「もうっ、がっつき過ぎよ」
部屋の扉が閉まるのと同時に、曹仁は後ろから華琳を抱きすくめた。
「華琳が焦らすから」
「仕方がないでしょう、仕事なのだから」
結局、曹家の邸宅に戻ってからも華琳は来客や書類仕事に追われた。夕食も月や詠達に街の有力者も加えて一席設けられ、二人が華琳の私室へ戻る頃にはすでに日も落ちていた。
土木工事を司る司空の華琳には、目下再建中の洛陽ですべき仕事は確かに多い。もっとも、大尉である麗羽がそうであるように、ただの肩書きと割り切ることも出来る。しかし華琳は陳留や許でそうした様に、洛陽でも計画的な都市開発を行うつもりのようだった。口にはしないが、一度荒廃してくれたのは好都合とすら思っているだろう。今回、本拠許を差し置いて洛陽にしばしの滞在となったのも、それが主な理由である。
「さて、貴方には今回の戦働きのご褒美をあげないとね」
曹仁の腕の中からするりとすり抜けると、華琳は寝台の端に腰掛けて、隣をぽんぽんと叩いて示した。
「褒賞なら、すでにもらっているけど」
促されるまま隣に腰を降ろしながら曹仁は返す。肩と肩が密着して少し窮屈なくらいだが、二人きりの時はそれが当たり前の距離感となりつつある。
「あら、いらないの?」
「まあ、ものによるかな。爵位や領地なんて、これ以上貰っても仕方ないし」
「―――ふふっ、何だと思う? 私からの“ご褒美”」
華琳がそう言って、ぴったりと張り付いた肩の下から曹仁の顔を覗き込む。ご褒美、という言葉には艶めかしい響きがあった。
「はっ、働きと言うなら、今回の戦は本来なら俺じゃなく華琳が戦功第一だろう」
「むっ」
話を逸らされたと思ったのか、華琳がわずかに気色ばんだ。
「だから、褒美をくれる相手のいない主君の華琳にこそ、俺からご褒美をあげたいな」
「……ふうん。まあ、どちらにしても同じことだし良いけれど」
「それじゃあ、具体的に何が欲しいのか、華琳の口から聞かせてくれないか? ご褒美だからな、ちゃんと華琳の望むものをあげたい」
「っ」
してやられた、という表情を華琳がした。
華琳はこういう時の曹仁の反応を楽しんでいるふしがある。楽しそうにする華琳を見るのが好きだから、普段はやられっ放しの曹仁であるが、こうして不意打ちでやり返すと可愛い反応が返ってくる。
「……褒美と言うのなら、私の手を煩わせることなく、何を欲しているか察して欲しいものね」
しばし無言で考え込んだ華琳は、寝台に身を倒しながら言った。
「いやいや、失礼があっては困るし、ぜひはっきりと教えてもらいたいな」
曹仁は上から伸し掛かる様にして華琳と目を合わせた。寝台に手を付いて身体を支えているから、互いの肌は少しも触れ合ってはいない。いないが、華琳の息遣いと体温が、肩を寄せ合ったり、口付けを交わす時以上に近くに感じられた。
「麗羽のせいであまり二人の時間を取れなかったけれど、私達が交際してもう随分経つわね」
ぷいと目を逸らして、華琳が言う。
「ああ、今日でちょうど半年だ」
「あら、覚えていたのね」
ちょっと意外そうな顔で、華琳が言った。
「そりゃあな。というか、華琳が覚えていたことにびっくりだ」
「当たり前でしょう。女の子は、記念日が好きなものよ」
「華琳が女の子か」
「何よ、私が女の子じゃないとでも?」
「いや、もちろん誰より可愛い女の子だ」
「ふん、分かってるじゃない。それで、記念日好きの女の子としては、半年の節目に何かあっても良いと思うのだけれど?」
「そうだなー、石碑でも建てようか。それとも、皆呼んで宴でも開こうか」
「もうっ、もったいぶって」
ちょんと、唇と唇が触れた。二度、三度と柔らかな感触が続く。曹仁は身体を支える腕の力を緩めてはいない。華琳から首を伸ばして、小鳥が啄ばむ様な優しい口付けを繰り返してきていた。
「…………これで分かった?」
「……ああ」
これまで、口付けは数えきれないほど交わしている。寝台に並んで腰を降ろすのもすでに特別なことではない。華琳が踏み込んだのは、ほんの小さな一歩だった。しかしその一歩は、確かに今まで踏み出せずにいた一線を越えた。
そこからは、無我夢中だった。
自分の身体がどう動いているのかも曖昧模糊としていた。ただ、薄闇の中に浮かび上がる白い肌が、脳裏を埋め尽くす。
曹仁が自分を取り戻したのは、すでに窓の隙間からうっすらと陽光が差し込む頃合いだった。いつの間にか眠って目が覚めたところなのか、それとも今の今まで行為に没頭していたのか。それすらも判然としない。
目の前には頬を膨らませて不機嫌そうな―――少なくとも表面上は―――華琳の顔があった。
「まったく、何回すれば気がすむのよ。私へのご褒美ではなかったのかしら?」
「そのうちの半分は、華琳の方から求めてきた気がするけど。華琳が上になっている時間の方が長かったし」
あやふやな記憶を曹仁は探った。異性とは初めてと言っても、同性相手に培った膨大な経験値が華琳にはある。痛みがいくらか治まった後半は主導権を握られっ放しだった。
「うるさい、言い訳しない」
華琳が、ぎゅっと曹仁の二の腕をつねった。
「っっ、悪かった、すまん」
確かにご褒美と言うには、良い思いしかしていない曹仁に対して、華琳には苦痛も与えてしまっている。
「別に謝るようなことでもないけれど」
曹仁が素直に謝罪すると、それはそれで面白くなさそうに華琳が唇を尖らせた。
「えっと、それじゃあ、……ありがとう?」
「疑問形なのが癪に障るけど、まだその方が納得出来るわね」
「うん、俺もその方がしっくりくるな。ありがとう、華琳」
気を良くした表情で、華琳が布団の中で身をもたせかけてきた。女性らしいふくらみに乏しい身体ではあるが、やはり曹仁と比べるとどこもかしこも柔らかい。そんな中にあってわずかに張り詰めた突起が、曹仁のわき腹をくすぐった。
「じゃあ、やっぱり今回のは貴方へのご褒美ね。私へのご褒美は、また今度別に貰うわ」
「……」
「うん? 何をもぞもぞと、…………貴方、あれだけして何でまたそんなに元気になっているのかしら?」
「だって華琳が、ご褒美とか言うから」
「いっ、今のは、そういう意味で言ったわけじゃないわよっ」
曹仁が落ち着きを取り戻したのは、起き出し、衣服を身に纏い始めてからだった。
「―――今日の予定は?」
「午後から郊外で調練。それまでは特に何も」
手を休めて、曹仁は答えた。返答するだけなら手を止める必要も無いが、ちょっと視線を送った華琳―――膝上まであるいつもの靴下に足を通している―――に目を奪われたからだ。
「……いかんいかん」
再び情欲に駆られかけ、曹仁は頭をぶんぶんと振ってそれを追い出した。
洛陽には、現在曹仁と霞の隊が駐留している。春蘭ら将軍達も、荀彧ら文官達もすでに許に帰還していた。凱旋ということで戦功第一の曹仁と、第二位の霞―――華琳の指揮下で劉備軍を破り、また蹋頓単于を捕えた―――が、華琳と共に洛陽にしばしの滞在と決められていた。華琳の護衛であり、恩賞としての休息も兼ねている。
霞の方は息抜きと割り切ったようで、皇甫嵩と昼間から酒をあおったりしていた。神速と謳われ、調練の苛烈さでも有名な霞であるが、休める時には休むし休ませるという方針である。最低限の調練を課すだけで、兵も自由にさせていた。
一方曹仁の隊は、皇甫嵩の騎馬隊とのぶつかり合いで千五百騎の欠員が生じている。すでに新兵の補充は受けているが、彼らに曹仁隊の動きを教え込む必要があった。曹仁は皇甫嵩らに付き合う傍ら、空いた時間は極力調練に当てていた。
「それなら、―――何よ? にやにやしちゃって」
衣服を整え、最後に華琳は腰に剣を佩いた。曹仁の腰の物とよく似た造りは、言うまでもなく倚天の剣である。曹仁の青紅の剣とは対となる一振りだ。
「いや、華琳が剣を佩くのは珍しいな」
「……季衣と流流の護衛なら必要ないのだけれど、貴方一人だと頼りないのよ」
頬をうっすらと染めながら、華琳はそんなことを言った。
「ふーん。それじゃあ、今日も護衛は俺にお任せ頂けるので?」
もう少し華琳と一緒に居たいから、それは曹仁の望むところでもある。
「午前はね。宮殿へ行くから付いてきなさい。午後からは、……そうね。最近は貴方達に任せきりだったことだし、私もたまには調練に参加しましょう」
華琳も気持ちは同じようで、調練までの半日だけでなく、今日は一日一緒ということになった。
「今日は軍営に泊っていこうかしら」
華琳は出来るだけ何気ない口調で呟いた。
調練を終え、今は兵が食べるのと同じ食事を振る舞われていた。軍営の方々で火が焚かれ、華琳は曹仁と牛金、それに無花果(いちじく)の四人でそのうちの一つを囲んでいる。
凱旋の軍であるから朝廷から―――実際には朝廷を経由して曹操軍から―――肉や酒が下賜されていて、食事の味はそう悪いものでもなかった。
「それでは、すぐにお部屋を御用意いたします」
無花果が食べ掛けの器を置いて、跳ねるように立ち上がった。
「別に部屋は、―――ええと」
「?」
すぐにも駆け出して行こうとする無花果を、華琳は咄嗟に呼び止めた。そこで言葉に詰まる。
「……俺の部屋の隣が一つ空いていただろう? あそこで良い」
「はっ! ……しかし、華琳様のご宿泊所には狭いですよ?」
「構わないわ。軍の視察に来たのだから、その暮らし振りを体験するのも悪くないでしょう」
「はっ! それではそのように致します」
無花果が駆け去っていく。
「無花果は良い子ね。ちょっとした命令一つで嬉しそうに駆け回って、子犬のような愛らしさがあるわ」
「無花果?」
「……? 貴方、ひょっとして無花果―――陳矯の真名を知らないの?」
「ああ、陳矯のことか。そういえば聞いていなかったな」
「呆れた。あれだけ良い様に使い回しておきながら」
「俺には代わりに預けるべき真名がないからな。自分の方からは言い出し難いんだよ」
曹仁が言い訳がましいことを口にする。
半日調練を見物していたが、曹仁が真名で呼んだのは一人だけだった。たった百騎の旗本白騎兵の中にさえ、真名で呼ぶ相手はいなかった。
「兄貴、俺は今夜は城内―――司馬防殿のお屋敷にお世話になりますので」
「……ああ。司馬防殿、それに娘御によろしく伝えてくれ、角」
「はっ」
空になった器を持って、その唯一の例外である牛金が立ち上がった。華琳へ頭を下げると、大股で歩き去っていく。
「……気を使われたな」
「何の話?」
「俺の部屋の隣だが、今陳矯に用意させている空き部屋と、もう一方が角の部屋だ」
「牛金に、気付かれている?」
「たぶん」
「これは、春蘭達に気付かれるのも時間の問題かしらね」
「そうだな。今日みたいに急に連れ立って調練に現れたり、いつもはしていないお揃いの剣を佩いたりしていれば、すぐに気付かれるだろうな」
「何よ、私のせいだって言いたいの? それを言うなら貴方だって、今日は一日中締まりのない顔をしていたわよ」
「そんなことは―――」
「華琳様、曹仁将軍、お部屋のご用意が整いました」
「―――っ、そっ、そうか。御苦労だったな。案内がてら俺も部屋に戻るから、お前も今日は下がって良い」
「はい! お疲れさまでした、曹仁将軍、華琳様」
直立する陳矯に見送られ、華琳と曹仁はそそくさと兵舎の中へと逃げ込んだ。
「聞かれたかしら?」
「多分、大丈夫じゃないか? 何かしら察したなら、陳矯ならもっと顔に出るだろうし」
そんなことを話しながら木造の廊下を歩くと、すぐに目的の部屋へ付いた。
「それじゃあ、入ってくれ」
「お邪魔するわね。―――うわっ」
曹仁に続いて部屋に一歩足を踏み入れた華琳は、そこで足踏みする。物理的に前に進むことが出来ないから、二の足を踏まざるを得ない。
「想像以上に狭いわね」
招き入れられたのは、当然陳矯が用意した空き部屋などではなく、曹仁が使用中の部屋である。
室内には寝台が一つに、書机と椅子が一揃え置いてあるだけだ。寝台で部屋のちょうど半分が占拠され、書机と椅子でさらに残りの半分が埋まる。つまり一歩入るとそれで行き詰る部屋だった。
とりあえず並んで寝台に腰を降ろすも、華琳は何度か尻の位置を改めた。あまり上等な布団ではないから、常にない堅い感触が返ってくる。
「これは兵と同じ間取り?」
「いや、兵は八人部屋。個室は校尉からだ」
「ああ、そういえばそうだったわね」
自ら調練の指揮を取らなくなって久しいが、知識として軍営での決まりは頭に入れてある。
「貴方は将軍なのだから、もう少し広い部屋を用意させたら?」
「許ではこの倍はある部屋を使ってるさ。今は兵の皆は幕舎だし、しっかりした屋根と壁があるだけ上等だよ」
兵舎は、本来徐晃率いる洛陽の駐屯軍のためのものである。一時的な駐留に過ぎない曹仁隊と霞隊の者は、今は幕舎暮らしだった。校尉以上の者だけが、兵舎に部屋を間借りしていた。
「倍といっても狭いわね。兵に合わせて清貧を気取ることが良いとは限らないわよ。偉くなれば相応の待遇が得られると知らしめるのも将の務めよ」
「それはそうなんだろうけど、こればっかりは性分だな。そういう役は、春姉達に任せるよ」
春蘭や秋蘭達も無駄に豪奢な生活を送っているわけではない。ただ戦時ならともかく、平時にまで無闇に兵と労苦を分かち合うようなこともなかった。
曹仁の兵との付き合い方は、他の将と比べるとかなり密と言える。一方で真名の件からも伺える通り、どこか一線を引いてもいた。兵の死に心を動かし過ぎる自分を自覚しているからだろう。
春蘭などはお気に入りの兵―――大抵、華琳と似た小柄な美少女だ―――には真名を許し、従者や旗本に引き上げたりもしていた。女だてらに軍に志願する者は氣の扱いに長けた腕自慢が多く、結果的には春蘭の旗本は精鋭揃いとなっている。
春蘭も春蘭で問題だが、曹仁は曹仁で面倒臭い。
「……まあ、貴方はそれで良いのかもね」
元々、あまり戦に向いた性格とは言えない。呂布との戦いには苦悩していたし、敵兵とはいえ連環馬で五万の命を蹂躙したことには未だ自責の念を抱えている。この先、桃香達ともう一度戦うことになれば、また心を痛めるだろう。
―――我ながら、性格の悪いこと。
それでも曹仁が戦場から逃げ出さないのは、自分の志を叶えるためだ。つまりは、自分に惚れているからだ。
そう思うと、華琳はぞくぞくとした充足感を覚えるのだった。桃香なら多分、こんな屈折した思いは抱かないだろう。
桃香に限らず、曹仁に好意を持っている人間は少なくない。幸蘭や蘭々は間違いないし、春蘭と秋蘭も憎からず思っていそうだ。関羽達劉備軍の面々も怪しい。自分なら、そのうちの誰と一緒になるよりも曹仁を栄達させてあげられる。だが曹仁はそんなことは望んでいないだろうし、覇道を行く自分の隣にいれば最も苦しむことになるだろう。
華琳は、首の力を抜いて曹仁の肩に頭を持たせ掛けた。そのまま、仔猫がするようにぐりぐりと頭をこすりつける。
「なんだ?」
「何となく甘えたくなっただけよ。恋人に甘えちゃいけないのかしら?」
「いけなくない。と言うか、俺としては普段からもっと甘えて欲しいくらいだ」
「今だけよ。私は貴方のお姉ちゃんでもあるんだから」
「お姉ちゃんねぇ。姉ちゃんや春姉達と違って、華琳を姉と思ったことはあまり無いんだけどな」
「むっ、なんでよ? 背? それともやっぱり胸の大きさ?」
「そりゃあ、はじめから姉じゃなく女として見ていたからだろう」
「―――っ。……前から思っていたのだけれど、貴方ってたまに女の扱いがすごく上手。一体どこで覚えて来たのかしら?」
「曹家で過ごせば上手くもなるさ」
「まあ、それもそうか」
曹家も夏侯家も、主だった者は皆女性だった。
両家を合わせて一門と呼び習わすようになったのは、夏侯氏から曹家に養子で入った曹嵩以降となる。大長秋曹騰の跡目を継ぎ、夏侯家の血筋を引く曹嵩が両家の領袖に治まるのは自然な流れであった。この時点で、両家の主だった者の中で男性は曹騰―――宦官ではあるが―――だけであった。その曹騰も曹仁がこの世界に来てすぐに鬼籍に入っている。曹仁は幼少の頃から女性ばかりに囲まれて暮らしてきた。
「さっきの話に戻るけど、姉ちゃん達にはいつ言う? さすがにこういう関係になった以上、隠し続けるのも限界だろう」
「……幸蘭達に、ね」
「なんだ、まだ恥ずかしがっているのか?」
「そうではなくて、いえ、まあ、それもあるのだけれど」
華琳は珍しく言葉を濁した。
「もしかして、反対されるとか思ってるのか?」
「そうでもなくて、―――つまり、歯止めが」
「歯止め?」
「わっ、私は良いのよ、ちゃんと自制出来るもの。ただ、貴方がね。この前だって、軍議中ずーっと私の唇を見ていたじゃない。これが、公認となったら」
「いや、俺だって最低限自制くらいしますよ」
「ほんとに? 人前でも当然のように腕を組んで口付けたり、食事を食べさせ合いっこしたり、軍議中も隣に陣取って手を繋いだり、椅子代わりになって私を膝の上に乗せて、あまつさえ抱きすくめたり、首筋に口付けたり、―――しないで我慢出来る?」
「俺をそんなに堪え性のない男と思っていたのか。……というか、そんな妄想をしていたのか」
「…………し、してないわよ」
「へえ、これは確かに歯止めがきかなそうだな。……俺よりも華琳の方が」
「うるさい。そんなことしないわよ」
「ふうん」
「し、しないわよっ」
曹仁の満更でもない表情に気付き、華琳は語尾を強めた。
「まあ、軍議の席でというのはさすがにあれだが」
言いながら、曹仁は寝台に深く座り直した。ぽんぽんと、促すように膝の上を手で示す。
「ううっ。ま、まあっ、貴方がどうしてもというなら、座ってあげても―――」
「―――どうしてもです。ぜひお願いします」
「し、仕方ないわね」
誘惑に抗って口にした強がりに即答され、何故かちょっとした敗北感を華琳は味わう。しかし折角の機会ではある。渋々顔―――を上手に作れていないと自覚しつつ―――で曹仁の膝の上に腰を降ろした。
「か、固いわ。座り心地としては最悪ね」
馬術の達者だから当然と言えば当然だが、太腿は厚い筋肉の塊のようだ。
「そいつは失礼」
軽い調子で謝罪しながら、さっそく曹仁は後ろから華琳を抱き締め、首筋に口付けを落としてくる。
「―――はぁ、駄目ね。今日の私、なんだかすっごく女の子だわ。本当は午後にだって、他に仕事もあったのに」
顔を見合わせない分だけ、いくらか素直な気持ちを華琳は口に出来た。
「そりゃあ、昨日の今日なんだから、ちょっとはそうもなるだろう」
「そうね。でもそれを言うなら、そもそも―――」
「ん? そもそもなんだ?」
「……何でもないわ」
そもそも街の再建だなんだと理由を付けて洛陽に留まったのも、天子から曹仁の話を聞くためだった。そして目的を果たした今も、すぐには許に戻ろうという気が起きない。許に戻れば、曹家一門の女達や桂花の手前、曹仁と二人きりの時間は間違いなく減るからだ。
河北四州の併合を遂げた今、許は青州黄巾百万の民を得た時に勝るとも劣らぬ慌ただしさにあることだろう。そんな中、自分が仕事を放りだして男を優先している。信じられない話だった。
「―――私、自分で思っている以上に貴方の事が好きなのかも」
「…………」
「…………仁?」
「ん、えっと、何だ?」
「……貴方、何をしているのかしら?」
しばし考え事に耽っている間に、首筋に感じていた甘いくすぐったさは消えていた。代わりに、すーすーと背筋を風が走る。
「ええと、その、華琳、あんまり汗かかなかった?」
いやに静かにしていると思えば、曹仁は華琳の服の襟首に鼻先を突っ込み、くんくんと鳴らしていた。
肘を振り上げると、曹仁は顔を仰け反らせて避ける。当たりはしなかったが、曹仁を襟首から引き離すことには成功した。
「調練と言っても、私は誰かさんにやられた傷が痛くて、ほとんど見ているだけだったから」
「それはその、何と言うか」
曹仁はごにょごにょと言葉を濁した。
本当なら、華琳自身も絶影と共に駆け回るつもりだった。しかし馬に乗ると、昨夜の傷痕がずきずきとした痛みを訴えたのだ。
「とはいえ、半日野外で過ごしたのだから多少は汗もかいたわ。そこは、貴方が食事の用意をしている間に、無花果がせめてものもてなしといって、湯を用意してくれたわ」
「あいつめ、余計なことを」
「ふふん、良く出来た従者ね」
湯には花が浮き、浴室には香も焚きこめられるという手の込みようだった。純朴さに加えてこの辺りの如才無さが、華琳をして無花果に真名を預けた理由でもある。
「華琳も華琳だ。せっかく汗にまみれたというのに、簡単に水に流してしまうなんて」
「またおかしなことを。……そういう貴方も、あまり汗の匂いがしないわよ? あれぐらいの調練はいつも通りで、たいして汗もかかない?」
「まさか。白鵠の身体を洗うついでに、水浴びをしてきた」
「それで私に文句を言う?」
「男の汗の匂いなんて、臭いだけだろう?」
「女だって汗をかけば汗臭くもなるわよ」
「華琳は汗臭くならない。いや、仮に汗臭くなっても、それは俺の好きな匂いだ」
「もうっ、ちょっとは女心を理解しなさい。汗臭いのなんか嗅がれたくないのよっ」
「華琳こそ、俺の男心を全然理解してない。香水や花の香りなんかより、華琳自身の体臭を嗅ぎたいんだっ」
「ああ、もうっ、離れなさいっ。体臭って言葉が生々しくていやっ」
「いやだっ、どこかに洗い残しが」
ぎゃーぎゃーと大騒ぎしながら、もつれ合うように寝台に倒れ込む。まだ照れ臭さの残る二人には、それぐらいがちょうど良い切っ掛けとなった。
「久しいな、順」
「……本当に、皇甫嵩将軍だ」
懐かしい屋敷の懐かしい食卓には、かつてそこにあった顔が確かに存在していた。
「曹仁から聞いてはいたが、本当に大きくなったな」
皇甫嵩は椅子から腰をあげると、高順の正面に立った。左手が持ち上がり、躊躇うように虚空を彷徨う。
「……」
高順は無言で腰を屈め、頭を垂れた。
「うむ。良い子良い子」
ごしごしと髪がかき乱される。ちょっと不器用な感じの撫で方が皇甫嵩だった。
「皇甫嵩将軍、お帰りなさい」
高順はきつく目を閉じると、歯を食いしばった。頬を伝わるものがあるが、一筋で耐える。
「さてと、順の土産話でも肴に、一杯やるとするか。西涼へ、行っていたのだって?」
「酒の用意なら出来とるで」
「ん」
「……うくく」
食卓にはいつの間にか霞と恋、それに音々音も顔を揃えていた。
皇甫嵩も恋も霞も溢した涙を見て見ぬ振りしてくれたが、音々音だけは小馬鹿にしたような笑みを浮かべている。
音々音の意地の悪さも含めて、昔と変わらない光景が広がっていた。
「そうそう、西涼で仁兄宛てに手紙を預かって、…………って、あれ? 仁兄は?」
「……そーじんは、むだんがいはく」
四人は一度顔を見合わせると、代表するように恋が言った。
「無断外泊? 洛陽にはまだいるんだよね?」
「おるで。今日は調練のはずやから、たぶん軍営に泊るんやろう」
「そっか。まあ、明日でも良いか」
元々、一介の行商人の高順が、幸運にも曹操軍の将軍である曹仁に拝謁する機会があれば、という約束である。高順は取り出しかけた書簡を荷物へ戻した。