「お逃げください、桃香様」
「お姉ちゃん、早く逃げるのだ」
「焔耶さん、桃香様を連れて離脱してください。私達が敵を引き受けます」
皆が逃げろと、自分に言う。逃げて生き延びろと。
自分に、そんな価値があるのか。天下で五指に入るだろう三人の将軍と、天下で三指に入るだろう二人の軍師が命を賭してまで守る価値が。
死ねば、その答えを知ることも出来ない。だから駆け続けた。
焔耶が、旗下の二百騎を切り崩して敵軍を足止めした。焔耶自身も何度も敵軍に突っ込んでは戻り、満身創痍の体だった。
桃香の意志をくんで、的盧が駆けた。ともに走るために華琳から与えられた馬で、その華琳から逃げ続けた。
初め、揚州北部―――盧江郡を侵攻中の孫策達との合流を図った。だが桃香が戦場へ着く前日、彼女達も敗走した。逃げ落ちる兵をつかまえて話を聞くと、華琳自らの指揮であったという。つまりは懸命に逃走する桃香達をどこかで抜き去り、夏侯惇隊に合流するや孫策軍を討ち払ったということだ。
孫策軍追撃の軍に追われ、そこでも休む間もなく桃香達は逃げ続けた。気が付けば兵も両手の指で数えられるほどに減っている。焔耶は、馬にしがみついて今にも頽れそうな身体を支えていた。
孫策軍―――南を警戒する曹操軍の目を避けるため、焔耶の勧めもあって西進して荊州へ足を向けた。逃げた先にまた華琳が先回りしているのではないか。そんな恐怖と戦いながらの逃走劇は、盧江郡から走ること百数十里、焔耶の故郷でもある荊州義陽郡で終わりを告げた。
騒ぎを避けるため焔耶の郷里には近付かず、山間の小さな村で馬と引き替えに当面の宿を購った。
全身に傷を負った焔耶は意識は朦朧とし高熱も発していて、数日は立ち上がることも出来そうにない。それでも完全に曹操軍を振り切るまではしっかりと兵の指揮を執り、宿も確保したところでようやく倒れるように気を失ったのだった。生き残った八人の兵にも無傷の者は一人もいない。桃香だけが、傷一つ負ってはいなかった。
皆の回復を待つ間、手持無沙汰の桃香は村の中を散策した。傷の浅い兵が一人、断っても常に護衛のように付いてきた。
的盧も村の長に引き渡したから、自分の足で歩いて回る。手放したくはなかったが、的盧にとっては軍馬として使い続けるよりもずっと幸せなことと思えたからだ。優しい気性と太く力強い脚は、むしろ農耕馬にこそ適したものだった。
「桃香お姉ちゃ~ん、遊ぼっ!」
「は~い! 今行くから、ちょっと待って」
屋外からの元気な声に、物思いに耽っていた桃香は慌てて腰を上げた。
初め、見知らぬ大人の姿を遠巻きにしていた村の子供達との距離は少しずつ縮まり、今では宿として借り受けた村長の家の離れまで毎朝呼びに来るほどになっていた。子供達と過ごす時間は桃香にとって救いであった。兵と共に離れに閉じ籠っていると、様々な考えが浮かんでは消え、気の休まる間もない。
「桃香お姉ちゃん、おはよう」
「おはよう、みんな」
門前まで出ると、子供達が満面の笑みで待ち構えていた。
「今日は何して遊ぶの?」
子供達の先導で、村外れにある草地に着いた。
そっと振り返ると、護衛の兵は子供達を怖がらせないためか距離を取って身を隠すようにしていた。寡黙な兵で、村人や子供達との会話に混じることはほとんどない。
「えっとね、お話が聞きたい!」
真ん中に立つ女の子が言った。男の子二人に女の子が一人の仲良し三人組である。一つ年嵩の女の子が、いつも他の二人を引っ張っている。比較的豊かな村のようで、子供たちの笑顔は眩しい。
「お話?」
「うん! お父さんに聞いたの、桃香お姉ちゃん達、劉備軍の兵士なんでしょう!」
「う、うん、そうだけど」
村人にはただ劉備軍の兵とだけ伝えてある。江夏郡の黄祖と孫策軍の戦を鎮めた劉備軍の人気は荊州でも高く、それ以上詮索を受けることもなかった。
「劉備様のこと聞きたい! 劉備様ってどんな人? やっぱりお優しい? 桃香お姉ちゃんより綺麗?」
「えっと、私達はそんなに偉くないから、劉備、様と直接お話する機会はあんまりないんだ」
「なあんだ、残念。……でも、やっぱり。桃香お姉ちゃん、そんなに強そうに見えないもん」
「あはは。で、でも、お綺麗な人なのは確かだよ。うん、すっごく」
「そうなんだぁ。私もお会いしてみたいなー」
女の子がうっとりとした表情を浮かべる。
「みんなは、劉備様のことが好きなの?」
「うんっ、俺達もいつか、劉備軍で戦いたいんだ!」
男の子達が握り拳を作って言った。これまであまり気にしてこなかったが、二人は腰に手作りと思しき木剣を差している。
「でも、戦は怖いよ」
思い起こせば、ぶるりと背筋がふるえる。今も振り向けば、すぐそこに華琳が迫っているように感じられた。
戦そのものというよりも、華琳が怖かった。ほんの数ヶ月前までは、親しい友人であった。それが、敵として相対するとこんなにも怖いものなのか。これが曹孟徳を敵に回すということなのか。
「ははっ! 桃香お姉ちゃん、自分達だって劉備軍の兵士なのに情けないこと言ってら」
「大事なもの、みんな無くしちゃうかもしれないんだよ。……今の私達みたいに」
「桃香お姉ちゃんは弱そうだからなぁ」
桃香の実感を込めた言葉にも、子供達は少しも怯んだ様子はなかった。
「―――あっ、そういえば、劉備様はご無事なのかな? 桃香お姉ちゃん達、敵から逃げて来たんでしょう?」
女の子が、今さら気が付いたというように言った。
「ぽわぽわの桃香お姉ちゃんだって逃げてこれたんだぜ。劉備様がやられるはずないさ」
女の子の不安を取り除く様に、男の子の一人が力強く言った。
「何といっても劉備様には関羽将軍に張飛将軍、それに趙雲将軍が付いてるからな」
「しんさんきぼーの諸葛亮様に鳳統様だっているんだ、劉備様は無事に決まってる。ねっ、桃香お姉ちゃん?」
「えーと、……うん、そうだね」
男の子達の言葉に、桃香は曖昧に笑い返すことしか出来なかった。
戦場からは程遠い平和な空気の流れるこの村の子供達までが知るような英雄俊傑が、自分には付き従っていたのだ。思えば、夢のような話だ。今は愛紗と鈴々に会う前の、一人の劉玄徳でしかない。みんなを失った自分には何が残っているのか。夢は、覚めようとしているのではないのか。
孫策は自分を、戦場を駈けずり回る正義の味方と呼んだ。実際それはその通りで、民の危急を聞けば駆け付け、賊徒を成敗し、無用な戦には仲裁の手を伸ばし、時には力尽くで平定した。劉備軍に直接命を救われ、恩義に感じる人間は多い。その噂を聞いて、日々の暮らしの中で劉備軍に希望を見い出す者はもっと多いのだろう。だがそこに、どれほどの意味があったのか。華琳の様な為政者が民に感謝されることも無く、黙々と積み重ねてきたものの方が遥かに大きいではないか。多くの人間を巻き込み、ただ場当たり的に人助けを繰り返すだけの自分は、天下に無用の長物ではないのか。
桃香が思い悩む間も、子供達は想像の中の劉備軍の活躍に盛り上がり続けた。
静かだった村が騒然となったのはそれから三日後、村に滞在して十日ほどが過ぎ去った頃だった。
二百人ほどの賊徒が姿を現していた。賊はすぐに襲い来ることなく山と山の切れ目にある村の入り口に陣取って、食糧や金目の物、そして女性を要求していた。
「それで、要求を呑むんですか?」
離れまでやって来た村長に、桃香は問い質した。
「仕方ありません。交渉して、村の女の身柄だけは何としても守り通すつもりですが」
「それではまた次の収穫も、次の次の収穫もと、毎度要求され続けます。私達はそうして賊の食い物とされる村を、これまで何度も見てきました」
「それは、そうなのでしょうが」
劉備軍の兵士という触れ込みの桃香の言葉に、村長が困り顔でうつむいた。
二百というのは、賊としてはそれなりにまとまった数だ。いきなり攻め込まずに要求を突き付けるというのも手慣れている。すでにいくつかの村を生かさず殺さずの餌食としていることは、想像に難くない。
焔耶はまだ熱にうなされているが、八人の兵はほぼ回復している。桃香の自負するところ、生粋の劉備軍の兵は他のどこの兵と比べても精強だった。曹操軍であっても、曹仁の白騎兵や華琳の虎豹騎、夏侯惇の旗本くらいしか並ぶものはないだろう。八人のうちの半数は焔耶の子飼いの兵だが、これも荊州随一の練度を誇る厳顔軍の中からさらに選りすぐられた精兵である。たかが賊徒二百程度、原野戦のぶつかり合いなら八人で蹴散らせないではなかった。ただそれは陣形を崩して潰走させられるということで、さすがに殲滅出来るわけではない。一度は蹴散らせても、いつまでもこの村に留まって警護し続けるわけにもいかないのだ。
「交渉には、―――誰が?」
交渉には自分が出る、と言い掛けて桃香は別の言葉を口にした。
今さら自分がしゃしゃり出てどうする。愛紗達のいない自分に、賊徒を抑え込む力などない。
「それは私が。それで、申し訳ないのですが五人ばかり兵を警護に付けて頂きたいのです。いくばくかの私兵を養っていると思わせれば、賊も強くは出ますまい」
「わかりました。それなら私が―――」
「貴方様は出られない方が良いでしょう。奴らが貴方様の正体に気付けば、御身を曹操軍に引き渡さないとも限りません、劉備様」
「―――っ!」
気付かれていたのか。無言の問いかけに、村長もまた無言のまま小さく頷いてみせた。
乱世にあって一つの村をこれだけ平穏に、そして裕福に保ち続けた人間である。それぐらいの洞察力は持っていて不思議はないのかもしれない。
「貴方はそうしようとは思わないのですか? 報奨が得られれば、村はさらに潤うのに」
「子供達に嫌われたくはありませんからな」
村長の皺だらけの顔が、くしゃりと潰れたようにうごめいた。微笑んだらしい。桃香も笑みで返した。
「―――村長っ! 子供たちがっ!!」
村の男が一人、息せき切って駆け込んできた。
男に促され、桃香と村長は村の入り口へ向かった。後ろに兵も付いてくる。すでに村の男達の大半がそこに集まっていて、村長の到着を待っていた。
二百人の賊の集団。その中に小さな影が三つ混じっているのが確かに見えた。
「いったい何があった?」
「それが、賊の斥候が何人か村の中まで入り込んできたのですが―――」
村長の問いに誰言うとなくぽつぽつと声が上がった。
子供達は家を抜け出して賊の様子をうかがっていたらしい。侵入した賊に見咎められた三人は逃げるでなく、むしろ悪事を糾弾し戦いを挑んだという。
賊徒が居丈高に要求を叫び出す。集まってきた村の男達は話し合いを開始する。善良な村人達だった。誰一人として子供達の無謀を責め立てることなく、ただただその身の安全を図っている。
「―――村長さん、お譲りした私の馬を、しばしお返し頂けませんか?」
「劉備様、一体何を?」
「私が話をしてみます」
村長が劉備と呼んだことで、周囲の村人たちがざわめき始めた。こちらの素性に気が付いていたのは、やはり村長だけだったらしい。
兵達に向き直った。まだ軽く足を引きずる者もいるが、大方の傷は癒えている。
「皆は、村の入り口を固めて。……大丈夫、危なくなったら的盧と逃げるから。向こうの騎馬はほんの数騎だし、弓を持っているのも数人。私たちはあの曹操軍からだって逃げ遂せたのだから」
不服そうな兵に諭すように命じた。次に、いまだざわついたままの村人達に向けて口を開いた。
「私が彼らと話し合ってみるけど、いざという時のために、出来れば村の男の人たちも備えておいて欲しいの。前面には兵が出て槍を並べます。賊がどんなに騒ぎ立ててもそこで必ず足は止まるから、村の人たちはその後ろから弓を射たり、石を投げたり、とにかく攻撃して欲しい」
村人は頷き合うと、得物を求めて駆け出していく。すぐに戻ってきた者の中には、幸いにも弓が目立った。農耕で栄える村だが、山に囲まれた土地柄、狩りをする者も多いのだろう。
「あとは兵の指示に従ってください」
言い残すと、桃香は村長が引いてきてくれた的盧に跨り、ゆっくりと山賊達へと近付いていった。
「ほう、こんな村には珍しい上玉だな」
女一人と甘く見たのか、進み出たのは賊の頭領のようだった。四騎しかいない騎馬の一人で、横柄な態度からそれと知れた。
馬の前には、女の子を乗せている。涙を浮かべた少女と視線が合うと、桃香は声には出さずに、安心して、と口だけ動かした。
頭領の男は、夏侯惇が使うような大振りの刀を肩に担ぎ持っていた。二百人からの荒くれ者を束ねるからには、それなりに腕も立つのだろう。義妹達や星とは比ぶべくもないが、少なくとも自分より強いのは確かだ。
しかし、油断し切っていた。桃香を村からの献上品とでも勘違いしているのか、下卑た笑みを浮かべ、こちらを品定めするような無遠慮な視線を送ってくる。
「子供達を離してください。……って、あれ?」
「―――っ!?」
話し合いのつもりが、口を開けた瞬間には靖王伝家を抜き放っていた。剣を抜いて、同時に的盧が一歩踏み込む。ちょうど頭領の首に刃をあてがう格好になった。
「き、貴様」
剣を抜く動きだけは不思議と堂に入っている。そう桃香を褒めたのは、曹仁だった。
「―――お頭っ!」
「さがれっ!!」
華琳にでもなったつもりで、居丈高に叫んだ。動きかけた賊達がぴたりと止まる。自分がひどく憤っていることに、桃香はようやく気が付いた。
「もう一度だけ言います。子供達を離してください」
「わ、わかった。お、おい、お前らも」
男の子二人が、賊の集団の中から押し出されてきた。解放すると言われても、頭領の馬の前に座らされた女の子は恐怖で動けずにいる。
同じく凍り付いてしまっている男の子に、桃香は目配せをした。二人ははっとしたように駆け寄ると、女の子を馬から降ろした。
「村へ走って」
「は、はいっ!」
女の子の手を引いて、男の子二人が走り出した。女の子は何度も桃香の方を振り返りながらも、懸命に足を動かしている。
「ふぅっ」
子供たちの背が、村の大人達の中に紛れて見えなくなるまで見送ると、桃香は小さく息を吐いて剣を降ろした。
怒りに任せて剣を抜いたが、例え子供を質に取るようなどうしようもない悪人でも、情けないことに自ら手に掛けるのには躊躇いがある。直接人を殺したのは、いまだに徐州で曹仁を諌めた時のだた一度きりだった。そのことに後悔はないが、肉を断ち命を絶つ嫌な感触は今でも掌に残っている。
「貴様っ、何のつもりだ!?」
首筋を確認するように幾度も撫でさすりながら、頭領の男が叫んだ。
―――さて、どうしようかな?
まずは話し合いと思っていたから、この後のことは何も考えてはいなかった。
朱里と雛里がいれば、自分の行動全てに意味を持たせ上で、適切な次の一手まで提示してくれる。今は、桃香が自分で次に何をするか決めなければならない。まずは―――
「少しくらい力が強いからって、人数が多いからって、それで他人を虐げるなんて間違っています!」
まずは、お説教からだった。
「何を言ってやがるっ」
―――やっぱり、聞いてくれないか。
言葉で賊徒を降伏させたことは、これまでに何度もある。しかしそうする時はいつも、愛紗達の武が背後に控えていた。絶対的な力を背景にした、ある意味では脅しに近かったのかもしれない。何の力も持たない女一人の叫びなど、この乱世で耳に留めてくれる者はいないのか。
「あの村の食べ物は、村の人たちが汗水垂らして育てたもの。それを力付くで奪おうだなんて間違ってる。お腹が空いたのなら、自分で畑を耕せばいい。それまで我慢出来なければ、どこかの軍にでも志願すればいい」
それでも、桃香はさらに言葉を尽くした。
全てを失った。それでも言うべきこと、やるべきことは変わらない。変わるはずがない。この数日散々悩んでいたのが、馬鹿のようだった。無力だろうが、助けを求める民の声が聞こえれば、じっとなんてしていられない。持って生まれた性分だからだ。自分の戦いにどれほどの意味があったのか、未だ答えは出ない。名立たる英傑や数千数万の兵に命を託される程の価値が自分にあるのか、分かりはしない。だからって、劉玄徳であることをやめることは出来ない。
「うるせえっ、俺達が何でそんな面倒なことをしなくちゃならねえっ! 俺達には、あの村の連中よりも力がある。今の世の中、力がある奴が偉いんだ。勝った方が偉いんだよっ。あの曹操だって袁紹だって、自分がもっともっと威張り散らすために戦を続けているじゃねえかっ」
「一緒にするなっ!」
「―――っっ」
自分でも驚くような、大きな声が出た。
自分以外の人間に、華琳の志を汚されたくはない。華琳を否定して良いのは、罵って良いのは、―――親友である自分だけだ。
「……くっ、たかが女一人だ。―――やっちまえっ!」
頭領が部下に命令を下す。自ら刀を振るおうとしないのは、桃香の剣幕に気圧されているからか。
配下の二百人も、すぐに斬り掛かっては来なかった。桃香を決して逃がさぬというように、ぐるりと背後まで回り込んでからじわじわと近付いてくる。一様に浮かべた下種な笑みに、その醜い魂胆は明らかであった。
桃香は背後を振り返ると、こちらへ駆け寄って来ようとする兵に手振りで制止を命じた。落ち着いている。十数日前には曹操軍に、華琳に追われていたのだ。あの恐怖と比べれば、何のこともない相手だ。
「最後にもう一度だけ力を貸してね、的盧」
小さく囁きかけて、手綱を引き絞った。的盧が棹立ちになる。正面から接近してきていた賊二人を前足で蹴り上げ、勢いそのままに馬首を左へと転じて駆け出した。簡単に包囲を突破し、半里(二百五十メートル)ほども駆け抜けたところで桃香は馬首を返した。
二百人がこちらへ向けて駆けて来る。
賊徒からは、舌なめずりするような視線が注がれてくる。幸いにも賊の標的は完全に村から桃香へ切り替わっている。矢を射掛けてくることもなく、桃香を無傷で捕えようとしていた。食糧よりも女性を優先するあたり、さして窮乏しているわけでもないのだろう。止むに止まれずの襲撃ではないということだ。自らの力を振るうこと、他者を虐げることに躊躇いがない。桃香の予想通り、賊徒としてはそれなりに年季の入った者達らしい。
十分に引き寄せてから、二百人を掠める様にして今度は村の前を右へ駆け抜けた。靖王伝家を振りまわして威嚇する。賊の剣や槍が馬体にも桃香にも届かない絶妙な距離を的盧は駆けたが、でたらめに振った靖王伝家の刃先が偶然にも賊の槍にぶつかった。衝撃で取り落としそうになるのを必死で柄を握りこらえると、賊の持つ粗悪な槍の穂先は両断されて宙に舞った。
ただの僥倖だが、賊の気勢が殺がれるのをはっきりと感じる。音もなく剣を抜いて頭領を脅しつけたのと合わせて、桃香を剣術の達人か何かと勘違いしているようだ。
賊徒の周囲を駆け回った。翻弄している。頭領を含め数騎いる騎馬は、恐らく賊の中で高い地位にある者達だろう。騎兵は騎兵で追い込むべきところを、徒歩の二百をけしかけるばかりで自分達が出てくる気配はない。やはり桃香の剣技を警戒しているようだ。
引き付けては、引き離す。無謀なことをしている。実際の桃香の実力は、二百の賊徒のいずれにも及びはしないのだ。延々と綱渡りを続けている様なものである。的盧の脚と幸運、賊徒の警戒と下卑た魂胆に恵まれていなければ、いつ脚を踏み外してもおかしくはない。
しかし今は、自分の無謀を咎める愛紗がいない。一緒になって騒いでくれる鈴々もいない。皮肉げな笑みで見守ってくれる星がいない。自分の無策を補ってくれる朱里も雛里もいない。やれることを、やるしかなかった。
的盧の脚はまだまだ余力を残している。長駆なら、華琳の絶影よりも強いのだ。愛紗達ではないから、桃香に二百を叩きのめすことは出来ない。朱里達でもないから、敵と対峙しながら上手い策など思い付かない。このまま、まずは賊徒が諦め引き下がるまで翻弄し続ける。後のことは、それから考えるしかない。
「―――きゃっ!」
賊の横を駆け抜ける瞬間、的盧が滑り込むように倒れた。直後、桃香の頭上を矢が通り過ぎて行った。
「馬鹿野郎っ、女に当たったらどうするっ! ―――へへっ、今が好機だ、ひっ捕らえろっ!」
焦れた賊の一人が矢を射掛けたようだ。頭領は叱声を飛ばすも、すぐに上機嫌で賊をけしかけた。
的盧が桃香を乗せたまま立ち上がる。数歩駆けるも、徒歩ほども速さが出ない。倒れた時に痛めたのか、後ろ足を引きずっていた。
的盧は白鵠や絶影に劣らぬ名馬だ。自分に曹仁や華琳ほどの腕があれば、的盧もあんな無茶な矢の避け方はしなかったはずだ。
桃香は鞍から跳び下りた。的盧をかばうように前に出る。攻め寄せてきた賊は、桃香の構えた剣に気圧された様子で脚を止めた。まだ、桃香を剣術の達者と勘違いしている。
「一斉に掛かれ。そうすりゃ、どれだけ剣が遣えようが、所詮女の細腕だ」
頭領の言葉に励まされて、じりじりと距離を詰めてくる。
「――――! ――――!!」
背後で喚声が上がった。数千数万の鬨の声を聞き慣れた桃香には、いかにも頼りない小さな雄叫びだが、どんどんと近付いてくる。
半数を村の守備に残し、兵が四人駆けて来た。あらかじめ取り決めていたのだろう。残った兵は動揺することなく、四人で村の入り口を固めている。
駆けてくる四人は、生粋の劉備軍の兵士達である。長く苦楽を共にしてきた者達だから、以前から顔は見知っていた。今回の逃避行で、名前も知るところとなった。野宿の夜の慰みに、様々なことを語り合いもした。
四人が桃香の横を走り抜け、槍を突き出した。ただの一撃で賊は押し戻された。たった四人でも隊列を組んで、動く。賊などとは、練度がまるで違うのだ。
村から喚声が上がる。
「だめっ、下がってっ!」
桃香一人は悲鳴を上げた。
敵を崩し切れない。桃香をかばって、前に出られないからだ。やがて四人は、二百の中に埋没した。包囲され乱戦に持ち込まれれば、兵として磨き上げてきた隊列を組んでの動きは大きな意味を持たない。そうなってしまえば、五十倍の差は練度の違いでどうにかなるものではなかった。
飛び出しかけた桃香の身体が、引き戻される。服の裾を、的盧が咥えていた。
「的盧、離して。お願い」
まるで桃香の言葉を理解したかのように、的盧は歯を噛み締めたまま首を振った。
一人減り、二人減り、三人目も倒れた。残された兵一人が、血みどろになりながら槍を振り回している。ここ数日、護衛を務めてくれた兵だった。桃香には、見届けることしか出来ない。
「―――劉備様っ!」
ついに膝を屈した兵が、もう目も見えていないのか、槍を誰もいない虚空へ突き出した。賊は突然叫ばれた劉備の名に、困惑している。
桃香は、兵が槍で“指し示した”方へ視線を送った。
「―――あれは」
砂塵が目に入った。すぐに馬蹄の立てる響きも聞こえてくる。五十や百の立てるものではない。騎馬だけでも少なくとも数百。
桃香は愕然とした。村を襲う賊に、まさか兵を二段に分けるような周到さがあるとは考えもしなかった。
しかし数瞬で、様子がおかしいことに気が付いた。賊の視線も砂塵を捕え初めたが、援兵の到来に嵩に掛かって攻め立てるでもなく、一様に訝しげな表情を浮かべている。
たなびく旗が見えた。それは桃香を逃がすために、あの日敵中に留まった牙門旗だ。
もはや隠れようもなく視界に映る一団から、三騎が飛び出した。馬上には誰よりも見慣れた顔が並んでいる。
鎧袖一触。鈴々の丈八蛇矛に賊が宙を舞い、愛紗の青龍偃月刀が血飛沫を上げ、星の龍牙が静かに命を奪う。後続の兵を待つまでもなく、劉備軍の誇る関張趙の三将は二百の賊をたちどころに潰走させた。
追撃に入る味方を尻目に、桃香は四人の兵の元へ駆け寄った。積み重なる様に倒れる身体を抱きかかえ、一人ずつ並んで寝かせた。最後に、地面に膝をついたまま蹲る兵に近付いた。
「…………劉備様、ご無事で」
膝立ちの身体を横たえようと抱きかかえると、耳元で声が聞こえた。兵はまだ、生きていた。
「うん。賊は愛紗ちゃん達が退治してくれたから、もう大丈夫」
「そうですか。よかった」
声はしっかりと聞き取れるが、呼吸は弱々しい。下腹の傷は臓物まで達し、兵はすでにどうしようもなく死に捕らわれていた。
「ごめん、ごめんね。私なんかのために」
兵の膝の上に、ぽつぽつと水滴が落ちる。
「―――劉備様に、失礼を承知で申し上げます」
しばらく黙りこんで浅い呼吸を繰り返していた兵が、意を決した様に口を開いた。
「私風情が志などと口にすれば、たかが一兵士が思われるかもしれません。いえ、劉備様が思わずとも、他の諸侯ならば哂うでしょう。ですが、我ら兵にも叶えたい志があるのです」
兵が一言を発する度に、抱き寄せたその身体から命が零れ落ちていくのが分かる。制止すべきだという思いと、最後の言葉を聞き届けるべきだという思いが、桃香の中でしばし交錯した。
この兵が何を言うつもりなのか聞いてみたい。最後に桃香はその感情に従うことにした。
「それは劉備様、貴方です。劉備様の志を遂げることこそ、我らが本懐なのです。よその軍ではどうだか知りませんが、少なくともずっと貴方に付き従ってきた劉備軍の兵にとってはそうなのです」
浅かった呼吸はさらに浅くなっていく。それでも紡ぎ出す言葉には力があって、それがこの兵の命そのもののように桃香には思えた。
「ですから、兵の死を自分のためなどと嘆かれることはありません。お謝りになることもありません。我らは我らの志に殉ずるだけのこと。そして、御自分を卑下なさらないでください。それは、我らの志をも―――」
腕の中で完全に命が失われたのが分かった。桃香は、他の三人と並べてそっと亡骸を横たえた。
「みんな、ありがとう」
謝罪ではなく、感謝の言葉を口にした。
答えを得た気がしていた。
劉玄徳が劉玄徳らしく有り続ける限り、志に同調し、命を投げ出す人間は現れ続けるのだろう。だからって劉玄徳であることはやめられないし、やめることなどもう許されはしないのだ。愛紗や朱里達、兵達、そして無数の民に及ぶまで、桃香の志に共鳴し、夢を抱く者達がすでにいるからだ。なかには、死んでいった者達もいる。強くもなく、賢くもなく、当然華琳のように何でも出来るわけでもない。志を口にするだけの劉玄徳の価値も戦う意味も、彼らにこそある。ならばそれは、決して軽くはなかった。
「―――桃香様、お怪我はございませんか?」
賊を掃討し、愛紗達が桃香の元へ集まってきた。
「まったく、相変わらず無茶をなさる。肝が冷えましたぞ」
「あははっ! さっきのお姉ちゃん、鈴々達と初めて会った時のお姉ちゃんみたいだったのだ」
「みんな、どうしてここがわかったの?」
「桃香様がお連れの兵の中に、朱里と雛里が育てた諜報を為す者が一人含まれております。その者が、諜報部隊の者にしか分からない符丁を残していったようです。細かいことは、朱里達の口から直接お聞きください」
きっとあの兵だ。
寡黙で、他の七人とは故郷や家族のことなど語り合ったものだが、思い起こせば彼からは名前しか聞いていない。それも、諜報部隊が故だったのか。
「その朱里ちゃん達は?」
「戦の気配に我らは急ぎ駆けてきましたから、二人は少々遅れておりますが、直に―――、ああ、見えました」
愛紗が遠く逆巻く砂塵を指差した。兵に護衛される馬車が小さく見える。
「そっか、二人も無事なんだね。―――みんな、良かった。無事で良かったよーっ」
「桃香様、それはこちらの台詞―――」
愛紗に鈴々、それに星までを桃香はまとめて抱き締めた。
「と、桃香様、こういうのは愛紗と鈴々だけに。わ、私はそういう役回りでは」
「にゃははっ、星が照れてるのだっ」
「ほう、これは珍しい」
星が桃香の手から逃れようともがくのを、愛紗と鈴々が楽しそうに抑えつけた。桃香も楽しくなって、力いっぱい三人を抱き寄せた。
「四人だけで仲良さそうです」
「わっ、私達だけ仲間外れだよ、朱里ちゃん」
朱里と雛里が、四人のすぐそばに停車した馬車から飛び降りた。
「―――朱里ちゃん、雛里ちゃん」
「はわわっ」
「あわわっ」
桃香は自慢の三将を解放すると、今度は自慢の軍師二人を抱きすくめた。
「と、桃香様、私は」
いつの間にか村人に肩を借りて焔耶が村の入り口まで姿を現していた。
「焔耶ちゃんは、……今は安静にしてなくちゃ駄目」
「そ、そんなぁ」
焔耶ががっくりとうなだれた。
毎日交換している包帯には、まだ血がにじみ出している箇所もある。皆にしたように力いっぱい抱き締めれば、傷口が開きかねなかった。
「と、桃香お姉ちゃん」
声に視線を下げると、子供達が集まってきていた。
「大丈夫だった、三人とも?」
「う、うん」
屈んで頭の高さを合わせて聞くと、三人はおずおずと答えた。幸い、傷一つないようだ。
三人は視線を絡ませ合いながら何か逡巡している様子だったが、意を決したように女の子が口を開いた。
「あっ、あの、桃香お姉ちゃんが、りゅ、劉備様だったの?」
「うん。―――ううん。三人と、あと一人、それにそれだけじゃなく皆のおかげで、私は私に、劉玄徳に戻れたってところかな」
意味が分からず小首を傾げる三人に、桃香は笑い掛けた。