「おーほっほっほっ! 皆さんっ、洛陽にこの私、袁本初が帰って参りましたわよっ、おーほっほっほっ!」
曹操軍本拠許ではなく、天子の御座す洛陽への凱旋となった。
城内へ入る前から、沿道は見物に押し寄せた民でひしめき合っている。最後に洛陽を訪れてから半年も経ってはいないが、ずいぶんと人が増えた印象があった。
今、洛陽の政は月と詠が取り仕切っている。往時を知る二人だけに、かつての賑わいを取り戻そうと懸命な努力を続けていた。
一時横行した賊も、曹操軍が駐留し、それを徐晃こと華雄が率いるようになると鳴りを潜めた。楊奉の元で賊を狩り続けた徐晃の勇名は、狩られる対象であった洛陽近郊の賊徒の間では恐怖と共に知れ渡っている。
詠の政治手腕と徐晃の武。民に曹操軍を恐れる様子もないのは、月の人徳によるところが大きいだろう。元董卓軍の三者の個性が見事にかみ合って、洛陽は再び繁栄を取り戻しつつあった。
「曹仁様っ!」
白騎兵を率い先導する曹仁に沿道から声が掛かる。見知った顔に、曹仁は手を振り返した。馴染みの飲み屋の店員だ。
こうして掛けられる声援一つ一つに返せるほど、曹仁への歓声はまばらであった。白の具足に白馬を駆り、白騎兵を付き従える曹仁よりもなお一層目を引く存在が、すぐ後ろをやって来るからだ。
「おーほっほっほっ! おーほっほっほっ!!」
金色の具足に豊かな金髪。喧騒の中にあっても確かに響き渡る高笑い。白騎兵の先導に続いて虎豹騎、虎士に囲まれた華琳と、―――そして麗羽が馬を進めていた。
降伏した麗羽は以前にも増した尊大さで、堂々と華琳の隣に陣取っていた。胸を反らし民に手を振る姿は、到底連行される敗軍の将とは思われない。振り返った曹仁と視線が合うと、華琳は呆れ顔で肩をすくめてみせた。
「曹操殿、それに曹仁殿。この度の勝利、おめでとうございます」
城門まで迎えに現れたのは、前回訪れた時と同じく楊奉である。
「そちらは、…………袁紹殿ですかな?」
「誰ですの、このむさ苦しい御髭の方は?」
初対面のようではあるが、自己主張の激しい風貌に楊奉の方は当たりを付けたようだった。
「車騎将軍の楊奉よ、麗羽」
「あら、ということは私達の御同輩ですのね」
麗羽は漢王朝の文官の最高位三公の一つ太尉に、華琳は司空の任に就いている。麗羽の官位は帝を擁する曹操軍と敵対した後も剥奪されることなく、今も太尉のままだった。
一方で楊奉の就く車騎将軍は、常設の武官としては最高位に当たる驍騎、車騎、衛の三将軍の一つである。文官で言えば三公に相当し、麗羽が同輩と呼んだのもそのためだ。
「何度か、書簡を差し上げたのですが」
「手紙? そんなものを頂いておりましたかしら?」
「まあ、今となってはどうでもよい話です」
楊奉は口元を歪めて小さく笑った。麗羽に対する嘲笑ではなく、自嘲の笑みのようだ。
楊奉の言う書簡とは、曹操軍の元にも届いた、天子の救援を求めたものだろう。四世三公―――今では自身も入れて五世三公となった―――を名乗り当時最大勢力を有していた麗羽こそ、楊奉の本命であったはずだ。この賊上がりの男は、漢王朝最後の忠臣と言って良い。天子を気にも掛けた様子がない漢室の名族の姿に、思わず自嘲が漏れたようだった。
楊奉の先導で曹操軍の諸将は城門を抜けた。兵は白騎兵、虎士、虎豹騎だけを伴った。その三百数十騎も宮殿前の広場へ整列して残し、将は宮中へ進む。当然と言う顔で付いて来ようとした麗羽は、顔良と文醜に頼んで取り押さえてもらった。
謁見の間に入ると、時を置かず天子も姿を現した。月と詠を伴っている。
「皆の者、叛乱の平定、ご苦労であった」
一言、天子から直接労いの言葉があった。今回の戦は形式として、麗羽による河北の反乱を華琳が討伐した、という名目が立っている。
すぐに論功行賞が行われた。こちらは月の口からの発表である。漢朝の謁見の間で、天子の御前で執り行われはするが、実質は荀彧ら曹操軍の文官達が協議し、華琳が承認したものだ。曹仁らにも、あらかじめ内容は知らされている。
曹操軍の賞与であるから、本来なら一等に来るべき華琳の名は当然ない。官渡での二度の大勝が評価され、曹仁が勲功第一とされた。都亭侯の爵位を与えられる。これによって曹仁は許県にある城邑の一つを領することとなった。漢王朝の爵位と領地を有する者は、曹操軍内では春蘭、荀彧に続いて三人目である。
これに目の色を変えたのはやはり幸蘭で、代官の手配や税収の管理にと、曹仁に代わって早くも忙しく動き回っていた。与えられた本人としては慣れない領地経営など煩わしいばかりであり、華琳の定めた法令がしっかりと施行されていれば言うことはない。春蘭も管理は秋蘭に任せきりのようであるし、持つべきものはしっかり者の姉妹である。
叙勲や領地等は曹仁にとっては些細なことであり、気掛かりは皇甫嵩の身柄にあった。
皇甫嵩の扱いに関して、曹操軍の軍議では大いに揉めた。
将として取り立てるという華琳に対して、皇甫嵩は気ままな食客扱いを望んだ。つい先日戦場に立つまで、袁紹軍でもただ飯を食んでいたという。無遠慮な要求を、華琳は苦笑ながらも受け入れた。そこにはかつて仰ぎ見た名将に対する敬意を感じさせた。
軍議が紛糾したのは、その引き取り先に関してだった。
当然曹仁が名乗り出たが、それを危険視する声が荀彧を中心に文官達から上がった。すでに恋と音々音、高順が曹仁の庇護下におり、これに皇甫嵩まで加わることを懸念する意見である。ならば自分がと霞が声を上げるも、一層邪推する声は大きくなった。
―――天の御使いに見限られるような器かしら、私は?
華琳にそう投げ掛けられて荀彧が黙した。それで、曹仁の願いは通った。
もっとも、荀彧もさすがに本気で曹仁の謀叛を疑ってはいないだろう。天の御使いと言う特殊な肩書きに加えて、今回の功でさらに累進する曹仁に釘―――好意的に解釈すれば忠告―――を刺したのだ。
「―――――――。―――――。」
論功行賞の最後に降将の扱いが述べられる。それを聞き届け、曹仁はようやく胸を撫で下ろした。
宮殿を出ると、他の者は城外に設けた野営地か、曹家の邸宅―――洛陽滞在中の曹操軍首脳陣の宿舎兼役所として機能している―――へ向かった。そんな中、曹仁と霞が足を向けたのは大通りを南下して直ぐの一等地に建てられた皇甫嵩の屋敷である。
「ただいま」
「帰ったでー」
「お帰りなさい、曹仁将軍、霞将軍」
ぱたぱたと足音を鳴らして玄関まで姿を見せたのは、陳矯である。髪を頭巾で覆い、前掛けもして、手には箒を持っている。
「何や、従者に家の掃除までやらせとるんか、曹仁?」
「いや、俺が頼んだのは、将軍の見張りだけだったんだが。悪かったな、陳矯」
「いえ、私が勝手にしたことです。お気になさらないで下さい。お二人が滞在されるとなれば、汚れっ放しという訳にはいきません」
「ほんまに、良う出来た従者やなー。ウチのとこに来おへん?」
「引き抜こうとするな。―――陳矯、見張りの仕事は終わりだ」
「では」
「ああ、皇甫嵩将軍は正式に俺の客人ということになった」
「それは良かった」
曹仁の言葉を受けたのは、陳矯ではなく皇甫嵩だった。
話しながら廊下を進み、ちょうど居間へ入ったところである。皇甫嵩は食卓に腰を落ち着けると、暢気に杯を傾けていた。卓上には、無数の空瓶が転がっている。
「あんたなー、こっちは何か手違いでもないかと、いざ公布されるまでは落ち着かずにいたというのに」
「ふふっ、だからこそ、緊張を酒で誤魔化しているのだろうが。良かった良かった、ああ、恐ろしかった」
「ええ酒やん。どないしたん?」
早速御相伴に与りながら、霞が聞く。
「蔵にいくつも残っておったぞ。ご丁寧に紐で何重にもしばって、蝋で封をされておったわ」
「ああ、それなら屋敷を出る時に俺と順の二人でやった。高い酒ばかりだったからな」
「でかした。お陰で味は落ちていない」
言って、皇甫嵩はまた杯を傾けた。
「まったく、変わらないな、将軍は」
「将軍、か。今はお前の方が曹操軍の将軍で、私はただの無駄飯食いとなったわけだがな」
「そういえばそうか。……なら、真名で呼ぼうか? 美愛さんとでも」
「やめんか」
皇甫嵩は可愛らしい真名で呼ばれるのが相変わらず苦手らしく、頬を染めてそっぽを向く。その仕草は存外真名に似合いではあった。
「それにしても、お前に負かされる日が来るとはな」
皇甫嵩が露骨に話題を変える。
「勝ったつもりはないが」
「私はお前を阻むという目的を達せず、お前は曹操殿と袁紹殿の元へたどり着いた。どう考えても私の負けであろうよ。まさか、一万騎を捨てて行くとはな」
猛然と駆け回る皇甫嵩の七千騎の相手は、困難を極めた。まともにぶつかれば相打ちはまぬがれ様がなく、時を掛けて馬の消耗を待っていては皇甫嵩の狙い通りである。曹仁は、犠牲を覚悟で七千騎とぶつかり合った。そして混戦の中を白騎兵と共に離脱し、華琳の元へ参じたのだった。残された騎馬隊はその一度の衝突で一千騎を失い、指揮官不在のままさらに五百騎を討ち取られた。たった一度の用兵で受けた犠牲としては、あの戦を通じて曹操軍最大のものとなった。皇甫嵩に勝ったなどと、到底誇る気にはなれない。
「兵の犠牲を気にしているのか? しかしお前の働きが無ければ、曹操殿が討たれていた可能性も低くはない。そうなればあの戦の犠牲のみならず、曹操軍旗上げよりの全ての戦死者の命も無駄ということになる」
「それはそうなんだろうし、次があってもまた同じことを俺はするだろうさ。だからって、将軍に勝っただなんて無邪気に喜ぶ気にもなれないけどな」
「まったく、変わらぬというなら、お主のそういうところこそ変わらんな。だいたい、敗れた私に励まさせる奴がいるか」
そう言って大笑すると、皇甫嵩は杯の酒を飲み干した。その姿はやはり、以前と変わりないものだった。
「しっかし、この屋敷で再び皇甫嵩と酒を飲む日が来るとわなー」
霞が、皇甫嵩の空いた杯に酒を注いでやりながら言った。
「戦に負けようが、生きておればこうして悪くない時間も巡ってくる。そういうことだな」
いたく感慨深げに、皇甫嵩が言う。何と返すべきから分からず、曹仁と霞は顔を見合わせた。
「一ヶ月ほどは洛陽に留まる予定だ。恋と音々音、それに順にも連絡しておいた。恋と音々音は数日中にこっちへ来るだろうが、順に会えるのは許に戻ってからかもな」
当たり障りのない連絡事項を曹仁は口にした。
「ふむ。恋と音々音は曹操軍の本拠地許、順は行商で西涼だったな」
「ああ。順を見たら驚くぞ、すっかり大きくなって」
「もう曹仁よりずっと背も高いしな」
「ぐっ。まあ、しっかり比べたわけではないから、正確なことは分からないけどな」
「いやいや、比べるまでもないやん。アンタよりも牛金に近いくらいやんか」
「ははっ、そうかそうか。順に背を抜かれ、そのうえ引き離されたか」
皇甫嵩が朗らかに笑う。曹仁もつられて笑い返しながら、上着の袖を捲った。
「さてと、酒ばかり飲んでも身体に障る。何かつまみでも用意するか。―――陳矯、私事だが一つ頼む」
曹仁は所在なげに控える陳矯に、食材の買い出しを命じた。その間に、曹仁自身は数年も放置された厨房を何とかしなくてはならなかった。
「―――なるほど、学校というのはそういったものか。いずれ朕の元にも曹操の学校を出た者が仕えることもあるかもしれんの」
学校制度についての諮問に華琳が答えると、帝はそう言って話をまとめた。
「はい、私もその日を心待ちにしております」
この帝は存外に頭が良い。
学校制度を端から嫌う士大夫が多い中、その意見に流されずにしっかりと利点をとらえている。広く民から優秀な人材を募れば、政は従来よりも格段に良くなる。士大夫達にとっては栄達までの競争相手が増えるということだが、彼らの多くはそんな危機感すら抱いてはいない。学問という特権を侵されることに嫌悪感を覚えているだけである。眼前の幼帝が認めたその本質を見据える者は少なかった。
帝が政治に関心を持ち過ぎるのは、曹操軍にとってはあまり喜ばしいことではない。ただ利発な皇帝にものを教えるのは楽しくもあり、政治向きの諮問にもつい華琳は本気で答えてしまうのだった。桃香への授業が、華琳自身が今まで気付かなかった性分を表に出したのかもしれない。そして生徒として帝は桃香よりもよほど優秀だった。
官渡での決戦を終え洛陽に凱旋してから十日が経過している。その間、華琳は毎日伺候して一刻(三十分)余りも帝と言葉を交わしていた。帝の方もこの時間を楽しみにしてくれて、通される後宮の私室は人払いを済ませ、触れ合うような親しい距離まで膝を進めての歓談であった。
「それでは、本日はこれで―――」
暇を告げ掛けた華琳の眼前で、帝の体がぐらりと傾いだ。咄嗟に伸ばした華琳の手が届くより早く、帝は自ら踏みとどまって顔を上げた。
「―――最近、頻々と伺候してくるが、お目当ては朕か?」
「やっと出たわね、天子」
「おや? 前回とも、劉協が相手の時とも随分と態度が違うの?」
「貴方はこの国の民の、―――私達の意志の集合体なのでしょう? 自分達の分身みたいな存在を相手に、畏まって恐れ敬うなんて馬鹿げているじゃない」
「ふふっ、その考えはなかったわ。まあ、好きにするが良い」
「前回と言えば、貴方、突然陛下に代わるんじゃないわよ。あの後どれだけ弁解に苦労したか」
他の目も無く天子と二人きりであるから、許可が出た以上華琳は口調を改めず、さらに注文を付けた。
「ふむ、それも思い至らなかったな。今後は配慮しよう」
「お願いするわ」
「それで、今日の用件は何じゃ?」
天子が身を乗り出した。
私室ではあるが一応形ばかりの小さな高段があって、天子の座所となっている。先刻までの帝は行儀よくそこに納まっていたが、姿を現した超常の天子は高段を椅子代わりに腰掛けた。そもそも人の礼儀作法に納まる存在ではない。華琳も堅苦しく定められた作法など煩わしいと思う性質であるから、気にせず続けた。
「ええ、前回聞き忘れていたことがあってね」
「ほう、なんじゃ?」
「それは、―――っ」
「どうした、何を躊躇っておる? お主らしくもない。……この感情は恐怖と緊張。それにわずかに混じるこれは、思慕かの」
「あっ、貴方、他人の心が読めるの!?」
「朕は民の意志の結晶であると自分で言うたであろうが。普段は個々人の思いまでは判別出来ぬが、これだけ近くにおれば流れ込んでくる感情の出所くらいは分かる。まあ、安心するが良い。読むというほど、はっきりと見通せるわけではない。何となく感じる、という程度のものよ」
「本当に、人ではないのね」
「なんじゃ、まだ疑っておったのか?」
「そういうわけではないけれど。陛下の狂言にあの子―――仁がのせられている可能性も捨てきれなかったわね」
「まったく、疑り深いのう。愛しい男の言うことくらい信じるものじゃぞ」
「―――っ、どっ、どうしてそれをっ!?」
「ふふっ、やはりか。お主が曹仁の名を口にした時、先刻と同じ思慕の念を感じたのでな。ふむ、ということは、今日参ったのも曹仁に関係することじゃな?」
「はぁ。……まったく、人外の相手は疲れるわね。ええそうよ、仁の事で聞きたいことがあるわ」
超常の存在相手にこちらも躊躇いなど無意味と、華琳は開き直って用件を口にした。
天子との会話は半刻ほど続いた。最後に天子は華琳の注文通り、帝がそうしていたように段上で居住まいを正すと意識を絶った。
問答の最中に居眠りをしてしまったと、しきりに恐縮する帝を宥めるのには、さらに半刻を要した。
「―――あっ、兄ちゃんだ」
宮殿を出たところで、季衣が声を上げた。
大通りの喧騒を歩く曹仁の姿があった。傍らには霞に皇甫嵩、それに呂布と陳宮までいる。女を侍らせるちょっとした遊び人の様相だ。
「華琳っ」
こちらに気が付いた曹仁は、霞達にぺこぺこと頭を下げると駆け寄ってきた。
「無理をなさらずとも良いのよ。せっかく綺麗どころをあれだけお揃えになったのだから、ゆっくりお楽しみなさいな」
「季衣、流流、代わるよ。華琳のお供ばかりで、あまり洛陽の街は見て回っていないだろう。少し遊んで来ると良い」
華琳の皮肉は無視して、曹仁は護衛の二人に話しかけた。
「えっ、良いの、兄ちゃん!」
「ええと―――」
季衣が諸手を挙げて喜び、流流は窺うような視線を華琳へと投げ掛ける。
「構わないわ、流流。遊んでらっしゃい。老舗の料理屋も戻ってきているようだし、夕食後に戻れば良いわ。許や陳留と違って歴史ある街だから、貴方にも良い勉強になるでしょう。お代は私が持ってあげるから、これも仕事と思ってちゃんとしたお店で食べて来なさい。この辺りの店のことは、―――あちらの方々が詳しいでしょう」
「わぁいっ、行ってきまーすっ! 恋っ、久しぶりー」
「ああ、もうっ、待って、季衣。―――それでは華琳様、失礼致します。兄様、後をお願いしますっ」
季衣が、こちらの様子を窺っていた皇甫嵩達一行の中へ飛び込んでいき、流流が一礼するとそれに続いた。
「いつの間に季衣は呂布と親しくなったのかしら?」
「大食い仲間だからな。よく飯屋で会うみたいだ。それに、季衣は恋の働いている店の常連らしいし」
「呂布が働いている店?」
「ああ、言ってなかったか。飯屋で働き始めてな。可愛くて愛嬌もある看板娘だって、許の街ではちょっとした評判になってるぞ」
「ふうん。……それで、わざわざ皆と別れてまで二人きりになって、私に何か用かしら?」
「いや、用ってほどのこともないんだが。最近二人きりになってないしさ」
「そうね。貴方は皇甫嵩の屋敷にばかり入り浸っているものね」
「……怒ってるか? 恋や音々音が許からやってきて、月さんや詠、華雄殿もよく来るし、朝廷の人間やら商人やらも訪ねてくるから、一応将軍の引受人としてはなかなか席を外せなくて」
「別に。貴方に皇甫嵩や呂布を預けると決めたのは私だし」
「やましいことは何もないぞ。そりゃあ、昔は将軍の囲われ者だなんて噂が立ったこともあるが―――」
「……」
言い募る曹仁を、華琳はじっと見つめた。そうしながら、天子から聞いたばかりの話を頭の中で整理する。
曹仁を元の世界に戻そうと思えば、すぐにも可能だという。
この世界と強い縁を持つが故に選ばれた曹仁ではあるが、されどもいかんせん異物であり、生まれ落ちた世界とはより強く結びついている。超常の力をもってこの世界に縛り付けているのが現状であり、束縛から解き放てば、あるべき縁に導かれ元の世界へと帰るという。
一方で、一度元の世界へ戻した曹仁を再び呼び戻すとなると、大きな力を必要とする。まがりなりにも中華全土が漢朝の統治下にあった十数年前でさえ、曹仁を呼び寄せた後に天子は表に出ることもままならないほど力を消耗している。戦乱が続いた現在、人間一人を召喚するほどの力は天子には残されていないという。
つまり曹仁は元の世界に帰ることは出来ても、再びこの世界に戻ることは―――少なくとも泰平の世を実現しない限り―――出来ない。
「……貴方、今でもまだ元の世界に帰るつもりはあるの?」
「もちろん」
華琳の問いに、曹仁は拍子抜けするほどあっさりと即答した。
「―――っ、そう、やっぱり帰りたいのね」
「ああ、でも今すぐじゃない方が良いよな。やっぱりこういうのはちゃんとしてからじゃないと。まだこっちの世界の皆にも秘密にしてるわけだし。皆にも伝えて、出来ればその、……結婚、した後とか」
「…………貴方は、何を言っているの?」
「だから、里帰りのことだろう? むこうの家族にもお前のことを紹介しないと。天子に相談すれば、何とかなるのかな」
「……それは、私も一緒に行くのかしら?」
「そりゃあ、一人で帰って恋人が出来ました、結婚しました、なんて報告しても馬鹿みたいだろう。二人で行くか、場合によっては三人、―――ちょっ、ちょっと子供は気が早かったなっ。いや、それを言うなら結婚もか」
「……質問の間が悪かったわね」
皇甫嵩や呂布との関係を言い繕っていた曹仁には、華琳の問いが“華琳を連れて元の世界へ帰るつもりがあるのか”と聞こえたらしい。転じて、“華琳を家族に紹介する気があるのか”と。
「―――はぁ、馬鹿らしい。帰るわよ」
華琳は曹家の邸宅へ向けて踵を返した。
「ええと、まっすぐ帰るのか? ……どこかに寄ったりは?」
小走りで横に並んだ曹仁が、華琳の顔色を窺いながら言った。
「季衣と流流の代わりの護衛でしょう。護衛が寄り道に誘ってどうするの」
「……はい」
皇甫嵩の屋敷と同じく、曹家の邸宅も宮殿からそれほどの距離は無い。
「ええと、手を繋いだりは?」
「護衛と手を繋ぐものかしら?」
「……はい、仰る通りですね」
少し苛め過ぎたか、曹仁は肩を落としてとぼとぼと付いてくる。
「ちゃんと、私の部屋の前までは護衛として勤めなさい」
「―――っ、了解っ!」
照れた表情を作って囁くと、曹仁は弾けるように背筋をぴんと伸ばし、元気の良い返事をした。
「まったく、調子が良いんだから」
呆れた風でぼやくも、華琳も作ったはずの表情が顔に張り付いて剥がれなかった。