「先に曹操の首を取ることですな」
どうすれば華琳に勝てるか下問すると、皇甫嵩は事も無げに言った。
軍議の様相は、以前とは一変している。
一つには、蹋頓がいない。
同盟軍を率いる大将であり、積極的に発言をするでもないが、常にある種の重みを有していた。代わって楼班が席を並べているが、蹋頓が倒れると同時に烏桓兵は戦場を去っている。今は蹋頓が楼班に付けた護衛の百騎だけが、烏桓がこの地に有する戦力である。楼班本人の気質と相まって、軍議における存在感は希薄であった。
もう一つが、この皇甫嵩の存在である。
本人たっての希望で、一部の将軍達を除いてその存在は秘されてきた。大半の者は、今回の遊撃隊指揮官への就任で初めて皇甫嵩の正体を知ることとなった。これまでは軍議の末席を許された名も無き校尉と、皆の目には映っていただろう。
陣営に加えた当初こそ、その正体を知る者達から皇甫嵩は一目置かれていた。しかし無気力で怠惰な生活を続け、いつしかただ居るだけの存在へとなり下がっていった。全軍を委ねた張郃が遊撃隊の指揮を要請したのも意外なら、皇甫嵩がそれを引き受けたのも意外であった。そんな調子であったから、驍名は過去の事と麗羽も他の部将達も大きな期待をかけてはいなかった。
それが今や前列に引っ張り出され、皆の注目を集めている。ここまで曹操軍を相手に五分の戦を繰り広げてきた張郃も、頭を垂れ教えを乞う姿勢に徹していた。
皇甫嵩は麗羽まで巻き込んだ騎馬隊のたった一駆けで、かつての名将の健在を皆に感じさせた。絶望の中でようやく見出した希望に、麗羽含め全員が縋り付いていた。
「ああ、かつての御学友を殺したくないというのだったら、もちろん捕縛でも結構」
戸惑う面々を相手に、皇甫嵩が付け足す。
「だからっ、それをどうやるかって聞いてんだよ」
猪々子が麗羽の気持ちを代弁した。
「ふむ。答える前に一つ聞こう。今は本陣に留まり全軍の指揮に徹しているが、曹操というのは陣頭指揮を好む将ではなかったか? 私が董卓軍に味方してお主らと戦った時、曹操はいつも軍の先頭にいた」
「それは、確かにそうでしたわね。―――優さん、何か?」
何か言いたげに張郃が膝を進めた。麗羽は数日前に預け合ったばかりの真名で、彼女を呼ぶ。
「はい、麗羽様。呂布軍との戦では、曹操はわずか一千騎で駆け回り自ら囮を演じています。また、最後には呂布の方天画戟とも打ち合っております。それに報告にあった通り、先日は百騎で徐州、揚州の戦場を渡り歩きました。いずれの戦場でも、決定的な機を自らの用兵で作り上げております」
優はこの戦に当たって華琳の戦歴を徹底的に洗い直している。田豊や他の将から麗羽はそれを聞き及んでいた。
「ふむ。つまり戦を大きく動かそうとする時、曹操は自ら兵を率いる。そして今も供回りには常に虎豹騎と名付けた精鋭の重装騎兵を伴い、本陣にも必ず騎兵を配置している」
優の発言を受けて、皇甫嵩がうんうんと頷きながら言った。
「それで、結局どうすればよろしいんですの?」
「しばし防戦に徹されよ。いずれ焦れて曹操は自ら動きましょう。その際に討ち取れば良い」
「それは、曹操の策に乗るということではありませんか?」
優が眉をひそめる。
「そうなるな。だから、こちらも曹操の想像を超えた動きをする必要がある。―――そうだな、いっそその瞬間だけ、袁紹殿御自身が全軍を指揮されてはどうだ?」
「私?」
「ちょっ、ちょっと待ってくださいよ、皇甫嵩様。せっかく張郃将軍の指揮で、互角の戦が出来ているのに」
「斗詩さん、それはどういう意味かしら?」
「そ、それは、その」
一睨みすると、斗詩は黙り込んだ。
「……まあ、斗詩さんの懸念ももっともですわね。皇甫嵩さん。はっきりと申し上げまして、私、実戦の指揮で華琳さんに勝つ自信は無くってよ! おーほっほっほっ!!」
「おお、いっそ清々しいな」
一度、本音を曝した者達である。麗羽が開き直って見せると、皇甫嵩は苦笑と感嘆が入り混じったような微妙な表情を浮かべた。
「それに、最後に私自ら指揮を取るというのは、いかにもこの袁本初のしそうなことではなくって? 華琳さんなら、それくらいの想定はしているのではありませんこと」
「ほう。確かにそうだ」
皇甫嵩は、今度は間違いなく感嘆の声を漏らした。
「それでも袁紹殿の用兵が一番だとは思うが。……そうさな、それでは文醜などどうだ? 曹操にとっては袁紹殿に次いで意外な用兵となろう」
「あたいか? へへっ、皇甫嵩、アンタなかなか見る目あるじゃないかよ」
「ほ、本気ですか、皇甫嵩様っ!? あの文ちゃんですよ!? 指揮といえば突撃しか知らないんですよっ!?」
「おいおい、失礼だなぁ、斗詩。あたいだって撤退くらい知ってるっての」
「……そうだよね。文ちゃん、威勢良く勝つか、派手に負けるかだもんね。―――もうっ、張郃将軍からも、何か言ってください。これまでの善戦を台無しにされちゃいますよ」
「……いえ、存外良い手ではないかと」
「張郃将軍!?」
「私の手のうちはすでに曹操の知るところでしょうし、意表を突くような用兵は苦手とするところでもあります。……皇甫嵩将軍に指揮を代わって頂けるなら、それが一番なのですが」
「ふむ。確かに、敵の虚を突くは我が軍略の要ではあるが、敵陣には曹仁と霞―――張遼がおるのでな。特に曹仁は弟子のようなものであるし、私の用兵もよーく知っている。それなりに成長しているようだし、裏をかくのは容易いことではなかろう」
「そうですか。ならばここは、―――文醜将軍に」
優が麗羽を真っ直ぐ見つめながら言う。彼女もまた猪々子よりも麗羽の方が良いと考えているようだ。
「まっ、いずれにせよ、私が言ったのは賭けだ。勝算は五分。そして誘いに乗る以上、しくじれば立て直しが効かない程に犠牲は大きくもなる。それを厭うなら、曹操がいくら動こうと相手にせねば良い。その場合、烏桓の弓騎兵を失った以上は劣勢のまま戦は推移し、やがて撤退となろう」
「……やはりこのまま戦を続けても勝てませんか?」
「勝てぬなぁ。それはお主と高覧が一番理解しているのではないのか? 兵の練度で劣り、用兵でも敵わぬと思えばこそ、乱戦頼りの先日来の戦であろう?」
優の問いに、皇甫嵩があけすけに返す。
官軍第一と称された将軍からの敗北宣言に、場の空気は暗く沈み込んだ。
「なに、撤退といって、そう悲観的になることもない。以前田豊殿が軍議で述べた通り、白馬砦を手に出来たのは大きい。重要拠点を一つ手に入れたというのは、侵略の戦果としては上々と言えるのではないかな。後は撤退で如何に兵力の損耗を抑えるかだが、張郃は撤退戦の指揮は上手そうだ」
賭けに出て大勝を狙うか、負けて小利を得るか。皇甫嵩はその選択を提示していた。
「……わかりましたわ。―――それなら、猪々子さん」
「おおっ!」
猪々子が拳を握って立ち上がった。
「好機が来ましたら、貴方に指揮権を与えます。それまで、優さんに付いていなさい」
ここに来て勝利以外のものを望むはずもなかった。
猪々子が気勢を上げると、幕舎の外でそれを聞き付けた兵達が理由も分からぬまま喚声を唱和させた。
袁紹軍は、五段で正面に備えた構えを捨て、全軍一体となった。例外は高覧の騎馬隊だけで、本隊一万に遊撃隊までをその内に取り込んだ巨大な方円の陣である。
「曹仁さんと張遼さんの騎馬隊はやはり速いですわね。華琳さんを狙うとなると、あの二隊の動きが邪魔ですわ。それに夏侯惇さんの旗本の一団、あれも良く動きますわね」
戦場を見つめながら、思い詰めた表情で麗羽がぶつぶつと独り言を呟く。
敵戦力の分析など、常の麗羽には見られない行動である。奇妙な光景を斗詩は隣で静かに見守り続けた。
そうして、十日が経過した。
方円を組んでからは、乱戦に持ち込むこともなく歩兵のぶつかり合いはただ単調に受けるのみとなった。曹操の出陣を誘うためだが、その間にも犠牲は増え続けている。特に、烏桓兵の支援を失った高覧隊への攻勢は凄まじかった。しばしば皇甫嵩の遊撃隊が救援に飛び出すも、一万八千の兵力は七日で一万騎を下回った。その時点で、高覧隊も方円の内に取り込んだ。それで戦は、より一層単調なものとなった。
「……そういえば、皇甫嵩様」
「なんだ?」
十日目の夜、その日の被害の確認に本営へ顔を見せた皇甫嵩に斗詩は尋ねた。
「曹操さんがこのまま出て来なかったら、この戦は」
「もちろん、負けるだろうな」
「―――っ」
想像通りの答えながらも、斗詩は思わず息を飲んだ。
「で、出てきますよね?」
「さあ、どうだろうな。出ずとも、このままあと一ヶ月も戦を続ければ、我らは潰滅となるであろうし。そこがまず、第一の賭けだな」
「そっ、そんなぁ」
「おーほっほっほっ!! そんな心配は無用ですわよっ、斗詩さん」
ここ数日ずっと思い悩んだ顔をしていた麗羽が、珍しく晴れやかな声を出した。
「あの短気な華琳さんのことです、一ヶ月も持つものですか。そうですわね。三日以内に、―――ううん、明日ですわっ。明日、華琳さんは動きますわ。間違いなくってよ、おーほっほっほっ!!」
また根拠もなくと、斗詩の口からため息が零れ落ちる。とはいえ、久しぶりに麗羽の高笑いが出たことで、その夜は和やかに過ぎていった。
「…………あ、当たりましたね、麗羽様」
翌日、斗詩の口から今度は感嘆の吐息が漏れた。
前線に曹の牙門旗が姿を現した。
五千の騎馬隊は歩兵と連係して正面を突いたかと思えば、一隊のみで迂回して横腹から後背を窺いつつ方円の周囲をぐるりと一巡りして見せる。後方に構えてどっしりと動かなかった先日までとは一転、他のどの隊よりも忙しなく動き回っていた。
「斗詩さん、猪々子さんに伝令―――、いえ、私自ら命令を下しましょう」
麗羽は常に無く軽快な足取りで騎乗すると、曹操軍に対して正面に位置する方円の一部隊へと馬を走らせた。斗詩は慌てて周囲の兵を引き連れて麗羽の護衛に着く。
猪々子と張郃がいたのは、干戈の音も騒がしい前線間際であった。
「猪々子さん、優さん」
「ちょっと、麗羽さまっ、こんなところまで出てきて危ないですよ。矢だって飛んでくるんですから」
猪々子が珍しく正論を口にし、張郃が素早く楯を構えた兵を麗羽の前面へ配した。
「おーほっほっほっ! ご心配なさらずとも、私に矢は当たりませんわっ、おーほっほっほっ!」
麗羽が根拠のない自信を見せた。
根拠はないが、事実はある。ふらふらと飛んでくる流れ矢を、斗詩や猪々子は時折得物で打ち払う必要があったが、麗羽を守る楯には一本も突き立ちはしなかった。
「それで、麗羽さま。わざわざここまで出てきたってことは、あたいの出番ってことですよね」
「……ええ、お任せしますわ、猪々子さん」
一瞬の逡巡の後、麗羽は言った。
「おおーしっ! お前達―っ、今から張郃に代わってあたいが指揮を取るっ! あたいの命令っ、聞き逃すなよっ!」
最前線の一枚を残し、兵達の意識が猪々子に集中する。
曹操の騎馬隊五千騎は、今はちょうど正面の戦線に介入していた。曹仁と張遼の騎馬隊は、それぞれに両翼を攻めている。
「そんじゃあ、全軍、突げ―――」
「―――猪々子さん、お待ちになって!!」
「んあ? 麗羽さま? もうっ、いいところで邪魔しないで下さいよっ」
「やはり、この戦の指揮、私が取りますわ」
「ええー、ここまで来てそれはないですよー」
「お黙りなさい。貴方、今、なんと命令しようとしまして? また、馬鹿の一つ覚えの突撃でしょう? そんな指揮で、あの華琳さんに勝てるものですか」
「ええー、じゃあ、麗羽さまだったらなんて命令するんですか?」
「それを今からお見せすると言っているのです。さあ、お下がりなさいな」
「ちぇっ、分かりましたよ」
猪々子は口をとがらせながらも、麗羽の後ろ―――斗詩の隣に並んだ。
猪々子が下がり、麗羽が一歩前に進み出ると、兵は騒然とした。悪いざわめきではない。斗詩は兵達の士気が高ぶるのを感じた。
「……」
兵の視線を一身に集めながら、麗羽は何も言わない。ざわめきが収まるのを待っているのか。あるいは、自身の決意を固めているのか。
「……勝てますよね、麗羽様?」
沈黙に耐えきれず、斗詩は思わず詰まらない質問を口にしていた。
「ええ、もちろんですわ」
麗羽はこちらを振り返ることなく、背を向けたまま言った。
「言わなかったかしら? 私、私塾時代の試験では華琳さんに負けたことはなくってよ。もちろん、軍学の試験でも。今日もまた、昔と同じに勝つだけですわ」
それが虚勢であることは、麗羽自身の口からすでに明かされている。それでももう一度、麗羽はその強がりに乗っていた。
「……これは、まずいかもしれません」
そんな麗羽の姿にどこか頼もしさを感じていた斗詩の耳に、張郃が小さく溢すのが聞こえてきた。
「まずい? まずいって、何がです?」
「下手に軍学などに則られては、曹操の手の平に乗せられるかもしれません。無為無策こそ、曹操の裏をかくには肝要。だからこそ皇甫嵩将軍は、麗羽様か文醜将軍をご指名になられたのです」
「ええっ! 麗羽様、珍しくすっごく頭を使っていましたよっ。麗羽様、ちょっと待っ―――」
「―――皆さんっ、雄々しく、勇ましく、華琳さん―――曹孟徳ただ一人を目掛けて、突撃しますわよっっ!!」
「……なんだ。良かった、いつもの麗羽様だ。……んん? あれ? 突撃なさいじゃなく、しますわよって言った? っ! みんなっ、麗羽様に続いてっ!!」
いつも通りに思えて微妙に異なる命令に、袁紹軍将兵は一時混乱をきたした。その隙を突いて、麗羽が馬を走らせていた。名門袁家に伝わる宝刀が光を放つ。
麗羽の戦は、こうして味方を惑わすところから始まった。
ほら見なさい、という華琳の得意顔が目に浮かぶようだった。
最後には麗羽が自ら兵を率いる、というのは華琳の予想である。先日の軍議の席で、華琳に次いで麗羽を知る曹仁は意見を求められ、それを否定していた。
曹仁は麗羽に対して、ある種の共感を覚えていた。それは一方的なものではなく、恐らくは麗羽の方にも似た思いがあるはずだった。その根底にあるものは、幼少のころに刻み込まれた一人の少女に対する劣等感であろう。
華琳。幼馴染として、あるいは従弟として、その破格の才能は常に二人の前に立ちはだかる壁であった。幼少期の心の平静を保つには、春蘭や秋蘭に倣って早々に軍門に下るべきだったのだろう。しかし名門出身の矜持が、あるいは男の意地が、その道を享受することを許さなかった。
「俺よりも余程強いな、麗羽さんは」
かつて共感を覚えた相手は、当時のままではないらしい。
自ら出て来たのか。負けるはずがない陣容を組みながら、二度までの大敗を重ね、なおも華琳の前に姿を現した。それも、自ら剣を取って飛び出してくるというのは、華琳の予想をも超えた蛮勇振りである。すでに華琳に白旗を振った曹仁には、到底選び得ない選択だった。
単騎駆けした麗羽は、追いついてきた文醜と顔良に守られて歩兵の布陣をかき分けている。目指す先は真っ直ぐ曹の牙門旗だ。
華琳は騎馬隊を制止して、そんな麗羽を待ち構えている。
変わらぬ戦を続ければ、いずれ勝利は曹操軍へ転がり込んできた。それでも、華琳は麗羽に対して勝負を仕掛けた。何だかんだと言って、華琳の方にも麗羽とは自分で決着を付けたいという思いがあったのだろう。戦場は、華琳と麗羽の望んだ終局へと向かいつつある。
「さてと。俺の相手は将軍か」
単純な戦況で言えば、いぜんとして曹操軍の優勢である。しかし麗羽の進軍には放置し難い勢いがあり、華琳にも届きかねないと思わせる。
こんな時、本来真っ先に麗羽を狙うべき騎馬隊を曹仁は動かせていない。霞も同様である。
麗羽を追って敵兵が一斉に突撃を繰り返す中、遊撃の騎馬隊と高覧隊だけは並足でゆっくりと後方に付いている。曹仁と霞が麗羽を狙えば、速やかに阻もうという構えである。
つまりは、主君を助けたくば自分を越えて行けという、皇甫嵩から曹仁と霞への挑戦状であった。
「見事なものだ」
皇甫嵩は覚えず賞賛の言葉を漏らした。
囮として前線に立った曹操は、袁紹がそれに答えてより一層激戦の只中へ飛び込むことで、引くに引けないところへ追い込まれた。ここで曹操が下がれば、曹操軍全体が勢いに乗った袁紹軍に押しやられかねないのだ。
袁紹は総大将自ら敵大将へ向けて駆けだすことで、この戦を子供と子供の喧嘩にまで引きずり下ろした。練度と指揮に優れる曹操軍は、いくらか年嵩のお姉さんと言ったところだが、その年上ぶった分別顔に手痛い先制の一撃をぶち込んでいる。勝負はまだ分からない。軍議の席では、皇甫嵩は勝算は五分と誇張して言った。実際には十に三度というのが読みであった。それを、袁紹は力技で実際に五分まで引き上げて見せた。
泡を食って麗羽の後を追う将兵の中で、皇甫嵩は遊撃の騎馬隊を手元へ残した。同じく騎馬隊を率いる高覧も呼び止め、突撃を思い留まらせた。
怖気を抱えて遊撃隊へ回された歩兵の二万は、袁紹が走り出すと止める間もなく後へ続いている。恐怖に駆られて思考を放棄したというわけではない。先日の袁紹の演説が最も胸に沁みたのが、同じく曹操軍に打ちのめされた二万の兵達だった。突飛な袁紹の号令にも二万だけは動揺を見せず、意気揚々と飛び出して行った。今は、前線の兵に混じって夏侯惇隊にぶつかり、互角の展開を見せている。
袁紹が五分とした戦場に、後はどれだけその勝機を維持出来るかだ。将器も兵の練度も劣る袁紹軍は、手をこまねいていれば刻々と進む戦場で勝算を失うばかりである。
「皇甫嵩将軍、まだですか?」
焦れた様子で、高覧が言った。
「私達のやるべきことは、わかっているな?」
「はい。ですが―――」
高覧が前線に目を向ける。
袁紹自ら先頭となった一団は、夏侯惇隊を錐状に突き進んでいた。それは今にも左右からの圧力に押し潰されそうな、か細い進軍だった。しかし、方円の陣の左右後方を形成していた兵も続々と後へ続き、少しずつだが夏侯惇隊を押し返しつつある。向かう先には、散々駆け回った足を止めて曹操の牙門旗が待ち構えている。
「曹仁と張遼を封じても、まだ夏侯惇の旗本に五千の騎馬隊が残っております」
「そこは、二枚看板と張郃に任せるしかあるまい」
遊撃隊と高覧隊。二つの騎馬隊が後方に付くことで、曹仁と張遼は袁紹への攻撃へ移れずにいる。袁紹を補佐するために皇甫嵩が取った行動は、一時静観することだった。
「しかし―――」
「心配せずとも、すぐに動くことになる。袁紹殿にならって予想するなら、まず動くのは性分からして―――」
張遼、と言おうとした口を開けるまでもなく、その答えの方から飛び込んで来た。
「まずは、私が」
「うむ、任せよう」
高覧が気負った声を出す。
蹋頓を捕えた霞は、高覧にとってはここまでの劣勢を招いた仇敵と言えた。互いに兵力は一万弱。袁紹と曹操の決着が付くまで持ちこたえるくらいの意地は、高覧は見せるだろう。
近付いてくる張遼隊へ向けて、高覧隊が動き始める。
「さて、すると私の相手は曹仁か」
曹仁隊はまだ動かなかった。霞と比べるといくらか思い切りが悪いところが、曹仁らしい。
「こちらから動くとするか。―――遊撃隊、出るぞ!」
馬を疾駆させた。
調練不足で大きく上下に揺れる馬体から投げ出されないように、左手できつく手綱を握った。手綱は、左手だけで操れるようにいくらか短くしてある。恋や曹仁、霞とは比ぶべくもないが、元々馬術は苦手ではなかった。今は、いささか不恰好な姿だろう。
反董卓連合との戦で負傷した右腕は、完治することはなかった。肩より上には持ち上がらないし、肘に角度を付けるとふっと力が抜ける。
洛陽を去る曹仁は、繰り返し傷口を清潔に保つよう言い残していった。あの時、敗軍の将となった自分はどこかで戦場での死を望んでいた。だから、曹仁の言い付けもあまり気には留めなかった。
反董卓連合解散の後、独立勢力を築いた恋達や曹操軍の曹仁を訪ねる気にはなれなかった。それどころかその生存すら秘し、隠者のようにひっそりと暮らしてきた。
そこに明確な理由があったわけではない。
戦に負け、将として頂くべき漢の朝廷自体が実体を失った。途端に、戦場というものが虚しく感じられるようになった。かつて張奐は暗殺者に身を落とそうと戦いの場を求めたが、それともまた違う感情だ。そして名でも、真名でもなく、ただ一言“将軍”と呼び習わされていた自分が、どんな顔をして曹仁らに会えば良いのか分からなくなった。
袁紹の弁舌は、確かにそんな皇甫嵩の胸に燻ぶっていたものを刺激した。飼われ身の義理として袁紹軍の戦にはいつも同行してきた。しかし将として戦場に立つ気になったのは、今回が初めてである。
そこで見た曹仁と張遼の戦は、官軍第一などと呼ばれた皇甫嵩の目にも見事な連係だった。弟や妹、あるいは息子か娘のようだった二人の戦に、かき立てられたものがあった。自尊心とでも言うのだろうか。自分もまだ出来ると、見せつけたくなり、遊撃隊を走らせていた。
結果、二人の子供達は好機を逸する事となった。歯噛みする思いであったろう。あるいは、単純に自分の生存を知って喜んでくれたかもしれない。いずれにせよ、皇甫嵩の存在を二人は知った。単純なもので、事ここに至ってしまえば意地でも二人には負けたくない。特に、短い期間とはいえ教え子でもある曹仁にとっては、今も越えられぬ壁で居続けたかった。
―――失敗した、失敗した、失敗しましたわっ。
曹の牙門旗目掛けて一路突き進みながら、麗羽の胸中には繰り返し後悔の言葉が浮かんだ。
ただ一度の勝負。そう思い定めて、猪々子の号令を遮った。六韜から孫子まで心中で繰り返し諳んじ、練りに練った用兵を披露するつもりだった。
それが、いざ号令を下す段になると、頭からすっぽりと抜け落ちた。真っ白になった頭で戦場を望むと、駆け回る華琳の姿が夏の日の羽虫のように目障りだった。ぷちっと、潰してしまいたい。そんな感情が湧き起り、気付けば叫び、駆け出していた。
目の前に槍が迫り、麗羽は初めて華琳以外の人間の存在を、―――戦場を認識した。突き出された槍の穂先に、馬が棹立ちになった。幸運にもその前脚の蹄が、槍を跳ね上げた。敵兵の身体が、無防備に曝された。
麗羽は、そこで困ってしまった。
―――考えてみると私、実戦で剣を使うのは初めてですわ。
袁家累代の先祖達もそうだったのだろう。宝刀は刃毀れの一つもなく新品同然である。この剣を、振り降ろして良いものか。いや、戦なのだから良いに決まっている。しかしそれをすると、目の前のこの敵兵―――華琳の部下だというだけで、個人的に遺恨があるわけでもない―――は死ぬことになる。当然血も飛び散るだろうし、それは麗羽の身も汚すだろう。返り血に塗れた自分など、想像するだにぞっとしない様だった。
「おらおらぁっっ!!」
躊躇う麗羽のすぐ横で威勢の良い怒号が轟き、猪々子の斬山刀が件の敵兵を真っ二つにした。
「えーいっ!」
迫力の無いかけ声を上げて、斗詩の金光鉄槌も他の敵兵を肉片に変えた。
多量の血が舞い散り、金色の髪も鎧も、すぐに真っ赤に染まった。
「―――っ、お、遅くってよ、猪々子さん、斗詩さんっ。さあっ、華琳さん目指して、行きますわよっ!」
さっと血の気が引いて手放しそうになる思考を、麗羽は懸命に引き寄せた。
そこからは、無茶な号令を下した先刻の自分を呪いながら、ただただ曹の牙門旗を見据えた。そうして、気付けば夏侯惇隊に深々と侵攻し、風にひるがえる曹の字はもう間近に迫っていた。
麗羽は、ちらと後方を確認した。号令前までは一番に警戒していた曹仁と張遼の騎馬隊を、ようやく思い出していた。
天人旗を伴う曹旗と、紺碧の張旗はまだ遠い。高覧隊と皇甫嵩の遊撃隊が絡みついている。
自分の失敗を、補ってくれる者達がいる。左右で大刀と大金槌を振るう猪々子と斗詩。すぐ後ろにはいつの間にか優がいて、闇雲に駆ける兵をまとめ上げている。背後は、目に付く限り味方の兵だった。
夏侯惇隊を抜け出た。華琳の残す手札は、五千騎だけだ。
「さあ、皆さんっ、雄々しく、勇ましく、突撃―――」
「―――華琳さまの元へは行かせんっ!!」
再びの号令を、怒号が遮った。
夏侯惇隊から、小集団が飛びだした。騎馬百騎に歩兵四百の、夏侯惇の旗本だ。曹仁と張遼の騎馬隊に次いで麗羽が警戒していた部隊だ。その存在を麗羽はやはり失念していた。
「あたいが―――」
「いえ、文醜将軍は麗羽様のお側に。顔良将軍、兵の指揮をお願いします」
飛び出そうとする猪々子を引き止め、優が指示を走らせる。すぐさま一千の小隊が組織された。
「長くは持ちません。お早い決着を」
言い置き、肉迫する夏侯惇の旗本に、優は一千を率いて真っ向からぶつかっていく。
「―――さあっ、私たちも行きますわよっ!」
その背をわずかに見送り、麗羽は再び曹の牙門旗を見据えた。
わずかな間に後続の兵が集まってきていた。麗羽を中心にすでに四、五千の集団を形成して、その数はさらに増え続けている。
ようやく最前列から解放され、人心地ついた麗羽を再び恐怖が襲う。曹の牙門旗の足元から、五千騎が動いた。突っ込んでくる。
「か、固まってくださーいっ!!」
斗詩の号令で、五千で小さな円陣を組んだ。身を寄せ合うようにして、騎馬の圧力に対する。前後左右へ揉みくちゃに押しやられながら、馬蹄の轟が駆け去るまで麗羽は目をつぶって耐えた。
目蓋を開いた時、立っていたのは三千に満たない。二千余りはその身を肉の壁として命を散らした。五千騎は、ただの一撃で甚大な被害を袁紹軍へ与えた。しかし駆け抜けた先で、すでに二万から三万にも達している袁紹軍後続の歩兵に飲まれてる。
そして正面に残るは、二百数十騎のみだ。華琳の姿も見える。
華琳渾身の一手を耐え切った。麗羽は勝利を確信した。
「おーほっほっほっ! やはり、天運は我にあり、ですわ! さあさあっ、皆さんっ、あそこへ見える金髪のくるくるが、大将首ですわよっ!!」
叫び、駆け出した。
華琳。口元は、いまだ小憎らしい笑みだった。憎たらしいが、あの笑みを浮かべている限り華琳は逃げない。二百数十を、三千で囲んで終わりだ。
「―――っ」
横合いから突風が過ぎり、覚えず一瞬顔を背けた。視界を掠めたのは、白い風。再び正面に目を向けると、つい今しがたまで前方を駆けていた味方が、突風が如き白い一団に吹き飛ばされていた。
「―――そう、あなたが私を」
曹子考。かつて華琳に屈辱を与えたいがために求めたことがあった。天の御遣いと噂されるこの男もまた、華琳への劣等感を抱えていることに気付いてからは、本気で欲しいと思った。それでも、誘いの言葉はどこか冗談交じりになった。今にして気付く、華琳と自分を秤に掛けられることを恐れていたのだ。そんなところでも、自分は華琳との勝負を避けていたのだ。
華琳不在の官渡で袁紹軍二度の大敗を指揮したのは、曹仁だという。もし本気で口説いていたなら、この戦の結果も別のものになっていたのだろうか。
―――いいえ、きっと変わりませんわね。
後方へ視線を向ければ、曹仁隊の一万騎はなおも皇甫嵩の遊撃隊に絡め取られていた。精鋭の百騎―――白騎兵のみを率いて、華琳の窮地に駆け付けたのだろう。
つむじ風が巻くように、急旋回して今度は真正面からむき出しの麗羽へ白騎兵が迫る。これは、華琳の風だ。悔しいが、自分の元に留まることはない。
「麗羽様っ、下がって!」
斗詩と猪々子が麗羽の前面に出て、それぞれに得物を構えた。
「袁家の二枚看板っ、舐めるなぁっっ!!」
猪々子が斬山刀をぶんぶんと振り回す。その巨大な刀身は圧巻で、比べれば曹孟徳の大剣と称される夏侯惇の得物すら迫力に欠ける。
「はぁーーっっっ!!」
斗詩も金光鉄槌を振りかぶる。猪々子の大剣をも上回る超重量の得物だ。
強固な重しとなった二人が、白の鋭鋒を跳ね返した。金光鉄槌を避け、斬山刀を受けた曹仁は、麗羽の元へと届くことなく馳せ去っていく。続く百騎の白騎兵もまた斗詩と猪々子を避けて二股に分かれ、麗羽の直ぐ真横をかすめるように駆け抜けていった。麗羽と斗詩、猪々子の三人だけを残し、周囲の兵が突き飛ばされていく。
ともあれ、窮地を脱した。脱したが、胸を撫で下ろす間も与えられなかった。
「麗羽」
白い風が駆けた軌跡を、今度は巨大な鉄の塊が突き進んでくる。馬蹄と金属音が響く中、不思議とさして張り上げた様子もないその声は麗羽の耳へ鮮明に届いた。
「華琳さんっ!」
宝刀を振りかぶる。その記憶を最後に、麗羽の意識は途絶えた。
「―――ここまでね、麗羽」
再び顔を上げると、すぐ近くに華琳の姿があった。
いつの間にか落馬していたようで、地面に身を投げ出していた。麗羽はため息を一つ吐いて立ち上がると、頬に付いた泥を手で拭った。
斗詩と猪々子も、華琳を遮る様に立ち上がる。二人も馬を失っていて、手には得物も無い。
音に聞こえた精鋭重装騎兵虎豹騎の突撃を、斗詩と猪々子、そして麗羽の三人だけでまともに受けたようなものだ。こうして生き長らえたことが、まずもって奇跡であろう。
「さて、どんな悪あがきを見せてくれるのかしら?」
華琳が皮肉気に笑う。
「ふうっ、こうなってはもう、仕方がありませんわね―――」
「―――はぁ?」
覚悟を決めたつもりでも、ちくりとした痛みが胸を走った。自らの半生を否定するようなものだからだ。
それでも、降伏すると、そう告げた瞬間の華琳の虚を突かれた表情。少なくともそれだけは痛快だった。