小型の快速船で水際を進んだ。
小型船には帆柱は備え付けられておらず、どころか櫂を漕ぐ人夫もいないが、船は実に軽快に川を遡上する。地上を並走する白鵠と絶影―――背に誰も乗せていない―――はさすがにまだ余裕がありそうだが、虎士の馬は次第に遅れ始めた。
普通の快速船では人夫を選りすぐり、川の流れに乗っても、一刻に二十里(20km/h)には届かない。これは逆流でもその倍は出ている。
「これは、すごいわね。これほど速い船は荊州は言うまでもなく、孫策軍にもないでしょう」
狭い船内に立ち上がり、華琳が手放しに褒め称えた。曹仁は片手で船縁に捉まり、もう一方の手で華琳の手首を取った。ひどくはないが船上はそれなりに揺れる。
「ウチがやってもこれだけの速さは出ません。春蘭様にも試してもろたけど、微動だにせえへんか、船尾が跳ね上がって転覆するかのどちらかでしたわ。この速さを維持しつつ、さらに方向転換に減速も自在なんは、凪だけです」
「私も、そう長くはもちません。この速さですとせいぜい四半刻でしょうか」
真桜の解説に、凪が言い足す。
船上には縦一列に先頭から季衣、流流、華琳、曹仁、真桜、沙和、凪の七人が並んでいて、それだけでもかなり窮屈であった。乗船人数は無理をして十人までだろう。そして、船尾の凪は固定である。
「貴方の使う螺旋槍を、応用したのだったわね、真桜?」
「そうです。ウチの槍がどりるで、これが、えっと、何やったっけ、曹仁様?」
「スクリュー」
「そうそう、そのすくりゅう言うもんを、凪が氣で回転させとるわけです」
船の船尾からは、ちょうど槍の柄のようなものが飛び出ている。凪が真剣な顔でそれを握り締めていた。
華琳が水軍の調練を始めると聞いて、曹仁はちょっとした思い付きを真桜に語った。螺旋槍―――氣を原動力とするドリルに柄を付けた真桜の得物―――が可能ならば、同じような機構で船の推進機が作れるのではないか、という安易な発想である。二ヶ月余りも洛陽で華琳との甘い生活を送る間に、当の曹仁はすっかりと忘れていた。それが、現実の物となっていた。
現在の速度と安定性を得るためには、羽の形を数十回も調整し、試運転を繰り返したという。無責任な発言を申し訳無く思いながらも、凪の氣という異能の助けがあるとはいえ、遥か未来の技術を再現して見せた真桜にはただただ感心するばかりだった。
「ボクもやってみたい」
「ウチは構へんけど、―――華琳様、よろしいですか?」
「そうね。私が乗る場合を想定するなら、虎士の誰かが動かせると便利ね。他の者も含め、試してみなさい、季衣」
「では一度お停めしますので、皆さんはお降り下さい。春蘭様のように転覆させる場合もございますから」
快速船が見る見る速度を落として行く。減速の際は、逆回転の氣を送ることでスクリューを逆回りさせるらしい。
氣は本来体内を巡り回るものだから、一定の回転方向を有する。それが真桜の仕掛けと重なることでスクリューの回転を生む。そして氣の扱いに長けた凪の場合は、意図的に逆回転の氣を練ることが可能で、前進も後退も自在だった。
「あら、貴方は試さないの?」
停止した快速船から一番に降りると、華琳が意外そうに問うた。
「俺に氣での操縦は無理だ」
続いて下船する華琳に手を貸しながら答える。
「ふうん。でも明け方の修練の後に、よく凪の真似をして氣を撃ち出そうとしているじゃない」
「……お気付きでしたか」
「ええ」
頬を紅潮させる曹仁だが、華琳は軽く流してくれた。幸いなことに現実に凪のような使い手がいる以上、氣弾の練習は嘲笑の対象にはならない。
朝晩の槍の修練を日課とする曹仁であるが、最近ではその前後に凪から教わった内功―――氣―――の鍛錬を行うようにしていた。といっても座禅や立禅を組むわけではなく、呼吸と丹田に意識を置きながら短い無手の套路を行うだけである。これをするとしないとでは槍を一息に突ける回数が一、二回は違う。呼吸が深くなるのと、正中線が崩れにくくなるためだ。とはいえ肝心の氣に関しては、未だに何となく丹田に熱―――あるいはという錯覚―――を感じなくはない、という程度に留まる。
そんな氣に関しては素人同然の曹仁だが、朝の澄明な空気の中で内功を練っていると、つい試してみたくもなるのだった。
「…………」
視線を感じて目を向けると、華琳に次いで下船した沙和と真桜がじっとこちらを見つめていた。
「ほへー、何だか華琳様と曹仁様、前よりずいぶん仲が良くなったみたいなのー」
沙和が目を輝かせながら言う。
「―――っ、そ、そんなことはないんじゃないかしら? 従姉弟同士だもの、これくらいは普通よ」
「前の曹仁様なら、船を降りる時にわざわざ手を貸したりしないと思うの。それに、華琳様も手を借りなかったと思うのー」
「そ、そうだったかしら? 仁も少しは臣下としての振る舞いがなってきたということかしらね」
「せやけど、まだその手、繋いだまんまやし」
取り繕う華琳に、真桜が追い打ちをかける。
「―――っ、そ、そうよ、仁っ。貴方、いつまで私の手を握っているの、早く放しなさいっ」
強引に手を振りほどくと、華琳は曹仁に背を向け、快速船の運転を試みる季衣達の方へと逃げていった。
「ウチら、なんやまずい事言うてもうた? 華琳様、お怒り?」
「いや、大丈夫。気にしないでくれ」
二ヶ月の間にだいぶ距離感が麻痺してしまった曹仁と華琳だった。
一刻(30分)ほど掛けて代わる代わる試乗した結果、やはり勘が良いのは季衣と流流の二人であった。凪のように自由自在とはいかないまでも、直進させるだけなら問題なく動かしている。単独での運転は無理でも、櫓手と組み合わせれば十分実用にも耐えられそうだ。
練習を続ける季衣と流流、それに教官として凪は水辺に残し、他の虎士の面々を率いて帰りは騎馬となった。工事の視察も兼ねている。
船から離れると、水音にまぎれて聞こえなかった工兵達の掛声や槌音が、耳に届いた。
許へ帰還した華琳はその地に長く留まることなく、文武百官を引き連れて鄴へと移動し、予め派遣されていた真桜の工兵隊と合流した。宮殿を接収し、麗羽の使っていた謁見の間に執務室、私室はそのまま自らの物とした。陳留、許に続く曹操軍第三の都市の誕生である。
鄴は元々が袁紹軍の本拠地であったから、曹操軍が改めて手を加えるまでもなく街は整備されている。袁紹軍の降伏により河北は穏やかに曹操軍へと手渡され、戦火が及ぶことも無く、民の離散もなかった。併合と同時に鄴は曹操領最大の都市となった。
都市開発は不要ながら、先刻より工兵隊の立てる騒音は引っ切り無しに続いていた。鄴の近郊に玄武池と名付けられた巨大な人工の池が建造されているのだ。水軍の調練場である。
場所によっては騎馬や歩兵での渡渉も可能な河水と違って、長江は常に大水を湛えている。この先に控える孫策軍との初戦はどうあっても水戦となる。南船北馬の言葉通り、江南の人間は普段から長江とその支流で船に親しんで暮らしている。水軍の練度は比ぶべくもなく、少しでもその差を埋めるために船の建造と調練は急務であった。浮上したのが調練場の問題で、長江と比べ川幅が狭く、土砂の滞留も多い河水では喫水の深い大型船の調練はままならない。そこで河北を平定するや華琳が建設を開始させたのが、玄武池である。
鄴には元々、漳河と河水から水を引く大運河西門渠が存在している。かつては貧困な大地であった冀州が今や一大穀倉地帯とされるのも偏にこの運河による灌漑故である。運河を建設した戦国時代の魏の篤政家西門豹は華琳も尊敬する人物であり、鄴に入るや無数に存在する彼を奉った祠の整備を命じるほどだった。玄武池はこの西門渠の溜池の一つを増築して作られており、当然農業用水の供給源の役割も兼ねていた。
「これは壮観だ。うちの工兵にはいつも感心させられるが、よく二月でここまでのものを作れるもんだ」
近付いて見ると、まだ水が引かれていない玄武池の底までは三丈(9メートル)以上もある。大型船の喫水を考えると、これくらいは必要ということだろう。
「そやろそやろ? もっと褒めてくれてええんやで。出来れば形で頂けると有り難いんやけどな」
「そうね。快速船も良い出来だったし、来月の開発費に少し色を付けようかしら?」
「おっ、言うてみるもんやな。大将、ありがとうございます」
華琳が言うと、真桜が破顔した。
異能の職人集団と化した工兵隊には、給金とは別に新兵器の開発費も支給されている。
白騎兵や虎豹騎の軍袍に利用されている鉄糸を編み込んだ防刃布や投石機、製鉄技術の向上、それに今回の快速船等は当然真桜達の発明開発による。他にも細々としたものをあげれば切りが無いし、兵器以外でも農具の開発や主要都市を繋ぐ街道の整備、果ては張三姉妹の舞台装置なども作製している。もはや曹操軍に取ってなくてはならない存在だった。
一方、成功の裏には同じく失敗した作品も数多あり、文官達とは開発費の支給額を巡っていつも言い争っている。
「――――」
城の方から、かすかに鐘の音が聞こえた。時報である。曹操領で施行されている時を知らせる鐘の音は、さっそく鄴にも導入されていた。日出(6時)から日入(18時)までを一辰刻(4刻=2時間)ごとに区切り、合計七度鐘が鳴らされる。
今のは、朝から数えて三つ目の時報だ。
「時間ね。戻りましょう」
華琳が城門へ絶影の馬首を向けた。
「開発費の件、忘れんといて下さいねーー」
そのまま工事の監督に就く真桜を残して、一団は駆け去った。
玄武池から鄴の城まではほんの数里の距離である。華琳に曹仁、護衛に虎士であるから、最初小さかった鄴の城郭は見る間に視界を埋めた。沙和もさすがに将軍だけあって悪くない馬に乗っている。わずかに遅れながらも付いてきた。
城門前に数十騎の集団が見える。巨馬に跨った大男と、それに寄り添うやはり巨馬に乗る少女の姿が取り分け目を引いた。
「曹操殿」
「―――そのままで構わないわ」
蹋頓がその巨体を馬から降ろそうとするのを、華琳が制止する。
「では、馬上にて失礼致します。私はこれより北へ参ります。従妹のこと、よろしくお願いいたします」
「ええ、楼班は大切にお預かりする。吉報を待つわ」
烏桓の地では、蹋頓に代わる単于が複数立っていた。それは当然、蹋頓によって次期単于と定められていた楼班ではない。
元々、烏桓の単于には血筋よりも力が求められる。戦に負けて漢族の虜囚となった蹋頓に単于の資格無しと、各部族の主だった者達が騒ぎ立てた。そして遂には自ら単于を名乗る者達が現れ始めたのだ。蹋頓自身、自らに対する糾弾はもっともなことと受け入れており、単于の地位への未練もないようだが、楼班の次期単于の座だけは譲れないという。
そこで、すでに麗羽に代わって蹋頓との盟を交わしていた華琳は、楼班を押し立てて長城を越えての遠征を計画していた。
蹋頓は遠征軍に先んじて烏桓の地に入り、味方となる者を募るという。曹操軍の援軍があるとはいえ、中核には蹋頓あるいは楼班自らが率いる烏桓の軍勢が無ければ、いくら戦で勝ったところで烏桓の民の支持は得られない。
官渡での決戦で蹋頓が率いた二万。これは各部族からは切り離された蹋頓の直属で、蹋頓の捕縛後は指揮を失いばらばらと烏桓の地へと逃げ去っている。当然彼らは、今は各々の出身部族の兵として吸収されてしまっている。
蹋頓に残った手札は、楼班の護衛として袁紹軍本陣へ下げていた百騎のみであった。これまでにその百騎をいくつかの隊に分け、順次烏桓の地へと送り込んでいる。彼らの働きかけで、直属の二万のうちの半数ほどは蹋頓の呼び掛けに応じる公算が高いという。全体でおおよそ六万とされる烏桓の兵力の内の一万である。兵数としては決して多くないが、蹋頓が育てた兵は他の烏桓兵とは練度が数段違う。一万は十分に戦の主力足り得るだろう。
「よろしくお願いします」
蹋頓の隣で楼班も頭を下げた。
楼班は年齢以上に幼く儚げな少女で、見た目の印象からは烏桓族らしさは感じられない。不釣り合いな巨馬に跨っているのは、途中まで同道して見送るつもりか。
烏桓へ旅立つ蹋頓に対して、楼班は曹操領に留まり学校へ通うことが決まっていた。態の良い人質と見えるが、漢民族の文化に関心の強い楼班本人からの達ての希望であった。
九歳から一二歳までの少年少女のための学校に通うには楼班はいささか年長であるし、単于の娘だけあって異民族とはいえ最低限の学識は修めている。楼班は単に勉強を習いたいというのではなく、学校という仕組みそのものを体感してみたいらしい。学問自体はそれとは別に稟が教官として付いていた。
「もう少し、話をしたかったが」
曹仁は、蹋頓に声を掛けた。
ここ数日、幾度かの歓談を交わし遠乗りにも一度出掛け、蹋頓とはかなり打ち解けている。
「次の機会は、そう遠くは無かろう。我らも近く御力をお借りするし、曹操軍の戦となれば我らからも援軍に参るのでな。もっとも水軍の戦では、大してお役に立てないだろうが」
「なに、それは俺も同じこと」
「貴方は今から水軍の戦いも覚えなさい! 何のための玄武池だと思っているのっ」
横で聞いていた華琳が、怖い声を出す。曹仁がおどけて首を竦めてみせると、笑いが起こった。
「それでは、袁紹殿にもよろしくお伝えください」
さすがに堂に入った仕草で蹋頓が馬首を巡らせる。
「私も、少し先まで見送って参ります」
楼班もそれに続く。
脾肉の締め付けだけで巧みに馬を反転させている。そこはさすがに単于の娘だった。
「―――さてと。仁、この後部屋を片付けるから手伝いなさい。麗羽の無駄な私物が多いのよ」
走り去る一団を望みながら、華琳が言った。
「ああ、わかった。―――?」
沙和の何か言いたげな視線に曹仁は気付いた。
「……また、何か?」
華琳に聞かれないように、曹仁は静かに馬を寄せ、小声で沙和に問い掛ける。
「前なら華琳様、そういうのは女同士で秋蘭様達に命じていた気がするのー」
やはり距離感のおかしい曹仁と華琳だった。
「仁っ、貴方護衛なのだから、あんまりうろうろするんじゃないの」
「……はい」
新兵の調練があるという沙和とは城門のところで別れて、城内を視察がてら宮殿へと向かった。絶影と白鵠も虎士に預けて先に帰らせ、護衛は曹仁だけである。
「……もう、困った子ね」
注意した後しばらくは大人しくなるが、少しすると繋いだ手が引っ張られる。溜息交じりにこぼしながらも、引かれるままに華琳は足を進めた。
数日前に訪れたばかりの鄴には、華琳と曹仁の顔を知る者もほとんどいない。曹仁には具足も外させて剣を佩いているだけだから、案外こうして普通にしている方が危険は少ないかもしれない。周囲からはこの地を治める君主とその護衛の将軍などではなく、ただの仲の良い姉弟か恋人同士にでも見られていることだろう。
―――あるいは、若い夫婦かしら?
「っと、悪い。……どうかしたか?」
華琳が立ち止まると、当然手を繋いだ曹仁は引き止められる。
「何でもないわ。さあ、気になる店があるのなら行きましょう。―――そこの店ね?」
覗き込もうとする曹仁の視線を避け、華琳は率先して前に出た。
「ああ。―――おやじさん、こいつは生のまま食べられるか?」
ものの数歩で店先に着くと、店頭の商品を指し曹仁が尋ねる。
鄴の城内には海産物を扱った店も多い。魚の干物や塩辛、昆布―――食材というより主に生薬として服用される―――、それに干し鮑などに加えて、時には生魚の類を見かけることもあった。先ほどから曹仁が軒先を覗き込んで回っているのも、そんな店々である。
鄴の北を流れる漳河―――西門渠にも水を運ぶ―――は河北最大の河川海河の支流の一つである。海河は読んで字の如く海へと繋がる河川であり、その河口は渤海に存在する。漁業の盛んな渤海で取られた海産物が、海河の水運を利用して大都市鄴まで運び込まれるのである。
洛陽も河水を通じて渤海へ続いてはいるが、距離が遠く、輸送路も活発ではない。海産物は乾物ぐらいで生魚の類は目にした覚えはなかった。
「生で、ですか? いやあ、腹を下すんじゃないですかねぇ?」
曹仁の問いに、店主が自信無さ気に答えた。
「そうか、ありがとう。邪魔したな、―――そこの塩辛を一つもらおうか」
「はいっ、まいどありっ」
威勢の良い店主の声に見送られる曹仁の顔は落胆をのぞかせている。
「そんなに生魚が食べたいの?」
「俺自身が食いたいってのもあるけど、皆に食わせたいって方が大きいな」
鄴に海産物が多く出回っていると知った時、曹仁が生魚を食いたいと言い出した。発言は一門の皆からは大顰蹙を買い、あの季衣すら気持ち悪いと眉をひそめた。
「根に持つわね。生魚を切っただけなのでしょう? さすがに私もちょっと」
好奇心旺盛な方だし、つまらない偏見に捉われるつもりもない華琳をしても気が引ける。
「食ったら絶対旨いんだって。俺の国では普通に食われているんだから。むしろちょっとした御馳走なぐらいで」
「はいはい。まあ、新鮮な魚が手に入ったなら、少しくらい付き合うわよ」
「これは生きたままの魚を運んでくるよう、特別に注文するしかないかな。いや、いっそ海まで行ってみるか。―――そういえば、華琳は海を見たことは?」
「ないわね。貴方は、確か四方を海に囲まれた国で生まれたのよね?」
「ああ。この世界で言う倭国だな」
漢王朝の朝貢国の一つである。といっても光武帝の時代から数十年に一度の進貢があるだけで、国交があるとは言い難い。
先刻別れたばかりの蹋頓の烏桓が北狄なら、倭国の人間は東夷ということになる。漢の人間からは蔑称を持って呼び習わされる異民族である。
「天の御使いが東夷の出というのも、なかなか洒落が効いた話ね」
「……あまり公言しない方が良いか?」
「別に構わないわよ。倭国などと言われても大抵の人間には通じないわ。朝貢の記録は残っているから、太史寮の役人で勉強熱心な者には分かるかもしれないけれど」
華琳自身、朝廷の記録を漁って倭国が朝貢国であることを最近知ったのだ。よほど博学な者でないと名も知らないだろう。
「あれ、でも魏志倭人伝って書があったよな。……いや、あれはこの時代にはまだないのか? そういえば七雄の魏は海沿いじゃないし、魏って三国の魏か?」
聞き慣れない書名を口にした曹仁が、一人思案顔でぶつぶつと呟く。
曹仁の知識は流流や真桜を通じていくつかの料理や発明品を生んでいるが、近い未来の話などは詳しく知らないようだし、華琳自身も深くは聞かないようにしていた。出会った当時の曹仁の反応から―――加えて現状の自身の境遇からして―――曹孟徳の名は間違いなく歴史に刻まれるのだろうが、その結末を知って小器用に立ち回りたくはないし、何よりそれでは詰まらない。
「まあ、懸念があるのなら、日本、だったかしら。口にするときはそちらの名を使いなさい。日の本というのは、この上なく天人の生まれ故郷に相応しい響きだわ」
「ああ、そうするよ」
益体も無い思索を打ち切って、曹仁が答えた。
「それにしても、海ね。河北も手に入れたことだし、一度くらいは視察に行ってみても良いかもしれないわね。烏桓の地へ遠征に出れば、近くも通るでしょうし」
中原四州のうち徐州の東辺の一部は海に接しているが、それはあまり大きな意味を持たなかった。河北四州では幽州、冀州、青州をもって広大な入り江―――渤海―――を形成し、漁業と製塩は経済を支える基盤産業の一つでもある。
「その時には日本料理をご馳走しよう。…………あれ、烏桓への援軍、華琳自ら出るつもりなのか?」
「いけないかしら? 蹋頓だって、自分で兵を率いて来ていたじゃない」
「それはそうだけど、長城を越えて出るのはなぁ。てっきり俺と霞辺りに任せて、華琳は荊州の戦の方へ介入するつもりかと」
孫策軍が黄祖を破り夏口を手に入れた情報が届いたのは、つい先日のことだ。
孫策は伏兵に襲われ、一度は生死の境を彷徨ったという。床を払った孫策はすぐさま猛攻に転じ、三日のうちに黄祖の籠もる砦を陥落させている。本拠地夏口に逃れた黄祖に対して、周瑜率いる水軍がまず長江の水上を制圧し、次いで陸上からやはり三日で孫策が城を抜いた。孫策軍の仇敵黄祖はここでも水陸両面からの包囲を脱し、今は荊州牧劉表のいる襄陽郡まで後退している。黄祖という男はよほど命に縁があるらしい。
一方、黄祖とその軍を夏口から退けた孫策軍は、長江を完全に支配下に置いた。長江南北を分断し、荊州軍主力の集う北の襄陽は捨て置き、南の各郡の併呑を開始している。このまま放置すれば荊州南部、どころかいずれは長江以南の土地は残らず孫策軍のものとなるだろう。
「孫策軍とやり合うには、水軍の調練が足りないわ」
前回、不意打ちのような形で戦に勝利したが、孫策に関しては反董卓連合で轡を並べた時から侮れないものを感じていた。真っ当な戦になれば必ずしも勝てるとは言い切れない。少なくとも戦場の機微を読む力は、自分より上だろう。前回の戦でも敗戦と見定めるや速やかに退却を開始した。それで、孫策軍はほとんど兵力を損なっていない。
華琳は危地に陥った時、持ち前の負けず嫌いが頭をもたげ戦闘に固執してしまう自分を自覚している。汜水関で呂布とぶつかった時、同じく呂布の赤兎隊に本陣へ乱入された時、いずれも蘭々や季衣の助けが無ければ大敗を喫していたかもしれない。孫策も負けん気の強い人間だが、それが戦場での判断を曇らせていない。その点において、自分は孫策に劣っていた。
桃香とは志と志のぶつけ合いだが、孫策とは単純な戦の勝負だ。盤石な軍勢をあつらえ、戦に臨むつもりだった。そのためには、孫策軍に勢力を固める時間を与えても惜しくはない。口にこそ出さないが、それはむしろ望むところですらあった。
「華琳って好きなものから箸を付ける性質だと思っていたけど、最後に取っておくこともあるのな」
曹仁がこちらの考えを読んだようなことを言う。
話しながらも足を動かし続ければ、やがて鄴の宮殿が見えてきた。宮門の造りは大きく華やかで、陳留、許のそれとは比較にならず、洛陽のものより豪奢なくらいだった。
「これ、どうする?」
人波を抜けようというところで、曹仁が繋いだ手を揺するようにしながら言った。
「別に構わないのではない? 手を繋ぐぐらいは、ただの従姉弟同士の頃にもあったことでしょう」
「いやあ、この繋ぎ方はさすがに」
言われて、改めて意識を向ける。指と指を絡ませる手の繋ぎ方は、確かに以前には見られなかったものだ。
「そ、そうね。一応、放しおきましょうか」
「……もう、隠しておくのも限界なんじゃないかなぁ」
「うっ、うるさいわねっ、分かっているわよ」
「照れ臭いのは俺も同じだが、俺はもう覚悟を決めてるぞ。まあ、反対するのは荀彧ぐらいのもので、他の皆は認めてくれるだろう。春姉は、ちょっと読めないけど」
「分かっていると、何度も言わせるんじゃないのっ。機をうかがっているのだから、貴方は大人しく待っていなさいっ」
言いながら、曹仁を捨て置く様にしてずんずんと宮門へ向かう。放した手からは急速に温もりが去っていく。
―――まったく、少しは二人の気持ちも考えなさいよね。
言い出し難いのは、照れ臭いからだけではすでに無くなっている。
幸蘭と蘭々から想い人を奪ったようで、罪悪感がうずく。自分にこんなに少女らしい感情があったことは驚きだが、それも曹仁への恋心を自覚したからだった。以前の華琳ならば、他人の失恋の痛手になど気を配りはしなかっただろう。漠然と感じていた二人から曹仁への愛情を、今ははっきりと認識出来てしまうのだ。
姉妹からの好意に、曹仁も気付いていない筈はない。それも含めて覚悟を決めたと言っているのだろうが、想像するだに胸を締め付けるこの痛みを本当に理解しているのか。大方、家族愛の延長などと軽く考えているに決まっている。
―――つまり、全部仁が悪い。
考えていると段々腹が立ってきて、照れ隠しだった怒気は次第に本物へと置き換わっていった。