袁紹軍は三度決戦の大地に降り立った。
三度目ともなると舌戦が繰り広げられることもなく、粛々と戦は始められ、すでに三日が経過している。かねての計画通り張郃が歩兵十万を率い、騎馬隊の指揮は高覧に委ねた。本陣には歩兵一万に加え、遊撃の歩兵二万と七千騎を残している。
互いに連環馬を警戒し合って、歩兵の陣の内に幾本か溝を走らせている。軽騎兵なら脚を取られることはほとんどないが、それでも足並みは乱れる。必然的に歩兵は歩兵、騎兵は騎兵と主戦場を分けての戦となった。
張郃は十万の歩兵を五段に分けて守りの構えを取った。対して曹操軍は夏侯惇の二万と于禁の二万、張燕の一万五千に楽進の重装歩兵一万、―――総勢六万五千の四隊で攻め立てる。夏侯惇と楽進が前線をぐいぐい押し込んでくる。黒山賊の張燕とは均衡を保ち、于禁はいくらか袁紹軍優位に抑え込んでいる。
他に曹仁隊の歩兵部隊二万が存在するが、これは歩兵同士のぶつかり合いには加わらず、騎馬隊の戦場の補佐に回っている。
曹仁と張遼のそれぞれ一万騎からなる曹操軍の騎馬隊は、高覧の一万八千騎と烏桓兵二万騎という倍の兵力を相手に、互角の戦を展開している。歩兵の援護もあるし、何より指揮が際立っている。呂布が戦場を離れた今や、曹仁と張遼は騎兵を率いては中華の双璧だろう。時には果敢に歩兵の戦への介入を試みて、それを身を持って高覧隊が防ぎ、蹋頓が助けるという状況が見られた。
「――――! ―――!」
前線で怒号が巻き起こり、兵が宙を舞った。夏侯惇とその旗本が、前面に姿を現している。五段に構えた張郃の布陣の、すでに第三段にまで夏侯惇は到達していた。
騎兵百騎に歩兵が四百の夏侯惇の旗本は、袁紹軍には対抗し得るものの無い精鋭中の精鋭である。先頭を駆ける夏侯惇個人の武勇も、手の付けようのない域にある。武術では袁紹軍内で二枚看板に次ぐと称され、その自負もある張郃であるが、あの大剣の正面に立ちたいとは思わない。抗わずに駆けさせ、後続の軍をしっかりと抑えて孤立させるが上策であろう。
「第一、第二段は前進! 今こそ、敵兵の首を袁紹様に捧げよ!」
張郃は夏侯惇に破られた前線二段に攻勢を命じた。陣形を乱されたまま攻撃に転じれば、当然さらに隊列は崩れ混戦を呈する。構わず前へと押し出した。
「―――――――――!!!」
湧き上がった喚声は大きい。
すぐに混戦の波は全体へ広がり、前線は敵味方入り乱れての殺し合いの様相を呈した。そうなってしまえば、勝ち戦を重ねた曹操軍の兵の腰は引ける。そして先日の袁紹の演説を受け、袁紹軍の兵はこれ以上ない程に高ぶっていた。今は混戦に利がある。
指揮官不在の夏侯惇隊をまず押し返し、陣を組んでこそ活きる重装歩兵の楽進隊も乱れる。新兵中心の于禁隊は一層押し込んだ。一方、賊徒出身の張燕隊は混戦に強く、その場に踏み止まっている。
視界の端で騎馬隊の動きを捕えたが、今は高覧と蹋頓を信じて委ねるしかない。
混戦で、討てるだけ討ち取らせる。
第三段をも抜いた夏侯惇が、孤立を恐れてか、あるいは後続の被害拡大を避けてか、次の第四段にぶつかる前に踵を返した。それも、抗わず下がらせた。
追撃で夏侯惇の首とまではいかないまでも、精鋭の旗本をいくらかでも削り取りたい。その当然の欲求を、張郃は抑え込んだ。戦果を望んで動けば、どこかに大きな落とし穴が隠されている。曹操との戦とはそうしたものだろう。
夏侯惇が合流を果たすと、そのまま夏侯惇隊は兵をまとめて後退した。他の曹操軍の隊もそれにならって陣を下げ、仕切り直しとなった。大いに攻め込まれたが、最終的な兵の犠牲は五分であろう。
三度目の戦であるが、本格的な兵と兵とのぶつかり合いは今回が初めてとなる。
調練に手を抜いた覚えはないが、練度で言えば袁紹軍の兵はやはり曹操軍に劣る。実戦経験の差だろう。陣を組んでのぶつかり合いで勝てない分を、士気旺盛に混戦で盛り返していた。
張郃の想定とは異なる論調ではあったが、袁紹の弁舌の効果は抜群である。悲壮感を薙ぎ払う暴風のような、あるいは力任せに希望を照らし出す太陽のような常の演説も良いが、初めて弱さを曝け出した麗羽の姿―――張郃ら諸将は戦に際して真名を預けられた―――は、それだけに兵の心を激しく揺さぶった。主君の見せた弱気に一時忠誠心が揺らぐ者もあったかもしれない。しかし結果として、二度の大敗を経験した兵は麗羽の心情に同調し、そして再び放たれた高笑いに血を滾らせた。
麗羽と共に挫折と再生を経験した袁紹軍は、これまでにない強さを手にしていた。
高覧の一万八千騎を挟み込む様に対峙していた騎馬隊の一方が動いた。紺碧の張旗は、張遼騎馬隊だ。高覧が慌ててそれを追い、さらに遅れて曹仁隊が続く。
「―――行くぞ」
少し離れた位置から三隊の動きを見届けた蹋頓も、おもむろに軍を進発させた。
張遼隊の向かう先は、袁紹軍歩兵部隊の第四段である。すでに夏侯惇とその旗本が第三段を突破しつつある。張遼が第四段を蹴散らせば、張郃のいる第五段は丸裸となる。
張遼が歩兵部隊にぶつかる直前、ぱらぱらと疎らな騎馬隊が割って入った。高覧隊が、馬を限界まで疾駆させて張遼隊の先回りに成功していた。
張遼が進路を変えた。歩兵から騎馬隊へと狙いを切り替えている。あるいは、初めから歩兵部隊への突入は誘いであったか。
急行し縦に伸びた高覧隊を突き抜け、さらに返す刀で二度三度と貫く。蛇が絡みつく様に高覧隊は断裂させられた。
あれだけ味方にまとわりつかれると、騎射は使えない。蛇の頭―――張遼を抑えに掛かる。蹋頓が弓から刀へ持ち替え頭上に掲げると、兵も一斉にそれにならった。
「―――ちっ」
蹋頓は小さく舌打ちした。
伸び切って視界を塞ぐ高覧隊の影から、曹仁隊が飛び出してきた。
蹋頓は一万騎を副官に任せ、高覧隊の援護に向かわせた。自身は残る一万騎を率い、わずかに迂回した後、急速に馬首を巡らせた。刀から弓へ、再び持ち替えている。
曹仁は高覧援護の一万騎を捨て置き、蹋頓の一万へと進路を向けた。曹操軍の騎馬隊は弓騎兵対策をかなり練ってきている。曹仁があと一歩遅れていれば、蹋頓は左斜め前方にその背中を捉えることが出来た。
敵騎馬隊の右斜め後方に付ければ、騎射では一方的な攻撃が可能となる。弓騎兵側は最も得意とする左斜め前方へ矢を射れるし、追われる側は前へ逃げれば延々と騎射の間合いに曝されながら追撃を受けることとなる。対処法は逃げずに距離を詰めるか、隊を散らすかといったところだが、いずれにせよある程度の犠牲は必要となる。
蹋頓の用兵を回避した曹仁は、一万騎の横腹を掠める様にして馳せ違っていく。それも、しっかりと騎射のこない右側を選んでいる。
左回りに半周すると、同じく馬首を巡らした曹仁隊を捉えた。今度は左斜め前方。しかしわずかに遠い。十数歩追ったところで、蹋頓は騎馬隊の脚を止めた。
曹仁隊の向かう先に歩兵部隊が待機していた。騎馬隊を陣の内に収容すると、びっしりと楯が並べられた。
男と目が合った。白馬に白い具足。一人、楯の影に身を隠すこともなくこちらを見据えている。
蹋頓は一騎進み出て、馬上で弓を引き絞った。距離は五十歩前後といったところか。大男が飛び出してきて、白い男の前に楯を掲げた。
一息に四矢を放ち、蹋頓は馬首を返した。
「やるな、蹋頓単于!」
背中に声が掛かり、次いでどよめきが起こった。五十歩の距離なら拳大の標的にまとめられるし、四矢なら楯から矢尻ぐらいは突き出ているだろう。
隊を後退させると、高覧隊と烏桓兵一万騎も引き上げてきた。張遼隊も歩兵部隊の後方まで下がったようだ。
「単于、助かりました」
高覧が顔を見せた。小さく首肯で返す。
そのまま、被害報告が上がってくるのを二人で待った。
曹仁だけでなく、もう一方の騎馬隊も相当に精強だった。
張遼は中原一の騎馬隊を誇ったという元呂布軍の将である。槍と刀の間合いになると、烏桓の方が押し込まれる。
前回動員した二万騎であったら、曹仁と張遼を前にすでに敗走していただろう。あの時も背後を突かれたとはいえ、わずか半数の兵力の曹仁に追い散らされたのだ。普段中原の兵を侮る気持ちの強い烏桓族の男達にとって、それは大きな衝撃であった。
唯一整然としていた蹋頓の直属を望む若者が増え、それは二万に達し、今回満を持しての初陣となった。
―――漢族を舐めすぎていたか。
前回の敗戦もあって、曹仁に関しては早くから警戒していた。その主の曹操も、伝え聞く戦績から容易な相手でないことは予想された。しかしそれでも、隊列を組む戦さえ覚えてしまえば、馬上で漢族が烏桓に勝てるはずがないと思い込んではいなかったか。
隣りで報告を待つ、この高覧という男にしてもそうである。
具足は埃にまみれ、軍袍は返り血に濡れている。自身も小さな傷をいくつか負っているようだ。最初に張遼隊の前に飛び出した数騎の中に、高覧の姿を蹋頓は認めている。用兵は凡庸の域を出ない。しかし身を投げ出すような愚直さは、我が身第一の烏桓の男には持ち得ないものだった。
そして歩兵部隊を率いる張郃も宣言通り五分の戦を展開しているし、なかんずく袁紹である。家柄だけの無能としか思えなかった袁紹まで、あれだけの能を隠し持っていたのは意外であった。
自らの弱さを吐露するような演説は、強さこそを至上と考える烏桓には響かないが、漢族の兵達は甚く心を打たれたようだった。
尊大かと思えば実直で、狡猾かと思えば愚直。漢族というのはまったく不思議な人種だった。
「蹋頓単于、高覧将軍」
報告をまとめ、兵が一人駆けて来た。
高覧隊は百騎余り、烏桓兵も十数騎を失っていた。対して張遼隊に与えた被害は二十から三十騎という見立てである。曹仁隊は犠牲を出していない。
「くっ、張郃将軍は五分の戦をしているというのに」
「まあ、そう嘆かれるものでもありますまい。騎馬隊同士の純粋な掛け合いでは、そこまで分が悪い戦もしておりません」
犠牲が多く出るのは、歩兵の戦への介入を妨げる瞬間だった。つまり張郃の五分の戦を支えるための犠牲である。
先日披露された作戦は、蹋頓にとって実に都合の良いものだった。
中華が疲弊すればするだけ、烏桓の力は無視出来ないものとなる。そしてその時の盟の相手は、覇道を標榜する曹操よりも王道を掲げる袁紹が良い。消耗戦の果てに袁紹が中華を制するというのが、烏桓族にとって最も望ましい未来だった。
「しかし、二倍の兵力を有しているというのに、情けない」
「騎馬の戦では、あまり兵力を頼まれますな」
騎兵と騎兵ではそもそも兵力差に物を言わせる展開は作り難い。今や袁紹軍が得意とする混戦も、曹操軍にのみ歩兵が随伴する状況では良い的にされかねない。
「それにしても、やはり曹仁と張遼の連係はさすがですな」
「ふむ、高覧将軍にはそう見ましたか」
「では、単于には別に?」
「ううむ。……いえ、気のせいでしょう。お気にされるな」
高覧は小首を傾げながらも、自分の隊へと戻って行った。
蹋頓はこの三日間、曹仁と張遼の連係に微妙な食い違いを感じていた。それが、先程の攻防で確信へ変わった。
張遼の歩兵への急襲を、曹仁は把握していなかった。間に陣取った高覧隊の動きを見て、初めて張遼隊の急襲に気付き、慌てて後に続いたというところだろう。そこで生まれた一拍の遅れが、蹋頓の目から曹仁隊を隠すこととなったが、結果としてそうなったというだけのことだ。
高覧にそれを伝えなかったのは、用兵を変えて欲しくなかったからだ。今の展開が続けば、曹仁か張遼を討つ機がどこかで見えてくる。高覧隊が動きを変えれば、二人も用兵を変える可能性があった。
「勝たせてやるか」
もう少し消耗戦の静観を決め込んだ方が良い。そう思いつつも、自然と矢籠に手が伸びている。
―――袁紹の弁に俺までほだされたか。
蹋頓は自嘲しつつも、矢数を確認する指の動きを止めなかった。
烏桓騎兵が想像以上に手強かった。
三度目となる袁紹軍との決戦は、過去二度とは異なり奇策無しの真っ当なぶつかり合いとなった。してみると二万騎の弓騎兵は厄介この上ない存在だった。
それぞれが短弓での騎射を能くし、蹋頓が合図の一矢を放つと、一斉に二万の矢がそれに続いた。といって間合いを詰めれば無力というわけではなく、組み合っては刀を巧みに振るう。
視線を交わしたのは、異相と言っていい男だった。ぎょろりと大きな目に鷲鼻。蹋頓は烏桓族の単于であるが、容貌は烏というよりも梟を思わせた。
その弓は神業と言って良い。立て続けに放たれた四矢が楯に突き立つ音は混じり合って、長く尾を引く一音に聞こえた。
より遠くをより正確に射抜くのが漢族の射術で、中華で名の知れた弓の達人は、いずれも長大な強弓の使い手だった。蹋頓の弓は秋蘭の餓狼爪のせいぜい半分の長さで、馬上での取り回しに優れ、連射に向く。騎射で言えば蹋頓は秋蘭や黄蓋をも凌ぐかもしれない。
烏桓騎兵が去り、入れ替わりに霞が軍を下げてきた。烏桓の横撃にやられたか、二十数頭の空馬が歩兵部隊の元へと追い立てられてくる。
今度は、霞と目が合った。すぐに、ぷいと逸らされる。
「まだ張遼将軍のご機嫌は治りませんか?」
「ああ、こればっかりはな」
角の問いに、曹仁は溜息をこぼしつつ返した。
連環馬では、呂布軍時代から霞が手塩にかけてきた馬に相当な無茶をさせた。一千頭余りが傷を負い、そのうち半数は回復しても元のように走るのは難しいという。徐州から帰還した霞にはかなり厳しく責められ、そして不機嫌は依然継続中だった。
二人の確執は騎馬隊の連係に微妙な齟齬を生んでいた。曹仁も霞も、当然戦に私情を持ちこむ気は毛頭ない。しかし歩兵の戦と違って、騎兵は一度動き始めてしまえば密に連絡を取り合うというわけにもいかない。指揮官の呼吸が全てである。単に親しければ良いというわけでは無く、犬猿には犬猿の呼吸がある。一方で普段家族同然の者同士であっても、一度食い違ってしまうと立て直しは困難だった。
気付いていないはずもないだろうが、今のところ華琳から何かを言ってくることもない。上から口を出してどうなる問題でもないし、かえって拗らせるだけと理解しているのだろう。
「荀彧殿の仰る通り、最善の一手でありました」
軍議の席で霞に詰問された曹仁を、戦果を思えば微々たる損害と、珍しく荀彧が擁護し
た。
「霞だって理解はしているさ。そもそも、官渡にいたなら連環馬にも難色は示しても反対はしなかっただろうしな。不在中に無断で使ってしまったのが大きいな。軍人として理解は出来ても、武人として納得は出来ない、ってところだろう」
「もっと、さっぱりした御方かと思っていましたが」
陳矯が口を挟んだ。
「何かひとつ、きっかけがあればな」
戦場であるから軍馬のことは常に霞の頭を過ぎるだろうし、酒でも奢って発散というわけにもいかなかった。
戦は、四日目に入った。
曹仁が袁紹軍歩兵部隊へ突撃するのを高覧が遮り、その隙に張遼が歩兵を攻めた。蹋頓は一万を高覧の、一万を歩兵の援護に向かわせた。自身は数百騎を率いて、距離を置いて戦況を見守る。
張遼は、烏桓の一万騎が迫る前にぱっと離脱した。曹仁も高覧隊を縦に断ち割ると、そのまま戦場を大きく迂回した。
やはり連係に一拍の遅れ。同時に動いて、曹仁が高覧を抑え、張遼が歩兵に突入していれば、展開は同じでも張遼はもう一歩二歩深く歩兵の陣形をかき乱せた。
「―――お兄様、何か?」
次期単于であり、従妹の楼班を側近くに呼び寄せた。
「あの二つの騎馬隊をどう見る?」
「ええっ!? 私がお兄様に戦の意見なんて、無理です」
「ただ聞いているだけだ。別に戦の参考にする気はないし、気軽に答えれば良い」
「そ、それなら。……ええっと、か、固い?」
「固い?」
「わ、私達と比べて、まとまりがあると思います」
楼班が不安気に言い足す。
「ふむ、そうだな。我らにはないまとまりがある。これは奴らに限らず漢族の兵に共通して言えることだが、曹仁と張遼の隊は中でも良く出来ている」
蹋頓の調練で、烏桓の兵も隊列を維持したまま進軍し、矢を放つまでになっている。しかし、刀を握っての接近戦となると乱れる。それぞれが敵に斬り掛かろうとするし、危ういとなれば大きく避けもするからだ。曹仁隊と張遼隊の兵は、隊形を維持したまま駆け抜けることを何よりも優先している。個人よりも全体の勝利を第一と教え込まれているのだろう。こればかりは、烏桓の兵には一朝一夕に真似出来ないものだ。
「他には? 我らと奴らではなく、曹仁と張遼の二人を比べてはどうだ?」
「曹仁さんの方が、怖いという気がします。気が付いた時にはもう、すぐ側まで迫っているんじゃないかって、そんな怖さを感じます」
「曹仁“さん”、ね。……俺はどちらかというと、張遼の方が怖いかな」
蹋頓が思っていたより、楼班はよく戦場を観察していた。戦場まで連れ出した甲斐もあったということだ。
曹仁と張遼の軍の進退は、両者の得物の違いをそのまま表すようだった。曹仁の用兵が陣を貫く槍なら、張遼は陣形を薙ぎ払う大刀だ。
曹仁は真っ直ぐ入って、真っ直ぐに戻る。あるいはそのまま突き抜ける。張遼は斜めに入って、斜めに下がる。馬首を返す時、曹仁は急激に反転して、入るときに自ら斬り開いた道をそのまま戻る。帰路に残す余力はわずかであり、その分深く食い込んでくる。張遼は五分の力で斬り込み、緩やかな弧を描いて同じく五分の力で斬り下がる。曹仁と比べると浅く、その分だけ広く陣形が崩される。
どちらの方が優れているというのではないし、ちょっとした用兵の癖のようなもので、その気になればいくらでも臨機応変に対応する実力を持った二人だった。ただどちらが組みし易いかと考えると、曹仁の方だ。どこからでも将に届く恐ろしさがある半面、動きとしては読み易くもあった。
将を狙いに来る動きを、楼班は率直に恐ろしいと感じたのだろう。軍を率いる身としては、隊列を大きく崩しにくる張遼も同等かそれ以上の脅威だった。
「あの、お兄様?」
楼班が上目使いで蹋頓の顔色を窺う。意見が食い違ったまま蹋頓が押し黙ってしまったので、不安になったようだ。
「しばらく、本陣の袁紹殿のところへ行っていろ」
安心させるように、強めに頭を撫で付けながら告げると、楼班はかえって不安を抱いたようだ。
「私は邪魔というこうでしょうか?」
「そうではない。お前には戦場を駆け回るよりも、袁紹殿の側にいた方が学ぶべきことが多いということさ。それに、次期単于が袁紹殿とお近づきになっておくのは、烏桓にとって悪いことではない」
最低限の戦術眼だけ身に付けてもらえば、単于となった楼班が兵を率いる必要はない。戦場には一部将として自分が立てば良いのだ。
楼班は民をまとめるには良い指導者となるだろう。見ず知らずの敵であっても呼び捨てにしない折り目正しさは、烏桓では柔弱と蔑まれかねないが、これから漢族と付き合っていくには悪いことではない。だが楼班の代になる前に、中華の民に烏桓の強さを知らしめておくべきだった。
格好の標的として、曹子孝がいる。呂布を退け、今や天下無双の呼び声も高い。袁紹軍の勝利のため、そして烏桓のため、従妹楼班のためにも、狙うに十分の首だ。
「……わかりました」
楼班は最後には納得した顔で、護衛に付けた百騎と共に本陣へと駆けていった。
戦は、同じ展開が続いた。
曹操軍の先に動いた隊が高覧隊に遮られ、その間にもう一方が歩兵を攻撃するか、挟撃で高覧隊を攻める。蹋頓に向かってくることは稀で、烏桓兵を動かした時点で曹仁と張遼は引き返していく。細かな用兵に違いはあっても、戦が動く大筋の流れはそれで一致していた。
戦況に動きがない時は、曹操軍の二隊は常に高覧隊か、自軍の歩兵部隊の側へと身を置いている。いつでも烏桓の騎射から逃れるためだろう。楯を構えた敵歩兵部隊は矢を遮り、味方の兵の中に飛び込まれれば騎射そのものが封じられる。
騎射はかなり警戒されていた。戦の流れを作っているのは曹仁と張遼であるが、騎射の脅威一つで戦場全体を蹋頓が支配している。
今度は曹仁隊がまず、歩兵部隊へ向けて動いた。高覧隊が割って入り、曹仁は進路を変えて高覧隊の中へと飛び込んでいく。張遼隊はぶつかり合う二隊の影―――歩兵部隊の方へ回り込んだ。
蹋頓はほんのわずかに右へ駆け、高覧隊の背後で脚を止めた。
好機である。曹仁隊の進入角度。高覧隊への挟撃ではなく、歩兵への攻撃を選んだ張遼。そして今、蹋頓から見て高覧隊の影に曹仁と張遼は入った。二隊からも、烏桓兵の姿は見えていないはずだ。
蹋頓は弓を手に鞍の上に立ち上がった。
同じく弓を取った兵達の視線が一身に集まるのを、蹋頓は感じた。蹋頓が射た先に全員が矢を集中させる。匈奴の英傑冒頓単于に倣った戦法で、飽くほどに調練を積んであった。
普通に射ても兵の矢は後に続くが、ここぞという時蹋頓は馬上に立つ。構えを見せることで矢は的に集中するようになるし、より一斉に放たれる。
視界の先に敵軍の姿はない。高覧の騎馬隊の最後尾、その背中が見えている。
胸を前後に揺らしながら、大きくゆっくりと息を吸って吐いた。近くの兵から、少しずつ呼吸が合っていく。やがて二万騎全ての息がぴったりと重なった。巨大な一匹の獣となって、得物を待つ。
―――読み切った。
蹋頓は大きく吸った息を吐き出さずに胸腔に溜め、弓を引いた。ほとんど同時に、二万の兵も弓を引く。
高覧隊から、白い穂先が飛び出してくる。
蹋頓は矢を放った。
これまで味方と絡み合う敵軍に対しては、一度も矢を放っていない。しかし元より五分の犠牲を覚悟の戦だ。気兼ねの必要も無い。蹋頓が矢を射込めば、兵も躊躇なく続く―――はずだった。
横からの強い衝撃。曹仁隊目掛け放たれるはずの二万の矢のうち、半分が狙いを逸れ、半分は風に煽られるような力無い矢となった。
歩兵に突撃したはずの張遼が、蹋頓の元へと真っ直ぐに、槍の用兵で突き進んでくる。
「ここに来て、見事な連係を」
歩兵と高覧隊の狭間の無人の原野を駆け、一万八千騎を縦断する曹仁隊を抜き去り、先にぶつかってきた。
張遼と曹仁、二本の槍が蹋頓目掛けて真っ直ぐに迫る。
―――烏桓のため、楼班のために。
蹋頓は矢籠に手を伸ばした。
白鵠の脚捌きで三矢までを躱した。追いついてきた四矢目は槍で弾いた。
「―――っ」
先日には見せなかった第五の矢が、弾いた矢の影から現れた。曹仁は咄嗟に肩を突き出し、肩当てでそれを受けた。
「――――――!! ――――!」
戦場に喚声が巻き起こる。
蹋頓の騎射に対する賞賛でも、危うく命を拾った曹仁に奮起されたわけでもない。
五矢を放ち終えた蹋頓の姿が、馬上から消えている。霞が高々と飛龍偃月刀を掲げていた。
曹仁の一万騎が突っ込むと、頭を失った烏桓の兵は潰走していく。烏桓の兵にとって、戦の総大将は麗羽ではなくあくまで蹋頓であろう。兵に十里の追撃を命じて、曹仁は歩兵部隊まで下がった。
「討ち取らなかったのか?」
霞も兵に追撃を命じ、自身は歩兵と合流してきた。兵二人に両脇から支えられた蹋頓を伴っている。蹋頓は手足をぐったりと垂れ下げ身動ぎもしないが、亡骸に対する扱いには見えない。
「ウチの方が曹仁より近くにおるのに、こっちを見もせんのやもん。よそ見してる相手に斬り付けられんへんから、峰で打ったったわ」
最後に蹋頓は曹仁との相討ちを望んだ。一部将ならともかく単于の地位にある者の選択としては不可解だが、考えて分かることでもない。蹋頓が目を覚ませば、その心中を聞く機会もあるだろう。
「……生きてるんだよな?」
「まぁ、無視されて頭にきたから、すこーし強く打ち過ぎたかもしれへんな」
蹋頓は一向に意識を取り戻す気配がなく、力無く兵にもたれ掛っている。凝視すると、ほんのわずかに胸が上下するのが見て取れた。呼吸は止まっていないようだ。
霞の命で、蹋頓の身柄は本陣へと運ばれていった。
「しかし、よくあそこで俺を狙いに来ると分かったな」
「いや、ずっと曹仁をねろうとる感じがしとったから、先に討ち取ったろ思うただけや。下邳で華琳様のやった策を、ちょうどウチも試してみよ思うてたし」
「華琳の? ―――ああ、城内の制圧に送り込んだと見せて隠し、奇襲したってやつか。霞の神速の用兵と組み合わせると、こうなるか」
高覧隊を隠れ蓑の城壁に見立て、城内制圧の代わりに歩兵への攻撃と思わせている。死角からの奇襲自体は騎馬隊の戦では特別珍しいことではないし、霞の得意とするところだ。今回はさらに相手の錯誤を狙い、図に当たっている。あの瞬間、霞の騎馬隊の存在は完全に蹋頓の意識から抜け落ちていた。
「曹仁も読まれとるのに用兵も変えんで、誘っとったやろ?」
「しかし味方ごと騎射というのは予想外だった。霞が来てくれなかったら、逆にこっちが討たれていたな。最後に見せた連射も、前にこれ見よがしに見せつけてくれた四矢でなく、五矢だったしな」
二万本の矢が降り注ぐ中で、蹋頓の五矢に反応する自信はなかった。
「それ、大丈夫なん?」
霞が眉をひそめながら、曹仁の左肩を指差す。戦場では負傷兵など見慣れたものだが、やはり身内の傷は生々しく見えるものだ。
「そんなに深くはなさそうだ。肩当てのおかげ、いや、恋のおかげか」
肩当てがなければ、腕を失っていたかもしれない。それほど、蹋頓の放った第五矢の威力は凄まじかった。
「恋の?」
「ああ。恋と戦場でやり合った時、肩で突きをいなされた。あの時は穂先を取った槍に、むき出しの恋の肩だったけどな。俺も槍で弾けない時の最後の備えとして、肩当てで攻撃を受けようと思って、練習してたんだ」
話しながら、曹仁は矢を引き抜いた。肩当てを貫き、鉄糸を編み込んだ軍袍をも引き裂いた矢は、幸いにも筋肉の厚い部分を半寸ばかり抉るのみだった。出血も多くはなく、大きな血管を傷つけてもいないようだ。
「もうっ。そんな適当に抜かないで下さいよ、曹仁将軍」
陳矯が騎乗のまま慣れた手つきで傷口を縫い始める。
「そういや、ウチ等とやり合うた時には、肩当てはしとらんかったな」
「ああ。あの頃は邪魔に感じて付けていなかったけど、馴れるとあまり気にならないな」
曹仁の具足は白騎兵と揃いの特注品である。曹仁に合わせて他の百騎も今は肩当てを付けていた。肩当てでの受けも習得していて、曹仁より上手い者も何人かいる。
「はいっ、出来ましたよ。七針です。あまり動かさないで下さいよ」
ぽんと、縫い終えた傷口の上を軽く叩きながら陳矯が言う。痛みに、曹仁は顔をしかめた。
「ずいぶんとやるようになったな、お前も」
「華琳様から、曹仁将軍が馬鹿をするようなら、尻を蹴り上げてやれと言われていますから」
「ははっ、良う出来た従者やな」
陳矯は戦場でも曹仁の横を駆け回るようになっている。今も従者という扱いだが、一般の兵からは本人志望の白騎兵の一員のように思われている。そして曹仁の知らぬ間に、真名を許される程に華琳との交流が出来上がっていた。曹仁にとっては、何ともやり難い話である。
「ふんっ。―――そうは言っても、動かさないわけにもいかないがな」
「せやな。後で曹仁の尻を蹴り上げたったらええで、陳矯」
「何を?」
「騎兵が追撃から戻り次第、高覧の一万八千騎を攻める。今なら、簡単に潰せる」
小首を傾げた陳矯に、曹仁は答えてやる。
曹仁に縦断された高覧隊はすでに体勢を整え終えている。敵味方の騎馬隊が駆け去った戦場で、歩兵部隊を攻めるでもなく所在無げに佇んでいた。
「しかし、無理に今やらなくても」
「高覧隊なら焦らなくてもいつでも倒せると思っているか? 蹋頓のような派手さはないが、高覧は凡庸ながらも仕事はしっかりとこなしている。これまでは蹋頓に助けられる展開が多かったが、決して簡単な相手というわけではない」
「でしたらそれこそ、万全な体制を整えてからの方がよろしいのでは?」
「簡単な相手ではないが、これまで蹋頓に支えられてきたのもまた事実。今なら兵は不安でいっぱいだろう。時を与えた分だけさらに不安を募らせる相手もいるが、あの敵は逆に腹を据えるな」
「それは、どう見分けるのです?」
「勘やな」
霞が口を挟んだ。
「勘、ですか」
元々文官志望の勉強家で、兵法書などにもかなり通じている陳矯としては、納得し難い答えだったようだ。
「勘といっても、当てずっぽうというわけではない。経験から来る予測のようなものだ。―――さて、だいたい兵も戻ったな」
「ウチから先に突っ込むで」
霞が軽く言って駆け去って行った。
「張遼将軍のご機嫌、治りましたね」
すっと馬を寄せてくると、囁く様に陳矯が言った。
「ああ、そういえばそうだな」
あまりにきれいな連係がはまっての戦果に、曹仁は霞の不機嫌を失念していた。霞自身もたぶん似たようなものだ。性格からして、後で思い出して再び機嫌を損なうということもないだろう。
かちりと何かが噛み合うのを曹仁は感じた。
「よし、俺達も行くぞ」
「はいっ」
霞の一万騎が動き始める。わずかに遅れて、曹仁も隊を動かした。
行く手に砂塵。高覧隊ではなく、さらにその後方から、何か駆けてくる。
七千騎。袁紹軍遊撃の騎馬隊だった。高覧隊の横を駆け抜け、騎兵の戦場に踊り込んでくる。
「―――?」
前を行く霞隊が、ぶつかる直前で左に折れた。慌てて避けたという感じで、敵将を捕え調子付いている霞らしくない動きだった。
近付いて見て、霞の不自然な回避の理由が曹仁にも分かった。同じく左へ避けた。
曹仁達が観察する中、七千騎は特に何をするでもなく、戦場をぐるりと一回りして高覧隊のすぐ横に付けた。まとまりに欠け、それぞれがばらばらと脚を止める。隊列が整うにも、しばしの時間を要した。
「曹仁」
霞が馬を走らせやってきた。
「やられたな」
七千騎は奔馬の群れだった。駆けるほどに隊列が乱れるのは、馬の地力がそのまま出ているからだ。つまりは調教不足であり、同時にそれぞれの馬の本気の疾駆ということでもある。暴走に近く、騎乗の兵もしがみつく様にして馬を御していた。赤兎隊や連環馬のように一方的に蹂躙する力はないだろうが、まともに当たれば同数の犠牲を覚悟する必要があった。
「袁紹がおったな。高覧隊がすっかり立ち直りおった」
七千騎の中程に、金色の具足を輝かせた麗羽の姿があった。らしくもなく麗羽は、自ら前線へ飛び込むことで高覧隊の士気を盛り上げて見せた。
「その横で大剣を振り回していたのは文醜さんだな。ようやく二枚看板も出してきたか。それに―――」
さすがに危なげなく馬を乗りこなす文醜に対して、麗羽の隣にはもう一人、危なっかしく大きく身体を揺らしている人物がいた。
「曹仁も見たか? やっぱり、そうやったよなぁ? あの日、洛陽の宮殿に一番乗りしたのは、袁紹軍やって話やし」
「ここで麗羽さんに突っ込ませるっていうのも、いかにもらしい用兵だ。間違いないだろう」
数年ぶりに見た皇甫嵩は、別れた日と同じく戦場に在った。