天険に囲まれた漢中へと高順は潜入した。
といっても表向きも本人の意識としてもただの商人に過ぎないので、険しいながらも人の往来の跡が残る道を、堂々と歩いて入った。
警備は置かれているが、形ばかりのものである。何度か兵らしき者に呼び止められることはあったが、その都度商いをしたいと告げると簡単に通行を許された。
漢中は五斗米道という宗教が支配する土地である。兵も皆五斗米道の信者であり、兵役は奉仕の一環だという。出会った兵は一様に穏やかな顔つきをしていて、賂を要求されることも、荷物をあさられることもなかった。
ただ、信者の暮らしは五斗米道の教えの元に管理―――救済とその兵は言った―――されていて、商いの入り込む余地はほとんどないだろうと助言された。脅しという感じはなく、親切心からの本当の忠告のようだった。
漢中に着いてすぐに、試みに教祖張魯に御挨拶の面会を申し込んでみた。意外にも、それはすんなりと許可された。ただ信者との会談や傷病治癒の儀式―――張魯自ら治療に当たるらしい―――の予定が詰まっているということで、会えるのは三日後ということになった。
「近くに宿はありますか? それに、評判の良い食堂など教えてもらえないでしょうか? 行商などしていますと、それが一番の楽しみでして」
尋ねると、応対した兵は義舎に寝泊まりする様に言い、案内してくれた。教団で管理する食事処兼宿泊施設で、無料で利用出来るという。
通されたのは衝立で仕切られただけの大部屋だが、掃除は行き届いていた。併設する食堂には、旅人に限らず住民、特に貧しい者達も食べに来るという。信者からの寄進で成り立つ施設だった。
義舎には高順以外にも宿泊者がいるらしく、仕切りを隔てて人の気配があった。
「行商人の、高順と申します。お隣、失礼致します」
「はーい、よろしくね」
高順は仕切り越しに挨拶だけして外へ出た。背中で聞いた声は、意外にも可愛らしい少女のものだった。
領内を見て回った。義舎を勧められるわけで、宿屋はおろか商店のようなものすらほとんど目に付かなかった。確かに、商いで生計を立てている者はほとんどいないらしい。
兵に許諾を得て、露店を開いてみた。これも、特に上に話を通すでもなく拍子抜けするほどあっさりと許された。
興味を持って覗いていく人間は多いが、実際に品物を手に取ったのは極一部で、購った者となるとわずか一名だった。それも漢中の民ではなく、義舎で隣になった少女である。声の調子から予想された通り、快活で愛らしい女の子だった。
その少女がやたらと賑やかで口が立ったせいもあってか、漢中の民と会話をしていると何となく物足りなさを覚えた。心ここにあらずというか、目の前で話をしていても視線が噛み合わないような感覚だ。高順が余所者という理由だけではなく、それは漢中の民同士にも言えることで、にこやかに挨拶を交わす姿は目にしても、長話や口論する者は皆無だった。
一日民と接して、高順は奇妙な感覚の正体に気が付いた。漢中では、民の視線が向かう先が常に教祖張魯なのだ。民と民という横の関係が希薄で、民と張魯―――あるいは信仰そのもの―――との強い繋がりだけを高順は感じとった。
日も暮れて義舎に戻ると、隣の仕切りは無人となっていた。高順の外出中に出立したようだ。
それからも面会までの間、領内を散策し、民と話して回った。
信者それぞれから五斗の米を寄進させるというが厳密なものではなく、貧しい者からは少なく、逆に豊かな者は進んで余分に提供するようだった。一般の信者を鬼卒、そのまとめ役となる者を祭酒と呼んで階級分けがされているが、集められた米は上の階級の誰かが贅沢をするためのものではなく、大半が貧困に苦しむ者の救済に当てられるようだ。祭酒も土地の有力者や豪族が選ばれるのではなく、あくまで教義への理解が深い者から選ばれているらしい。
曹操軍の領内は実力の有る者が権力も地位も得る世界である。ただし実力を身に付けるための学び舎は誰にも等しく開放されている。漢中では実力など関係なく、誰もが等しく横並びだった。ただ張魯とその弟の張衛だけが一段も二段も高い位置にいる。
約束の日、高順は朝食を食べ終え、最後に町を一回りすると、張魯の住まう屋敷を訪れた。元は役所か何かだったのかもしれない。それなりに大きくはあるが、どこにでもあるような建物だった。
「初めまして、張魯です」
向かい入れられたのは、応接間のような部屋だった。謁見の間というには無理がある、少し広めの一室に過ぎない。護衛の兵が四隅に一人ずつ立っているが、遠い。そんななか、張魯と名乗る小さな女の子が無防備に姿を現していた。
「お初にお目に掛かります。高順と申します。行商を営んでおります」
宗教団体の教主というから、高順は張三姉妹のような押し出しの強さを予想していたが、実像はまるで違っていた。楚々とした印象の女の子―――年齢は高順よりも上のはずだが、女性というより女の子という表現がしっくりくる―――で、柔らかな笑みを浮かべてそこにいた。
「今日は、何の用があって参った?」
張魯の横に侍る少年が居丈高な口調で言った。高順と同じくらいの年だろうか。ただ最近ぐんと背が伸びた高順と比べると年相応の体格で、見下ろす形になった。少年は無理にこちらを威圧するように、腕を組んで胸を反らしている。
「衛、ちゃんとご挨拶なさい」
「私は何処の馬の骨とも知らない男に会うなど、初めから反対しているのです。こうして立ち会うだけでも譲歩とお考え下さい」
「まったくもう。ごめんなさいね、高順さん。この子は張衛。私の弟です。政治のこととか、私に分からないことを色々と補佐をしてくれている、本当はとても良い子なのですよ。ただちょっと人見知りで」
「姉上っ!」
「これは、張衛様でしたか。漢中の政を担うやり手だと、お噂は聞いておりました。この地を訪れて三日、街の中を見て回らせていただきましたが、張魯様はもちろんのこと、張衛様に感謝する声を何度も耳にしました」
張魯と張衛二人並ぶと、兄と妹としか見えない。張衛が年相応なら張魯は若く、というよりも幼く見えた。しかし張魯の態度も口調も確かに姉のもので、不思議とそこに違和感はないのだった。
五斗米道―――道教の教えには不老長生があるから、教主でありその最たる体現者である張魯は年を取らないのだろうか。それとも曹仁の従姉で主君がそうであるように、単に発育不良なだけだろうか。
「うふふっ、そうですか」
高順の言葉に張魯が相好を崩した。浮かんだ笑みも姉のものだ。
教主である自身が崇められることには慣れているのだろうが、弟を誉められるのは自分のこと以上に嬉しいようだ。張衛もわずかに頑なだった気配を軟化させている。
「本日は御挨拶にとお伺いしまして、こちらを―――」
「まあ、ありがとうございます。中を見ても良いかしら」
「はい、どうぞご覧下さい」
進物を捧げると、意外なほどあっさりと二人は受け取った。貢物という形で、何かを捧げられることには慣れているからだろう。
張魯には玉の髪飾りを、張衛には筆を贈ったが、二人とも満更でもなさそうな様子だ。張魯が髪飾りを付けて見せて、張衛に感想を聞いている。仲の良い姉弟だった。
「―――中原から来たとお聞きました」
高順からの進物でひとしきり盛り上がった後、柔和な笑みを湛えて張魯が口を開いた。
一介の商人相手にも、相手を立てる姿勢を崩そうとしない。教祖としての処世術なのか、単に本人の性格によるものか。後者―――張魯の好ましい人柄によるもの―――の様に思えたが、それすらも教祖としての手管かもしれず、高順は予断を避けた。
「はい。何か儲け話の一つも転がっていないものかとこの地を訪れましたが、人々の暮らし振りを見て、それもあきらめました」
「どういう意味だ? 中原と比べて、貧しく見えたか? まあ、それはそうなのであろうがな」
受けたのは張衛である。言葉は刺々しいが、最初に感じた対話自体を拒絶する気配はもうない。
「そういった意味ではございません。確かに暮らし向きに中原の街で見られるような華やかさはございませんが、民が満たされているのが顔を見ればわかります。心が豊かなのでしょう。そして心の豊かさを至上とされる方々に、私から買って頂ける品はございません」
「ほう、中原の民はいつも満たされない顔をしているのか」
「中原、特に曹孟徳様の御領地は、他者を出し抜き一歩でも先んじようという競争の世界です。人々は仕事に勉学に追われて暮らしております。それを充実した生活と感じられる者には、それはそれで良い生活なのでしょうが」
「そうか。それではわざわざ漢中まで来て無駄足を踏んだ貴殿は、他の商人に一歩差を付けられてしまったわけだ」
「ははっ、まあそうなりますか。ただこの地の民の暮らしぶりを見られたことは、無駄だったとは思いません。人はこのような生き方も出来るのだと、感心致しました」
本心からの言葉だった。
中原の生活は楽しいが、時に厳しくもある。才無き者、努力足りぬ者は底辺の暮らしを強いられることになる。貧富も家柄も本人次第で覆すことが出来る、それもまたある意味で平等な世界と言えた。だが恋の天下が成っていたなら、曹孟徳の治世よりも、漢中の暮らし振りに近い世界が生まれていたのではないだろうか。
「ここでの暮らしが性に合いそうか。なんなら我らの教団に入信するか?」
「魅力的な御提案ですが、今はお断りしておきます。中原に家族も残しておりますし、商いの道もそれはそれで楽しくはあるのです。信仰を持ってしまえば、それがくだらないものに思えてしまいそうです」
「まあ、無理強いはしないさ」
「ええ、気が向きましたらまた漢中を訪ねて下さい。貴方も、貴方のご家族も、いつでも受け入れる用意が私達にはあります」
やはり柔和な笑みで張魯が締めくくった。
張魯の屋敷を出た頃には、すでに日は中天に差し掛かっていた。二刻(1時間)以上も言葉を交わしていたことになるのか。
「あっ、見つけた!」
「? ―――ああ、これはお客様。すでに出立されたものとばかり思っておりましたが」
荷物をまとめ義舎を出たところで呼び止められた。義舎で隣になった、漢中では唯一の高順の顧客となった少女が駆けてくる。
「わたし達はすぐに別の宿を用意されちゃったから」
「そうでしたか」
義舎とは別に宿舎を用意するということは、自分と変わらぬ年頃のこの少女は、五斗米道にとって賓客ということだろうか。
「おーい、蒲公英、何してるんだ? 早く出ないと日が暮れる。あたしは桟道で二泊はごめんだぞ」
少女の来た方向から、今度は見事な馬に跨った女性が現れた。
「あっ、翠姉様。ほらっ、町の人達が言ってた、中原から来ている行商の人っ」
「ああ、お前が」
翠姉様と呼ばれた女は、馬ごと高順の方へ向き直った。手綱も引かずに、馬を手足のように操っている。恋や曹仁と同じく、脾肉の締め付けで馬と会話を交わせるらしい。
「中原の戦について、何か聞き及んでるか?」
「ええ、それなりには。三日前にこの地を訪れるまで、ずっと中原の街を回っておりましたので」
「そうか。それで、曹操と袁紹のどちらが勝ちそうだ?」
「それは難しいところですね。劉備様と孫策様もお立ちになり、曹操軍は三方から攻められてはおりますが、袁紹軍は一度敗走したという話もございますし」
「何っ、劉備と孫策が!? それに、袁紹軍が敗走!? それはいつの話だ?」
「そうですね、もう一ヶ月以上も経ちましょうか。私が耳にしたのは、ほんの数日前なのですが」
「詳しい話を、―――ああ、いや、日が暮れてしまうな。……お前、行商人だったな。この後の旅程は?」
「―――涼州へ。西域の物産を扱う商人と渡りを付けたいのです」
「そうか、ならちょうど良い。あたし達と一緒に行かないか? 道中に話を聞かせてくれ。それに涼州ならあたし達の地元だ。商人も紹介出来るかもしれない」
高順が咄嗟に付いた嘘に、女が顔を綻ばせた。
西域の品を取り扱いたいのは本心であるが、今回高順は涼州伝いの西進路ではなく、益州を南下する道程を予定していた。古来より益州は養蚕の盛んな地で、西域諸国との絹の貿易路が存在する。南蛮族の支配域を抜けて天竺へと至る経路である。
涼州と口をついて出たのは、見事に馬を乗りこなす女が西涼の武人を連想させたためだ。
「それは願ってもないお話ですが、―――お名前をお聞きしても? 私は、高順と申します」
「ああ、悪い、まだ名乗っていなかったな。あたしは馬超。字を孟起。こっちは―――」
「……わたしはその従妹で馬岱、よろしくねっ」
馬上の女が堂々と、初めに話しかけてきた少女の方はわずかな逡巡の後、名乗った。
「こっ、これは、錦馬超殿でしたか」
連想は、この上なく的中していた。
高順は身を仰け反らせて大袈裟に驚いて見せたが、内心は驚きよりも合点がいく思いだった。馬に括り付けた荷からは槍の柄が覗き、身にまとう空気は尋常の武人のものではない。加えて恋や曹仁並みの馬術となれば、これで無名の方が驚きというものだ。
高順の同行が決まると、馬超の行動は早かった。馬岱に急ぎ旅装を整えさせると、すぐに出立となった。高順は行きは徒歩で山道を辿ったが、帰りは騎乗の二人に付き合って桟道ということになった。
「へえ、なかなか見事に乗りこなすな、高順」
「西涼の錦馬超様にそのように言われると、恐縮してしまいますね」
「これなら、予定通り桟道では一泊するだけで済みそうだ」
馬超の馬に従姉妹二人が同乗し、高順は馬岱の馬を借りた。馬超の馬ほどではないが、こちらも十分名馬の類である。
漢中の桟道は、岩肌に穴を穿ち、そこに支柱をはめ込んで作られた木造路である。断崖絶壁に半丈(1.5m)余りの道が張り付き、それが延々と続いていく。漢中を中継点に四方に張り巡らされ、全長では二千里(1000km)を超える。
今回辿るのは三百里程で、馬超は二日で走破を予定し、高順を旅の道連れに加えた今も計画に変更はないと言う。並足と駆け足を繰り返した。険路をもって知られるが、元来が馬車での交通が困難な山道に代わって設けられた交易路であり進軍路である。平坦な木板が隙間なく敷かれ、馬での移動にはほとんど不自由は感じなかった。軽快に馬を走らせる、その一歩一歩にさえ費やされた労力は膨大であろう。それが二千里以上も続くというのだから、目を疑うような光景である。
「それで、―――まずは、劉備と孫策がどうしたって?」
先行する馬超が首だけ後ろに向けた。
馬超は馬を操るのは前に乗せた馬岱に任せている。この機に乗じて従妹に馬術を仕込もうとしているらしく、拙い扱いをした時は小言を飛ばしていた。馬岱はずっと緊張した様子だが、高順から見ると彼女の馬術も相当なものだった。
「劉備様は曹操様の領内の徐州にて蜂起され、孫策様も江南より軍を進められたというお話です」
順を追って、高順は情勢を解説した。
曹洪の配慮なのか、詳細な戦況が飛脚網を伝って順次高順の元へ流れてくる。軍籍に身を置いていないし、諜報部隊に取り込まれるつもりもないから、普段はあまり気にも留めていない。しかし今回ばかりは有り難かった。
曹操軍窮地の情勢下で、曹仁と霞は戦場だし、恋と音々音は本拠地の許に居住している。劉備と孫策の参戦を知った時には旅程を切り上げての帰還も考えたが、すぐに袁紹軍大破の朗報が伝えられ思い留まった。そして曹操自らが指揮に当たり劉備軍と孫策軍を退けたという情報を得たところで、高順は漢中入りに踏み切ったのだった。漢中に入ると、それまでの様に容易く情報は入らない。漢中から益州の地域にも飛脚は入り込んでいるが、それはか細く、一ヶ月に一人か二人が行き来する程度である。曹洪から指示された今回の行商には、当然それを太くする目的がある。
「騎馬隊で歩兵数万を潰滅させたって? ……いったいどんな手を。指揮はあの曹仁だろうけど」
馬超は反董卓連合の戦で曹仁とは幾度も干戈を交えている。袁紹軍を大破したと話すと、うんうんと考え込み始めた。
二人には、曹操軍がすでに劉備と孫策までも打ち破っていることは明かさなかった。連環馬についても触れていない。それはただの行商人が得るには早過ぎ、詳し過ぎる。
「そっ、そうだ。劉備と孫策といえば、あの噂は本当? 荊州で劉備が孫策軍に乗り込んで、休戦を取り付けたって話」
馬岱が口を開いた。馬超の馬を御す緊張からか、良く回る舌は些か強張っている。
「行商仲間からは、そう聞いていますよ」
「それじゃあ、その時に曹操を一緒に攻めるって盟約でも結んだのかな?」
「反董卓連合の時に顔を合わせたけど、そんなやり手には見えなかったけどなぁ。停戦させるっていうのは、いかにもって感じだけど」
馬超が呟く。
劉備軍の面々は曹仁と親しかったから、高順も許に滞在中は何度も顔を合わせた。それ以前にも徐州では進軍を共にしたし、後に対陣もしている。確かに今回の行動は、高順の知る劉備とも少し違う気がした。
「―――ところでお話は変わりますが、お二方は宗教に興味がお有りなのですか?」
「うん? なんだ、藪から棒に」
「いえ、五斗米道へ入信でも考えておられるのかと」
戦の話が一段落したところで、高順は本題を切り出した。旅程を偽り、違えてまで二人に同行したのはこれが理由だ。
「まさか。あたしが宗教を信じる性質に見えるか?」
「いえ、それはまったく」
「そうだろう。あたし達が漢中を訪ねたのは―――」
「ちょっと、翠姉様」
「―――っ、ええと、……そっ、そんなあたしでも、宗教にはまったりするのかなぁ~、って、ちょっと、興味があってだな。そっ、そうだよなっ、蒲公英」
「うんうん。翠姉様って何でも槍で片を付けようとするところがあるから、張魯様の有り難い説法でも聞けば少しはましになるかなって、わたしが勧めたの」
自若とした馬超の武人の仮面が外れ、一転、馬岱が助け舟を出した。頭と口は妹分の方が回るらしい。
―――馬超、いや、馬騰と張魯か。
わずか二騎での往来となると、曹洪も見逃しているのではないか。
「さあて、あまりのんびりしている時間もない。少し急ごう」
わざとらしく先を促す馬超に、高順はそれ以上の詮索は避けた。
頭の後ろでひとまとめにした馬超の髪が、馬の尻尾に合せて揺れる様を眺めながら、黙って後を追った。
予定通り二日で桟道を抜けると、そこからは軍閥の割拠する西涼である。
三日で馬騰の勢力圏に入り、馬超がどこからか馬を手に入れてきた。そこからは馬超と馬岱もそれぞれ一人乗りでさらに三日間駆け、馬騰の本拠地楡中―――涼州と雍州の境に位置する―――に到着した。
「さあ、付いて来い、高順」
街の入り口で馬を降りると、馬超は中央を走る大通りに足を向けた。
「おいおい、大丈夫か?」
よろめきながら歩く高順に、馬超が心配そうに問い掛ける。
「ええ、御案内ください」
最後の三日は、一日二百里以上も駆け通しだった。馬岱も馬超の手前強がっているが、足元が頼り無い。高順と馬岱が乗ってきた馬はちょうど力を出し切ったというところで、その辺りはさすが錦馬超であった。そして当の馬超と黄鵬という名のその愛馬だけは、むしろ溌溂としていた。
高順は馬に縋りつく様にして―――些か大袈裟な演技も交えつつ―――、馬超に従った。行き付いた先は、大通りの起点となっている屋敷である。そこが、一帯の政の中心となる馬騰の宮殿であった。十日近く旅を共にして信頼を得られたのか、馬超は高順を馬騰に紹介して商いの便宜を図ってくれると言う。
宮殿と言っても中原と比べると質素なもので、中へ通されてもやはり大きな屋敷のようなものだった。洛陽の皇甫嵩の屋敷よりも幾分か広い程度で、装飾の煌びやかさではむしろ劣っている。
玄関脇の客間でわずかに待たされ、すぐに旅装を解いた馬超が自ら案内に現れた。
「こっちだ」
宮殿内に入っても、馬超はぐんぐんと前へ進んでいく。後頭部で揺れる一房の髪を、高順はいくらか早足で追った。愛想に欠ける態度だが、飾らない性格は言いかえれば中原の人間よりも純朴ということで、高順には好ましく思えた。
「ここだ。―――母様の気が紛れるような話を頼む」
戸口に手を掛けた馬超は、そっと小声で言い足した。高順が言葉の意味を察しかねているうちに戸は開かれた。
女性が一人寝台に横になり、寄り添うように男が一人連れ立っている。通されたのは謁見の間などではなく馬騰の私室のようだった。
「馬騰だ。娘と姪が世話になったようだな、賈人よ」
女性が寝台から身を起こして言った。男が身体を支えようとするのを、手振りで拒絶している。
「いえ、お二人のお蔭で楽しい旅となりました」
恭しく、さりとて卑屈に見え過ぎないように高順は頭を下げた。
年齢は読み難い。整った顔立ちだけを見れば二十代とすら思えるほどだが、白いものが多い髪に目を転じればはるかに高齢とも見える。そして身にまとう武威、あるいは気力とでも呼ぶべきものが希薄だった。骨柄から顔付きまでよく似た馬超の溌溂とした生気に触れた後だけに、それは顕著に感じられた。
「中原の品を売っているそうだが、どこから参った?」
男が、さり気無い仕草で高順に椅子と茶を勧めた。高順はもう一度軽く頭を下げ、椅子に腰掛けると馬騰の問い掛けに答えた。
「どこからと申しますか、行商をしながら東は青州、北は幽州、南は揚州まで渡り歩く生活でございます。今回は新たな商路の開拓のため漢中に入りましたところで、馬超様にお会いしました」
「ほう、人生が旅の空か。なかなか壮大だ」
高順が腰を落ち着けたのを確認すると、馬騰は再び寝台に身を倒した。
入室する直前に馬超が口にした言葉の意味が高順にも理解された。臥せりがちという噂は聞こえていたが、馬騰の病はいよいよ篤いようだった。
「行商とはそうしたものにございます」
「そんなものか。……何か面白いものを見たか?」
「そうですね―――」
曹操軍領内の著しい商業の発展や、目を覆うような洛陽の荒廃を高順は上げた。商人が好んで目に留めるような話題だ。
「曹操軍は、常々戦時中であろう? 戦場近くの街に、行商人などが容易く立ち入れるものなのか?」
「城郭に入る際には誰何を受けましたが、敵軍に攻め込まれているとは思えぬほど曹操様の領内は静かなものでしたよ。戦といって臨時の徴税や徴兵はなく、精々が軍への入隊が普段よりも熱心に叫ばれる程度のものですね。民の暮らしはいたって平穏なものでした」
「ふむ、噂に聞いていた通りだな。他には? 曹操領の民の暮らしに、何か他と変ったところはないか?」
「そうですね。夏場はいつも田が実っています。米と麦で、二度作付けするらしいのですが」
「それも噂に聞いたな。確か、天の御遣いの入れ知恵であろう」
馬騰は噛み締める様に何度か頷きを繰り返した。
「藍様、そろそろお休みになられた方が」
四半刻(30分)ほど話したところで、男が馬騰に囁いた。馬騰も小さく頷き返す。
「いや、今日は面白い話が聞けた。―――名は何と申したかな、賈人?」
「高順だよ、母様」
高順に代わって、馬超が口を挟んだ。
「高順か。……そういえば、確かそんな名の武将が中原にいたな」
馬騰の視線が一瞬だけ鋭くなった。
「お主のような長身とは聞いていないが、年齢は合う。年頃を考えれば、成長して背が伸びてもおかしくはないか。ははっ、まさか本人ではあるまいな?」
馬騰が冗談でも言うように笑う。
「陥陣営と呼ばれた御方ですね。曹操様に敗れ、今は天の御遣い様の食客と聞きますが」
「ああ、そういえばそうだった。ずいぶんと詳しいな?」
「それは、同姓同名の世に名の知れた武将ですから。気にもなります」
「そんなものか。しかし、ただの商人というにはお主も随分と鍛え上げていそうだな」
「商人とはいえ、この乱世を一人旅でございますから。いざという時、命と金だけは持って逃げられる程度には」
「へえ、その杖を使うのか?」
馬超が、高順が梱に刺した杖を指差して興味深そうに言った。
「はい、一応。錦馬超様を前に使うなど、口にするのははばかられますが」
「杖か。戦場では見かけない武器だ。―――ちょっと持ってみても良いか?」
「ええ、どうぞ」
馬騰は口を噤んで、娘と高順のやり取りを見守っている。名についてそれ以上追及する気はないようだった。姓も名も、特に珍しいものではない。偽名を使おうという気が、高順にはなかった。
「私も戦場に立てと言われれば、杖は選ばないでしょう。あくまで商人の護身術です。もう少し大きな商売を動かせるようになりましたら、護衛でも雇うのですが」
高順の本来の得物は曹仁の見様見真似の槍である。杖も杖術ではなく、槍と同じように扱う。間合いの違いこそあれ、使い勝手は悪くなかった。
「あっ、高順さん、もう呼ばれてたんだ?」
訪いも入れずに馬岱が部屋に滑り込んだ。
馬超と同じく旅装を解いている。旅装もそうであったが、着ている服から身に付けている小物まで、ほとんど馬超と色違いのお揃いだった。
「馬岱様。これは、早速お使いいただいているようで、有難うございます」
唯一馬超にはない装飾が、髪に刺した花を模した髪飾りで、それは先日高順の店で買ったものだった。
「あっ、気付いた? へへっ、似合うでしょう?」
言葉の後半は馬騰や馬超、そして男に向けて放たれた。
「ええ、よくお似合いです」
「えへへっ、そうでしょう」
男が答えると、馬岱は意味あり気な微笑みを浮かべて馬超を見やる。
「……高順、髪飾りはまだあるのか?」
馬超が頬を赤らめながら言う。
「ええ、漢中では残念ながら全く売れませんでしたので。お見せしましょうか?」
「ああ」
「ほう、翠が髪飾りなど欲しがるとは珍しい。ようやく年頃の娘らしい興味がわいてきたか?」
「藍伯母様、それ違う。翠姉様は本当は前々から女の子らしい格好に興味はあるんだよ。ただ自分には似合わないとか変に卑屈になったり、恥ずかしがっているだけで」
「ふむ。言われてみるとそうかもしれんな。私はてっきり女の部分は私の胎の中に置き忘れていったものかと思っていたが」
「ほ、本人を前に、おかしな話をするなっ」
やり取りを尻目に、高順は梱を明けると、卓を借りて商品をいくつか並べた。
「馬超様、どうぞ」
「あ、ああ」
「……確かにこの辺りではあまり見ない造りだな」
真剣な表情で一つ一つを吟味する馬超の横から覗き込んで、馬騰が言った。
「こちらの商品は、曹操様の御領地、許県で仕入れたものです」
「ふむ、曹操の本拠だな」
「ああー、駄目だ、選べん。そうだ、蒲公英。お前が選んでくれよ」
馬超が頭を抱えた。
「ええー、わたし? それより、廉士兄さんが選んだ方が良いんじゃない?」
「私ですか?」
「ささっ、お姉様に似合いそうなのを。お姉様も、それで良いよね?」
「あ、ああっ」
「―――そうですね」
馬岱に商品前へと押しやられて、男が髪飾りを手に取った。廉士というのが男の名らしい。響きからして真名であろう。
「それでは、こちらを」
馬岱が髪に刺しているのとよく似た、花を象った物を男は選んだ。
「あっ、あたしには可愛すぎないか?」
「いえ、よくお似合いだと思いますよ」
「そ、そうか」
「それと、これは藍様に」
「うむ」
男は今度は装飾の少ない地味な髪飾りを一つ取り上げ、馬騰へ渡した。
馬騰は軽く頷いてそれを受け取ると、無造作にそれを指した。濃紺の髪飾りが、白い髪に映える。
「高順殿。お代はいかほどか? ここは、私がお出ししましょう」
「ええーっ、ずるいっ。ならわたしも」
「では、以前お買いになった分のお代を私がお出しします」
「う~」
馬岱が恨めし気な視線を男に向ける。
「私が言うのもなんですが、それはあまりに無粋というもの。お一つ、馬岱殿にも―――貴方様がお選びになられては? 皆様とお知り合いになれた記念に、三つで二つ分のお値段におまけします」
「それでは、ご厚意に甘えましょう。私は龐徳と申します」
高順が呼び掛けに悩んだ仕草を見せたからか、男が名を名乗った。
馬騰の従者のように振る舞っているが、龐徳という名は錦馬超ほどではないにせよ、馬騰軍の武将として知られた名だった。
「さて、西域の物産を扱う者と取引がしたいのだったな、高順」
馬岱の髪飾りを選んだ龐徳からお代を受け取り、暇を告げた高順に馬騰が言った。
「はい。大月氏、それに大秦の品は、中原では高値が付きます」
「そうか。何人か私が紹介しても良いのだが」
そこで馬騰は一度言葉を切って、何か考え込んだ。
「ここよりさらに西、中華の西端には私の義姉の韓遂が陣取っている。周辺異民族との交流も深い。私の母も羌族だが、付き合いで言えば私以上だ。紹介状を書いてやろう。西域の商品を扱いたいなら、私よりも韓遂の斡旋の方が具合が良かろう」
「それは、ありがとうございます」
馬騰と韓遂。言うまでもなくこの二人が西涼の二大巨頭である。
馬騰に続いて韓遂にも会えるというのは、僥倖だった。商売をする上で、土地の顔役と関係を作っておけるのは有り難い。当初の予定とは違うが、涼州伝いの交易路を高順は開拓するつもりになっていた。咄嗟に間諜紛いの働きをしたが、商いで健啖家の姉と口うるさい妹を食わせていくことが今の高順の第一の目的である。
馬騰が指示し、龐徳がしたためた書簡を受け取ると、高順は宮殿を出た。馬超と馬岱には一夜の休息を勧められたが、丁重に辞退した。馬騰は高順の名に対する不審を完全に払拭したわけではないだろう。長居は避けたかった。
封をされた書簡の内容も気に掛かる。馬騰が龐徳に耳打ちした文面は、高順の耳にまで届かなかった。
開封して、気付かれないように戻す術もないわけではない。この仕事に関わると決めた時に、曹洪の配下の者からそうした手管は教え込まれていた。
「……まあ、なるようになるか」
呂布軍が地上より姿を消してからは何か吹っ切れたような気持ちがある。自棄というよりは自由で、いくらか大雑把で適当になった。
高順は荷物の奥に、そのまま書簡を放り込んだ。