「おおっ、劉備殿。よくぞ来て下さった。関羽殿、張飛殿、趙雲殿に、諸葛亮殿、龐統殿も皆ご無事ですな? 心配しておりましたぞ」
劉表は謁見の間の入り口まで出迎えに来ると、桃香の手を取って中へと誘った。
桃香が踏み入ると、室内には荊州が誇る文武百官が列を成し待ち受けていた。
桃香は、かつて華琳から朝議に向かう道すがら聞いた話を思い出した。
天子南面、臣下北面と言って、玉座は南を向いて置かれ、臣は北面してそれに対するのが古来よりこの国の伝統であった。そして南面する天子から見て、日が昇る東に当たる左に文官が、日が沈む西に当たる右に武官が並ぶ。武よりも文を貴ぶ、これも中華の古くからの慣わしである。
そんな友人と交わした些細な雑談に思い至ったのは、桃香の目から見て右―――玉座から見て左―――の列が目を引いたからだ。左に比べて極端に長い列を成している。並ぶ人間も右は威勢が良く、横柄な視線を桃香達に向けてくる。劉備など、しょせんは在野の武人に過ぎないという蔑みを感じさせる目だ。加えて、左列の先頭にいる軍の総司令官蔡瑁も武よりも文の人間である。
曹操軍を含め様々な陣営を覗いてきた桃香であるが、この乱世にあってなお武を軽んじる空気はこの荊州ならではだ。いや、乱世にあるからこそ、殊更に文を偏重して見せているのが今の荊州というべきだろうか。
「――――――」
そんな気位の高い文官達が、にわかに視線を伏せた。
背後を振り返ると、愛紗達に続いて朱里と雛里が謁見の間に足を踏み入れたところだった。
前回の孫策軍の侵攻時に、黄祖の元への援軍を拒む荊州の文官達を朱里と雛里が論破している。孫策の狙いは親の仇である黄祖の首一つであり、徒に援軍を送って戦火を広げる必要は無い、というのが彼らの理屈であった。対して朱里と雛里は孫策の領土的野心を訴え、劉表に援軍の派遣を決定させている。
朱里達の説得がなかった今回の侵略では、劉表は黄祖へ援軍を送らず、結果夏口を失うこととなった。加えて、その後の孫策軍の動きが二人の主張した孫策の野心を証明している。孫策軍は州都襄陽へ逃げ落ちた黄祖に追撃をかけることなく、夏口を自軍の拠点として固め、長江を支配下に置き、北岸にある襄陽から切り離された南岸の制圧に着手した。
民の反抗もあり、孫策軍の統治はそれなりに難航しているようだ。劉表は弱腰で問題も少なくはない君主であるが、乱世の中にあってこれまで荊州を戦火から遠ざけてきたのは事実である。民の中には慕う者も少なくない。
しかし長江を抑えられた現状、荊州軍は南岸に手を差し伸べることが出来ずにいた。荊州八郡―――北から南陽郡、章陵郡、南郡、江夏郡、長沙郡、武陵郡、零陵郡、桂陽郡―――の内、江夏郡以南の四つの郡及び江夏郡の南半分はもはや孫策軍の手に落ちたと言えた。
大いに面目を失った形の文官達は、朱里と雛里とは目も合わせることが出来ない様子だった。居丈高な彼らが小さくなる姿に思わず桃香はくすりと笑みを漏らしたが、それを見咎める余裕も無いようだった。
気の毒になって視線を外し、改めて左の列に目を転じると、見知った顔がいくつか微笑みかけてくれた。
蔡瑁に続く次席の位置には黄祖。夏口で孫策軍に敗れ、この襄陽まで撤退した後も荊州第一の将の地位は揺らいではいないらしい。今は、襄陽とは漢水―――長江の支流―――を挟んだ北岸の樊城の守備に就いているという。今日は劉備軍を迎えるためにわざわざ襄陽まで足を運んでくれたようだ。
黄祖よりもずっと後方に黄忠と厳顔の顔も並んでいる。愛紗達もその実力を認める将であるが、やはり今も厚遇はされていないらしい。
「さて、さっそくですみませぬが、劉備殿、貴殿らには江陵への駐屯をお願いしたい。孫策が北上を開始すればまず第一にぶつかることになろうが、引き受けてはくれまいか?」
「劉表様っ、江陵は今や防衛の最重要拠点。それを客将にお任せになるおつもりですか」
玉座に着くや切り出した劉表に、蔡瑁が前へ進み出て口を挟む。
「劉備殿は客なれど、ただの客に非ず。天子様から皇叔と呼ばれた御方であり、我が同族である。これほど信を置ける方は他にはおらぬ。実力からしても関羽殿、張飛殿、趙雲殿の武勇は天下に知らぬ者は無く、諸葛亮殿と鳳統殿の神算は我らも良く知るところである。事実、一度は見事孫策軍を打ち払ってくれておる。江陵を委ねるに、何の不足があろうか」
「……はっ、出過ぎたことを申しました」
蔡瑁は桃香へ恨みがましい一瞥を投げ掛けると、一礼して下がった。
「……ということで、いかがですかな、劉備殿?」
劉表はしばし息を整えると、改めて切り出した。劉表は齢六十も過ぎ、心労も重なってか体調があまり優れない様子である。
桃香が朱里と雛里へ視線を走らせると、朱里が一歩進み出た。
「江陵は要害というだけでなく、水運による物資の集積所でもあります。今は長江の交通を孫策軍に遮断されたとはいえ、その備蓄は膨大でしょう。客将である私達だけに委ねるとなると、蔡瑁殿が御心配されるのももっともな話です」
桃香は頭の中で荊州の地図を思い描いた。夏口から長江沿いに西へ進むと江陵がある。そこから真っ直ぐ北に向かい、漢水にぶつかったところにあるのが襄陽と樊である。
ここ襄陽にほど近い山中にある私塾で学んだ朱里と雛里にとって、荊州は馴染み深い土地だった。さすがに城邑の事情にも通じている。
「そこで、如何でしょう。劉表様には年頃の御子が、お二人いらっしゃいます。そのいずれかを守将にお立てになり、私達はその旗下に入るというのは?」
「私達ですか?」
玉座の横に付き従っていた二人が驚いた顔をした。長子の劉琦と次子の劉琮である。
「若輩者の下に付くことになりますが、よろしいのか、劉備殿?」
「私は気にしません」
「そうですか。劉琮にはさすがにちと早かろう。劉琦よ、行ってくれるか?」
「はっ、皇叔の側で学んで参ります」
劉琦が拱手して受けた。病弱と聞いているが、受け答えは快活としている。
「決まりだ。―――劉備殿、今宵は宴を用意しております。部屋を用意させますので、それまではどうぞごゆるりとお過ごし下され」
晴れやかに笑う劉表に送り出され、桃香達は謁見の間を後にした。
侍女の先導で通されたのは中庭を望む客室で、入り口をくぐるとまず客間があり、その先は寝室と大部屋に分かれていた。
「外に控えておりますので、何かあればお呼びつけください」
「ありがとう。―――朱里ちゃん、雛里ちゃん、ちょっと」
侍女が退室するのを見届けて、桃香は朱里と雛里を大部屋の中程へ誘った。
「さっきの話だけど」
「さっきの話、と言いますと?」
小声で切り出すと、朱里も声を潜めて受けた。
「うん。劉表さんは孫策さんが北上すればって言ってたけど、本当に攻め上ってくるのかな?」
「お続け下さい。何故そう思われますか?」
「うん、私が孫策さんなら、やっぱり華琳さんがいる長江の北に出るのは怖いな。ううん、孫策さんなら、それこそ望むところって軍を進めるかもしれない。でも周瑜さんがそれは止めるんじゃないかな。周瑜さんなら、狙うのは荊州の北部じゃなく、そのまま長江の流れをさかのぼって益州なんじゃないかなって」
「―――さすがです」
朱里は満足そうに頷くと続けた。
「陸上の戦では、すでに曹操軍は無敵と言って良いでしょう。河北を併呑し動員兵力は三十万を超え、歩騎ともに練度は十分。まともにぶつかって敵う相手ではすでに無くなっています。今の状況で長江という最大の防壁を越え、あえて北岸の土地を一時確保することに周瑜さんが価値を見出すとは思えません」
「ならどうして、江陵駐屯を受けたの?」
「孫策軍よりも、もっと恐ろしい相手が来るからです」
「……華琳さん?」
朱里は周囲を気にする様子で、小さく頷いた。
「なら、劉表さんにも教えてあげないとっ」
「いけません、桃香様っ」
雛里が内緒話というには少し大き過ぎる声を上げ、慌てて口を抑えた。しばし呼吸を落ち着けてから、今度は静かな声で続ける。
「今度は私達が、黄祖将軍の立場に追いやられます。曹操軍への備えとして、江陵ではなく襄陽より北の邑―――恐らく宛か新野への駐屯を依頼されるでしょう。そして相手が乱世の覇者曹孟徳となれば、荊州の文官達はこぞって降伏を訴えます。そして劉表様は、それを拒み切れないでしょう。長く荊州のために尽力してきた黄祖将軍でさえ、孫策軍への贄とされたのです。私達など時間稼ぎの駒として、放置されましょう。そうなれば我らは曹操軍の領土と化した荊州の中、一城に孤立することとなります」
「でも私達は、劉表さん達を助けに来たんだよ。後方でただじっとしているだけなんて意味がない」
「ご心配されずとも、いざ曹操軍が至るとなれば私達は前線に送り込まれます。ですが、勝てません。今は、敗戦後の避難先として江陵を我が軍で確保しておくことです」
朱里が続ける。
「桃香様が助けたいのは、劉表様ではなく荊州の民。それも華琳さんの政治に不安を抱える者達では?」
「うん、確かにそれはそうだ。私は別に、お偉い方たちを守りたいわけじゃない」
乱世の中にあって束の間の平穏が保たれていた荊州には、覇道を標榜する華琳の支配地から移り住んだ者も多い。洛陽のある司隷や穀倉地帯の冀州を抑えて、今や荊州は中華で最大の人口を誇る州であった。
「だからこその江陵です。江陵は荊州北部では襄陽、樊に並ぶ要害で、物資も豊富。五万の民の受け入れも可能です。そして曹操軍がいくら大軍で押し寄せようとも、私達の兵力だけで一年は守り通せます。加えて長江に面しています。いざとなれば孫策軍の領分へ民を逃すことも出来ます」
「それじゃあ、劉琦さんを立てたのは―――」
「―――玄徳様」
室外から声が掛かった。
「なっ、何かありましたか?」
話を切り上げ、慌てて桃香が客間まで足を進めると、戸外の侍女の声へ返す。
「黄忠将軍と厳顔将軍が面会を求めておられますが、いかがされますか?」
「黄忠さんと厳顔さんが? どうぞお通しください」
「分かりました。皆さま、お入りください」
おもむろに戸が開き、その影からひょっこりと顔が覗いた。黄忠でも厳顔でもなく、見知らぬ少女の顔だ。
「お姉ちゃんが、劉備様?」
少女がちょっと舌足らずな声で言った。
「うん、そうだよ」
戸惑いながらも、桃香は笑顔で返す。
「それじゃあ、そっちの黒髪のお姉ちゃんは、関羽様?」
「あ、ああ」
いつの間にか桃香の護衛に付いていた愛紗も、困惑顔で答える。
「えっと、張飛様は?」
「なんなのだ?」
鈴々が、寝室の方から顔を出した。
「わあっ! すごいすごいっ! 本当に、桃園の三姉妹だあっ!!」
少女は室内に身体を滑り込ませると、両手を広げて歓声を上げる。
「これ、璃々。お行儀が悪いですよ」
そこでようやく見知った顔が現れた。
「黄忠さん、この子は?」
「ごめんなさいね、騒がしくしてしまって。私の一人娘ですの。劉備様が来ると教えたら、どうしても会いたがってしまって。―――璃々、ちゃんとご挨拶なさい」
「はいっ。黄漢升の長子、璃々です。はじめまして、劉備お姉ちゃん、関羽お姉ちゃん、張飛お姉ちゃん。お会いできて嬉しいです」
そこでようやく自身の不躾な行動に気付いた様子で、少女はぱっと身をひるがえして名を名乗った。
「私は劉備、字を玄徳。よろしくね、璃々ちゃん」
「うわぁ」
目線を合わせて手を差し伸べると、璃々は嬉しそうに桃香の手を握った。続いて愛紗と鈴々も改めて名を告げると、さらに目を輝かせる。
「ほう。桃園の三姉妹の名は、さすがにここ荊州でも広く聞こえていると見える。璃々と申したな、私の事は何か聞いていないのか? 趙子龍と申す者だが」
「常山の昇り竜趙子龍!」
「ははっ、そうかそうか、ちゃんと知っていたか」
星が機嫌良さ気に璃々の頭を撫でる。
「えへへ。―――あっ、そっちのお姉ちゃん達は、伏竜様と鳳雛様?」
「諸葛亮、字は孔明です。よろしく、璃々ちゃん」
「龐統、字は士元だよ。よろしくね」
曹操領で学校の先生をしていた時を思い出すのか、朱里と雛里も優しく微笑み返す。
璃々は、ここが曹操領でもまだ学校に通うような年齢には達していないだろう。桃香達を相手に初めこそ年相応に取り乱した様子であったが、一度落ち着くと年の割に随分としっかりしている。物怖じせず、受け答えは打てば響くという感じで、天性の愛嬌と才気を兼ね備えていた。
「先が楽しみなお子さんですね」
「ふふっ、もう少しおしとやかになってくれると助かるのですけれど」
黄忠は誇らしげに微笑んだ。
鈴々が璃々を連れて中庭に遊びに出ると、残った者で一別以来の近況を語り合った。と言っても孫策軍と戦を繰り広げた黄祖とは違い、襄陽に留まっていた黄忠と厳顔には取り立てて語るべき話題も無いようだった。必然的に劉備軍の動静が会話の中心となった。
「劉備軍がそんなにあっさりと。聞けば孫策軍も蹴散らされたというし、曹操とはそれほどの者か」
厳顔が難しい顔をして唸る。
荊州の将にとって敵と言えば孫策軍であり、それは手に余る強大な敵であった。その孫策を一蹴した華琳は、容易には想像も付かない存在であろう。
「焔耶ちゃんがいなかったら、私の命も無かったかもしれません」
「そうですか、焔耶の奴が役に立ったのなら良かった」
「ここにも連れて来れればよかったんだけれど」
「我が軍からの脱走兵の扱いですからな。良いのです、顔を見ればお小言の一つも言いたくなるだけですから」
厳顔のどこか誇らしげな表情は、先刻黄忠が璃々へ向けた顔とよく似ていた。
「その後は私たちも知る通り、荊州で再び劉旗を掲げたというわけですね。今、劉備軍の兵力は?」
「曹操軍の追撃から逃れた兵が戻って来て、さらに志願兵が新たに加わって、むしろ敗戦前よりも増えて六千に近いです」
「ははあ、荊州の気骨ある若者を取り込まれましたな」
黄忠の問いに正直に返すと、厳顔が訳知り顔で頷いた。
儒学者劉表統治の荊州が学問の都と呼ばれるようになって久しいが、この乱世に武で身を立てようという人間はこの地にあっても一定数存在する。文官達から軽んじられ、黄祖以外は実戦からも遠い荊州軍に属する気になれないそんな若者たちが、劉旗の元にこぞって馳せ参じていた。
「なんだか、すいません」
「ふふっ、お気になさらなくてよろしいのですよ。兵に望まれぬ軍を作ってしまった、私達が悪いのです」
「ここだけの話、ワシも将軍などという地位におらなんだら、焔耶と共に劉備殿の元に走っていたかもしれませんな。はっはっはっ!」
厳顔は不穏なことを堂々と口走ると、豪快に大笑して見せた。
「太公望の真似事か?」
船が一層近付いて来て、船縁を擦り合わせるような距離で止まった。
「狙い通りの大物が掛かったようです」
垂れ下げた糸から目を離さずに朱里は返した。
江陵に軍を進め十数日、軍営にも慣れたところで兵に丸一日休息を与えた。転戦に次ぐ転戦に疲れた兵達は、江陵の街に繰り出し思い思いに自由を満喫している。
将軍と軍師達も非番として、皆で長江に釣り船を浮かべていた。朱里と雛里が乗る一艘、桃香と鈴々、焔耶で一艘、愛紗と星の一艘で、合わせて三艘の小舟が水上に揺れている。船頭は周辺に住まう異民族の者で、鈴々を訪ねてきた沙摩柯に手配を頼んだ。桃香達の船の艪は、沙摩柯自らが取っている。
「お互い見事に負けたな」
隣接した釣り船から、また声が掛かる。
「はい、完膚なきまでに」
今度は雛里が返す。
「河北までを手に入れた曹孟徳には手の出しようがないと言っていたが、諦めたようには見えないな」
「周瑜さんの方こそ」
言って、初めて視線を向けた。
周瑜はこちらと同じく釣り糸を垂らし、どこにでもいる釣り人の装いだった。船頭をしているのは、河賊出身で隠密行動にも長けた甘寧である。当然甘寧もその辺りの漁師の扮装だ。
釣り糸を垂らして半日。朱里と雛里は目当ての獲物をようやく釣り上げていた。
「我らにはこの長江がある」
「江南を孫家の天地となさいますか。曹操軍も、今は水軍の調練に力を入れているようですが」
「容易く追い付かれるような鍛え方はしていない」
ぼそりと答えたのは甘寧だった。虚勢ではなく、水軍に関しては天下一と自認しているのだろう。
「長江を境として、天下を二分。まずは曹操さんと南北で中華を分け合うお積もりですね、周瑜さん」
「……」
周瑜は答えず、しかし釣り竿から垂れる糸がわずかに揺れた。
「鼎の足は何本あるでしょうか?」
「ふっ、軽重ではなく足の数を問うか」
「二本足では天下は定まりません」
鼎は古来中華で用いられた釜の一種である。祖霊に奉じる贄の煮炊きに用いられたことから神聖視され、周代には王権の象徴とまで見なされた。春秋五覇の一人に数えられる楚の荘王は、周王室に伝わる鼎の軽重を問うことで、簒奪の意志を示した。
しかし、朱里が問うたのは鼎の重さではなく、その足の本数である。鼎は三本足で自立する特徴的な形状をしている。二本の足では釜を支えきれず、三本あって初めて安定を得るのだ。
「天下三分か。我らの同盟足り得る勢力があるなら、それも考えないではないがな。西涼の馬騰は曹操に付いたと聞くし、韓遂は信を置ける人間ではない。劉表などはすぐにも曹操に飲み込まれるだけだ」
周喩の言葉は、孫策軍の今後の方針をほのめかしていた。劉表が曹操に飲まれるというのは、孫策軍はさしあたってこれ以上は手を下さないということだ。一方で同盟相手として益州の劉焉の名を上げなかったのは、これから攻め滅ぼすという意志の表れだ。朱里と雛里、それに桃香の読みは正鵠を得ていたらしい。
周喩にしても口を滑らせたわけではなく、朱里達がこれくらいのことは察していると考えた上での発言だろう。
同時に、流浪の劉備軍など候補にも上がらないと周喩は暗に告げていた。
「最後に、話せて良かったわ。諸葛亮、龐統」
最後、という言葉を周喩は強調した。対曹操軍のために繋いだ手を離そうと言っている。朱里か雛里が別れの言葉を返せば、同盟とも呼べない不確かな関係は終わりとなる。
「荊州南部の制圧にはずいぶん時間が掛かっているみたいですね」
「……まあな」
周瑜が憮然とした調子で答えた。同盟破棄の意図を受け流されたことが不快なのか。あるいは痛いところを突かれたからか。
「何故か民ばかりでなく、異民族の蜂起も頻発してな。その理由も、今日分かった気がするが」
周瑜が朱里達の船の船頭を見ながら言った。
「ふふっ、さあ、なんのことでしょうか?」
「いくら水戦に自信があるからと言って、後方に不安を抱えたまま曹操軍を迎え撃ちたくはないはず」
朱里がとぼけ、雛里が踏み込んだ。
曹操軍と孫策軍の戦となれば、戦場は二箇所に絞られる。
一つは長江から分かれた濡須水が北へ向かって伸びる揚州淮南郡であり、現在は曹操軍の支配下にある。濡須水は巣湖という巨大な湖へと通じ、巣湖からは淮水へと繋がる肥水が流れる。淮水は言うまでもなく河水、長江に次ぐこの国第三の大河である。孫策軍が水軍を防衛と侵攻の頼みとする以上、淮南郡の確保は攻守両面において最重要の課題となる。
もう一つが、ここ荊州の南郡および江夏郡北部である。長江とその最大の支流漢水に挟まれた地域であり、やはり水軍を肝とする孫策軍には攻めるに易く守るに利のある土地だ。長江沿いに江陵、漢水沿いに襄陽と樊、そして二つの分岐点が夏口である。攻守の要となる夏口を孫策軍が抑えているだけに、火種としては淮南郡よりもこちらが大きい。夏口は孫策軍が唯一長江北岸に有する拠点であり、周瑜もここだけは曹操軍の大軍に囲まれようと放棄はしないだろう。
曹操軍とそれに次ぐ大勢力へと成長した孫策軍の、最大の係争地に劉表がいて、その客将として劉備軍がいる。
「望みは何だ?」
さすがに周瑜は察しが良い。
孫策軍が荊州南部を抑えるまでの間、劉備軍が曹操軍に対する楯となる。そして統治の妨げとなっている異民族の叛乱も治まる。その代償を問うてきた。
「荊州には曹操軍の支配を避けて移り住んだ民も多いのです。彼らを江陵へと呼び集めます。そのうえで江陵の地を、もらっては頂けませんか?」
「夏口の防衛を考えても、江陵は互いに水陸で連携を取れる格好の地です」
雛里が言い足す。
「劉琦の下に入ったのは、そのためか」
「はい。劉琦様なら劉表様の指示を突っ撥ね、民のために曹操軍と戦ってくれます」
劉琦は劉表の長子であるが、荊州の文官連中とは折り合いが悪かった。蔡瑁が次子劉琮の叔父であり、劉表の後継を巡る争いがあるためだ。文官に押され劉表が曹操への降伏を決めても、劉琦は抗戦を望むだろう。抗戦の果ての降伏先に曹操ではなく孫策を選ばせるのも難しくはない。
「そうではないわね。劉備軍は、我らの傘下に加わるつもりはないということだろう」
朱里と雛里は曖昧な笑みで返した。
劉備軍はあくまで客将の立場を貫いている。城主の劉琦が孫策軍に帰順しようとも、それに縛られる理由はない。
「我らと曹操軍に江陵を奪い合わせ、その間、自由になったお前達はどこへ行くつもりだ?」
朱里は無言で、船を浮かべた長江の上流へ視線を送った。
「我らより先に、益州を取るか。あくまで、天下三分にこだわるか」
朱里は周瑜からの刺さる様な視線にしばし耐えた。隣で雛里が息を飲む音が聞こえる。
「……雪蓮とも相談したい。少し、考えさせてもらおう」
「それでは、十日後にまた船を浮かべます」
「――――――!!」
ほっと息を吐いたところで、歓声が聞こえた。驚いて視線を向けると、桃香のいる釣り船からだ。
鈴々が自身の身の丈ほどもある巨大な魚を、抱きかかえる様にして船上に抑え込んでいる。釣竿を握っているのは桃香で、疲労困憊の態で肩で息をしていた。
「草魚か。あれだけの大物は珍しい」
甘寧が一言呟き、櫓を使い始めた。見事なもので、船影はすぐに遠ざかっていった。