「袁紹様、いつまでこうしてお籠もりになっているおつもりか。少しは兵の前に姿をお見せください」
今日も無遠慮に室内まで踏み込むと、田豊が詰め寄ってきた。
痩せぎすの身体で叫ぶ声は甲高く、耳に痛い内容と相まって煩わしかった。
「田豊殿、少しは落ち着かれては?」
対して、田豊を追って姿を見せた審配は、落ち着き払った口調で言う。
「なにも自ら陣頭に立って兵を励ますだけが主の役割ではございますまい。むしろそのような些事は、将の将たる袁紹様には無用のもの」
「何が将の将かっ、言葉を弄ぶでないわ! 高祖も光武も、自ら前線に立って天下を手に入れたのだ」
「過去の偉人を無暗に崇め奉りますな。すでにして袁紹様はこの乱世において最大勢力を有し、彼らに比肩する王者なのです。そもそも、このように敵地まで攻め込まれる必要などなかったのですよ。河北にて悠然と構え、詔勅を発し各勢力に帰順を命ずればよかったのです。さすれば自ずから聖王の威徳に天下は平伏したでありましょう。いえ、今からでも遅くはありますまい。袁紹様には詰まらぬ戦場など捨て置いて、鄴にて天下の政を為して頂きましょう」
審配の言葉はいつも麗羽の耳に心地よかった。二度の大敗を喫し、かつての同僚淳于瓊を失った戦場に踏み止まることは、すでに麗羽にとって苦痛以外の何ものでもない。
「馬鹿な事をっ! この戦に負ければ、もはや天下は曹操のものよ! 座して手に入る天下がどこにあるか!」
「異な事を。張郃将軍は、田豊殿のお気に入りでしょう? それに田豊殿の御盟友沮授殿からは新兵と替えの馬をお送り頂いております。いまだ我らの戦力は圧倒的。戦場は張郃将軍にお任せになってもよろしいのでは?」
二度目の大敗の後、袁紹軍は再び白馬砦へと後退した。今は張郃の指揮の元、軍の再編を押し進めている。
連環馬を逆手に取られ一万頭以上の軍馬を失ったが、兵は十頭ごとに二人ずつを騎乗させていただけであるから、騎兵自体の損失は少なかった。そのため急遽馬を買い集め、七千騎の騎馬隊の再編成が可能であった。蹋頓の伝手で北方から買い入れた馬はいずれも身体が大きく良馬揃いで、かえって以前の騎馬隊よりも見栄えがするほどだ。
歩兵は、鄴に残る徂授が新たに組織した一万の新兵が加入している。
袁紹軍は歩兵十三万に、騎馬隊は二万五千にまで回復していた。それに烏桓の二万騎が加わる。官渡の曹操軍は歩兵六万五千に騎兵が一万五千騎であるから、二度の大敗を経てなおも二倍以上の兵力を有している。審配の言は正しく、袁紹軍はいまだ圧倒的に優勢であった。
連環馬も対抗策が曹操軍自らの手ですでに明かされている。戦場から白馬まで軍を後退させた時でさえ、華琳は追撃を掛けてはこなかった。大敗を重ねた袁紹軍がこうして華琳の領内に居座り続けていられるのも、結局はまともにぶつかれば此方が勝つからだ。―――勝利は揺るぎ無い。
「その慢心に、何度足をすくわれたことか―――」
冷や水を浴びせるように田豊が言う。
「王者の豪胆と思って頂きたいものですな―――」
小気味良いことを審配が返す。
そうして二人は一刻(30分)近くもお決まりのやり取りを続け、退室していった。
「毎日毎日、飽きもせずに」
麗羽は寝台に身を投げ出した。
「ううっ、固い」
綿の薄い寝台に、麗羽は思わずこぼした。
「仕方ありませんよ、ここは宮殿ではなく軍営なんですから」
猪々子が耳聡く聞き留めた。
白馬砦は戦のための要塞で、太守や州牧の居城とは異なる。城郭内に民の住まう街区は存在せず、代わりに兵舎と倉庫が立ち並ぶ。宮殿もないため、麗羽の私室として用意されたのも軍営の一室である。指揮官用の部屋であるからそれなりに広くはあるが、室内には固く小さな寝台と書き物机、長方形の大きな卓があるだけだった。
「はぁ、ここはいっそ、審配さんの言う通り鄴に戻ろうかしら」
「ええっ、帰るんですか、麗羽様っ!?」
今度は斗詩が聞き質す。斗詩と猪々子の二人は、護衛を兼ねた従者として常に麗羽の側近くにある。
「―――っ、まさか。これは華琳さんとの天下を賭けた大勝負。私が席を外すわけにはいきませんわ」
張郃が代わりに戦に勝ったとしても、ここで鄴へ引きあげれば麗羽の中には華琳に負けたという思いが残るだろう。
「いえ、後方に座して将に委ねるも王の戦、なのかしら?」
ふと、審配の言葉が脳裏に蘇ってくる。
戦にはどうせ勝てる。苦しい思いをしてまで戦場に留まり続ける意味があるのか。
「いえっ、ここで下がれば、あの華琳さんのこと。私が尻尾を巻いて逃げたと嘲笑いますわっ」
自分を嘲る華琳の姿を思えば、むくむくと闘志が立ち上がってくる。
「う~ん、でも、しかし―――」
「袁紹様っっ!」
「―――っ、なっ、何ですの、二人して?」
退室したばかりの田豊と審配が、今度は二人並んで駆け込むと、声を揃えた。
「官渡に曹操軍の増援がっ!」
やはり声を揃えて二人は叫んだ。
「単于、よくぞお越しくださった」
蹋頓が張郃の本営を訪ねると、卓へ向かい書き物をする彼女に代わって高覧が応対した。
室内に人は多いが、高覧の他は全て張郃の使う副官や従者らしい。蹋頓の訪問に椅子や茶を用意し始めたが、動きにばたばたと無駄が多く、手慣れた様子はない。率いる兵が膨れ上がったため、急遽側近の数も増やしたのだろう。
袁紹も二枚看板も部屋に籠もって姿を見せない現状、全軍が張郃の差配に委ねられている。
「高覧将軍。―――あれは?」
「張郃将軍の、日課のようなものですな。申し訳ないが、しばしお待ち頂いても?」
高覧に勧められ、蹋頓は椅子に腰掛けた。
「それは構わぬが、何をしているのだ?」
筆を走らせる張郃の隣で副官らしき男が何か読み上げている。耳をそばだてると、それは次第に詳細が明らかとなってきた曹操による劉備軍討伐戦の戦況らしい。
驚くべきことに曹操は官渡の戦線を残る将に任せ、自ら劉備軍、そして孫策軍との戦の指揮に赴いたという。張郃はそれを手ずから地図に書き込んでいく。
「曹操の戦の研究、だそうです。ああして戦の詳細を書き残し、幾度も頭の中で繰り返すのだとか」
従者の読み上げる戦況はすでに終盤に差し掛かっている。
重装歩兵の円陣の狭間に中核の精鋭五千を誘い出された劉備軍が、張遼の騎馬隊に前後から強襲を受ける。張遼自ら率いる前方を避け、後方の五千騎へと劉備軍は果敢に突撃した。危地を脱するも、今度は一万騎をひとまとめにした張遼が即座に後背を突く。一万騎に追い立てられてなお五千は踏み止まるも、分断された残りの兵が重装歩兵を前に先に崩れた。数だけは二万五千と多いが、劉備の盛名を慕って集まったばかりの雑兵である。劉備軍の将が率いればこそ軍の体を成していたが、指揮系統が断たれれば後は脆い。これ以上の抵抗は無駄と悟った精鋭五千も、二万五千に紛れるように兵を散らす。
そこで張郃は筆を置いた。
以降は追撃戦へ移行するが、さすがに詳らかな情報は入っていない。また、曹操の指揮もここまでだろう。この後曹操は、忙しなくも孫策との戦場へと馳せる。
卓上に広げられている地図は、当然劉備軍と曹操軍の交戦があった下邳城周辺の地図なのだろうが、判然としない。蹋頓は訪れたことの無い土地であるし、そうでなくとも真っ黒になるまで書き込まれた戦況が地形の大半を覆い隠していた。
蹋頓は漢語を解するが、烏桓族は元来文字を持たない。研究のために戦を文字に起こすというのは蹋頓には理解し難い行為である。
「―――っ、これは単于。お越し頂いていたとは」
よほど集中していたらしく、張郃は顔を上げて蹋頓を見止めると、驚きの表情を浮かべた。
張郃からの会談の申し入れは三度目で、過去二回は理由を付けて断ってきた。
烏桓は袁紹軍の同盟相手である。対等なものではなく、袁紹を主、蹋頓を従とするものではあるが、袁紹軍の一部将に過ぎない張郃の呼び出しに軽々しく応じるわけにはいかない。三度目にして重い腰を上げた、という形をとった。
張郃が副官や従者達を下がらせた。場に残ったのは、張郃と高覧、そして蹋頓のみとなった。
袁紹が私室に籠もり切り、二枚看板と呼ばれる文醜と顔良がそれに付き従う限り、この三人が次の戦の中心ということになる。
袁紹軍が白馬にて軍の再編を進める間に、劉備軍と孫策軍の脅威を払った曹操軍も官渡城に軍を集結させていた。
孫策軍を南へ追い返した夏侯惇が、長江北岸に備えの二万を残して歩兵二万を伴い合流した。徐州からは張遼の騎馬隊一万に、楽進の重装歩兵一万が戻っている。
元々官渡に布陣していた曹操軍は、曹仁の騎馬隊一万騎と歩兵二万に、張燕の一万五千、于禁の二万。それに曹操旗下の本隊が騎馬隊五千騎と歩兵一万。これらの軍勢は二度の決戦でまったく犠牲を出してはいない。
合わせて曹操軍は騎兵が二万五千騎に、歩兵が九万五千に及んだ。
対する袁紹軍は歩兵十三万に騎馬隊二万五千であるが、あくまで数の上での話だ。
新たに編成した騎馬隊七千騎は、馬の調教が十分とはいえず、牽制に使える程度のものである。袁紹の依頼で蹋頓が北方の馬商人と渡りをつけた。買い入れられた馬は以前からの軍馬よりも一回り大きく脚も強いが、兵と馬が馴れるまではそれは欠点でしかない。また、曹操軍の連環馬からの生存者を再編成した歩兵二万は、やはりどこか腰が引けている。張郃も心得たもので、二万と七千騎は本体から切り離して、遊撃の扱いとしていた。
実質的には袁紹軍の兵力は、歩兵十一万と騎兵一万八千である。そこに烏桓の二万騎も加わるとはいえ、すでに兵力は曹操軍と拮抗していると言って良い。袁紹軍に残されているのはほんの僅かな優位で、それは用兵次第でいくらでも覆るものだった。
「して、如何に戦うおつもりです?」
「まずは我が軍は歩兵を私が率い、騎兵の指揮は高覧将軍にお任せします。高覧将軍には敵騎馬隊の動きを封じ、歩兵の戦への介入を防いで頂く。単于も、同じく騎馬隊に当たっていただけますか?」
蹋頓は小さく頷き返して了承の意を伝えながらも、尋ねた。
「歩兵は歩兵、騎兵は騎兵で戦をするということですな?」
「はい、歩兵と騎兵の連係ではあちらが上です。それに、それだけ軍略が入り込む余地となります」
張郃は、今後の戦の要訣を良く理解しているようだった。蹋頓はやはり首肯して賛意を示しながらも問い掛ける。
「しかし、私が見るに曹操は漢土随一の戦上手でしょう。歩騎の連係を切るだけでは、まだ足りぬのでは?」
「曹操に、戦をさせません。混戦に持ち込み、用兵の余地を奪います」
「ほう」
漢土の武将にしては珍しい腹の据え方だった。漢の将は陣形を整えることに腐心するあまり、それがあくまで戦に勝つための手段の一つに過ぎないことを忘れる者が多い。
一方で烏桓や匈奴の兵は陣形を軽視し、隊列が乱れようと我先にと馬を走らせる。蹋頓が苦労して用兵を教え込んだのが、今回率いる二万騎だった。
「混戦となれば数と士気が物を言います。そして勝ち戦で兵は命を惜しむもの。我が軍に二度、そして劉備軍、孫策軍にも見事過ぎる勝利を飾った曹操軍の兵に、すでに決死の覚悟は失われておりましょう」
「とはいえ、それでこちらに利があるわけでもありますまい。わずかに数に勝るとはいえ、敗走を重ねた兵の消沈は大きい」
「そこはまあ、袁紹様に何とかして頂こうかと」
「袁紹様に?」
「ええ。早く御不興を払われて、兵の前に姿を見せて頂ければ」
堅物の印象が強い張郃が、珍しく冗談を口にする。
「ふふっ、それだけで意気が揚がるほど、兵も単純ではないでしょう」
「では敵を討ち取った兵への特別な恩賞を出しましょうか。戦死した場合には遺族への支払いも約束して」
「それならば、兵は奮起しましょう。混戦となれば先を争うでしょうし、負傷した兵は相打ちを狙いましょうな」
「あとは、大きな勝ちを狙いません。我が軍の二度の敗戦。劉備軍と孫策軍。それに古くは呂布軍も。曹操軍の戦を分析すると、相手が大きな勝利を狙ったその瞬間に、逆転の一手を打つ。これが非常に多いのです。なれば、五分の分けか、小さな勝ち、小さな負けを繰り返します」
「ふむ、恩賞の約束で奮起した兵が混戦に徹すれば、相手が曹操であっても不可能ではないかもしれぬな。しかし、それでどうされる? 五分の戦をいくら続けたところで、徒に数を失うばかりではありませんか?」
「構いません。今、両軍ともに十万を越える兵を有し、兵力差はわずかです。しかし消耗戦を繰り返し、曹操軍の兵が半数まで減った時、―――その時なおも今の兵力差を保てていたなら、それは絶対の差となります。そこで、勝負を決します」
「……恐ろしい事を言う。つまりは五万の兵に、一人殺してから死ねと」
「その通りです。単于が先程仰られたとおり、曹孟徳は今や間違いなく中華一の軍略家でしょう。私には他に取れる手がございません」
張郃は平然と非情の計画を明かして見せた。
「賛同はしかねますな。いや、貴殿らがやる分には好きにすれば良いが、私の兵を犠牲には出来ん」
「もちろん、援軍の単于にそこまで協力して頂くつもりはございません。あくまで、高覧将軍の騎馬隊の援護をお願い致します」
膝の上できつく握り締められた張郃の拳は、白く色を失っている。平静を装ってはいるが、さすがに心中穏やかとはいかないらしい。
「張郃将軍の献策が容れられていれば、そのような惨い策を取らずとも済んだものを」
「単于、それはもう、言っても仕方のないことです」
過去二度の大敗の後、張郃は即座に攻勢に出ることを袁紹に進言している。
「しかし曹操遠征中の一ヶ月余り、あれは間違いなくこの戦最大の好機であった」
「結果論です。曹操の不在など誰にも予想出来ようはずがありませんし、歴戦の劉備軍と孫策軍が容易く打ち破られるなど私には想像もつきませんでした。一方で初めに三倍の兵力を有して曹操軍と対峙した時も、そして二万頭の連環馬を揃えた時にも、我が軍の誰もが勝利を確信しておりました」
「―――ほう。素気無く斥けられたというのに、ずいぶんと庇われますな。もし曹操なら、貴殿の策を容れて攻勢に出たと私は思いますが」
「我が主が曹操なら、私はそもそも攻勢を進言してはおりません」
「ふむ、確かに曹操であれば進言されるまでもなく、飛び出しておりましょうな」
「単于は、勘違いをしておられる」
張郃が大きく首を振った。
「あの大敗の後、無理に軍を動かしたところで兵の士気は上がらず、犠牲は拡がるばかりでしょう。それでも曹操ならば軍略と兵力差にものを言わせて、勝利を掴むかもしれません。しかし、我が軍にあれほどの将才は存在しません」
「では、曹操の采配無くして勝ち得ぬ戦を、張郃将軍は進言されたか?」
「袁紹様あればこそ。我が主は戦の采配では、曹操に劣ります。政を為しても曹操が上でしょう。しかし兵を鼓舞し民を熱狂させるなら並ぶ者もございません。先ほど単于は笑って流されましたが、袁紹様が戦えと、兵に一言お声掛け頂ければ、大敗の陰りも吹き飛ぶのです」
「ははっ、ついでにあの馬鹿―――高笑いの一つも上げて頂けば完璧であろうな」
高覧が当然と言う顔で言い足す。二人は、冗談を口にしたわけではないようだった。
―――非情の策を口にした将が、今度はずいぶんな楽観を言うものだ。
蹋頓には到底、袁紹にそれほどの器量があるとは思えなかった。
蹋頓含む袁紹軍の全首脳に軍議の招集があったのは、そんな感想を抱いた翌日のことだった。
―――華琳に、負けるかもしれない。
いや、それ以上に衝撃なのは、華琳が自分との戦線を放り出し、劉備や孫策との戦に駆け回っていたという事実だ。
華琳は、麗羽が幼少の頃より思い定めた好敵手だった。私塾でも朝廷の出世競争でも、いつも麗羽が一歩先を行った。それは優越感と共に、相手にされていないだけではないのか、という疑念を常に抱かせた。
無視出来るはずのない大軍を持って、戦いを挑んだ。それでなおも捨て置かれたなら、やはり今までの全ても自分一人の空回りだったのか。
「ここは一度、鄴にお戻りになるべきでは?」
いつも麗羽の思考を深く読み、麗羽にとって都合の良い発言をする審配の語尾が弱い。自分がどうしたいのか、麗羽自身にも分かっていないのだから当然だろう。
数日振りに私室へと押しかけた田豊に強引に引っ張り出された。連れ込まれた軍議の間には、武官も文官も、主だった者は全て揃っている。
張郃を筆頭とした武官達は、審配の発言に眉をひそめていた。視線は自然と対抗馬の論客として田豊の元へ集まるが、珍しく鉄火肌の彼女に動く気配がない。
「いまだ兵力では我が方が有利。ここで決着を付けるべきです」
仕方なくという態で、張郃が代わりに声を上げた。
「そう思われるのなら、張郃将軍はこの地にお留まりになれば良い。兵も残していくので、戦もご随意に。王である袁紹様が、いつまでも最前線に留まる必要はありますまい。先兵として将軍が均された地を、追って踏み固められれば良い」
「それでは兵にまとまりが―――」
「指揮を委ねられた以上、兵をおまとめになるのも張郃将軍のお役目では?」
論敵を得たことで勢い付いた審配が語気を強めた。
「―――袁紹様」
そこでようやく、田豊が口を開いた。審配が身構え、武官達は期待の視線を向ける。
「……いまだ地力は私たちの方が上です。河北にてしばしご休息頂ければ、その間に兵力でも物資でも、再び曹操軍を圧倒することが十分可能です。いえ、私たち文官が、必ずやそうして見せます」
「田豊さん?」
一瞬、何を言われているのか分からなかった。
いつも目一杯胸を反らして小さな体を少しでも大きく見せようとする田豊が、斬首を待つ囚人のように頭を垂れている。
「白馬という橋頭堡を得られたことは、決して小さなことではございません。まずは数万の兵を残し、この地を維持致しましょう。それを持って、今回の戦の戦果としようではありませんか」
「田豊様っ」
張郃が叫ぶ。田豊は、この戦はここで終わりだと告げていた。
「田豊様は、長期戦は曹操を利するばかりと、そう仰られていたではありませんか。かつての御自身の発言をお忘れですか?」
張郃の指摘通り、田豊はかつて、長期戦の不利を語り短期決戦を進言している。曰く、ここまで急速に国力を挙げてきた曹操軍は、時を与えれば与えただけ強大に成長すると。その田豊が、今度は逃げて長期戦に持ち込めと言っていた。つまりそれだけ、現状の袁紹軍に勝機を見いだせないということだろう。
「すまぬ、張郃。あれは、我ら文官の怠慢であった。曹操軍の成長が速いのなら、我らもそれに負けず努めよう。次なる戦では、必ずや再び二十万を超える兵を編成し、お主に率いさせてみせよう。地力では、間違いなく我らが上回っているのだ」
その地力の差がいつまで続くか知れたものではないと主張したのが、過去の田豊である。それでも必ずやと、田豊は眉間に悲壮感を漂わせ繰り返した。自信など微塵も感じさせないその表情が、かえって田豊の覚悟を物語っていた。
その顔は信じられる。麗羽はそう思った。それでも―――
「―――田豊さん、そういえば私、あなたの真名を聞いておりませんでしたわね?」
「こんな時に何を?」
「いえ、淳于将軍、―――仲簡さんとは長い付き合いでしたのに、結局真名を預け合うことなくお別れとなってしまいましたわ」
「淳于将軍の仇は、次の機会にて必ず―――」
「―――勝ちたいですわ」
絞り出すような声が漏れていた。
華琳に負ける。いや、皆がすでに負けたと思っている。だからって自分までそれを認める事は出来ない。
「袁紹様?」
「私は勝ちたいのですわ。ええ、退いてなどやるものですか」
そこからは、堰を切ったように言葉が口をついて出た。
子供の頃、試験の結果では負けたことは無かった。出世競争でもそうだ。いつも二位に甘んじている華琳が、抜かれぬように必死で学ぶ自分を端から歯牙にもかけていないように思えて、いっそう腹立たされた。
「それでも、これまで一度だって私は華琳さんに負けてはおりませんのよ。でも、ただの一度だって、本気で勝ったと思えたこともない」
麗羽は、本当の自分を曝け出した。
ずっと華琳に対して劣等感を覚えていたこと。名門の出を嵩にきて、本気の戦いの場に立つことを避け続けてきたこと。王道を口にする審配の言葉に乗じて、戦わずして華琳に勝つ事を夢想したこと。正々堂々の決戦を口にしながら、劉備軍と孫策軍の介入にほっと胸を撫で下ろしたこと。―――そして、今だって本当は逃げ出したいと思っていること。
「でも、今ここで逃げ出したら、―――負けを、認めてしまったなら、私はもう一生華琳さんには勝てない。そんな気がするのです」
偽らざる本心を吐き切った。興奮が冷めると、麗羽は羞恥と少しばかりの疲労感に肩と頭を落とした。
顔を上げるのが怖かった。将は、どんな目で自分を見つめているのだろう。嘲ってはいないだろうか。
名門を鼻にかけた尊大と無頓着に、いつも麗羽は守られていた。それをかなぐり捨てた今、諸将の目に、自分はどう映るのか。麗羽は、生まれて初めて他人の視線に曝されていると感じた。
いつの間にか、左右に侍らせた斗詩と猪々子の手を握っていた。二人は何も言ってはこないが、強く握り返してくる手が、何があろうと味方だと告げていた。
麗羽は、ゆっくりと顔を上げた。
「―――勝ちましょう」
囁くような小声で、最初にそう口にしたのが誰なのかは、分からなかった。
次の瞬間には、勝利を誓う言葉が、室内いっぱいに、爆発的に広がっていた。一度は退却を口にした田豊も審配も、拳を振り上げ叫んでいる。
「麗羽様、顔、顔」
「―――っ」
猪々子に言われ、慌てて口元を引き締めた。しかし、否応なくすぐに緩む。ぽかんとだらしなく開いた口が塞がらない。
「袁紹様、その御心を、兵の皆にもお伝えください」
張郃が、麗羽の足元に滑り込むように跪いて言った。
「兵の皆に?」
「はっ! 僭越ながら、閲兵の準備を調えてございます。練兵場に全ての兵が整列し、御姿をお待ちしております。一言、勝ちたいのだと、そうお伝えください! さすれば我ら一丸となって、勝利を掴み取りましょう!」
「―――ええ、分かりましたわ。張郃さん、先導を」
「はっ」
「斗詩、猪々子、お供を。他の皆さんも、私に付いていらっしゃい! ―――さあ、勝ちますわよっ! おーっほっほっほっ!!」
全員を引き連れ歩き出すと、麗羽は再び尊大に高笑いを上げた。