率いる将が他の誰であっても結果に大差はなかっただろうが、兵にはただ惨劇の記憶と大敗という結果だけが残る。
「……これは、淳于将軍には更迭してもらった方が良かったかな」
「何か―――」
「―――いや、何でもない」
田豊は慌てて打ち消した。幸い、呟きは張郃の耳には届かなかったらしい。
これから再戦という時に、士気を下げる様な発言であった。それに連環馬での逆襲劇がなれば、淳于瓊の名は再び舞い上がる。曹操を破れば乱世の帰趨は決するが、江東の孫策、西涼の軍閥、流浪の劉備軍と、易々と頭を垂れる者達ばかりではない。良将を一人でも多く抱えておくに超したことはなかった。
かつては人材の宝庫とも言われた袁紹軍であるが、その陣容を曹操軍と引き比べると、文官はまだしも武官は明らかに見劣りした。夏侯惇ら親族集団の優秀さに加え、厳しい戦を潜り抜けることで生え抜きの武将達の成長も著しい。黒山賊からはその首魁張燕を、呂布軍からは副将の張遼を容れ、一軍を率いさせてもいる。陣営を見渡しても、曹操軍とまともに用兵を競い合える者は、淳于瓊に張郃、第五位の将軍高覧に、烏桓からの援軍を率いる蹋頓くらいのものではないだろうか。
「……いや、そういえば、穀潰しを一人飼っていたな」
ふと、一人の女の顔が思い浮かんだが、田豊は頭を振って打ち消した。
「それでは、行きますわよっ! 我が軍の栄光へ向け、皆さんっ、雄々しく、華麗に出陣ですわっ!」
「―――! ―――――!!」
麗羽の号令一下、兵は鬨の声を上げて白馬の砦を出撃した。
再編部隊二万を白馬の守備に残し、歩兵十万に騎馬隊三万、それに烏桓族からの援兵が二万騎で、総員十五万での進軍である。
あの敗戦から一ヶ月、ようやく反撃の用意が整った。再び足を向けたのは、前回と同じ決戦場である。連環馬を使うに適した平原であるし、屈辱の大地は勝利の記憶で塗り潰さねばならない。白馬からは南西におおよそ八十里。通常二日のところを、ゆったりと三日の行軍とした。
二日目の夜に、曹操軍が官渡を打って出たと報告が入った。
「好都合ですね。曹操の奴、前回の勝利で味を占めたかな」
「そうですわね」
笑って言う猪々子に、麗羽は気のない素振りで返した。
官渡に籠城された場合、用意が無駄になる。猪々子の言う通り好都合ではあるが、華琳が自分を侮った結果と思うと業腹でもある。殊更笑い飛ばして見せたが、先の大敗は麗羽の胸に大きな傷跡を残していた。
翌日、再びの決戦場。やはり前回と同じくすでに曹操軍は布陣を終えていた。
曹操軍の将兵は今度は自分達が連環馬の餌食になるなどと考えてもいないのか、せっかくの先着だというのに柵を巡らせるでもなく無防備に構えていた。袁紹軍は到着するや、すぐさま馬防柵を組み上げさせている。
「前衛に歩兵。今回は騎馬隊が最後尾です」
曹操軍の布陣を、斗詩が声に出して確認した。
「あちらは連環馬を使わないつもりかしら?」
「わかりません。前回も初め騎馬隊は中軍で、前進しながら陣を入れ換えてきました」
麗羽の言葉に、斗詩が自信無さ気に答えた。
「そうでしたわね。まあ仮に出てきたとしても、正面から打ち砕くのみでしてよっ」
「連環馬同士正面から潰し合っても、こっちは一万五千騎残りますもんねっ」
猪々子が興奮気味に言った。彼女好みの派手な戦となる。
「ええ。これで、ようやく華琳さんに思い知らせてやれますわっ! おーほっ、ほっ、―――ほっ? ……あらっ、華琳さんの牙門旗はどこかしら?」
中央に、天人旗を並び掲げた黒地に白抜きの曹旗。他に黒山賊の張旗と于禁の旗が両翼に付いているが、それだけだった。
「その、斥候からの報告ですと、官渡城に残っている兵もいるようです。前回の決戦で空にした白馬を我が軍に占拠されましたから、警戒のためだと思われますが、もしかしたら、そちらに―――」
「それで城に引き籠っているというの、あの華琳さんが! きーっ! せっかく格の違いを見せつけてあげようと思っておりましたのにっ!」
前回自分が味わわされた恐怖と屈辱を、今度は華琳が舐める番のはずだった。込み上げた怒りは、不当に対する義憤に近い。
「麗羽さま、落ち着いて。所詮曹操軍は寡兵。曹操が怖気づいて城に引き籠ってしまうのも、無理はないですよ」
「そ、そうですよ、麗羽さま。曹操さんが戦場に出て来ないということは、戦わずして勝ったようなもの。さらに味方の敗報を届けて、追い討ちをかけてやりましょう」
「ぐぬぬぬぬっ、―――まあっ、華琳さんが我が軍の威光に怯えてしまうのも仕方ないというもの。まったく、強過ぎるというのも考えものですわね」
猪々子と斗詩の言葉で、憤りはいくらか治まった。
当初の予定とは違うが、華琳が膝を抱えて城に引き籠っていると思えば気分は悪くない。味方の敗報に竦んだところに、さらに城下に大軍を並べてやれば、華琳の恐怖はいかばかりのものか。
「相手は、曹仁さんですか。ますます良いですわね。華琳さんお気に入りのあの子を捕え、攻城戦の慰みにしましょう。―――さて、華琳さんがいないのなら開戦の口上も必要ありませんわね。淳于将軍、お任せしましたわよ」
「はっ!」
淳于瓊が一度直立して駆け出していく。些か気負いを感じるが、難しいことを命じたわけではない。ただ、鎖につないだ騎馬隊を敵軍にぶつけて来るだけのことだ。
淳于瓊には、先の大敗で前衛の指揮を委ねていた。後方配置の兵と共に本陣まで後退したため本人は無傷であるが、それだけに強く責任を感じているようだった。誰が指揮を執ったところで、あんなものは避けようがない。むしろ速やかな退避で犠牲を最小限に―――それでも甚大であるが―――留めたのは、正しい判断をしたと言えるだろう。
今回は、かつて西園八校尉の同僚であった淳于瓊に、楽に汚名を返上する機会を与えたようなものだ。華琳や白蓮のように真名で呼び合うほどに親しかったわけではないが、友情に近い感情はある。同輩だっただけに、真っ先に旗下に加わってくれた時には嬉しかったものだ。群雄の一人として立っても、あるいは同じく西園八校尉に数えられた華琳の下に付いてもおかしくはなかったのだ。淳于瓊が自分を選んでくれたことは、当時群雄の一人として立ったばかりの麗羽に少しばかりの自信を与えてくれた。
淳于瓊が、二万頭を馬防柵の外へ押し出した。今さら連環馬に気付いた曹操軍が後退し始める。
「おーほっほっほっ、逃がしませんことよっ! ―――突撃っ!!」
麗羽の声に合わせて、盛大に銅鑼が打ち鳴らされた。二万頭の連環馬が駆け出す。華琳は数の不足を両翼に軽騎兵を配することで補ったが、その必要も無かった。二万騎は左右に大きく広がり、見渡す限り原野全てを埋め尽くした。
観念したように、曹操軍が脚を踏み留めて迫る二万騎に備える。
「おーほっほっほっ! 無駄ですわ。さあ、やっておし―――」
敵陣まで数十歩というところで、先駆けの連環馬がごっそりと姿を消した。馬蹄の立てる轟音に混じって、馬の嘶きが響く。
「―――ど、どうなっておりますのっ!?」
「あれは、―――堀、いえ、溝ですっ! 馬の脚が取られていますっ!」
額に手をかざして戦場を凝視し、猪々子が叫ぶ。
言われて、麗羽も気付いた。消えたと見えたのは、軽快に駆ける馬群が突如速度を失ったためだ。
猪々子の言う通り、それは堀と呼べるほどの幅も深さも無さそうだった。つい先刻曹操軍の歩兵がその上を通過した位だから、それは間違いない。慣れない馬甲を着込んでいるとはいえ、馬に跳び越せないはずがない。
「ただの溝ではなく、下から鎌のようなものを突き出して、馬の脚を引っ掛けているようですっ!」
またも猪々子が麗羽の疑問に答えを出した。意識して目を凝らせば、溝のある辺りできらきらと何かが光るのが分かった。
溝の上を駆け抜ける度、十頭立ての連環馬のうち数頭が脚を取られ倒れ、それで全体が失速した。そこに運良く難を逃れたが馬群が、後ろから衝突して混乱に拍車をかけている。溝は一本ではなく幾筋も走っているようだった。
「袁紹様、出陣をお命じ下さい!」
足下へ駆け込んできたのは張郃であった。出陣の前日までは白馬に残す再編部隊の指揮に当てていたが、田豊の勧めで戦場に伴っていた。
「張郃さん、許可します。行って騎馬隊を救いなさい!」
「はっ」
馬に跳び乗ると、張郃が本陣を駆け去っていく。張郃に与えた兵力は歩兵十万の半数に及ぶ五万である。すぐに動き始めた。
まず張郃は溝に潜む敵兵を追い立てた。一千近い兵が、埋伏していたようだ。折り重なった馬が壁のようになって両軍を隔てているため、曹操軍からの救援はない。張郃も深追いはせず、数十人を捕獲したところで軍を下げた。
次いで張郃は、揉み合う連環馬の最後尾に取り付いた。暴れまわっていた馬が、少しずつ混乱を治めて後方へ送られてくる。本陣に受け入れ態勢を作らせた。駆け込んでくるのはどれも裸馬である。張郃は馬甲を外してやることで、馬の緊張を解いているようだ。
七、八千頭も戻ってくると、敵陣との境界にほとんど動いている馬の姿は見えなくなった。残るは折り重なるように倒れ込んで動けずにいるか、すでに息絶えているかだ。
「……張郃さんはよくやってくれましたわ。何か褒美を取らせましょう。斗詩、今日の戦はこれで終わりです。兵は全て馬防柵の内へ下げ、防備を固めておきなさい」
麗羽は大きく息を吐くと、隣に侍る斗詩に命じた。
「は、はいっ、麗羽様」
直立する斗詩と諸将を残し、腰を上げた。こちらの被害ばかりが浮き彫りとなった戦場を、いつまでも眺めていたくはない。本営に設けられた幕舎へと足を向ける。猪々子が慌てて後に続いた。
しばらくして、本陣の兵が慌ただしく騒ぎ始めた。張郃の隊が戻ったのだろう。これから被害の全容を聞かされると思うと、気がふさいだ。すぐに張郃が幕舎の中へ駆け込んでくる。
「―――袁紹様」
「張郃さん、良い働きでしたわ」
張郃が足元に跪く。麗羽の賛辞にも、喜色を浮かべた様子はない。
「―――淳于将軍が」
「淳于将軍? そういえばまだ姿を見せておりませんわね。―――仲簡、貴方の失敗と責めはしないわ、顔を見せてちょうだい」
被害の多さを恥じて、顔を出せずにいるのだろう。幕舎の外へ麗羽は気軽に声を掛けてやった。
「……袁紹様。淳于将軍は、袁紹様のご期待に応えるべく、騎馬隊の先頭に立っておられました。我らが駆け付けた時にはすでに、探索のしようもなく」
「な、なにを仰っているの、張郃さん。私はただ仲簡に手柄を立てさせてやろうと―――」
「袁紹様のお心遣いに、淳于将軍も幸せな最期であったと思います」
続けて張郃は兵の犠牲、軍馬の損害を報告し始めたが、耳に入ってはこなかった。
「―――袁紹様っ」
「んっ、―――ああ、何です、張郃さん?」
張郃の口調の変化が、麗羽の意識を現実へと引き戻した。淡々としていた調べに、熱が帯びている。
「我が隊に、再度の出陣をお許しください」
「……何を言っておりますの?」
「曹操軍が城を出ている今は好機です。兵力は未だこちらが優勢。策を持って我が軍に大打撃を与えた敵が、明日以降も野戦に応じるとは限りません。また今なら、曹操軍の掘った溝をこちらも利用出来ますし、馬の亡骸が障害ともなっております。敵軍の連環馬を封じられます。歩兵の押し合いなら、我らは負けません」
「今日の戦はこれで終わると、斗詩に命じてあります」
「はっ、顔良将軍からお聞きしております。しかし、この機を逃せば―――」
「下がってお休みなさい、張郃さん」
「しかしそれでは―――」
「敵に更なる策がないと誰が決めました。仲簡を失った以上、貴方は斗詩と猪々子に次ぐ立場です。自重なさい、張郃さん」
「……はっ」
張郃が一度頭を下げて幕舎を辞した。
あれほどの策を、そういくつも揃えられるはずはない。仮にあったとしても歩兵を小出しに使えば、今回、そして前回ほど被害が広がるとも考え難かった。
しかし、幕舎を出て、敵陣に山を為すかつて騎兵であったもの―――その中には仲簡も含まれている―――を目にする気には、麗羽はどうしてもなれなかった。
華琳が、深夜に帰陣した。
護衛は近衛隊と白騎兵だけの百数十騎という少勢だ。あらかじめ数騎が斥候兼先触れで走っていたため、曹仁は白鵠に跳び乗り、陣の外まで迎えに出た。
「こんなところまでわざわざお出迎え?」
「大戦果をあげての凱旋だからな」
官渡での大勝の後、徐州に赴くや劉備軍を潰走に追いやり、返す刀で揚州では孫策を撃破し、勢いを駆って長江北岸から孫呉の勢力をほぼ完全に駆逐していた。その間、わずか一ヶ月である。長駆に次ぐ長駆の上、全ての戦を鎧袖一触で終わらせている。八面六臂の大活躍だった。
「戦況は?」
華琳はすでに終わった戦場には興味がないのか、口早に言った。
長駆には慣れた白騎兵や、体力自慢の季衣に流流、虎士の面々にすらさすがに疲労が見て取れるが、対照的に華琳の声には張りがあった。
「報告は、受け取れているか?」
「ええ、袁紹軍の連環馬を破ったというところまでは」
絶えず伝令は放っていたが、動き回る華琳に届くという確証はなかった。
「そうか。その後、袁紹軍は馬防柵のうちに籠もったままで動きはない」
袁紹軍の連環馬を破ってから、二日が経過している。
「―――そう。なら、休んでも問題ないわね」
「華琳?」
華琳が、ぶつかるぐらい近くまで馬を寄せてきた。
「さすがに疲れた。一刻(30分)で起こしなさい。起きたら、詳細を聞くわ」
言うと、華琳の身体がゆっくりと傾いだ。曹仁は慌ててその身を抱きとめた。
「休むなら、幕舎を用意するが―――」
「……」
張り詰めていたものが途切れたのか、華琳はすでに小さく寝息を立てはじめていた。
窮地に追い込まれれば追い込まれるほど、力を発揮する人間がいる。
ここまでの華琳の軍略には、神がかったものがあった。いかに華琳の大才をもってしても、劉備軍も孫策軍も、平時であれば相応の部将を揃え、練りに練った戦略図を描いて初めてぶつかることの出来る難敵だ。戦場における孫策の嗅覚は華琳に勝るとも劣らぬものだし、劉備軍の強さはいまや伝説であった。大敵袁紹軍と対しつつの三面作戦など、現実には不可能としか思われなかったのだ。
「―――っと」
曹仁は自分の胸の内にすっぽりと納まる、小さな主君の身体を、起こしてしまわないように恐る恐る抱え込んだ。これまで胸中に抱いていた罪悪感が、華琳の存在に押し退けられていくのを感じる。
連環馬によって大敗を喫した麗羽が、こちらを上回る大兵力での連環馬でもって反撃に転ずることは、あらかじめ曹仁と華琳の間では予測が立っていた。あえて敵軍に連環馬の装具を鹵獲させたのも、それをより確実にするためだった。案の定、すぐに袁紹領からはそれを裏付ける報告が上げられてきた。袁紹軍は職人を一つ所に隔離して作業を秘密裏に急がせていたが、すでに河北にも根を張っている幸蘭の商いの情報網から逃れることは出来なかった。
先の連環馬による虐殺に続いて、今度も殺すべくして一万頭余りの無垢な魂と、数千の兵の命を奪った。常の戦場では味わうことのない罪悪感に曹仁は襲われていた。それを、すうすうと寝息を立てる少女の存在が、容易く打ち払ってしまった。
―――華琳の志を遂げるためなら、いくらでも手を汚そう。
拭い去れぬ自責の念から目を逸らしているだけなのは、自覚している。それでも決して歩みを止めない彼女に付いていくからには、曹仁もこんなところで足踏みをしているわけにはいかないのだった。