「それで、馬騰は何と?」
膝の上に乗せた華琳の身体がわずかに強張った。曹仁が告げた差出人の名は、さすがに華琳にも予想外だったらしい。
「現物を見せるよ」
「―――んんっ」
懐をあさると、華琳が鼻にかかった声を出した。背もたれ代わりにされているから、必然華琳の背中をまさぐる格好となる。
「ひゃっ、んっ、ちょっと、まだ見つからないの?」
「ええと、あったあった。これだ」
しばし華琳の反応を楽しんでから、曹仁は書簡を取りだした。
「……」
無言で目を走らせる華琳の肩に顎を置いて、読み終えるのを曹仁は待った。形の良い耳に悪戯したい気持ちがむくむくとわき上がってくるが、怒られそうなので自制する。代わりに眼前に垂れる巻髪に鼻をうずめて、胸一杯に息を吸い込んだ。
「―――っ」
「悪戯しない」
太腿の肉を、思い切り抓り上げられた。
「ちぇっ、どっちにしろ怒られるんだったら、やっぱりはむはむするんだった」
「はむはむ? 貴方はいったい何をするつもりだったのよっ」
「だからこう、華琳の耳を、はむはむと甘噛みする感じ」
「…………。まあ、その耳はむはむとやらは後になさい。まずは馬騰からの書簡」
「はーい」
意外や好感触のようで、耳はむはむとの御命名まで頂いた行為を後の楽しみとして、ここからは真面目な話だった。
「高順は、どういった経緯でこれを?」
「洛陽へ急ぐ道中で、馬を借りる代わりに預かったらしい。飛脚から連絡が入っていると思うが、順は馬騰らとはそれ以前から面識を得ていた」
「漢中から西涼まで、馬超と同道したのだったわね」
「ああ」
「貴方宛ての手紙を託すという事は、高順があの陥陣営だと気付いているということかしら?」
「たぶん。初めに会ったときから、疑いの目は向けられていたようだし」
「ふむ。この手紙にはそれを確認する意味も含まれているのかもしれないわね」
「それにしたってこんな重要な手紙を、よくもまあ人伝で送ってきたもんだ」
書簡は、馬騰の決意表明とでも言うべきものであった。曰く、天子のために身を粉にして働きたいと。また天子窮乏の折に兵馬を率いて参上出来なかったことへの嘆きと、その釈明として自身の病身にも触れている。
そんな思いの丈を曹仁へぶつけてきた理由はというと、華琳、そして楊奉への口添えの依頼であった。馬騰は洛陽の朝廷への出仕を望んでいて、近く実際に上洛するつもりだと言う。
「その点も含めて、何とも胡散臭い話ね。本気かしら?」
「病が篤いってのは、間違いないらしい。高順と会った時も、病床にあったと」
「ふむ。漢室に対して幾度も反旗を翻し続けた武人が、死期を悟って忠義心に目覚めた? そんな殊勝な人間とも思えないけれど」
「皇甫嵩将軍や月さんは、ずいぶんと手を焼かされたらしいな。将軍に言わせれば、野戦では極力ぶつかり合いたくはない相手だとか」
「あの皇甫嵩をしてそこまで言わせるか。韓遂と並び立つからには、娘とは違って武一辺倒の人物でもないのでしょうし」
「華琳は韓遂とは、面識があるんだよな」
「ええ。一時、何進に可愛がられていたわ。曲者という言葉が、あれほど似合う女もいないわ。馬騰が都に出仕なんてことになれば、残された娘の馬超では手を焼くでしょうね。―――そうか、馬超か」
華琳が顎に手を当てて考え込んだ。先刻の事があるから、今度は大人しく曹仁は椅子に徹した。しばしの間を置いて、華琳が顔を上げる。
「高順は書簡に関して何と? 相応の対応を取れば、西涼の勢力に正体が露見することになるけれど」
「それは別に構わないとさ。いずれにしろすでに疑われているわけだし、ばれたらばれたで開き直るつもりだと」
「相変わらず肝の据わった子ね。なら、―――いっそこちらから召し出してやりましょう」
悪巧みをする時の顔で華琳が言った。
「お初にお目に掛かります、曹操殿」
華琳が執務室に通すと、馬騰は跪いて礼をした。
衛尉として召喚した馬騰が、すぐにそれ応じ洛陽へと参上していた。
「初めまして、馬騰殿。高名はかねがねうかがっているわ。体調が優れないのでしょう? 椅子に掛けて楽にしてちょうだい」
「はっ、失礼致します」
「畏まる必要はないわ。私は司空、貴方は衛尉。私の方が高位にあるとはいえ、同じ漢室の臣よ」
改めて頭を下げる馬騰を華琳は制止した。
衛尉もまた三公に次ぐ九卿の一座を占める朝廷の高官で、職掌は天子の坐す宮殿の守護である。天子のために尽力したいという馬騰の願いを受けての任命である。
「そうでしたな。つい、この国の支配者へ拝する気分になっておりましたが」
明け透けな皮肉を口にすると、馬騰はどっかと椅子へ腰を降ろした。
朝臣達の間に華琳が漢朝の政体を壟断し、天子を傀儡としているという声があることは知っている。紛れもない事実であり、批判とも思わない。しかし面と向かって揶揄して見せたのは、この馬騰が初めてである。
「そうそう、母様。こっちは頼まれて来てやったんだ。下手に出ることないって」
いっそう直截な言葉の主は、娘の馬超である。椅子は一脚しか用意させていないので、馬騰の隣に起立している。こちらも座っているのは華琳だけで、同席させた曹仁に護衛の季衣と流流は左右に立たせている。
「貴方とはお久しぶりね、馬超」
「ああ、反董卓連合以来だな、曹操」
「馬岱だったわね。貴方もお久しぶり」
「お、お久しぶりです」
気安い態度の馬超に比して、従妹の馬岱―――馬騰にとっては姪に当たる―――はさすがに身を固くしている。
当時五千の私兵を従えるだけで一寸の土地も領してはいなかった華琳と、今の華琳では、態度を改めるのも当然と言える。
「それで、こちらにいるのが―――」
「曹子孝。曹家の天の御使いこと曹仁だろ? 久しぶりだなー」
馬超は華琳の紹介を遮ると、華琳に対するよりもさらに馴れ馴れしい口調で曹仁に話しかける。
「仁。貴方、馬超と面識が?」
「面識、と言って良いのか」
「反董卓連合の時は、散々やり合ったもんな。後であの時の敵将が曹家の天の御使いと伝え聞いた時には驚いたぞ」
やり合ったと言いつつも、却って馬超は親しげな様子だった。生粋の武人ならではの感覚であろう。曹仁の元へ、一歩二歩と歩み寄る。
「ん? なんだ、このちびっ子」
華琳の隣に侍る曹仁に近付くということは、当然華琳にも接近することになる。季衣が一歩進み出て、馬超の行く手を阻んだ。馬超の言葉に気色ばむのが、背中からも伝わってくる。
「季衣、下がって」
「……わかったよ、兄ちゃん」
馬超が前へ出る代わりに、曹仁の方が距離を詰めた。曹仁がなだめるように軽く肩を叩くと、季衣は不服げながらも華琳の隣まで下がった。
「私の親衛隊長が失礼したわね」
「するとそいつが許褚か。そういえば連合の時にも見た覚えがあるな。噂の虎の隊長が、まさかこんなにちびっ子とはなぁ」
「……むっ」
季衣が小さく唸る。護衛中でなければ、間違いなく食って掛かっているところだろう。
「お久しぶりです、馬超殿」
馬超がそれ以上何かを言う前に、曹仁が会話を促す。
「ああ、久しぶり。馬―――白鵠といったな、あいつも元気にしているか?」
「もちろん。……どこで白鵠の名を?」
「そりゃあ、天人曹仁とその愛馬白鵠の名は、馬術を嗜む者なら大抵耳に届いているさ」
「そうか。馬超殿は、確か何頭か乗り継いでいたな。」
「さすがによく見ているな。紫燕、黄鵬、麒麟。その三頭があたしの愛馬達だ」
「三頭か。名前から察するに、毛色が一番明るかったのが―――」
「―――仁。それに馬超も。馬の話は後にしてもらって良いかしら?」
「はっ、失礼しました。馬超殿、また後ほど」
曹仁が馬超へ拱手して華琳の隣まで戻ってきた。馬超は鷹揚に頷き返すと馬騰の横へ下がる。
「ずいぶんと兵を引き連れてきたようね、馬騰殿」
「精鋭五百騎。天子様の警備の端にお加え頂ければ」
「確かに精兵のようね」
華琳が馬騰へ使者を送ってから今日まで、一月と掛かってはいない。洛陽から馬騰の本拠地である楡中までは直線距離にして二千里(1000km)を隔てる。使者は形としては漢室から派遣された勅使であるから、先触れを発し一ヶ月以上も時を掛けた行程を予定していた。馬騰は先触れに接するや楡中を発し、長安にてこれを待ち受けた。
かつての漢の都長安も、今は西涼の東端、曹操領西端の一邑でしかない。李傕、郭汜、それに馬騰らが代わる代わる支配下に置いていたが、華琳が上洛し司隷(司州)を手中に治めて以来は曹操領として扱ってきた。守兵も駐屯させ西涼に対する前線基地とも言えるが、一方でかつての支配者―――特に馬騰に傾倒する住人も多い。西涼軍との戦ともなれば、第一の係争地となることだろう。そんな曰く付きの土地に馬騰は堂々と兵を引き連れ現れると、入城こそ果たさぬまでも城外に宿営地を築き上げ使者を迎えている。
馬騰の大胆な行動もさることながら、それを可能とする兵の働きが相当なものだった。 兵の力の一端は、出動の早さと行軍速度で推し測ることが出来る。騎兵の場合は特にそうだ。馬騰の五百騎は出動命令には即応で、一日に二百里以上も駆けよう。華琳の虎豹騎や曹仁の白騎兵と同じ馬騰供回りの最精鋭といったところだろう。
「衛尉府付きの兵として迎えるよう、奏上しておきましょう」
「感謝申し上げます」
「馬超に馬岱。貴方達は後ほど光禄勲府へ出頭なさい。張繍が待っているわ」
「わかった。……あたし達も、出来れば母様と同じ衛尉府に役職が欲しかったんだけどな」
「錦馬超殿といえば天下に知らぬ者無き猛者。是非にも奉車都尉に付いて頂かなくては」
「まあ、任命されたものは有り難く受けるけどさ」
馬超が満更でもなさそうに言った。
馬超には奉車都尉、馬岱には騎都尉の地位を与えている。いずれも光禄勲府に属する天子の近衛部隊の長であり、漢朝の威光が衰える以前には武人の憧れの官位であった。中でも奉車都尉は天子の馬車を守る職掌で、天下無双の勇者に与えられることが知られている。
馬騰らの人事に合わせて、これまでは朝廷を主導しながらも陪臣に過ぎなかった月と詠を、それぞれ光禄勲と執金吾の地位に就けた。馬騰の衛尉が宮門を中心とした宮殿外縁の守護職であるのに対して、月の光禄勲は宮殿内の近衛であり天子の側近をも兼ねる。そして詠に与えた執金吾は洛陽城内の警備を任とする。さらに城外には徐晃の常備軍と、今は曹仁と霞の隊も駐屯していた。馬騰とその旗下五百騎は内に月の近衛兵、外に詠の警備隊によって挟まれ、その上で曹仁達の軍によって完全に包囲される形が出来上がっている。馬超らとも引き離し、完全に孤立させていた。
「さてと、流流、公孫賛を呼んで」
「はい」
流流が室外に走り出した。公孫賛はあらかじめ控えの間へ呼び出している。すぐに流流に伴われて室内へ姿を現した。
「こちらは公孫賛、字を珀珪よ。馬超と馬岱は、反董卓連合の時に会っているわね。馬騰殿も、お名前はお聞きでしょう?」
「白馬長史と呼ばれ烏桓から恐れられた方ですね。珀珪殿、お初にお目に掛かります。同じく北辺で異民族の侵攻に抗う我が身、常々親しみと畏敬の念を抱いておりました。」
「いや、私なんてほんの一時烏桓とやり合っただけで。長年西涼を守り続けてきた馬騰殿と比べたら全然」
「ご謙遜されますな。そのわずかな期間で、剽悍な烏桓族の兵共を震え上がらせたのですからな」
手放しの称賛に、公孫賛は居心地が悪そうに視線を彷徨わせた。
「そ、それで曹操、今日は一体何の用だ。麗羽なら、今日はまだ問題を起こしていないぞ」
華琳は公孫賛ではなく、馬騰の目を見据えて答える。
「馬騰殿達をこちらに呼び寄せた代わりに、西涼に公孫賛を送ろうと思うのだけれど、どうかしら? あの辺りは血気盛んな若者が多いし、誰かまとめ役が必要でしょう? 雍州牧として、彼女はどうかしら?」
「―――しゅっ、州牧っ!? そんな話、私も初耳だぞっ!?」
「ええ、私も初めて口にしたわ」
声を張り上げたのは、馬騰ではなく公孫賛であった。華琳自身、ほんの数日前にふと思い付いた人事である。一度考えが至るとこれ以上はない配置と思えたし、麗羽の相手をさせるために折よく公孫賛は洛陽に滞在させていた。
「珀珪殿か。これは確かに適任かもしれません」
動揺する公孫賛をよそに、馬騰は得心した様子で二度三度頷いて見せる。支配地と兵をそっくり頂くという含意を読み取れない筈もないが、馬騰は特に気にもならない様子で続けた。
「西涼では土地柄、やはり馬術の拙い者はそれだけで侮られます。その点、白馬長史の名は西涼まで知れ渡っております」
「西涼の雄が馬騰殿や錦馬超なら、それに比肩し得る名は白馬長史公孫賛しかいないわ。加えるに、武名を轟かせながらも決して力押しだけの人物でなく、内政も達者なら人心を慰撫する徳も備えている」
「おいおい、そんなに褒めるなよ~」
公孫賛が目を丸くして戸惑っている。
漢王朝北の国境、その西の際が西涼なら、東端は幽州である。現実として、公孫賛は幽州の雄として異民族からも恐れられた存在であった。有力な家臣に恵まれず一州を一人でまとめ上げた内政は確かだし、流浪の劉備軍に一大勢力の曹操軍と関わるうちにそれにさらに磨きがかかっている。
「後ほど陛下から命が下されるわ。今のうちに出立の準備を整えておきなさい」
「麗羽のお守りはもう良いのか?」
「そっちはそっちで他に適任もいないのだけれど。まあ、顔良にもう少し頑張らせるわ」
「わかりました。それでは―――」
かつての同輩である公孫賛は華琳に対しても気の置けない態度を貫いているが、最後に一度だけ威儀を正して退室していった。
「良いのですかな?」
足音が遠ざかるのを待って、馬騰が言う。
「貴方も適任と言ったじゃない?」
「能力においては紛れもなく適任でしょう。しかし、一時は袁紹殿と河北の覇権を争ったお方ですよ」
「雍州で独立を図ると? ―――ないわね。人を見る目は確かなつもりよ。目を見れば大方、その人間の野心の程は分かる」
華琳は馬騰へ目をくれた。馬騰はしばしそれを正面から受けとめると、苦笑を浮かべてわずかに視線を逸らした。
やましいところが無ければ目は逸らさない、などと言うことはない。小人ならばともかく馬騰のような傑物なれば、必要とあらば視線如きいくらでも耐えるだろう。とすると暫時目を合わせ、それから逸らした馬騰の仕草は極めて自然なものに思えた。
朝廷事情や西涼の情勢に関して互いに二、三の質問を交わした後、馬騰達三人は辞去していった。
「―――季衣、流流。今日はもう来客の予定もないし、貴方達も下がって良いわよ」
「はっ」
二人も一度直立すると退室していった。
「…………仁」
たっぷり五呼吸分ほども時を置いてから、華琳は隣に侍る曹仁をさらに手招きした。
身を寄せるほど近寄った曹仁は、華琳が椅子から腰を浮かすと、そのわずかな空間に潜り込んだ。
「さてと―――」
腕が腰に回され、懐に抱え込まれた。
男性とはいえ小柄で筋肉も発達した曹仁の身体の内に包まれると、ほとんど身動きもとれない窮屈さだが、ぴったりと型にはまる安心感もあった。初めの頃はふわふわと気持ちが浮ついたものだが、最近はこれがないとかえって落ち着かないくらいである。洛陽にいるうちは良いが、許に戻って一門や重臣達に囲まれた生活を送る時のことを考えると、今から一抹の不安が過ぎるのだった。
されるがままに身を任せながら、華琳は真面目な思案を開始した。
何にせよ、今考えるべきは馬騰のことである。
素直に召喚に応じたことが、まず華琳の想定外であった。
馬騰が朝廷での仕官を望む動機は今もって判然としない。しかし西涼を離れようという発想の根幹には、馬超と言うすでに驍名を馳せた後継の存在があると華琳は考えた。そうでなくては、あれほど固執し続けた西涼での自治を手放すはずがない。そこで華琳は馬超と、彼女ほどではないがやはり名の知れた姪の馬岱をも合わせて招聘したのだった。
「考え過ぎだったかしら?」
食わせ者の韓遂の好敵手にして義姉妹というから、馬騰も腹に一物を抱えた人物を想定していた。
実際に目にした馬騰は大人の風格を持ってはいたが、飾らない言動は素朴な人柄を思わせた。華琳に対する痛烈な皮肉も、漢朝に対する忠義心ゆえと取れる。娘の馬超が季衣と睨み合いを始めた時も、揉め事を避けようという気がないのか、制止する様子を見せなかった。そしてその馬超に至っては輪をかけて単純明快だ。とても深謀を秘めて大事に当たろうという人物の連れとは思われない。
力を見せつけるような行軍には確かに驚かされたが、手の内をさらしただけとも言える。あの書簡も、単に華琳―――天子に繋がる伝手を見つけたと、無邪気に送り込んで来たのかもしれない。あるいは、曹操軍の内情は把握しているぞという、他愛のない自己顕示欲か。韓遂なら、気が付いた上でそれを利用する術を考えただろう。
見えてくるのは、やはり一計を案じた曲者の姿ではない。地方の純朴な武人一家が、天子からの召喚に勇んで馳せ参じた―――そんな微笑ましい光景だ。
しかし、それすらも擬態で無いとは言い切れない。馬騰だけでなく馬超までそれほどの巧妙さを有するなら、彼女達の召喚は自ら内患を迎え入れたようなものだった。
「これ以上考えても、埒も無いか」
華琳は思案をそこまでとした。
「……仁、耳元でずっと好きだ好きだと囁くのやめてくれないかしら? さすがに落ち着かないわ」
仰ぎ見ると、曹仁はきょとんと大きな目をさらに見開いた。
「俺、そんなこと言ってた? というか、声に出てた?」
「呆れた。あれだけ言い続けておいて、自分では気が付いていなかったの?」
「考え事の邪魔をしないように、大人しくしていたつもりだったんだけど」
「まったく、無意識で声が漏れるって、貴方どれだけ私のことが好きなのよ」
軽く首を仰け反らせると、唇と唇が一瞬触れて離れた。
真面目な考え事を終えたばかりだから、貪る様な口付けはまだ欲していない。欲しいと思った瞬間に、ちょうど欲しいと思った強さが返ってくる。一ヶ月余りもたわむれ合った―――曹仁曰く、いちゃいちゃした―――結果、心地良い距離感が出来上がっている。
「考え事は終わった?」
「ええ。策を弄する類の人間とも思えないけれど、今後も警戒の必要あり、といったところかしらね」
「結局のところ様子見か。まあ、洛陽での駐屯が続く分には、華琳と二人の時間が増えて俺は嬉しいけど」
言われて、はっとした。
曹仁との時間を増やすために、必要以上に馬騰を警戒してはいないだろうか。自問しても、否定の言葉は浮かんで来ない。
「我が軍にとって最大の内患は、馬騰などではなく貴方、―――そして私かもね」
意味が取れなかったのか、曹仁が訝しげに眉をひそめた。